2月3日(土)薄曇り薄日。
今日は節分にて、明日はや立春なれど
再び厳しい寒波が流れ込む予報。
2度の積雪の下でも、早春の花「クロッカス」は蕾を
育て膨らませてきたが、咲くのはチョイ待ちになりそう。
午後、夕暮れにデジカメ持参でそぞろ歩き。
陽が落ちると急激な冷え込みが足元から体を包み、
急ぎ足で家路へ。
あすは雪が降るかな・・・
2018年2月1日
たとえ朝の挨拶「おはよう」だけでも、綴ることに意義あり
で、始めます。
2018年1月も昨31日の何年か振りの皆既日食で、過ぎ去りました。
まだまだ春の気配なしの関東南西部。
昨夜の天体ショー
「おはようございます」2月1日(木) 薄曇りです。
週末は再び厳しい寒波が押し寄せる予報。
インフル、要注意です。
12月9日(土)、皇居一般公開散策へ、、続き
北の丸公園で昼食を摂り、通常も一般公開されている「東御苑」へ向かいます。
皇居東御苑は,旧江戸城の本丸・二の丸・三の丸の一部を宮殿の造営にあわせて
皇居附属庭園として整備されたもので,昭和43年(1968)から公開されています。
何度か訪れる機会はあったのですが、なぜか実現せずで今回が初めての入場です。
坂道を上って、北桔橋門から東御苑へ入ります。
この橋は江戸時代「跳ね橋」仕組みになっていて、天守閣に一番近く背面に
位置し、本丸、大奥と直接外部に通じる搦手門であり濠を深く・石垣も高くして、
堅固な防衛力を持っていた。
石垣の高さは18.5mもあり、江戸城の石垣の中で最も高いといわれます。
右手、乾濠
石垣の高さが判りますね。
左手、平川濠、両濠とも18mの高さがあるそうです。
門を入った一段と高くなったところの、石垣台は天守台。
東西約41m、南北約45m、高さ11mの石積み。
最初の天守閣は、1607年、二代将軍秀忠の代に完成しました。
その後大修築され、三代将軍家光の代に国内で最も大きな天守閣が完成。
その高さは地上から58メートルもあったそうです。
しかし、わずか19年後の1657年に明暦の大火により全焼し、
翌年に加賀藩前田家の普請により、現在も残る高さ18mの花崗岩でできた
天守台が築かれます。
しかし、四代将軍綱吉の叔父である保科正之の「城下の復興を優先すべし」の
提言により、天守閣は再建されることなく現在に至ってるそうです。
天守台の南側は本丸御殿跡で、天守台近くから大奥御殿、中奥御殿、表御殿とあり、
現在は広大な芝生園となってます。
天守台左手は、香淳皇后の還暦を記念して、1966年(昭和41年)に
建てられた音楽堂「桃華音堂」があります。
右手奥は宮内庁楽部庁舎です。
天守台より芝生園の右手、濠土手沿いを南へ進みます。
火災の起きたときに、大奥の調度品などを避難させた石室
乾通りからも見えていた富士見多門
松の廊下跡の案内板がありました(上図赤丸)
忠臣蔵の発端となった、元禄14年(1701年)赤穂藩主・浅野内匠頭長矩が
殿中で吉良上野介義央への刃傷事件を起こした場所ですね。
廊下に沿った襖戸に「松」と「千鳥」を主題にした絵が描かれていたことから
「松の大廊下」と呼ばれていました。江戸城で2番目に長い廊下で、
畳敷きの立派なものだった由。
見事な大木
本丸跡の南端に建つ、富士見櫓のうしろ(北側)姿。
乾通り側は西面が見られました。
東へ回り込んで二の丸跡へ向かいます。
冬桜
汐見坂を下り二の丸跡へ
白鳥濠
二の丸雑木林
二の丸御殿跡に左手奥には諏訪の茶室、右手は二の丸庭園
この周辺は5月のツツジが素晴らしいと聞きました。
二の丸庭園
二の丸庭園を後に南へ向かいます。二の丸雑木林は初冬の染り。
二の丸後から三の丸跡、出口の大手門へと下ります。
正面に建つ百人番所
大番所
前の坂を上ったところが本丸の入口で中雀門があり、中之門の側に設けられ、
他の番所よりも位の高い与力・同心によって警備されていました。
(建物は皇居東御苑開園に合わせて、昭和41年に復元されました)
右手に百人番所
本丸と二の丸へ通じる要所である、大手三之門の前に設けられた番所です。
鉄砲百人組と呼ばれ、甲賀組、伊賀組、根来組、二十五騎組の4組が昼夜交代で
詰め、各組には同心が100人ずつ配属されていました。
百人番所の南側垣根の後ろは三の丸跡
桝形右手へ曲がって、同心番所
江戸城の正門であった大手門から入城した大名が最初に通る番所で,
与力,同心が詰めて主として登城する大名の供の監視に当たっていました。
右手は皇宮警察本部、白亜の大手門
大手門は、 高麗門と櫓門で構成された桝形門になっている
抜けて左へ曲がると
江戸城正門、大手門(高麗門)、皇居を後にします。
大手濠のカワウとチュウサギ
桔梗濠と大手門
手前から、巽櫓、桔梗門、富士見櫓
警備車両が任務を終えて帰還します。
行幸通りへ戻ってきました。
馬場先濠、日比谷通り
第一生命館
左手和田倉濠に架る木造の和田倉橋
再び地下鉄で四谷へ出、所用を済ませ帰路へ・・・いい一日でした。
おわり、
*2014年から続いていたJR東京駅(東京都千代田区)丸の内側の改修工事が
完了し、様変わりした駅前広場が7日、オープンした。
赤レンガ駅舎や、皇居へ続く「行幸通り」と調和した空間になるようにデザイン
され、東京の新しい名所になりそうだ*
新聞報道で知り、たまたま同じ紙面に「皇居乾通り、通り抜け一般公開10日まで」
を見つけ、そうだ、ちょうど所用もあって四谷まで行くから、足を伸ばして
行ってみようか、で9日朝の諸々を済ませて電車で東京駅へ。
地下鉄を利用して東京駅へ行ったため、ひょいと地上へ出たら丸ビル行幸通りで、
新装なった駅前を通り越してしまった。
いつも工事用塀で囲まれていた正面が、スッキリとしてます。
