猛暑を抜け出し、涼しい所へ、立山黒部アルペンルート (1)

連日の猛暑酷暑に、こりゃたまらん!

涼しいと言えば、思いつくのは高い山。

何気なく十数年前にツアーで行った、立山黒部アルペンルートを思い出し、

関連のHPを見ていたら、室堂・天狗平のホテルに6日(月)で1部屋予約が可能。

天気は・・台風情報で13号が向かってくるが、なんとか間に合いそう

てんで、カミさんと相談し、つかの間の猛暑逃れに。

入山は長野県側扇沢からとして、慌ただしく予定を練って、

アルペンルート乗車予約券をWEB購入。

予定は、

2泊3日(車中泊1泊、ホテル1泊)室堂往復ルート

5日(日) 朝の一連の家事を済ませ、

      AM10::00 マイカーで出立。

      軽井沢にて昼食を摂り、軽井沢植物園へ。

      上信越、長野道を走り、安曇野IC経由で、

      国宝 仁科神明宮を参拝

      大町温泉郷日帰り温泉・薬師の湯。

      アルペンラインを走り、扇沢・無料駐車場にて車中泊

6日(月) アルペンルートトロリーバスにて黒部ダム

      ケーブル、ロープウェイ、トロリーバスを乗り継ぎ「室堂平」

      散策後、ハイキング(天気次第)か高原バスにて天狗平へ下り、

      「立山高原ホテル」泊

7日(火) ハイキングか高原バスにて室堂。

      乗り継ぎで下り、扇沢、そして帰路へ。

 

明け方はすこし涼しさを感じたが、猛暑予報の5日(日)。

準備を済ませAM10:00、マイカーで出発

関越、上信越道を走り、南軽井沢のイタリアン・パスタでランチ。

10分ほど車を走らせ、PM1:30南軽井沢で町立植物園へ立ち寄り。

軽井沢町植物園は敷地面積20,000㎡の中に約145科・1600余種が軽井沢

山林原野から採取されたものが植えつけられている、と案内にあります。

入園料は100円でした。

周辺は広大なスポーツ公園。

左手のテニスコートでは大学の試合が何面かのコートを使って真っ最中。

サッカーの影響か、あまりにもの応援合戦の激しさに、ビックリでした。

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園内に入るとまず目につくのが、至る所に咲いている、ナデシコに似た花。

花札には、

クサキョウチクトウ ハナシノブ科 フロックス属

アメリカ原産のハナシノブ科の多年草で、別名オイランソウ(花魁草)、

フロックス。
名前の由来は、キョウチクトウに似ているのでこの名が付いた。
花期:6~9月。

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一番のお目当ては、今の時期なら咲いてるかな、レンゲショウマ。 
下向きに小さなシャンデリヤ咲きの可憐の花

キンポウゲ科 / レンゲショウマ属

都多摩の御岳山には日本一と言われる、数万本のレンゲショウマ群生地があり、

何回か行ったことがありましたが、久しぶりに上品で気品あふれる花に出会えて

大満足!

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 タマアジサイは咲き始め

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ゆっくり植物園で過ごし車を走らせ、なんどか近くを通りながら、

拝観の機会が無かった大町市の「仁科神明宮」へ、二つ目の立寄りで、

PM4:50到着。

「仁科神明宮」は古木が鬱蒼と繁る仁科の森に、日本最古の神明造を持ち、

ご祭神・天照大御神の平安の昔から鎮座する古社です。

本殿、中門など多くの国宝、重要文化財があります。

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二の鳥居の先、石畳参道、左手は社務所

正面石段を登れば

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三の鳥居が建ち、正面に新門 潜れば神域

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国宝 本殿 釣屋 中門

伊勢神宮に代表される社殿様式神明造り、屋根と平行な面に入口のある平入り。

神明造の建築物としては日本で唯一の国宝

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解説板によれば、
神明宮は皇大神宮伊勢神宮内宮)の御厨地鎮護のため勧請され、その創始年代は

