甲州街道四十四次 4

2022年(令和5年)春に、5年がかりの中山道69次の街道旅を終え、

11月には3年掛りで日光街道を完歩。

9年前の2月に、街道歩き旅、東海道53次へ一歩踏み出してから9年がかりで、

江戸幕府道中奉行管轄の5街道のうち、3街道、計293里・1178kmを

歩き終えました。

2023年、

年と共に足腰の衰えは如何ともしがたいが、

「足さえ前に出せば、よたよたでも旅は続けられる。」「旅立ってしまえば、

気持ちも動く」と、世は仕事始めの令和5年1月4日(水)

4街道目の甲州街道へと老々旅始め,、と始まった甲州街道の歩き旅。

3回目に冷え込みのきつい2月も最後の28日、内藤新宿を抜けて江戸を離れ、

下高井戸宿が近づいてきましたが、丁度京王線高井戸駅入り口があり、

またいつの日かに旅へと、足を止めてました。

 

日本橋旅立ち

歩き旅を終ての後に控えていた、肝臓癌治療後8年目の経過観察検査。

思いがけない癌再発・・・

再び手術かと悩んだが、最近注目されてる新しい放射線の一種、重粒子線放射で

治療を受けることになり、5月には無事終了し経過も良好。

12月初の半年検査では、癌は痕跡だけで消滅と嬉しい結果。

さっそくカミさんから「そろそろ街道へは」と誘われ、

この12月9日(日)10ヵ月ぶりに歩き旅の再開へ。

すっかり衰え気味の足腰。

異常に長がかった猛暑の日々には、早朝散歩は続けてきたが果たしてどこまで

歩けるか??

12月9日(日)、早めに家事を済ませて電車を乗り継ぎ、前回足止め駅の

京王線高井戸駅到着し、北へ10分ほど歩き国道20号(甲州街道)へ。

10時20分嬉しい甲州街道4回目の旅立ち。

甲州街道

江戸幕府によって整備された五街道の1つで5番目に完成した街道。

江戸日本橋から内藤新宿、八王子、甲府を経て信濃国下諏訪宿中山道と合流する

約53里209kmの街道。

44次の宿場が置かれ、江戸から甲府までの37宿を表街道、甲府から下諏訪までの

7宿を裏街道と呼んだ。

 

歩道橋で甲府に向かって国道の右側に渡ります。

渡った右側の国道北側(右側)には玉川上水が暗渠化され緑地や公園になっていて、

しばらくは玉川上水園地を歩きました。

何して遊ぼうか!

ぼくちゃんたちも仲間に入れてよ~

15分ほど緑地帯を歩き、再び国道20号、甲州街道へ戻ります。

戻た国道この付近には、明治40年創業竹細工の竹清堂が街道書には記されてるが、

見当たりません。

2階の竹で編んだ象がシンボルの、甲州街道を歩いた人たちの旅紀でたびたび登場していた竹細工店でしたが、調べてみると、2021年に当地での営業を止め、

八ヶ岳山麓へ移店したとあった。

すぐ先が京王線桜上水駅北の交差点。

この辺りが江戸を離れて最初の、下高井戸宿江戸方(東の入り口)と街道書にはある。 先ほど降りた駅・下高井戸駅があるが、宿場町は桜上水駅のほうが近いという。

(それらしき標識雰囲気など示すものはなく、高速高架下に街並みが続くのみ)

高井戸宿は日本橋から4里のところにあり、下高井戸宿と、次の上高井戸宿の2つの

宿場の合宿で高井戸宿。

当時は京都が日本の首都でしたから、京都に近いほうが“上”で、江戸に近いほうが“下”でした。

当初は、甲州街道の起点である江戸の日本橋から数えて一番目の宿場で、

旅籠も24軒存在していたというが、後に内藤新宿が設置され2番目の宿場となると、

内藤新宿との距離がさほどないこともあり、次第に素通りする旅人が多くなり

寂れた宿場町になったようです。

一宿で継ぎ立てを勤められず、月初から15日までを下高井戸宿、16日から月末までを

上高井戸宿が勤める合宿とし、通行大名が少なく脇本陣は置かれていませんでした。

1843(天保14)年の「甲州道中宿村大概帳」によると、

【下高井戸宿】
・本陣…1軒 ・脇本陣…なし ・旅籠屋…3軒 家数…183軒 ・人口…890人
【上高井戸宿】
・本陣…1軒 ・脇本陣…なし ・旅籠屋…2軒 ・家数…168軒 ・人口…787人

 

5分ほど行った左手に、亀井堂本家の看板を掲げる和菓子屋さん。

亀井堂は、たしか神戸の瓦煎餅で知られる和菓子店なので支店なのかな。

すぐ先左手に街道書にある覚蔵寺。
創建年代は不明、もともとは真言宗の寺院で、慶長年間に日蓮宗に改宗。

山号「清月山」の扁額がかかる山門を入ると正面が本堂。
覚蔵寺は、日蓮上人が自ら彫ったとされる鬼子母神像が有名と街道書にはあり

「江戸名所図会」にも由来が紹介されていたという。

門前の案内板概略、

「 創建年代は不詳だが、慶長年間(1596-1614)に実成院日相が、真言宗寺院を

 日蓮宗寺院に改めて中興したと伝えられる。
 日蓮聖人直刻の鬼子母神があるので知られる。文永8年(1271)、日蓮が鎌倉の

 滝ノ口で危うく処刑されかかったときに、ゴマの餅をくれた老女に感謝し、

 鬼子母神像をこの老女に与えた。その後、覚蔵寺の13世日曜が、この老女から

 譲り受け、ここに祀ったものといわれている。」
鬼子母神像は本堂の中なのかな?内部は覗けなかったが・・・

覚蔵寺を後に5分ほど行くと、バス停が有り停留所名は宗源寺で右手に山門が見えた。

叡昌山(えいしょうざん)宗源寺 

寺伝によれば、

当寺開山光伯院日善の祖先は畠山重忠の一族で、創建は慶長年間(1596年~1615年)の初めで、十界諸尊(じっかいしょそん)を本尊とする日蓮の寺院。

境内の不動堂は、近くにあった明治5年(1872)に廃寺となった修験道本覚院の

不動堂を当寺境内に移設している。
 この不動堂はかつて高台にあったため、高井堂と呼ばれ、それが高井戸という地名の起源になったとする説もある。

「高井堂(たかいどう)」~「高井戸(たかいど)」というわけね。

不動堂(後世の改築お堂)

本堂前のコウヤマキは、樹齢推定400年と言われ、江戸初期の創建時に

植えられたと想定され、杉並区の天然記念物と札が建っていた。

街道書によれば、下高井戸宿の本陣は覚蔵寺の側にあったようで、

冨吉屋(吉田姓)が務め、本陣の前には高札場があり。向かいに篠崎家が勤めた

問屋場があったそうだが、面影や標識など示すものは何もなし。

おや、歩道路肩の植え込みに可愛らし小さなっ花と小さな黒い実がいっぱい。

イヌホウズキだね。

店先に並んでた七福神(石屋さん)

下高井戸宿江戸口から約800ほど、鎌倉街道入口付近が下高井戸宿甲州口(西口)

だった様です。

鎌倉街道は、坂東各地より鎌倉に至る道路の総称)

鎌倉街道入口の信号のところで甲州街道(国道20号線)を左手に渡ります。

すぐ先前方で高速道の高架が右手に別れて行きますが、手前に建っていたのは、

日本橋から4里(四番目16km )の下高井戸一里塚跡(上北沢の一里塚)

の案内板でした。

「高井戸一里塚跡」説明板と、その裏に隠れるように立っている「日本橋から16km」のキロポスト

甲州街道(国道20号)は今まで空を塞いでしまっていた頭上を覆う

中央高速道高架が取れ、青空が広りました。

頭上の圧迫感から解放され、真っ青な空の下、やっぱり、いいね~。

青空の下歩きになって12,3分、一里塚跡から約800mに上北沢4丁交差点(京王八幡山駅入口)で、街道書には、上高井戸宿江戸口(東口)とあった。

この上高井戸宿も往時を偲ばせるものはほとんど何も残っていません。

上北沢4丁目交差点で、国道左手の交差する路地を南へ行くと京王八幡山駅

上高井戸宿は、ここから隣の芦花公園駅入り口あたりまで続いていたともある。

【上高井戸宿】
・本陣…1軒 ・脇本陣…なし ・旅籠屋…2軒 ・家数…168軒 ・人口…787人

東口から5分ほど先には、上高井戸交差点で幹線道路環八道が高架で交差しており、

交差点北東角に付近に、並木家が務めた上高井戸宿本陣武蔵屋があり、

細縁家が務めた問屋場があった、と街道書にはあるが示すものは何もなし。

甲州街道環八通りを通り抜けてすぐ先で国道20号線から左手に分岐し、

甲州街道(東京都道229号府中調布線)に入ります。

旧街道に入ってすぐ右手に入る道脇に石柱が建ち、街道書には「井の頭弁財天道道標」

とあり、道標には「是より一里半」と刻まれていた。

街道書には、井の頭公園(都立公園)の池畔に祀られる弁財天は延歴8年(789年)

伝教大師作と記されてる。

弁財天の宮社は鎌倉時代に焼失してしまったが、江戸時代になり、三代将軍徳川家光が、宮社を再建した。

井の頭と言う地名も、この池の水が江戸の飲料水の源(上水の頭)であることから、

「井の頭」と命名されたという。

元々は家康の時代の整備に伴い、この井の頭池が水源として選ばれました。

家康自身も何度かこの地を訪れているとのことです。

公園の湧水池は、フォークソングで知られる「神田川」、江戸の上水道(神田上水)、の源水です。

甲州街道に入り300mほど、左手に宗洞宗長泉寺の石柱が建ってます。

街道書によれば、

開創は慶安元年(1648年)で2年後に火災に遭い、明暦元年(1655年)に

この地に移った、

観音堂には「板絵着色西国巡礼図」という狩野派の絵師、中田小左衛門が描いた

杉並区有形民俗文化財があり、上高井戸宿の本陣を勤めた並木家の墓もこの長泉寺に

あるという。

観音堂は覗くことが出きませんでした。

山道両脇には、街道改修などで集められたと思われる道祖神や石仏などなど。

本堂

観音堂

長泉寺を過ぎたあたりが上高井戸宿の甲州方(西口)でした。

左手の道を入ると京王線芦花公園駅があり、交差点から先は世田谷区、

かっての鳥山村域に入って行きます。

国道20号(現甲州街道)とは違い、旧甲州街道のこの道には歩道がなく、

細い歩道帯が両側にあるのみ。

今日は日曜なので車両の通行は少ないので、よたよた歩きでも歩けるが、

日ごろは車両通行が激しく、かなり要注意と多くの街道記に書かれてます。

5,6分先き左手に大橋場跡というのがあり、金属製の親柱と石仏が数基立っている。

街道書には「武州千歳村大橋跡」、烏山用水に掛けられていた橋の親柱と記され、

奥隣の青面金剛石像は元禄13年(1700年)建立、その奥の地蔵尊は、

地頭名主を務めた下山家が建立の「下山地蔵-身代わり地蔵」とあった。

 

200m程の右手に「南烏山りんれい広場」という公園があり、

道場に「せたがや百景」の標石が建ち、奥には案内板もあった。

「せったがや百景」は世田谷区の広報によれば、

区民に世田谷の風景に関心を持ってもらうことを目的に、昭和59年に選ばれました。

選定に当たっては、好ましい風景として、区民からの推薦投票で選ばれた約400景の中から、選定委員会が200景の候補に絞ったものを、区民投票を実施し、票の多い順で100景が選ばれました。

とあり、百景に選定された場所には紹介する案内板が設置されています、ともあった。

ここの案内板には、

「旧甲州街道の道筋」「昔の街道筋を偲ばせるっ風景は残っていないが、この道筋

そのものが街道だったことを忘れるわけにはいきません」と記されていた。

 

標石

街道の路肩プランターに、おや、何の花かな?

ピンクはオキザリスだが、紫と色は??オキザリスの園芸種?

