思い出旅・2012年 スイス (2)首都ベルンの1

そうだ、スイスへ行こうか! 続編

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7月12日、首都ベルン

バタン、きゅーで寝入ってしまったようですが、目覚めると

しばらくは、あれ?どこにいるんだ・・・・時差ぼけ?

そうだった、スイスへ来てたんだ。

時計を見るといつもの起床時間、AM5:00でした。

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思っていたよりも普通に目覚め、疲れた感じはなかった。

スイスへ来てるんだ!と気が高ぶっていたからかな。

カミさんも起きだしてきて、いつものように

モーニングコーヒー

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トランク出しがAM7:00なので、朝食はそのあとにして

散歩がてら薄明りの街歩きへ。

ホテルを出ると右手坂道下に橋があり、その先に尖塔などが見えるので、

街の中心街の様でした。

ホテル

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川はアーレ川のようです。

高い鉄橋を渡る列車。 f:id:hansui:20170123172140j:plain

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散歩と言っても全く土地勘のなしの、しかも外国の街。

迷子にならないようにと道をまっすぐに行って、ある程度進んだらそのまま戻る

ことにして橋を渡ります。

眼に映る街並みは異国情緒満点、まさに外国だな!!

いまここにいることが不思議な気持ちですね~

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まだ朝の6時を過ぎたばかり、通勤時間にも早いので人はほとんど歩いてません。

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 街角ではバキュームかな、清掃をしてる様子。

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正面を電車が横切って行く。

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左右に続く石畳の街並みはは旧市街になるのかな。

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う~ん、なんとも恐ろしい噴水塔(給水塔)の像。

「子喰い鬼の噴水」だそうです。

付近にあった危険な井戸に、子供たちが近づかないようにするため設置されたということですが、恐ろしい像を作ったもんですね。 

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20分ほど歩いて来たので。来た道をそのまま戻ろうとしたとき、

あっ、歩いてるぞ、あった!

パンフで見た歩く足。

どこにあるのか後でガイドさんい聞いてみようと思ってましたが、

なんと朝の散歩で見つけちゃいました。

正面の建物はCASINO、・・カジノなんだ。

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右手にトラムやトローリーバスが走っている、中世の街並みのような通りもあります。

架線が蜘蛛の巣のように四方へ張り巡らされてる。

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帰り道、橋のたもとの小さな公園に、ベルンの創設者、公爵ベルトルト5世の像が

市名の由来ともなった熊(ベア)に囲まれてひっそりとありました。

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 ホテルへ戻り、部屋前にトランク出しをしてレストランで朝食。

パンは確かに美味しいですね。

いろいろなチーズやハム、ソーセージ。

サラダもドレッシングが数種あって、美味しかった。

納豆が無いのが・・・・当たり前です。

ツアー同行の方々は済ませたのかゆっくりしてるのか、お会いしませでした。

 

続く

 

 

 

 

 

 

 

思い出旅・2012年 スイス (1)旅立ち

そうだ、スイスへ行こうか! 2012年

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2012年7月11日、AM9:45

飛行機は成田空港を飛び立ち、初めての、そして最後?(たぶん)の夫婦海外への

「スイス・アルプス膝栗毛」旅が始まった。(地図の青と赤線)

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振り返ってまずは、何と言っても素晴らしい添乗員さん(女性)だったことです。

よく旅の良し悪しは「添乗員」次第、と言われますが、まったくその通り。

差し出がましくなく、さりげなくしっかりとサポートしてくれる。

緊急対応の仕方も素晴らしく、海外初旅でも全く安心して旅が楽しめました。

あれから早5年、それでも昨日のことのように、懐かしく思い出してます。

 

「思い出旅・2012年 スイス」 旅ブログをはじめます。

 

2012年7月10日

二人ともパート仕事を終えて、いったん家に帰り

夜の地元発最終リムジンバスで成田へ向かい前泊。

よく11日、成田に集合したのは、私達を含め3夫婦でした。

そして添乗員さんとの7名での旅が始まりました。

 

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ルフトハンザ航空にて2回の機内食、永い永いフライト。

席はトイレに近い席と頼んであったので、後方の気兼ね不要二人席。

ドイツ・フランクフルト乗り継ぎ便にて、ついにスイス・チューリッヒ空港着。

 時差修正、11日 PM5:30

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緊張した入国手続きも、「こんにちは」の挨拶で済み、ビル出口前には

50人乗りの大型バスが待ってました。

なんとそれに乗るのは、3夫婦と添乗員さんの7人!!

帰宅ラッシュのチューリッヒから高速道入り。

車窓に流れる風景は、異国情緒たっぷり(ははは・・当たり前だ)。

村や町に教会の尖塔、石造りやログハウス風の家々。

じわ~と、外国へきてるんだな~・・・、と実感は深まってきます。

 

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PM8:30、スイスの首都ベルン着。

添乗員さんが用意していた、ホテル内での案内や部屋やエレベーターの使い方や

明日のスケジュール表。

ホテル内は部屋やエレベーター利用は、カード形式になってました。

(ホテルの窓から)

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 広いバスタブゆっくりと湯につかり、長いフライトの疲れをとりました。
今晩は夕食が有りません。
私たちのドライブ旅などで使うことが多い、カップ天麩羅蕎麦で遅めの夕食。

晩酌イッパイは、これも持参の紙パック麦焼酎のお湯割り。

無事到着、乾杯!!
PM11:00頃、さすがバタン・キューで爆睡。

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 続きます

思い出旅・2012年 そうだ、スイスへ行こうか

第二の人生に入って、17年。

後期高齢者の仲間入すら、はや2年。

先日、ある旅のメモを確認したくって、詰め込んでた箱を開けてみた。

2年前の癌発症時、少しは整理したつもりの旅のメモや写真が、

まだいっぱい入っていた。

その中に何種類かのスイス旅行の資料などが残されていた。

外付けドライブに保存してる写真を開き、懐かしきスイス旅の世界に没中。

結婚して40周年に当たる2011年新春のある日、TVで放映されたスイス旅。

カミさんの「いいわね~」の呟きで、そうだ「スイス」に行こう!。

あれこれ急ぎ調べて、ツアー申込直前に、あの大震災と原発事故が発生。

親友の被災などもあて、なんとも気持ちが落ち着かず一旦中止。

そして1年の歳月が流れ、2012年春に再び旅への仕切り直し。

あらためていろいろ調べ始めの、旅立ちへの準備。

二人で初めての海外旅行はスイス。

そして

1、観光だけでなく、二人だけで山岳高原のハイキングをしたい。

2、山岳での夜明け日の出を迎えたい。

3、中世風情の都市観光もしたい。

4、可能な限り少人数でも催行する

5、外国語は全く苦手な夫婦でも「なんとかな~るだろ~お~」の国

そして少しは山歩きをしていた夫婦が選んだのが、

2名以上催行の「スイス9日間旅ツアー」でした。

はてなブログに、中山道街道旅を記録してきましたが、

残っていたメモや資料、アルバムなどで、いまでも昨日のことのように思い出す

ことが有る、スイス旅振り返りブログを記してゆことに。

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本文へ・・

 

歩いて再び京の都へ 旧中山道夫婦旅 (第13回) 松井田宿へから坂本宿 後編

12月17日、旧中仙道歩き旅、第13回 

>街道の面影を残す緩く蛇行する道は、横川集落へと続いてゆき、丸太道標には
、⇒坂本宿2.5km。<

後編。

 

丸太道標、⇒坂本宿2km。

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北側を山、南側を碓氷川が流れる谷あいの横川も空き地が目立ち、ほとんど車も

通らず、静まり返った集落を進みます。

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前方に「峠の釜飯」の看板が見えてきました。

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街道角に釜飯のおぎのや、坂下南側突き当りが信越線終着駅、横川駅、

駅には先ほど出会った蒸気機関車D51に引かれた列車が停車中。

ホームは家族連れや撮り鉄さんで大にぎわい。トロッコ機関車も動いてた。

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ちょうどお昼なので、駅前のおぎのや食堂で釜飯とお蕎麦を半分ずつ食べて昼食。

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街道に復帰、右手石垣上に御嶽山碑、矢の沢川沿いに庚申塔や二十三夜塔。

謎の癒しどころ?

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先に大名が関所通過のために、身支度を整えたといわれている武井茶屋本陣跡、

隣が横川の鎮守・諏訪神社(庶民は神社で??)

