歩いて再び京の都へ 旧中山道夫婦旅   (第24回)       藪原宿~木曽福島 前編

 

*ひょいと歩き出した東海道五十三次
途中で、断念かの肝臓癌をなんとか乗り越えて、京の三条大橋へ到着。
勢いをかって「歩いて再び京の都へ」と乗り出した中山道六十九次。
またまた腹部大動脈瘤、心臓動脈硬化、そしておまけに腹部ヘルニア。
挫折しそうになりながらもカミさんの支えもあって、またまた乗り越え
旅の再開。
そんな、じじばば道中ブログです*

 

4月19日、奈良井宿から鳥居峠を越えて、藪原宿へ到着し足止め。

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世の中GW。

後半は天気が崩れそうてんで、昭和の日・29日に再び街道旅へ。

藪原宿から宮ノ越宿へ、そして宮ノ越宿木曽福島宿へと足を進めます。

29日早朝、今回もマイカーを走らせ。みどり湖PAで塩ラーメンの朝食。

北アルプス穂高連山がくっきりと見えてます。

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AM7:40藪駅前着。

快晴の空、朝の風が爽やかで、絶好の旅日和。

AM8:00

中山道69次夫婦歩き旅」、第24回目の旅立ち。

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JR藪原駅はちょっと変わった構図ですね。

藪原の集落は線路の北側ですが、駅舎は南側にあり集落から直接改札を入ることは

出来ないんです。

駅舎の建つ側は、数軒の旅館や民家のみ裏手は段丘上に国道が通っています。

 

藪原駅から南西へ向かい国道19号へ足を進めると、藪原宿集落からの道が

JR中央線のガードを潜ってきてた道とその先で合流し、

木曽村 藪原信号で,国道19号へと合流します。
 

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中山道は線路の向こう側を木曽川沿いに行き、その先で線路を横切って

山側へ続いていたそうですが、いまは分断され消滅してる由。

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先で藪原集落からの道に合い、さらに木曽村 藪原信号で国道19号と合流、

右側につけられた歩道を歩みます。

さすがにGWとあって、トラックは少ないですが自家用車の交通は

半端ではありませんね。

鉄道は木曽川を対岸へ鉄橋で渡り、国道は木曽川左岸沿いに南下してゆきます。

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競歩のような、すごいスピードで追い越しっていた方は

腰にウエストバック、右手にペットボトルの軽装。
旅というより、タイムを追いかけてるランナーでしょうか。

右下を木曽川が流れ、川の向こう側に中央本線が走り両側から山が迫る。

まさに木曽路は山の中。

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 木曽川沿いの、国道右手歩道を歩きます。

冷気を感じるくらいの川風は歩き旅には持って来い、いい旅日和です。

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やがて前方に橋が見えてきてみます。

江戸方面からは、橋を渡らずに川沿いに左へむかう旧国道(中山道)を行く、

と街道書にありますが、信号も無しのうえ、ガードレールに阻まれて左側へ

渡ることが出来ません。

(旅人によっては、ガードレールの切れ間から、それ!と横断し左側の切れ間へ

駆け込むともありましたが、切れ間、見逃した?いや、無かった様な)

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ここは結構、高スピードで行き交う車両が多いため、横断を断念。
このまま右側を進み、一旦獅子岩橋で木曽川を渡ります。

「コンニチワ」と声を残して女性ランナーが走り抜けて行きました。

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渡った先の国道壁面に、「鳥居峠を行き交う旅人、馬子の大壁画」。

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壁画を過ぎた先で、木曽川を再び鷲鳥橋で渡ると、木曽川左岸を通ってきた

旧国道(中山道)が左手から合流してきます。

(左、山裾のガードレール道が旧道)

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橋を渡ったところで、旧道との合流地点でガードレールの切れ間があり左右の

見透しもいいので、やっぱり少しでも街道に忠実に歩きたい、と

それ!と左へ横断し、半分ほど旧道を戻ってみました。

写真、旧道中間くらいから、右は江戸方面で左は京方面。

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山の斜面のピンクの花はツツジの様子、

おっ、アカヤシオ!! かな??

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中山道は国道を横断して右手へと進んだようですが、今は消滅。

再び国道沿いを歩きます。

菅の信号で歩道帯のある右側へ渡って、先へと進みます。

ここの信号は「自転車横断帯」はありますが、徒歩横断歩道帯」は設けられていない

へんな交差点ですね~・・右手に集落もあるのにね。

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中山道は信号の少し先で、右手から来て国道を横断し左手の山の道へ繋がって、

この先にある吉田洞門の上を越える、高巻きの山道となっていたようです。

高巻山道を越える幕末の皇女和宮の、何日も続く行列の様子を、

右手木曽川、川向こうの村人が語り伝えていたそうです。

菅の交差点から5、6分歩くと木曽川が山裾に迫り、崖に落石や雪崩を防止する

ために造られた吉田洞門があり、洞門右手木曽川沿いに歩道が設けられています。

遠くの雪山は!中央アルプスだね。

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歩道は木曽川ぎりぎりの崖の上。

花桃が咲き、木曽川右岸の長閑な集落を眺めながら足を進めます。

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街道書の道筋通り、洞門を過ぎて先の吉田交差点で左手の山裾側へ渡ります。

渡るところで地元の方から教えていただき、信号を渡って少し国道を戻った

山斜面の住宅脇のニリンソウ大群落へ。

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やまの斜面に一面に広がるニリンソウ大群落。

まだ朝の山陰だったようで、花は閉じましたが午後からは見事でしょうね。

ありがとうございました。

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信号へ戻り先へ行くと、左山側に庚申塔や供養塔など十数基が石段上に祀られてます。 f:id:hansui:20180430181059j:plain

少し先の山裾にも石段の上に石仏石塔群が見えました。

中に墓石らしきものもあったので、墓地にもなってるかな?

