歩いて再び京の都へ 旧中山道夫婦旅   (第15回)    沓掛~岩村田 前編

*ひょいと歩き出した東海道五十三次
途中で、断念かの肝臓癌をなんとか乗り越えて、京の三条大橋へ到着。
勢いをかって「歩いて再び京の都へ」と乗り出した中山道六十九次。
またまた腹部大動脈瘤、心臓動脈硬化、そしておまけに腹部ヘルニア。
挫折しそうになりながらも、カミさんの支えもあって、またまた乗り越え
旅の再開。
そんな、じじばば道中ブログです*

 

 9月10日に念願の旅を再開。

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その時に足の中指に感じた痛み。

だいぶ前に低い段差に指をぶつけたことが有ったので、念のため

整形外科医へ院へ。

レントゲンでは骨には異常なし。

診察でも特に異常なところがないと言うことで、結局原因不明。

でも、痛かったんだから何かあった? (小声でヤブ)

指を触るとタコのような小さ硬質部分。

これかな?と昔使っていた医療ヤスリでごしごし。

カミさんが、靴下を五本指にしてみたら、といってさっそく買って来た。

タコみたいなのを処理し、五本指靴下をはいて、早朝散歩へ。

うん、まったく違和感がない。

カバーできたようだ、もう一度歩きに行ってみるか、

と早速19日(火)再び中山道の旅へ出発。

前回の度では足指に痛みが出て、信濃の国入りから9kmほど、
中山道、19番目の沓掛宿(現中軽井沢)で足止めでした。

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9月19日(火)

AM6:00、快晴の予報を見てマイカーを走らせ、

前回足止めした中軽井沢(沓掛)しなの鉄道駅の駐車場へ。

ここは駅に隣接していて、町営なので料金も大変安く有りがたいですね。

駅トイレを使わせてもらい、AM8:00、第15回目、

沓掛宿からの旅立ち。

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さすが軽井沢は高地、日差しは強いけれどヒンヤリとした爽やかな風。

歩き旅にはもってこいの日和です。

沓掛宿の街道は、現国道18号。

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国道18号は中軽井沢駅入口で、群馬・草津、上野原方面から南下する

日本ロマンチック街道(146号)と合流しここから先は

長野・上田市まで続く日本ロマンチック街道です。

www.jrs-roman.org

草津白根、志賀へ、また片品、金精峠、奥日光へと季節季節に訪れたときに

よくドライブした道でした。

今日の歩き目標は

沓掛宿追分宿 1里3町 4.3Km +

追分宿小田井宿 1里10町 5.0Km + 

足の異常が出なければ、
小田井宿岩村田宿 1里7町 4.7Km 

で、沓掛宿岩村田宿 3里20町 14.0Kmです。
日本橋からの累計 42里3町 165.3Kmかな。

 

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脇本陣跡、そして前回足を返した本陣跡を過ぎて進むと、道の右手向こう側に

小さな石碑が見えてます。(赤丸)

石碑は「草津道道標」で、当時この沓掛宿から草津までは約10里の距離だったと

いわれています

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すぐ先で旧道が国道から分岐する。

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旧道に入ってすぐ左手に道祖神

右側の草陰に隠れた小さい双体道祖神は新しいようですね。

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この先はゆるい坂道で、石垣に浅間山が大噴火した時流れ出た溶岩を

使っているようです。

この後も火山岩お上手く利用した石垣や、庭園を沢山見かけました。

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 旧道は国道18号線とほぼ並行してますが、別荘地らしい静かな木々に囲まれた

樹間の道を進みます。

道脇に、馬頭観音地蔵菩薩庚申塔、廿三夜供養塔等が残されていて、

中山道を旅していることを感じます。

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しばらく歩くと、振り返って右手後方に浅間が姿を見せ、

秋桜が咲き田んぼでは稲穂が垂れる、古宿集落に入ったようです。

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懐かしいですね。

集落は珍しく、温故・オンコ(イチイ)の垣根が多く、赤い実を沢山つけています。

故郷北海道では結構多い樹で、庭木や生垣に植えられてました。

子供のころ、口いっぱいに頬張って、種を噴き出したな・・

カミさんは食べたことがない、って一粒口へ。

ほのかな甘さ・・美味しいてさ。

もちろん、事前に種は絶対に噛まないように注意しましたよ。

けっこう種は毒性が有りますからね。

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その先に石の鳥居が見え、火防(ひよけ)・火伏せの神として広く信仰された

秋葉大権現(あきはだいごんげん)、秋葉神社が有りました。

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秋葉神社の少し先で再び国道18号に合流です。

その角に数基の馬頭観音が祀られてます。

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馬頭観音は、この先にも沢山残されてました。

信州は古くから馬の産地と言われます。

山や峠も多く、荷役に馬が活躍していたんでしょうね。

 

中山道国道18号線と合流し少し先で三筋に別れます(写真左上)。

右側の路は国道18号の上り線。

左側の道路は18号軽井沢バイパスへ入る(群馬県方向)道。

真ん中の道、これが国道18号で旧中山道の下り線。

この先で国道18号バイパスのガードの下を潜り、緩やかに右にカーブします。

(写真左下)

国道18号線に沿って緩やかな坂を登っていくと、国道18号線と合流する手前のカーブを曲がり終えたところに左へ入る道があり、そこを左折。(写真右)

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ここから旧街道らしい幅の狭い道になりました。

国道の抜け道になるのでしょうか、車の通行も多く注意しながら歩きます。

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しばらく行くと左手に分かれる道が有り、

「関所さけて 女人が多く往来せし女街道と いふは寂し」
と記された「女街道入り口」の説明板が立ってました。

この道は、厳しい取り締まりの横川の関所を嫌った女性たちが、

上州(下仁田)に出る抜け道として利用していたんですね。

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 その先に「遠近宮(おちこちみや)」という神社があります。

その昔、浅間山麓一帯は幾つかの谷のような地形になっていて、
その谷々に僅かに人家があって、それが広い範囲に散在していたので
「遠近の里」と呼ばれていたそうです。

歌人在原業平がこの里を通られた時に
信濃なる浅間の嶽に立つ煙 遠近人の見やはとがめん」(伊勢物語)