百景から10分ほどの左手路地脇に地蔵尊や上の欠けてしまった石仏などが並べられている。道路整備などの際、集められた様子。

側に有ったコンビニでトイレをお借りしようと思ったら、

「不心得な使い方された方がおり、貸出しは当面いたしません」とあっった。

なにがあたのかなあ~・・・

10分ほど先へ進むと、給田の交差点を過ぎた右手の民家の庭先に「新一里塚跡の碑」と刻まれた石柱が建ってた。

街道書には「明治3年に内藤新宿を起点として甲州街道に建てられた新しい一里塚で、

正面には「内藤新宿より三里 品川県」とあり、 六カ所設置して現存する物は

これのみ、と記されていおり、説明板も建てられていた。

説明板によると、起点はに日本橋ではなく、内藤新宿を起点にした理程標という。

なぜ設置されたのでしょう?

街道書には5分ほど行った左手の道を入ると右手に給田観音堂が記されてる。

徳川家所縁の尼寺跡だそうで、堂内には、昭和32年観音堂の近くの土中で発見された釈迦如来坐像と、千手観音とが安置されている。

境内には観音堂脇に宝永4年(1707年)建立の宝篋印陀羅尼経之塔がある。

かつて甲州街道沿いにあったが、ここを通る徳川関係の者は、必ず下馬しなければ

ならなかったので、後になってそのわずらわしさを取り除くためここに移されたと

いう。

街道に戻りすぐ先で仙川にかかる大川橋を渡った先は仙川三叉路交差点で、

国道20号に合流で、再び車の騒音に包まれ地域は仙川町。

合流地点の信号で国道の右手に渡ってすぐに、天台宗昌翁寺の大きな山門が見える。

街道書によれば、この一帯は駿府戦国大名今川義元の武将で、後に徳川家康

旗本になった飯高主水貞政が菩提寺として建立。

正保2年(1645年)建立ので宝篋印塔、宝永3年(1706年)建立の五輪塔

とも記されてるが、境内には見当たらなかった。裏の墓地のほうだったのか・・・
門前には、元禄時代庚申塔2基と、挟まれて宝暦年間尾のと廻国供養塔がある。
廻国供養塔とは、諸国零場詣の途中に病などのため不帰の人となった行者を供養する

ために建てられたものだという。 

本堂

庚申塔と廻国供養塔

参道前が日本橋から20km、

おや、向い側のマンション、白漆喰の蔵を取り込んでるよ。

内藤新宿で江戸を離れて、初めての蔵ですね。

マンションはオーナーの屋敷跡だったのかな。

すぐ先の仙川駅入口交差点の右側の店先に、「市旧跡・仙川一里塚跡」の石碑が

ありました。

碑には、日本橋から5里目(20km)の一里塚で、塚木は何が植えられてたかは

記されてない。
かつては、ここが甲州道中と三鷹街道の交差点であった、とも記されている。

一里塚跡から約400m7,8分に仙川二丁目交差点。

交差点を過ぎると右に分岐する坂道があり、右側の住宅川口家の門前の植木に

埋もれて石碑が半分見えていた。

街道書によれば、「瀧坂旧道標石」とあり、横には「馬宿 川口屋」と刻まれ、

ここが円弧状に残る「瀧坂道」といわれる坂道で、この辺りでは唯一残る

甲州街道とある。
川口家は、戦前まで馬方や行商人を相手に旅籠を営んでいたそうです。

 下って行く旧街道の瀧坂は、かってはかなりの急坂で、昔は雨が滝のように

流れ落ち、かなりの難所の一つから滝坂と呼ばれていたという。

現在はなだらかな坂になってしまってる。

瀧坂へはいるとすぐ左手の石像は、首の欠けた地蔵菩薩立像と薬師如来像と

街道書にあった。

滝坂を下ると250m程で再び国道に合流します。

「滝坂」の名前は滝坂小学校や滝坂下交差点など今でも残っているという。

合流した国道を5分ほど行くと、右手奥にイチョウンの大木のが見え、

右下に小さな稲荷神社があった。

イチョウ寛延元年(1748年)に、山岡平兵衛(屋号鹿島屋)が京都伏見稲を

勧請した折り、イチョウもこの時に植えたと伝わり、樹齢250年という。

この辺りは旧金子村で「金子のイチョウ」と名付けた」という説明板が建ってました。

柵があり、近づけなかったです。

その先は21km標識。

1,2分ほど先右手の路地は参道で奥に赤い山門が見えたのは、曹洞宗大雲山金龍寺。

街道書によると、

「建永元年(1206年)中国宋より茶の種子を持ち帰り、京都宇治の里に広めた

栄西禅師により開基された」とある。

慶安2年(1649年)、三代将軍徳川家光より寺領と朱印状を拝領し、

朱塗り門が許された。

境内には大閻魔像、瑠璃光薬師如来像や甲州街道に掲げられていた

高札場(移設)、貞享元年(1684年)建立の青面金剛像(庚申塔)や徳川家の位牌が保存されているという。

移設復元高札

青面金剛像(右)

金龍寺を後に、2,3分行くと、右手には路地があり、「鎮守厳島神社参道」の

石碑がありました。奥に厳島神社があるようですが、街道書には記載なく寄らずに

先へ進みます。

更に300ほど、右手に地蔵尊があり街道書には「妙円地蔵」。

街道書や建てられていた案内板の妙円地蔵の謂れは、

妙円は金子村の新助に嫁ぎましたが、両目を失明してしまい、その後、尼となり

「寿量妙円」と号しました。

妙円は村の人々に念仏を唱え、その浄財で地蔵菩薩を建立し、妙円は自分の死ぬ日を

予告していましたが、1日遅れて1817年(文化14)に亡くなる。

そのことを瀧澤馬琴が著した「玄同放言」に紹介したため江戸近郊まで知られ。

この話を聞いた渡辺崋山は、この地を訪ね「金子村妙円常念仏遺趾真景」と題した

挿絵を描いていている。

妙円の墓所深大寺にあるという。

地蔵は長い間頭部が欠損していましたが、昭和62年地元の有志によって修復された。

優しいお顔のお地蔵さんね~、カミさんが呟いていた。

 この先10分ほど、柴崎駅入口交差点の脇に、相当朽ちた地蔵菩薩像があったが、

街道書には謂れ記載はありません。 

時刻はPM3:00 

先ほどから足指に違和感があり、痛みも出ていていた。

最近はすっかり足腰が弱り、毎日散歩を欠かして無いが、よたよた歩きが強くなって

おり、足の甲や足指に変な負担をかけた歩きになってるようで、長いj時間の歩き時は

支障が起きることも多く、後ろから見ていたカミさんも右に傾いて歩いてる、という。

足止め予定は2km先の京王調布駅入り口でしたが、丁度京王柴崎駅の入り口。

歩き始めの下高井戸駅入り口からはわずか7kmだが無理することはなしで、

残念ながら旅はここで足止めに。

柴崎駅より電車で先の調布駅へ出、バスを乗り継ぎJR中央線、吉祥寺駅へ。

駅近くの井の頭公園をバスが通った折り、西陽を受けてモミジが晩秋の美。

さらに電車を2本乗り継いで、日暮れた我が街へ帰りつき、短い旅路ではあったが、

4回目の甲州街道旅は終り。

さあ、次は・・・・ 

令和5年12月9日(日) 終

 

 

ツアーの旅 種子島・屋久島 (屋久島編)

令和5年7月27日(木) PM5:40 種子島西乃表港 出航

「時代と近代の歴史に出会う種子島」という島を終えて、高速船で島を後にし、

PM6:30 屋久島・安房港へ入港。

港で待ってた中型バスに乗り込み、夕暮れの屋久島を走り2連泊するホテルへ。

ホテルは温泉のあるリゾートホテルで、下着などだけ着替えをして、レストランへ。

(レストランは浴衣、スリッパは✖)

食事は洋風コース料理にすこし和が有りましたね。

こちらも島内で使える支援金を、飲酒代などに使用させていただいた。

夕食後、大浴場で汗を流し、さっぱりとして寝酒を軽くで爆睡。

7月28日(金)、

ふと目覚めたAM5:20 カーテンを開くと目に飛び込んできた朝。

正面に夜明けのシルエット、モッチョム岳(940m)の岩峰。

物音で目覚めたカミさんも起き出して、しばし夜明けののショータイムが開幕。

山裾に広がる東シナ海

左手に連なる屋久島の峰々。

 

朝のモッチョム岳の岩峰。

大勢のクライマーがこの岩壁に挑むようです。

上越境の谷川岳・一の倉沢の岩壁を思い出す)

和洋ビッフェ方式の朝食を済ませ、中型バスに運転所さん、ガイドさんを含め

7人が乗り、時計回りで島内観光へと向かいます。

(島案内パンフによると)

九州本土最南端の佐多岬から、南へ約60kmの海上に浮かぶ屋久島は鹿児島県に属し、

豊かな自然に恵まれ「神々が宿る」と言われ、島の90%が森林。

サンゴ礁の海には熱帯魚、砂浜にはウミガメがやってきて、そして有名なのが屋久杉。

1993年に日本で初めて世界自然遺産に登録されている。

屋久島は,やや5角形がかったほぼ円形に近い島で、日本の離島で5番目の大きさの、

花崗岩で形成された一周するのに車で約3時間かかりるという周囲約130kmの島。九州最高峰の宮之浦岳(1,935m)や永田岳,黒味岳など1,000mを超える峰々が40以上連座し,洋上アルプスとも呼ばれ,すばらしい山岳景観を呈しています。

山頂に巨岩をいただくものや岩峰が多く,特に島の南西部にはモッチョム岳や耳岳,

七五岳といった巨大岩峰群があり,海岸線からも見ることができます。
この島は雨が多いことでも有名で,数多くの沢を流れる清らかな水は,日本の名水百選にも選ばれています。
また,冬でも温暖な海岸部に対して,標高2,000mに近い奥岳は北日本の気候に相当しており,多い年で3~6mの積雪があるという。

ホテルはモッチョム岳を望む山裾に面してました。

(赤☆印 ホテル)

今日も快晴、気温も高い(32℃になる様子)

20分ほどバスに揺られ、南西部にある中間(なかま)集落へバスを降りて歩い

て向かいます。

屋久島の生垣には赤や黄色、白、ピンク、オレンジ色など原色の鮮やかなハイビスカスが見られ、種子島でもそうでしたが、野生化したハイビスカスがを沢山見かけました。
ガイドさんの話では、実はハイビスカスは中国南部原産の常緑低木樹で、

芙蓉の花を品種改良した園芸種で、原種ハイビスカスと呼ばれるという。

ハイビスカスの原種は250種ほどもあるそうで、さらに品種改良されたハイビスカスの園芸品種は1万種近くあるんだそうです。

種子島もそうでしたが、野生化したかのように、ハイビスカスやテッポウユリなどが

島中に咲いてました。

走行中の眺めの為、花のいいショットが無いのが残念。
(花びらにギザギザがあるのが原種系だそうですが、この花はどっちかな?)