しばらく写真を撮りあったりして景観を楽しんで、行幸通りを北へ皇居前広場へ
足を向けます。
日比谷通を交差点で渡り、左手馬場先濠
皇居前広場から左へ曲がり、内堀通りを西へ桜田門方向へ歩き、右に折れて
二重橋前から東にUターンして、皇居外苑を一周する感じで誘導されて
坂下門へと進みます。
広場前右手に巽櫓、左手は桔梗門、左端は富士見櫓
左手の人の列は二重橋へ向かう観光客。
通り抜けに向かう順路からは直接二重橋へは行けません。
二重橋、何年、いや何十年ぶりかな、
右手に見える「伏見櫓」は、三代将軍家光の時、京都の伏見城から移築したと
伝えられている。
立派な多聞を備えた現在3つ残る江戸城の櫓の中で、一番美しいと言われるが、
今回は坂下門へ向かう誘導路上なので、近寄れません。
手前の明治20年(1887)に、石造りのアーチ橋に架け替えられた、通称「眼鏡橋」
とも呼ばれる「皇居正門石橋」を渡り、左手は西の丸大手門(現皇居正門)から
入り、桝形を右へ曲って奥の正面鉄橋を渡り皇居へ入るんですね。
二重橋は、二つの橋のことを言うとばかり思ってましたが、
奥に見える正門鉄橋のことを指すんだそうですね。
「奥の鉄橋は、かつては江戸城の西丸下乗橋のあったところで、青銅製の擬宝珠の
欄干の付いた木造橋で、壕が深かったことから途中に橋桁を渡して、その上に橋を
架けるという、上下二段に架けられた二重構造であったことから、「二重橋」と
呼ばれるようになった」
へ~、そうだったんだ、初めて知りましたね。
(最近は二つの橋で二重橋が一般的呼称となってるようですが)
長~い行列が進む先にはセキュリティーチェックのテントが見えてます。
以外に簡単なチェックで通れました。
紅葉もほぼ終わったようなので、人出は少ないのかな。手荷物検査、金属探知機でのボディーチェックを受けて、坂下門から
一般公開された乾通りへと入ります。
坂下門は、西の丸大手門(二重橋の正門)と桔梗門(内桜田門)との間にあり、
宮内庁への出入り口となっています。
ここは西の丸の造営後、新たに造られたと伝えられています。
江戸時代は、高麗門と櫓門からなる枡形形式で、高麗門から入ると左に曲がって
櫓門をくぐる形であった。
しかし明治21年に高麗門は撤去され、櫓門(西向き)の角度を90度変え、
正面(南)に向きを変えて建てなおされた。
文久2年(1862)1月、老中・安藤信正が登城途中に、この坂下門の前で6名の
水戸浪士に襲撃された「坂下門外の変」が起きてます。
皇居の乾通りの通り抜け一般公開は、坂下門から乾門まで、蓮池濠と乾濠沿いの
750mを一方通行で歩きます。
乾通りには、イロハモミジ、ウカエデなどが植栽され、ピークであれば素晴らしい
紅葉が見られるそうですが、昨日の情報ではシーズン終了とありました。
しかし両側には、さまざまな樹木が植えられており、石垣・濠と相まって
美しい景観を楽しめる並木道となってます。
途中の西桔橋から皇居東御苑へ抜けることもできます。
門を入り桝形を右手に曲がると、見事な松の木々、奥に万治2年(1659年)
再建の富士見櫓が優美な姿を見せます。
左手に曲がるとすぐ左手一帯は江戸城西の丸跡で、現在は皇居新宮殿があり、
「長和殿」の一部が見られます。
「長和殿」は宮殿で一番長い建物で、長さが160m、中の廊下の長さは100m
あるそうです。
この場所で、新年1月2日と天皇誕生日の12月23日の年2回、
天皇皇后両陛下と皇族方が長和殿中央バルコニーにお出ましになり、
国民からのお祝いを直接お受けになるお姿はテレビでおなじみですね。
「長和殿」の前の広場が「宮殿東庭」で、広さが約4500坪あり、
一般参賀などの多いときには約2万人が一度に参賀できるそうです。
写真右側の大きな塔は、「松の塔」と言われ、葉と葉の間から光が灯すように
作られた照明塔です。
先端にある輪は、ふしろという古代婦人の腕輪を形とってるそうです。
隣りの石造りの重厚な建物は、昭和10年(1935年)に建築された宮内庁。
乾通り右手のお堀は、長さが約400m、深さが約80cmの蓮池濠。
毎年7月8月の夏の季節は、綺麗な蓮の花の蔽われ素晴らしい景観が見られるとか。
(ただし、残念ながらその時期は未公開ですね)
お堀の石垣は横一直線ではなく、幾重にも折曲がった構造をしています。
「ひずみ」という工法で石垣の直線が長く続くと、強度が落ちることを防ぐための由。
宮内庁を過ぎて左手は山下通りです。
春の桜、秋のもみじのきれいな通りだそうです。
右側奥が「紅葉山」で江戸時代からほとんど人の手が加わっていない場所と
左手は宮内庁庁舎で、奥に大きな饗宴が催されるときに使われる、豊明殿がある
そうです。
(今日は入れませんが、事前申し込みの一般参観実施日は参観コースになってます)
冬桜の若木が花を咲かせてます。
その先には局門とありますが、名の由来はわかりませんね。
蓮池濠の向かいは東御苑の富士見多門、城内なんだの風情がありますね。
左手に長屋風入母屋造りで「門長屋」とありますが、先ほどの紅葉山への
通用門でもあった様で紅葉山下門といわれたようです。
下道潅堀
右手の橋は東御苑への西桔橋(にしはねばし)が見えてきます。
いったん橋を渡ってしまうと、乾通りへは戻れません。
橋を渡らずに北の乾門へ足を進めます。
濠は乾濠、右手は西桔橋
乾濠、濠の最奥は北桔橋の石垣で、右手石垣は本丸の有った東御苑です。
あとであそこを渡って、東御苑へ入ります。
正面に見えてきた乾門
坂下門から750m程、春、秋の一般公開時のみ通れる「乾門」を
抜けて「乾通り一般公開」は終わりです。
門を抜けると首都高のインター入口道路です。
道を挟んで北側に立つ、赤レンガの優美な建物、
おっ、これは!ここに出てくるんだ!!