と詠まれたのにちなみ「在原業平遠近宮」称した。

創立年代は不詳とのことですが、古くから当地の鎮守産土の神として

崇敬されているとのことですf:id:hansui:20170926162022j:plain

 遠近宮を過ぎた付近は、 “間の宿”「借宿(かりやど)」と呼ばれる集落です。

「借宿」は、江戸時代、中山道浅間三宿(軽井沢宿、沓掛宿追分宿)の

“間の宿”として人馬の往来も盛んで、大いに繁栄したといわれます。

「借宿」という由来は、

中山道追分宿沓掛宿が満員の時、当地で宿を借りた。

源頼朝の狩り時に泊まったところが“狩宿”と呼ばれ、それが“借宿”に転じた。

…という説があるようです。

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借宿の名主を務めていた土屋作右衛門家です。

中山道筋の代表的な米穀問屋(穀屋)であり、水車を持ち、造り酒屋、質屋、ちゅうき場(中馬業)、立て場茶屋などを営んでおり、江戸時代末期には寺子屋も開いていました。

幾度の改修を経てますが、黄壁の立派なお屋敷です

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あっ、これだよ、道中記などでよく出てくる名物?交差点は。

真ん中に、上から信号機がぶら下がっています。

全国には何ヶ所か設置されてるそうですが、わりと閑散とした住宅街。

この交差点に、どうしてこのような信号機が設置されたのかな??

 

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街道両脇は側溝が有り用水が流れています。

家の敷地内に水場が作られてました。

昔は農作物などを洗ったり、家畜の水飲み場だったのでしょうか。

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 沓掛宿からの中山道沿いでは道路脇のあちこちに多いのが、馬頭観音像です。

遠近宮から少し歩んだ先には、高さが5メートル近くもある

巨大な馬頭観音があります。

借宿には江戸時代に中馬稼ぎが多かったことから、馬の墓塔である馬頭観音像が

多いのだそうな。

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“中馬(ちゅうま)稼ぎ”とは、

「江戸時代、信州の農民が農閑期の余業として、2~3頭の馬で物資を目的地まで

運送した輸送業のことで、農民の駄賃稼ぎということから、

“中馬稼ぎ”と呼ばれていました。

街道沿いの家の庭にも、馬頭観音が祀られてましたね。

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街道はすぐ先で騒音に包まれる、国道18号に合流です。。

合流点の右側に18号から入る細い道が見え、入口に「従是左上州くさ津道」と

刻まれた道標が建ってます。

「上州道道標」と呼ばれ、ここが草津方面への道との「追分」ですね。

草津道分去れ(わかされ)道標」と呼ばれています。

草津方面へは、沓掛宿中山道から分岐して向かう道があり、

小さな道標が残っていましたが、この先の西、追分宿方面からやって来る人達には、

距離が短くなるので、ここから分かれて草津方面へ向かう往来は多かったようです。

f:id:hansui:20170926180410j:plain国道18号を少し西へ進み、軽井沢追分歩道橋で右側へ渡ります。

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100m先に「標高1003m」という表示が立っています。

群馬県高崎市から新潟県上越市に至る、”国道18号線”の最高地点を示す標識です。

(旧中山道ではありません)

国道18号線碓氷峠は標高が960m。

ただし、現在は国道18号線碓氷バイパス”を通るのが一般的で、

そこの最高地点である入山峠の標高は1,030m。

ということでこの場所は、碓氷バイパス開通以前の国道18号線の最高地点と

いうことですね。

なお、旧中山道碓氷峠の最高地点(熊野神社あたり)の標高は1,190m。

幾つかある碓氷峠の中で、一番標高の高いところを通るのが旧中山道碓氷峠

ということになるわけです。

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 旧中山道碓氷峠は1190m、ここが1003m。

峠から約190mくだってきたんだ!?

何年か前までは、この標識のある反対側(左側)には、あの峠の釜飯

「おぎの屋」が有ったようですが、いまは空き地なってました。

標識からとほとほ進むと、右手の草が生い茂ったこんもりと盛り上がった

土手木立の中に江戸・日本橋から39番目、「追分一里塚」がありました。

この追分一里塚は、国道18号線の南側にもありますが、南側の塚は復元された

ものだそうです。

説明板には「江戸へ39里 京都へ91里14町」と書かれています。

京都まではあと91里14町、約360kmか。

お江戸日本橋から約160kmほど歩いて来たんだね。
 

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 この先に「追分宿→」という道路標識が出ています。

もう少し先で国道18号線から右に分岐する道、追分宿へと入って行きます。

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続きます・・・

 

 

 

歩いて再び京の都へ 旧中山道夫婦旅   (第14回)    碓氷峠頂上~沓掛 後編

*ひょいと歩き出した東海道五十三次
途中で、断念かの肝臓癌をなんとか乗り越えて、京の三条大橋へ到着。
勢いをかって「歩いて再び京の都へ」と乗り出した中山道六十九次。
またまた腹部大動脈瘤、心臓動脈硬化、そしておまけに腹部ヘルニア。
挫折しそうになりながらも、カミさんの支えもあって、またまた乗り越え
旅の再開。
そんな、じじばば道中ブログです。*

 

>左へ進めば20分くらいで軽井沢駅
中山道は右手の道へと進みます。 旅の後編

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左足指にテーピングし、軽井沢宿から1里5町(4.5Km)19番目、沓掛宿

向かいます。

昼食を済ませ、「離山通り」と呼ばれている街道を進みます。

すぐ左手に大型バスが出入りしている専用駐車場が有り、

入口看板後ろの木陰に、馬頭観音が有りまが、よく探さないと気が付きませんね。

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 点々とおしゃれなレストランや別荘がある通りを進むと、

6本の道が交差する円形の六本辻交差点の道路標識が建ってます。

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この交差点は円形(ロータリー)化されており、信号機が有りません。

侵入する車は右手よりを確認して入り、反時計回りですすんで

目的方面出口で左折してゆく方式です。

前にスイスへ行ったとき、郊外の幹線道などの交差点がこの方式でしたね。

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街道はほぼ対面に続く道で、交差点侵入の車の途絶えを確認し、左回りに回って

向かいます。

交差する道の入口に、浅間の湧水を堰き止めた「雲場池」の大きな看板が有りました。

池周りは高級別荘地帯で、秋の紅葉の人気スポット。

11月のシーズンはこの辺は渋滞になるほどです。

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六本辻交差点からは会社の保養所やリゾートホテルやペンションなどが