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持参街道案内には左手に、雁金屋茶屋本陣跡と記されてるが、確認できなかった。

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中仙道に二か所置かれた関所の一つ、碓氷関所の東門跡。

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右手石垣上に昭和35年、碓氷関所跡として復元され、当時の東門が建ってます。

慶長19年(1914年)仮番所が置かれ、元和8年(1622年)番所となり、

翌年家光上洛に際し関所となった。

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尚、関所跡には資料館もあったが、今は通年開館はしていない。

見学の場合は事前に管理者に電話連絡が必要で、番号が記載されています。

 

無事関所の詮議も終わり坂道を下ると、碓氷川に架かる川久保橋。

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橋を渡った先は横川地域から「旧原村地域(現松井田・原、)。

右手に国道を離れ旧中仙道は「薬師坂」の石碑が建つ急坂へと進みます。

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道路整備で居場所が狭くなったのか、碓氷峠越えの無事を願って祀られた、

川久保薬師堂と湧水。

この湧水を使った心太(ところてん)を食べさせる茶店があり、心太坂とも

呼ばれたそうな。

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200mほどの急坂道を上り切ると、まだコンクリも新しそうな、

整備された旧国道18号(旧中山道)へ飛び出します。

丸太道標には、⇒坂本宿0.9km。

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風も収まりだいぶ暖かくなてきた、坂とも感じないほどの上り道を進みます。

左手に白髭神社への案内板が立ち、導かれてはいると大きな庚申塔、二十三夜塔

なとが置かれた白髭神社が祀られてます。

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持参街道案内によれば、白鬚神社の御祭神は猿田彦で、総本社と言われるのは、

滋賀県の琵琶湖西岸に鎮座してる。

「そういえば、隣の市にもあるね」てカミさんが思い出してました。

*「由緒書に、麻苧の滝(あさおのたき)のことが書いてある。

確か寄ったことがあった」

と帰宅後確認してみると、13年前に長野の帰りに、滝に寄っていた。

CDに保存してあった滝のフォット*

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しばらく進むと上信越高速道高架下に、村内を流れる用水路の起点に祀られた

旧原村の「水神宮」

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高架下右手石垣上に公衆トイレが整備されていて路肩に駐車スペースも

とってありました。

 高架下を過ぎると、大きな木柱に名を記した「原警察官駐在所」

なぜ木柱が建ってるのかな?

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正面に、で~んとそびえるのは刎石山(はねいしやま)。

中山道はあの山を越えて碓氷峠へと登って行くんです。

ほぼまっすぐ続く坂本の道。13年くらい前、2度ほど車で通ったことがあった。

記憶では歩道幅のない二車線道だったが、いまは平成20年から始まった

歩道など拡張整備にて、広々とした明るい道に様変わり。

道の真ん中を流れていた記憶の用水が、向かって左側に寄っている。

つれて、新しい感じの家屋も多いような。

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右手に文化9年(1812年)立てたと言われる、巡礼供養塔があり、

すぐ先は坂本宿・東の木戸口跡。f:id:hansui:20161220121918j:plain

薬師坂を上ってから30分ほど、木戸を模した柵、坂本宿・東の木戸口跡。

 

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坂本宿

江戸から17番目、34里14町47間(約136km)

中山道宿村大概帳(天保14年・1843)によると、宿内家数162軒、うち本陣2、脇本陣2、旅籠40軒、人口732人、町並6町19間

往還の南側に79軒、北側に82軒が軒を連ねていた。

参勤交代の実施に伴い、碓氷峠の登り口に宿場が必要となったことから、

寛永2年(1625年)3代将軍家光の時代に、安中・高崎藩の領民を移住させ

集落のない地域に計画的に作られた宿場であった。

幅12.5mの道路が一直線に続き、道の中央に幅1.2mの水路があり、

水路には17箇所に石橋がかかり、整然とした街並みが整備されていた。

江戸期には31もの大名が参勤交代の為に坂本宿を往来していた。

上州路最後の坂本宿は、東に碓氷の関所、西に難所の碓氷峠を控え大いに賑わたと言われます。

(栄泉画・坂本宿)

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車道と歩道の間を用水が流れる、新たに拡張された中山道を進みます。

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江戸時代より道路は拡張されてると思いますが、両側の主な家々には、当時の

屋号などの木札が架けられている。

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木戸から少しすすんだ左手、奥まった民家の前に下の本陣と呼ばれた「金井本陣跡」

と持参街道案内には記されていたが、見逃したかわかりませんでした。

当時は屋敷360坪(約1,200m2)、建坪180坪(約594m2)、

玄関、門構え付きの建物で、皇女和宮も宿泊したと説明板に記されてると

ありましたが。

街道筋に、間口が狭く、かなり奥行きのある空き地が、何か所か見られます。

租税対策とよく言われる、街道沿いに立つ家々の独特のスタイルで、間口を狭く、

奥行きの深い家屋があったのでしょう。

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右手に郷土の文化人、俳人の生誕の家があり、

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左手に金井本陣と共に問屋を兼ね、上の本陣と称された「佐藤本陣跡」

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尚、本陣は明治になって坂本小学校が開校された跡でもあり、その後佐藤家は

他所移転され、現存の家屋はそのあと明治3年に建てられた建物です。

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つづいて門が残っている、脇本陣「みようがや」跡。

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斜め向かいに、こちらも当時の門を残している、脇本陣永井家。(現在もお住い)

3年ほど前に修復工事をされたとか。維持するのもご苦労があるでしょうね。

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北側奥にある坂本小学校への道を隔てて、隣は現坂本公民館となって居る

酒屋脇本陣跡。

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2軒おいて、先祖が高崎藩納戸役鍵番だった、元旅籠「かぎや」

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 小林一茶にの定宿「たかさごや」

この時代、坂本宿では俳諧・短歌が隆盛で、ひとたび一茶が草履を脱ぐと近郷近在の同好者が集まって大変賑わったのだとか。

若山牧水が泊まった「つたや」

牧水がふと耳にした糸繰り唄に、思わず
 *秋風や 碓氷のふもと 荒れ寂し 坂本の宿の 糸繰りの唄*

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牧水の詩は時代が進み鉄道が敷かれ、さびれてしまった宿場町にいだいた気持ちでしょうね。

江戸へ三十四里、京へ百二里、

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ここも空き地になっている。だま表札が残されていた。

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刎石山(はねいしやま)がぐ~んと大きくなって、坂本宿もそろそろ終わりです。

港屋跡を過ぎ、

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「いげたや」跡で坂本宿街が終わりました。

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少し先に木戸があり、二つの石碑があります。

手前のは常夜燈道標の胴部分で、灯すところは上部分は失われてます。

碓氷峠からも灯りが見えたそうです。

後ろのが用水に架かっていた橋の「橋供養」の石碑

 

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坂本宿、上の木戸跡(京口)、12月17日(土)PM1:47

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  旧中山道69次、武蔵、上野国、17宿を通り抜け、次回は最大の難所と言われる

碓氷峠を越えて、軽井沢宿・信濃の国へ入ります。

今回訪れた五科茶屋本陣の管理されてる方から、「5月の第2日曜に行われる

安中遠足(侍マラソン)時に、山道整備をするので、歩きやすくお薦めです」

とアドバイスをいただきました。

それまで、冬眠していられるかな??

 

まだ少し時間が早いので、国18号旧道から峠道への分岐まで見分に足を延ばしました。

碓氷峠山中の、四軒茶屋手前にあったのを、上の木戸前の用水路脇に移設した

芭蕉の句碑。

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寺院建物がありませんが、時代を感じる墓石の並ぶ阿弥陀堂・清松寺。

本陣を勤めた金井家などのお墓があるようです。

おや、墓石に刻まれた「天と地」、永井家とあるが脇本陣の家かな?