 

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山裾側は日差しが差し込みはじめ、今春爛漫

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もう少し歩くと 木曽川に架かる吉田橋を渡ります。

橋を渡った右手に下吉田一里塚があったようですが、いまは消滅。

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街道は渡ってすぐ、左手の整備された川沿い道へと進みます。

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花桃咲く川沿いを5分程歩くと国道へ出、国道は木曽川を再び橋で渡り

山吹トンネルをへと入ってゆきます。

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持参の街道書では国道を右手に横断、橋を渡らずに木曽川沿い右手に設けられていた

旧国道が中山道街道になるようです。

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左手は木曽川右手は鉄路もトンネルに入り、狭い山の谷間道を真っ盛りの

山吹の花が彩り、時折鶯の鳴き声が川音に合いし、これぞ木曽路の風情たっぷり。

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中山道は少し進んだところから、高巻に山道へと登って行き、 先の巴淵の集落へ

と続いていたそうですが、ここも山道は消滅してしまい歩く事が出来ない。

木曽街道のパンフレットでは

「木曽街道の中で、一番谷が狭い所で、山の姿川の流れが美しい。

この旧道沿いを山吹横手と呼び、山吹の花が一面にさく。

ここに咲く山吹は実を結ぶと伝えられ、この枝で作った箸をを使うと

子宝に恵まれる」と記されています。

谷間の道も大きく開けると山吹トンネルを抜けてきた国道に当たり、

中央アルプス側を越えて伊奈方面へ向かう権兵衛峠への分岐、神谷交差点。

交差点を左手に渡り、振り返りショット。AM9:50

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緩い上り坂を行きます。

消滅してる旧中山道は、右手の山の中通っていたそうで、木曽川を回り込むことから

「山吹山回廊道」と呼ばれていたとか。

この付近からは木曽義仲の生い立ちの地など、縁の里が続くんですね。

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しばらくの登り坂を行き、山吹橋を渡った先で巴渕交差点を右折し木曽川沿いの

右手の道へと入ります。

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巴淵の交差点、その角には「宮ノ越宿」と書かれた大きな看板があり、
中山道薮原宿5.3㎞ 巴淵300m・中山道宮ノ越宿1.8㎞ と道標が建ってます。

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道端にはニリンソウが咲き続き、句碑を見送って、鉄橋を潜ると右手に曲がり、 

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巴橋を渡って先へ続いてゆきます。

橋の手前右手が巴淵で、巴淵と刻まれた石碑が建っている。

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木曾義仲に恋慕した女丈夫の巴御前は、この淵に住む竜神の化身との伝説や、

この淵で水練したとの由来の解説板が建てられてます。

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巴橋を渡ると道は左手木曽川沿いへ曲がります。

曲がり角の右側に、木曽義仲が南宮神社を拝する時に使った手洗水がありました。

南宮神社は木曽川左岸の山裾に鎮座し、木曽義仲の戦勝祈願所であった由。

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山裾の木曽川右岸沿いの街道らしい細い道の徳音寺集落となり、春の花咲く道を

約300mほど歩くと、右側民家の土手に道祖神が祀られていました。

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 尚、この辺りは木曾義仲が育った土地で、川向こうの線路のさらに向こうには

元服後義仲が住んだ館跡や、治承4年(1180年)に平家打倒の旗揚げを行った

旗挙八幡宮があると街道書に記されてます。

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足を進め、皇女和宮の元婚約者であった有栖川熾仁親王夫妻が、中山道旅行の途次に

休息した手塚家の前に跡碑が建っていました。

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道は左折,右折を繰返しながら進み県道259号に出て,旧中山道は向小路集落で

左にカーブを切って,木曽川を「葵橋」で渡り宮の越宿へと入って行きますが、
そちらの途をとらずに持参の街道書に記載されてる道筋を取り、

直進して「義仲館」と「徳音寺」方向へとへ向かいます。

その先で緩く右へ曲り進んでY字路を左へと歩みます。

一時誤って山吹山方向への道へ入ってしましましたが、地元の方に教えていただき

街道復帰、やれやれ・・

復帰道で藪原方面へ向かう二人連れの多旅人と挨拶。

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田畑の広がる里道をのんびりと進みます。

左手遠くには雪の頂が姿を見せてます。

木曽駒かな?

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里風景を楽しみながら10分ほどで広場に出、右手に徳音寺入口。

左手が義仲館の場所に到着。

徳音寺は、仁安3年(1168)、木曽義仲が母親の追善供養の為に創建。

臨済宗妙心寺派

伝承によると、義仲が粟津の戦いで敗れ自刃すると、遺骸は密かに当寺に運ばれ

葬られたとされ、義仲の戒名に因み寺号を「徳音寺」に改め、菩提寺になったと

伝えられてる古刹です。

元は徳音寺集落にあったが水害で現在地に移転。

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山門は江戸時代中期の享保8年(1723)に、尾張藩犬山城主から寄進された

もので、山門上部の梵鐘は「徳音寺の晩鐘」として木曽八景の1つと言われます。

木曽における江戸時代中期の楼門建築をを代表するものとして、旧日義村文化財に指定されている

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境内には木曽義仲巴御前今井兼平樋口兼光などの供養塔がありました。 

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ちなみに義仲の墓は,大津「義仲寺」にも木曽福島「興禅寺」にもあり、

いずれも立ち寄ったことがあります。

 

参道を下るとすぐ左手が、正面に長刀を持って立つ巴御前と、腰をおろした

義仲の像が立つ。義仲館。
木曽義仲の生涯を武者人形や日本画で,関係文献やゆかりの品を展示している。

ふるさと創世一億円で建てられたそうです。

(しばし足休めはしましたが、館内には入りませんでした)

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義仲記

木曽義仲は久寿元年(1154)源義賢の二男として武蔵国大蔵館で

生まれ,幼名を駒王丸と呼ばれた。久寿2年(1155)伯父義朝の長子義平に

父義賢が攻め滅ぼされた時は2歳であった。駒王丸は畠山重能斎藤実盛の温情に

より信濃国木曽に逃れ,木曽中三権守 中原兼遠にかくまわれ養育を受けた。

仁安元年(1166)元服し木曽次郎義仲と名乗った。
 治承4年(1180)後白河法皇第二皇子以仁王の平家討伐の令旨を奉じ旗揚げをし,寿永2年(1183)北陸に進撃した。この時,倶利伽羅峠で牛の角に松明をつけて平家の大軍に追い込み撃滅させたことは有名である。この年入京した義仲は征夷大将軍に任ぜられたが,元歴元年(1184)後白河法皇の策略によって鎌倉軍に敗れ