唐松林の中に点在する静かな街道を進みます。

右手に建築中のリゾートホテルの塀越しに、お椀を伏せたような離山が見えてます。

この山は周囲の山から独立した(離れた)独立峰で、浅間山の寄生火山の1つです。

ここ軽井沢自体が標高1,000メートルのところにあるので、低い山のようですが

標高は1256mもあります。

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避暑地・軽井沢に相応しい、お洒落なリゾートホテル過ぎ、すぐ先右手に、

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庚申塔道祖神などの石仏群があり、街道らしい素朴な風景に出会います。

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その先すぐの離山交差点で国道18号線に合流し、 

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右手、広大な森の中には、「歴史民族資料館」やその先に「市村記念館」がある。

ほかに「旧雨宮邸」(軽井沢を唐松林に変えた明治の実業家)とか「新座敷」と掲記された別荘などが何軒か建ってます。

市村記念館は元は、大正初期のアメリカ式洋館で旧近衛文麿別荘でした。
後に市村今朝蔵(元早大教授・政治学者、雨宮の甥)が購入し、
平成9年に軽井沢町に寄贈され、現在地に移築されたもの。
近衛文麿は“、五摂家の1つ近衞家の第30代目当主で、後陽成天皇の12世孫に
なるそうです。
昭和初期の激動の時代に、3度にわたり内閣総理大臣に指名され、
終戦時の戦犯指名にて自決した公家であり政治家ですね。

 

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広大な敷地内に点在してるので、覗いただけで街道へ戻ります。

市村記念館の先で、中山道は国道から左斜め前方に、しなの鉄道(旧信越線)を斜めに横切っていたのですが線路にて分断され失われています。
すぐ先の<軽井沢中学前>信号で18号を横断、更に”しなの鉄道”の踏切を渡ると

右手へ曲がるのが旧中山道への復帰への道。

 

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踏切を渡り右手へ続く旧道周囲は、静かな住宅街で、緩く坂道を上る感じで続きます。

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ログハウス(売り物件でした)の先を曲がると、

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坂の左手に雄大な浅間山が見えてます。

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中山道でこの付近だけで見られる「左浅間」とは、ここから眺めた浅間なんですね。

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左手の湯川を前沢橋で渡ると、そば畑の先は二股で、左手は中軽井沢駅裏手。

右手に曲がると、しなの鉄道の鉄橋をくぐります。

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左手に坂道を上ると、中軽井沢の駅裏に出ます。

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江戸時代初期の古旧中山道は「中軽井沢駅」の駅裏あたりを通っていたといわれ、

上って左手に「宮之前一里塚」がありました。

江戸の日本橋を出てから38里目の一里塚です。

安永2年(1773年)、沓掛宿が大火に遭い、その際に宿場まるごと移転しましたが、

一里塚だけがこの場所に取り残され、今は石碑が残るのみですね。

(一里塚は移転しなかったのでしょうかね)

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坂道を下って戻り左折すると、湯川に架かるしなの鉄道の鉄橋をくぐります。

ちょうど電車がやってきました。

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鉄橋を過ぎすぐの土手道を上がると、国道18号に当たります。

道路の向こう側の木の下に沓掛宿石柱が建ってます。

ここが江戸方の沓掛宿入り口だったのですね。 

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沓掛宿は江戸から数えて19番目の宿場で、現在の長野県、軽井沢町軽井沢

天保14年(1843年)の記録によると、宿内家数は166軒、本陣1軒、脇本陣3軒、

旅籠17軒で、宿内人口は502人であったそうです。

草津温泉に向かう街道との追分(分岐地点)でもあり、大いに賑わったと言われます。

甲府藩や小諸藩の領有を経て、徳川吉宗が8代将軍となった享保元年(1716年)以後は、天領として徳川幕府の直轄地でした。

「沓掛」の名称は、旅人が草鞋(わらじ)や馬の沓(くつ)を捧げて、旅の平穏を祈った

ことに由来するとも、草鞋(わらじ)を履き替える場所であったからであるとも

言われています。

宿内は5町88間(約668メートル)。

しかし昭和26年(1951年)の大火で町の殆どを焼失し、往時の様子を伝えるものは

殆ど残っていません。

その後は昭和31年(1956年)に沓掛駅が中軽井沢駅と改称したのを機に、

地名も中軽井沢と改称、以後別荘地や避暑地として発展していまが、「沓掛」は

地名としても残されていないそうです。

中山道が整備された当初、中山道は現在の“しなの鉄道線”の線路の南側に

沿うように通り、沓掛宿も最初は一里塚跡が有ったように、現在の中軽井沢駅

南側に作られていたのですが、安永2年(1773年)の大火により、

宿全体が現在の場所に移っています。

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栄泉画 沓掛宿

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国道を石柱側へ渡った先に鳥居が有り、湯川に赤い橋が架かっていて、

その先には、天長年間(824年~834年)に創建されたといわれる、

長倉神社が有ります。

平安時代の文献である「延喜式」にもその名が残るほどの由緒ある神社です。

結構広い境内を持ち、入口周辺には「石碑」や「庚申塔」なども集められていて、

奥に本殿があります。

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長倉神社の境内の裏手に「沓掛時次郎の碑」があります。

碑には

「千両万両枉(ま)げない意地も 人情絡めば弱くなる 

          浅間三筋の煙の下で  男 沓掛時次郎」
という名セリフが刻まれています。

唯一「沓掛」として残っているものはこの「沓掛時次郎の碑」くらいとか。

沓掛の地名を一躍全国的に有名にしたのが「沓掛時次郎」だそうで、

劇作家・長谷川伸さんが書き上げた戯曲『沓掛時次郎』の主人公ですね。

あくまでも架空の人物なのですが、数度にわたり映画化されたことで

全国的に有名になり、また、何度もテレビドラマ化もされ、歌謡曲でも歌われてますね。

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そういえば昔のTVドラマで「木枯し紋次郎」とかが有りましたね。

(関係はないですね~)

神社から街道に戻り、少し南下するところ左手に「旅館岳南荘 升屋本店」と

書かれた旅館の跡があります。

沓掛宿脇本陣の1つ、増寿屋(升屋)でした。

旅館としても既に廃業してしまっているようで、残念ながら草ぼうぼうの

荒れた跡地となってます。

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足を進めると中軽井沢の信号。

左折すると“しなの鉄道”の中軽井沢駅があります。

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進んで中軽井沢交差点のすぐ先にある、八十二銀行の支店の駐車場の奥に

脇本陣蔦屋跡碑」が建てられていました。(赤丸内)

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先の右手の広い敷地の立派な家が、当時「本陣」を勤めていた土屋家で、

