歩いて再び京の都へ 旧中山道夫婦旅   (第20回)    諏訪宿~塩尻宿  (前編)

 *ひょいと歩き出した東海道五十三次
途中で、断念かの肝臓癌をなんとか乗り越えて、京の三条大橋へ到着。
勢いをかって「歩いて再び京の都へ」と乗り出した中山道六十九次。
またまた腹部大動脈瘤、心臓動脈硬化、そしておまけに腹部ヘルニア。
挫折しそうになりながらも、カミさんの支えもあって、またまた乗り越え
旅の再開。
そんな、じじばば道中ブログです*

 

11月3日に歩き残してた「碓氷峠越え」を果たし、街道は江戸から

28番目・和田宿へ一本線に継ながりました、が・・

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次の江戸から29番目、下諏訪宿の間には標高1600mの和田峠

待ち受けています。

碓氷峠を越えた勢い(?)で、11月11、12日での峠越を予定してましたが、

峠道の状態はかなり悪路の情報もあり、やっとつないだ街道でしたが、

急きょ予定変更で峠越えは先に延ばし、12日(日)に、下諏訪宿から先へ足を

進めることにしました。

 

第20回、下諏訪宿から塩尻宿へ。

 

早朝、マイカーで出立。

久しぶりに圏央道、中央道と走り、塩尻駅前の駐車場へ車を停めて、

電車で下諏訪へ。

諏訪湖PA 正面が下諏訪、後ろの山並みが和田峠の山並み

    山頂の木々が白っぽく見えるのは霧氷かな)

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下諏訪駅から歩いて諏訪大社秋宮へ向かい、参拝後すぐ脇を通る旧中山道

諏訪宿中心部より、第20回の旅立ち。

御柱の立つ下諏訪駅

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日本最古の神社のひとつとして数えられる諏訪大社

下諏訪に鎮座する、諏訪大社下社・秋宮。

(今年の夏に寄ったことがありました)

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AM8:30。

右手から下ってくる旧中山道はこの角で右折し塩尻へ向かいます。

左手へ向かう道は甲州街道となり、ここは追分。

(旧中山道はここで右折し、車の停まってる後ろの道へ入ってゆきます)

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中山道甲州街道 追分道標

碑の左下地面に植えられたプレートには、

甲州道中・江戸53里11町、旧中山道・江戸55里7町、京都77里3町とある。 

今日の旅は下諏訪~塩尻、2里30町(約12km)

(その先、少し足を伸ばすので約14km)

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下諏訪宿中心部の散策は、和田峠越で到着時の楽しみとして、

塩尻宿へと旅の足を進めます。

元禄元年(1689年)創業、旧脇本陣にて現業を引き継ぐ「御宿まるや」

代々丸屋四朗を名乗ったそうです。

当時の図面や古文書をもとに、材料までこだわって忠実に旧脇本陣兼旅籠を

復元した美しい木造建築の今も人気の宿です。

(宿泊してみたいですね)

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向かい左手は安政10年(1690年)創業、木曽路名所図絵」にも描かれた

旅館「桔梗屋」があります。

あの東海道五十三次弥次喜多道中で有名な、十返舎一九安藤広重

和宮の母君など歴史に残る人物や、川合玉堂竹久夢二斎藤茂吉など多くの

文人、墨客にも愛された宿として今も盛業の人気宿。

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下諏訪宿中山道69次の中では唯一の温泉の出る宿場で、古い歴史を持つ

現業の温泉宿が何軒かあり、和田峠越えて到着できた時は是非宿泊し、

往時の旅気分を味わいたいと思ってます。

細かい格子窓の2階家は下諏訪町立歴史民俗資料館。 

明治初期に建てられた宿場の商家を利用したもので,狭い間口,長い奥行,

細格子が特徴的です。
下諏訪宿場町や、旅人の様子を描いた絵画や当時の風俗・生活を伝える資料がある

そうですが、まだ開館前。f:id:hansui:20171113133447j:plain

 

その先左軒下に右・甲州道、左・中山道の道標が在ります。

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看板もレトロ

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 国道と合流手前に復元された高札場跡

以前は先ほどのスタート地点、中山道甲州街道の合流点付近にあったそうですが、

場所が狭くなったために、宝永年間(1704~1710)に願いを出して、

現在の場所に移したそうです。

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高札場跡で大社通り(国道142号から国道20号になる)となりさらに下ります。

正面の山並み、塩尻峠を越えて木曽路へと向かいます。

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右手に弘化4年(1847年)に建立され、医師のみに建てることが許されたと

言う門構え「薬医門」がありました。

門の脇に木戸を付け、たとえ扉を閉めても四六時中患者が出入りできるように

していたともいわれています。

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しばらく大社道を下ると二股で国道を分岐、左手路へ入ります。

一段高くなった場所に「魁塚(さきがけつか)(相良塚)」

慶応4年、官軍(東山道軍)の江戸総攻撃先鋒隊を務めた、相良総三ら

赤報隊幹部8名が、新政府から「贋官軍」との烙印を押され岩倉具視より

追討令が下され、斬首・梟(さらし)首された場所という。

明治3年同志によって墓が造られ、地元の人々が刑場を魁塚として祀り続けて

いるそうです。

「相良総三」は,幕末の慶応3年(1867),西郷吉之助と結び江戸薩摩藩邸に

浪士600人ほどを集め、薩摩藩の意を受け江戸市中を撹乱し,幕府に対する

挑発行為を行い、追われると薩摩藩邸に逃げ込んだといわれる。

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進んで、諏訪大社春宮に通じる大門通りを渡った右角に大きな「春宮の常夜燈」が

建ってます。

右へ坂道を700mほど行くと諏訪大社下社・春宮です。

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 さすが御柱で有名な諏訪大社のおひざ元。

四本の御柱の囲まれて道祖神

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しばらく進むと道はT字路へ突き当り、さて、どっちかな?

街道書では、民家の間の小路道へ入るとあるが・・・有りました「中山道」標識!

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一人がやっと通れる道は、すぐに砥川の堤防上に出て中山道は川でt中断。
右手少し上流の国道20号の橋を渡り、その先で左折して中山道の道筋に復帰が、

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またまた細い小路の中山道

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小道は広い通りと交差し、渡って左電柱脇に石柱が有り、回り込んでみると道標。

街道からは裏側しか見えないので、車のためかな??

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マンホール蓋

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小さな川を渡ると地番が変わり、下諏訪町から岡谷市長地柴宮(おさちしばみや)

地区

 

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だらだらしたゆるい上り坂を、およそ600mほど進むと、左手に案内標識があり

横道を入った所が「旧渡辺家住宅」

 渡辺家は、高島藩(=諏訪藩)に仕えた散居武士(城下ではなく在郷の村々に

住んだ武士・郷士)で、家屋は茅葺,寄棟造りで18世紀中ごろの建築といわれ、

天保12年(1841)~にかけて改築され現状の間取りとなったという。

復元された藁ぶき屋根の武家屋敷は在りますが、現存する屋敷として貴重な建物と

言えるそうです。

(長野県県宝指定)

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(側の邸宅表札が渡辺家とありましたが・・)

 この一家から、渡辺国武・渡辺千秋・渡辺千冬の三人の大臣が出ている由。

少し先に平福寺。

真言宗智山派の寺で、戦国時代は諏訪大社下社春宮の別当寺であった。

日を限って願掛けすれば聞き届けてくれるという「日限地蔵尊(おひぎりさま)」

が有名で、毎月23日は縁日で賑わうと云う。

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 先の交差点を渡った左手に、寛政3年(1791)建立の「伊那道道標」

 「右 中山道 左 いなみち」とある。

百万遍供養塔を兼ねてるそうです。
当初の中山道は,元和2年(1616)塩尻峠が開通するまでは,ここで左折し

三沢峠(小野峠ともいう。塩尻峠より南方にある)を越えて木曽路へと向かっていた。

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しばらく生垣の大きな家屋敷の道が続きます。

わぁ~綺麗ね~、てカミさんが歓声!

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 街道はず~っとゆるい上り道が続いてます。

さきで国道20号と斜交し、

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その先右手の駐車場フェンス際に、笹竹に埋もれた格好の石碑が、
 江戸から56番目の一里塚「東堀一里塚跡碑」

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まだ小さな木ですが冬桜が咲いていた。

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振り返ると遠くに見えるは「八ヶ岳」かな?

だいぶ標高が高くなってきた様子。

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十字路角に道祖神と常夜燈

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十字路を渡ったかどの草むらに、ひっそりと馬頭観音

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「横河川」を”おおはし”で渡り今井地区に入ります。

左手下の方にキラキラ光ってるのは諏訪湖のようです。

ゆるゆる上ってきてるのがわかります。

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橋を渡った左手にたくさんの石塔群。

周りは銀杏の匂いが立ち込めていましたね

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おっ、お月さん!

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両側に家々の建ち並ぶゆるゆる坂をさらに歩きます。

狭い道ですがバス通りです。

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御柱に守られて「双体道祖神

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地域に溶け込んでいい風情の3階建住宅。

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すこし先に左手に有るのが、高島藩の口留番所跡(今井番所)。

口留番所は,旅人の通行や荷物の取り調べを行った所で、ここを通過するには

高島藩の通行手形が必要だったといわれる。

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そのさき右手黒板塀の続く屋敷が「今井茶屋本陣跡」

主屋ほか11件が国有形文化財に指定されている。

文久元年11月5日に皇女和宮が,明治13年2月4日に明治天皇がここで休息を

取っている

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この辺り旧今井村は,塩尻峠の東の登り口にあたり,ここは「今井立場」で当初は
街道沿いに四軒屋があったので,四つ屋と呼ばれたという。

(周辺のお屋敷には何軒かの「今井」の表札を見かけましたね)

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 ここら辺りから,徐々に塩尻峠への急な登りが始まります。

さらに旧道をゆくと、右手に「左 しほじり峠 中山道 右 しもすは」の道標が

置かれている。

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右手に不動尊道祖神・道標など比較的新しい石碑のいくつかを見ながら歩む。

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やがて、岡谷ICジャンクションの上を通り、アクセス道路が複雑に入り組む

かなり急な上り坂になる。

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振り返れば、眼下の諏訪湖越しに「富士のお山」

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そして左手に「八ヶ岳

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紅葉街道は急勾配の急坂となり、高度を上げてゆきます。

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道路の右手に100段近くもある急な石段を登った先に、

「石舟馬頭観音」が鎮座する。
ここには、足腰の病に霊験あらたかだそうで、多くのわらじが供えられており、

塩尻峠を前に、多くの旅人がお参りし足腰の無事を祈ったのだそうです

いまこそ階段に手すりが有るが、昔の旅人は足腰が強かったんですね。  

(手すりが無かったら登れなかった!)

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・・と思ったら脇道があり街道へ降りられます。

祠の脇の鳴沢を清水が流れ落ちている。

欽明水と云われ,街道を行きかう多くの旅人の喉を潤したという。

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岩船観音の先からいよいよ塩尻峠の本格的な急登が始まりました。

 一歩一歩また一歩。

左手に、木曽路名所図解に

「大石、塩尻峠東坂東側にあり、高さ二丈(約6m)横幅二間余(約3.6m)」

と記されている由の、昔から有名であったのだそうな「大岩」呼ばれる岩がある。

この岩は上には木が生えている?