なんとも懐かしい建物です。
現在は東京国立近代美術館・工芸館で、戦前は近衛師団司令部でした。
懐かしかったのは、昭和30年代はこの建物の中に学徒援護会が有って、
地方からの学生の宿舎があり、また学生へ下宿屋さんの紹介、斡旋もしていたん
です。
上京して2年目に、教えられて来たことがあったんです。
・・もう60年も昔の話なんだな・・・
左手に続く代官町通り沿い、長く続く築地塀と空堀がイチョウの落葉、
う~ん、美ですね。
首都高入口道を北へ横断し、北の丸公園へ少し足を伸ばします。
ど~んと、日本武道館。
前回の東京オリンピックの柔道競技場ですが、なんといっても1966年に
ビートルズのコンサートが行われてからは、アーチストの聖地とも呼ばれるように
なりましたね。
カミさんは子供の発表会などで何度か来たことがあるそうですが、
それも30年以上も前の話。
私は何の時に来たのか記憶があやふやですが、一度だけは来たことがありました。
武道館そばのCaféでランチにし、一休みして東御苑へと再び南へ向かいます。
北の丸公園を抜け、歩道橋を渡り、東御苑への北桔橋門へ向かいます。
右手は先ほど出てきた乾門方向。
左、平川濠、右手乾濠
昔は跳ね橋で、本丸を控え厳重な警備体制が敷かれていた
北桔橋門(きたはねばし)から本丸の有った、東御苑へ入ります。
続く
*「大雪になる前に、あと一回旅へでたいわね」のカミさんの一言があって、
帰宅後すぐに週間天気予報とにらめっこ。
よし、25日(土)なら歩けそう、と再び旧中山道夫婦歩き旅へ。*
の後編です。
奈良井宿へ到着です。
「奈良井駅」。
明治42年(1909)12月1日中央東線塩尻~奈良井間延伸と同時に開業。
観光地の奈良井宿の玄関口ですが,特急は停車しません。
線路の東側は奈良井川が流れ、川を挟んで水辺公園側と国道19号から
直接入れる駐車場を大きな木製太鼓橋で結ばれた、「道の駅・奈良井大橋」が
あります。
ただし、道の駅は物品販売や食事処などは併設されてい、不思議な道の駅ですね。
駅左側に大きな奈良井宿の看板、右手の乗り入れ禁止の立て札後ろに並んだ
樹木は、木曽谷を管轄していた尾張藩によって、伐採や持ち出しを厳しく管理され
ていた、桧・さわら・ねずこ・あすなろ・高野槇の木曽五木が植栽されてます。
分厚い板柱と宿場案内板
奈良井駅の少し先の右手に戻るように付いている坂道を山側上って行くと、
奈良井川の左岸を通って橋戸の一里塚から平沢へと通じていた、江戸時代初期の
中山道・杉並木の一部や、奈良井宿の鬼門除け八幡宮、観音像が194体ある
二百地蔵堂などがありますが、雪で足場が悪いと教えていただき、今回は寄らずに
次回の楽しみとして宿場内へ足を進めます。
駅前を過ぎると、いきなりとゆう感じで、大勢の観光客の姿が見え始めます。
旧中山道の奈良井宿は、鳥居峠上り口にある鎮神社を京都側の端に、
奈良井川沿いを緩やかに下りつつ約1kmにわたって町並みを形成する、
日本最長の宿場です。
中山道木曽路十一宿のうち、北から2番目の難所:鳥居峠を控えた宿場町。
江戸側の板橋宿から数えても京側の守山宿(大津、草津は東海道)から数えても
34番目に位置する中山道の丁度真ん中の宿場町です。
昭和53年に国から重要伝統的建造物群保存地区に選定されました。
(国土交通省、重要伝統的建造物群保存地区規範事例集より抜粋)
*記録上では20回に及ぶ火災にあい、特に弘化4年(1847年)の大火により
全焼し現在の街並みはそれ以降に形成されてます。
一般的に伝統的街並みが失われる原因として、
1)、火災、
2)鉄道整備(街の空洞化により消失)
3)道路の整備(拡張により 消失)
4)建物の老巧化(建て替えにより消失)
5)人口r流失による過疎化
などがあげられる。
奈良井の場合は
1)定住率が高い(人口の7割以上が、明治前より定住し、地域への愛着が強い)
2)鉄道、国道が旧街道を迂回、
3)町を愛する住民の存在
4)外部の人たちや組織にプロデュースを任せず、日常生活をしながら身の丈に
合った街づくりをしてきた。
というような幸運な条件が重なって保存されてきた。
昭和53年度から平成9年度に渡り、国庫、県、補助事業により210軒の
修理(建物全体)、138軒の修景(表層のみ)を行っている。
電柱は昭和63年に建物の裏側に移設させ、あたかも無電柱化を図ったような
景観を実現している。
自動販売機のクロス貼り、郵便ポスト自作など、手作りの街造りも行われている。
と、記述されてます。
江戸へ64里22町14間。宿場町並8町5間(885m)。
木曽路で最も標高の高い位置(940m)にある。
鎌倉時代から宿駅の体裁が整い,慶長7年(1602)徳川家康により
中山道の宿駅と定められ,街道にそって南側から上町・中町・下町に分かれ,
中町に本陣・脇本陣・問屋などが置かれていた。
近世,奈良井は檜物細工,塗り物,塗櫛などの木工業などが盛んとなり
「奈良井千軒」と云われたほど賑わった宿場である。
連子格子や二階正面に「袖うだつ」をもつものも多く、特徴のある町並みを作って
いる。
天保14年(1843年)中山道宿村大概帳によれば、
家数:409軒,本陣:1,脇本陣:1,旅籠:5軒、人口:2155人,
であった。
奈良井宿は他の宿場とは大きく異なり旅館業よりも曲げ物、櫛、漆の器など
木工細工を主な産業とした職人の町でした。
(旅籠の数は天保14年の記録でも5軒と少ないが、商人の家が旅籠の役割を
果していたといわれる)
電柱や電線が無く、街並みをかくもすっきりさせ、軒の低い格子戸がはめ込まれた
町家がどこまでも続いてます。
街道書では、右手山側、専念寺への参道分岐付近に、桝型という桝のように
四方形に石垣や土塁を築いた場所が設けられている、とあります。
桝形のすぐ先右手、奈良井宿にも水場があります。
1条の水が枡に流れ込みそ、こからは2条で流れ出る奈良井宿の標準的タイプの
水場。柄杓もあり水を飲むことが出来ます。
奈良井宿には6か所の水場が設けられ、それぞれの水場に水場組合が作られ、
維持・管理を行っているそうです。
街道時代は油屋を営んでいて、昭和40年代から旅館「あぶらや」として営業。
この奈良井宿には、十数年前に初めてマイカーで長距離ドライブをし、
上高地や、当時マイカー乗り入れが出来た標高2700mの乗鞍岳畳平などへ
行き、林道走りなどで遠回りしての帰り道で、道の駅利用の際に立ち寄った
ことがありました。
一部だけ歩いたような気がしますが、まだ街道や宿場などに感心もなく、
古色蒼然とした街並み、とだけの印象が残ってました。
ゆっくりとした坂道の奈良井宿
個々の家でも独自のディスプレーを施して見る目を楽しませてくれます。
漆店の看板ですが・・山型積みは薬草?