馬頭観音や、俳句碑などが建ってます。

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創建は景行天皇40年(110年)に、日本武尊の分霊を勧請したのが始まり

と伝えられ、碓氷郷の産土神として信仰されてきた、坂本八幡宮。

赤い鳥居に本殿もちょとモダンアートの彩色。

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 鳥居前で休まれていた方は、軽井沢宿から碓氷峠を下って来た旅人ご夫婦でした。

少し先に「安中遠足峠コース」の標識が立っている。

ガードレールの切れ目から左手に延びるのが、碓氷峠への山道の始まりでした。

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いつの日かこの道を先へ進めることを願って、戻ります。

JR信越線横川駅へは、先日歩いた廃線鉄道路線に作られたアプト道を利用しよう

と向かうと、横川と峠の湯間を走るトロッコ列車が運行されてました。

蒸気機関車運行に合わせたイベント運行だそうです。

さっそく乗車してJR横川駅へ。

まだSL運行で賑う横川駅を後に、信越線に乗り換えて一駅、西松井田駅へ。

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午後6時、帰宅。

13回目の中山道の旅を〆ました。

上野国 終。

 

 

 

 

歩いて再び京の都へ 旧中山道夫婦旅 (第13回)松井田宿から坂本宿へ  前編

>平成28年6月18日、3年半をかけて東海道五十三次を旅し、
京の三条大橋に立ちました。
そして夫婦は旧中山道69次の旅、再び京を目指して歩いています。

 

>12月10日、午後4時17分、西松田駅前で12回目の街道旅を終えました。<

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寒気が流れ込み、16日は西日本各地で初雪が観測された。

家周りも雪が降ったか、と思わせるほど畑は真っ白な霜が降りていた。

明けて17日早朝、再び今年の〆となる街道旅へ出発。

予報では風も収まり日中は平年並みになる由だったが・・。

高速道を走り、前回の旅でも使用した、群馬県松井田町・JR西松井田駅・駐車場へ。

青空が広がるもまだ朝の厳しい冷え込み、そして強めの西風。

AM7:50、14回目の旅立ち。

真後ろに雪帽子の浅間山と左手に妙義山。そしてほんわり浮かんでるお月さん。

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 200mほど北へ行く東西に延びる旧中山道、県33の駅入り口十字路。

向う側へ渡ると数本の赤松下、墓地入口付近に、大小たくさんの庚申塔

馬頭観音などが並んでます。

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向かいが曹洞宗・補陀寺(ふだじ)。

(補陀寺・概要)市資料より抜粋

 補陀寺の創建は応永年間(1394~1428年)、無極慧徹禅師(肥前国出身、

室町時代曹洞宗の高僧)によって開かれたのが始まりと伝えられています。

歴代の領主である安中氏、武田氏から庇護され、天正10年(1582)からは

小田原北条氏の北条家三家老とも言われた、大道寺政繁が当地に配されると自らの

菩提寺としました。

天正18年(1590)、秀吉の小田原征伐の際し松井田城を一大要塞に大改修し、

寺も城郭に取り込み補陀寺郭と称されました。

小田原の役が始まると前哨戦の碓氷峠の戦いで敗退し、大道寺政繁は松井田城に

1ヶ月にわたり立て籠もりましたが前田利家上杉景勝真田昌幸が率いる

35000人の軍勢の前に屈します。

その後、政繁は豊臣軍に従軍し忍城や武蔵松山城鉢形城八王子城攻防戦などに

参加し大功があったものの小田原城が落城し北条家が滅ぶと切腹させられ、

松井田城も廃城となります。

「政繁の豊臣軍に対する貢献は非常に高いものでしたが、結果的には切腹になった為、江戸時代に加賀藩前田家の大名行列が通過すると政繁の墓が「悔し汗」をかくと噂されました(政繁と前田家には密約があったが反古にされ怨まれたとも)。

その後、補陀寺は現在地に再興された。

山門は切妻、桟瓦葺、本堂は寛政8年(1796)に再建されたもので寄棟、銅板葺、桁行9間。境内には政繁の墓碑と伝わる宝篋印塔が建立されています。宗派:曹洞宗。本尊:釈迦如来准胝観世音菩薩

本堂

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大道寺政繁の墓所は訪れませんでしたが、本堂裏手にあるそうです。

境内内には由緒書きが無かったような・・・

尚、大道寺政繁の曾孫にあたる大道寺友山が、客分として会津藩にいたとの

説があるようです。

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中仙道に面した山門前に大道寺の墓があることを示す石碑と、寺域が松井田城跡の

説明板が立ってます。

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正面に浅間、左手に妙義山の異様を見ながら少し足を進めると、街道は左手下りの道へと入ってゆきます。

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右手に二基の石塔。一つは道祖神とあるが、もう一つは読めません。

後ろの溜池に氷が張っている。気温はかなり低いです。

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少し先、民家と民家との間に江戸から32番目になる、新堀の一里塚跡の案内板が

立ってます。

10m奥の民家の庭に、塚が残されていると記されてました。

少し先の道を左手に回り込むと、石灯籠のある庭が見えましたが、

ここが塚の名残かもしれません。

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そういえば、中山道分間延絵図:新堀の一里塚の画に溜池が描かれてるそうです。

先ほどの道祖神の後ろに溜池がありましたが、それが江戸時代からあった溜池??

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坂を下りきったところでJR信越線突き当り、そこで右手に街道をはなれ、

国道18号を切通しにかけられた橋を山側に渡ると、諏訪神社の小さな鳥居。

荒れた参道が奥へと続いてゆきます。

200mほど山奥の神社付近が、先の補陀寺山門そばにあった案内板、松井田城址

西郭(くるわ)の場所だそうです。

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神社には寄らず、右手に下ると金剛寺

(市資料より)

金剛寺安中市松井田宿)概要: 金剛寺の創建は長元年間(1028~37)、碓氷峠が毒蛇の棲家となり村人達が困り果てていたところ、源頼光の家臣碓氷定光が

弘法大師が自ら彫り込んだと伝わる十一面観音に祈願しました。

すると観音様の化身が現れ見事毒蛇を退治する事が出来た為、定光は観音像を

本尊として堂宇を建立しました。

その後、一時衰退しますが応永元年(1394)に慶秀僧都が中興、何度か火災に

あい貞享2年(1685)と享和3年(1803)にそれぞれ再建しています。

境内は広く整備され、東国花の寺百ヶ寺や関東八十八ヵ所霊場第三番霊場、十一面観世音菩薩、としても信仰を集めています。

山門は単層、切妻、桟瓦葺、三間一戸八脚門。

本堂は寄棟、銅瓦棒葺、平入、桁行8間、梁間6間、正面1間向拝付、

外壁は真壁造、白漆喰仕上げ。 

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街道に戻り線路に突き当り。本来の旧街道は踏切を渡て南側へ延びてゆくのですが、

現在は先が消滅していて、今の旧中仙道は線路に沿って西へ向かいます。

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300mほど進むと、第10中山道踏切を南側に渡り、街道は西へ向かいます。

まだ気温は低く、時折吹き付ける北西の風が冷たい。

線路沿いに何台かの車が止めてあり、線路柵側に、大きな三脚が数台。

なにか特別な列車が走るのかな。

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踏切を渡り緩き坂を下りながら、右に左に街道はカーブしながら続きます。

上りになったところに、大きな岩を台座に安置されて、地蔵尊

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傾斜道を行くと、国18号との出会に、丸太道標や、文政10年(1827年)立てられた、二十三夜塔、明治になってからの山灯篭があります。

街道は国18号を横断ですが、信号のある交差点は50mほど先。

車の行き交い安全を確認して、ガードレールの切れ間を「それ!!」と横断。

ははは・・よい子の皆さんはマネしないでね!のテロップが流れるところですね。

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高速上信越道を抜けて進むと、間の宿でもあった松井田・五科集落。

理容店脇に庚申塔、二十三夜塔。

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松井田付近から塔が大きいわね、てカミさん。

そうです、割と大きい塔が多いんです。

街道らしい五科集落を行くと、→茶屋本陣の木柱標識。

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右手に道に入ると民家の庭に、五科村高札場跡の板案内。

奥JR線の踏切を渡ると、茶屋本陣跡。

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JR信越線を「お東踏切」を渡ると二軒の茶屋本陣(跡)

「お西」が本家、「お東」が分家のともに中島家が勤め、名主も兼ねていた。

文化3年(1806年)の大火で焼失したがすぐ再建され、お西は昭和48年(1973年」)お東は平成4年(1992年)、それぞれの中島家から市に寄贈

され、現在は公開されている。

(お西)

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(お東)

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お西の2階は資料展示室となっていて、生活道具、古文書また地域出土の

古代土器などなど大変貴重な品々が展示されています。

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管理されていた女性との話の中で、今日はSLが走ると、教えていただきました。

撮鉄さんが並んでいたのが納得です。

ゆっくり拝見し、帰りにはいろいろなパンフも頂きました。

ありがとうございました。

東本陣をでて隣に、杉木立の中に石塔や石祠が建ってる所がありました。

近寄ってみると石畳みが敷かれた参道らしきものが、線路方向へ延び、

脇には石塔も数基ありました。

先に小さな鳥居が建っているので、線路が分断する前は神社として祀られていたんでしょうね。

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 街道に戻り旅を続けます。

天徳4年(1714年)立てられたと言われる男女双体道祖神

街道案内には、村境に立つとありましたが、横川村との境だったのでしょうか?。

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街道は道なりに進んで榎踏切で信越線を横断、山裾の道、丸山坂となって

上って行きます。

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丸山坂の道端の草むらに丸石の道祖神、坂道山側に数基の庚申塔、石仏。

左手崖上にも道祖神

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そして坂を上り切った小さな峠上に、妙義山を背景に夜泣地蔵尊と大きな石。

*昔、ここを通った馬方が荷のバランスをとるために脇に落ちていた地蔵の首を乗せて

深谷まで行き、首をそこに捨ててしまった。

その後、夜な夜な「五料恋しや」と泣く声が聞こえるので、深谷の人が哀れに思い、

この首を拾い五料まで運んで、胴に乗せてやったという*

そういえば東海道の浜松宿だったかな、やっぱり泣き地蔵さんが居たね。

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手前に小石が乗ってる大石が、案内板に石で 叩くと空の茶釜のような音がすると

書かれていた「茶釜石」

カミさんが何か所かたたいたら、あら音が変わったわ!