今も表札に「本陣」という文字が書かれた表札が掲げられています。

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とここまで来たところで、足の指の痛みが再び強く感じられるようになったため、

大事をとって旅はここまでとし、中軽井沢駅からしなの鉄道軽井沢へ戻ります。

中軽井沢駅明治43年(1910年)、国鉄信越本線の「沓掛駅」として開業しました。

1956年、中軽井沢駅に駅名を改称。

国鉄の民営化に伴い、JR東日本に移管され、平成9年(1997年)、

北陸新幹線(当時は長野新幹線)の開業に伴い、JR東日本から

第三セクターの“しなの鉄道”に移管されました。

現在の駅舎は平成24年(2012年)に完成したもので、さすがは日本有数の別荘地・軽井沢にある駅ですね。

駅は軽井沢町地域交流施設である「くつかけテラス」、さらには軽井沢町立の

軽井沢図書館も併設されてます。f:id:hansui:20170922174748j:plain

軽井沢駅

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足指のアクシデントのため、碓氷峠頂上の熊野神社から約9kmと短い旅でしたが、

歩けた!の充実感は十分。

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帰宅したらすぐに足指のケアをして、さあ、この次はいつの日かな?

さすが軽井沢は高地、駅近くの街路樹は紅葉も始まってましたね。

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PM3:30、軽井沢を出、少し高速の渋滞は有りましたが、

PM6:00、帰宅、再開旅1回目を無事に終えました。

 思いがけなく病で中断した、旧中山道歩き旅。
思い切って連続継ぎ旅は吹っ切って再開「夫婦で楽しむ歩き旅」。

さあ、足指のケアをしっかりして、どんどん進めるぞ!

と、終わり。

真っ赤に実っていた「ハマナス」の実。

甘いかな~

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歩いて再び京の都へ 旧中山道夫婦旅   (第14回)   碓氷峠頂上~沓掛 前編

*ひょいと歩き出した東海道五十三次
途中で、断念かの肝臓癌をなんとか乗り越えて、京の三条大橋へ到着。
勢いをかって「歩いて再び京の都へ」と乗り出した中山道六十九次。
またまた腹部大動脈瘤、心臓動脈硬化、そしておまけに腹部ヘルニア。
挫折しそうになりながらも、カミさんの支えもあって、またまた乗り越え
旅の再開。
そんな、じじばば道中ブログです。*

 

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(坂本宿~軽井沢宿に立ちはだかる碓氷峠は、いつの日にかはチャレンジ)

 

思いがけなく病で中断した、旧中山道歩き旅。

思い切って連続継ぎ旅は、吹っ切って

「夫婦で楽しむ歩き旅」で再開。

2017年9月10日、思い立ったが吉日とマイカーを走らせ

AM8:30、信濃国(長野県)軽井沢へ。

駅近くの駐車場へ車を置いて、碓氷峠頂上にある熊野神社へ行く

軽井沢赤バスの乗り場へ。

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軽井沢の静かな森を走る通称「赤バス
万平ホテル・旧軽井沢を経由して旧中仙道(明治天皇巡行時整備)を登り、

碓氷峠頂上熊野神社、「見晴台」まで走行している季節限定の路線バスです。

バスは9時ちょうどに走り出し、20分ほで標高1200m近く、

碓氷峠熊野神社前到着。

本来なら峠下の坂本宿から山を登って、この碓氷峠頂上へだった。

(右の山道を下れば群馬・坂本宿)登ってきたつもり・・・

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碓氷峠頂上は上野国(群馬)信濃国(長野)の国境。

頂上には熊野神社が祀られており、、碓氷峠を通った諸大名が必ず参拝に

立ち寄ったと言われます。

熊野神社を参拝して再開の旅、スタートです。

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鳥居の両脇の一対の狛犬(こまいぬ)」は、なかなか愛嬌のある顔をしています。

長野県内で1番古く、室町時代中期(1400年頃)に造られたそうです。、

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神社は上野国群馬県)と信濃国(長野県)の国境上に建っており、

参道と本宮の中央が国(県)境。

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社宮は3つあり、

本宮は伊邪那美命(いざなみのみこと)、日本武尊(やまとたけるのみこと)。

長野県側の那智宮は事解男命(ことさかのおのみこと)、

群馬県側の新宮は速玉男命(はやたまおのみこと)。

あれっ!本宮のお採算箱や鈴が二つ有る。

そうなんですね、本宮も国(県)境上に有り、大戦後に宗教法人法によって、

ひとつの神社でありながら県境を挟んで、長野県側が熊野皇大神社

群馬県側が熊野神社という別々の宗教法人となったためだそうです。

今日は信濃国入りのスタート。

碓氷峠の登りをまだしてないので、上野国群馬県)はまだ完歩してないため、

長野県側、熊野皇大神社をお参り。

いつの日か碓氷峠を登って群馬県側、熊野神社へもお参りできるよう願いました。

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参拝を済ませ、街道へ出た神社対面には「元祖力餅 しげの屋」。
地面に引かれた赤いラインが県境で店の中も通っているそうです。

お嬢さんたちが、いえ~!と県境をまたいでお遊びショット。

ははは若いっていいですね~

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熊野神社から下ってすぐ左手に「見晴らし台」の案内板があり、寄り道。

見晴らし台にも県境のモニュメントが建っていて、目の前に群馬の奇峰

妙義山(裏妙義)、右手奥に山頂に雲をかぶった浅間山の絶景。

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碓氷峠から軽井沢へ下るのには、3本の道が有りました。

明治11年(1878年)9月の明治天皇の北陸東海御巡幸の際に開削された、

県道133号旧軽井沢軽井沢停車場線(赤バスが走った車道)。

最近作られた見晴台入口から下る遊歩道。

そして、谷底に下りていく感じで谷間を通る“旧中山道

神社から下って突き当りに駐車場が有り、県道は右へ曲って下って行き、

駐車場左手、石積脇を下る細い踏み跡が旧中山道

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すぐに一旦車道にで、少し右手に車道を戻ったところのガードの切れ目から

再び谷間を通り、谷底に下りていく感じで“旧中山道”を進みます。

長い間忘れ去られた街道だったんでしょうね。
近年になり、今旅人が歩いただろう踏み跡で、辛うじて道が保たれててる感じです

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崩れかけた急勾配の道を降りていきます。

3か所ほどの小さな「中山道」の木道標が、辛うじてこの道が旧中山道であると

確認し下ります。 

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ロープ下りも二か所

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30分ほど下ると道が広くなって、周辺は別荘地帯に入ってきます。