水場
典型的な町屋造りは、創業寛政5年(1793年)銘酒「杉の森」蔵元
「杉の森酒造」です。
切妻、平入り、外壁は正面が真壁造り白漆喰仕上げ、腰壁と両面は
下見板張縦押縁押え、2階外壁は1階外壁より前に張り出し、伸びた椀木に桁を
流し、そこで外壁を支える出桁造。
中2階の建物で通常の2階建てよりは軒が低くいのが特徴です。
この宿場は雪国の為か軒の出は非常に深く、窓には千本格子を設え、隣家との
間には延焼対策と思われる袖壁があります。
袖壁は他の地域で見られるような土蔵で屋根上部まで伸びている形式と異なり、
簡易的なものですが、火事の延焼やプライバシーの確保などに一定な効果はあった
と言われます。
今は仕込みの時期かな、軒の下酒林(杉玉)はまだ提げられていませんね。
(残念ながら2012年頃から、酒造りはしていない(廃業?)、
とのお話を頂きまし)
杉の森酒造の向かい、右手に大きな 「楢川村奈良伝統的建造物群保存地区」の
標柱が建ち、樹齢400年と言われる松の根元に、津嶋神社と庚申塔が立ってます。
右手木枠門から細い参道を入ると、天正10年(1582)、当時の領主奈良井義高が自らの菩提寺として創建した「臨済宗妙心寺派 広伝山・大宝寺」があります。
裏山には開基となった奈良井義高の墓があります。
このお寺には十数年前に、寄った記憶がありました。
七福神めぐりの寿老人、隠れキリシタン信仰にまつわる、子供を抱き膝も頭部も
破壊され、わずかに胸の十字架だけが残っている、マリア地蔵尊や、
享保年間(1716~35)に作庭されたと言われる庭園、などを拝観した記憶がありました。
(カミさんも記憶を辿った様で、マリヤ地蔵尊を見たわね、て)
大宝寺は覗いただけで後にし、宿内へ戻ります。
延宝3年(1675年)創業と言われる、脇本陣も勤めた旧旅籠「徳利屋」
島崎藤村や正岡子規など文人・文豪が泊まったこともあるそうです。
現在は郷土館を開いてます。
山駕籠かな?
街道書によれば、この付近から右手に入ると、本陣跡とあります。
奥が本陣跡で標柱と嘉永2年(1849年)建立の常夜燈がありますが、
現在は公民館、郵便局、駐車場などで、本陣としての遺構は何もありません。
ある説では、規模も小さな本陣だったようで、行列は街道へ出て整えたそうで、
道が広くなってるそうです。確かに付近の道は広がってますね。
文政元年(1818年)創業、脇本陣を勤め下問屋も兼ねた「伊勢屋」
寛政年間(1789~1801年)創業と言われる旅籠・越後屋(今も旅館盛業)
手塚家が勤め庄屋を兼ねた「上問屋」、現在は資料館となってます。
建物は切妻平入りの中2階の建物で、典型的な町屋形式となっており、
平成19年(2007)に国指定重要文化財に指定されています。
奈良井宿の案内板によると、
「この家は慶長7年(1602年)から明治維新に宿場制度が廃止されるまで、
270年間、奈良井宿の問屋(伝馬と人足を管理運営)をつとめ、天保年間からは
庄屋も兼務して明治維新に至りました。
現在の建物は天保11年の建築で、その当時の記録が残されています。
明治13年6月26日明治天皇が御巡幸の際御在所となった、・・・(後略)」
とあります。
(手塚名は平沢でもありましたよね)
上問屋のすぐ先右に入ると、創建は南北朝時代の貞治5年(1366年)との言い伝えがある、曹洞宗・長泉寺があります。
徳川家光の時代、茶壺道中の本陣で、拝領の茶壺の一つが残されているようです。
本堂入口の天井に描かれた「龍の大天井絵」は一見の価値があります。
外国の男女三人が盛んにカメラを向けてましたね。
街道へ戻ると先は桝形です。
中町から上町への桝形は「鍵の手」と呼ばれ、碑が立ってます。
そして、桝形に水場が設けられ旅人の喉を潤すとともに、防火にも活用され、
荒沢不動尊は水、火とのかかわりから水場の守りと、火防の守護神として、
また男女双体道祖神が道の守りとして旅の安全を長い安置されているそうです。
三つ目の上町へ入りました。
古い様式の猿頭(屋根板を押さえたもの)をつけた家が3軒並んでます。
上町の真ん中付近、街並みに溶け込んで、唯一の洋館が立ってます。
(カミさん曰く、きっと医院だったのよ)
*帰りの道すがら地元の方に聞くと、つい最近まで奈良井診療所だったそうです*
上町外れ近く、中村利兵衛家。
木櫛の上に上質の漆を塗った漆櫛の創始者・中村恵吉家の分家で、
代々奈良井宿で塗櫛の製造販売を手掛けた櫛問屋を生業としてきました。
現在の中村家住宅は、天保8年(1837)の奈良井宿大火で類焼後の
天保10年(1839)頃に再建されたもので、現在は資料館として公開されます。
奈良井の町並みを残そうと、住民が考えるきっかけになった家ですね。
奈良井宿瓦版の記事を紹介。
*奈良井宿の木櫛の歴史は大変古く、江戸時代初期に始まり、木曽の「お六 櫛 」
は全国的に有名です。
寛政年間、中村屋恵吉 けいき ちがこの木櫛に漆を塗り、中山道を通る旅人 に
大変もてはやされ、その後、吉野屋治兵衛 が苦心して蒔絵 ま き え を付け
奈良井宿の産業 として成立させました。
塗櫛は、江戸や京の都へ出荷され今も「江戸ぬり櫛問屋○ ○○」という立派な
金看板が残っています。 大正時代にはいると、奈良井で木地、塗りを 施し、