近江の粟津ケ原で討死した。31歳の短い生涯であった」
 

館を後に木曽川を渡ると県道267(中山道)へ突き当り、

右折して江戸から67里32町14間,36番目の宿場、宮ノ越宿へ入ります。

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宮ノ越宿画、画は広重ですね。橋を渡ってる様子ですね)

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急峻な木曽谷の中にあって,比較的緩斜面が多い地で、

宮ノ越宿は 1843年(天宝14年)

人口585人 家数:137軒 本陣:1 脇本陣:1  旅籠:21

中山道69次のちょうど中間に位置し,脇街道の伊那へ抜ける権兵衛街道の追分と

もなっている。

木曽義仲が挙兵した地として知られており、挙兵の地「旗挙八幡宮」が鎮座します。

明治16年(1883)の大火や道路の拡張で往時の面影はほとんど失われている。

宿場へ入り200mほど進むと左手に、宮ノ越宿村上本陣跡があります。

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天保14年(1843)の本陣絵図では,往還に沿って間口9間奥行き18間,

16坪の中庭と裏に庭園と土蔵1棟があり,敷地面積194坪という堂々たる

規模であった。

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宿場は幕末の元治2年(1865年)に大火の災禍に見舞われ、

その後に再建された客殿が明治16年の大火では母屋は焼失したが、

母屋とは別棟の客殿は火災を免れ、村上家の生活の場として使われ続けたため、

一部が改造されたものの、今にその姿を伝えることができてるそうです。

客殿。

 

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その先に都築家がつとめ,問屋・名主を兼帯していた「脇本陣跡,問屋場跡」は

空き地に立て札のみが建ってます。

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さらに数分先に、宮の越宿の旅籠であった出し梁造りの旧家「田中家」

明治16年の大火後に、隣村から運んだ建物部材を用いて再建された建物で、

間口3間、奥行き8間の間口が狭く、奥行きの深い典型的な町屋建築で、

2階に3尺張り出した出梁造りの建物である。

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 田中家の少し先の宿場の外れに「明治天皇御膳水」で 幕末に掘られた井戸が

復元されている。

近郷随一の名水と云われ明治天皇巡幸の際,この水でお茶を差し上げたと云う。

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街道は緩い上り坂となり、左手の下町会館の敷地内に元禄時代に建立された、

観世音菩薩、廿三塔、道祖神などの石仏石塔群がまとめて祀られている。

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坂を登りきると橋があり右手に道標が建ち、宮ノ越宿を後にします。

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次の福島宿へは約7.0km 

宮ノ越宿を後に、JR線路と並行の土手下の道を10分ほど歩くと、

左手道脇に江戸から68番目「宮ノ越一里塚跡」がありました。

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土手の草むらにはニリンソウ福寿草、スミレなどが咲き、嬉しい草花散策です。

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一里塚より15分ほど線路下の県道を行き、JR中央線第五仲仙道踏切を渡り

原野・間の宿集落へと入って行きます。

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原野駅バス停の丁字路で、右折するとJR原野駅と原野八幡宮や明星岩へ登る

道の入口になってます。
寄ってはいませんが、原野八幡宮。慶長3年に木曽家の旧臣が建立したという、

ここの地域の鎮守だそうです。  

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原野駅前バス停を過ぎて無佐沢橋の手前に庚申塔など石仏石塔群。

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橋を渡り約30m歩くと、左側に原野の石仏群として史跡になっている

石仏石塔群が祀られていますが、残念ながら工事車両などは停めてあり、

よく見ることが出来ませんでした。

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過ぎて左側が開け中央アルプスの山並みが綺麗に姿を見せてます。

右端のの三角雪山が木曽駒ヶ岳の様です。

山の向こう側に千畳敷がありますね。

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右側に明星岩公園を過ぎてすぐの左手に、

来たぞ~来れたわ~の感激「中山道中間地点」。

江戸からも京都からも六十七里三十八町(268km)と書いてあるが、

ちょと差があるかな?

平成30年4月29日(昭和の日)12時10分

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平成28年 (2016年)9月17日(土) 、

お江戸日本橋を旅立ってから1年7ヶ月。

旅断念かの事態もあったが、なんとか乗り越えてここまで来ることが出来た。

 

24回目の旅は後半へ続きます。

 

 

歩いて再び京の都へ 旧中山道夫婦旅   (第23回)       奈良井宿~藪原宿 後編

PM1:00 鳥居峠、御嶽遥拝所へ着きました。

木曽の御嶽山が初夏のような空にポッカリと、今は静かに顔を覗かせてます。

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旅の前編はこちら。

hansui.hatenadiary.jp

 後編に入ります。

崇拝所そばから右手に下る草道がありましたが、鳥居脇を通って街道へ戻ります。

緩い坂道を下ると右手に遥拝所から下ってくる丸太階段状の道を合わせ、

すぐ先に「御嶽手洗水鉢」があり石碑の後ろの草道を登ったところに、

平家追討の旗を揚げた木曽義仲が、この水で硯を摺り戦勝祈願の願書をしたため、

御嶽山に奉納したという「義仲硯水」跡があるようです。

(街道書にありましたが寄ってません)

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何故か英泉描く「藪原宿」は「義仲硯水」の場所のようです。

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登って来た外国のカップル。

男性は丸太階段を上って、御嶽神社へ直登、女性は街道の山道へ。

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 その先は三つ又になっていて右手に行くと、森林観測所跡に向かう道。

左手にくだる道が中山道でした。

中の道を緩く上ると、多数の石塔が立っている丸山公園。

その中に「芭蕉句碑」もあります。

 木曽の栃 うき世の人の 土産かな

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句碑、石碑は風化して読めませんが、新しそうな解説板があります。