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さらにしばらく下ると峠からの舗装車道に出、遊歩道も合流して、

矢ヶ崎川に架かる「二手橋」に着きました。

軽井沢宿の飯盛女が客をここまで見送り、東西に別れたことから「二手橋」

この橋を渡った先からが、信濃国(長野)最初の宿場である軽井沢宿。

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浅間の火山岩でしょうか、「上信越高原国立公園 碓氷峠」の大きな石碑があり、

瀟洒なトイレもあって小休憩。

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二手橋までは多くの観光客も足を伸ばしてくるようです。

橋を渡って旧中山道、18番目の軽井沢宿へと入って行きます。

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天保14年(1843年)の記録によると、軽井沢宿の人口は451人、家数は119軒、

本陣1、脇本陣4、旅籠21軒。

中山道有数の難所、碓氷峠の西の入口にあたり、峠越えを控えた旅人で

たいそう賑わった宿場だったのだそうで、最盛期には100軒近くの旅籠があったと言われてます。(街道浮世絵はなぜか、寂しい感じ)

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急に人が多くなり二手橋を渡ったすぐ右手に、

アレキサンダー・クロフト・ショーの胸像と教会が建っています。

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明治17年(1884年)に碓氷新道(現在の国道18号線)が開通すると、

宿は急速に衰退してゆきます。

明治19年(1886年)、布教の途中で偶然軽井沢を通りがかった、

英国国教会の宣教師、アレキサンダー・クロフト・ショーと友人。

彼等は軽井沢の涼しい自然環境に、祖国の風景を思い出し感動し、

既に休業状態に陥っていた旅籠『亀屋』を訪れて、ひと夏滞在しました。

アレキサンダー軽井沢のことを大変気に入ったようで、その後も毎年夏には

避暑に訪れるようになり、明治21年(1888年)には別荘を建て、

友人や日本の知識人達に絶好の保養地であるとアピール。

そして外国人、財界、文人、芸術家達の別荘が増え、西洋文化の香り漂う

高級別荘地・軽井沢の形が作られたようです。

旅籠『亀屋』の主人、万平は明治27年(1894年)、旅籠の一部を洋風に改装し、

『亀屋ホテル』となり、さらに、その翌年の明治28年(1895年)、

良く知られた「万平ホテル」と名称を改め、今に至っています。

(拝借写真、万平ホテル)

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 二手橋を渡るとすぐに松尾芭蕉の句碑が有り、その先に文人が滞在したことで

知られる、江戸時代初期の創業の旅籠「鶴屋」(現つるや旅館)があります。

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このあたりから軽井沢宿の中心部、現在は「旧軽井沢銀座(旧軽銀座)」と称し、

休日には多くの人が足を運ぶ、お洒落な観光散策街となっていて、

宿場時代の面影は、全く感じることは有りませんね。

新しい洒脱な街造りが最優先されたようで、史蹟旧跡の案内解説板などは全く

見ることは有りません。

観光会館でいただいた街案内図にも宿場時代の案内は全く記載なし。

街道の旅人としては、ちょっぴり寂しいですね。

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かろうじて、「脇本陣 江戸屋」と、軽井沢宿らしく“脇本陣”の名称の付いた

カフェが小路奥にありました。江戸時代は脇本陣が有ったのかな。

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日曜とあって銀座通りは大変な人の波。

人気店なのか、何軒かの店先は人が列を作ってます。

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先へ3~4分行くと、三笠通りとの交差点で軽井沢の宿場(旧軽井沢銀座)も

終わります。

江戸時代にはここに、クランクのように直角に折れ曲がった

「京側枡形道」があったそうです。

左へ進めば20分くらいで軽井沢駅

中山道は右手の道へと進みます。

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時刻はお昼少し前。

有名店なんでしょうね~・・長蛇の待ち人々。

蕎麦屋でした)

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朝が高速のPAで持参のカップ蕎麦を食したので、

側にあったお店で、パンで昼食、足休め。

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二手橋へ着いた頃から、左足中指に軽い痛みを感じてました。

念のため持参の絆創膏でテーピング。

軽井沢は何回か訪れたり通ったりてますが、中軽井沢、南軽井沢方面ばかりで、

軽井沢駅旧軽井沢銀座方面へ来たのは初めてでした。

続きます・・・

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

歩いて再び京の都へ 旧中山道夫婦旅 嬉しい旅の再開へ プロローグ

*ひょいと歩き出した東海道五十三次

途中で、断念かの肝臓癌をなんとか乗り越えて、京の三条大橋へ到着。

勢いをかって「歩いて再び京の都へ」と乗り出した中山道六十九次。

またまた腹部大動脈瘤、心臓動脈硬化、そしておまけに腹部ヘルニア。

挫折しそうになりながらも、カミさんの支えもあって、またまた乗り越え

旅の再開。

そんな、じじばば道中ブログです。*

 

>2016年12月17日(土)PM1:47 

  旧中山道69次、武蔵、上野国、17宿を通り抜け、坂本宿、上の木戸跡(京口)着

次回は最大の難所と言われる碓氷峠を越えて、軽井沢宿・信濃の国へ入ります。<

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2017年、新たな年が明け、雪解けを待って碓氷峠越へと思いを

馳せていましたが、春が過ぎ夏が去って、はや初秋。

年明けからの下腹部の変調で、思いがけないヘルニアの発症。

定期健診での腹部大動脈瘤の変化診断。

さらに二か所の心臓動脈硬化の処置必要の診断。

精密検査入院、ヘルニア手術の入院、続いて腹部大動脈瘤へのステント設置

入院、最後が心臓ステント留置処置入院と医大での施術が続き、

半年は入退院の繰り返し生活。

猛暑の夏、やっと7月中にすべて無事終了。

すっかり劣えた足腰。

猛暑で足慣らしは朝夕にそろりそろり。

ただ有りがたいことに車運転は支障なしで、日常生活は元通り。

足の衰えは有ってもマイカーでの遠出はできる。

すこし足慣らしした後の8月初めはは天気の様子を見ながら、

秋田の竿燈祭り、盛岡のさんさ踊りへ遠征。

8月3日 秋田竿燈祭り

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8月4日 盛岡さんさ踊り・パレード

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 中旬には山を見たくなって、久しぶりの車中泊で、白馬五竜高山植物園、