東京でつまみ細工をして仕上げました。 これが、島崎藤村の「初恋」で知られる
「花 はな 櫛 ぐ し 」 ですが、大正末期にはすっかり姿を消してしまい ました。
その後、昭和42年ころから塗櫛を復活させ、 現在でもつくり続けられています。
江戸時代初期から今まで350年余りも続いた、 木曽のお六櫛は、その永きに渡る
歴史において 数々の工夫技法が凝らされ、今日の美しい姿へ 変化してきました。*
(お六櫛は<ミネバリ> というとても硬い木が素材だそうです)
(栄泉画 奈良井)
峠へと坂道を上ってきてます。栄泉の画はこの中村屋を描いたものでしょうか。
看板に「お六櫛」の文字があり、商い中の人々が描かれています。
旧東海道を旅していた時に、鈴鹿峠を越えた土山宿で「お六櫛」の商い看板を掛け
た店がありました。遠く木曽方面から仕入れしていた、と解説されてましたね。
はるか近江の国へ中山道を運ばれてきてたんですね。
少し上り坂の傾斜がきつくなり、集落の西端が近いようです。
昭和48年(1973年)に復元された、奈良井宿高札場があり、
側に木曾谷の伝統的な板葺石置屋根の、宮の沢水場があります。
高札場の先に、
PM3:00
奈良井宿の鎮守、12世紀後期創建と言われる「鎮神社」前に着きました。
町並みの西端の鳥居峠の上り口にあります。
今日の歩き旅は、いや、今年の旧中山道夫婦歩き旅はここで足止めし、
来春の雪解けまで休眠します。
再び訪れ歩き旅を再開することが出来たときに、新ためて神前に参拝することとし、
鳥居前で黙礼して、すぐ先の鳥居峠口を確認し旅を締めくくりました。
木曽路は山に日が遮られ、夕暮れは足早に訪れます。
再び1kmほどの戻り道を歩き、駐車場へ、
9月17日に,、再び歩き始めることができた旧中山道69次夫婦歩き旅も、
来春の雪解けまでの足止めです。
PM4:00、帰路へ。
途中で寄った諏訪PAから、夕暮れの八ヶ岳が綺麗に見ることが出来ました。
中央高速は相変わらずの渋滞時間帯、PM8:00帰宅。
第22回旅、終わりです。
*「大雪になる前に、あと一回旅へでたいわね」のカミさんの一言があって、
帰宅後すぐに週間天気予報とにらめっこ。
よし、25日(土)なら歩けそう、と再び旧中山道夫婦歩き旅へ。*
の後編です。
ゆっくりと道の駅・木曽ならかわで足休めして、街道へ戻ります。
木曽平沢(旧木曽楢川村奈良井木曽平川)と変わってます。
魚は岩魚?鮎?
ゆるい登り坂道が続きます。
右手に馬頭観音の立つところで、今日初めて街道旅の御夫婦とすれ違いました。
下りとなり、物見坂。
前方の建物は塩尻市「楢川支所」、元楢川村役場でした。
平成の大合併で塩尻市に編入されるまで、
贄川から奈良井に至る地域は、楢川村と呼ばれていた。
1889年(明治22年) 町村制の施行で、西筑摩郡奈良井村と贄川村の区域は、
改称して木曽郡となり、楢川村が発足。
贄川と奈良井が合併する際に、奈良井のナラと贄川のカワを合わせて
楢川(ならかわ)になりった。
そして楢川村役場は、贄川、奈良井の両宿の間にあり、
旧村内のもう一つの大字名である木曽平沢に置かれた。
さらに、2005年(平成17年)塩尻市に編入し楢川村は廃止に。
現在の地番、地域名や地図上では楢川は有りませんが、旧楢川村役場名が支所名で
残ってるんですね。
支所前に「お塗處・吉久屋」、う~ん、良いですね。
左手は塩尻市楢川支所の敷地内に、木曽平沢の解説板と芭蕉の句碑があります。
貞享五年(1688)に芭蕉が木曽を訪れたときに詠んだと言われる。
「送られつ送りつ果ては木曽の秋」
宝暦十一年(1761)木曽代官山村甚兵衛良啓が建立したものです。
「国選定重要伝統的建造物群保存地区」の解説板は、日本語、中国語、ハングル字、
英文で書かれてます。
今は冬、あたたかなシーズンになれば、外国の観光客も多いのでしょうね。
そして旧中山道は、句碑の後ろで右手の草道坂に入ってゆきます。
これが旧中山道・諏訪坂です。
短い坂を上りと左手に鳥居が立ち、大宝2年(702年)創建と言われる
平沢諏訪神社があります。
鳥居を入ると、正面は舞屋、その奥に覆屋を兼ねている拝殿は、柱や壁が赤と黒に
塗られています。
本殿は後部が透かし塀の覆屋内に鎮座しています。
(左、舞屋 右、拝殿を兼ねた覆屋)
街道書によると、
天正10年(1582年)鳥居峠で木曽義昌に敗れた武田勝頼は、敗走の途次
社殿に火を掛け全焼した。
現在の本殿は朱塗(総漆塗りだそうです)で、享保17年(1732年)の再建。
(覆屋の板塀隙間から覗くと赤い建物が見えました)
境内の左右には2本ずつの御柱が建てられていて、『楢川村文化財散歩』には、
「木曽郡下では平沢諏訪神社と贄川麻衣廼神社でのみ、御柱祭がおこなわれている。
この平沢諏訪神社の御柱祭が木曽谷における南限地となる」とあります。
境内右手から石段を下ると中北道標と二十三夜塔が立ってます。
傍らの説明板の二十三夜の伝承は、
「神に願かけ叶わぬならば、二十三夜さまお立ち待ち」 月が出るまで飲酒談合して待つのだが「お立ち待ち」といって月が上がるまで腰を下ろさず立ち続ける」
とありました。
坂を下ると、県道257号に合流する左側に中北道標が建ち、中山道と彫られた小さな石碑が立ってます。
先に集落の街並みが見えてきました。
旅館、ここが??