明らかではありませんが、信濃でも一番古いと言われます。

 古族・仁科氏が神明宮に 奉仕し、後に松本藩主代々の祈願所ともなって

いたそうです。

伊勢の皇太神宮にならい、20年に1度社殿の造営を行う遷宮祭は

平成11年(1999年)に実施しまし、次回予定は 平成31年(2019年)と

記されてます。

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工事の為近寄れませんでしたが、

うわ~でかい!!と思わず叫んでしまった実に巨大な元御神木(切り株)

目測ですが幹回り10m以上あるのではないでしょうか。

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伊勢神宮と言えば、国宝に指定はされないのに、

     同じく社殿を建て替える仁科神明宮が国宝なのはなぜ??」

  と突然カミさんが言い出した。

はいはい、ちゃんと調べてますよ。

「地の有力者仁科氏は、400年の間仁科神明宮に奉仕し式年遷宮を続けてきたが、

後年は松本藩が仁科神明宮の神事を引き継ぐ。
しかし寛永13年(1636年)から資金難に陥り、そして建て替えを取りやめて

修繕のみとしてしまった。

それがために、仁科神明宮の現在の社殿は、寛永造替時(1636年)のものと

推定され、380年を経た神明造形式を残す最古の貴重な建造物となる」

由。

資金難が国宝への道、というわけね・・て変ね納得。

立ち寄りして良かったな~・・と思う古社に触れ合う旅。 

 仁科神明宮を後に夕暮れまじかの長野県道45号扇沢大町線を扇沢へ向かいます。

途中コンビニにて食料調達、大町温泉郷日帰り温泉、薬師の湯であせをながし、

さっぱりとして、PM6:30 アルペンルート長野県入山口、扇沢駅無料駐車場へ

無事到着。

夏シーズンとは言え、平日でまだ時間も早いため、無料駐車場は2/3くらいの入り。

今夜は久しぶりに車中泊

持参はサラダと枝豆豆腐。

トロロそばと冷やし中華をメインにまずはカンパーイ!!

就寝前に懐中電灯を照らし、扇沢駅までトイレタイム。

見上げる空には、わ~わ~すごい、凄いわね~の歓声が上がる星空。

雲に見紛うような天の川が流れ、左右には輝きを持った砂をまいたような星空。

しばし足を止めて首が痛くなるほど見つめてました。

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6日(2)へ続きます。

 

歩いて再び京の都へ 中山道69次夫婦歩き旅 第28回    野尻宿~三留野宿、妻籠宿、馬籠宿 後編の前編

*7月14日、PM4:04分の南木曾駅行(馬籠始発)へ乗車。
南木曾駅から小一時間待ちの中央線の電車で、今朝旅立ちした野尻駅へ戻ります。
さらに、マイカーで国道9号を南下し、今夜の宿は岐阜県北東部・中津川市
駅前ビジネスホテルへ投宿です。*

江戸から42番目妻籠宿へ昨日に到着。

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7月15日(月)の朝を迎えました。

宿は早朝出立の予定ですので、食事なしのビジネスホテルです。

お湯を沸かして、持参カップ天蕎麦で朝食を済ませます。

TVの天気予報では、東美濃は記録的な暑さになるとの注意報が出ています。

旅の計画は、中津川駅から電車で南木曾駅へ行き、さらにバスで妻籠

向かいます。

予定している旅路は、

妻籠から、

 43番目、馬籠宿(2里0町7.9Km)
 44番目、落合宿(1里5町4.5Km)

 第一計画、約12.5km

さらに時間、体力が許せば

  45番目、中津川宿(1里0町3.9Km)