諏訪七不思議の一つだそうです。

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急坂も木々の紅葉黄葉にいやされながら、はぁはぁ、ふうふう休み休みで

上って行きます。急坂は約1km続きます。

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馬もこの急坂を荷を積んで登り下りしたんだね、ひっそりと小さな馬頭観音

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唐松が黄葉し大きくゆっくりと揺れる様は素晴らしいですね。

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坂は斜度を増し、十歩登って一休みの繰り返し。

街道書では後、二曲がりの急騰で峠頂上かな?と淡い期待を・・

急登になって約1時間、頭上に明るさが増し峠は近い。

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最後の急騰を曲がると、でた~・・切通しの先は塩尻峠、頂上は標高1055m、

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 後編へ続きます、

歩いて再び京の都へ 旧中山道夫婦旅   (第19回)  碓氷峠越え 編

*ひょいと歩き出した東海道五十三次
途中で、断念かの肝臓癌をなんとか乗り越えて、京の三条大橋へ到着。
勢いをかって「歩いて再び京の都へ」と乗り出した中山道六十九次。
またまた腹部大動脈瘤、心臓動脈硬化、そしておまけに腹部ヘルニア。
挫折しそうになりながらも、カミさんの支えもあって、またまた乗り越え
旅の再開。
そんな、じじばば道中ブログです。

 

2016年9月17日、お江戸日本橋を旅立ちし、

12月17日に、旧中山道の一番目の難所、碓氷峠を控えた

上州(群馬)最後の宿場坂本宿到着で足止。

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雪の季節に入りのため、年が明けて、雪解けを待って再び旅へと思えども、

春以降に三回の入退院で足踏み。

足腰の衰えは顕著で、ある程度の体力は戻った感あるも、秋の入口になっても

難所、碓氷峠越えにはなかなか挑めない。

そんな弱腰を見かねたか、

「一筆書きの街道旅は途切れるけど峠は後回し、

   どんどん歩けるところを先へと行きましょう!」

と、カミさんの一言で、9月10日、峠登りを飛ばして信州信濃(長野県)

 碓氷峠頂上から軽井沢へ向かって旅を再開。

 

 

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旅を重ねて10月26日(木)には、日本橋から29番目の、和田宿を経て
中山道の最難所と言われる和田峠の口下の、唐沢集落入口へ到着し足止め。
今年の気候は、雪の季節がいつ来てもおかしくないような不安定。
26日に眺めた浅間山は綿帽子をかぶり、和田峠の一部道は降雪で通行止めに
なっていました。

 

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帰宅の車中で、

「早めに、歩き残した碓氷峠を登ってしまいましょう」とノリノリのカミさんの

意見で、天気予報と行ける日を調べ、

11月3日(祝)に歩き残してた「碓氷峠越え」旅立ち決定。

行き帰りの車の便とバス時刻をを検討して、マイカーを軽井沢の駅前に置き、

JR関東の路線バスで群馬県・横川駅へ下り、碓氷峠登り口の坂本宿を経て

峠へ取りつきます。

 

11月3日(金)、夜明け前にマイカーを走らせ、関越道、上信道を走り

順調にAM6:00軽井沢駅到着。

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いつものカップ天蕎麦で朝食、支度をして6:59発のJR関東バスに乗り、

18号バイパス峠を下り7:33横川駅前着。

横川駅前からは昨年秋に歩いたことがった、鉄道の廃線跡を利用した

アプトの道・遊歩道と行き、昨年足止めした碓氷峠入口へと向かいます。

 AM7:40

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 こんちわ~いい秋晴れですな~

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途中にある日帰り温泉、峠の湯前庭でトイレ休憩をしアプト道から離れ、

坂本宿を通る国道18号旧道(旧中山道)の坂本宿京方を過ぎ、

坂本浄水場の巨大な貯水タンクの脇を通る、細い道に入るのが旧中山道

安政遠足コース」の案内道標が有ります。

安中藩が実施していた「安政遠足」のコースは旧中山道とほぼ同じ道筋で

行われていました。

*「安政遠足・あんせいとおあし」

1855年安政2年)、安中藩主板倉勝明が藩士の鍛錬のため、藩士に安中城門から

碓氷峠熊野権現神社まで、7里余りの中山道を走らせた徒歩競走。

日本のマラソンの発祥といわれ、現代は「安政遠足 侍マラソン」と銘打ち

毎年5月の第2日曜日に開催され、毎回たくさんの仮装したランナーが走ります。*


ここからが旧中山道街道歩き旅で途切れていた、軽井沢宿へ向かう碓氷峠頂上

までの旧中山道が始まります。

 

AM9:00 旧中山道継ぎ旅へ、いざ出立。

(路面に置いての撮影)

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坂本宿~軽井沢宿は、2里34町 11.6Km

(今日は横川駅から軽井沢駅までなので、実歩き距離は15kmほどになるかな)

  道を進み突き当たりを左に曲がり、崖下を数10メートル歩き、

中山道」の表示がある所で 階段を上ると、さきほど分かれた国道18号旧道を

走っていた路線バス「中山道バス停留所」へ出ます。

(現在は路線バスは通常は有りません)

道を横断し、真っすぐスギ林の中へ入って行くのが街道です。

いよいよ中山道の難所『碓氷峠越え』のはじまりです。 

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中部北陸自然遊歩道も同じルートです。

f:id:hansui:20171104120358j:plainいよいよ中山道最大の難所である碓氷峠へ向かって、

最初に刎石山(はねいしやま)への杉木立の薄暗い急坂山道を登っていきます。

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登り始めてすぐ右手斜面上に「堂峰番所跡」の説明板が現れます。

説明板によれば、

堂峰番所は横川にある碓氷関所の出先機関で、裏番所とも呼ばれ、

碓氷関所を通らずに山中を抜ける、関所破りをする旅人を取り締まるために

設けられました。

「元和2年(1616年)に開設され、明治2年(1869年)まで使用されました。

堂峰の見晴らしのよい場所の石垣の上に番所を構え、中山道を挟んで西側に

定附同心の住宅が2軒置かれていて、門のの土台石が今も残されています」

(説明板の右側の石のようです)

昔は周辺の山はスギ林ではなかったんでしょうね。

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どうしてこんな山中に有るのでしょうか?「念仏百万遍供養塔」を過ぎ、

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見透しの無いV字型の薄暗い坂道急登が続きます。

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 我慢の登りを続けるうちに山の中腹に回り込み、広葉樹林になると木漏れ日の

山道になって、明るさが戻ってきます。

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岩屑だらけの山道を、足元を注意しながら歩きます。

だれかが置いたんだね、石灯籠型のケルン、右崖注意ですね。

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さらに急登は続きます。朽ち果てた道案内かな?

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急登の突き当りを左へ曲がったところが「壁曲」といい、

(数人のグループが急登を登ってきます)

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左が絶壁の「柱状節理」の説明板が立つ岩場に着きます。

柱状節理とは火成岩(溶岩)が冷却・固結する時に収縮して四角または六角の規則的な柱状に割れた岩盤のことで、それがこの絶壁に露出しています。

山道の角の有る岩屑はこの破片なんです。

f:id:hansui:20171104135014j:plain柱状節理のすぐ先には、馬頭観音や大日尊、南無阿弥陀仏碑などの石塔が

並んでいます。

前に坂本宿を通った時、上木戸「芭蕉句碑」がありましたが、

はかつてはこの場所にあったものなのだそうです。

f:id:hansui:20171104135756j:plainこの辺りのすごい傾斜地を通る坂は「刎石(はねいし)坂」と呼ばれ、坂本宿から

見えた刎石山の頂上に向かう坂です。

角の有る岩屑だらけの山道を、昔の人は草鞋履きで行き来したんですね。

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 その先左手に「上り地蔵 下り地蔵」の案内板だけが立っていて、

肝心の地蔵はどこかな?? 確認できません。

平らな石に線刻の地蔵像が刻まれたもので、1体が上り方向を向いていて、

もう1体が下り方向を向いているので「上り地蔵 下り地蔵」と呼ばれているとか。

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刎石坂を登りきって右へ曲がると、「覗き」と呼ばれる

展望台のような場所に出ます

ここは碓氷峠を歩いた皆さんが、必ず話題にする坂本宿がよく見える場所です。

坂本宿の街並みが一直線に整然と並んでいるのがよく分かります。

この景色は江戸時代も同じだったようで、小林一茶もこの絶景を見て次のような

一句をしたためています。

「坂本や 袂の下の 夕ひばり」 小林一茶

坂本宿の標高は約450メートル。刎石山の山頂の標高が810メートル。

この「覗き」は刎石山の山頂のすぐ近くですので、ここまで約350メートルの標高差を

一気に登ってきたわけです。

きつかったはずですね。

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同年代の感じの御夫婦が、眺めています。

このあとすぐに追い越してゆかれましたね。

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ここから先は緩やかな勾配に変わり、木漏れ日の中の快適な道が続きます。

周りの木々のい色合が変化し、モミジ、カエデの紅葉と、陽の光を受けて

黄金色に輝くカラマツなど、 赤や黄色が織りなす紅葉を楽しみながら歩きます。

まもなく馬頭観音があります。

馬頭観音の石碑があると言うことは、この狭くて急勾配が続く碓氷峠越えの道を

荷を背負った馬も越えていたということです。

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尾根道へ出てきたようで、先で再び杉木立の中へ入ります。

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その先左手に「風穴」という変わった穴があります。

溶岩の裂け目に手をかざすと、ほんのり暖かい湿った風が微かに感じられます。

苔には水滴の水玉が着いてます。風の入り口は?まさか噴気孔??

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しばらく木立の中を上ると、右側に「弘法の井戸」が見えてきました。

その昔、刎石山の山頂付近の茶屋が水不足で困っていた時、通りがかった

弘法大師空海が「ここに井戸を掘ればよい」と教えたのだそうです。

今でも水が出ているのだそうで水場だそうですが、屋根がつぶれてしまってます。

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 井戸からすぐ上のところで、道が平らになっています。

ここが弘法の井戸の水を使い、小池小左衛門の茶屋本陣をはじめ4軒の

茶屋があり、力餅やわらび餅等を売っていた「刎石茶屋跡」です。

峠行き来の大名や旅人が一休みした茶屋だったでしょうが、

現在は僅かに石垣や平場が残されているのみで杉木が林立し、

面影はうかがえません。 

弘法大師が教えた水を使ってた、ということは遠い昔から茶屋は有ったのだ!!

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茶屋跡の少し先へ行くと「碓氷坂関所跡」の説明板が建てられています。

説明板によると、

平安時代の昌泰2年(西暦899年)に碓氷坂の関所を設けた場所」と記されており、

1200年以上も昔からこの坂が、大和朝廷が置かれた近畿地方と関東地方を結ぶ

交通の要衝であったと言われます。

古い文献には、天慶3年(940年)に関所は廃せられたとあるそうです。

跡にはなぜか新しそうな東屋が建てられていて、道標には6.4kとありました。

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尾根道に出たようで、これまでの登り坂とは一変し、アップダウンの少ない

なだらかな道になりました。

このあたりから植生も変わり、ブナと思われる木々や落葉広葉樹の林となり、

彩られた街道を進んでいきます。

(峠越え紅葉はデジブックアルバムへ)

f:id:hansui:20171104150106j:plainしばらく緩やかな道を進むと急に道が狭くなり、両側が切り落とした深い谷に

なっている、「堀り切り跡」と呼ばれている尾根道になり、案内板が立ってます。
天正18年(1590年)、豊臣秀吉の小田原攻め時、北陸・信州軍の進軍を防ぐため、

松井田城主大道寺政繁が、元々狭かった尾根道をさらに削って狭くし、

北陸・信州軍の進軍をここで食い止めようとしたものだそうです。

以外に短い区間だけれど一人ずつしか通れないですね。f:id:hansui:20171104151636j:plain掘りきりを過ぎ紅葉の明るい尾根道を進みます。f:id:hansui:20171104151842j:plainしばらく明るい尾根の掘割状の道を行き南に回り込んだ途端に、

道の左側が絶壁となり、ここもちょっと危険な場所です。 

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昔、この付近は道に逃げ場がなく、山賊が頻繁に出たところと言われてるようです。

この険しい場所を抜けると、絶壁の途中の岩の上に寛政3年(1791年)に建立された

「南向馬頭観音」が立ってます。

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その先で尾根の北側に出たところに、文化15年(1808年)に建てられた

「北向馬頭観音」が在ります。

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山の稜線(尾根線)を通ってはいるのが、「南向馬頭観音」は進行方向左側が、

「北向馬頭観音」は進行方向右側が険しい崖斜面になっていて、

人馬ともに危険な場所であり、安全を見守るために祀られたものでしょうか。

しばらく笹路を歩み、

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10分ほど歩くと「一里塚跡」の説明板があります。

江戸・日本橋から数えて36里目の一里塚なのですが、どれが一里塚なのかは

よく分かりません。

案内板に「座頭ころがしの坂を下ったところに、慶長以前の旧道(東山道)がある。

ここから昔は登っていった。

その途中に小山を切り開き『一里塚』がつくられている」と説明されています。

この付近から東山道中山道は少し違うルートを辿っていたようです。

(一説にはこ看板の裏側の左尾根上に旧道(東山道)らしき跡があり、

 一里塚らしい小山も見られるとか。)

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 一里塚跡から少し行くと「座頭ころがし」の急な坂に差し掛かります。

急傾斜の坂道となり、路面には岩や小石がゴロゴロしています。

街道書では、赤土となり、おまけに常に湿っているので滑りやすい難所で、

目が不自由となれば、この滑りやすい坂道はかなり難儀しただろう、とのことから

「座頭ころがし」と呼ばれた、とありました。f:id:hansui:20171104160846j:plain

今日何人目になるかな? 登り下り多く山道を楽しむ方々に会いましたね。

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急坂を登りきると、この先はしばらくゆるやかな坂道が続きます。 

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尾根道になりカラマツが現れ、黄葉が綺麗になってきました。

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f:id:hansui:20171104161924j:plain明治8年(1875年)の明治天皇北陸巡幸の際に設けられた迂回路が左から上がってきて、ここで合流します。

御巡幸道はここから国道18号線の碓氷橋へ出るルートになっており、この場所は

中山道と追分の形になっていました。

現在、明治天皇御巡幸道は途中の崖崩れ等によって通行不能になってるそうです。

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謎の標識

f:id:hansui:20171104162248j:plainすぐ先のちょっと広くなった「栗が原」と呼ばれる場所には、

巡行に先立ち、明治8年(1875年)群馬県で最初の「見回り方屯所」が設置され、

この「見回り方屯所」が交番の始まりであるといわれているそうです。

時刻ははやお昼で、相変わらずの亀足歩き。

明るい開けたところなので、倒木に腰かけていつもの機能食品で昼食兼一休み。 

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栗が原のすぐ先は進行方向の左側が谷で、急勾配の斜面になっていて、

ちょっと危険な道が続きます。

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紅葉を楽しむ、外人グループ(コンニチワ、の挨拶でしたね)

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路面幅の底深い掘割状の、狭いV字形の道が続きます。

安政遠足への練習かな?、何人目かのトレイルランナーが駆け下りてゆきました。

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なだらかな鞍部のような明るい所へ出ました。素晴らしい赤黄葉です。

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しばらく歩くと所々で倒木に遮られる、杉林の中を通る狭い道に変わります。

このあたりは「入道くぼ」と呼ばれています。

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ここは「入道くぼ」と説明板に在りますが、意味はを読んでもよく分かりません。

手前の深い切通し風の道のことかな?