芭蕉の句は二句あるんですね。

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ちらほら見られる白樺(シラカンバ)

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赤松樹林(おっ、松茸だね)

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すぐの右手道標が現れ、道標の左手を登ると展望所があります。

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展望所へは登らなくとも眼下に藪原宿、遠く山の後ろには雪を頂く中央アルプスの嶺。

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コンニチワ!登って来たお二人(外国人)は展望台へ向かいました。

(大きなバックパックですね)

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近くにあった石仏、馬頭観音と書かれた木札が横に置いてありました。

そういえば今までの峠道としては、馬頭観音は少ないような。

荷駄の流通は少なかったのでしょうかね。

(それとも撤去されたかな)

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まだ芽吹きをしていない唐松林が赤松と混在し、その先から、明るい日差し差し込む

九十九折の急坂をどんどん高度を下げてゆきます。

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樹間の白い花咲く樹は、花の下に葉が見えないのでタムシバのようです。

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ぐんぐん下る途中に、漢字をびっちり刻まれた石碑と後ろには馬頭観音

街道書では文政年間(1804~18)建立の供養塔と記されてるが、

「馬頭観世音由来の碑「」ともいわれるようです。

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ひたすら降りていくと、九十九入りの急下りも水音が聞こえだし、

最後の坂を右に降りると、石畳道が旧中山道のようです。

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石畳道はすぐに旧国道が横切り中断するが、その先で再び石畳道が

真っすぐに下って行きます。左右の道は旧国道。

左側に側溝化されたような小川が流れています。

木曽川源流の一筋でしょうか。

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振り返って

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道脇に小さな可愛い花が咲いてます。

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ニリンソウかな?サンリンソウかな?

開き始めが可愛い!!てカミさんが喜んでます。

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石畳も終わり、しばらく林の中の歩きやすい道を進むと、

街道の脇の赤い鳥居、社は原町稲荷神社です。

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すぐ先で旧国道に合流し分岐に「信濃路自然歩道」絵地図と左中山道、右旧国道の

自然石道標が置かれてます。

杖置き場も有って、峠道はここでお終いですね。

PM1:45

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カラマツの芽吹きを感じる明るい林を抜けてゆくと、里の集落へ下りてきました。

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道端の野の花を愛でながら、舗装道をゆっくり行くと十字路があり、

各方面への案内標識が二基建てられ、街道はまっすぐ横切って下って行きます。

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右に曲がると、消防署の向かいに綺麗なトイレがあり、有りがたいですね。

さっそく利用させていただきました。

十字路を渡り緩い坂を下って行きます。

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おや、蕗(ふき)畑かな?大きく育ったフキノトウも・・

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コンニチワーですれ違い。

午後の2時過ぎですが、これから鳥居峠へ向かう外国の男女が上って行きます。

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初夏の風が汗ばむ肌に気持ちがいいですね・・

 

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緩やかな下り坂の道を下っていきます。自然石道標が埋め込まれ、

中山道、右国道と刻まれてます。

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道標の先の坂道左に「天降社・水神」の祠があり、

階段脇に木祖村唯一の大モミジがあります。

秋の紅葉が素晴らしい。と書かれていましたね。f:id:hansui:20180425145114j:plain

さらに下ると左脇に水神様が祀られた「原町清水の水場」がありました。
峠を越える旅人の喉を潤してきた清水で、今でも飲み水として使用されている

様です。

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旧街道らしき曲がりくねった集落の坂道をまだまだ下ります。

おや、軒下にカタクリの花だ!!

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そしてさらに坂道を下り、街道からほんの少し右奥に入ったところに置かれている

のが「御鷹匠役所跡」です。

右の坂道を上がると「尾州鷹匠役所跡」があり、標柱と解説板が建てられている。

別名お鷹城と呼ばれ、鷹狩りに使う鷹の雛を確保するために設けられた施設です。

尾張藩享保15年(1730)ここに御鷹匠役所を設置し、訓練された鷹は将軍家に

献上したり、諸大名への贈り物にしていました。明治4年に役所は廃止されました」

(個人の住宅地となってますので上までは入りませんでした)

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少し下ると真ん中下の白い標柱は、飛騨街道奈川道の入り口標識で、

右手に曲がり線路沿を北へ向かいます。

飛騨街道は境峠、野麦峠を経て高山に至る険阻な道だったそうです。

中山道は坂を下ったところで、中央線鉄路で分断されてしまってます。

一旦、右手に線路沿いを戻る形で、少しだけ痕跡のある「飛騨街道」を通って

跨架橋で向う側へ渡り、すこし南へ下って中山道へ復帰します。

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(飛騨街道)

中仙道へ復帰するため跨架橋で渡ります。

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中央線松本行の電車が通過します。

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この付近が分断された中山道へ復帰でしょうか。

緩やかな曲がりで藪原宿へ入ってゆきます。

(標識なしだが、江戸方口になるのかな?)

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藪原宿(木祖村)は江戸日本橋から35番目の宿場で、天保14年(1843年)

には、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠10軒、人口は1493人とあります。

薮原宿は鳥居峠の麓の宿として、また高山へ向かう飛騨街道奈川道の追分の

宿として、さらにはお六櫛の生産地としても栄えた宿場町であったようです。 

しかし、明治期の大火で町並みの大半を焼失し、近年は建物の改修が進んだこと

などから往時の面影は一部に残っているだけの様子です。

 

江戸寄りのはずれにまず本陣が構えていたのですが、現在全く痕跡を留めていません。

本陣は木曽家の家臣だった古畑氏が務めていました。

皇女和宮鳥居峠を越える前に宿泊しているそうです。

間口14間半、奥行き21軒半の広い屋敷は20余室の部屋を持ち、

番所や馬屋等も付属し木曽11宿中最大規模の本陣だったと言われていまが、

今はただ1本の木柱に「藪原宿本陣跡」と書かれているだけです。

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その先左手に旅人の話によく登場する、蕎麦の「おぎのや」があります。

(定休日?暖簾が掛かっていませんでしたね)

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隣には創業1613年(江戸初期)の元旅籠の「こめや」が古い佇まいを見せています。 

現在の建物はガラス戸が嵌められているが、明治の大火後に須原宿から移築したもの。

雰囲気的に、いまは営業していないの??てカミさん。

(街道記では現在も営業とよく出ているが、木祖村商工会の宿案内にはないですね)

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向かいは、なんと創業慶安3年(1650)の銘酒「木曽路」の蔵元である

湯川酒造がありました。360年以上とはすごいですね!!