このハイビスカスは園芸品種系ですかね。

マンゴーの花と実

バスを降りて5分ほど行くと、中間(なかま)集落の中間川の下流域に自生する

巨大なガジュマルの木が見えてきました。

一本の幹から無数の根が伸び、網目状の壁やアーチを作り上げ、下を舗装された道を

車が通るほどのに広がっていた。

このトンネル状になった道は、記念撮影の人気スポットなんだそうです。

島内に数あるガジュマルのなかでも有数の大きさで、樹齢は300年超ともいわれているそうです。

(島内図 紫▲)

ガジュマルを後にバスが向かったのは大川の滝。

(島周辺道路からは見えることは無いが、山並みの奥には

   日本百名山宮之浦岳・1936m 九州最高峰が あるという)

バス駐車場から緩やかな下り坂を5分ほど、豪快な滝の音が近づいてきます。

「おおかわのたき」ではなく「おおこのたき」と読み、落差88mの滝です。

滝壺の真下まで歩いていける豪快に流れ落ちる見事な流れは、日本の滝百選に選定されているという。

(急坂の下り登りがあるので、行きませんでしたが、滝壺まで近づけるという)。

落差88メートルの断崖を大量の水が数筋の滝となって流れ落ちるさまは壮観。

滝巡りなどもしてきた私たちには、豪快な中にも優しさを見せる素敵な滝でした。

(滝巡りで訪れた落差日本一は、富山立山裾の称名の滝、350mだった)

大川の滝を楽しんでバスは海沿いを山へと上って行きます。

屋久島の西側、県道77号線、先が通称、西部林道です。

全長約20km、所要時間約70分にわたって人家のない道が続き、

その内の約15kmは、世界自然遺産地域に含まれているという。

海岸沿いから標高1000m近くの山沿いまで含まれる細い急峻な道で、

道路沿いはほとんどが照葉樹林で「緑のトンネル」と呼ばれ、まさにジャングル。

屋久島固有の野生動物、ヤクシマザルやヤクシカなどの貴重な住処となっていて、

さっそくバス前に姿を現してました。

ヤクザルは、かって屋久島では害獣として駆除された時期もあったというが、

現在は共存ができているという。

ヤクシカ屋久島と口永良部島のみに生息する固有種で、日本鹿より体が小さめ。

昔は狩猟の対象にしていた時期もあり、生息数が激減してしまったため、

保護政策を実施。その結果、生息域は拡大し、個体数も増加してるそうです。

近年では生態系保全、人とヤクシカとの共生という観点から、一定数の捕獲を

実施し、農業被害を防ぐための防鹿柵なども設置しているという。

「エサを与えたり手を出したりはしないでください」との注意書きも目にします。

車両すれ違いも困難な極く狭い林道ですが、車は相互通行でしたね。

林道は夜間は通行禁止となるという。

バスはごくゆっくりと走り、前方に動物たちが現れると動物たちが道の端へ寄るのを

待って通行します。

屋久島はニホンザルの南限の生息地で、屋久猿は群れに分かれ、島の海岸近くから1

800メートルの高山まで生息してるという。

猿も鹿も餌やりなどはしていなく、銃などでも駆除も行っていないので、

人を恐れたり近寄って威嚇したりは無いそうです。

(それでも観光客の増加と共に、餌やり等が見られ、危惧されてるという)

本土の日本猿より、一回り小さいですね。

前方には、仲良くくつろぐ屋久猿と屋久鹿の群れ。

屋久鹿はヤギくらいの大きさかな。

この先からはバスを降りて、しばらくの世界遺産林道歩きをしました。

歩き中にも猿や鹿に頻繁に出会いましたね。

猿は正面からは目を合わせたり、ジーっと見つめないよう、ガイドさんから注意が

有りました。

15分ほどの林道歩きを楽しんでバスに戻り山道を走ります、

眼下に屋久灯台が見下ろして、その先で西部林道は終り。

バスは島西北部の永田いなか浜へ。

海沿いの多くを急な崖が占める屋久島にで、貴重な砂浜といえるのが北西部に位置する永田いなか浜。

砕けた花崗岩が混じった白い砂浜と、青い東シナ海コントラストが美しい海岸です。

沖合に火山島で知られる口永良部島が浮かんでる。

はるか沖に浮かぶ島影、カミさんは伊豆下田から眺めた伊豆七島を思い出していた。

永田いなか浜は、絶滅の危機に瀕したアカウミガメの産卵地で、屋久島では

毎年数千頭が上陸すると言われ、中でも永田いなか浜は日本でも屈指のウミガメの

産卵地として、ラムサール条約にも登録されているという。

産卵は夜間で産卵時期には大勢の観光客が訪れ、誤って踏みつぶしてしまうことが

有り、現在は保護監視員が終夜見守り、産卵が終わるとすぐに産卵保護地域砂浜へ

移し埋め戻すそうです。

移した産卵保護地域砂浜は立入厳禁で、こちらも終日監視員が見守り続けるとい。

(棒がたって綱が張ってるのが産卵保護地域砂浜)

永田いなか浜を後に30分ほどバスは走り、屋久島観光センターで昼食、休憩。
昼食後再びバスに乗車して、お待ちかねの屋久杉ランドと紀元杉へ。

バスの右手の山並み、今回はコースではないが、宮之浦川奥の山間には屋久島自然休養林白谷雲水峡がり、高低差のある遊歩道での標高1000mを越える太鼓岩往復コース(4時間)は、特に春の季節に、太鼓岩から見渡す山桜と新緑、そして九州最高峰・

宮之浦岳のパノラマの眺望は、いまや人気のスポットだそうです。

(TV放映などでよく見たコースで、屋久島へ行くならせめてこのコースへも

 行きたい!と思いはしたが、 調べてみるとけっこう急峻な登山道のりでもあり、

 残念ながら諦めた)

昨日上陸した安房港の先からバスは島の中央部、山岳帯へのぼって行き、

ぐんぐん高度を上げてヤクスギランド 紀元スギへと向かいます。

屋久島の山は地元の人にとって、神のいるところなので普段は登らないとのことです。

屋久島第一発電所発電所は3っあるという。)

日本は、東京電力九州電力など全国の10の電力会社が地域独占をして、発電から家庭に届ける配電までまかなっています。

しかし、屋久島は九州電力のエリアにあるのに、屋久島電工という民間企業が電気を

送っているそうです。

屋久島電工は、ディーゼル車の排ガスフィルターや研磨剤の材料となる炭化ケイ素の

製品を、宮之浦町にある工場で製造している日本で唯一会社という。

その工場の電力をまかなうための水力発電所ですが、水力発電で得た電力は、

島内の全世帯をもまかなう量を生み出しているので、住民への電力供給義務は無いが

住民に送っているということでした。

 発電した電力を家庭に届けているのは、屋久島電工ではなく、

一部のエリアだけは九州電力が担当していますが、エリアは地域ごとに4っの配電組合ができて、それぞれ独自の運営を行ってい、送電と小売りを担当すしているという。

右に左に大きくうねる山道を揺られて30分ほど、安房市街地から16kmほどの

標高1,000~1,300mに位置する「ヤクスギランド」入口へ到着。

(キャッチフレーズ)

[屋久杉と言うと、縄文杉が有名ですが、往復10時間歩かなくとも屋久杉が見られるのが、「ヤクスギランド」の魅力です。

ルートは、荒川の沢沿いをたどり、屋久島らしい渓谷美が見られ、苔の広がる森を楽しめます。スギ、ツガ、モミといった針葉樹の森を抜けて、巨木、渓谷美、苔ワールドを一度に楽しめます」

このキャチフレーズで、躊躇していた屋久島行きを決めたようなもんです。

(写真はブレブレでパンフ拝借)

屋久島で屋久杉や山を本格的に楽しみたいと思ったら、登山用具や服装、山岳ガイドが必要だったりとか、本格的なトレッキング準備が必要でが、ここ標高1000~1300mに

広がる自然休養林でなら、時間や体力に応じたコースの元、屋久杉や美しい苔が

気軽に観賞できるという。

4つの見学コースが設定されており、私たちは、お手軽に楽しめる整備された歩道を

散策感覚で歩ける歩行30分の「ふれあいの森コース」

屋久杉と呼ばれるのは屋久島の標高500m以上・樹齢1000年超の杉の総称だそうで、

それ以外の杉は樹齢900年でも小杉と称するそうです。

一般に、杉の樹齢は長くても500年程度だが、栄養の少ない花崗岩の島に生える

屋久杉は成長が遅く木目(年輪)が詰まっており、降雨が多く湿度が高いため、

抗菌作用のある樹脂分が多く腐りにくい特徴を持ち、そのため樹木の寿命が長いと

いわれ、樹齢2000年以上の大木が多いという。

倒木に芽生えた屋久杉の若木。20cmくらいだが10年掛っての大きさとか。

(バスガイドさんが、何度来ても大きくなてない、と言っていた)

幹を覆う苔は水滴がきらめいている。

原生林、倒木も苔むしてます。

屋久杉は1560年には神宮造営などで伐採された記録があるそうで、

京都方広寺の建築材にも使われたと記録が残るそうです。

江戸j時代ころは島津家により山岳部奥地の本格的な伐採が始まり、多くの屋久杉は、

現地で平木と呼ばれる屋根材に加工され、出荷されたという。

江戸時代の伐採跡、切株には小杉が芽生え現在に受けつがれています。

おや?

奥のつるっとした木肌はヒメシャラの樹だそうで、こんな大木は初めの出会いでした。

遠くの山に直立の岩峰が、

山奥にはこんな岩峰がごろごろ見られるそうな、

おや、珍しい、キセルガイ

 

散策感覚で歩ける「ふれあいの森コース」とのことですが、整備されてるといえ山道。

木道や梯子段の上り下り、木橋や吊り橋で谷を渡ったりの、けっこうハードな

 トレキングコース(と言ったのは自分だけ)でした。

再びバスに15分ほど揺られ紀元杉へ。

屋久島に数多く残る巨木のなかでも、手軽に鑑賞できるのが紀元杉。

樹齢3000年を迎え、上部は白骨化しかけているものの、その根本近くには成長の

証であるコブが所々に生じるほど強い生命力を維持しています。

樹高約19.5m、胸高周囲約8.1mの紀元杉には特に着生樹が多く、10種類以上が着生していうといい、春にはヤクシマシャクナゲの花、秋にはナナカマドの紅葉を樹上に見つけることができ、四季を通じて楽しむことができるという。

大きすぎて収まらない!

林保護の機運が高まったことも影響し、1993年に世界自然遺産として登録。

現在も屋久杉の商品は販売されてはいるが、それは江戸時代の頃に伐採して

搬出できず山中に残ったままの屋久杉の倒木、土埋木がほとんどという。

僅かに伐採もあったが2019年禁止され、土埋木の搬出も禁止された今、屋久杉を

山から搬出する事は一切なくなり、今後の流通は、各社が在庫している屋久杉だけが

全てということだそうです。

 

楽しんだヤクスギランドを後に山を下り、一路ホテルへ早めに到着。

さっそく温泉大浴場でゆくり足を伸ばし、夕食まで部屋でまったりと。

窓からの山々。

ヤクスギランドは写真左手奥の山にあるようだった。

ホテルの部屋から眺める後庭(滝は人口滝だそうです)

早めの到着だったので、夕食も6時からと早めになり、懐石コース料理メインに、

洋風もあり、節制中のお酒も今日は少し解禁(カミさんから)、

いい旅、いい酒、いい気分。
島で使用の支援金も2人、2日分なので使いかってが有りましたね。
(なぜか、食事はデジカメでもスマホで写してなかったですね)

 

7月29日(土)

いい目覚めの朝、カーテンを開くと屋久島の夜明け。

(これがまた、旅の楽しみの一つです)

海上に沸き立つカナトコ雲

AM5:50 日の出



旅も今日が最終日、ホテルをでて滝を愛で昼頃には島を後にします。

AM8:30、ホテルを後にバスは15分ほど走り下車。

石を敷き詰めた小道を山奥の方へ20分ほど向かいます。

軽く滝音が聞こえ始め、パット開けた眼前に広々としたV字谷が広がる高台が展望台。

そこから気軽に眺められるが「千尋の滝」。

島の中央部から南東方向へと流れる鯛之川にかかり、落差約60m、

滝から少し離れるため「水の迫力」という点では多少見劣りするというが、

一枚岩や奥の山々などの雄大な景色が広がり素晴らしい景観でした。

一尋とは、人が一人両手を広げた程度の長さを表す昔の単位ですが、

滝の左側にある岩盤が、千人が手を結んだくらいの大きさということで「千尋の滝」と名づけられたという。

滝を楽しみ、3日間の島旅観光は無事に終わりを告げました。

再びバスに揺られて、屋久島空港へ。

AM11:45 屋久島空港を飛び立ち、35分のフライトで、鹿児島空港へ。

霧島連峰を望む鹿児島空港を、すこし慌ただしくPM12:40飛び立ち、

PM2:25羽田へ。

羽田からのリムジンバスの乗継ぎもスムーズに、猛暑の街、我が家へ無事帰宅。
「ひと月に35日雨が降る」と言われる島だったが、乗車中、昼食中や夜間などに
降られたくらいで、散策中は天気には恵まれた、いい旅でした。
楽しかったわね~、いい旅だった、やっぱり旅、山、海は良かったな~。

で、お終いです。さて、次はあるかな?      終

 

 

 

 








 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ツアー旅 種子島 屋久島 (種子島編)

山歩きをしなくなって(というより足腰が衰えてだね)、TVなどで、

魅惑の島・屋久島の旅番組を見るたび、行きたい気持ちは満々だけど、

  登れないもんな~・・

なんて躊躇してたが、カミさんが見ていた旅行案内に、

縄文杉だけが屋久島ではない、登らなくても楽しめる旅~・・・」。

                      思い切って行ってみない、の誘い。

 