乗鞍岳、2700m畳平のご来光へ。

高所でも心臓は大丈夫、登りはヒーヒーでしたが、標高差100mは有ったかな。

白馬五竜高山植物園(標高1515m)

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 乗鞍岳・畳平(2700m)

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そして8月も末になって、前々から行ってみたかったが、

大混雑と聞いてて、二の足踏んでた、「富山越中八尾おわら風の盆」。

20日から30日に参加旧町が、本番に向けた練習を兼ねた町流しを

前夜祭として開催、と聞いて急ぎ宿を探して行ってきました。

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宿泊したホテルは少し高台にあって、富山平野を挟んで、立山連峰は一望。

翌朝には剣岳もくっきりとした、日の出が見られましたね。

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なんと8月中に3っ度も遠出。

そんなうちに、天候不順だった8月も去って、

9月の入りは、一気に秋の気配で幕開け。

彼岸花も咲き始め、さっそく朝の足慣らし散歩も少し距離を伸ばして再開。

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 9日の早朝散歩の休憩時に、

碓氷峠越えは、すこし旅をしてみて自信が持てたらチャレンジ。

思い切って歩き旅へ一歩踏み出しても、大丈夫じゃない。
<続き歩き>にこだわらないで、「二人で歩き旅」を楽しむで、如何?」

とカミさんの意見。

そうでしたね。

中山道の旅。

継ぎ足しでも「一筆書きでつないで旅を、」についこだわってましたね。

峠越えの山登りにはまだ自信がなく、つい旅の再開を延び延びにしてましたが、

「よ~し、思い切って再開するか」

吹っ切れたら、「思い立ったが吉日!」とばかり翌10日に街道旅再開へチャレンジ。

まずは足慣らしで短い距離で・・・

中山道夫婦歩き旅の再開・・・

ということで、長い間中断していた旅のブログも再開です。

旅へ・・

 

 

 

 

 

 

思い出旅・2012年 スイス エピローグ

2012年7月19日 AM7:55  成田空港 着
    AM12:30 無事に猛暑の街ちに帰って来ました。

 

スイス9日間の旅を終えて2週間。

何気なく見ていたTVの旅番組で映されていた、北アルプスの山並み。

急に山が恋しくなり、

少しは涼しいかな?久しぶりに上高地乗鞍岳へ行こうか!

となれば話は早い。

8月4日、車中泊の支度で早朝5時に出発し、上高地へのバス乗り場、沢渡へ。

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10分ほどの待ちでバスに乗車、上高地入り。

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終点手前の大正池で降りて、久しぶりの上高地散策へ。

驚くほどのお隣さんの国の言葉が飛び交っている。

大正池、焼岳

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雄大な穂高連峰に抱かれた、標高約1,500メートルの上高地

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おや、スイスよ!の声に見る立て看板。

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スイス・アルプスを思わせる赤い三角の屋根と丸太小屋風の建物、

上高地帝国ホテルでした。

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ラウンジもレストランも大勢の待ち客で、入りませんでしたが、

つい先日まで行っていたスイスの風情を思いだしましたね。

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久しぶりの上高地を後にし、沢渡から乗鞍高原へ向かいます。

乗鞍岳は現在はマイカー乗り入れ禁止です。

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登山バス発着所の、乗鞍高原観光センター前の駐車場で車中泊

f:id:hansui:20170314132222j:plain午前3時半発、ご来光バスに乗車して2700m、畳平へ上ります。

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九十九折りの急坂、右に左に大きく揺れながら、ぐんぐん高度が上がります。

森林限界を超えると深紅の地平線。

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標高2700m、畳平入口で下車、

10分程度の登りでご来光が見られる、大黒岳(2772m)へ登ります。

正面に穂高連山、左手に槍ヶ岳。連なる峰々は北アルプス

はるか遠くに望めるのはは白山かな?

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ご来光は八ヶ岳方面から昇ります。

夏とはいえ標高2700m、厳寒の夜明けです。

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朝陽に染まる、

左、三角の突起が、乗鞍岳主峰、標高3026mの剣ヶ峰

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朝陽に染まる魔王岳(2,763m)

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北アルプス穂高連山方面

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穂高連山(麓の雲海の下に上高地

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槍ヶ岳

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黄金の雲海

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向うへ下れば飛騨方面

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大黒岳山頂

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中は活火山、焼岳 右雲の下に上高地大正池

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来て良かった~の帰り道

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高山植物の女王・コマクサ

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この下に畳平のゲートが有る。(昔は午前7時開門でした)。

手前で2度ほど車中泊をしたっけね。

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中 主峰・剣が峰(3026m)5年ほど前に登ったね~

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左、富士見岳(2817m)右、摩利支天(2872m)

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標高2702mの畳平ターミナル

15年前にマイカーで初めて訪れた。

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畳平ターミナル

(熊騒動を思い出しますね)

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素晴らしいご来光に心も温まり、シャトルバスにて乗鞍高原へ下り、

再び猛暑の街へ帰ります。

 

END

 

 

 

 

思い出旅・2012年 スイス(15) ルツェルン    そして終章

そうだ、スイスへ行こうか! おしまい編

 

7月17日 午後

プリエンツでの昼食も終え、再びバスの旅。

(紫線 赤星印)

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ぐんぐん高度を稼ぎ峠越え山道、3つの湖畔を通りルツェルンへ向かいます。

右に左に大きく曲がり、揺り篭に乗ったようにゆらりゆらり、・・

ふ~としばらく居眠りしていました。

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山間の駅舎

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バスに揺られて1時間、ルツェルン湖へ到着、

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かってはスイスの首都であった「ルツェルン」に到着です。

車窓から、8世紀に建てられた「ホーブ教会」が見られました。

17世紀に火災で焼失した後に再建され、内部には立派なマリアの祭壇と

4950本ものパイプを持つパイプオルガンがあるようです。

(添乗員さんの解説)

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 まずはルツェルンを代表するスポット「瀕死のライオン記念碑」公園へ。

パンフレットより、
「中世のスイスは貧しい山国だったため、おおぜいの若者は傭兵として外国に行かざるを得ませんでした。フランス革命の時、ルイ16世の護衛部隊として最後まで忠誠を尽くし、息絶えたのがスイスからの傭兵だったのです。
ルツェルンからも多くの傭兵を輩出していました。
彼らの忠実さと勇猛さを讃えてできたのが、この記念碑です」