  まで、約16km。

もしくは、16日、最終日に

 中津川までの約4kmを歩き、帰路へ。

ですが、この猛暑では第一は無理をしない、臨機応変にやっていこう、

と話し合い。

備えつけの冷蔵庫で、ペットボトル飲料を凍らせたのを3本準備。

車はホテルの駐車場へ夕方まで置いて行って構いませんよ、との

許可を頂き、朝食、準備を済ませ徒歩5分の中津川駅へ。

なんと、宿泊したホテルは旧中山道に面していました。

当初の予定通り歩き辿れば、この道を通るんです。

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津川駅AM7:40発の電車で南木曾駅へ向かいます。

南木曾駅、8:15のバス乗車。

馬籠へは行かない便の為か、南木曾で乗車したのは周遊チケットを利用してる

様子の親子3人と、地元の方らしき男性1人だけで、途中の乗降なしに妻籠

バス停にはあっというまの、8:22着。

(多くの添付写真、撮影未熟が多く見苦しいですがご容赦)

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道案内に従って妻籠の街並みへ入り、

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今は朝の8時半過ぎ、昨日も歩いた下町から旅を再開です。

写真は、妻籠の江戸口方面(三留野宿方向)、ぼつぼつ散策の方もいますが、

まだまだ宿場は朝の静けさ。

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居合わせた方と、お互いに写し合い、静かな宿場の街並みをゆっくりと

味わいながら、馬籠へ向かって足を進めてゆきます。

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まだ朝のヒンヤリ感はありますが、日差しは強く、猛暑になるのは間違いない

ようです。日陰を選んで足を進めます。

土産店の入り口に巨大な葉と花、「へちま」かな。

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昨日は縁台んでくつろぐ外国の観光客が多かったのですが、まだ見られませんね。

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本陣跡、脇本陣跡の残る、中町のゆるゆる坂を降りてきて、

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 西の桝形(京口)へ近づいてきます。

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ぼちぼち散策をしているのは、宿内に宿泊と思われる外国の方がほとんどです。

突き当りが西の桝形で、左手に昭和レトロの観光案内所があり、 

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秋葉常夜燈が建つ桝形を右手に下り、突き当りを左手へと曲がって寺下地区へ

入って行きます。

突き当りを右の小道に取ると、昨日南木曾駅へ向かったバス停です。

左手に曲がると、パンフに「妻籠で一番江戸風情を残す寺下」とある、

重要文化財指定の先駆けとなった家並みがありますが、楽しみは後回しに、

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先の石段の右手には宿・下嵯峨屋で

妻籠宿の庶民の住居を良くとどめている、片土間並列二部屋の

長屋の形式を、昭和43年に解体復元した家屋(町文化財)があります。

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下嵯峨屋の前の石段を上った左側に延命地蔵があり、

文化10年、光徳寺住職が、地蔵尊像の浮かび上がっている岩を

蘭川(あららぎがわ)から運んできて安置したものです。

この岩が常に濡れているように見えるところから、「汗かき地蔵」とも呼ばれる

そうですが、う~ん、良く判らなかったです。

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そばに 国内唯一とされる、
中国,唐の伝説上の2人の詩僧、「寒山 拾得」双体石仏像があります。
側に建つ説明板には
安政地震後の石垣の工事で、手ごろな石材として根石使われ、
それが、1984年の長野県西部地震でまた石垣が崩れ、その中から石像は
発見されました。

智慧を意味する「巻物」を手にした「寒山」は文殊菩薩の化身、

行動を意味する「箒」を手にした「拾得」は普賢菩薩の化身、とされるこの

双体像は、他に類例がなく、妻籠宿では「道祖神像」として
祀られてきました。
いつの時代のものか、誰が何の為に刻んだのかは、はっきりとしていません」

とありました。

森鴎外井伏鱒二の小説もあるそうですが、読んだことはなかったな~・・

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 日陰はまだ涼しさがありますが、日向はもうジリジリと照り付ける日差しが

肌を焼くように降りそそぎます。

なれど、行きます、

 町並みより一段高い台地に石垣を築き、白壁をめぐらせた 明応9年に開山されたと

言われているる臨済宗妙心寺派の光徳寺へ寄り道です。

延命地蔵堂左手の急石段が参道ですが、案内図を見ると、地蔵堂から戻る形で

ぐるりと回わって上で石段に出る登り道があり、直登はやめて回り道で行きます。

(写真、左下道が桝形の旧道、右手の道を行きます)