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湯川酒造のところにこんな標識がありました。

「中部北陸自然歩道」は跨架橋を渡らず線路沿いを籠原神社、極楽寺のところへ

出て、線路をガード下で潜り、ここで中山道と繋がってるんですね。

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ガードを潜った藪原宿を見下ろす高台に、今朝立ち寄った極楽寺、藪原神社が

建ってます。

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藪原神社は天武天皇9年に熊野から勧請したのが始まりといいます。
そのため、熊野社、熊野大権現、熊野大神宮とも呼ばれていたといいます。

参道入口の石段をのぼったところに朱色の一の鳥居が置かれています。

(朝寄ったときの写真)

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左側に藪原宿が元禄8年(1695)の大火で全焼し、その大火の教訓から広小路を造り

防火壁を設けた跡があり、標柱と解説パネルが建てられていました。

江戸初期に、土地区画整理事業で公共用地を生み出し、防火対策をしたんですね。
現代も隣に「木祖村消防団機動隊」の備えあり!

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火災後の街並みとはいえ、宿場の面影も感じられる街並みを行きます。

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左手に「源流の里・二叉水道組合」の水場があります。

木曽川源流という意味でしょうかね。

車を停めた道の駅も「木曽川源流の里」と名乗ってましたね。

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足をすすめると左手にお六櫛問屋の山六篠原商店があります。

お六櫛は、かつては全国各地へ年間100万枚も出荷していたそうです。

そうそう、東海道の旅の鈴鹿峠を越えた土山宿に、お六櫛を扱う店があったね。

この店で仕入れをしていたのかな。

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しばらく歩くと、都会では見られなくなった朱色の郵便ポストがあり、

そこが「薮原宿高札場跡」で標柱が建てられている

このあたりが宿場の終わり、京方になるのでしょう。

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 高札場の案内図には「ここが鍵の手(桝形)になっている」とあり、

Y字路を右の下り坂に入り左手に曲がって街道は続いてます。

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 下った曲がり角段上に、石仏m石塔群が祀られてます。

f:id:hansui:20180425205732j:plain雀踊りの簗飾りを乗せた民家などが立っている、街道らしい細幅の道を抜けると、

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右手に墓地となり一角の祠に、延命地蔵尊が安置されてます。

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 墓地が途切れる辺りに流れる川を渡り道なりに行くと、

道筋は右手へカーブしを描き、藪原駅下の道となって、その先を下ると、

 

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D51機関車が置かれた小さな公園で、日本橋から66番目の藪原一里塚跡があり、
跡地に石碑と解説パネルが建っていました。

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道は県道のT字路に突き当り、中山道は県道を横切って木曽川沿いに進み

JR中央線を横切って国道19号に合流するのだが、今は線路で分断されその先へ

進むことはできない。

ここは県道を左に曲り、中央線のガード下を通って右に曲がり国道19号へと

一旦合流しますが、

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今日の街道旅はここまでです。

ガードを潜り左手藪原駅方面へ向かいPM3:00、フィニッシュへ。

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あら、福寿草みたいよ!

カミさんの声に近寄ってみると、お疲れ様とでもいうように

藪原駅から車を停めた道の駅への近道土手に、福寿草が迎えてくれた。 

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えっ、まだ営業しなない!!

なんと道の駅、「木曽川源流の里 きそむら」の店舗の春の営業は、

4月20日(明日)から!!

季節営業の道の駅もあるんですね。

帰り道は何年かぶりに、木曽谷から伊奈へ抜ける権兵衛峠を走ります。

峠を伊奈へ抜けると、雪の南アルプスの峰々が青空の中に輝いてました。

中央高速に入り、諏訪湖SAで、くっきりと姿を見せる八ヶ岳を眺めながら、

ソフトクリームタイム。

一段と美味かった!美味しかったわね~・・でいい旅の締めくくり。

PM7時30、帰宅 

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終わりではなく街道歩き旅は続いてゆきます、続けます。

歩ける内に、元気なうちに、

さあ、次の旅日は・・いつの日か・・・

 

 

 

 

歩いて再び京の都へ 旧中山道夫婦旅   (第23回)       奈良井宿~藪原宿 前編

*ひょいと歩き出した東海道五十三次
途中で、断念かの肝臓癌をなんとか乗り越えて、京の三条大橋へ到着。
勢いをかって「歩いて再び京の都へ」と乗り出した中山道六十九次。
またまた腹部大動脈瘤、心臓動脈硬化、そしておまけに腹部ヘルニア。
挫折しそうになりながらも、カミさんの支えもあって、またまた乗り越え
旅の再開。
そんな、じじばば道中ブログです*

 

2017年11月25日、

雪の降る前にと、江戸から34番目、奈良井宿へ到着し、

その先は峠越えになるので冬ごもり。

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年が明け春になって長い間の冬眠から覚め、峠、山登りに備えて

スクワット100回で足腰強化。

その合間には検査で腎臓に危険信号がともり、う~ん、前途多難・・・

気力を絞って4月12日に旅の再開へと車を走らせるも、

木曽路へ入ったすぐに携帯が鳴り、お義母さんが高熱で緊急入院の知らせ。

高齢もあり万が一の心配もあって、急遽Uターンし旅は中止に。

 

その後容体も安定し一昨日退院となったので、一安心で仕切り直し。

19日(木)早朝再び車を走らせ、「旧中山道夫婦歩き旅」の再開です。

 

圏央道、中央道、長野道と高速道を走り、みどり湖PAで朝食を摂り、

AM8:10、木曽路・藪原の道の駅「木曽川源流の里きそむら」着。

ここに車を置かせていただき、AM9:20の電車で奈良井宿まで戻り、

鳥居峠を越えて再び藪原宿へと旅をしてきます。

(あれ、「道の駅木曽川源流の里きそむら」の写真を写してない!)