向かい土手上は墓地です。土手に,石仏石塔群がありました
道両側に漆器を扱うお店がずらりと軒を連ねている、400有余年の歴史を誇る
木曽平沢は海抜およそ900メートルの高地にあり夏は涼しく、冬は寒いという独特な
気候で自然豊かな大森林は良材を育み、漆を塗る作業に良く、漆器の里として
栄えてきた。
すぐの左手に、先ほど「木曽暮らしの工芸館」で見ることができた、
あの「長野オリンピック漆蒔絵入賞メダル」企画作成した「まる又漆器店」が
ありました。
町並み保存の家・まるやま
敷地前面の三角形の空地アガモチと呼ばれ、街道と斜交いに建物が立ってます。
創業300年の看板を掲げた店
切妻出梁造りの旅籠風家屋
「ちきりや手塚万右衛門商店」は寛政年間(1789~1800)創業で、
向かいに古い漆器や作業道具を展示した「漆資料館」を併設しています。
職人同士が軒を並べている町、木曽平沢。
中山道や奈良井川が南北に縦断する市域南部の中央に位置し、
谷あいを北流する奈良井川が大きく湾曲した河川敷に発達した集落です。
慶長7年(1602年)に、奈良井川対岸にあった中山道を現在地付近に
付け替えた際、周辺の民家を集められて成立した。
宿場ではなかったが、檜物細工や漆器が地場産業として発展し、
江戸時代中期以降になると、中山道沿いの集落の中では最大の漆器生産地として
発展し、何時しか「平沢塗物」として全国的にも知名度が広がりました。
現在の木曽平沢の町並みは寛永2年(1749)の大火後に計画されたもので、
火災の経験を生かし、短冊状の敷地割にはアガモチと称する前面道路と主屋の間に
空地を設け、主屋、中庭、塗蔵(漆塗をする作業場、土蔵造りで、2階が乾燥場)、
離れ又は物置の順に配され、隣家の建物同士を離す為、敷地奥に設けられた塗蔵
へは外部の通路を通すなどの工夫が見られます。
木曽平沢は全国的にも少ない、漆工という伝統的工芸の職人町、漆器店が軒を
連ねる町として、平成18年(2006年)に、
「重要伝統的建造物群保存地区」に選定されています。
本通りと称される、中山道に面して、1軒だけ見かけた前庭を持つ和洋の建物。
通りには漆店以外の飲食、土産物店など商店街風は全くなく、看板などもありません。
調和のとれた美しい家並みが、緩い曲がりを描き続いています。
漆以外の看板を掲げていた、唯一のようなお店・・
(店先には何故か果物が・・)
明治時代に大火があり,江戸時代のものはあまり残ってはいないが,
縦格子をはめ込み,垂木構造の小庇を持つ出梁造り、切妻の出梁造りの旅籠風の
建築、大谷石の蔵などなど、ゆっくりと眺めて、漆製品を見せていただき、
お話をお聞ききしたりと、保存され残された町並みではなく、現在も生活の場、
活動する漆塗りの産業地、なんとも楽しい散策に名残を惜しみ、町を後にします。
(街外れの、国登録有形文化財の漆工房巣山、昭和初期の状態が保持されている)
近世前期に「木曽物」で知られた木曽の漆器は、ほとんどが奈良井宿で生産されていましたが、
近世後期になると「平沢塗物」の名で流通するほどに発展します。
明治以降も技術革新によって成長し続けました。
木曽平沢は現在でも日本有数の漆器生産地として、
その地位を維持し続けているそうです。
町並みの南の外れ,右手からの道を併せたところに津嶋神社があり、
道祖神や御嶽山三社大神が祀られ、奈良井まで1.7kmの標識と
「国選定重要伝統的建造物群保存地区」の看板も立ってます。
その先で道は二股になり左側の細い道をゆき、すぐに元の奈良井川道に戻ります。
奈良井川の対岸には「雀おどり」の屋根飾りを乗せた、木曽漆器館がありました。
「笹良漆器会館」の先で道は二股に分かれ、中山道(県道258号)は左手踏切を
渡って国道19号に合流し、奈良井駅付近で奈良井川を渡り、奈良井宿へ
通じてるようですが、街道書は県道とは離れ右手の坂を下り、JR線のガードを
くぐり奈良井川の左岸沿いの道(信濃路自然歩道)へと記されてます。
ガードを過ぎ堤防上の遊歩道に上がると,街道書に奈良井川の歩道橋を渡った対岸に
一里塚跡があると、記されています。
奈良井川の一本鋼桁の歩道橋を渡った対岸に案内板がが見えてます。
橋は渡らず川沿いを行くと、対岸に「橋戸一里塚跡」と白い説明板が見えてます。
橋戸一里塚は,中山道の付け替えで残された江戸から64番目の一里塚です。
地区住民により中山道の歴史をしのぶ公園(橋戸一里塚パーク)として親しまれ、
周辺整備が行われているそうです。
奈良井川左岸の道を行き少し先の左手に,木曽の木材を多く使用して造った
「木曽楢川小学校」があります。学校名はそのままなんですね。
街道書では、「給食の食器は漆器が使われている」とありますが、今でもかな?