屋久島は月に35日は雨が降る』とよく言われるのが屋久島の雨降り。

調べてみると、夏は比較的雨降りは少なく気候も安定ともあった。

「宇宙に一番近い島・種子島世界遺産屋久島4日間」

「よ~し、行かないで残念がるより、まずは行ってみよう!!」

ツアー利用の旅はスイスへ行って以来、12年振り。

旅の足はマイカー、宿泊はビジネスホテルか車中泊が基本だったか。

(旧街道歩き旅を始めてから、普通の旅行へゆくのは久しぶり)

と、ツアー予約を入れると、後日全国旅行支援適用との連絡が有った。

平成5年7月26日、

早朝、次男に最寄り駅の空港行きリムジンバス乗り場まで車で送ってもらい、

羽田より鹿児島空港へ。

(昨今は早朝のタクシー予約が、はなはだ難しく成ってるんです)

AM8:30 羽田第二ターミナル集合、なんと、ツアー参加は2組夫婦の4人。

(ツアー催行の参加人数は夫婦4組8人となっていたが、

 再開された全国旅行支援事業適用もあって、催行実施となったとか)

AM9:20 羽田発(ANA 鬼滅の刃

コロナ規制は解除されたが機内ではほとんどの乗客は、マスクは使用していた。

(乗務員は半々)

AM11:05 鹿児島空港

大型バスに7人(乗務員、ガイドさん、添乗員さん含み)が乗車して、

新婚旅行以来53年振りの鹿児島市内を通り、種子島へ向かう鹿児島港へ。

53年振りに眺めた桜島

鹿児島から水中翼高速船・トッピー・ロケットで種ケ島・西乃表港へ。

(入港してきた高速船、乗船は別の高速船)

PM1:00 出航

右手に、懐かしい開聞岳、そして左手に大隅半島突端の佐多岬灯台

巨大なコンテナ船は鹿児島港へ。

この灯台も岬から眺めたのを思い出していた。

海上南へ110km・1時間35分の船旅。

(旅で船に乗ったのは、マイカー時代フェリーで北海度へ渡って以来9年振り)

種子島西之表港

「本土最南端の佐多岬より南東約40㎞、平坦で南北に細長い地形。
ポルトガルから鉄砲が伝えられた「鉄砲伝来の地」。

現在は日本最大のロケット発射場のある種子島

歴史と近未来の種子島、北たから西之表市 中種子町 南種子町

人口 約28000人 周囲170km。」

(パンフ案内文より)

西之表港西之表市)より、こちらも大型バスに乗務員、ガイドさんを含め7人が

乗車、西海岸を南下し、中種子町で島を東海岸側へ横断。

幾つかあるマングローム園の内、阿嶽川河口のマングローブ林へ。

海水と淡水が入り混じる沿岸域にマングローブが分布しています。

初めて知ったのが、マングローブという植物は無い、ということ。

マングローブとは、熱帯および亜熱帯地域の河口汽水域の塩性湿地にて、特異な形態の根系,胎生種子などの特徴を持ち、植物群落や森林を形成する常緑の高木や低木の総称ということでした。

日本国内で、マングローブとして限定される種は、ヒルギ科・メヒルギ、オヒルギ、

ヤエヤマヒルなど5種あるという。

アジア地域における自然分布の北限は種子島といわれ、種子島では低温耐性の強い

背の低めのメヒルギのみが生育する。

阿嶽川もメヒルギが群落を成し、国指定天然記念物という。マングローブの高さは河川の中央部に近い部分では低く1~1.5m程度、,辺縁部は4m前後あった。

生育面積も比較的広く,良好な生育環境が残されているという。

(よくパンフなどで見る、四方に根の張ったマングローブを見上げる林とは違った

 景観だった)

川沿いの木道の敷かれたマングローブ林(メヒルギ)群落。

潮が引ていて小さなカニ(シオマネキ)やトビハゼなどが、ちょこちょこ動き回って

いた。

河をカヌーで楽しめるそうです。

初めて目にしたマングローブ(メヒルギ)の花。

マングローブ林から東海岸を南下すると、風光明媚な美しい砂浜の浜田海浜へでる。

海岸の砂浜を右手へ100m程行くと、太平洋の荒波が作り出した海蝕洞窟があた。
洞窟内は千人も座れほど広いと言われ、千座の岩屋(ちくらのいわや)い呼ばれる。

洞窟内へは干潮時には海岸沿いに岩伝いか、満ちていれば岩山の裏手の出入り口から

入れるという。

潮は引いてはいたが、海沿いの伝いは足元が危ういということで、裏手から洞窟内へ。

洞窟の大雑把な構造は北東側~南西側に貫通している洞窟が2本並んでいて、

その2本を、かなり腰を低くして通り抜ける洞窟がつないでいた。

かなり腰を低くして隣の洞窟へ。

洞窟内では、岩や海を背景におしゃれなシルエット写真が撮影できる、と若い方々の

人気スポットであるようです

帰りの砂浜で見つけたのは、根を張り芽生えたマングローブ、とガイドさんが

教えてくれた。

海岸沿い、いたるところに自生し咲いているハマユウ

ハマユウは海岸付近に自生し、夏の夕暮れとともに花が開花し、真夜中に満開に。

本土よりは気温も低く、涼しいという種子島だったが、今年の夏は暑いんだそうです。

スポットを足早に巡り、冷房の効いたバスへ駆け戻りホット一息。

今日の島めぐりを終えてバスはさらに南下し、島の南に建つ青い海と白い砂浜の

全室オーシャンビューのリゾートホテルへPM5:00、到着。

宇宙ロケット施設がすぐ近く、ロケット発射がホテルから見られるという。

ただし、ロケットの発射日が決定すると予約が殺到するので早いもの勝ちです、

と、ガイドさん。

(部屋の窓から)

左手の岬は象の頭のように見え、その名も「エレファントヘッド」と呼ばれるそうな。

洗面、バス、トイレは独立型なのがいいですね。

バスタブは広々としており、ゆっくりと汗を流し、服装も着替えてて夕食へ。

食事はレストランで、部屋着、スリッパは御法度。

和洋のコース料理、ビールが美味い!! むろん焼酎も。

島内で使える旅行支援金は二人で4千円。

夕食の飲酒代と土産代の一部に有効に使わせてもらった。

夕食後前庭で見上げた南国の月。

早朝からの乗物続きに、心地よい酔い。早めの就寝爆睡。

さすがに疲れもあって遅めの目覚め、すでに日は昇ていた。

海岸はサーフィンのメッカだそうで、大会も開催されるビーチという。

朝から波間を漂うサーファーの姿が見られた。

7月27日

和食と洋食のビュッフェ朝食を済ませ、再び大型バスに7人が乗り込んでホテルを

後にし、バスはさらに南下し種子島最南端の門倉岬へ。

門倉岬は天文12年(1543)、鉄砲を伝えたポルトガル人の乗った異国船が漂着した岬。一帯は公園になっていて、展望台や鉄砲伝来紀功碑、神社などがある。

銃といえば西部劇のライフル銃を思い出しますが、鉄砲といえばやはりポルトガル人によって種子島に伝えられた鉄砲、種ケ島銃かな。

信長の三段銃戦、歴史教科書にも載っていたような。

下車し岬へ向かう途中に、種子島を北限とするクワ科の常緑喬木で幹や枝から多くの

気根を生じた「ガジュマル」が数本植えられていた。

種子島のガジュマルは、防風、防潮、護岸のため、沖縄より移植したと

伝えられているそうです。

ガジュマル

門倉岬神社

門倉岬から望む、岬の岩礁と、東側に続く美しい前之浜海岸。

天文12年(1543)8月25日、種子島の南端門倉岬に明国船が漂着。

この船にはポルトガル人が乗っており、我が国初めての西欧人との出会いであった。

さらに遠くに見える島の先端には、種子島宇宙センター(ロケット基地)があり、

ロケット打上げ時には、岬からもきれいに見えるという。

鉄砲伝来の碑

海上まじかに山頂を雲が覆う屋久島が見えていた。

クマゼミかな?

門倉岬を後に戦国時代から現代へ戻り、バスは岬から遠望していた最先端宇宙時代へ

と向かいます。

種子島には、報道などで目にするJAXA宇宙航空研究開発機構)の実用衛星打ち上げ

基地、「種子島宇宙センター」と、人工衛星を監視する「増田宇宙通信所」があり

ます。

(パンフ案内文)

鹿児島の南、種子島東南端の海岸線に面しており、総面積約970万平方メートルにも

およぶ日本最大のロケット発射場で、世界一美しいロケット発射場といわれています。
当センター内には、「大型ロケット発射場」、「衛星組立棟」、「衛星フェアリング組立棟」などの設備があります。これらの設備で、人工衛星の最終チェックからロケットへの搭載、ロケットの組み立て・整備・点検・打ち上げ、打ち上げ後のロケットの追跡まで一連の作業を行っており、日本の宇宙開発において人工衛星打ち上げの中心的な役割を果たしています。

バスをおりて、まずは宇宙科学技術館へ。

技術館前に聳えたつロケト、H-Ⅱロケットは、1990年代に現在のJAXAの前身であるNASDA宇宙開発事業団)が開発した2段式衛星打ち上げ用ロケットです。

それまでのアメリカの技術を導入してライセンス生産していたものとは違い、

重要な主要技術の全てを日本国内で開発した初めてのロケットで、のちのH-ⅡAや

H-3ロケットに繋がる、純国産ロケットでもあります。(パンフ案内文)

ロケットといえば、当時は高校生だったかな、ペンシルロケトを思い出す。

たしか火薬式ロケットで、初発射実験は水平発射とニュースなどでの記憶が蘇った。

種子島宇宙センター内にある「宇宙科学技術館」は、昭和54年(1974年)

JAXA 種子島宇宙センター内に、わが国初めての本格的な宇宙開発の展示館として

オープン。

ロケットを中心に、人工衛星国際宇宙ステーション、月・惑星探査などについて

展示・紹介されていて、宇宙開発に関する様々な分野について実物大モデルなどを

使って楽しく学べる施設です。

シアターホールでの、ロケット発射場から3キロ地点での発射時の音響を、

大映像と共に体験した。

注意に「大変大きな音が出るため、妊娠中の方、心臓の弱い方、補聴器つけてる方

などにはご遠慮下さい」とあったが、まさにの大迫力大音響。

歴代ロケット(モデル)

人口衛星 

歴代日本宇宙飛行士の手形。

宇宙科学技術館を後にし、再びバスに乗車して、山(丘かな)を駆け上り、

実際にロケットを打ち上げる発射場を眺める展望所、ロケットの丘へ向かいます。

野外展示 H-ⅡAロケット(車窓から)

記念写真撮影スポットでもあるそうです。

車窓右手奥には、ロケット打ち上げ時に報道機関の取材場所となる建物のある

「竹崎展望台」

ロケットの丘から遠望する発射場。

大型ロケット発射場 右第一射点、左第二射点(場ではなく点というそうです)

射ち上がるロケット、なんどかTV映像などで見てますね。

大型ロケット組立場、ここから打ち上げ射点まで台車でゆっくり移動。

周辺には関連するいろんな施設棟が点在していた。

実際のロケットの発射には危険と爆音を伴います。

そのため打ち上げ当日は、種子島宇宙センター全域と射点から3km以内が立ち入り

禁止になってしまうそうです。

来る8月26日には、H2Aロケット47号機打ち上げが予定されおり、

島も大賑わいになるでしょう、とガイドさん。

失敗の後、成功してほしいですね。

宇宙センターを後にし、島中央部の高台に広がるゴルフリゾートのクラブハウス
にて、煌めく紺碧の太平洋を眺めながらの昼食。

その間に小雨雷名があったりしたが、出発時には青空が広がっていた。

(なぜは写真を写し忘れていた)

