*ひょいと歩き出した東海道五十三次。
途中で、断念かの肝臓癌をなんとか乗り越えて、京の三条大橋へ到着。
勢いをかって「歩いて再び京の都へ」と乗り出した中山道六十九次。
またまた腹部大動脈瘤、心臓動脈硬化、そしておまけに腹部ヘルニア。
挫折しそうになりながらも、カミさんの支えもあって、またまた乗り越え
旅の再開。
そんな、じじばば道中ブログです*
9月10日に念願の旅を再開。
その時に足の中指に感じた痛み。
だいぶ前に低い段差に指をぶつけたことが有ったので、念のため
整形外科医へ院へ。
レントゲンでは骨には異常なし。
診察でも特に異常なところがないと言うことで、結局原因不明。
でも、痛かったんだから何かあった? (小声でヤブ)
指を触るとタコのような小さ硬質部分。
これかな?と昔使っていた医療ヤスリでごしごし。
カミさんが、靴下を五本指にしてみたら、といってさっそく買って来た。
タコみたいなのを処理し、五本指靴下をはいて、早朝散歩へ。
うん、まったく違和感がない。
カバーできたようだ、もう一度歩きに行ってみるか、
と早速19日(火)再び中山道の旅へ出発。
前回の度では足指に痛みが出て、信濃の国入りから9kmほど、
中山道、19番目の沓掛宿(現中軽井沢)で足止めでした。
9月19日(火)
AM6:00、快晴の予報を見てマイカーを走らせ、
ここは駅に隣接していて、町営なので料金も大変安く有りがたいですね。
駅トイレを使わせてもらい、AM8:00、第15回目、
沓掛宿からの旅立ち。
さすが軽井沢は高地、日差しは強いけれどヒンヤリとした爽やかな風。
歩き旅にはもってこいの日和です。
沓掛宿の街道は、現国道18号。
国道18号は中軽井沢駅入口で、群馬・草津、上野原方面から南下する
日本ロマンチック街道(146号)と合流しここから先は
長野・上田市まで続く日本ロマンチック街道です。
草津白根、志賀へ、また片品、金精峠、奥日光へと季節季節に訪れたときに
よくドライブした道でした。
今日の歩き目標は
足の異常が出なければ、
小田井宿~岩村田宿 1里7町 4.7Km
で、沓掛宿~岩村田宿 3里20町 14.0Kmです。
日本橋からの累計 42里3町 165.3Kmかな。
脇本陣跡、そして前回足を返した本陣跡を過ぎて進むと、道の右手向こう側に
小さな石碑が見えてます。(赤丸)
石碑は「草津道道標」で、当時この沓掛宿から草津までは約10里の距離だったと
いわれています
すぐ先で旧道が国道から分岐する。
旧道に入ってすぐ左手に道祖神。
右側の草陰に隠れた小さい双体道祖神は新しいようですね。
この先はゆるい坂道で、石垣に浅間山が大噴火した時流れ出た溶岩を
使っているようです。
この後も火山岩お上手く利用した石垣や、庭園を沢山見かけました。
旧道は国道18号線とほぼ並行してますが、別荘地らしい静かな木々に囲まれた
樹間の道を進みます。
道脇に、馬頭観音や地蔵菩薩、庚申塔、廿三夜供養塔等が残されていて、
旧中山道を旅していることを感じます。
しばらく歩くと、振り返って右手後方に浅間が姿を見せ、
秋桜が咲き田んぼでは稲穂が垂れる、古宿集落に入ったようです。
懐かしいですね。
集落は珍しく、温故・オンコ(イチイ)の垣根が多く、赤い実を沢山つけています。
故郷北海道では結構多い樹で、庭木や生垣に植えられてました。
子供のころ、口いっぱいに頬張って、種を噴き出したな・・
カミさんは食べたことがない、って一粒口へ。
ほのかな甘さ・・美味しいてさ。
もちろん、事前に種は絶対に噛まないように注意しましたよ。
けっこう種は毒性が有りますからね。
その先に石の鳥居が見え、火防(ひよけ)・火伏せの神として広く信仰された
秋葉神社の少し先で再び国道18号に合流です。
その角に数基の馬頭観音が祀られてます。
馬頭観音は、この先にも沢山残されてました。
信州は古くから馬の産地と言われます。
山や峠も多く、荷役に馬が活躍していたんでしょうね。
旧中山道は国道18号線と合流し少し先で三筋に別れます(写真左上)。
右側の路は国道18号の上り線。
真ん中の道、これが国道18号で旧中山道の下り線。
この先で国道18号バイパスのガードの下を潜り、緩やかに右にカーブします。
(写真左下)
国道18号線に沿って緩やかな坂を登っていくと、国道18号線と合流する手前のカーブを曲がり終えたところに左へ入る道があり、そこを左折。(写真右)
ここから旧街道らしい幅の狭い道になりました。
国道の抜け道になるのでしょうか、車の通行も多く注意しながら歩きます。
しばらく行くと左手に分かれる道が有り、