日本ではあまり知られてないように思いますが、人気の観光スポットの様で、

まさに世界各地からの観光客で猛烈な混雑、で早々に退散。

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 公園からは街並みを散策しながら歩いて、ルツェルンのシンボル、カペル橋へ。

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古都ルツェルンを代表する、有名な観光名所二つ目は、

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ルツェルン湖から流れ出るロイス川河口にかかる、屋根付きの木の橋、

カペル橋。

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カペル橋の建造は1332年。屋根付きの木の橋としては、ヨーロッパ最古と言われて

います。

しかし1993年の8月、不審火により、橋の約3分の2が消失してしまいまい
今の橋は再建されたものです。
橋の天井部分には、町の歴史を物語る板絵が架けられ、ツアー団体が重なると、

立ち止まる観光客で渋滞も起きてしまうとか。

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下流

カペル川の下流にある屋根付きの木橋の「シュプロイヤー橋」。

1408年完成の橋です。

西側からの敵の侵入を防ぐ城壁の役割をしていたそうです。

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上流側。右手に1666年に造られた、バロック様式のイエズス教会。

内部には華やかな天井画があるようですが時間外で見られませんでした。

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川を別の橋で渡り戻し、旧市街などへの散策へ。

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お店巡りだけでなく、看板巡りや、

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壁画巡りも楽しいでしょね。

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旧市役所庁舎

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ここで一旦自由時間となりました。

バスはホテルへ行き、各自の荷物は部屋に運び入れて置く由。

バスに乗ってホテルへ行くもよし、各自歩いて行くも良しとのことで、

一組の御夫婦はバスに同乗して、もう一組のご夫婦はお目当ての買い物が有るので

2,3店を覗きたいと歩いて。

私たちはスイス最後の日、もったいなので街を散策しながらホテルへゆくことに。

夕食は街のレストランなので夕6時ロビー集合。

 

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添乗員さんが渡してくれた、市内図を便りに方向を決めて歩きます。

面白いですね、片方だけ展示の靴屋さん。

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アイスクリームをいただきます。

若い娘さんはお隣の国の方。

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 そういえば、日本の方にはほとんど出会わなかった?

宿泊するツアーも少ないとの話でしたが。

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旧市庁舎前広場で聖歌隊の歌声が流れてました。

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まだまだ盛況のお店もあれば、閉店のお店も。

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首都ベルンほどではありませんが噴水塔(給水塔)結構見かけます。

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昼に通ったかぺル橋も反対側から渡ってみました。

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まさに古都の佇まい。
賑やか通りから一歩、小路を入ると別世界が広がります。

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ルツェルン

地図で確認するとホテルは左へ曲がり、駅の左後ろです。

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おや「バックパッカー」?

昔でいう木賃宿はこっちかな?。

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(この後は、バッテリー切れで写真無し)

一旦ホテルへ行きシャワーで汗を流し、着替えをして再び集合。

バスで最後の晩餐 レストランへ。 ルツェルナー・クーゲリパステーテと言う、

長ーい名前の「牛肉の煮込みパイ料理」でした。

スイス旅最後の夜と言うことで、ビール・ワインをいただきながら、

いっぱいの思い出に話が弾みます。

 やはりどうしても、「帰えってきたカバン」が大きな話題に。

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店が満員になってる様子で、予約の無い人たちは外で空きを待ってました。

食事を終えて、ご夫婦一組は添乗員さんとホテルへ戻り、

もう一組の御夫婦は、もう一度お目当ての買い物へと。

我々二人は、スイス最後の夜、ぶらぶらホテルまで歩いて帰るとに。

まだ明るさは有りますが、もう午後の9時を過ぎています。

急に涼しさを感じ、中央駅のホーム横から構内に入り、駅ビル内を散策。

ここにもCoopがありました。

駅正面へでてホテルへ。

(スイスでは改札口が無いので、何処からでも構内への出入りは自由なんですね。)

9時半頃、ホテルへ戻りました。

 

ここでなんとも冷や汗もの!

エレベーターに乗り、ルームカードを差し込んでから
降りる階のボタンを押します。

部屋の前に立ち、ルームカードを差し込み、ドアを開けようとしましたが、

開きません。
あれ?部屋を間違えた!・・・・か? カードには部屋番号が有りません。
覚えていた番号に二人とも自信を無くし一階上へ行ってみることに・違ってます。
 やっぱりさっきの階の部屋でいいんだ!
エレベーターで降りるのも面倒なので、すぐ側に見えた
 ガラスドアーを明けて階段へ入りました。

一階下へ降り、ガラスドアーから入ろうとしましたが・・・
 開かない!!   ロックされてるぞ!!
 急いで入った上の階へ戻りましたが、やっぱり、開きません。
更に上へ行きましたが、ドアー開きますが戸外で屋根です。

 閉じ込められたぞ〜!!
 添乗員さんに携帯で連絡しようか・・・
 いや、各階試しながら下まで行ってみよう・・・

各階試しながら、人が来ないか覗きながら降りました。
とうとう0階(日本で言う1階です)です。

押したドアーは、す〜と、開きました。
開いた〜・・よ〜かったな〜・・・・でも????

そうだったんです、階段は昇降の為でなく完全な「非常用階段」だったのですね。
防犯上ホテル内からは出れるが、外部からは侵入できないように

なっていたんですね。

旅慣れない、冷や汗ものお粗末・・・・
(皆さんも気を付けて・・知ってた!・・失礼)

 

7月18日
 8日目

モーニングコール  AM4:15
スーツケース出し  AM5:30
集合        AM 6:00
朝食は朝が早いので、バケットサンドです。

ホテルを出るとピラトゥス山?のモルゲンロートです。
大きなバケットサンドを受け取り、バスに乗り込みます。

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さようなら、

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思い出をかみしめるかのように、バスの中は静かでした。
みんな顔を窓に附けて、外の景色を見つめています。

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AM7:30頃、チューリッヒ空港へ。

朝食で受け取ったバケットサンドは、大きすぎて1個でギブアップ!

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AM9:05   チューリッヒを飛び立ち、スイスを離れました。

(青い線 バス、赤い線 鉄道)

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AM10:10 フランクフルト国際空港 着
PM 1:50             発

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日本時間
7月19日 AM7:55  成田空港 着

成田 AM1030 発 リムジンバス、
    AM12:30 無事に猛暑の街ちに帰って来ました。

振り返れば、決して天気に恵まれたとは言えない旅でした。

それでも、圧倒的ド迫力で迫るアルプスの峰峰や、中世街並みを残すの古都。

なんといっても、マッターホルンを目の前に仰ぎ、アイガー北壁の岩肌にじかに触れ、

あのフリーハイキングを、無事に歩き通せたことです。

チューリッヒ、ベルン、シャーモニィ(フランス)、ツェルマット、

グリンデルワルト、ルツェルン

「スイス9日間の夫婦旅 いい旅夢気分」 心に深く刻まれた思い出旅でした。

  いや~よく歩けたもんです!!