丘のような山を下り西海岸へ。

沖遠くに三角垂の島は、鹿児島県に属する多くの火山島の中でも、本土に最も近い

薩摩硫黄島とガイドがあった。

海岸線を北上、左手に現れるは中種子町にある、「雄龍雌龍(おたつめたつ)の岩」。

波打ち際に、しめ縄と鳥居が設置され寄り添うように立つ2つの巨岩伝説は、

「ある嵐の夜、達五郎と達江という仲の良い夫婦が崖崩れに巻き込まれました。

 2人は夫婦岩として生まれ変わり、海に向かって右側が雄龍岩、左側が雌龍岩と

 呼ばれるようになった」という。

 水平線に日が沈む光景も美しく、サンセットを楽しむビュースポットで

 もあるそうです。

西海岸線を北上。

道端など、いたるところに咲いてる、ハイビスカス。

原種系ハイビスカスなんだそうだ。

種ケ島北部、上陸した西之表港近くにあるのが、月窓亭。

江戸中期 1793年、島主種子島家の家老職を務めた羽生道潔が 建造し、

羽生家が島を離れたことに伴い、明治19年(1886)、旧島主・種子島守時公の

住居となり、平成12年まで島主種子島家住宅として使用されたという。

現在は市の所有となり、平成22年から一般公開されています。

月窓亭

月窓亭を後に坂を下ると、種子島開発総合センター(鉄砲館)が建ち、その真向かいに榕城中学校があり、この地は、第14代島主・種子島時尭公が建設した内城跡地で、

鉄砲伝来当時の第14代島主種子島時尭公の像が建てられています。

種子島時尭公は鉄砲伝来のときは若干16歳で、資料によれば2丁の鉄砲を2千両で

買ったといわれているという。

ポルトガル人から譲り受けた鉄砲は、片時も離さずに持っていて、

日本人で初めて鉄砲を試射した人物という。

種子島開発総合センター(鉄砲館)

鉄砲の伝来は、戦の方法が激変した大事件でした。

天文12年(1543)8月25日、種子島の南端門倉岬に明国船が漂着。

この船にはポルトガル人が乗っており、我が国初めての西欧人との出会いであった。

時の島主第14代種子島時堯は、ポルトガル人が携える鉄砲を見て、優れた兵器と考え、2丁の鉄砲を求めて家宝とした。

その後、一挺は紀州津田監物へ贈るが後焼失。

残る一挺も明治10年西南の役の際、鹿児島の種子島屋敷において焼失した。

展示写真の銃は、初伝の銃は失われたが、幸い西村家に秘伝されていた

ポルトガル伝来銃が種子島家に 献上され、保存されてきたものである。

 銃は銃身がポルトガル伝来のものであり、銃床部分は後に製作され装着された

 ものである。(案内文)

初めて我が国へ伝えられた火縄銃の模作を当時の14代島主時尭から命じられた

八板金兵衛清定は、苦心の末、その翌年国産銃の製作に成功しました。

 この銃は、種子島家に古来八板金兵衛作と伝えられてきた火縄銃です。

(案内文)

砲のような手持ち銃

おや、と目を引いたのがこの骨格標本

ウシウマは体高約1メートル、体長約150センチメートル。

形はほとんど馬と同じだが、尻尾と毛が牛に似ている。

慶長2(1597)年の「慶長の役」で、島津公が朝鮮から数頭を持ち帰り、種子島

島主に飼育を命じた。島では西之表安城に牧場を設け、一時は約60頭に増えた。
しかし、明治の初め、牧場が廃止されて減少。戦後に絶滅し「幻の動物」と

言われている。 と案内文にあった。

う~ん、重たい!(わしゃ戦えんな~・・)

PM5:40 

種子島巡りを終えて再び高速船にて種ケ島を離れ、屋久島へ。

PM6:30 夕暮れ迫る屋久安房港入。


7月28日 屋久島編へ続きます。



 











 

 

 

 

甲州街道四十四次 3 

令和5年1月19日、大きく寄り道2か所をしながら甲州街道の江戸方(東方)の

入り口四谷大木戸を過ぎ、江戸から1番目の宿場、内藤新宿にはいり、

甲州街道、青梅街道との追分、新宿三丁目交差点で足止めをしていた街道旅。

冷え込みのきつい2月も最後の28日、4月下旬並みの暖かさの天気予報に、

重かった腰を上げて再び街道旅へ。

ゆくり家を出て、AM10:00、内藤新宿江戸の出口、甲州街道と青梅街道との

追分(現新宿3丁目交差点)。

少し手前にあるのが内藤新宿名物「追分だんご本舗」前から3回目の旅立ち。

江戸築城の太田道灌が好んだという、高井戸宿の柳茶屋・団子屋が、新た設けられた

内藤新宿の追分に移転し「追分だんご」として大いに繁盛したという。

すぐ先が追分・新宿3丁目交差点で歩道に「追分モニュメント」。

(ちょとわかりづらいが、真ん中左上の赤いポッチが追分)

交差点を左へ曲がって甲州街道、真っすぐ行くのは青梅街道。

青梅街道は脇街道で、当時は「成木街道(なりきかいどう)」と呼ばれていました。

途中には中野宿、田無宿、小川宿、箱根ヶ崎宿、青梅宿、氷川宿、丹波宿、塩山宿、

小原宿の9つの宿場が設けられ、大菩薩峠を経由し、甲府の東にある酒折村(現:甲府市酒折)で甲州街道と再び合流します。

距離で甲州街道より2里ほど短く、途中に関所が無いため、庶民の旅にも多く

利用されていたという。

この新宿の追分付近に日本橋を出てから2里目の一里塚があったといわれてるが、

その痕跡はどこにもありません。

追分(新宿三丁目交差点)を左折して100m程で新宿4丁目の交差点で、

以前四谷四丁目交差点で分岐した国道20号線(現在の甲州街道)に合流しますが、

 ここは少し真っ直ぐ進み左手に見える道を行へ入ります。

交差点を過ぎ100mほど左手に立派な門を構えてるのが、曹洞宗 護本山 天龍寺

扉には大きな徳川葵のご紋で、江戸城裏鬼門鎮護の役割を帯びてた寺です。
江戸城鬼門鎮護は皆さんご存じ上野寛永寺

こちらには内藤新宿に時刻を告げた「時の鐘」があります。
内藤新宿で夜通し遊興する人々を追い出す合図として通常より早く鐘を鳴らしたことから「追出しの鐘」と呼ばれたそうです。

 新宿4丁目交差点に戻ってこんどは国道20号(甲州街道)を右手に渡り、

JR山手線や中央線、小田急線等の複数の線路の上を超えへ、新宿駅南口に架かる

陸橋を渡って西へ向かいます。

新宿4丁目交差点あたりが内藤新宿の諏訪方(西方)の入り口だったところで、

昔は木戸が設置されていました。ここまでが内藤新宿でした。

江戸時代に江戸と呼ばれていたのは四谷までで、内藤新宿豊多摩郡で江戸の外側、

3回目の歩きで、ようやく江戸区域を出て一路甲街道を下諏訪宿へ目指します。

陸橋を上ると左手駅上には、昔は新宿界隈でバラバラだった発着所が一カ所に集約され、一日発着1500便以上、300都市を結ぶ高速バスターミナル(バスタ新宿)が整備されていまや景観は一変。

(かってはバスタ下には、新宿場外馬券売り場があったとおもうが・・・)  

陸橋を渡り終えてすぐに右手に折れて行くと新宿西口広場。

35年ほど前からの4年ほど、通勤で利用していたので懐かしく思いちょい寄り道。

周辺は高層ビルが林立し、かろうじて奥に新宿新都心開発で最初に立ち上がった

新宿住友の三角ビルが見えていた。

一帯は淀橋浄水場の後の再開発で、後に都庁が移転し新都心と呼ばれ、あっという間に高層ビルが立ち並んだエリア。

遠い昔し新宿駅から淀橋浄水場が見えていたな・・・・

甲州街道(国道20号)へもどる少し手前左手に飲食店が立ち並ぶ国際通りが、

短い距離ですが旧甲州街道

200m程で左折して甲州街道(国道20号)へ戻ってきました。

新宿新都心超高層ビル群を右手に見ながら、新宿の喧騒を背に甲州街道(国道20号線)を西に進みます。

現国道20号が今も昔も甲州街道

街道もすっかり拡幅され昔の面影は望むべくもない。

左手に高層建築が立ち並ぶ文化学園大学が見えてきます。

大学の建物の西側のビルの端に大きな銀杏に木のがあり、下に小さな社が祀られ、

社は旧角筈村、代々木村の村境に祀られた天満宮

脇の大銀杏の木は樹齢300年余と伝えられる大銀杏で、その形状から箒銀杏と

呼ばれていると案内板が立ってました。

その先へ進むと首都高速が右手から合流してきて、空を覆い、うっとうしくなってくる。 

 左手に寺院が二つ並んでいて、手前が境内に高層マンションを持つ真宗大谷派

寺院で、山号を聖徳山。

万治元年(1658年)に四谷に創建し、享保年間に新宿の初台近くに移転したという。

この諦聴寺には、渋谷区指定有形文化財の「木像聖徳太子立像」がある、と街道書に

記されてるがお堂は覗けない。

その先が浄土真宗東本願寺派正春寺。

慶長19年(1614年)創建といわれ、二代目将軍秀忠の乳母「初台の局」の

菩提寺で、付近の地名初台の由来となった、と街道書にはあるが、それらしき案内板もなく、普通ならす~と通り過ぎてしまいそう。

正春寺側の参道口交差点で国道右手に渡り、約10分ほどの初台交差点手前右手が

NTT東日本本社があり、交差点を渡った先右手は巨大な東京オペラシティ

新国立劇場などの建物群。

すぐ先を右手の小路へ入り、街道書にある八幡太郎義家縁の「旗洗池跡碑」を探したが、見つけられず街道へ戻ります。

国道20号に戻りさらに10分ほど行き、街道書では国道左手に記されてる子育地蔵尊

幡谷歩道橋で渡って向かいます。

歩道橋を降りたすぐ側にペンシルお堂があり、「貞享3年(1686年)造立の

子育地蔵尊が祀られている」と街道書にあった。

子育地蔵を後にし薄暗い高架下の街道を西へ進みます。

おっ、日本橋から11km、なんと三日目で・・・・

先はゆるい坂道になり、数分ほど行くと窪地の笹塚交差点。

交差点手前の左手ビル間に、数mほどの参道があって、その奥にモダンなデザインの

地蔵堂があり参道には案内板も立っている。

地域の方々が大事に管理されてる様子で、清掃も行き届き整理整頓がされてます。

この地はかて極悪人の刑場で、牛を使って最も残酷な牛裂きの刑がおこなわれ、

地形が窪地だったことから牛窪と呼ばれ、お堂に祀られているのは牛窪地蔵尊

 参道脇に庚申塔やら道供養碑などが並んでいる。

道供養とは道路自体を供養して報恩感謝の念を捧げることにより、交通安全を祈る

とする全国でも珍しい供養碑といわれ説明板も建ってます。

 笹塚交差点で甲州街道を右へ渡ってそのまま北へ200m程ゆくと右手に

浄土宗法界山清岸寺。

案内板によると、寛永17年(1640年)の開山。

参宮橋南側にあったが、当所が代々木練兵場の開設で、荒廃していた現在地に有った

法界寺と合併し、 参宮橋から当地へ移転し、 法界寺と清岸寺が合併したことから

法界山清岸寺と改称されたとある。

境内に宝永5年(1708年)造立という、酒にまつわる命を落としした男の

願いで立てられたという「酒呑地蔵尊」が祀られてます。

かつては、他所に祀られていたが、近年幡ヶ谷の清岸寺境内に遷されました。

境内の木の根を利用したベンチ、アリ喰いかな?