説明板の後ろ上に「入道くぼ線刻馬頭観音」があります。

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 「入道くぼ」はこの先の山中茶屋入口に当たり、道は唐松並木となって

車が通れるほどの広い道になり、右手斜面も石状のもので補強されてます。

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左側にはかなりしっかりしたコンクリート製の擁壁が造られています。

人が住んでいた形跡のようですが、何の目的で造られたものなの?? f:id:hansui:20171104170946j:plain

またランナーが走り抜けてゆきました。

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コンクリートの擁壁を通り過ぎると「山中茶屋跡」の説明板があります。

資料によれば、

山中茶屋は碓氷峠ルートのちょうど中心あたりにあった茶屋で、

寛文2年(1662年)の記録によると、この場所には13軒の立場茶屋があり、

茶屋本陣や寺もあり、その茶屋本陣には「上段の間」が2ヶ所もあったという。

こんな山の上の場所ですが、それなりの数の人がここで暮らし、明治期には

小学校もあったそうです。

明治11年(1878年)の明治天皇御巡幸の際には、児童が25人いたので25円の下附が

あったそうです。

倒木も多く今は廃墟と化してますが、集落跡には石垣や墓、コンクリート製の

下水溝等が残骸のように残された廃墟となってます。

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右手の小屋が小学校跡のようです。

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茶屋跡を過ぎ尾根道を行くと、

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いったん下った先にある登り坂が「山中坂」。

案内板によれば

「空腹では登るのは困難という急坂で、旅人達は先ほどの山中茶屋でちゃんと飯を

喰ってから登ったことから「飯喰い坂」と呼ばれ、中茶屋の集落はこの坂が

あったから繁盛していた」

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実感としては飯を食うほどでは??の、少し急になった坂を上ると、

廃屋・廃棄されたようなバスが見えてきます。

霞んだ看板文字からこの周辺は分譲地(別荘?)だった様子です。

バスはその会社の物だったようで送迎ようだったのかな?。

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ここで急に上の方から、何かが勢いよく駆け下る音が聞こえてきました。

かなりのスピードで下って来たマウンテンバイクでした。

カーブの急坂で前を行くカミさんを直前に気づき、一瞬曲がらずにまっすぐバスの

置かれてる方向へ乗り込むようにして止り、慌てて後続するもう一台に

曲がらないよう指示しました。

あのまま曲がってきたら、かなり危険だった感じで、

二人は何度も詫びを言ってましたが、カミさんも足が竦んだと言ってましたね。

最近はこのような登山やハイキング道で、MTBの走り抜けに多く出会いますが、

衝突危険に直面したのは初めてです。

 

そんなショッキングもありましたが、大事が無くって良かったねで少し急坂を

上ると「一つ家跡」説明板が立ってます。

「ここに老婆が居て旅人を苦しめた」とだけ書かれてますが?

江戸時代にこの辺りに、老婆が商う一軒の茶屋が有ったのでしょうかね。

どんな意地悪をしたのでしょう。f:id:hansui:20171104172300j:plain一つ家跡からしばらく尾根下のスギ林道を行くと、明かるい広場に出ます。

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 「陣馬が原」と呼ばれる古戦場跡に到着します。

古くは、太平記に新田方と足利方の合戦がこの場所で行われたと記されおり、

また戦国時代になると、武田方と上杉方の合戦が行われた場所と言われます。

古戦場か、狭いけどな~。

また、このあたりは子持山山頂の標高(1,107m)の頂上付近になるようです。

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陣馬が原で道は「追分」になっていて、道は二手に分かれます。

右は皇女和宮降嫁時に拓かれた和宮道で、比較的広く安全な道になってる

そうです。

中山道は左の道に入って行きます。

安政遠足は和宮道を通って熊野神社を目指すのだそうで、

ここから先の区間だけが、旧中山道とは違ったコースになっているのだそうです。

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尾根沿いの細い道を唐松黄葉を楽しみながらしばらく進みます。

ちゃんと「中山道」の案内表示も出ています。

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紅葉、黄葉に彩られた明るき道、天気晴朗のうえ風も無し。

旅を忘れてハイキング。

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まもなくチョロチョロと流れる小川が道を横切っているところに出ますが、

ここが「化粧水跡」といわれる場所です。

峠を登る人々が一息入れ、水に映った己の姿を整えたと言われる水場ですが、

倒木や雑草の繁りに埋もれ面影も無し。

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倒木の多い荒れた道のその先谷沿いの崖に、人馬の労をねぎらう休憩所だった

「人馬施行所跡」案内板が立っています。

案内板によると「人馬施行所」は、

文政11年(1828年)、江戸呉服橋の与兵衛という商人が、安中藩から

間口17間,奥行き20間の土地を借りて、この笹沢の清流が流れるほとりに

人馬が休める休憩所を造ったところなのだそうです。

“施行”という文字からすると、主として旅費の乏しい旅人のための茶屋だったようで

いまでいう「ボランティア運営」のようですね。

おもてなしとは違う、持てる者は救いを施せの優しさかな。

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人馬施行所跡の左側の下に川があり、細いですが結構な渓流です。

ここは橋がなく、飛び石伝いで渡りますが、雨の時にここを渡れるのか、ですね。

足場も悪く飛び越えるには難しそう。

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沢を渡ると、細い急勾配の道となりジグザグに登っていきます。

ここが「長坂」と呼ばれる急斜面の坂です。

和宮道」はこの急坂を避けるために設けられたといわれます。

坂本からの登り口も急坂でしたが、この坂もかなりのキツさです。

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きつい登りが続きますが、木々の美しい眺めにいやされながら、

一歩一歩足を進めます。

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熊笹が生い茂る区間を過ぎても、旧中山道は急な登り坂が続き、汗ばんできます。

日が西へだいぶ傾いて来たようです。

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急登は30分ほど続きやっと平坦なところへ抜けました。

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一休みして 呼吸を整え、その先はこの長坂の急斜面の坂を避けて、大きく

迂回してきた和宮道との合流点(追分)に到着します。

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左から来た和宮道と合流した場所に、明治維新で廃棄された神宮寺の

「仁王門跡碑」や小さな祠などの「石塔群」が散在しています。

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仁王門は元々は熊野神社の神宮寺の入口にあったもので、明治元年(1868年)に

神仏判然令により神宮寺は廃寺となり、その時に仁王門も廃棄されてしまいました。

仁王様自体は今も熊野神社の神楽殿に保存されているそうです。

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和宮道との合流点の付近には「思婦石」が建っています。

別名を「日本武尊をしのぶ歌碑」とも言われており、群馬郡室田の国学者・関橋守

作で安政4年(1857年)に建立された「日本武尊」の故事を詠った歌碑です。

 「ありし代に かえりみしてふ碓氷山 今も恋しき 吾妻路の空」

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熊野神社まではもう一息です。

あれ、「熊出没注意!」の立て看板だ、そういえば、注意看板は下には

なかったのでは?

(クマよけは、わたしはベル型でカミさんは風鈴型をつけてましたよ)。

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道標に中山道霧積温泉の文字が有りました。

西條八十詩集』の麦わら帽子の詩、

「母さん、僕のあの帽子どうしたでしょうね」

ええ、夏、碓氷から霧積へゆくみちで、谷底へ落としたあの麦わら帽子ですよ

霧積温泉は、森村誠一の長編推理小説人間の証明」に出てくる舞台ですね。

 

最後の坂道を上ります。 

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PM2:40過ぎですが、途中、私たちを追い越して登っていったご夫婦が、

今度は坂道を下って行きました。
歩きなれてるようで、かなりの速さです。

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PM2:45、中山道碓氷峠の頂上に到着しました。

登山口から登り始めて約5時間45分。

亀足歩きでも一歩一歩上った、中山道最大の難所と呼ばれるに相応しい碓氷峠

一度はあきらめかけた峠越えです、いや~嬉しかったですね。

群馬県側速玉男命を祀る新宮「熊野神社」へお礼参り。

すでに碓氷峠頂上から西への街道は進んでますが、これで正式に関東平野

別れを告げ、碓氷峠を越えて長野県への継ぎたしができたことになります。

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中山道の旅も一本につなげることが出来ました。

まだまだこれから軽井沢駅までの6kmほどの歩きが続きます。

名物「力餅」で疲労回復元気を貰い、「碓氷峠遊覧歩道」で下ります。

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木立越に浅間山

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PM5:00、軽井沢駅駐車場

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満月のようなまんまる月に見送られ家路へ。

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 継ぎたし旅は終わりました。

 

峠紅葉、デジブックアルバム

www.digibook.net

 

歩いて再び京の都へ 旧中山道夫婦旅   (第18回)  長久保宿~和田宿 後編

*ひょいと歩き出した東海道五十三次
途中で、断念かの肝臓癌をなんとか乗り越えて、京の三条大橋へ到着。
勢いをかって「歩いて再び京の都へ」と乗り出した中山道六十九次。
またまた腹部大動脈瘤、心臓動脈硬化、そしておまけに腹部ヘルニア。
挫折しそうになりながらも、カミさんの支えもあって、またまた乗り越え
旅の再開。
そんな、じじばば道中ブログです。

 

10月26日(木)晴天の予報に早朝家を立ち、長久保宿から歩き始めました。

後編です。

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*振り返り振り返り浅間山を見ながら緩やかな坂を上り、Y字路を左に進むと 

「是より和田宿」と刻字した大きな石碑が建っている。

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和田宿は江戸から28番目の、国指定史跡・宿場町です。

現在の長野県小県郡長和町和田の中心部一帯に位置し、

日本橋から、49里25町 195.2km

 

【和田宿・概要】資料より

*和田宿(長野県長和町)は江戸時代初期の慶長7年(1602年)に

中山道(享保元年:1716年以前は中仙道)が設定された事に伴い

慶長8年(1603年)頃に開設された、江戸板橋宿から28番目の宿場町で、

和田峠麓に位置する下諏訪宿(長野県下諏訪町)までの道筋は

慶長19年(1614年)頃に完成されたと推定されています。

宿場町として成立する以前は、和田城の城下町として中町・下町が既に町割りされ

ていましたが、改めて上町が町割りされ、さらに周辺の雨原、細尾、鍛冶足、

久保などに集落から人家を集積し、江戸時代中期の正徳3年(1713)には船場

新田を宿場町に組み入れています。

江戸時代後期の天保14年(1843年)「中山道宿村大概帳」には、

和田宿の長さは7町58間(約870m)、人口522人、家屋数126軒、

本陣1軒、問屋2軒、旅籠28軒(大規模12軒、中規模4軒、小規模12軒)で

構成されていました。

和田宿と下諏訪宿との距離は、中山道の中の宿場町間としては最長距離で、

難所として知られた和田峠を控えていた事から、伝馬役、歩行役の負担が大きく、

江戸時代後期の天保3年(1832年)には、馬は延7744匹、

人足は延17759人に上りました。

現在も和田宿周辺には中山道の道筋や町並み、

伝統的建造物(脇本陣、下の問屋、なが井、よろずや)、

交通施設(東餅屋茶屋跡、和田宿本陣、唐沢一里塚・永代人馬施行所)などが

残されている事から国指定史跡に指定されています* 

 

 

難所であった和田峠(1600m)の入口にあり,標高820メートル余りの

静かな山里で、参勤交代で通行する大名は34家で、

下諏訪宿まで5里18町(約23km)と距離があったため,荷駄を運ぶための

伝馬役が、最盛期には70軒ほどあった。

和田宿は東口から原、新田、橋場、下町、中町、上町に区分けされていました。

 

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すすんですぐ右手に道祖神があり、その先は学校下のバス停と奥にモダンな小学校。

この付近は新田地区。

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和田小学校を過ぎて中学校手前に和田神社の鳥居が立ってます。

社殿は500mほど奥に鎮座しているそうでが立ち寄りはしませんでした。

(帰宅してから判ったことですが、和田中学はこの春に閉校になったようです。

 どうりでバス乗っていた中学生らしい生徒は、長久保まで乗っていたはずです)

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街道らしい右に左の曲がる道筋を行きます。

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和田の原バス停を過ぎて、右に曲がりきったところに和田城主大井信定が

城の鬼門除けに建立したといわれる、八幡神社があります。

神社の手前には道標と国史跡の指定碑がありました。

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八幡神社 、祭神は仁徳天皇

旧和田城の鬼門の方角に建立され、後に和田宿の守護神となった。

社殿は拝殿と、本殿を収めた覆屋とを併合した一間社流造。

棟札には享保6年(1721年)建立とある.