小学校からしばらく進むと、右折して奈良井川を渡る道、左手に国道19号に
合流する道、直進した先でて国道に合流する分岐の三叉路となり、
街道書の通り、真っ直ぐ進み奈良井大橋へ出ると、
国道から右手に分かれてきた県道258(中山道)と合し、奈良井橋を渡ります。
左手にとって川沿いを奈良井宿へと向かいます。
橋のたもとで、奈良井駅から来た、地域振興バスに出会いました。
「あら、朝のバスと同じ運転手さんよ!」の声で見ると、バスの運転手さんも
気づいたようで、手を挙げ笑顔で返してくれましたね。
道の道路標識には「楢川村奈良井」のままですね・・
左手は奈良井川、右手山側は鉄道路線に挟まれて、街道は緩く下って行き、
踏切を渡ると奈良井の集落へと入ってゆき、
左先に奈良井の駅が見えてきました。
途中に石造りの3階建て蔵を持つ「丸山漆器店」という店がある。
街道書によると、
「栃木県宇都宮大谷に産し、土台石や塀などによく使われてる大谷造りで、
木曽地方で大谷石とは珍しい」と記されてます。
遥か栃木県宇都宮大谷から運んだのでしょうか。
奈良井宿へたどり着きました。
続きます。
*ひょいと歩き出した東海道五十三次。
途中で、断念かの肝臓癌をなんとか乗り越えて、京の三条大橋へ到着。
勢いをかって「歩いて再び京の都へ」と乗り出した中山道六十九次。
またまた腹部大動脈瘤、心臓動脈硬化、そしておまけに腹部ヘルニア。
挫折しそうになりながらも、カミさんの支えもあって、またまた乗り越え
旅の再開。
そんな、じじばば道中ブログです*
11月3日に歩き残してた「碓氷峠越え」を果たし、街道は江戸から
28番目・和田宿へ一本線に継ながりました。
先にはこれまた難所の和田峠越えがあり、雪の季節となり
峠越しは雪融けを待ってとし、元気なうち歩ける内にと峠を飛ばして
足を前へと進めています。
先日の21回目、後半はとうとう雪降り街道旅(おおげかな?)となり、
江戸から33番目、贄川宿(にえかわ)手前の贄川駅で足を止めてます。
帰りの車の中で、
「大雪になる前に、あと一回旅へでたいわね」のカミさんの一言があって、
帰宅後すぐに週間天気予報とにらめっこ。
よし、25日(土)なら歩けそう、と再び旧中山道夫婦歩き旅へ。
中央高速を走り、前回と同じくみどり湖PAで朝ラーメンで朝食。
塩尻ICから国道20、19と走りAM8:30、前夜降ったらしい新雪積もった
道の駅・奈良井木曽の大橋の水辺公園・駅東駐車場へ車を停め、地域振興バスで
前回足止めの贄川駅へ向かいます。
野山は雪景色、北国で過ごした子供のころを思い出し、なにかワクワクする
気分になるのが不思議ですね。
AM9:30 贄川駅前から第22回目の旧中山道夫婦歩き旅の旅立ち。
今日の歩き旅は、江戸から33番目「贄川宿」から約2里(8km)の
34番目「奈良井宿」までの短い距離です。
すこし雪道を歩くことになりそうですが、風もなく国道気温標識は4℃、
歩きやすい一日になりそうです。
国道19号、駅のすぐ先に「贄川宿」の大きな看板が立ってます。
さらに駅から300mほど行くと、左手JR中央線の向こう側に、復元された
「贄川関所跡」が見えてきます。(左端)
国道から左折すると、関所橋でJR中央本線を渡ります。
関所橋は、大名行列の欄干飾りや、欄干に吊るされた金属パイプを連続して叩くと
「木曽節」の一節を奏でるところから、別名「メロディー橋」と呼ばれています。
(カミさんが演奏?したら、なんとも間延びした「木曽節」で大笑い)
これはプリズム塔だね、
当時の関所はいまの位置より西側にあり、旧中山道は贄川駅の北方向から線路を渡り、駅舎の東側を通ってこの関所前へ続いていたそうです。
現在は鉄路敷設に伴い、失われた街道となってます。
左手に坂を下ると
明治初年に取り壊されましたが、昭和51年に古図をもとに”板葺き石置屋根”の
贄川関所(木曽考古館)として復復元され、一般公開されています。
解説板によれば、
「建武2年(1334)頃,源義仲7代の孫讃岐守家村が贄川に関所を設けたのが最初で,天正18年に豊臣秀吉が番所を置き、木曽材木の監視のため南の妻籠番所とともに取締りに当たり,関ヶ原の戦いの後、徳川幕府もこれを継承して、福島関所の副関所として木曽代官山村氏の配下が守り,鉄砲と女改めに加え木曽檜の加工品や木材などの搬出を厳重に監視し尾張藩の”北番所”とも呼ばれた。」
(マンホール蓋も関所です、カラーでないのが、またいいですね)
関所前が江戸方(東方)、関所から戻り贄川宿内へと足を進めます。
江戸から数えて三十三番目、62里27町14間(246.5km)
木曽11宿の最北端の宿場で、江戸からの木曽路の入口宿場です。
街道書に書かれている、
「木曽路はすべて山の中である。
あるところは岨(そば)づたいに行く崖の道であり、あるところは数十間の深さに
臨む木曽川の岸であり、あるところは山の尾をめぐる谷の入口である。
一筋の街道はこの深い森林地帯を貫いていた」
『夜明け前』島崎藤村、の有名な始まりです。
(高校生のころ一度だけ読んだかな?記憶があいまい)
「贄川」の名は,古くは温泉が出たことから「熱川(にえかわ)」が,温泉が
枯れて現在の字が充てられるようになったとの説や,奈良井川で獲れた川魚を
諏訪大社の神事の御贄として奉納していたことから、神に供えるいけにえ(生贄)
の魚を捕る川という説の二説があるそうです。
宿は天文年間(1532~54)に開設され,桜沢から小野を経て下諏訪に到る
古中山道の宿として,さらに塩尻峠の開通により,贄川から本山,塩尻を経て
諏訪に到る中山道の宿駅として整備された。
昭和5年(1930)の大火で町の大半が焼失し往時の面影はほとんど残って
いない。
天保14年(1843年)、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠25軒、人口:545人
(広重画、贄川)
ここにも 水場がありました。
郵便局の向かいあたりが本陣跡、木曽家の子孫千村家が勤め,問屋,庄屋を兼ねて
いた、と街道書にはあるが印すものは何もありません。
立派な門を構えた家がありましたので、パチリ。
郵便局の向こう隣りの民家。
津島、秋葉神社
神社の左隣り「麻衣廼(あさぎぬ)神社」の石柱と「観音寺」との案内板があり、
右手の細い道を入りJR中央線を橋で渡り、信号で国道19号を越えると、