笹塚交差点に戻り、西へ300m程進んだ右手交番隣に、笹塚跡という看板が立ち、

「街道の両側には直径1mほどの笹に覆われた塚があり、「笹塚」という地名の由来になったという。また、この塚に一里塚の印を記している古図もある」と記されてます。

ようやく12km

その先、笹塚郵便局手前の右に路地に入ってすぐ右側にお堂が建ち、

庚申塔青面金剛像が安置されています。元々は街道に面してあったという。

ここも綺麗に大事に守られてる様子です。

国道20号の戻って国道をの左手に渡り、10分ほど行くと環状7号線(通称環7)と交わる大原交差点。

すこし手前付近が豊島郡(渋谷区)多摩郡(杉並区)荏原郡(世田谷区)の三郡境で、

渋谷区が終わり、先は国道20号の右手が杉並区、左手が世田谷区になる。

かっては川が流れていて橋が架かり三郡橋と呼ばれていた、と街道書にあったが、

示すものは何もありません。

(大原交差点)

大原交差点から5分ほど行くと、左手に暗渠から流れ出てる川が有りますが、

ここは国道20号を玉川上水が斜めに貫き、代田橋という石橋が架けられていたと

いう。今はもちろん橋は無いが、京王線代田橋という駅名に残るのみ。


代田橋跡のすぐ先の小路を左手に行くと京王線代田橋橋駅で、手前線路沿いを右手に

行くと大原稲荷神社へ着きます。

街道書には、この地の鎮守で、境内で世田谷で唯一「酉の市」が開かれる。

参道入り口に祀られてるのは北向子育地蔵尊、ともあった。

だけど、お稲荷さんとあるが、らしくない・・・・

と思ったら、何故か境内の脇の方にお稲荷さんがこじんまりと祀られてましたね。

これで大原稲荷神社なのかな・・

大原稲荷から小路を斜めにたどり5分ほど行き国道20号(甲州街道)へ戻り

松原交差点手前で歩道橋で右手へ渡ります。

松原交差点を過ぎてすぐ右手の小路を入り、突き当りの祠に青面金剛、邪鬼、三猿の

図柄の庚申塔

街道書によれば 下部に「當村願主 鈴木久右衛門他の7名の願主銘がある」とあった。

当村というのは和泉村であったようだ。

国道に戻りすぐ先が京王井の頭線で、越えると右手は明治大学和泉キャンパス。

街道書を見ると「その先隣に築地本願寺和田堀廟所があり、これらの広大な敷地は

江戸幕府焔硝蔵の跡で、大正の末期に廃止となった」とある。
後に旧陸軍省火薬庫となり、空襲で一帯は焦土と化した、ともあった。

明大門塀に掲示された解説板

京王線明大前駅の名は開業時は「火薬庫前」で、松原駅と改称され、

昭和10年(1935年)に今の明大前駅に改称した。)

明大のキャンパスを過ぎるとこちらも広大な築地本願寺和田堀廟所。

街道書には「樋口一葉墓所」とあり立ち寄ってみましたが、海音寺潮五郎服部良一古賀政男横綱吉葉山、などなど有名著名人のお墓が多くあるそうです。

そうそう、今年秋の朝ドラ、ブギの女王笠置シズ子さんのお墓もありました。

和田堀廟所沿いに5分ほど行き、松原二丁目から右の小路に入ると、

街道書では明暦の大火、関東大震災、などなど何らかの理由で移って来た寺院が

8寺院ならんでる、と記されて小路へ入ります。

浄土真宗・真教寺。親鸞自作の座像は本堂に安置、とあるが門は閉じたまま。

真宗大谷派、託法寺、寛永11年(1634年)創建も扉は閉じている。

浄土真宗本願寺派、善照寺

浄土真宗本願寺派、浄見寺

浄土真宗本願寺派、法照寺。

初代市川団蔵の墓があるそうです。

浄土宗、栖岸院。老中阿部対馬守重信の開基。

住職が将軍に拝謁できる「独礼の寺格」を有した、と街道書にある。

河津桜が満開

曹洞宗永昌寺。門前に江戸期に造立された4基の庚申塔等があった。

曹洞宗龍泉寺

境内の「北向き地蔵尊」は子供の熱封じにご利益がある、と街道書に有った。

龍泉寺を後に国道20号(甲州街道)へ戻り、信号を左手に渡ると、京王線高井戸駅入り口への小路へ入れます。

やっと下高井戸宿が近づいてきましたが、時刻も午後3時半。

今日の街道歩きも短い距離ですが、我々の旅はここで、左手小路へ入りました。

江戸から2番目の宿場まちはへはまたいつの日かの旅へ。

(咲き始めるか寒緋桜)

 

 

早春賦

立春4日、所用で出掛けた帰りの道草。

もう、咲きだしたかな「セツブンソウ」と東京都薬用植物園へ。

咲いてましたセツブンソウ(節分草)

代表的な早春植物(スプリング・エフェメラル)

咲きだしたばかりか、小さく小さく草丈は3~5cm、花径は1~2cmほど。

微笑みかけてくれているような愛らしさ、ともいいますね。

ただ、同じキンポウゲ科トリカブトと共通する毒成分を含んでいるという。

透けるような白の中にあるその雄しべのブルー。

白い花弁状に見えるものは萼片、花弁は小さな黄色の蜜腺に変化。

コセリバオウレン(芹葉黄蓮)キンポウゲ科 オウレン属

雪解けの頃に咲き出す、春の訪れを告げる植物の一つです。

日本海側に分布するオウレン(キクバオウレン)の変種と

され、太平洋側や西日本に多く分布します。 

オウレン Coptis japonica は日本特産種の常緑多年草

キクバオウレンはオウレンとそっくりで見分けるのは困難ですが、

セリバオウレンは葉の様子がセリの葉状で、セリバオウレン。

根茎は古くから薬用にされてるという。

まだ咲き始め、花は小さく1~2cm位でした。

雪国では、雪の中からふんわりした黄色が花開き、幸せを呼びそうな福寿草

花は、陽の当たる日中に開き、夜間や、天気の悪い日は閉じている。

明るい色彩で目を楽しませてくれて、縁起のいい名の福寿草

だけど、生命にもかかわる強い毒性のあるので要注意。
黄色い花弁が見える前の状態はフキノトウの出始めと誤認されやすく、

誤って食べてしまい中毒する事例が多いそうな。

(薬草園の福寿草は園芸品種のフクジュカイ・福寿海と言うそうです)

スノードロップ(雪のしずく)

寒さ厳しい時期にうつむいて咲く白い花、さながら雪の精を思わせ「雪の雫」の命名

和名はマツユキソウ(待雪草)

含まれる成分の一部は、アルツハイマー認知症や筋無力症を改善する薬としても

用いられるそうな。
原産地バルカン半島小アジア

鉢で栽培されていた花はクロッカス?と思ったら、

チューリップ 原種と花札があった初めて目にした花。

丈、2cm位、花径 2~3cmのコンパクトな花。

そいえば、葉はチューリップでした。

原種系は70種い以上あるそうな。

水仙(バルボコジューム)は、原種系のスイセンで、

ペチコートスイセンとも呼ばれている。

科名 / 属名:ヒガンバナ科 / スイセン属 草丈10~15cm。

強健で、小さなかわいらしい花を毎年たくさん咲かせます。

小型原種スイセンの代表的な種類で、ヨーロッパ南西部や北アフリカに広く分布して

いるという。
秋の中ごろから葉を伸ばして、葉を成長させながら冬を越し、早春のころには

黄色いペチコートのような花を、1茎に1花開きます。

温室を覗いてみます。

まずは始めて見かけた花はセンシンレンの花名があった。

薬草園の説明では、

キツネノマゴ科、原産地、東南アジアの一年草

インド、東南アジアでは止瀉薬、強壮薬などに古くから用いられた薬用植物。
中国名は「穿心蓮」、インドネシア語での呼び名サンビロート。
日本ではかつて、この植物より健胃薬を調製した記録が残っています。
花は白色で、濃紫色の斑紋があり、長さ1.5cmほどです。
(一部情報では対コロナ有効成分があるとも言われてるとか)

赤色の花と白色の萼が対照的で美しい、ゲンペイクサギ シソ科

和名:ゲンペイカズラ(源平葛)、

つる熱帯植物       原産地    熱帯西アフリカ

初夏から秋まで長期間開花する常緑のつる性植物で、各地の植物園の温室でよく

見かける花です。
花冠が深紅色、萼片が白色であり、この紅白の対比から「源平臭木」の和名が

あります。

花後しばらくすると萼は赤紫色に色付きます。

ホウライアオキ (蓬莱青木) キョウチクトウ科  台湾・中国南部原産。

常緑低木で、白色のろうと状のに咲く花で、ほぼ一年中咲いている。

そして、楕円形で滑らかな美しい赤い実。。

根や茎が血圧降下剤の原料として使われている。

葉がアオキの葉に似ているので、この名前が付いたらしい。

短時間の寄り道でしたが、春呼び花のセツブンソウ、福寿草

春は名のみの・・・とはいえ、ポわっとした温かみを感じた道草でした。

 

 

 

甲州街道四十四次 2 後編

まさに絢爛豪華、その中に和の美を取り入れた西洋宮殿。

ゆっくり過ごした良い寄り道でした。

街道旅は後編へ。

四つの谷から四ツ谷と呼ばたの説が有りますが、新宿通り(旧甲州街道)左手は

谷へ下るような坂道が迷路のように入り組んでました。

200mほど歩いた左手を下ると、服部半蔵の墓のある「西念寺」と街道書に記されて

いて、細い坂道へ入ります。

5分ほど下ると寺院らしい塀に当たり、左手に回り込むと西念寺入り口でした。

ここ若葉町一帯は、もと伊賀町と呼ばれ、伊賀衆の組屋敷があった所で 

西念寺は、組頭服部半蔵正成の菩提寺として記されている。

街道書や門前の案内板には、

浄土宗・西念寺

忍者の頭領、槍の半蔵として有名な服部半蔵正成によって、松平信康徳川家康嫡男)の供養の為に開創された。

服部正成自身は武士として徳川家康公に仕え、伊賀・甲賀の忍者を率いて、

また槍の名手として「鬼半蔵」の異名をとり数々の武功を重ね、家康公より槍を拝領しました。この槍は当寺寺宝として伝わりている、とあります。

西念寺の由来書抜粋)

徳川家康の嫡男徳川信康は、武勇に優れ将来を嘱望されたが、徳川家と同盟関係あった織田信長の理不尽な要求で切腹を命ぜられ、切腹介錯を任ぜられたのが半蔵正成。
しかし「鬼半蔵」の異名をとった正成は、いかに命令とはいえ、仕えていた主君に刃を向けることはできず、遂にこの役目を果たすことができませんでした。
このことから世の無常を感じ、信康公の冥福を祈る為、仏門に入りました。

天正18年(1590)、家康公は江戸に入国し、江戸城を築き本拠を置きました。
半蔵正成も江戸に入国しましたが、信康公の御霊を弔うために剃髪出家し、

名を「西念」と号し、麹町清水谷に庵を設け、遠州以来奉持していた信康公の遺髪を

ここに埋めて、専称念仏の日々を送りました。
文禄2年(1593)には、信康公の御霊と徳川家忠魂の冥福を祈り、一宇を建立するよう内命を受けたとも記録されていますが、寺院建立を果たせず、

文禄4年(1595)没し、法名は「専称院殿安譽西念大禅定門」。
その後、同所に一宇の建立がなり、山号院号・寺号は、この法名からとり

「専称山安養院西念寺」となり半蔵の墓が建てられた。

寛永11年(1634)江戸城外廊拡張に伴う外濠新設の為、濠の外の現地にに移転した。

残念ながら、戦災により全ての建物は焼失し、昭和36年(1961)本堂再建がなり

ました。

境内の案内図のようなものや経路標識もなく、時代を感じる墓地内などを探して

「判らないね、どこにあるんだろう」としばしうろうろ。

本堂

 

ようやくたどり着いた部半蔵の墓

服部半蔵の槍は本堂内にっ保管されてますが、写真はガラス戸越しで写ってなかった。

服部半蔵がが建てたという徳川信康供養塔は本堂裏手脇にありました。

介錯を命じられた半蔵は「三代相恩の主に刃は向けられない」と介錯だ出来なかったといい、家康は「鬼と言われた半蔵でも主君を手にかけることはできなかったか」と

正成をねぎらったとか。三河武士の典型「大久保彦左衛門」が書いた三河物語に残されている逸話だそうです。

西念寺を後にし、街道書にある愛染院へ向かいますが方向がつかめず、塀沿いに回り込んできた道を少し登り返し、広めの道を西へ5分ほど行くと、東福院坂と名された

急坂道へ出ました。

このあたりは、かっては四谷区寺町、南寺町と言われた通りお寺が大変多く、

辺りの寺院はこのような急坂の途中に作られていることが多い。

道も狭く、住宅、アパート、ビルが密集し、窮屈な格好で建てられている。

急坂を少し下ると左手に愛染院、右手に坂の名の真言宗・東福院があった。

東福院入り口に「豆腐地蔵」との掲示が有ったので街道書には記されてないが寄り道。

東福院の入り口の右手に「豆腐地蔵」が立って、豆腐が二丁供えられてました。

由来案内板などはないため、後に新宿観光資料などで調べた豆腐地蔵の名の由来は、

「昔この付近に、よこしまな心をもった豆腐屋がいました。

毎晩豆腐を買いにくる坊さんがいたが、豆腐屋が代金を竹筒に入れておくと、

翌朝これがシキミの葉になっています。さては、狐か狸が坊さんに化けていたずらを

しているのであろうと考え、こらしめに手を切ってしまいました。

豆腐屋が血痕を追ってみると、東福院の門内に入って、この地蔵のところまで続いて

います。豆腐屋は坊さんの正体が地蔵であると知って後悔し、それからは心を

入れ替えて正直な商売をしたということです」めでたしめでたしかな・・・

豆腐は石膏造りでした。

東福院の向かいに愛染院が有ります。

街道書と入り口案内板には

墓地には、元禄11年に甲州街道の宿場を新設した内藤新宿開発人で、

正徳三年に没した「高松喜六の墓」と、群書類従の編者として名高い盲人国学者

塙保己一の墓があると記されてるが・・・・

こんな看板が・・

(お寺は多く、ちょいと覗いたりしましたが、こんな警告が結構立ってましたね)