確かに一か所だけ鈍い音から、軽い金属音のような響き。

こんな大きな石、どこから来たんでしょうね。

 

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坂道を下るとのどかな里山風景が広がってます。

大きな桐の木が三本、空を突くように立ち、桑畑には観音像の立つ馬頭観音

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少し先にも文政十年と刻まれた馬頭観音さん。

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一段高い傾斜地に常夜燈と二十三夜塔。

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 のどかな里山集落を抜け坂道を下ると、丸太道標。

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 馬頭観音を見ながらさらに道を下ると信越線路わきの道へ。

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さっきから里山の 細い道を何台ものも車が行き来してました。

少し先に街道歩きの方々の話題になる「御所平踏切」があります。

信越線は伏線で手前が上り線、踏切を渡ると一段下がって国道との狭い間に

下り線が通ってますが、ははは・・・・話題のように下り線に踏切が見当たらない!

国道側はガードレールで切れ目もないんです。

きちんと整備もされてる踏切ですが、何のための踏切なんでしょう?

下り線の手前側が幅は狭いが畑の様です。まさかその畑へ行くだけの踏切??

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謎の踏切から300mほど行くと高墓踏切という変わった名の踏切で線路横断します。

線路の南側に広がる里は御所平地区。

踏切手前、山斜面の杉木立の中に雨覆(屋根)を載せた赤い両部鳥居と石段奥に

碓氷神社。

創立年代は不明ですが、碓氷峠熊野神社の里宮だそうです。

ご由緒によると、建久年間(1190-99)には源頼朝の信州浅間の牧狩りの際,当社に

祈願し境内に御所を置いたため,以来この地を「御所平」と呼ぶようになった。

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神社前の線路沿い道は何台もの車が行き来し、路肩駐車もしています。

SL運行目当ての撮影スポットのようです。

神社横に石積みで一段高くなったところに墓地があります。それで高墓踏切?

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踏切を渡り国道18号を横切って、リンゴ畑や石仏石塔を見つけながら、

どかな御所平集落を歩きます。

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 街道は国道18号に当たり、少しの間合流しますが、18号の右手にコンビニが

あったので、トイレをお借りし、Caféタイムで足休め。

SLが来たよ!の声に表に飛び出すと,D51蒸気機関車に引かれ列車が通過中。

う~ん、味がありますね・・・思いがけないプレゼントだ。

 

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 Caféタイムを終えて国道を10mほど行き、右手に石の祠がある

小山沢川を歩行者用橋で渡ると地名は横川。

すぐに小沢山信号で旧中山道は国道から離れ左手へ坂を下ってゆきます。

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100mほどの短い旧道歩き、再び国道との出会い手前、欅の木脇に

百合若大臣が妙義山を射抜いた伝説の「百合若大臣の足跡石」

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妙義山中には二つの穴が開いた星穴岳という岩峰があり、それが射抜かれた

穴なんだとか。

百合若大臣が射たと言われる弓矢が、妙義山麓の妙義神社に奉納されているそうです。

どこかで似たような伝説話を耳にしたような・・・

同じ場所の右手に、謂れは不明の龍を掘った石碑が立ってました。

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左手に石の祠に石仏、両脇に石灯籠。

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 旧中山道は国道18号と合流、

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 400mほど進み下横川信号で国道を横断、さらに第15中山道踏切を渡って、

線路右側を横川集落へと向かいます。

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 集落が近づいた土手には早春の花がもう咲いています。

名が可哀そうな小さな青い花は「オオイヌノフグリ

ピンクの「ホトケノザ」に「冬知らず」の黄色い花。

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街道の面影を残す緩く蛇行する道は、横川集落へと続いてゆき、丸太道標には

、⇒坂本宿2.5km。

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旅はさらに続きます。

後編へ

 

 

 

 

歩いて再び京の都へ 旧中山道夫婦旅   (第12回) 安中宿駅から安中、松井田宿へ  後編

*300m程進んだ左手「安中上野尻郵便局」の駐車場隅にポツンと石碑が建ってます。近寄ってみると「安中大木戸跡」で、上ノ木戸跡(京口)かな。
AM11:10、江戸から15番目、安中宿を後にします。

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旅の後半へ入ります。

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右手奥に愛宕神社。この神社も前方後円墳の墳丘上に鎮座しています。

 御祭神は火産霊命で火伏せの神様。例祭のなかに鎮火祭(2月13日)があるそうです。

神社の街道沿いに常夜燈が建ってます。しばらく出会わなかったな~・・

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過ぎて道の南側に大きな石碑、板碑、矢印標識が案内する、安中宿では頻繁に

名前が出てくる新島譲の旧宅入り口。

側に弘化4年(1847年)建立の道祖神もありました。

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これでもかと思われるほどたくさんの案内に導かれて、何度か曲がり行くと、

萱葺屋根の家屋が見えてきます。

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新島襄旧宅、市指定史跡。

元は100mほど離れた場所にあった建物を移築している。

郊外ともいえるこの地に武家地があるのは、廃藩置県の時に江戸から引き上げた

藩士のために急遽用意されたためでした。

同志社大学の創始者の新島襄は、江戸神田一ツ橋の安中藩邸で生まれた。  

新島の両親が住み,彼自身も米国から帰国したあと3週間ほど住み、

布教などをしたという。

「あら、住んだのじゃなくって滞在したということね??」て、カミさん。

ははは・・そうだけど両親がいたんだから実家なんだな・・・・

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裏には,安中藩主板倉勝明が殖産興業策として、漆100万本を植えさせたと言う

ことを記念した「漆園の記」石碑がある。

事業はうまくゆかなかったとの説があるような。

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新島襄といへば、2013年の大河ドラマ「八重の桜」の主人公、

山本八重の夫ですね。当時は安中もフィバーしてたかな。

*八重の桜*HP

http://yae.taigadrama.org/

ちなみに来年の大河ドラマは「おんな城主 直虎」

こちらは高崎城主でもあった、井伊直政を勇猛な武将に育て上げた、

義母?はとこ?の物語。中山道つながりだね。

(このブログを作成していたら、「直虎」は男との新資料がでたそうな)

おっと、街道旅でした。

館で教えていただいた道筋を通り、中山道に戻ると県125は

県48となってました。

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まだ、2kmしか歩いてない!

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右手に安中総合学園高前交差点で、交差する国道18号を案内書のとおり横断し、

原市地区に入りました。

「あれ、史蹟天然記念物安中原市ノ松並木碑を見てないよね?」

「案内書は新島旧宅入口のすぐ先、迂回道で街道に出たので通り過ぎてたね」

松並木は枯れちゃったって、いう説があったからな・・

すこし風はあるが、歩きにはいい気温、どんどん快適に足を進めます。

庚申塔もないね・・・なくなったのよ~・・」

そのまま足を進めてると、「よさそうなお店がある、お昼にするか」

で、今日はイートンコーナーでなく「お食事処」

当たりね、おいしかったわ、てカミさんもご満足。

食後のコヒーもいただいて再び街道へ。

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前方に見え隠れする妙義山

「安中と言えば、ずーと昔、梅を見に来なかった?」

「安中秋間梅林に来たことあったな・・」

「帰りに妙義山山麓の日帰り温泉のも寄ったね」

あれ、道祖神も見逃したか?なんて言いながらトントンと足を進めてしまいます。

まだしばらく、変だな?と思いながらもおしゃべりしながらすすむと、

「あれ?あれは資料にある、旧碓氷本社の建物では?」

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これは国道18号の左側にあるんだぞ!