拝殿と覆屋を合併した建築は大変珍しそうで、

資料には、入母屋造平入、正面千鳥破風、桁行3間、梁間1軒。
本殿は、白木造の一間社流造の間口1.7m、奥行き1.8mの大きさで、

蟇又に巴紋が入っており、妻の大瓶束が軍配団扇形となっている、とある。

(格子越に覆屋が見えるだけ)

(一間社流造・桁行(正面)の柱間が1間(柱が2本)であれば一間社流造)

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街道書を見て、「かやぶき屋根とあるけど、この神社も修復したようね」

とカミさんが言う通り最近葺き直しをしたようで、先の若宮八幡神社の覆屋も

茅葺ではなかったですね。(トタン屋根に見えたが?)

時代の流れ、維持管理を思うとやむを得ないと思います。

でも、茅葺やねの社殿、見たかったな~・・が本音。

 

 御神木、欅(ケヤキ)樹齢推定350年

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神社を後に新田地域を歩みます。

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和田宿は文久元年(1861年)の大火で殆ど焼失したが、半年後の和宮降嫁に備え、

幕府の威信をかけて短期に復旧したといわれる。

大政奉還された僅か7年前なんですね。

あれ、倒れてるが石仏の様だが? ただの石かな?

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民家の脇に湧水の水場と、笹の中に祝言道祖神(平成3年に建てた)が覗いてます。

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すぐ先が菩薩寺への参道です。

菩薩寺の開山は大変古く、平安時代・安和2年(969年)といわれ、

本尊は愛染明王

本堂は武田信玄との兵火により焼失し、江戸時代に再建され、

平成14年完全修復工事がされたいる。

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境内前の石橋下は散策道となっていたので、その道を通って街道へ戻ることに。

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しばらく曲がりくねった裏道を下って行くと川沿い道に出ます。

川に沿って少し下ると街道を及川橋で渡ると和田宿中心、下町・仲町へと入ります。

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和田宿は先述の通り、文久元年(1861年)の大火で本陣、脇本陣、旅籠など

109戸が全焼しています。

しかし数か月後に控えた皇女和宮の宿泊地であったため、幕府の援助を得て

全国から大工を集め、昼夜兼行の突貫工事で、

なんと!なんと!!たった4カ月で全宿場町を復興したそうです。

ちなみに、延べ8万人の皇女和宮一行は、和田宿を4日間かけて通過した!!!、

橋を渡った川沿いすぐの所が「かわち屋・現、歴史の道資料館(大火後再建)」です。

ここは旅籠で、切妻平入、出桁造り出格子の堅牢な造りの二階建で、上客向けの

旅籠だったそうで、江戸末期の建築様式が残されており、

修復が行われ「歴史の道資料館」として公開されてます。

(拝観はそのほか、和田宿本陣、大黒屋、黒曜石石器資料館など

  5か所の共通券で300円です)

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上客用の別門

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入口土間、庭、二階格子から見下ろす街道

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裏手に黒曜石石器資料館がありちょと立ち寄り。

和田峠周辺は黒曜石の産地で,旧石器時代の人々はこれを加工して道具として

使用していた。この資料館には男女倉遺跡から出土した石器を中心に展示されている。

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両館を係りの方の案内説明を受けながら、ゆっくり拝見、後にします。

「たかき」の屋号で旅籠を営んでいた。

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下の問屋跡・山木屋

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山木屋の隣は旧旅籠、後穀物商・大黒屋。

先ほどの資料館で説明を受けましたが、建物が街道より少し高くなってたり、

奥に離れてるのは、明治以降、道路改修工事によって道路を低くしたり、

拡張したためだそうです。

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 重厚な門構え、土蔵建築の江戸情緒たっぷり、「穀屋」

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明和2年(1765年)以降名主を務めた役宅跡 羽田家

文久の大火後に建てられた、平入出桁の門付旅籠型の代表的遺構。

かあちゃんの家」として、地元料理の店として営業されてましたが、

2015年より蕎麦懐石の店「蕎麦や徳田」として営業中。

(朝はカップ蕎麦、お昼新蕎麦を頂きました)

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羽田家は現長和町一帯の一族名士でしょうか。

さきの若宮八幡神社に、羽田家先祖の墓がありましたね。

(町長も羽田姓だった)

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カミさんは十割蕎麦の田舎蕎麦、私は長和産 信濃霧山十割ダッタンそば(手前)。

(ダッタンそばとは、もともと中国北部に住む民族、韃靼人(タタール人)たちが

栽培していた苦蕎麦なんだそうで、血液をサラサラにするといわれるルチンを

大量に含んでいるようです。ステント留置の今のわしにはぴったりの蕎麦ですね) 

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「蕎麦や徳田」の脇道を進むと曹洞宗・ 信定寺の参門に突き当たります。

信定寺は天文22年(1553年)に、和田城主大井信定の菩提を弔う為に

建立された。

丁度この信定寺の裏山が和田城跡で、江戸時代には京都二条殿の庇護を受け、

日光東照宮参拝の例幣使一行や、諸大名も和田宿に立ち寄った際には

信定寺に参拝したといわれてます。

(若宮八幡神社境内の大井定信の墓は、当寺の6世来安察伝和尚が建立)

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本堂の本尊として安置されている「釈迦如来」は鎌倉時代末ころの作で、

光背台座は江戸時代といわれる。

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街道に戻り、道の向かい角に立派な門構は代々長井家が勤めた、和田宿本陣跡。

和田本陣冠木門   

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和田本陣屋敷門

(図をもとに再現された由)

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解説板によると、

 

当時の本陣は大名が泊まる「座敷棟」と、本陣の所有者が寝泊まりしていた

生活棟のいわゆる「居室棟」に分かれていたが、現存しているのは居室棟の方で、

皇女和宮が宿泊したという「上段の間」などがあった座敷棟や座敷門は

移転(売却)され失われてしまった。

その後、昭和59年までは和田村役場として使われいた事もあった。
役場移転で解体の危機にあったが、昭和61年に「居室棟」と一部残されていた

座敷部分を解体修理復元され、本陣跡として一般公開されている。

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昌葺きに石置きの屋根。

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係りの方に案内していただきながら見学させていただきました。

 

旅籠屋を営み「年寄りを勤めた石合家。

典型的な旅籠屋の外観を残されている。

先日通った、長久保宿本陣と同名の家であるので、同族であろうか

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上の問屋を勤めた、米屋鐵五郎、現「和田宿休憩所」

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その隣は、和田宿で唯一営業していた「本亭旅館」、跡になるかな。

昔は名主だった長井氏の屋敷を改築した建物といわれ、中山道を旅する人に

大変人気のあった宿だったが、2012年に営業を停止。

これにより和田宿での宿泊は不可となってしまった。

(少し荒廃した感じでしたね)

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向かいは今朝バスに乗った、上和田バス停でその左手が、

和田宿には翠川氏と羽田氏の2軒の脇本陣があったようで、

その脇本陣の1軒、翠川(みどりかわ)家脇本陣跡。

大火後再建され、現在残っているのは公開はしていないが、御殿部分で、

上段の間、二の間、脇上段など当時の部屋がそのまま残こされている由。

(朝写した写真)

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宿場の中心、下町・中町から上町に足を進めると火返しの卯建が備え付けられた、

江戸期に質屋と両替商を営んでいた「よろず屋」が建っていますます。

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和田宿もそろそろ京方の口が近づいて来たようです。

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不動明王が安置されたお堂を併設の上町公民館を過ぎると・・

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上町中バス停前に高札場跡があります。

跡地に立っている案内板によると,

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今は平らなところに立ってます。

 

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高札場跡の先で街道は曲がり、桝形でこのあたりで和田宿は通過したようです。

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和田宿を抜けると街道は傾斜を増し、和田峠へと向かいます。

広重画・和田宿は和田峠ですね。

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田上町バス停の向に馬頭観音

 

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和田宿の外れ上町標識、そして振り向けば浅間山

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さらに進むと道祖神に真っ赤に実った、ヒメリンゴ浅間山

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みちはくねくねとアップダウンを繰り返しながらも少しずつ上って行きます。

民家の土壁蔵脇に双体道祖神

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鍛冶足バス停を過ぎ、和田鍛治足交差点で国道142号線を横断、斜め左の道筋に

入ります。

交差点に日本橋から五十里目・鍛治足の一里塚跡があります。

(単純計算で日本橋から200km!ですが、実質的には200kはもう少し先か??)

傍に道標「左松澤歩道 右諏訪街道」があります。

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一里塚跡を過ぎしばらくはゆるい坂道を上って行き、茅葺屋根の大出バス停を見て

すぐの二股を道標に従って左手へと入ります。

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大出川沿いの大出集落の細い道を上って行くと、先で国道142号に合流します。

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国道142に合流し、この先は唐沢集落まで民家が無いようです。

中山道は、昔は国道に合流するこの辺りからは、国道の左手を流れる川沿いの

道だったそうですが、現在は川に削られてほとんど残っていないそうです。

 写真、左上の右側坂道が歩いて来た道

国道山側に二基の石碑が建ってるが何の石碑か・・

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国道山側に導管が有って、左下の大出川に発電所があるようです。

振り返ると浅間山

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以前は酷かったのでしょうね・・ご利益があった様で付近は綺麗です。

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まさに国道(酷道)、ぽつんぽつんとドライブインが有るがだけの、

歩道のない道は、後ろから煽られないよう右側を車と対面で歩きます。

前方からの大型車には通過するまで足を踏ん張って立ち止まります。

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食事処「杉の屋」の街道沿いの杉木立の足元に、男女双体道祖神中山道石柱

があります。

街道書には

「ここに二軒の茶屋があり、うち一軒は「塩つけ宿」と呼ばれる中牛馬稼ぎの

 宿泊所であった。信州の特産品を上州(群馬)まで運び、帰路は貴重な塩を

 持ち帰った」とあります。

また別の資料には、「昔,幕府の用材の木曽檜を牛に載せて江戸に運び,

 この牛を泊める宿」があったとありました。

牛宿があったようですが、見渡してもわかりませんでしたね。

峠への道もこの辺で標高は910mくらいだそうです。

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しばらく先へすすむとやっと左側に歩道らしきものが見てきました。

やれやれ一安心です。

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「あら、かぼちゃよ!」の声にt近づくと、道路脇にごろごろ小さめの南瓜が

実ってます。

どうも側の農作物処分のところから発芽して育ってしまったようですね。

「このあいだ、庭に埋めた残廃からも芽が出て抜いたばかりだね」

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しばらく先で扉峠への道が分岐し、左側のライブイン和田峠の敷地に

茅葺屋根の扉峠バス停が現れます。

(扉峠への道は、朝の道路情報では降雪で通行止めとなっていました)

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中山道は国道142号線から、右手の側道に入って進み(写真左)、

和田川を渡って、再び国道142号線に合流(写真右)します。

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道路右手に大きな石灯籠のあり、向かい側の道路左手に

緩い上り坂の道が国道から分岐してるが見られます。

この道は古道で古中山道と呼ばれ、先には日本橋から51番目の唐沢の一里塚跡が
両塚とも残されてます。
天保2年(1831年)以前に街道の付け替えがあり山中に取り残されたと
言われてます。

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すぐ先で旧中山道は国道142号から右手に分かれて、坂を下って行き

峠手前、最後の唐沢集落を通って和田峠へと通じます。

今日の歩き旅はこの分岐点、唐沢下バス停にて足止めとしました。

(資料等から計算すると、この付近が日本橋かえら200kmになるようですが)

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ここから和田峠越えの入口、男女倉口まで約1.5kmです。

今日の峠情報では降雪との表示もありました。

先には中山道最難関の和田峠越えが待ってますが、峠越えは年を越して

来春の雪解けを待ってとなるかな~・・・

PM2:19のバスにて車を停めた道の駅・和田宿ステーションへ戻り、

帰路へ。

「まだ歩き残してる碓氷峠越をしなくしなくてはね」て

カミさんがノリノリです。

和田宿マンホール蓋も和田峠

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第18回、おわり。

 

 

 

歩いて再び京の都へ 旧中山道夫婦旅   (第18回)  長久保宿~和田宿 前編

*ひょいと歩き出した東海道五十三次
途中で、断念かの肝臓癌をなんとか乗り越えて、京の三条大橋へ到着。
勢いをかって「歩いて再び京の都へ」と乗り出した中山道六十九次。
またまた腹部大動脈瘤、心臓動脈硬化、そしておまけに腹部ヘルニア。
挫折しそうになりながらも、カミさんの支えもあって、またまた乗り越え
旅の再開。
そんな、じじばば道中ブログです。*

 

2017年10月17日 江戸から27番目、長久保宿へ着きました。
現在の長野県小県郡長和町長久保

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 10月25日(水)、台風が過ぎても雨が続いています。

この週末は天気が崩れ、台風の襲来も予報されていた。

10月28日の土曜に予定していた街道歩き旅も、可否が怪しくなってきました。

天気予報を見ていたカミさんが、

「土曜はダメそうだけど明日木曜は晴天だそうよ、思い切って行かない?」

カミさんのパートも休みということもあって、

「行っちゃうか、思い切って」と急いでバス時刻を再確認して街道案内書を

コピーして旅立ち準備。

10月26日(木)、バス連絡時刻もあるので、

いつもより早め、AM3:30頃に自宅をマイカーで出立。

関越、上越高速を走り、先日越えた笠取峠を走り抜け、

冷え込み厳しい、長野県長和町和田の道の駅・和田ステーションへ

AM6:20到着。

いつものカップ蕎麦で朝食、支度をして歩いて5分ほどのバス停へ。

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ここは本来ならば、歩いて到着するはずの和田宿のど真ん中のバス停。

ここから一旦長和町巡回バスにて前回の足止め先、長久保宿へ向かい、

再びこの地を通って和田峠方面へ向かいます。

横断木橋歩道は、冷え込みで凍りつるつるでした。

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長和町巡回バスは、なんと運賃は全線100円。

年齢割りもあって、私は半額で、二人合わせても150円とは!!