東福寺坂をさらに下ると谷底状になり、突き当りにの急な石段上に須賀神社

街道書には「四ツ谷18町の鎮守で、須賀町の名前の由来の元になった神社です。

毎年6月の祭礼は、江戸五大祭りの一つ、天王祭り」とあった。

アニメ映画『君の名は。』舞台モデルともなったそうで、ファンが連日訪れている

スポットとなっているんだとか。

その頂上から振り返った時の景色が重要なシーンで使われ、チラシや公式ページの

メイン画像などにも使われたこともあり、実際の景色は描かれたものと全く同じでは

ありませんが、ファンには絶対撮影したいポイントとなっているという。

階段付近で何組かの若いグループに出会いましたが、フアンなのかもしれません。

街道書によると、

須賀神社は江戸初期より四谷の地に鎮座する、四谷十八ヵ町の鎮守様です。
 毎年六月に行われる御祭礼は、古くは四谷の「天王祭り」といわれ、

 江戸の五大祭りの一つとして有名でありました。

 四谷見附外に祭ってあったのを、寛永11年(1634)の外堀の開堀のために、

 現在地に、移転したもので、明治維新須賀神社と呼ばれるようになった。

 須賀神社須佐之男命(須賀大神)と宇迦能御魂命(稲荷大神)を主祭神とする。

 もともとは稲荷神社であったので、境内の左奥には稲荷神社のお社もあります。

 須賀大神は諸難・疫病除けや悪霊退散、稲荷大神は開運招福や商売繁盛の神様」

 とある。

本殿左手回り込むとに天白稲荷神社、隣の祠には大黒天(大国主命)。

脇から神社を後に少し下ると左手に曹洞宗勝興寺。

街道書には七代目山田浅右衛門の墓、とあるので境内へ入ります。
寺由来記によれば、

天正10年(1582)創建、江戸城外堀建造の拡張の際に伴い、

寛永11年(1634)当地へ移転し現在に至る。

また、死罪執行の打ち首役の「首切り浅右衛門(山田朝右衛門)」を代々務めた、

6代目と7代目のお墓があります。

当主は「首切り浅右衛門」と呼ばれ、山田浅右衛門家は代々、将軍家の刀の新刀鑑定

試し切りを代々勤める家でした。

維新後も新政府の指揮下に入り、家業を続けていました。

7代目山田朝右衛門吉利は、安政の大獄の際に、吉田松陰橋本左内頼三樹三郎

首を斬った人として名が知られています。

7代目の墓

(ここも場所を案内の標識などは無く、時代を感じる墓地内をあちこち

 歩き回りました)

参道右手に正面を向いた「首の」落ちなかったためそう言われる「首の繋がる地蔵」があります。東日本大震災の際にお地蔵さんの首が落ちそうになりましたが、ギリギリ落ちなかっためそう言われるようになりました。

参道右手奥に、「乳母様」が居ります。子供を育てる神様と言われる中で、逆に子供を連れて行ってしまう神様とも言われており、そのため昔は一生懸命にお祈りをし、子供がお利口さんになるよう祈ったと言われています。

勝興寺を後に、来た道を少し戻って円通寺坂と呼ばれる坂を新宿通り近くまで行くと、

右手に細い石段参道があり、奥が街道書には、伊賀衆の菩提寺臨済宗祥山寺。

文禄4年(1595)麹町付近に創建し寛永年間に当地へ移転。

伊賀組忍者供養の「忍者地蔵」がある、と記されてます。

案内板などは立ってないが、忍者地蔵(と思います)。

 続いてすこし西側に回り込んで女夫坂通りを下ってゆけば、街道書にある

お岩稲荷田村神社へたどり着くはずだが、これがなんと大迷い道。

坂を下たり小路へ行ったり、しばらく迷って、残念ながらパス。

街道書では「於岩稲荷は、東海道四谷怪談で御馴染みのお岩さんでは無く
実在の武家(田宮家)の娘於岩のこと。
家計の苦しい家を支える為に商家に働きに出て、田宮家を再興させたという。
その於岩が熱心に信仰していた社が評判になり、何時の頃か於岩稲荷と呼ばれるよう

になったという。

おどろおどろした怪談話のお岩さんは、江戸時代の作者鶴屋南北が、この知名度

高い於岩の名前を借用した、と言われるそうです。

お岩稲荷をパスし、新宿通り(甲州街道)へ戻るとそこは四谷三丁目交差点。

何気なく交差点向こうのビルを見ると、

消防博物館開館30周年」の垂れ幕。

交差点を渡って建物を覗くと、ここは四谷消防署で、館内地下階と3~5階に

消防博物館があるといい。しかも拝観無料。

1階受付で聞いたら江戸時代からの消防活動の変遷がみられるという。

カミさんも「おもしろそう」でたまた大寄り道。

むろん下から見て行くのではなく、一旦エレベータ利用して最上階10回展望室へ。

さっそく見下ろす甲州街道、新宿方面新宿御苑の壮が見え、甲州街道内藤新宿

すぐ近く。

四ツ谷見附方面

北東にはスカイツリーも見られました。

エレベーターで5階へ下り「消防の夜明け・江戸の火消し」
「組織的な消防は江戸時代の火消しに始まります」

江戸時代を再現したジオラマで、粋でいなせな町火消や大名火消の活躍などを

紹介しています。

町火消

大名火消

 

4階は消防の変遷

馬牽き蒸気ポンプ

手引き蒸気ポンプ

出動服変遷

はしご車

3階は現代の装備

などなど小一時間ほど、大人も子供も楽しく学べる消防博物館でした。

まだまだ地階には消防自動車の変遷展示があるようでしたが、街道はもう少し先が

有るので惜しみながらも時間切れ・・・

機会が有ったら是非のお勧めですね。

博物館を後に西へ進むと新宿御苑の壮が見えてきました。

博物館から10分ほどで、新宿通り、現甲州街道(国道20号線新宿御苑トンネル)、

外苑西通りの交差する変則5差路の四谷四丁目交差点。

ここで国道20号線(現甲州街道)が左に分岐して新宿御苑トンネルに入っていきますが、旧甲州街道は右側の新宿通り・都道430号新宿停車場前線をそのまま進みます。

元和2(1616)年、江戸幕府により四谷の地に、甲州街道における江戸への

出入り口として大木戸が設けられており、交差点角に石碑がたってます。

木戸の両側には石垣を設け高札場もあった。

後に木戸が撤去されているが「四谷大木戸」の名は残った。

大木戸近くには、承応2(1653)年に完成した玉川上水の終点にあたる

四谷水番所が設けられ、ここから江戸市中へ配水していた。

元禄12(1699)年には大木戸の西に甲州街道最初の宿場となる内藤新宿

開設されている。

現在の交差点上が「四谷大木戸跡」として東京都指定旧跡となっている。

四谷大木戸にはかって玉川上水番所跡があり、交差点向い側に「水道碑記」の石碑が

建っています(東京都指定有形文化財)。

玉川上水は、かつて江戸市中へ飲料水を供溝渠給していて、江戸の六上水(神田上水

玉川上水本所上水青山上水三田上水千川上水)の一つです。

多摩の羽村(現在の東京都羽村市)にある羽村取水堰多摩川から取水し、武蔵野台地を東流し、この四谷大木戸に付設された「水番所」を経て市中へと分配されていました。水番所以下は木樋や石樋を用いた地下水道でしたが、羽村から四谷大木戸までの約43kmはすべて露天掘りの用水路でした。

「水道碑記」の石碑の脇の解説板の後ろにも「四ツ谷木戸跡碑」が立ってました。

四ツ谷木戸跡から先は宿場、内藤新宿です。

150m程左手奥に新宿御苑の大木戸門が見えます。

この新宿御苑になっているところには、江戸時代、信濃国高遠藩3万3千石 内藤家の

広大な下屋敷がありました。

内藤家と新宿については、内藤家が一帯に広大な敷地を家康から拝領した逸話として、小説等などにもに書かれた“駿馬伝説”がある。

1590年、徳川家康が関東へ入府したとき、内藤家2代・内藤清成も江戸に入りました。

家康が今の新宿あたりで鷹狩りをした折、随行していた内藤清成に

「この一帯を馬で一息に駆けて、駆けまわってきた土地はぜんぶお前にやろう」と

言ったそうです。

清成は愛馬にまたがり、四谷、千駄ケ谷、代々木、大久保とまわって、駆け抜けた

広大な土地を拝領し、地名も内藤と呼ばれるようになった。

 家康から拝領した土地は20万坪(東京ドーム14個分)ほどあったといわれ、

その屋敷の一部が幕府に返納されて新たに宿場町が設けられ「内藤の新しい宿」、

内藤新宿」と呼ばれるようになり、現在は新宿としての地名になった。

宿場解説文では、

内藤新宿は、江戸時代に設けられた甲州街道の、江戸日本橋から数えて最初の宿場で

あり、宿場内の新宿追分から甲州街道と分岐している青梅街道の起点でもありました。

内藤新宿は、玉川上水の水番所があった四谷大木戸から、新宿追分(現在の新宿三丁目

交差点付近)までの東西約1kmに広がり、西から上町・仲町・下町に分けられていま

した。

享保3年(1718年)には、宿場内に旅籠屋が52軒という記録が残っていますが、

享保3年(1718年)、内藤新宿は幕府によって宿場開設より20年足らずで廃止されてしまいました。このため、高井戸宿が再び甲州街道最初の宿場となりました。

宿場としてより岡場所として賑わっていた内藤新宿は、その改革に伴う風紀取締りの一環として廃止されたといわれる。

廃止から50数年が過ぎた明和9年(1772年)、却下され続けた再開が認められました。

宿場の再開により町は賑わいを取り戻し、文化5年(1808年)には旅籠屋が50軒、

引手茶屋80軒との記録が残っています。

江戸四宿の中でも品川宿に次ぐ賑わいを見せ、その繁栄は明治維新まで続きました。

現在では内藤新宿という地名は残っていませんが、新宿の地名として残っています。」

 

少し先右手にビルに挟まれて防火の神秋葉神社が祀られてます。

なんと隣は消防署で、二重の防火対策。

すぐ先が新宿一丁目西交差点で、東京メトロ丸ノ内線新宿御苑前駅があり、

このあたりに内藤新宿の橋本本陣があったそうなのですが、今はその痕跡も残って

いません。

新宿一丁目西交差点を右折し、すぐに左折して、一本奥の道を進みます

内藤新宿の中央付近、仲町のすぐ北にある浄土宗の寺院・霞関山太宗寺です。

寺伝によれば、慶長元年(1596年)頃に僧の太宗が開いた草庵「太宗庵」が前身とされ、寛永6年(1629年)、2代目内藤清成の3男当時安房国勝山藩主であった内藤正勝の葬儀を行ったことを契機に内藤氏との縁が深まり寺地の寄進を受け創建され、以後内藤家の

菩提寺となった、という。

 

境内には江戸に入る6本の街道の入り口 (旧東海道品川寺奥州街道東禅寺

中山道巣鴨の真性寺、水戸街道の霊厳寺、千葉街道の永代寺、甲州街道太宗寺)

に安置された青銅製地蔵菩薩像(江戸六地蔵)の第三番があります。

六地蔵の内、四地蔵尊と出会ったことになりました。

旧東海道品川寺 平成25年(2013年)3月3日

中山道巣鴨の真性寺 平成28年(2016年)9月27日

日光街道、旧奥州街道東禅寺 令和2年(2020年)6月1日

内藤氏はその後信濃国高遠藩へ移封されたのですが、太宗寺はその後も高遠藩内藤氏の菩提寺として、歴代藩主や一族の墓地が置かれました。

内藤氏の墓地は約300坪の広大なものであったのですが、昭和27年(1952年)からの

区画整理で縮小され、現在は5代目藩主正勝など3基の墓石が現存するのみになった。

境内のお堂には内部が暗く撮影は出来ませんでしたが、都内最大の閻魔像や、

飯盛女たちの信仰を集めた奪衣婆像などが安置されており、

他にも新宿山ノ手七福神の一つである布袋尊像が安置されてます。

また境内のお堂には、真っ白に塩を被った姿が特徴の「塩かけ地蔵」がありました。

都内に幾つかの塩地蔵があるそうで、説明板はありませんが、おできにご利益がある

といわれるお地蔵さん。
お願いする時は、お地蔵さまに願をかけて塩を少し頂いて帰り、願いが叶ったら

塩を倍にしてお返しするという。

舐めたらしょっぱい そうで、白いのは全部塩らしい。

太宗寺から新宿通り(甲州街道)に戻り、さらに10分ほど行くと新宿三丁目交差点。
街道は左折して南方向へ続きますが、時刻も夕4時近くで我々の2回目の街道旅は

ここで足止めです。

四谷見附から進んだ距離は、街道だけだと旅とは言えない僅か約3kmのみですが、

よろよろ亀足ペンギン歩き、おまけに楽しい寄り道「街道歩き」。

次はいつの日か??