はい、国18号と交差したところからは右手斜めに県48へ行くのに、

なぜか国道18へ足を進めてしまってた。

しかも2km近くも気が付かないで・・・・

ふふふ・・江戸の旅人なら行倒れね、・・なんてカミさんは面白がってるけど、

まじめにそうでした、行倒れ供養塔が東海道でいっぱいあったな・・・

参*旧碓氷本社、群馬絹遺産HP*

http://www.silk-mulberry.com/gunmakinuisan_usuisha.html

右手に交通安全観音様とこけし仏?おおきな事故があったのかな?

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「歩いたのは現代中山道だ、江戸時代からタイムスリップさせられたんだよ」

「交通安全観音様、なにかイミシン」ね、なんて言いながら、先を右折すると

県126となった旧中山道に合流で、間の宿原市をスルーです。

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もどった街道を少し進むと八本木の立場跡。

左手に、「御休所 山田屋卯兵衛」の八本木旧立場茶屋跡。

「志がらきお茶漬け」というのが名物であったそうな。

(表札があったので今もお住いかな)

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その向かい右手は、八本木地蔵堂。

本尊は,頭は剃った坊主頭で体には袈裟と衣をまとい、室町時代初期のもの。

秘仏としてご開帳は百年目ごとにする定め、とありましたが、お堂を覗くと

お姿が見えたので、100年ごとのご開帳はなくなった?

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 境内には,安中最古の庚申塔などが沢山並んでいる。

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八本木地蔵堂から道祖神などを見ながら、街道雰囲気の緩い上り道を約1km街道を進むと、郷原地域に入ります。

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さらに700mほど進むと、丸太道標、松井田3.4km安中5.7kmそして

文化9年(1812年)建立、馬頭観音

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もう蝋梅が咲き始めてる、早いですね・・・

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すぐ先に村社日枝神社

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拝殿の前に神楽殿が建ち、その神楽殿下をくぐって参詣するという珍しい様式。

創建年代不詳だそうで、社殿は明治44年再建。

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そうそう、境内には七福神。横一列も珍しいね。

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神社鳥居隣には立派な文字青面金剛塔や庚申供養塔群が建ってます。

おや、供養の「養」が見慣れない漢字?羊篇に良という字で、塔も違いますね。

大きいので気が付いた。

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隣は開かずの山門(薬医門)との噂の真言宗豊山派・自性寺がある。

開基は不詳。一説に保延元年(1134年)開創とする寺伝があるそうです。

本尊に大日如来を祀っています。あの新島襄の先祖の菩提寺だそうです。

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境内に宝篋印陀羅尼経を収めた宝篋印塔が2基あり、市指定重要文化財

向かって左側の塔は、応永3年(1396年)製作で総高95センチ、塔身四面に

月輪が刻まれ、その円内に胎蔵界四仏が陰刻されています。

右側の塔は、嘉吉3年(1443年)製作で、総高93センチ、基礎に「一結諸衆」の

銘があります。

いずれも相輪、笠、塔身、基礎からなる関東形式の宝篋印塔だそうです。

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境内左手の墓地を通り、街道へ向かう途中の墓地内に、「釈迦堂」がありました。

ちょっと覗いた感じではお堂というよりもの置き場。

野辺送りの葬送道具類置き場ではないかとの説がありました。

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正面に妙義山を望みながら街道をゆくと、右手に丸太道標 (松井田2・9km

安中6.2km)、そして安政3年(1774年)道祖神、百番供養塔。

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だらだら上りの県道216号てくてく進むと、磯貝雲峰旧宅跡。

跡というより表札が有るので、磯貝家ですね。

磯貝雲峰は、旧九十九村下増田の出身の明治時代の文人だそうで、

同志社を出、28歳の時渡米。帰国後は中央文壇で活躍したが、32歳で亡くなった。  、安中市松井田町に雲峰の碑があり、彼と交友があった徳富蘇峰の撰文や、

裏面には雲峰の詩 「 早蕨を 折りし昔よ 偲ばれて 恋しくなりぬ ふるさとの山 」

が刻まれているそうです。 

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持参の街道案内には、道路向かいが高札場跡で、木製標識があると記されてるが

見つけられない。(住宅の生垣の中にあったようです)

少し先右手に原市小学校郷原分校。

入口に新しそうな看板「イノシシ出没注意」!!!

先日もイノシシ被害が報道されていた、旅も要注意だ。

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街道案内には、分校先に江戸より31番目、郷原一里塚跡が記されているが、それらしき式景観は何もなし。

中山道一里塚研究」HPをお借りすれば、中山道分間延絵図というのに、

高札場の西先に描かれているのでこの付近にあったことになる。

(右〇・日枝神社、中下〇・高札場、左上〇・分校、左〇2・一里塚)かな?

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街道は、まだ緩く上り坂道がを続いてゆく。丸太道標は、松井田2.4km。

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先の左手民家前に祠の道祖神が祀られていて、少し先には丸石の道祖神

そして街道は緩く下りが始まってゆく。

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右側に、古そうな民家に「 荒木流山中秀次郎道場 」 と書かれた看板があった。 

道場らしくなけれど??

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さらに道を下ると丸太道標がり、街道はこの先で左手から延びる国道18号に

分断されます。

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「あら、道路標識に飛脚の絵」「ほんとだ、こりゃシャレてるね」

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国道18号を信号で横断し南側にわたると、郷原の妙義道常夜燈。

文化5年(1808年)郷原村の妙義山講が建立したもので、妙義神社参詣者への

道しるべ。

解説板には、ここから東50mほどの中山道から、妙義道への入り口にあったのが

昭和63年3月現在地に移転されたと記されてる。f:id:hansui:20161214103407j:plain

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妙義山妙義山は700万年前に形成されたと言われ、浸食・風化により険しい斜面となり、多数の奇岩石門群をみることができます。

おおきな道祖神の脇に、歌碑がひっそり置かれてます。

後ろの解説板によれば、

「山中貞輔碑、中後閑より郷原の山中氏へ養子に来て十二代目をつぐ、

剣撃の師範・山中秀次郎の父、板鼻の山中三郎の祖先である。

学問にたけており江戸時代から明治 の初めにかけて寺子屋を開き、

弟子たちが師を 偲んで建てた碑である。

「 月の入る 西の都を さして行ば 帰らぬ旅に 迷路もなし 」

先ほどの謎の道場跡、山中秀次郎は子孫でした。

そこから国道の土手沿いに東左手へ下るの道があり、脇にこんな板碑が。

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先祖の菩提寺は先ほど訪れた「自性寺」だった。

お寺の飛び地墓地があるのかな??

(あとで調べたら、下ったところに古そうな墓石が並ぶ墓地があるようだ)

再び国道を横断し北側へ合流地点へ戻ります。

中山道は、18号に合流する手前右手に、伸び放題の竹やぶが頭上を覆う

薄暗い急坂へ。

おっ、街道ランナー(安中安政の遠足か?)がとっとっとと追い抜いていった。

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このあたりが広重中山道69次の安中画地点と言われています。

 

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付近は上り下りの坂道になって居たようで、逢坂(大阪)と言われていたようです。

街道は国道18を大阪地下道でくぐり抜け、南側に抜け出る。

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景観を見るために、地下道を抜けて左手、国道18号から下ってくる側道を

戻るように上る。

眼下に碓氷川、右手に妙義山の偉容、いい眺めだ・・・

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街道へ戻る途中に、これが郷原木戸長役場跡の板碑かな?文字が薄れて全く読めない。

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右手生い茂る木々下にたくさんの石塔群。

並び方や型から古いの墓地のような気がする。

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二つの分岐をいづれも右手に取り進むと、国18と分岐し下って来た、

県33号渋川松井田線となり、松井田宿0.9kmの丸太道標が建っている。

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正面に雪を頂く浅間山を見ながら、傾斜を感じなくらいの坂道を下て行く。

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500mくらい行った右手のホームセンターで、トイレ休憩と足休め。

敷地土手に馬頭観音庚申塔、そして妙義、浅間の姿。何度見てもいいね~・・

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足を進めると下町地区で下町の交差点。

中山道松井田宿の丸太道標地が松井田下木戸(江戸口)跡。

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この付近には伝衛門脇本陣があったということだが、示すもの無し。

下町交差点を左折して進むとJR松井田駅

安中藩松井田宿、江戸から16番目、31里35町40間(約125km)