「関所さけて 女人が多く往来せし女街道と いふは寂し」
と記された「女街道入り口」の説明板が立ってました。
この道は、厳しい取り締まりの横川の関所を嫌った女性たちが、
上州(下仁田)に出る抜け道として利用していたんですね。
その先に「遠近宮(おちこちみや)」という神社があります。
その昔、浅間山麓一帯は幾つかの谷のような地形になっていて、
その谷々に僅かに人家があって、それが広い範囲に散在していたので
「遠近の里」と呼ばれていたそうです。
歌人・在原業平がこの里を通られた時に
「信濃なる浅間の嶽に立つ煙 遠近人の見やはとがめん」(伊勢物語)
と詠まれたのにちなみ「在原業平遠近宮」称した。
創立年代は不詳とのことですが、古くから当地の鎮守産土の神として
崇敬されているとのことです
遠近宮を過ぎた付近は、 “間の宿”「借宿(かりやど)」と呼ばれる集落です。
「借宿」は、江戸時代、中山道浅間三宿(軽井沢宿、沓掛宿と追分宿)の
“間の宿”として人馬の往来も盛んで、大いに繁栄したといわれます。
「借宿」という由来は、
源頼朝の狩り時に泊まったところが“狩宿”と呼ばれ、それが“借宿”に転じた。
…という説があるようです。
借宿の名主を務めていた土屋作右衛門家です。
中山道筋の代表的な米穀問屋(穀屋)であり、水車を持ち、造り酒屋、質屋、ちゅうき場(中馬業)、立て場茶屋などを営んでおり、江戸時代末期には寺子屋も開いていました。
幾度の改修を経てますが、黄壁の立派なお屋敷です
あっ、これだよ、道中記などでよく出てくる名物?交差点は。
真ん中に、上から信号機がぶら下がっています。
全国には何ヶ所か設置されてるそうですが、わりと閑散とした住宅街。
この交差点に、どうしてこのような信号機が設置されたのかな??
街道両脇は側溝が有り用水が流れています。
家の敷地内に水場が作られてました。
昔は農作物などを洗ったり、家畜の水飲み場だったのでしょうか。
沓掛宿からの中山道沿いでは道路脇のあちこちに多いのが、馬頭観音像です。
遠近宮から少し歩んだ先には、高さが5メートル近くもある
巨大な馬頭観音があります。
借宿には江戸時代に中馬稼ぎが多かったことから、馬の墓塔である馬頭観音像が
多いのだそうな。
“中馬(ちゅうま)稼ぎ”とは、
「江戸時代、信州の農民が農閑期の余業として、2~3頭の馬で物資を目的地まで
運送した輸送業のことで、農民の駄賃稼ぎということから、
“中馬稼ぎ”と呼ばれていました。
街道沿いの家の庭にも、馬頭観音が祀られてましたね。
街道はすぐ先で騒音に包まれる、国道18号に合流です。。
合流点の右側に18号から入る細い道が見え、入口に「従是左上州くさ津道」と
刻まれた道標が建ってます。
「上州道道標」と呼ばれ、ここが草津方面への道との「追分」ですね。
「草津道分去れ(わかされ)道標」と呼ばれています。
小さな道標が残っていましたが、この先の西、追分宿方面からやって来る人達には、
距離が短くなるので、ここから分かれて草津方面へ向かう往来は多かったようです。
国道18号を少し西へ進み、軽井沢追分歩道橋で右側へ渡ります。
100m先に「標高1003m」という表示が立っています。
群馬県高崎市から新潟県上越市に至る、”国道18号線”の最高地点を示す標識です。
(旧中山道ではありません)
ただし、現在は国道18号線”碓氷バイパス”を通るのが一般的で、
そこの最高地点である入山峠の標高は1,030m。
ということでこの場所は、碓氷バイパス開通以前の国道18号線の最高地点と
いうことですね。
なお、旧中山道の碓氷峠の最高地点(熊野神社あたり)の標高は1,190m。
幾つかある碓氷峠の中で、一番標高の高いところを通るのが旧中山道の碓氷峠
ということになるわけです。
峠から約190mくだってきたんだ!?
何年か前までは、この標識のある反対側(左側)には、あの峠の釜飯の
「おぎの屋」が有ったようですが、いまは空き地なってました。
標識からとほとほ進むと、右手の草が生い茂ったこんもりと盛り上がった
土手木立の中に江戸・日本橋から39番目、「追分一里塚」がありました。
この追分一里塚は、国道18号線の南側にもありますが、南側の塚は復元された
ものだそうです。
説明板には「江戸へ39里 京都へ91里14町」と書かれています。
京都まではあと91里14町、約360kmか。
お江戸日本橋から約160kmほど歩いて来たんだね。
この先に「追分宿→」という道路標識が出ています。
もう少し先で国道18号線から右に分岐する道、追分宿へと入って行きます。
続きます・・・