大きな観音像の建つお寺がありました。
山門の前に大きな観音様、寛政4年(1792年)に再建されたと云う立派な
山門を持った、大同元年(806年)創建されたと言われる古刹、観音寺です。
観音寺の左手奥に延びる参道に登ると、麻衣廼(あさぎぬ)神社の鳥居の前に
出るのですが、少し深そうな雪道となって足元が悪そうなので拝観は取りやめ。
このあとの街道旅の行き来で、近くを通る機会がありそうなので再訪したいですね。
街道書によれば
「麻衣廼(あさぎぬ)神社は天慶年間(938~47)の創立,
諏訪大社の系列の長い歴史をもつ神社である。
天正10年の戦火により焼失,文禄年間(1592~96)現在地に再建された。
現在の社殿は延享4年(1747)建立,拝殿は慶応元年(1865)再建。
毎年春の祭りに加え6年目ごとの寅年と申年に御柱祭を行う。
この神社の御柱は4本並列配置である」とありました。
来た道を戻り、宿場の街並みへ。
街道書では今は酒店とありましたが、閉店したようです。
(「たばこ販売店」と書かれた赤いプレートに、贄川の文字が見えました)
街並みの中に漆塗店の暖簾をかけたり、屋号をつけた民家が何軒かありました。
少し先右手に秋葉、津嶋神社
隣りに水場があって、野沢菜を洗ってました。
向かいの建物が、贄川宿に唯一残る江戸時代の建物、深澤家です。
深澤家は屋号を加納屋と称し,行商を中心とする商家を営み
文化年間(1804~17年)には,京,大阪などから北陸・東北地方への
遠隔地商売を展開し贄川屈指の商人となった。
街道に西面した短冊型の敷地(564.47㎡)に主屋(2階建切妻造)が建ち,
その背後に中庭を挟んで北蔵と南蔵が並ぶ。
主屋は嘉永4年(1851年)の大火後の再建で同7年に竣工。
北蔵は文政4年(1821年),南蔵は文久2年(1862年)の建築。
各建物の建築年代がほぼ明らかで,保存状態も良く江戸末期の木曽地方宿駅の
町家の姿を忠実に留め,主屋の規模・大きさ,独特な正面外観,整然とした架構,
洗練された重厚で落ち着いた室内が構成され,木曽地方の町家建築の到達点を
示す建物として価値が高く,国重要文化財に指定されている。
幕末に建てられた深沢家住宅三棟(国重要文化財)は実にどっしりしています。
深澤家住宅から約60m歩くと、右側にひのきや漆器店があり、店の先を
右折し桝形状に進み跨架橋で鉄道を越し国道へ合流します。
街道書にも記載がありませんが、京方(西方)になるのでしょうか。
国道を進むと右手に、推定樹齢千年というトチの木(長野県天然記念物)の
案内板があります。
「贄川のトチ」
推定樹齢千年,樹高33m,根元周囲17.6m。
1mの高さに瘤があり,その上3mから大枝が分かれさらに5本に分岐している。
元文四年(1740)の書物に、「栃の大木一本有り」との記述があり、280年前に
はすでに大樹であった。
枝張り,樹姿,樹幹の美しさは県下一のものとされ,地元の人たちから樹下に
祀られている小祠にちなんで「ウエンジンサマのトチの木」と呼ばれ大切に
されていると云う。
樹高33m,一切の支え無しで堂々としてますね。
根元周囲17.6m。
後ろへも回ってみたかったが、結構な傾斜で雪もあるため
諦めて、右から左から飽きずに眺めましたね。
花の咲時期にもう一度訪れてみたいもんです。
国道(中山道)へ戻り先へ進みます。
旧中山道はこの辺は国道左下の鉄道敷地内を通っていたそうですが、今は消滅です。
トチノ木入口より約200m弱歩くと右手に、地蔵尊、観音菩薩、馬頭観音などの
石仏石塔群が並びぶ傾斜地があり、奥には枝垂れ桜の古木や桜木が立ってます。
街道書には、「桜の宮跡」とありました。
200m程先で、国道両側には歩道帯がなくなり、土曜日ですが大型車両がびゅうんびゅん行き交います。
街道書では国道左手に木曽路民芸館があり、その先国道の擁壁上に設けられた
グレーチング(金網)を敷いた側道「旧中山道用の歩道」を行くとあり、
それ!と横断して国道の左側へ渡りました。
(TV的に言えば、よいこのみなさん、マネしないでね・・でした)
擁壁上にグレーチングを敷いた雪道を進み、突き当りの仮設階段を上ります。
階段を上ると落ち葉の積もった草道となり、お地蔵さんや馬頭観音を見ながら
しばらく行くと、
街道時代からの道幅と思われる桃岡集落を抜けると、ここにも水場があり
小屋の中には水神さんかな?
その向かいの畑の中に日本橋から63番目の押込の一里塚跡で、石碑と解説標板が
立ってます。
江戸時代、押込村と云われた地籍があったが,国道や鉄道敷設などのため消滅した由。
その先右手は国道19号、その奥山側は鉄道路線で、トンネルがありました。
丁度タンク車連結の貨物列車がトンネルへ入ります。
(撮り鉄さんが一人三脚を立ててましたね)
すぐ先十字路左手からくる道は、贄川駅付近から国道と奈良井川の間に通された
明治道で、右折してすぐに国道19と合流し、左手に進み桃岡橋を渡り
鉄橋下を進みます。
振り返り鉄橋、トンネル、列車来ないかな~・・諦めて歩みます。
このあたり漆器店、工場が目についてきます。
200mほど先で中山道は国道から左に分岐し、旧長瀬集落へと入ります。
街道らしい道幅の集落を、およそ7,800m歩きます。
「あら、メジロよ」4,5羽もいましたね、柿を啄ばんでます。
抜けると再び国道に合流し、さらに約500mほど歩くと平沢北交差点となり、
横断して右手の道、県道257木曽平沢線へ入ります。
AM11:30、道の駅ならかわへ。
(塩尻市に合併する前は楢川(ならかわ)村でした)
おっ、二連重の貨物列車だ!
お昼も近しで、併設のCafé、UーLIFE(フィンランド料理のお店だったようです)で、パスタでランチ。
コーヒーもいただきゆっくりと足休め。
(オーナーはフィンランドの方だそうです)
暮らし工芸館を見学。
お目当ては実物を見る機会が無かった、長野オリンピック時の、
金銀銅メダル(漆塗)でした。
目にしたメダル、素晴らしいです!!
単にオリンピックメダルというより、美術工芸品ですね。
(館内は撮影ご遠慮くださいになってます)
*木曽暮らしの工芸館、HP*
http://www.kiso.or.jp/info/post-1.html
木曽で作られている漆器類の展示販売や漆塗り体験学習なども開かれています。ゆっくりと時を過ごし。街道へ復帰し漆器の里集落「平沢」へ向かいます
続きます、