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思い出旅、スイス、ブログ、完(Ende)。

ありがとうございました。

思い出旅・2012年 スイス(14) プリエンツ湖クルーズ

そうだ、スイスへ行こうか! 続編

 

7月17日
7日目

モーニングコール  AM6:15
スーツケース出し  AM7:15
朝食        AM7:00〜
集合        AM8:15

朝、5時半、モーニングコール前に目覚め、外を見ると、
フィッシャーホルンの頂が闇に白く浮かんでます。

アイガーもぼ~とした、シルエット。

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昨夜、寝る前にざっと整理した荷物を、もう一度きちんと収納します。
ハイキング関連の登山シューズやウエアなどの用具や防寒衣類は、

もう使用することが無いのでトランクの中へ。

「灯が点ったよ〜」

カミサンの声で外を見ると、
昨夜はモルゲンロートだったフィシャーホルンの一峰が、
ぽっと火を灯したように輝きだしました。

 

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左にクライネス・フィッシャーフォルン(3895m)

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そして、アイガー、何度も、何度も、何度も仰ぎ見ます・・ 

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流れる雲の中にアイガー頂上、右日陰、アイガー北壁

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さよなら、アイガー 3,970mの頂上まで姿を現します。

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昨日あの下を歩いていたとは夢の様。

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立ち去りがたい何とも美し、神秘的な姿でした・・

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スーツケース出しをして朝食へ。

出発の時間が迫ってきました。

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メイリッヘン。

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今日はインターラーケンへ下りプリエンツ湖のクルーズ。

その後古都ルツェルンへと向かいます。

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AM8:30
今日のバスも50人乗りの大型バスです。
明日の空港までお世話になります。
(運転手さんは、イタリアの方でした)

アルプスともお別れです。

いい旅夢気分の中、バスが動き出しました。

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さよなら~アイガー・・みんな無言で窓に顔をつけてます・・

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バスはヘアピンカーブをゆっくりと、ぐんぐん高度を下げてゆきます。

写真、右の電車は急勾配で斜めです。

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しばらく右に左に大きく揺られながら道を下ると、川に沿って道は続きます。

両側は緑の草原、アルプです。

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バスは山を下り、ユングフラウ地方への玄関口、ブリエンツ湖とトゥーン湖の間に

位置するインターラーケンの街に入ってきました。

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スイス7日目の旅は、インターラーケンからエメラルド色の美しい湖、

プリエンツ湖のクルーズし、その後古都ルツェルンへと続きます。

インターラーケン・オスト駅隣り合わせの船乗り場に到着です。

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AM9:15船出 船着き場の有るアーレ川から、プリエンツ湖へ入ります。

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アレー川の鉄橋を潜り抜けてきたんです。

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湖畔 に立ち並ぶ家々は貸別荘だそうです。こんな別荘でゆっくり滞在、方々へ足を延ばしてみたいですね。

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船は縦に長ーい湖を、ジグザグに寄港しながら進みます。
それぞれの寄港地で乗り降りが有り、
クルーズ船は観光専用ではないんですね。
湖畔に点在する集落や別荘、ホテルなどの対岸への生活の足になってるんだそうです。

可愛い乗船者

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 船上レストランでコーヒーを飲みながら、ゆったりとしたひと時を過ごします。 

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前方左手に連なる山並みは、標高2,350mのブリエンツ・ロートホルン。

湖畔の街並みが終点、プリエンツのようです。

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ずいぶん前にTVで世界の鉄道を放映したときに紹介されていた、

ブリエンツ・ロートホルン。

傾いている機関車で登る人気の観光スポット(拝借パンフより)

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ギースバッハの船着場。大勢のハイカーが下船しました。

ハイキングコースがあるのかな?

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船着き場そば湖に流れ落ちるギースバッハの滝

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ゆうたり優雅な1時間余のクルーズをも終わり、
プリエンツに着港。

鉄道駅と一緒です。

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プリエンツは、古くから木彫りの里なんですね。
職人を育成するため、スイスで唯一の木彫り工芸学校が1884年に設立されたそうです。

船着き場の大きな木彫り

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バスでその木彫り工芸博物館へ寄ります。

船から見えたロートホルン・クルム山への、ロートホルンSL鉄道の

始発駅が見えました、

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木彫り工芸博物館でお出迎え。

記念撮影用なんだそうです。

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館員の方の(日本人女性でした)案内で、見事な作品の
観賞や作業場の見学。
通常入口付近以外館内は、撮影禁止になっているそうです。
原因は?
団体ツアーの見学が増えてきたためだそうです。
撮影に夢中になり、大事な高額な作品を破損させてしまう事態が多発したため

との事でした。

私たちは少人数、ちょうど他に来館者もない時でしたので、一部でした撮影を

させてもらえました。

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「北海道 アイヌの木彫り熊」

館員さの説明に中に、「北海道・八雲町」
が飛び出しました。
え、八雲町

北海道のアイヌの木彫りは、昔から?お土産品だけでな
く、工芸品としても良く知られてますよね。
そのルーツがじつはスイス・プリエンツに有ったのです。

1924年、私が生まれる16年前)、
尾張徳川家の当主であった徳川義親氏は、
尾張藩士たちが入植した北海道の「徳川農場」がある八雲町で、 農民たちの冬期の収入源として、前年にスイスから 持ち帰った熊の木彫を生産するよう提案した。
 そうでした、八雲町は、私の住んでいた町の隣町です。
移り住んだ中学の頃、友人に教えてもらってました。
まったく消えていた記憶が、館員さんの話でよみがえりました。
幼いころから、「伝統工芸アイヌの木彫り」と思ってきた
木彫りは、実は近年になって始められた木彫りだったのですね。

小一時間、ゆっくり館内を見学。
小さな木彫りも買いました。
ははは・・普通なら買わないな〜
すっごく高いんですよ!

そして昼食は町はずれのレストランで、スイスで最後の昼食。

 

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そして最後の観光、古都ルツェルンへと向かいます。

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続きます。