 

電車「はAM9:20、時間まで間があるので近くの極楽寺と、

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桜咲く藪原神社へ立ち寄り、旅の安全を祈願。

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9時20分、松本行の電車に乗り込みます。

藪原駅では、トレッキング姿の外国の方のグループが下車しました。 

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車内の乗客も、半分くらいは欧米系の方々が乗っており、

数名は奈良井宿で下車します。

下車したカップルの男女。

低予算で国外を個人旅行する旅行者(バックパッカー)でしょうかね・・

凄い大荷物!前、後に大きなバックパック(リュックサック)が・・

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昨年、11月25日以来の奈良井駅

初夏の様な日差しの中の旅再開。

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まずは前回の到着時に、道が悪いと聞いて寄らなかったところへと足を向けます。

奈良井駅の少し先、右手に戻るように山側の坂道を登ると,

左手に八幡宮へ上がる石段があり「旧中山道杉並木」「二百地蔵」の案内板が

建ってます。

石段を少し上ると、右手が老杉が17本ほど残る江戸時代初期の杉並木。

現在は途中で消滅しているが、前回の贄川からの旅で歩いた

奈良井川の左岸を通って、橋戸一里塚~平沢に通じていたと言われます。

寄って良かったな、の旧街道の面影を残した杉並木です。

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杉並木の先左手に「二百地蔵」。

地蔵堂の前に,聖観音をはじめ千手観音・如意輪観音などの観音像が

194体祀られている。

明治期の国道開削,鉄道敷設の折に奈良井宿周辺から集められたという。

f:id:hansui:20180421062719j:plain二百地蔵の横、桜咲く石段の上は、建立年代は江戸時代と推定されている

八幡神社」。
奈良井宿丑寅の方向にあたり、鬼門除けの守護神として崇敬されたといわれる。

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江戸時代宿場町の風情たっぷりの奈良井の街並みを通り、宿外れの鳥居峠口へ。

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平日のせいか街並みを散策していたのは、ほとんどが外国の旅行者ばかり。

 街並みが終わった宿の南端(京方)に、奈良井宿の鎮守・鎮(しずめ)神社が

祀られてます。

元和4年(1618)疫病がま蔓延した時,それを鎮めるため下総国香取神宮から

勧請して祀ったとされ、本殿は、江戸時代初期を示す一間社流造り・こけら葺きで

全体に漆が塗られているそうです。

ただし、拝殿一体の覆屋がかけられているので、祭りの時以外は見ることができない。

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旅の安全を願ってお参りし、左手の楢川歴史民俗資料館を過ぎると、

いよいよ木曽路難関と言われる鳥居峠への上り口の石段です。

石段前で中山道第23回目、旅立ちツーショット。

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AM10:30、がんばんべ~・・・

石段を上るとすぐに「右上 鳥居峠 左下 奈良井宿」の道標石塔や,

鳥居峠まで2.3km」の案内表示板が建ってます。

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少し草道を上るとあっけなく車道に出て、右に進むみ「ならい荘」入口を過ぎると

右手に、信濃路自然遊歩道中山道マップの看板と、昭和47年に復元された

石畳の登り街道が現れ、歩きずらい石畳を踏みしめながら山道へ。

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ボタンネコノメソウを見つけたりで、草におおわれた石畳を上って行き、

渓流を二回木橋で渡り、木立の中の歩きやすい登り道になってきます。

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さらに高度を上げると「木曽駒展望台入口」の案内板。

路傍に積まれた石に囲まれて、小さな道祖神がひっそりと佇んでいる。

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展望所では期待していなかったが、樹の間から雪をかぶった

中央アルプスが姿を見せました。

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中央アルプス木曽駒ヶ岳も登ったことがあったね~

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展望所から下り街道へ戻ると、藪原方向からの5人連れの外国人ファミリィー。

道祖神を見つけて、歓声を上げてましたね。

言葉からイタリアの家族かな?

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明るい日差しを受けながら、緩い草道のアップダウンを繰り返し、

いつの間にか高度を上げて行ってます。

山は春待ち、まだ新芽も芽生えが見られません。

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2つの木橋を渡り進むと、鳥居峠1.65kmと刻まれた

信濃路自然遊歩道」の道標、「本沢自然探勝園(葬沢)」と書かれた標柱が建ち、

そばに落書きだらけの「中の茶屋跡」の小屋が建ってます。

茶屋跡のある辺りは, 天正10年(1582年)木曽義昌武田勝頼の古戦場で、

武田方の戦死者500余名で、この谷が埋もれたといわれ,

これを葬った場として「葬沢(ほうむりさわ)」と呼ばれるようになったと云う。

付近の沢は埋葬地(墓地)なんだね・・・こんな所になんで「茶屋」??

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 茶屋跡から ジグザク登り道になり、二体の道祖神を見送り、

ふうふう登りきって、さらに木橋や石橋を渡って緩くアップダウンを繰り返して

ゆくと、

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日本橋から65番目、鳥居峠の一里塚跡石碑とともに、鳥居峠の説明板が

建っている。

鳥居峠は標高1,197メートルで、和田峠よりも低く、ほぼ碓氷峠と同じ高さ

である。そして、鳥居峠犀川千曲川信濃川となって日本海に注ぐ奈良井川

太平洋につながる木曽川分水嶺をなしている。因みに、この峠は古くは奈良井峠

あるいは藪原峠と呼ばれていたようだが、戦国時代に木曽義元が松本の小笠原氏と

戦った時に、戦勝を祈願してこの峠の頂上から御嶽を遥拝したところ、見事に勝利

を得たため、峠に鳥居を建てたことから「鳥居峠」と呼ぶようになったという。」

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一里塚は面影もなく、地図や文献などなどにより、「このあたり」としたとか。

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実際の鳥居峠はここではなく、もう少し登ったところにあるようです。

 一里塚跡を過ぎ橋を渡り、鳥居峠0.98kmという実に細かい距離道標を

見送って山道を行きます。

山道を女性ガイドさんに引率された、10人ほどの外国の方が下ってきます。

こんにちわ・・コンニチワ

藪原駅9時20分で下車しましたか?」

「ええ、下車してここまで来たんですよ」

「やあ、私たちは藪原でその電車に乗って奈良井駅で降りて、

  藪原へ向かってるんですよ」

ガイドさんが皆さんに通訳してます。

「オオ、ガンバッテ!」

お互い手を振りながら別れました。

出合うは外国の方ばかり!