(天保14年(1843年)中山道宿村大概帳によれば、

宿道幅3間半~6間半(6~11m)

宿内、1009人,家数:252軒,本陣:2(両家が問屋場と村名主を兼ねる)

脇本陣:2,旅籠:14

松井田宿は、碓氷峠を控へ日があるうちに面倒な関所は越しておきたいと

坂本へ足を止めるため、通過する大名や旅人が多かったといい、

 「 雨が降りゃこそ 松井田泊まり 降らじゃ こしましょ さかもとへ 」 

と、馬子唄に歌われているそうな。

休宿泊こそ少なかったが、信州諸大名からの廻米の継立てや払米の取引など、

物資の中継地として重要な機能を果たした。

多くの藩の廻米が高崎倉賀野や江戸ま運ばれることなく、この地の商人に

売却されていたそうな。
各藩の廻し米は多額の取扱高となり,松井田は「米宿」と呼ばれていたと言う。

 

ほとんど行きかう人気のない街を足を進めてゆくと、左手に二階軒下に

「かんべや」と「妙義登山口」と記された袖看板を下げた家。

南に下る道が妙義道でここが追分。

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右手に間口の横広い蔵のある屋敷が徳右衛門脇本陣跡。

(伝右衛門脇本陣とも書かれてる)。玄関門構えは無しだが、建坪は73坪あった。

(案内板がフェンスに付いていた)

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100mくらい先を左手に入ると、幼稚園併設の臨済宗崇徳寺(すうとくじ)。

 

足利尊氏開基と言われ、精緻な彫刻された四脚門、聖観音菩薩像、千手観音菩薩像・

如意輪観音像が安置されてる観音堂。

本堂は入母屋、桟瓦葺。上野国順礼札所三十四ヵ所十四番札所。

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外郎の陳氏歴代の墓がある。(フェンス囲いが該当かな)

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街道に戻り200m位先右手の山城屋酒店は「ういらう屋跡」。

小田原の今もお城のような店を構える、ういろう屋の分家「外郎陳道斎」の店舗。

天正3年(1575年)前に武田や北条の関東宣撫的な政策で、この松井田に分家、店を開いたという。

(ここも間口が広い)

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持参街道案内では山城屋の先、仲町交差点の左手の現群馬県信用組合のところが

金井本陣跡だが、示すものは何もなし。(見逃したのかな?)

建坪171坪、玄関・門構えがあった由。

この周辺が松井田宿の中心街。

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下の本陣とよばれ、上の本陣は松本家が勤め,問屋場は金井・松本両家にて,

一ケ月交代で務めた。

仲町信号の右手角、時代を感じる家屋の下に、角ばった低い石碑は松井田町道路元票。

風格ある建物は畑中医院跡だそうな。

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左側にちょっと目立つ蔵造り風の建物があるが、ここは「伊勢屋」という屋号が掲げられた「辻中薬局」

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辻中薬局にすぐ先に、東屋みたいなコーナーが有、木の門付きの空き地がありました。門に取り付けた板看には「まちなかにぎわい広場」。

イベントなどが開かれる場?

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宿場時代の表示など無いが、古い民家がポツポツと見られ、「旧街道を歩いている」そんな雰囲気は味わえる。おっ、月が出てる。

下写真の左上は、旅籠で、同時に両替商・質屋・塩を商っていた。

建物は移築したものだしうだが、築300年は経っているらしい。

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仲町交差点から150mほど進んだ右手、電柱の後ろ右手一帯が

上の本陣・松本本陣跡に当たるようだ。

建坪174坪、玄関・門構えあり。部屋数23.裏門は非常時に開かれ、

奥の不動寺への通路でもあった由。

右手に入った奥に今も井戸と庭園が残っていると言われます。

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本陣跡から50mくらいに脇本陣が有ったと言われるが、確認できず。

さらに50mほど進むと右手に本照寺の駐車場、隣が「うまかんべえ」煎餅屋さん。

ここに松井田の高札場が有ったそうです。

当初は仲町交差点あたりに、次いで山城屋(外郎店)あたりに移され、さらにこの場に

写された由。

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すぐ先に歩道橋があり、橋下に丸太道標。

中山道松井田宿→」で、ここが上木戸跡(京口)でした。

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木戸口跡を右手に坂を上がって行くと、右手に信州大谷派の本照寺。

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そして正面に、創建年の詳細は不詳ですが、建久8年(1197年)に

源頼朝が参拝に訪れたとの記録がある、松井田八幡宮の鳥居と参道が見えてきます。

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祭神は誉田別命息長足姫命玉依姫命

江戸時代には幕府からは庇護され、慶安元年(1648年)には三代将軍徳川家光

により朱印地13石6斗を賜っている。

現在の本殿は寛永年間(1624~1644)に建てられたと伝わるもので、

群馬県重要文化財に指定、他の建物はその後に補われたものである。

本殿前の建物は拝殿のようですが、建物の真ん中に通路(土間)がある

独特の形態をしています。この形態は「割拝殿」(わりはいでん)と呼ばれるもだそうで、珍しいのでは。

 

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割拝殿の右側は神楽殿でもあった様子。

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本殿は桃山風の形式をよく伝えるといわれる、三間社流造りというものだそうです。

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八幡から街道に戻ると先左手に北向きのお堂があり、その名も北向千手観音堂。

お堂側に石仏石塔群が建ってます。

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少し先、左手に和洋折衷の建物が建ってます。(帝冠様式と言うそうです)

旧松井田警察署で、昭和14年(1939年)竣工。木造2階建、外壁はタイル貼りの

洋式建物に切妻、瓦屋根の建物です。

どこかで見たような建物と帰宅後調べたら、東京の九段会館に似ています。

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右手の民家の前に大量のネギが置かれてる。

太いから下仁田ネギですね。太く柔らかい、冬の鍋物には欠かせない。

下仁田はここから南へ12・3km位かな。f:id:hansui:20161215171059j:plain

夕暮れ気配の街道坂道を上って行きます。

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200mくらい先の新堀信号手前に、粋な黒塀、見越しの松・・

大きな屋敷がありました。

中山道石柱や街道図石碑、そして塀にこんな張り紙が。

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中山道分間延絵図は東京国立博物館が原本を所蔵している、国重要文化財

絵図です。復刻版を所蔵されてるんですね。

是非見たいところだが・・・残念、惜しい!

尚、中山道 新堀金井家とありますが、あの本陣を勤めた金井家の縁者の家?

(参考資料としてこのブログでも復刻版の一部を使わせてもらってます)

 

右手に2基の庚申塔。先は西松井田駅入口交差点。

右手に古刹・補陀寺 がありますが、左手に足を進め・・

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安中駅から約12.7km、日本橋より約31里36町(約130km)

上野国(上州)旅路も残すところあと1宿、坂本。

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夕日の浅間山を望みながら、

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 午後4時17分、西松田駅前で12回目の街道旅を終えました。

 

(反省追記)

松井田宿内には、旧跡史跡の案内標識がほとんど無い、との記述を

してしまいましたが、帰宅後に写真を整理していて、標識らしいのを見つけ、

写真を切り取り拡大してみたら案内標識がありました。

調べてみると、「松井田宿まち歩き」というパンフレットがあり、

パンフ図にNo、が記され、街中の街灯に連動してその番号が書かれており、

街灯の上の方に小さめの案内標識があったのです。

歩き中の目線が、つまずかぬよう下ばかりに向いてしまい、気づかなかた。

発見を旅の楽しみにしていますが、もうすこし事前下調べをしなければいけませんね。

反省!(パンフの入手先は観光案内かな?)