 

 

甲州街道四十四次 2 前編

よろよろ亀足ペンギン歩きでも、足さへ前に出せればいつかは目的地にたどり着く。

今度の街道は、お江戸日本橋から甲州(山梨)を経て、信濃(長野)下諏訪まで、

甲州街道44次。

躊躇していた街道歩き旅、始めてしまいました。

 

令和5(2013年)年1月4日,

お江戸日本橋を旅立ち、皇居(旧江戸城)お濠周りを約半周し、半蔵門から西へ

向かい四谷見附跡(四ツ谷駅)で初日は足止め。

好天続きだった天気も20日ぶりくらいに雨になり、冬らしくなって来た。

寒さも増してきたが、天気予報は晴れ時々曇りの19日、2回目の甲州街道へ。

電車を乗り継ぎ、新宿区四谷一丁目にあるJR中央線四谷駅へ。

東口へ出るとすぐ横は石垣が見え、前回足止めの旧外堀で大番所があった四谷見附跡。

AM10:00 第2回目の旅立ち。

枡形に成ってる四谷見附、石垣を右に見ながら陸橋を渡ります。

下はJR中央線と総武線の四谷駅のホーム、メトロ丸の内線が通る旧江戸城外壕の跡。

左手には見附石垣の採石地などの説明板が有りました。

巨大な石は、遠く伊豆地方で採石され、船で運ばれたそうです。

陸橋を渡ると外堀通り、左に曲がってすぐに四谷見附交差点で 新宿通りと交差し、 

左右が外堀通り、直進が甲州街道の新宿通り。

外堀通りを先へ横断して行くのが甲州街道ですが、今日はそのまま歩きません。

四谷へ来た良い機会、是非行ってみたかったとこへ向かいます。

信号を左手へ渡り、そのまま外堀通りを200m程南へ行くと道は二股になり、

左手を辿ると赤坂見附を経て内堀の三宅坂へ、右手は明治神宮外苑へと続き、

正面は二股三角州の若葉東公園で、奥には豪壮な洋館の正門(国宝)が

見えてくるはず・・・が見えない?。

奥にあるのは国宝・迎賓館赤坂離宮です。

迎賓館では正門・外柵の修復及び補強工事を年内行っており見ることは

出来ませんでした。

(下写真は迎賓館パンフレットの国宝・正門)

脇の門から見た前庭と本館。

前庭の見学は、入場料も事前予約も必要なく開館時間内なら自由に入れますが、

館内や主庭の見学は有料で正門ではなく、西門から敷地内に入ります。

正門を右側へ回り込み、3分ほど歩くと道を隔て「学習院初等科」、

左手に迎賓館西門がありました。

西門を入ると地響きの様な豪音にビックリ。

なんと迎賓館敷地内地下を、首都高速道トンネルが通てるんですね。

西門を入って右手へ回り込むとテント場が有り、セキュリティーチェック。

空港と同じように手荷物をカゴに入れX線画像で手荷物金属探知機を使って検査を

受けます。

迎賓館は国賓を招く施設です。そのため、厳重な管理体制が行なわれています。

ドリンクを持ってる人はその場で一口飲まされるそうです。

ポケットのものなどすべて確認され、人はセキュリティゲートをくぐります。

凶器になるようなものなどは、一旦預けて帰りに出口で受け取るようになてます。

ミニ三脚を持っていたのは、預かりとなりましたね。

本館、主庭園、和風別館(予約必要)などは有料拝観です。

手荷物検査が終わったら券売機でチケットを買います。

えっ、五千円、一万円札は使えません! おや今時に・・・

終えて本館へ向かいますが館内にトイレは無いそうで、事前に済ませるよう

案内板が有ります。

左手に仮設トイレもありますが、少し右手奥の建物内にもトイレがあり、

ちょっとした休憩所などが有りました。

さて、いよいよ本館見学者入り口へ向かいます。

ここから先は写真撮影禁止で、スマホの使用も禁止、館内での飲食もできません。

国宝・本館 主庭噴水

迎賓館は紀州徳川家の江戸中屋敷跡で、明治期に皇室に献上された。

この土地の一角に明治42(1909))年、東宮御所として建設された、

日本では唯一のネオ・バロック様式による宮殿建築物です。

当時の日本の建築、美術、工芸界の総力を結集した建築物であり、明治期の本格的な

近代洋風建築の到達点を示しています。

戦後は国に移管され、昭和49(1974)年に迎賓館としてよみがえりました。

現在は、世界各国から賓客をお迎えする外交の場となっています。

創建から100年を迎えた平成21(2009)年には、本館、正門、噴水などが明治期以降の建物で初めて国宝に指定されました。

世界各国の国王、大統領などをお迎えし、外交活動の華やかな舞台となる迎賓館は、

 主要国首脳会議などの国際会議の場としても使用されています。

 施設概要
所在地    東京都港区元赤坂2-1-1
敷地面積    約12万平方メートル
本館構造    鉄骨補強煉瓦石造、地上2階(地下1階)
延床面積    約1万5000平方メートル          (パンフレット抜粋)  

(パンフレット写真)

入り口から館内、各所に男女の職員の方がいて、丁寧に対応してくれます。

さあ、本館内へ。

本館の中は一言でいえば大変ゴージャスです。

どの部屋も細部までこだわっていて、見どころ十分でした。

現在、国賓来日などのある日などを除いて、一般公開されています。

現在は昭和49(1974)年に新たに作られた和風別館は要予約ですが、

本館は予約なしで入れるので、気軽に訪れられます(有料です)。

(館内の様子は入り口で頂いたパンフレットの写真をスキャンした映像です。

 案内文もパンフ資料などを参照抜粋させて頂きました)

 

拝観順路案内に沿って館内へを進みます。

まずは多くの賓客をお迎えする豪華な深紅の絨毯や大理石の柱の「本館玄関ホール」

ガラス戸で仕切られていてホールへは入れません。

中央の赤い絨毯は、迎賓館の職員でさえ踏むことが許されていないという。

賓客をお迎えする際には、出迎える側は中央階段を下りてきて、玄関ホールの

中央でぴったり出会えるように計算しているのだとか。

階段の左右に張られている豪華な大理石、何度か出迎え風景をTVなどで見ましたね。

中央階段を上がって正面にあるのが「朝日の間」。

天皇皇后両陛下が賓客とご挨拶されたり、首脳会談が行われたりする、

迎賓館で最も格式の高い部屋です。

2年間の改修工事を行い平成31(2019)年以降に一般公開が再開がされました。

玄関ホールを過ぎて階段を上がって行くと「朝日の間」へ行きます。

天井を飾るのは朝日を背にし4頭立ての白馬の車に乗り、天空を駆ける女神絵画

朝日の間を後に拝観順路の次は晩餐会用の部屋「花鳥の間」。

着席で最大130人も入れる大きな部屋で、主要国首脳会議などで使われることもある

そうです。

木曽産のシオジ材で板張りされた内装は、落ち着きのある心地よさを感じさせます。

深い森のような落ち着いた室内には、さまざまな花と鳥がいます。

ここの内装は、16世紀後半ルネサンス期のフランスのアンリ2世様式。

柱などの直線や平行線を利用した、落ち着いた雰囲気の部屋となっています。

壁には四季の草加の中で戯れる鳥を表現した七宝焼、30枚で飾られてます。

七宝焼

花びらの1枚1枚や、羽毛の様子まで見事に再現されてます。

次にご紹介するのは「彩鸞(さいらん)の間」。

先ほどの「花鳥の間」とは雰囲気が変わり、白・金・赤の華麗な装飾の部屋です。

この部屋では天井に注目。まるで天幕のようなドーム型の天井は、

ナポレオン一世時代に流行したアンピール様式が取り入れられていて、

野戦の天幕をイメージしている。

こちらは、来客の控えの間や、条約などの調印式にも使われる部屋。

それぞれの部屋には、実際に接遇に使われている時などの写真も飾られています。

最後の「羽衣の間」は歓迎式典や晩餐会の前の食前酒を振る舞う場であり、

ここはかつては「舞踏室」と呼ばれていて、正面にはオーケストラボックスがあり、

演奏会に使われている。

謡曲の一節をフランスの画家が描いた天井画は天女が地上に降り立った気配の表現で、

天女は描かれていないが、舞踏会に集う淑女を重ね合わせる趣向と言われる。

迎賓館で最大、最も豪華なシャンデリアが、「羽衣の間」の3基。バカラ社のクリスタルガラスやボヘミアン・グラスなどが使用され、1基が7000ものパーツでできている。

賓客が使用される部屋や寝室などは拝観できません。

1時間半ほどかけて、ゆくりと拝観できました。

本館を見学し終えたら、入り口と同じ場所に出て、ここから本館の南側に向かいます。

途中の主庭の両側には記念植樹があり、西側には昭和49(1974)年、迎賓館での

最初の国賓、米国フォード大統領植樹のハナミズキ、隣には旧ソ連ゴリバチョフ大統領が平成3(1991)年植樹のフユボダイジュが有りました。

東側には英国エリザベス女王も植樹されてるそうです。

ハナミズキ(花水木)は、1912年にワシントン.に贈ったサクラの返礼として

日本に贈られた木として知られてますね。

家にも30数年前からハナミズキの白花が1本だけ植えてます。

南側には主庭が広がり、

その中央に位置するのが噴水は、創建当時からのもので、国宝に指定されています。

噴水は彫刻の石組みの上に青銅製の水盤を置いた構造で、中間の水盤の上にいるのは

シャチです。噴水塔を囲む縁石にいるのは亀、その四方を、鷺の上半身に下半身が

ライオンで翼を持つギリシャ神話にも登場する伝説上の生物「グリフォン」が

守っています。

噴水の位置が本館より低く設計されているために、列柱が並ぶ軽やかな南面の背景と見事に調和。

楽しんだ迎賓館。西側を周り北側の前庭を通って本館正面、前庭を通って

出口へと向かいます。

本館正面(昼頃は逆光になります)

前庭(北側)から見た本館(パンフ写真)

石造り鉄骨補強レンガ造りの組み合わせで、屋根は緑青。

中央に青銅製の阿吽の甲冑、少し離れて金の星を散りばめた天球儀と黄金の霊鳥が

飾られてます。

前庭では最近話題のアフタヌーンティーを頂くこともできます。

迎賓館の美しい建物を眺めながら、贅沢な気持ちでティータイムを過ごすのも

オススメです。

中門を向けて工事中の正門わきより迎賓館を後にしました・

まさに絢爛豪華、その中に和の美を取り入れた西洋宮殿。

ゆっくり過ごした良い寄り道でした。

再び若葉東公園を通って戻ります。

公園内には迎賓館赤坂離宮前休憩所があり、食事などもできる建屋がありました。

さあ、甲州街道へ戻り旅を続けよう。

旅は後編へ。