「まるで、海外の山道を歩いてるようね」てカミさん。

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草道になったり石畳になったり、さらにジグザグに急登すると道標の建つ林道へ

飛び出します。

林道は旧国道であったようです。

自然石の道標(右)と二基の馬頭観音(左)がありました。f:id:hansui:20180422204046j:plain

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林道を左へ曲がり100m程が、かつては「中利茶屋」があった

「峰の茶屋跡」でした。

現在は昭和44年復元された、トイレ付の立派な休憩小屋が建ち、

脇に清水が流れる水飲み場もありました。

ここでも聞こえる言葉は外国語。

単独の日本男性のほかは、外国のトレカーばかりだね。

小屋の北側からは奈良井宿や、遠く平沢の集落が見渡せました。

(写真は何故か?ピンボケだった)

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丁度お昼の時間。

綺麗に掃除もされている小屋に入り、いつもの栄養補助食品でお昼に。

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この付近が美濃と信濃の国境であった標高1197mの「鳥居峠」の近く。

また、木曽川奈良井川の源水峰で、木曽川は太平洋へ

奈良井川犀川千曲川信濃川と名を変えて日本海へと分水嶺をなしている。

(実際の峠はもう少し先)

 

休憩を終えて、切通しになった旧国道脇の登り草道へと足を進めます。

この辺が峠の頂ではなかったのかな?

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 登ってすぐに左上に、御嶽信仰の御岳講明覚霊神碑が建っている。
傍らの説明板には、「御岳を信仰する講社が建てた霊神碑と伝えられている。

当時の御岳信仰の盛大さが伺えます」とあります。

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すぎて緩く曲がると下は峰の切り通しで、奈良井方向は見えなくなり、

藪原方向が開けてきます。

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その先が旧国道切通で少し狭くなったが開けた台地で、

鳥居峠頂上(1,197m)ではなかったのかな?

往時は3軒の茶屋があったといわれてますが、御嶽山を背景に描いた

栄泉画・奈良井宿はここにあった茶屋がモデルでしょうか。

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そこから少し下ったところに、明治11年の北陸東海御巡幸の際に

一時休まれたという、明治天皇駐蹕所碑が建っている。

f:id:hansui:20180423092800j:plain 旧中山道は、この先から藪の中に分け入る細い道だそうですが、

その先はほとんど通行不能状態のため、先の短な丸太階段を下ると、

旧国道、林道、明治道明治などがの交差する開けた場所になり、

峠道案内図が建ってます。

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おっ、遠くの山越に姿を見せるあの白い山は!!

やあ、感激!木曽の御嶽山(3063m)でした。

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御嶽山は夫婦の思い出の山です。

初めての山小屋泊りで、あの白い頂の左から右方向へと峰々を縦走したことが

ありました。つい最近ではあの痛ましい噴火遭難がありましたね。

しばし足を止め御嶽山を二人で見つめて、山行き談義。

 

自然石や木標の道案内があり、左手の遊歩道へと向かいます。

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おっ、出た~・・熊鐘。

さっきも数回聞こえていたね、外国のハイカーも鳴らしてたんだ。

大きく数回鳴らして、熊さんに警告」!

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我々も鈴を鳴らしながら歩いてます。

カミさん曰く、

「鈴音が聞こえたら餌?が来た!で、

  熊さんも学習能力向上で、かえって合図しちゃってる??」

ははは・・言えてるかも。

なだらかな山道を行くと付近はトチノキの巨木群。

木祖村天然記念物だそうで、碑が建ってます。

そして子宝伝説「子産の栃」

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栃餅というのを知ったのは、風林火山だったかな。

武田信玄の病体力回復に献上された、とあったような。

トチノキ古木と言えば、贄川宿近くの樹齢千年という巨木がありましたね。

贄川トチノキ

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トチノキ群を過ぎて少し先に二つ目の「クマよけ鐘」

御嶽にとどけ!とばかりに鳴らします。

栗に似たトチ実は、熊さんの大好物かな??そんなら熊が多いはず!

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この先に自然石の道標があり、「右中山道 左明治道路」 とあり、

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左手に道標や不動明王の石像があり、右手に石碑、石段で鳥居がある。

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 峠の名の由来となった鳥居をくぐり、大きな供養塔を過ぎると

その先に御嶽神社です。

境内には、たくさんの霊神碑と石像が安置されていて、御嶽山眺望所がある。

鳥居峠一塚のところに建ってあった案内板に書かれていた

「木曽義元が松本の小笠原氏と戦った時に、戦勝を祈願してこの峠の頂上から御嶽を遥拝したところ、見事に勝利を得たため、峠に鳥居を建てたことから「鳥居峠」と呼ぶようになったという。」の鳥居ですね。

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木曽の御嶽山が初夏のような空にポッカリと、今は静かに顔を覗かせてます。

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PM1:00、後半へ続きます。

 

 

弥生3月、本格的に春が来た

3月も15日を過ぎ、初夏の陽気が続き一気に春に突入のようです。

五月GW時期並みの暑さとなり、草木は慌てて春の準備に入ったような。

街路樹のコブシは満開になり、もう散り始めた樹も見られる。

早くも四国で桜開花の花だよりもあった。

朝、陽の上る前の東南の空には、よく目を凝らすと春霞に霞んだ眉月が

ぼんやりを浮かんでいた。

新月は18日、16日が一番細い眉月の様だが曇り空予報。

月の出も遅くなるので、現れない感じ?