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歩いて再び京の都へ 旧中山道夫婦旅   (第12回) 安中宿駅から安中、松井田宿へ  前編

>平成28年6月18日、3年半をかけて東海道五十三次を旅し、
京の三条大橋に立ちました。
そして夫婦は旧中山道69次の旅、再び京を目指して歩いています。

 

12月2日、高崎宿を立ち、江戸から14番目・板鼻宿を過ぎて、

次の安中宿へ向かいましたが、途中のJR安中駅前で足止めとしてました。

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12月10日(土)夫婦はまたもや旅に出ます。

早めに家を出て、関越高速・上里PAにて、久しぶりに持参「カップそば」

で朝食。

AM6:40、ちょうど朝焼けになってました。

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 上信越高速に入り、碓氷松井田ICで降りて、信越線、JR西松井田駅・駐車場へ。

ここには、広い無料駐車場あるんです。

平日なら通勤、通学など地元の方がたの利用でしょうから、

遠慮しなければならないでしょうね。

今日は前回の足止め地、安中駅前から松井田宿が目的ですので、街道沿いになる

この西松井田駅に駐車させていただきました。

調べておいた電車時刻まで、あと3分。間に合う、それ~・・・ 

すぐ来た電車で群馬県北西部、安中駅へ向かい、

AM8:10、第12回の旅立ちです。

天気予報では、最高気温10℃、北風多少強しでしたが、出発時は、足元から冷気が昇るを感じますが、無風状態でした。

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駅前を横切る国道18号の高架下を通り、街道へ戻って碓氷川を

久芳橋北側(右手側)を渡って安中市街地へ入ってゆきます。

(久芳橋は江戸時代「二つ橋」と呼ばれた)

昔は中州を挟んで仮橋や渡渉で碓氷川を越えました。

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碓氷川ではサギたちが朝の食事獲物を物色中。

左手に妙義山の異様な山並み、その左奥にはテーブルマウンティンの荒船山

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渡り終えて下野尻交差点を歩道橋を使って国道を渡り、旧中仙道は左手に

県125となって安中街中へと向かいます。

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300m位行くと右手に正龍寺。

上野国巡礼札所34か所第25番、本尊は千手観音。

石碑裏に書かれた由緒書きには、

応永年間(1394~1427年)に、関東管領山内上杉家家臣の松本将監が、

信州での合戦のおりに黄金の千手観音を授かり、それを当下の尻村(下野尻町)に

堂を建て祀った。兵かに焼かれ慶長2年再建され三百有余年、時代を経て老巧化のため

区民の浄財にて山門、お堂はともに平成に再建された由

(観音さまも?)。

お堂内には、33体の観音様、中央に千手観音様。

お堂前に大きな馬頭観音石碑。

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安中・下野尻はまだ静かなたたずまい。

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しばらく進んだ県121との十字路交差点角、手前の右手の軒下を何気なく見ると、

こんな石碑が。長野110kmとありますが、長野善光寺までかな?

そして交差点の向こう側、

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理髪店のある角に、「安中宿下木戸跡碑」が建ち、安中宿の江戸口(東口)。

江戸から15番安中宿に入ります。

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安中はその昔,野後という地名であったが,永禄2年(1552年) 越後新発田から

安中忠政がこの地に城を築き、安中城と称したことから安中と呼ばれるようになった、

江戸時代、安中藩3万石の城下町でもあった。

日本橋から29里19町40間,15番目の宿である。

人口348人,家数64,本陣1,脇本陣2,旅籠17軒。

また1783年 の浅間山大爆発で壊滅的な被害を受けている。

木戸口の右手の坂道を登ると、小高い丘陵突き当りに熊野神社

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安中城築城に際し、越後国新発田熊野神社をあらためて祀り,安中藩

鬼門の守護神・総鎮守として歴代藩主に厚く崇敬されてきた。

小振りの神社ですが、社殿の彫刻が見事で、市の重要文化財

本殿の七面の羽目板に鳳凰らしい鳥を中心に,梅,楓などの樹木や霞様の雲を廃した彫刻を施している.

また、市指定天然記念物、推定樹齢1000年の大欅がある。

これに祈願すると疣が取れる霊験ありと言われ、現在は落雷により大きく折れ、

支柱で補強されている。(一千年とはすごい!)

社殿前の両脇の狛犬をみて、「あら、ひょうきん顔!」

威嚇してるようで、どこか愛嬌のある憎めないペット顔。

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拝殿内の絵馬、推定樹齢1000年の大欅

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神社を出て右手に安中城東門跡板碑。後方一帯が安中城跡になるようです。

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すこし坂を下ると右手石垣上に真宗大谷派,本尊阿弥陀如来、西廣寺。

石段を上ると、樹齢300年という県指定天然記念物のツバキが蕾をつけてます。

境内に聖徳太子を祀る太子堂がありました。

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境内横からの坂道をに西に行くと、文安年間(1444~1449)創建といわれる、

大泉寺。(木柱や山門の屋根が・・傾いてる)

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山門を入ってすぐ左手に素朴な五輪塔風供養塔ありました。

その名も「ちゃんころりん」で、そばに面白い「チャンコロリン」由来板。

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この妖怪伝説?は、女優の市原悦子さんが語り部となり、子供たちに人気のあった

TVまんが「日本むかしばなし」に「大泉寺のころがり石」としてあるんですよ。

http://nihon.syoukoukai.com/modules/stories/index.php?lid=664&cid=19

 

物語的には、「日本むかしばなし」のお話のほうが、優しい物語かな。

そういえば、旧東海道を歩いた時も、道端の「石」物語が有ったわね、て

カミさんがまた思い出話。

そうでした、静岡の金谷宿と日坂宿の間の、小夜の中山峠にて「夜泣き石」

伝説のお寺と供養塔がありました。

「伝説にまつわる水飴、お店が閉まっていて舐めなかったな・・」なんて石談義、

(夜泣き石伝説)

http://whitenoel.com/saigyou/notedplace/noted_place_sizuoka/noted_place_kuenji.htm

奥の墓地には,井伊直政の息、直勝が安中城主となり、

井伊直政正室の墓」「井伊直好生母の墓」があるそうですが、寄りませんでした。

県125に戻り先に進むと左手に安中郵便局があり、ここが須藤本陣跡。

建坪192坪,門構え・玄関。

本陣横で問屋場,人馬継立て一切を取り仕切っていたと言われますが、

残念ながら、石柱と木板の案内のみで解説板も無し。

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尚、 脇本陣2軒は,須田家,金井家が勤めていたそうですが、本陣に比して

狭いものだったというが、こちらも遺構も無く碑も何もないんですね。

郵便局先の伝馬町交差点を右に入り坂を上ると、突き当りが先ほど寄った大泉寺。

道なりに曲がって上ると、大名通りという道が台地を東から西に通ってます。

この周辺は南を碓氷川、北側を九十九川が流れる間の河岸台地。

 

一番高い所に安中小学校があり、昔は安中城があったのです。

名の通り、南側が大きく明るく広がる河岸台地は武家地。

下がって碓氷川に沿って東西に横長に、城下町兼宿場町が続いてたんですね。

左手が三社神社(石川忠房生祠)の裏手で、石川忠房生祠がありました。

安中宿の助郷の窮乏を、時の道中奉行石川忠房に訴え、救ってもらえたことから、

村民が感謝して生神様として祀ったと言われます。

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 生存中に祀るのも珍しいと思いますが、それだけ助郷に駆り出される周辺農民の

感謝の現れなんでしょうね。

助郷

*江戸時代,幕府が諸街道の宿駅の継立てを援助,補充させるため,宿場周辺の農村に

課した夫役。交通需要の増大につれ,宿場常備の人馬 (御定人馬) では不足のため,この臨時の人馬徴発が行われ,初めは臨時で行われる人馬徴発であったが、参勤交代など交通需要の増大に連れ、助郷制度として恒常化した。

村が人馬を提供できない場合、金銭で代納することになっていた。

安中は小さな宿場町であったが、碓氷川を控え交通需要の増大に連れ、徴発された

村民(農民)の負担が重く、農村それにもかかわらず、法定の報酬はわずかであり

村財政が窮乏し「幕府や藩に窮状を訴えて減免を願い、宿駅と助郷村の紛争も相次いだという。*

大名通り右手に 

明治11年12月開庁の碓氷郡役所跡の建物があります。

当初は伝馬町の旧本陣須藤国平氏宅を仮用していたが,明治21年6月,

現在地に移り、明治43年全焼したため、当初は白亜の洋館でしたが、

近代和風建築で明治44年9月再建されてます。

群馬県内で唯一現存する旧郡役所の遺構だそうです。。

 大正15年7月1日碓氷郡役所は廃止となり,同49年群馬県が土地家屋を

安中市へ贈与。

 地方自治の歴史を示す貴重な建物であるため,平成8年度から地域文化財保全事業により建物の改修を行い後世に保全することを目的に事業が進められ,平成10年4月より公開されている。(解説資料より)

館内にて、上野国宿場絵展が催されていたのでしばし館内見学。

(展は撮影ご遠慮下さい、でした)

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郡役所の前の通りは大名小路という

 (参、市観光資料より)