通学の中、高校生と一緒に、20分ほどバスに揺られ長久保バス停着。

 

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AM7:40、長久保宿・竪町と横町の曲がり角L枡形の角より、

第18回目の旅立ち。奥へ延びる中山道へと歩みます。

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左手に、出桁造りで総2階建ての母屋は江戸時代末頃の建築,

元旅籠辰野屋(竹重屋)が有ります。

f:id:hansui:20171027173522j:plain旅籠辰野屋を過ぎたところで、宿場内の旧道は横町バス停を過ぎ、

桝形(長久保宿京方)となって右に曲がり、

 

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すぐに左に折れて長久保横町交差点で、笠取峠から下って来た国道142号に合流。

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合流手前の太い丸太に「是より久保宿」と書かれている。

(ありゃ、文字の方から写してないや!)

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しばらく国道142をの緩いくだり坂を行くと、

左手土手に文化10年(1813年)に立てられたという「馬頭観音」と石仏。

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長久保交差点で国道152号線の大門道に合流する。

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和田宿までおよそ8km。

長久保宿の標高は680m,和田宿が850m,標高差およそ170mの

長くゆるい上り道となって行きます。

f:id:hansui:20171027181611j:plain畑の広がる長閑な道を歩きます。

 

f:id:hansui:20171027181740j:plain進行方向右手にある「中山道」という屋号の食堂。

店前に道祖神と謂れ版

f:id:hansui:20171027181928j:plain併合国道142号、152号線をおよそ400mほど行った、右分岐の道を下ると、

日本橋から48番目,碑が立つのみの失われた「四泊一里塚跡」。

昭和35年(1960年)の道路改修以前は榎の大木が植えられていたそうです。

f:id:hansui:20171027182927j:plain畑の中の道を進みすぐ国道に戻り、すこし先の右手に、

明和11年(1774年)建立と言われる道祖神が在ります。

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その先交差点で国道142号は右に分岐し、依田川と大門川の合流点の「大和橋」を

渡りますが、旧中山道は橋を渡らずに川沿いの国道152号(大門街道)へと

150mほど進み(写真左下)進み、落合橋で川を渡ります。(写真右)

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 大門街道(現国道152)は、

長野県上田市から、この先大門峠を経て白樺湖を通って甲州(山梨)へ縦断して、

静岡県の天竜川や支流の水窪川に沿って浜松市街に下る国道路線です。

武田信玄が京をを目指した街道でもあったのですね。

大門川を同じ名の”落合橋”で渡り、渡ってすぐの右手傾斜地の草に埋もれるように、すっかり風化してますが庚申塔百万遍供養塔が建ってます。

街道書に記載がなかったら、見逃し通過してしまいますね。

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そのさきで依田川を"和田橋”で渡り、川沿いに進んで土手を上がると

再び国道142号に合流します。

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中山道は、新青原橋手前の青原交差点を右折して、国道142号線から

分岐してゆきます。

青原交差点角に「水明の里」の大きな石碑が立ち、旧中山道に立っていた石仏群や

休憩所や休憩所などが整備された公園となってます。

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国史跡「歴史道中山道」指定碑が立ってます。

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日差しが強くなり、地面からは蒸気霧が発生しはじめてます。

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 のどかな道を進むと、藁葺屋根の深山口バス停が現れる。
和田宿への道沿いは、この様な凝った形のバス停が次々と現れる。

和田宿を通る中山道が国指定遺跡となったことから、それに相応しいバス停を、

と造ったのだとか。

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しばらく進むと左手道路わきに数個の石碑が在ります。

燈篭には「天王夜燈」と彫られ、後ろには宝暦2年(1752年)の銘がある

「西国三十三**」の石碑もありました。

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右手の会社敷地の建物脇に小社と石碑は馬頭観音

小社は安全操業を祈るための神社かな?

(街道書にも謂れ記載なし)

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そのすぐ先の製材所の脇に地蔵尊や石仏石塔が有ったようですが、通り過ぎて

しまったようです。

下和田中組バス停後ろに「馬頭観世音」

説明板は紙の印刷なので、読めない!

バス停脇に「ながわ半時散歩道」の道標、なにかな?

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すこし先に、鳥居が彫られた奇妙な石碑碑が立っている。
和田宿の資料では、ミミズを「蚯蚓大権現」として祀た蚯蚓神社で,

この周辺は「蚯蚓」と呼ぶ地の様で、住む人々の希望によって建立されたものだと

いう。
蚯蚓地区では,「ミミズの干物(はらわたを出して板の上にはりつけてた)」を

つくり,解熱剤として煎じて使ったらしい。

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すごい!モミジを横に這わせてるよ!

紅葉したの見たいわね~・・・てカミさん。

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道の左側には、「のみ水」と刻まれた石柱があり、湧水が流れ出ています。

旅人ののどを潤したであろう、水場だったのですね。

街道では何か所かに見かけましたね。

(ただ用心のために、飲みませんでしたが・・)

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この付近は茶屋などがあった立場跡と街道書にはありました。

残されている相馬家の門のようです。

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水場の道路向かい側に、立派な長屋門も在ります。

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少し先の農道の奥に大日堂があり五体の大日如来像が安置されてます。

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みみず道祖神から500mほどのところに、三千僧接待碑がある。

案内書によると,和田宿・信定寺の「別院慈眼寺境内に建立されていたもの」で、

「寛政7年(1795年)この地にうつされた」とあり、諸国遍歴の僧侶に対する

一千僧接待達成を発願して建立され、達成後に改めて三千僧接待を発願し、

「一」に「二」の字を書き加えた、との由。

ははは・・手抜きをしたんだね。

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 上立場バス停は神社造り

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街道書には道祖神とありました。

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左手商店のシャッターの前に、福寿と刻まれた石柱と福と刻まれた招き猫(福猫)が

並んでいるが、何時のものかは不明である。

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右手民家の塀下に地蔵尊が祀られてます。ありゃ植木の陰だ・・(左下)

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 街道右手に不動明王や、新しそうな獅子舞と子供たちの碑が並んでいます。

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気温がだいぶ高くなってきた街道を歩みます。

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おっ、この真っ黒い実は!栽培した?? それとも雑草??

調べてみると、

「牛尾菜(シオデ)はユリ科シオデ属の多年草

若い茎や新は山菜とされる。
根茎を乾燥させたものを生薬で馬尾伸筋(ばおしんきん)といい、

関節炎やリューマチに効く」  らしいが。

その後に民家の庭で鉢植えされtのも見かけましたね。

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柳亦上バス停の先に、馬頭観音、福大大士(なんのことか不明)がある。

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少し進むと「道祖神」「奉納西国秩父坂東百番観世音」「馬頭観世音」

「水供養 水道之碑」などの石仏石塔群が在ります。

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石仏石塔を過ぎて少し先に、左手の鎮守の森の手前に、地下横断の出入口が

道路の左右に設けられえます。

信号機や横断歩道はなく、プレート道標には「←笠取峠⤵東餅屋・和田峠」とあり、

中山道(旧国道)を横断するための地下道と思われる。

ただ旧中山道は、横断して何処へ行くようになるのかは??です。

今はほとんど車も見かけませんが、現国道142ができるまでは相当な

交通量があって、設けられたんでしょうね。f:id:hansui:20171028122710j:plain

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地下道出入り口の左先に、大きな杉・ケヤキの木々に囲まれ,石造の明神鳥居が

建てられている「若宮八幡神社」が鎮座します。

杉・ケヤキは推定樹齢五百年と言われてます。

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鳥居奥の入母屋の拝殿(舞台)は壁が無く,一枚ごとに間を空けた板張りに

なっており、その奥に「本殿覆屋」があり、この中に享保8年(1721)に

建立されたという本殿が収められている

「本殿覆屋」は茅葺屋根と街道書に在りますが、茅葺屋根はつい最近修復された

ようで、茅葺は失われてましたね。

 本殿は,一間社流造.正面と側面に回り縁が設けられ,高欄は隅組擬宝珠柱混用

脇障子には,輪違文といわれる幾何学模様に,六弁花の彫刻が施されている

という説明があるが、薄暗くほとんど見えなかった。

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本殿覆屋の横に、天文23年(1555)の矢ケ崎合戦で武田信玄に敗れ自害した

和田城主大井信定父子の首級が埋葬されたといわれ、元禄6年(1693年)

その回向の為、信定寺第六世来安察伝和尚が、当境内にを建立した墓碑が立ってます。

ただ、右の石柱は「和田領主の墓」とありますが、左の石柱には

「羽田家先祖の墓」ともあり、和田宿の庄屋・羽田家かな??

ちょと意味不明。

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そのの先に江戸日本橋から49番目の一里塚「中山道上組の一里塚跡碑」があります。

塚は昭和35年(1960年)道路改修で失われてしまってます。

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さらにゆるい上り坂道を行くと左手に「きのこ種菌センター」の看板。

松茸菌は・・ないんだろうね。

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左に曲がり、右に曲がり手前は、トンガリ屋根の芹沢バス停

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 振り返ったカミさんが、

「雪山が見えてるわよ!」 冠雪の浅間山でした。

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少し傾斜が増した街道を行き振り返ると、青空に雪の浅間山、綺麗ですね~

方々の高い山々の冠雪が、報道されてましたね。

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そして和田宿が近づいて来たようです。

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気温がぐんぐん上がり、朝との温度差は予報のように10℃以上になりそうか!

大きな石碑が現れました、ここから和田宿へと入ります。

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続きます。

 

歩いて再び京の都へ 旧中山道夫婦旅   (第17回)  望月宿~長久保宿 後編

*ひょいと歩き出した東海道五十三次
途中で、断念かの肝臓癌をなんとか乗り越えて、京の三条大橋へ到着。
勢いをかって「歩いて再び京の都へ」と乗り出した中山道六十九次。
またまた腹部大動脈瘤、心臓動脈硬化、そしておまけに腹部ヘルニア。
挫折しそうになりながらも、カミさんの支えもあって、またまた乗り越え
旅の再開。
そんな、じじばば道中ブログです。*

10月17日(火)長雨の隙間、次第に晴れる予報を頼りに、
 簡易雨コート着て、AM8:30、第17回の旅立ち。

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笠取峠頂上(標高は約900mかな)で、北佐久郡立科町から小県郡長和町

入りました。

後編です。

やれやれ、笠取峠の下りに入ります。

素朴に響く「峠」の言葉とは全くイメージが違う、大型トラックがびゅんびゅん

行き交う幅広い国道。

それでも茶屋を見て、ほっと一息したであろう、昔の旅人気持ちを感じます。

 

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道路の反対側には「学者村」?という興味を引く名称の石碑が立っています。

「学者村」とはこのあたりの長野県長和町の町営別荘地の名称のようです。

別荘地のためか、ログハウス専門の建築業者があります。

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道を下って行くと、峠乃茶屋、笠取峠と書かれた常夜燈、長野県知事吉村午良書の

笠取峠石碑が建ち、「ふるさと交流館 芦田宿」に展示されている笠取峠立場図の

レリーフが斜面の擁壁に埋め込まれている。

レリーフに描かれている立場茶屋は、国道142号線の笠取峠よりも数メートル

南に位置していたようで、峠の坂道を走る飛脚、峠の平地に建つ数軒の茶店で

休憩をとる旅人、武士、駕籠かきなどの姿が描かれている。

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とんとんと下ると、えっ、こんな所に?の「ペットショップ」

ああ、付近は別荘地帯だから・・f:id:hansui:20171020155950j:plain

さらに下ると「中山道」の案内標識があり、ここからは国道142を離れて、

右側旧国道に入っていきます。

この旧国道は、結構な急坂で、右に左にとヘアピンカーブを繰り返します。

(だいぶ前になりますが、一度だけ車で登りを走ったことが有ったね)

中山道は旧国道を進むのではなく、急坂のヘピンカーブで下る旧国道を
串刺しするようにショートカット下りの、中山道源道と言われる山道になります。

 

資料を見ながらカミさんは、さっさと旧国道の方へ。
つられて老いては妻に従え、後をついて二人とも道を下ります。

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だいぶ下った曲がりふきんで「変ね、左の源道標識が無いわよ!」ともう一度
街道書を確認。
見落としたようだな、でもすぐに合流するからこのまま行こう。

(後で写真を見ると・・赤〇源道標識 赤線進路方向へ入るんでした)f:id:hansui:20171020161123j:plain

 

 

ヘアピンカーブを曲がると下ってくる源道と合流。

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中山道笠取峠原道」と書かれた木柱が立てられ、樹齢150年といわれる

桜の大木。

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ここから、つづら折りになった旧国道を少しだけ下り、再び源道の標識に従って、

踏み跡感じの草道を下ります。

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朝まで降った雨ため小川のせせらぎ状態の道を下り、再び旧道に。

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いったん国道142号線と合流し、すぐに右の旧道へ入っていきます。

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しばらく旧道を行き、

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現れた標識に従って旧道から脇道へと入って行き、更にガードレール切れ目から

すとんと石段を下ってショートカットでぐんぐん下りが続きます。

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民家前の土手道を下り、再び旧道を横断、「松尾神社 長久保宿」と書かれた

標識に従いガードレールの切れ目から石段を下ると、長久保宿松尾神社の境内に

出ました。 

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1時間少し掛かって登った笠取峠も、源道のショートカットで直線的にぐんぐん下り、30分ほどで裏から松尾神社に入ります。

中山道は裏から境内を通って続いて行くようです、なぜかな??