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f:id:hansui:20180316045615j:plain小さなわが家の庭でも、昨年暮れにカミさんのお姉さん宅で育てているのを、

株分けをして送ってくれたヤマシャクヤク、ベイバナヤマシャクヤクの二鉢。

早くも鉢植えのヤマシャクヤクに蕾が膨らみだした。

例年なら4月後半くらいに咲くのだが、この分だとかなり早まりそう。

ベニバナヤマシャクヤクも、遅まきながら芽を出したので一安心。

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 なかなか新芽の出なかった「雪餅草」

が小さなタケノコ新芽の頭をよっこり覗かせていた。

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翁草も一気に新葉を広げ始め、カノコユリヤマユリかな?)だと思うが

ユリも新芽を覗かせ始めた。

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庭に植えてから一時は一株だけになって、翌年の芽吹きを危ぶんだ日本桜草。

なんとか絶えることなく続き、もう十数年目の3月になってすぐに芽生え、

ぐんぐん本葉を広げ始めている。

 

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黄花の西洋カタクリも数年になり昨年から株が増え始め、

この春も10株以上になっている。

葉の間からは花芽も見え始めてきた。

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早春、まだ寒さも厳っかた頃から咲き始めた雪割草は、

いまは最後の二株が小さい花を可憐に咲かせている。

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水仙も咲き揃い、あちこちに植えてるシオンも次々と開花、色彩の無かった小さな庭も少しづつ艶やかさを取り戻しつつありますね。

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そういえば車で10分の市郊外、多門院へ先日寄り道したら、

今年もカタクリの開花が始まり、雪割草が百花繚乱。

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そろそろ中山道69次の歩き旅、再開の時期になってきました。

木曽路鳥居峠の雪は消えたかな?

出来れば、春分の日に日と歩きしたいもんですが。

弥生3月、やはり春を感じます。

弥生3月になって早1週間。

春を飛び越え初夏の陽気が続きましたが、まだ冬へと戻りそうです。

 

伊豆の河津桜が満開を迎えた、との花だよりを見て3日(土)

早朝5時発にて、十数年ぶりに伊豆へと車を走らせたが、

想像以上の大混雑。

早めにと家を出たが、伊豆へ入ると早ノロノロ運転で、到着は9時を回っていた。

すでに街中は車は全く進めない状態。

係り員に聞いたら、すべての駐車場は現在満車の由。

いや~、おそるべし河津桜祭り・・・でしたね。

あきらめて二つ目の予定、南伊豆町(下賀茂)の「みなみの桜と菜の花まつり」へ。

こちはら割と人でも少なく、満開を迎えた川沿いの桜を愛でることが出来ました。

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側の道の駅でお昼を摂って、天城越えで浄蓮の滝に寄り東名高速へと向かいましたが、

これがまたまた伊豆中央縦貫道(一部断続開通)が全くの自然大渋滞!

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結局、予定より2時間以上遅れて伊豆脱出となった一日でした。

まあ、今後の長距離運転への慣らしドライブを兼ねたので、

天気が良かったことで、まずは良しかな。

圏央道厚木PAでの朝焼け)

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春が来たり冬へ戻ったり

23日朝は、冬に戻ったミゾレになったが、

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止んで日差しが差しだし昼前にはどんどん気温が上がり、

うらの畑には、放射霧が湯気立つように流れ出した。

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夕暮

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頭上には、綺麗な半月(上弦の月

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今年は月の移り変わりの節目節目に、空に浮かぶ月を見ることが出来てますね。

写真上左から

1月25日上弦の月

1月31日満月(皆既月食もありました)

2月8日下弦の月

写真下左から

2月14日新月前、肉眼で見える一番細い月

2月16日新月(姿を見ることはできません)

2月18日新月から姿を再び現した、一番細い月

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そして23日の上弦の月、3月2日は満月へと移り行きますね。

23日は夜半から厳しい寒気が流れ込み、24日夜明けは雪が降ったような

霜が降りてました。

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陽が昇ると気温がぐんぐん上がりだし、日中はなんと14℃。

春真っ盛り温かさ。

庭の草花も一気に空を見上げだしました。

今日25日は再び気温が下がり、曇り空の夜明け。

それでも春近しの気配が漂ってます。

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今週は再び天気は崩れる予報だが・・・

 

春の足音

穏やかな夜明け。

朝の散歩道のお宅の庭に、黄色い蕾を見つける。

おや、節分草かな?

午後にデジカメ持参で再訪すると、咲いてます咲いてます

黄花節分草。

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この花も早春花ですね。

キンポウゲ科 / セツブンソウ属
南ヨーロッパ原産
ヨウシュセツブンソウとも言われて、
いろいろな品種が出回っているようです。

 

県西北部の秩父節分草大群生地。

久しぶりに訪れてみたくなりましたね。

雪割草も咲きだし、厳しい冷え込みが有っても

春の足音が聞こえてきたようです。

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一時強まった北風も、夕暮れ近くに少し弱まったので月を探しに散策農道へ。

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薄雲が掛かるのと夕日の光が強く、西の空に浮かんでいるはずの月は

姿を確認できません。

家近くへ戻ると、西の空の雲が流れた様子。

近くの畑脇へいって目を凝らすと、浮かんでる!

西の空のうっすらと細い細い月が見えてます。

16日が新月
そして再び明かりを取り戻し始めた月。
肉眼で見える一番細い月ですね。

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1月の上弦の月から、節目節目の月を写すことが出来ました。

1月25日、新月から満月への間の半月「上弦の月」PM5:20撮影

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1月31日は満月、そして皆既月食f:id:hansui:20180219070700j:plain

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2月8日は新月へ向かう間の半月、「下弦の月」AM6:40撮影

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新月前の一番細い月、2月14日 撮影AM6:42

新月後の一番細い月、2月18日 撮影PM5:42

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そして再びの「上弦の月」は2月23日。

じょじょに姿を戻し、次の満月は3月2日。

少しずつでも春へ進んで温かみが増してきます。

朝夕の空を見上げるのが、楽しみです。

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