安中の地名は,戦国時代に原市の榎下城にいた安中忠正が,野尻と呼ばれていた

この地に永禄2年(1559)に城を築き野尻を安中と改めたことに始まると

いわれている。

この地域は,越後の上杉,甲斐の武田,小田原の北条という有力戦国大名が三つ巴の

戦いを繰り広げた場であり,安中氏は武田信玄と戦い,永禄7年に降伏した。

以後武田氏に属したが天正3年(1575)長篠の戦いで城主以下全員討ち死にし,

やがて安中城は廃城となり城地は農地となっていた。 

江戸時代に入り元和元年(1615年)に井伊直勝が近江彦根から分家、

初代藩主として安中に移り城を再建、町割りを行ない安中宿を開いた。

安中城は九十九川と碓氷川に挟まれた河岸段丘上に位置し,安中宿より一段高い

所にあった。お城といっても天守閣は無く,茅葺き平屋建ての御殿が本丸に、

二の丸は安中小学校のあたりで、東西750m,南北500m。

 明治維新の廃藩置県により取り壊され,城の遺構はほとんど残っていない。

 安中藩主は五家(井伊・水野i・堀田・板倉・内藤)十六代が勤め,中山道の関東への入り口に当たる為いずれも徳川譜代の大名が置かれた。

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旧碓井郡役所の道を隔てて西隣りに建つのが 「日本キリスト教団安中教会」

大谷石造りのゴシック様式の重厚な外観、この教会は有形文化財に登録されている.
大正8年(1919)竣工。

残念ながら日曜礼拝時なら旅人も入れますが、今日は土曜日か・・・

通常日の拝観は、3週間前に電話予約が必要だそうです。

(変な協会ね、普通は門戸開放でしょう!!て、カミさんが抗議口調)

*安中教会*

http://www8.wind.ne.jp/a-church/profile/index.html

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大名小路から南の街道へ下る道角に、門番所跡木碑。

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長い協会のフェンス沿いにしばらく行くと、右手奥は二の丸跡に安中小学校。

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すぐ先の信号機のある十字路手前角に,復元された旧安中藩の郡奉行役宅。

15代藩主板倉勝明の側近山田三郎(1804~1862)が住んでいたと伝えられ,文政年間(1818~29年)の建築された役宅だったそうです。

その後幕末から明治にかけて猪狩磯右衛門懐忠(1820~1883)が住んだ。

 

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道を隔てて武家長屋が復元・保存されていている。(修復工事中でした)

安中藩は3万石の小藩だったので,最も高禄の年寄り(家老)級でも300石未満で

多くの藩士は慎ましい暮らしをしていた。住居についても一戸建ての独立家屋に

住めたのは30名ほどの上級藩士だけで,ほとんどの藩士は長屋住まいであった

と言う。 この建物はそのうちの4軒長屋で,3軒だけ残っていたものを図面を元に

当初の姿に復元したもの。西側から八間・六間・六間・六間に区分されている。

それぞれ,台所(土間)・下座敷・上座敷・押入れ・床の間,前庭(実際は畑に使った)側に流し場・縁側・厠が並ぶ。武家長屋が建てられた正確な年代は不明,

幕末から明治初年の絵図に描かれている点や柱間の寸法(役1.82m)などから1800年代中頃といわれます。

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交差点を北側奥に進むと、本丸跡に建つ安中市文化センターに突き当たり、

その左手に、安中藩安政遠足之碑&日本マラソン発祥の地碑が建ってます。

碑には、

安政二年(一八五五年)ときの安中藩主板倉勝明公は
藩士の心身鍛錬を目的として五十才以下の藩士九十八名を
数隊に分け五月中旬より六月初旬にかけ安中城内より
碓氷峠熊野権現まで七里余の中山道を走らせた。
これを「安中御城内御藩士御遠足」という」

 と記され、まさに日本におけるマラソンのはじめですね。

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安中藩安政遠足は“とおあし”と読みます。

今も、市の行事として、毎年5月の第2日曜日に開催され、

毎回たくさんの仮装したランナーが走るそうです。

コースを見たら、なんと、いつの日か挑戦することになる、旧中山道

碓氷峠越えでした。

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大名小路への戻り道の右手は「旧邸地区」と呼ばれてるそうで、

広大な生垣に囲まれた敷地などが並でいました。

昔、学校があったと聞きましたが、詳細は不明。

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大名小路を横切り坂を下って、旧中山道へ戻ります。

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しばらく宿場の街中を左右の家屋を楽しみながら足を進めます。

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左手に、境内に石塔に刻まれた六地蔵があったので天台宗安楽寺」かな。

どんなお寺かは調べても??

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安楽寺の対面、街道右手の坂上に赤く塗られた山門は時宗碓氷山・長徳寺。

時宗のお寺とは珍しいですね。山門前に文字青面金剛塔(庚申塔)がありますが

ご由緒などは不明でした。

時宗と言えば総本山は、東海道の旅でもお参りした、東海道藤沢宿

遊行寺(ゆぎょうじ)」の名で親しまれてる「澤山 無量光院 清浄光寺

ですね。

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長徳寺を出て、右手の路地に入ってゆくと、そこは医院の駐車場でした。

道にでてすぐ右手に長徳寺から見えていた赤いお堂。

上り参道らしき道は、そばの民家の方が駐車場にしてる。

庚申塔道祖神が並び、廃棄物などが見られる荒れた参道?で冬桜が

ひっそり咲いてました。

参道を上ると、そこに祀られていたのは稲荷神社でした。

鳥居は普通のコンクリート造りだったので、稲荷神社とは気が付きませんでしたね。

 

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道に戻ってすぐ稲荷神社裏手は、明応年間(1492年~1501年)の開山で、

開基は安中忠親の母・法昌院と言われる日蓮宗・蓮久寺、安中鬼子母神

総本山は甲州(山梨)身延山久遠寺かな。

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道の突き当り、広々とした大地に大きな伽藍の久光山・妙光院。

由緒は不明だが、859年の開山ともいわれ、安中藩板倉家の祈願所であった。
墓地には、新島襄(後述)の祖父・弁治と弟・雙六の墓があるそうで、

新島家の菩提寺か?

なお、新島襄の両親(民治、とみ)の墓は、襄とともに京都にある。

新島襄はあの同志社大学の創設者ですね。安中宿では頻繁に名の記された史跡が

現れます。

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南へ坂を下り旧中山道・県125へで戻ります。

250m進むと右手に大きな石倉造が見えてきます。

天保3年(1832年)創業の老舗、醤油醸造の蔵元・有田屋です。

*有田屋HP*

http://www.aritaya.com/frame/frame_kuramoto.html

向かいに明治5年(1872年)有田屋当主が私財を投じて創設した、

日本初の私設図書館の便覧舎跡(市指定史跡)。建物は火災で焼失、碑のみ。

尚、明治11年(1878年)新島襄から地元住人が洗礼を受け、信者となったのも

この便覧舎で、安中教会発祥につながるそうです。

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有田屋から100mほど先、信号手前右に、おっ、狭山茶

田島屋本店の店舗でした。横の蔵がいいですね~。

狭山茶は埼玉が誇る、我が町の特産品、おいしいですよ~!!

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先の信号を左手に入り、すこし戻る感じですが、曹洞宗・龍昌寺へ。

龍昌寺は、明治7年(1874年)新島襄が宣教師として帰国後、初めてキリスト教

講演をした寺院だそうです。

ははは、お寺の住職は太っ腹!

その4年後に、便覧舎で地元の信徒に洗礼を授けたんだそうです。

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境内の参道の左右に(和合の鐘)と言われる、108の梵鐘が並んでいます。
備えの開運小槌で「過去・現在・未来」と3回撞いてお参りするんだとか。

備え付けの小槌は持ち帰りもできるんですよ。

解説板に書かれてました。

「開運小槌は一年間各家庭の仏壇、または床の間におまつりし、おかえしください。

その一年間に煩悩生づる時小槌で頭をたたいて下さい。心身の病を癒やすことが

できます」 お返しに1年後これればな~・・・・・これたらお礼参りだね。

順番にたたいてゆくメロディーが流れる・・なんて、どうかしら、てカミさん。

おっ、それもまた楽しだねなんて、失礼しましたお住職様。

 

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龍昌寺を後に旧道に戻ります。おや、こんどは田島商店です。

田島とついたお店が何軒か見かけたので、一族かな?

f:id:hansui:20161212183054j:plain300m程進んだ左手「安中上野尻郵便局」の駐車場隅にポツンと石碑が建ってます。近寄ってみると「安中大木戸跡」で、上ノ木戸跡(京口)かな。

AM11:10、江戸から15番目、安中宿を後にします。

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 旅は江戸から16番目、松井田宿へと足を進めます。

少し風は強くなったようです。帽子を深めにかぶりなおして歩きます。

 

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