松尾神社は 拝殿の由緒書きによると、

以前は、長久保の町裏、大欅の森にに鎮座していたが
小学校の拡張のため、昭和33年に現在地に移転したようです。

中山道が通っていたところに、後から神社が移って来たと言うことか。

これで、旧中仙道の境内通り抜けが納得です。

f:id:hansui:20171020175953j:plain松尾神社は、京都の松尾大社の祭神「大山昨命(おおやまくいのかみ)」を分霊し、

酒造の守護神として近隣の酒蔵家の信仰を集めているという。

(茂田井宿の酒造元なども笠取峠を越えて参拝したのではないでしょうか)

文政10年(1827年)に再建された拝殿。

左には樹齢200年と推定される御神木の保存樹、椹(さわら)の大木が、

頭上高くそびえ立っています。

(最近上の方は枝払いをしたようです)

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本殿

拝殿の後方、斜面に廊下があり、少し高い場所に垣に囲まれて流造の本殿がある。

諏訪の宮大工・三代立川和四郎富重の建築で万延元年(1860年)再建。

沢山の彫刻が彫られてるそうですが、薄暗くて見えません。

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松尾神社の創祀年代は不詳だそうですが、ちょっと調べたところ、
正親町天皇弘治3年(1557年)に再建された記録があると言われ、

数百年の歴史のある古社であろう。との記述が有りました。

社殿の右手に境内社が並んでおり、その横に塞神などの石祠。
境内社は左から、市神社、産泰社、伊雑皇社、金比羅社、八幡神社、白山社、

白山神社

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境内社の鳥居手前にちょと変わった注連縄が架けられた、2本の「御柱」が立って

います。

木札に「注連縄掛木建立 平成25年 松尾神社皇大神宮 式年遷宮御柱」と

記載されてます。注連縄をかけるための御柱なんですね。

御柱などの行事についてはよくわかりませんでした。

鳥居の原型なのでしょうね。

(前々回の、上、下の諏訪大社と小川村の御柱祭りの里曳に行ったことがありました)

 

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本殿の左手石段のうえには山神社と社名未確認の境内社

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五十鈴川を松尾橋で渡ります。

「あら、伊勢神宮のところを流れている川も五十鈴川だったわ、」て思い出す

カミさん。

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長久保宿本陣の石合家から寄進された、赤い鳥居を潜ります。

鳥居を抜けた先に、常夜灯と松尾神社の案内表示板が立っています。

このあたりが長久保宿の江戸方の出入り口でした。

 

 

 

 

 

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 長久保宿へ入って行きます。   

長久保宿長窪宿)は、慶長七年(1602)の中山道制定にともない、小県郡

領した真田氏の配下で、本陣・問屋を勤めた石合氏、問屋を勤めた小林氏が

中核となり、当初は現在の位置より西下の依田川沿いに宿場が設けられました。
しかしながら、寛永8年(1631年)の大洪水により宿場が流失したため、

段丘上の現在地に移り、本陣・問屋を中心に東西方向に「竪町」が形成され、

後に宿場が賑わうにつれ、南北方向に「横町」が形成されていき、特異なL字型の

町並みとなりました。

(資料館のパンフより)

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お江戸日本橋から27番目47里24町(187.2Km)、
       京へ88里10町 (346.7Km)
 天保14年(1843年)中山道宿村大概帳によれば、

総家数187軒、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠屋43軒、人口721名、
最盛期には旅籠の数は43軒となり、信濃26宿のなかで塩尻に次ぐ宿場でした。

江戸方に笠取峠、京方に和田峠、更に茅野に向かう大門道の大門峠などの

難所を控え、大内道、北国街道の分岐する交通の要衝に位置していたことから

大変賑わったといわれます。元々は長窪宿と表記していた。

広重画 長久保(大門川の落合橋と言われてます)

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木梯子でのぼる納屋の二階、軒下の藁、なにか懐かしい気持ちになります。

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 けっこう急な坂道を下ると、昔の屋号を掲げた家々が見られます。

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右手に丸木屋です。

江戸時代末の旅籠を改修し、現在は地域交流センターとして開放されています。

f:id:hansui:20171020213915j:plain竪町に入るとすぐ左手に、旅籠建築に多く見られる、総二階建て出梁造りの大きな

建物があり、一福処「濱屋」です。

明治時代の初期に旅籠として建てられたが、中山道の旅人が減ったため開業に

至らなかったという。

旅籠建築の歴史的建造物として後世に伝えるべく、町に寄進され

現在は無料の休憩所を兼ねる「長久保宿歴史資料館」になっています。

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中に入ると入り口に、来訪者記名簿があったので、記名。

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一福処「濱屋」長久保宿歴史資料館を出て、長久保宿の中心部へと入っていきます。

右手に、寛永年間(1624~)の建築とされ、中山道最古の本陣という

石合家本陣。

表門や大名の泊まった御殿の間が今も昔のまま現存するという。

当時の当主石合十蔵道定は周辺を支配した土豪で、真田家の家老職を勤めたが、

関ケ原敗戦後帰農したと言われます。

石合家が本陣そして問屋場も勤め、四代目当主石合十蔵には真田信繁(幸村)の

娘が嫁いでいる。

長久保宿歴史資料館には、慶長20年(1615年)石合十蔵あてた真田信繁(幸村)

の手紙が展示されてました。

要約では

「私ども籠城の上は必死の覚悟でおりますから、この世で面談することはもうない

かと存じます。 この「すへ」いろいろと御心にかなわぬことがございましても、

どうかお見捨てなきようお頼み申し上げます」。
死を覚悟の親の、娘への愛情・・いいですね。

 

本陣御殿は上段の間、二之間、三之間、小姓部屋などが今も残り、格調高い内装も

含めて、現存する中山道最古の本陣遺構と言われている。

現在も石合家の住まいで、公開はされていないです。

写真の門は江戸時代末期の建築だそうです。

 

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本陣の隣には高札場が復元されている。

大きいですね。

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高札場を過ぎて街道はもう少し下って行きます。

左手に古久屋の看板を下げた家屋が有ります。

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江戸時代、天保年間(1830~43年)頃の建築と推定される

旅籠「古久屋」(羽毛田家)です。

この時期の標準的な規模の旅籠建築として唯一現存する建造物で、

側面の壁の上部には旧主君・真田氏との関係を示す「六文銭」が描かれています。

二階の格子、屋号の吊ってある庇といい、江戸時代のその風情を伝えています。

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旅籠「古久屋」の手前の空き地と家屋の立つ敷地には脇本陣跡で、

示す標識が立てられてました。

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脇本陣の向かいは、江戸時代初期に酒造業を始め、長久保宿の役職も勤めた

釜鳴屋の竹内家です。

竹内家の建物は享保16年(1731年)以前の建築と推定される町家建築で、

屋根 には大きな「本卯建(うだつ)」をあげた風格ある構えの建物である。

このような卯建は“火煽り”とか“火返し”と呼ばれているそうです。

(卯建(うだつ)も街道旅や四国周遊で多く見かけましたが、この形は初めてでした)

 

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長野県最古の建屋と言われます。

敷地はなんと1500坪、建坪約百坪(330平方㍍)、もあったそうです。

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看板右手の縦格子戸中は、坪庭のような庭になってるようでした。

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釜鳴屋の斜め対面の建物は「問屋・小林家」。

宿場の草創期から代々「九右衛門」の名で問屋を勤めてきたのだとか。

建物は明治3年(1870)の大火で焼失しその後再建されたものだが、

2階の出格子が昔の面影を伝えている。

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宿場内の道が竪町から直角に左に曲がって横町に入る角に、現在も旅館を営業する

濱田屋が有り、今でも中山道を旅する人々に大変重宝されています。

中山道はこの先左に折れて、南北に通る横町を南へ進み和田宿へと向かいます。

(写真右)

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T字路の右折角には「中山道 長久保宿 左ぜんこうじ」と書かれた

道標が立っています。

このT字路の場所が善光寺へ通じる上田道との追分(分岐点)でした。

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今日はこのT字路が今日の歩き旅の足止めで、バスで上田経由で帰る予定でしたが、

長久保発のバス時刻に時間余裕があったので、濱田屋角を左折し長久保宿の外れ

ちかくのお寺まで足を伸ばします。

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横町をしばらく行くと旅籠・辰野屋竹重家の出桁造り総二階建ての建物が、

格子窓の重厚な佇まいを残し、江戸時代の旅籠建物の様子を伝えています。

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旅籠・辰野屋を過ぎたところで、宿場内の街道は桝形となって長久保宿の京方の

出入り口に当たり、右に曲がりすぐに左に折れて長久保横町交差点て国道142号と

合流します。

きょうはここで辰野屋手前を左へ入り、細い坂道を上り、峠から下って来た国道142を横断し、長安寺へ向かいます。

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創建は元和4年(1618年)依田川辺にあった宮昌庵(阿弥陀堂)を曹洞宗

道場としたのが始まりと伝えられています。

寛永4年(1627年)に当時の小諸城主松平憲良が開基となり

於大の方」(徳川家康の生母)の位牌を安置、さらに寛永7年(1630)

洪水で大破した堂宇を現在地に再建し、長安寺と改称しています。

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現在の経蔵は、江戸時代末期に建てられ土蔵平屋建て、外壁は白漆喰仕上げ。

明治4年(1871年)の火事で本堂他多くの堂宇が焼失する中、唯一当時の

建物として残されています。

経蔵の天上は格天井で、狩野派絵師の武重桃堂など多くの絵画で彩られ内部には

朱塗りの八角輪蔵で内部には大般若経600巻が収められているそうです。

残念ながら覗き窓もなく、中は見ることはできませんでした。f:id:hansui:20171021144023j:plain

長安寺をあとにして街道を戻り、長久保バス停へ。

長安寺境内から、この先足を進める山並みの先、和田宿方面を眺めます。

難所と言われる距離の長い和田峠越えが待ってます。

日本橋から北上し、高崎から西へと辿り、旧中山道はここから、

南へと向かうんですね。

 

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バス事務所で、長久保の駐車場について、アドバイスをいただき、

PM3:00発上田行バスに乗って

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 大屋駅で乗換、しなの鉄道、JR小梅線と乗り継ぎ、佐久平からマイカー

で帰路へ。

真田家つながりの宿場町、

昨年は街道沿いに、大河ドラマの幟が林立していたのかな~・ふっと思いましたね。

またいつの日か旅へ・・

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第17回、おわります

歩いて再び京の都へ 旧中山道夫婦旅   (第17回)  望月宿~長久保宿 中編

*ひょいと歩き出した東海道五十三次
途中で、断念かの肝臓癌をなんとか乗り越えて、京の三条大橋へ到着。
勢いをかって「歩いて再び京の都へ」と乗り出した中山道六十九次。
またまた腹部大動脈瘤、心臓動脈硬化、そしておまけに腹部ヘルニア。
挫折しそうになりながらも、カミさんの支えもあって、またまた乗り越え
旅の再開。
そんな、じじばば道中ブログです。*

10月17日(火)長雨の隙間、次第に晴れる予報を頼りに、

 簡易雨コート着て、AM8:30、第17回の旅立ち。

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ここから坂を下り、しばらく歩くと芦田川が流れていて、その芦田川を橋で渡ると長野県道40号諏訪白樺湖小諸線に出るのですが、その交差点を渡ったあたりが芦田宿の入り口になります。

続きです。

 

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交差点は中居の交差点。

宿の入り口には「中山道芦田宿」と書かれた案内標識と、常夜灯が立っています。

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中居の交差点を渡り、芦田宿へと入って行きます。

芦田宿は、日本橋から26番目、46里8町(181.5Km)、
       京へ89里26町 (352.4Km)
天保14年(1843年)の中山道宿村大概帳によれば、

人口326名、総家数80軒、本陣1軒、脇本陣2軒、旅籠屋6軒。

宿長は約700メートルあったようです。

現在の長野県北佐久郡立科町芦田で、すぐ手前の望月宿よりもさらに規模の小さな

宿場町でしたが、難所であった笠取峠の東の入り口にあることから、

ここで休憩をとる旅人が多かったと言われています。

皇女和宮も降嫁の際にこの芦田宿の本陣で休憩をとっています。

芦田宿は、芦田村の浪人・岩間忠助と茂田井村の土屋右京左衛門重郷が、

神官の今井曽五郎とともに、慶長2年(1597年)に蓼科神社に納めた文書(願文)により、

新駅の設立を願い出たことが伺え,江戸幕府による街道整備事業(慶長6年)

よりも早い時期に設置され,北佐久周辺では最も古いといわれている宿場です。

 (広重画 望月宿  笠取峠ですが、松ではなく杉では、と言われてます)

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緩い坂を上り古町バス停の側に、道祖神が有りました。

バス停をお借りして、お茶タイム。

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道は緩い下り坂となり、芦田宿の中心へと入って行きます。

途中の民家に芦田宿の行灯。垣根下には道祖神もたってます。

f:id:hansui:20171019182623j:plain「芦田宿」と書かれたパネルが掲げられた街灯の並ぶ道筋は、

芦田宿に入ったことを示している。

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次の立科町役場入口交差点を過ぎたところで、道は東方桝形となり左に曲がります。

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まがって右手が「ふるさと交流館 芦田宿」です。

立ち寄りしませんでしたが、この施設では中山道の歴史や町の偉人、近隣の豊かな自然など、芦田の町の文化・自然・歴史をパネルや映像、ジオラマ等を用いて様々な角度から紹介しています。

また、平成29年4月に移住サポートセンターも併設され、地域の方々や旅人、

移住者等多くの方々の交流が生まれる場所として利用されてるそうです。

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隣りが町区コミュニティセンター

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あら、「町」?町名が「町」なら、ここは立科町・町町??て首を傾げたカミさん、

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隣りの立派な門構えのお屋敷が 芦田宿の「土屋家本陣跡」です。

当時の本陣は問屋も兼ねていたそうです。

本陣は宿場開設に尽力を尽くした土屋右京左衛門家が代々勤め、

往時は客殿、主屋、問屋場、荷蔵、酒造蔵、長屋など多くの建物があったそうで、

幕末の文久元年(1861年)には、皇女和宮が昼食を摂るために立ち寄っています。 

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現在も寛政12年(1800年)に改築された、唐破風(からはふ)の玄関、
京風の造りの本陣御殿が残っており、江戸末期の本陣建物の姿、間取りを伝えている。

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土屋家資料によると、

「この芦田宿本陣の初代当主となった土屋右京左衛門重郷は、あの甲斐武田家の

二十四将の1人、土屋昌続の長男で武田信玄の死後、信玄の跡を継いだ

武田勝頼が天目山の戦いで自害し、甲斐武田氏が滅亡したため、

芦田城主・依田信蕃を頼って落ちのび住まいし、その後は芦田宿の開設に尽力し、

芦田宿で本陣を勤める土屋家の初代当主となりました。」

「かつては「ふるさと交流館 芦田宿」までをも含む広大な
敷地があり、このあたりは“町(まち)”と呼ばれる集落だったそうです。」

これで、先ほどの「町」の謎が解けました。

土屋家には歴史を物語る数々の貴重な資料、道具などが残されているそうです。

本陣の見学は事前の予約が必要だそうで、個人では無理かもしれませんね。

 

本陣の対面には、芦田宿開設の中心人物のひとり、岩間忠助の分家である

山浦家の脇本陣跡でしたが、昭和52年(1977年)の火災で主家が焼失して

しまい、今は駐車場の隅に脇本陣跡を示す小さな「芦田宿脇本陣」と記された

標柱が立っているだけです。f:id:hansui:20171019205345j:plainそのすぐ先、芦田中央交差点の左向こう側に7枚の街道絵図を掲示してる建物角に、

脇本陣跡」と刻まれた案内標柱が立って、その右隣の空き地までが、

これも問屋を勤め、庄屋を兼ねた山浦家が務めていた もう1軒の「脇本陣跡」です。

江戸初期の建築様式が残っていた建物は、老朽化により取り壊され、

跡地の奥に土蔵が残っているのみです。

この山浦家にも多くの古文書が所蔵されているのだそうです。

 

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道の向かいには、古い造りの木造2階建ての建物があり、

味噌・醤油の蔵元、酢屋茂(すやも)がある。

昔は酢を醸造・販売していたが、明治の半ば頃から味噌・醤油の醸造・販売を

はじめたそうだ。。

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酢屋茂の斜め向かいに、現在も金丸土屋旅館として営業している、

旧旅籠の「津ちや」がある。

文政元年(1804)頃よりの旅籠屋で、軒下の庵看板には東側に“土屋”と書かれているが

西側は“津ちや”と書かれている。

江戸に向かう上方の旅人には“津ちや”のほうが馴染むのでしょうか。

建物は往時のもので、「津ちや」の、出梁(だしばり)造り、腕木(うでぎ)に施された

雲形の彫刻、煙出しを持つ大屋根など、奥行きが深い町屋家屋で、間口も広く

客室を襖で仕切る、昔ながらの旅籠の間取りを残しているそうです。

 

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さらに街並みを進み、

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芦田の信号を過ぎて、左手に“枝垂桜”や“紫雲の松”で知られる「正明寺」がある。

天和8年(1622年)開山、楠木一本彫の阿弥陀如来立像を本尊とする

真言宗智山派「正明寺」。
庫裡などの建物が無く、今は無住職のお寺のようですが、地元の方々が境内を
綺麗に整備されていているようです。

本堂の大屋根、素晴らしいですね。

トタンを除いたら、素晴らしい絵になりそう!

(かやぶき屋根をトタンで覆ってるようです。)

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 正明寺の桜は左右二本あり、樹齢が300年くらいかと思われる見事な枝垂れ桜です。

春の季節は素晴らしい光景が出現するんでしょうね。

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よく手入れされ、美しい枝ぶりの紫雲の松。

由緒などは説明板もなく、判りません。

根元を見ると根が繋がっています、根元で枝分かれ?

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正明寺境内には古墳もあったようですが、確認できませんでしたね。

街道へ戻る参道の垣根に蔓を巻き付け、そばの電柱にまで蔓を伸ばして、

紫いろの小さな花が咲いてます。葛?アケビ?ムベ?

 

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道は左手に曲がって行きます。

こらのあたりが芦田宿の京方の枡形だったようで、芦田宿西の出入口です。

付近には双体道祖神が旅人の安全を見守っていたようです。

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先は結構急な上り坂で、笠取峠へ向かって高度を上げてゆきます。

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上り切ると「芦田宿入口」碑があって国道に突き当たるところが石打場公園で、

「芦田宿」の案内標識や道路標柱など立っています。

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 「石打」は「石内」が本字で、「石内」とは「境界」や「災害除け」の意味が有って、       旧芦田村と横鳥村の境にあたる場所だったそうです 。

国道を横切り、「笠取峠松並木」の標識と「新しい常夜灯」との間の道へ向かいます。

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(そういえば、ここは春に通ったわね、とカミさんが思い出してました。

 そうです、花桃の季節に武石へ来た帰りに峠越えて帰ってたんです)

街道はすぐに旧道は登り坂の道となり、「笠取峠のマツ並木」と書かれた石柱が立つ

石畳の道となります。

ここから笠取峠を越えとなってゆきます。

松並木の入り口付近には、大日如来石仏や菅笠を持った旅装姿の「母娘の道祖神

も立っています。

ここからが、歩くのを楽しみにしていた、長野県天然記念物に指定された

「笠取峠の松並木」です。

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立科町公報によれば、

「長野県指定天然記念物。

笠取峠のマツ並木は、近世五街道の一つ中山道芦田宿の西方1キロメートル地点から

笠取峠にかけて約2キロメートルにわたっている。

言い伝えでは慶長七年頃、公儀より赤松苗753本を小諸藩に下付され、

近隣の村むらへ人足が割り当てられ小苗を植え付けたとされ、幕末まで

手入れ・補植等管理されていた。

現在総本数68本の松は、いずれも樹齢が150~300年以上経たもので、

その景観は往時の中山道をしのばせてくれるみごとなものである。
立科町では平成五年に、「松並木公園」として整備し松の保護に努めています。」

 笠取峠は標高は約900mで、長野県北佐久郡立科町(芦田宿)と長野県小県郡

長和町長久保宿)との境にある、旧中山道(及び国道142号線)の峠です。
笠取峠の名称由来には、

 

「余りにも勾配が急な坂だったことから、旅人が夏の暑い時など大量の汗をかき、

頂上付近になるとついつい頭に被っていた笠を取って汗を拭いたから」とか、

「峠の辺りは強い風が吹いて、旅人の笠を吹き飛ばすことがあったことから」

とかのイソップ物語風から

「旅人が峠通った途中、頭の笠を取って浅間山の絶景を眺めたから」とか

いろいろで、みんなそれらしいから面白い。
現在は国道142号線を迂回させ、この貴重な松並木を保護しています。
途中に道祖神や歌碑が幾つも並んでいます。

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途中に国道142号(現中山道)と交わると手前に、東屋、トイレなど設置された

松並木公園が有ります。

昔、ここにはちょっとした出茶屋が置かれていたそうです。

お昼も近いので、東屋で昼食を兼ねて一休み。

お昼は相変わらずの機能食品です。

この休憩所には「和宮東下の行列」や「笠取峠の茶屋風景」などのレリーフ

さらには「松並木説明板」や「歌碑」などがあります。

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しばしの休憩、足も休まったところで、峠へ向けて出発です。

すぐ先で国道142号線のバイパスに当たり、街道は横断して先へと延びてゆきます。

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の国道に当たった中山道左右には、文化3年(1809年)小諸藩が建た、

小県領(上田藩)と佐久領(小諸藩)との境界を示す「従是東小諸領」の領界碑や

道祖神、常夜灯が復元されてます。

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 国道142号線の笠取バイパスは、和田峠を越えて長野県の軽井沢町下諏訪町を結ぶ

主要道路で、北関東と東海・関西を結ぶ最短経路として大型トラックの通行が多い

国道です。

中山道はここを横断しますが、信号機はおろか横断歩道すらありません!

今日は平日なので、ビュンビュン大型車両が行き交います。

(右を見て、左を見て右を見て、それっ、渡れ~・・ああ、渡れたね)

 

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再び松並木が続きます。

この松並木は江戸初期に753本植えられ、調査では大正13年(1924年)に

229本、昭和46年(1971年)には129本が確認され、

最近平成22年(2010年)の調査では70本の古木が現存しているのを確認してます。激減してしまった松並木ですが、街道にはやっぱり松並木、いいですね~。 

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300mほど進むと国道142と合流し松並木は消滅してしまい、大型車などが

轟音をあげて行き交う国道の歩道を峠頂上へと上って行きます。

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 国道142号線の登り坂の勾配は、緩るそうで結構きつく足が進みません。

いつものように周りの風景を楽しみながら、ゆっくりゆっくり進みます。

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「あら、排水の管が上向きなのに水が流れ出てうわよ」てカミさんが指さす方を

見ると、確かに排水管は上向き方向、でも水は流れ出てる。

目の錯覚じゃないね~

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左奥の方に民家が木々に隠れて在ります。

道路沿いのお墓や田んぼは、あの家のでしょうか?

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なんて亀の子足でも進んでゆくと、勾配がゆる峠に近い傾斜地に、江戸のから47番目の一里塚「笠取峠一里塚」の北塚のみが残っています。

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登り坂で続いていた車の登板車線の終わり表示が見え、峠頂上が近いことがわかり、

先で長和町の標識が見え、笠取峠の頂上へ来たようです。

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北佐久郡立科町から小県郡長和町に入りました。

 

後編へ続きます、

 

 

歩いて再び京の都へ 旧中山道夫婦旅   (第17回)  望月宿~長久保宿 前編

*ひょいと歩き出した東海道五十三次
途中で、断念かの肝臓癌をなんとか乗り越えて、京の三条大橋へ到着。
勢いをかって「歩いて再び京の都へ」と乗り出した中山道六十九次。
またまた腹部大動脈瘤、心臓動脈硬化、そしておまけに腹部ヘルニア。
挫折しそうになりながらも、カミさんの支えもあって、またまた乗り越え
旅の再開。
そんな、じじばば道中ブログです。*

 

秋の長雨とはよく言ったもんです。

3日ほど前から降り続く秋雨。

何気なく天気予報を見たら、あれ、長野の佐久、立科地方は明日は晴れるぞ。

すかさずカミさんが、「明日は仕事が休み、行ける時にいきましょうか」

で、急きょ17日(火)中山道夫婦歩き旅の第17回目へ旅立ちへ。

旅は日帰り継ぎ足し旅なので、街道への行き帰りまではマイカー利用。

駐車場、電車、バスの時刻を確認し、

今回の旅は16回足止めの、望月宿を出発地にし

望月宿~芦田宿(現立科町)  5.6km

芦田宿~長久保宿        5.7km

   計          11.3km

場合によっては芦田宿で足止めし、寄り道するかも。

雨の高速道を走り、AM7:10、前回も駐車した長野県・佐久平駅前駐車場着。

そろそろ雨が揚がる予報だったが、まだまだ雨脚が強い。

ここから千曲バスを利用して、足止めした望月宿へ向かい、望月資料館前から

旅立ち予定。
 バスはAM7:51発、次がAM9:01発。

しばらく様子をみるか、望月へ着くころには上がっていることを期待して、

予定通りバスに乗って向かうか・・・・

「雨は上がるの予報なんだから、最初は傘さしでもいいんじゃない」

とのカミさんの言葉で予定通りのバスへ。

バスが出る頃には雨脚はかなり弱まり、望月へ着いた頃には嬉しいことに

止んでます。

念のため傘を持参してましたが出番はなさそうでした。

 

 

【望月宿】 日本橋から25番目45里(176.7Km)、京へ90里34町 (357.2Km)
 天保14年(1843)で人口360名、総家数82軒、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠屋9軒。

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簡易雨コート着て、AM8:30、第17回の旅立ち。

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前回少し歩いた街並みを抜けると、望月宿のはずれに建つ大伴神社。

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階段を登ると境内には江戸後期の道祖神が沢山集められている。 

延喜式内社 景行天皇四十年(古墳時代)の鎮座と伝えられ、現在の本殿は

延宝5年(1677年)に建てられたものですが、今は覆屋に収められて見ることが

できません。

この辺りを支配した望月氏の庇護を受けた神社である。

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 街道書によれば、

祭神である天忍日命(あめのおしひのみこと)は、望月の御牧を管理していた大伴氏の

祖神で、大伴武日命(おおともたけひのみこと)とも呼ばれています。

祭神が馬に乗ってこの地へ来られ鎮座したとされており、乗って来た馬を種馬として

駒の改良繁殖をはかリ、この地は多数の馬を産する地となって、望月の駒が

有名になったことから、大伴氏は朝廷より「望月」姓を賜り、

信濃国最大の望月牧へと発展したといわれます。

毎年8月15日に奉納される例祭「榊祭り」(佐久市指定無形民俗文化財)は

信州の奇祭とも称される特殊神事で、松明山から松明を揚げて望月橋まで一気に

駆け下り、その松明を橋から鹿曲川へと投げ込み五穀豊穣や無病息災を祈願します。

 

*鹿曲川(カクマガワ)は蓼科山に源を発し、上流部には紅葉で知られる春日渓谷が

ありますね。流末は信濃川と落ち合います。

 

神社から少し進むと、ここが望月宿の京方のはずれ.。

望月宿を出ると旧中山道は、青木坂と呼ばれる鹿曲川の河岸段丘を登る

坂へ向かいます。

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御桐谷(おとや)西交差点を渡り、50mほど進んで、

左り大きくカーブ(奥の左斜めのガードレース)して分岐の急坂を登ります。

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坂を登り曲がり角に小さく馬頭観音

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さらにだらだら坂を上って行くと右手に「中山道→」の案内表示があり、

細い急坂道に入っていきます。

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けっこう急勾配の坂道です。

カミさんは後ろ向きで、景色を眺めながら上って行きました。

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振り返りの田園風景

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 途中に延享年間(1744~1748年)に建てられたと伝えられる、寒念仏供養塔が

立っています。でも、なんでここに??カミさん。f:id:hansui:20171018170249j:plain

坂を上り切り、国道142号線のガード下を左手に潜り、

右折してしばらく国道142号線と並行して進みます。

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曲がりくねる道を行くと交差点となり、左手に廃校となった小学校土地に、

「売地」の看板が立ってます。過疎少子化の波ですね。

旧道は望月宿西入口交差点から長野県道148号牛鹿望月線と合流すると、

道路右手に「御巡見道標」石標が有りました。

巡見使は江戸時代、幕府が諸国の大名・旗本の監視と情勢調査のために派遣した

上使のことで、天領及び旗本の知行所を監察する御料巡見使と、諸藩の大名を

監察する諸国巡見使があり、ここから中山道と別れ上田・松代・長野方面の監察に

向かったものと思われます。 

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右手に割と大きな開発造成住宅地を見ながら、しばらく坂道を上って行くと

峠の頂上に着いたようで、

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その先は県道から右に分岐した下り口に、「中山道茂田井入口」の説明板が

ありました。

下り道は、望月宿と西の芦田宿の間に設けられた間の宿・茂田井宿に入って

行くようです。

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道端に咲く草花を見ながら、道を下っていきます。

前方に“間の宿”茂田井宿が見えてきました。

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坂を下り茂田井宿の集落へと入って行きます。

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右手の山きわ斜面に小振りの神社が見え、街道書には神明社とありました。

10数段ほどの石段を登ったところに本殿があります。
案内板によると,

神明社の祭神は天照大神,雨乞いの霊験として崇拝されている。

宝永6年(1709年),茂田井村初代名主となった大沢茂右衛門が願主となり

建立された。
本殿はこの地方では珍しい神明造りとなっているため、神明社と呼ばれている」

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神明社を過ぎると、縫うように下る坂道の家並に、ハッと足が停まります。

街道書に書かれた
「道の両側に用水が流れ、漆喰壁の白さが町並みを美しく際立たせ、
民家、造り酒屋の建物が連なる坂道に、江戸時代の面影を色濃く残す
茂田井の街並みが続きます」

 

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間の宿は本宿の機能保護のために、旅籠をもつことを禁じられ休憩するだけでした。 寛保二年の大洪水で、望月新町が道ごと流されたり大きな被害を受けたため、

茂田井村を望月宿の加宿にしようと、江戸幕府に願い出たが却下された経緯がある。

 

茂田井地域は良質の米の産地として名を馳せていて、小諸藩主やその家臣達は

茂田井産の米のみを、わざわざ毎年江戸まで輸送させたほどだったといわれています。

今も豊かな水が音を立てて勢いよく道端の側溝を流れています。

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蓼科山の伏流水と地元の良質な米。

茂田井宿には造り酒屋が2軒あるんですね。

右手に重厚なたたずまいの門構えの建物が「武重本家酒造(叶屋)」です。

江戸時代末期の慶応元年(1865年)に建てられた住宅と

明治初期に建てられた酒造施設など、30棟もあるという現役の建造物が、

歴史的景観を伝える貴重な建造物であるとして、国の登録有形文化財に指定されて

います。

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杉玉(すぎたま)

スギの葉(穂先)を集めてボール状にした造形物です。

酒林(さかばやし)とも呼ばれています。

日本酒の造り酒屋などの軒先に緑の杉玉を吊すことで、新酒が出来たことを

知らせる役割を果たします。

「搾りを始めました」という意味でもあります。

吊るされたばかりの杉玉はまだ蒼々としていますが、やがて枯れて茶色がかって

きます。

この色の変化がまた人々に、新酒の熟成の具合を物語ります。

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その武重家の道を隔てて用水路傍の蔵の敷地に、若山牧水の3首の歌碑が

立っています。

一句に、

「人の世に たのしみ多し 然(しか)れども 酒なしにして なにのたのしみ」

資料によれば、

「明治、大正から昭和初期にかけて歌人として親しまれた若山牧水は、

旅と自然とともに酒をこよなく愛した漂泊の歌人として知られています。

その酒量たるや1日に1升以上を飲む大酒豪だったのだそうです。

しかしながら、酒と歌で人生の悲哀を昇華しながらの生涯は、43歳で肝硬変により

幕を下ろすことになりました。

若山牧水が生涯に残した約七千首に及ぶ和歌のうち、酒を詠ったものが二百首に

及ぶと言われています。

若山牧水は望月に歌友が多く、吟客としてこの茂田井の“間の宿”に長期間逗留したと

言われています」

岩村田にも歌碑が建てられてましたね。

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おや、凄い紅葉した樹、モミジでは?

歌碑の左側小路奥左手に、燃え立つように紅葉した樹が見えます。

近寄ってみると、見事に紅葉してる「モミジ」でした。

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すごいね、鮮やかに紅葉してる!!早すぎる!

なんて言いながら街道へ戻りかけると、

歌碑の側に植えられてる梅の古木を見上げてカミさんが、

「赤い葉、モミジじゃないかしら?」

なんと、確かに紅葉してる「モミジ」

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いや~ビックリです!

梅の古木の幹から紅葉が生えてるんです。

少し上の方にはまだ緑のモミジも葉を茂らせて生えてるんです。

何らかの理由で、空洞や幹の腐れなどのところに、風に乗って飛ばされてきた
種が発芽したのでしょうね。
それとも誰かが、モミジの種を空洞に植えた??

珍発見!!かな??それとも・・・

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少し歩いたところで、地元の方にお会いしました。

”酒蔵奥の真っ赤なモミジ見たかな。

あのモミジは何かの映画の撮影の造りもんだよ。

先日、撮影があって古井戸やモミジのセットを作ったのがまだ残ってるんだ”

いや~、見事に真っ赤な紅葉は造り物だって・・・

そうか、赤が鮮やか過ぎたもんな~・・・

ただ地元の方でも、梅ノ木のモミジは気づいてなかったね。

謎のモミジです。

 

左手に急流の流れ落ちる用水、右手に武重家の白塀。

けっこうな急坂を曲がりながら進みます。

この美しい景観から茂田井の地には2002年に、時代小説家藤沢周平さんの

短編小説を原作として作成された、山田洋次監督、真田広之さん主演の映画

たそがれ清兵衛』のオープンセットが「武重本家酒造(叶屋)」の裏手の敷地に

作られて撮影された、と武重本家酒造の資料にありましたね。

この茂田井の美しい景観も、映像の中に残されてるんですね。

藤沢周平さんの作品の文庫本は、ほぼ全巻読んだけど映画は見てないな~)

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 その先を左にカーブしたところに、元禄2年(1689年)に酒造りを始めた

「蔦屋・大澤酒造」が建っている。

重厚な長屋門には大きな杉玉がぶら下がり、敷地内には酒造りや街道文化に関連する

資料等を展示する民俗資料館、名主の館、書道館、美術館が設けられている。

(平日、朝も早いため資料館などは見ることができ来ませんでしたが、

敷地内に少しだけ入らせていただきました))

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大澤家は名主を勤めていて、元冶元年、幕末に京都に上る水戸天狗党を追ってきた

小諸藩兵士の本陣となり、400名の兵士の宿となったという。

間の宿で旅籠はなかったけれど、400名もの兵士を宿泊させるだけの建物と

経済力があったことを示してます。

(左手白壁の連なる大澤酒造(蔦屋)。まだまだ上手に続いてます)

 

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今回は見学できませんでしたが、大澤酒造の民俗資料館に展示されている品々は、

全て大澤酒造の蔵の中に眠っていたものだそうで、代々伝わっている鎧兜など、

貴重な品々が多くあり、街道旅人の間では是非見学を、とお薦めです。

いつの日かの寄り道をして、立ち寄りたいと思ってます。

(あの謎のモミジも様子をみたいですね)

 

茂田井宿は戸数が多かったので、高札場は二か所あって、名主の大澤家の

土塀前に下組高札場が有り、西寄りの坂の途中に茂田井村上組の高札場が

設けられていた。

(大澤家前の高札場跡)

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 坂道の小さな公園には、清掃の行き届いた「雪隠(トイレ)」も設置されてます。

 

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白い漆喰壁の建物が建ち並ぶ登り坂の道の家並みを、堪能しながら歩いて行きます。

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なんどもなんども登っては振り返り、登っては振り返り繰り返しながら

心に残る街並みをカメラに収めて坂道の街道を進みます。

 

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今も大きな門構えの屋敷や土蔵造りの町並み。

時計の針を戻したかのような、昔の雰囲気を感じながら足を進めています。 

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木造では少ない、三階建てですね。

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ちいさなちいさな秋、こぼれ種から生まれたかな?

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薪がが摘まれた、懐かしい風景です。

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左手に高さが2メートル以上もある、大きな馬頭観音がありました。

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この付近の坂は勾配もきつく大きな石が有ったため、その大石を割って中山道

通したと言われます。それで坂の名は「石割坂」

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坂の途中に上組の高札場が有った、と案内板が建ってます。

f:id:hansui:20171019060742j:plain「石割坂」と呼ばれている急坂道も少し勾配が緩くなってきました。

 

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さらにもうひと登りして曲がると、

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江戸から46番目の「茂田井の一里塚跡」がありました。

現在は南塚跡が公園になり、小さな祠が建っています。

きれいに整備され、塚は残っていないが説明板も立てられており、

茂田井宿の保存に尽力していることがわかりますね。f:id:hansui:20171019060933j:plain

 

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左に茂田井の田園。右手山の斜面に祀られてる水神や庚申塔を見て、

さらに緩い坂を上ると、 

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茂田井上の変則十字路で、「中山道茂田井間の宿入口」の標識と案内表示板が

立っています。ここが茂田井間の宿の京方のようです。

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道標に従って緩い坂を少し上ると、パット視界が開け田園地帯が眼に飛び込ん

できて、一帯は少し高台の高原になるでしょうか。
あいにくの曇り空で、景観は望めませんが、晴れていれば北の方角(写真左上)には

浅間山山魂が連なり、その山裾あたりが戦国時代末期、真田昌幸が築城した

上田城の有った上田市になるのかな。

 

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ゆるく坂をくだって芦田川を渡り、上り返して旧中山道は、次の宿場へと

繋がって行きます。

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 周囲の山々が低くなってきたように感じるのは、

今日のこの先の峠越え、笠取峠か近づいてるから?

 

続きます・・・