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城郭の様な堅牢な石垣脇を行くと、

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桝形から急石段の参道を登った正面の、勅使門と思われる山門は通常は閉じられて

いて、右に回った長屋門から境内に入ります。

写真右上、享保10年(1725)に脇本陣を勤める林家により再建された本堂、

ご本尊は薬師如来像です。

その右手(写ってない!)に庫裡玄関・・そして

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光徳寺案内板にも書かれてますが、

妻籠宿案内資料にも、

「お寺の庫裏へ入りますと、天井から籠が吊り下げられているのを見る事が

 できます。

 これは「人力車の祖形ともいうべき「車付駕籠」(町有形文化財)です。

 前後二人で担ぐ籠に、車輪を付けて引っ張る事を思いついたのが、光徳寺の

 幕末から明治にかけての住職逐応和尚さんなのだそうです。

 車輪も、お出かけ用と普段使い用の2種類作られていました。

 山道は乗り心地が悪く、酔ってしまって結局歩いた・・・と言うエピソードも

 残っているそうです」

 とあり、見たかったのですが・・・・開かなかった・・

(写真は、パンフ紹介より)

光徳寺を後に石段を寺下へ急降下、向かう馬籠はあの山越えて・・

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「そこに人が住み、生活しながら続いてきたのが、
   妻籠宿の保存運動。
    最初に保存事業が行われた寺下地区は、
     妻籠宿の原点とも言うべき町並みです。」
 と妻籠を語る時に称される、寺下地区のしっとりとした江戸情緒が

   眼に飛び込んできます。、

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 寺下は光徳寺の門前町の形態をなし、妻籠宿の保存事業はこの寺下から

開始され、26戸の解体復元工事が実施されました。

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復元さえた厩(うま)屋

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左手に、板葺き石置き屋根の木賃宿、上嵯峨屋。 

妻籠宿でも古い建築物で、18世紀中期の建築と推定され、

当時の旅籠(木賃宿)としての形式をよくとどめています。

数人の欧米観光客が見学してました。

 

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妻籠宿もそろそろ外れにやってきました。

振り返った寺下の宿並み。

散策しているのは結構ラフな姿の欧米の方々。

まだ、日本の人はパラパラの感じ。

(欧米人が出入りしてるところが、先ほどの上嵯峨屋です。

 みなさん、日陰を選んで足を運んでいますね。

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 寺下外れに、街道街並の風情に合わせた建て方で、綺麗に掃除もされたトイレが

設けられてます。

外国の方々もバシャバシャ写してましたね。

この先からは山へと向かって行きます。

私達もトイレタイム。f:id:hansui:20180731045738j:plainゆるく左曲がりをして振り返りの街並み。
早朝に散水をしたのでしょうか、道が濡れてます。

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AM9:10、妻籠宿を過ぎて、尾又(おまた)に入ります。

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ここから飯田道(伊奈道)が分岐した追分になっていた所です。

右手の沢沿いの竹やぶの中に、今もその道跡を辿ることができるといいますが、

宝暦年間(1760頃)に、飯田道がつけ替えられ、ここから約600m南の

橋場に追分が移動しました。

左手の山からの導水管が街道下を潜り横断、右に関西電力妻籠発電所

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向いに御左口(みさぐち)神を祀った「おしゃごじ様」と拝まれる謎の神様が

祀られています。

古代からの土俗信仰の神で土地精霊神、土地丈量神様、酒神といわれ、謎の神様と

いわれているようですが、ミサグチカミ、おしゃごじ、とは???。 

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この時間になると、早くも妻籠へ向かう外国のハイカーと出会うようになって

きました。もう馬籠から歩いて来た?それとも先の大妻籠に宿をとっていた?

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街道は右手に、清冽な流れの蘭(あららぎ)川に沿って進みます。

蘭川は木曽山脈の床浪高原に源を発し、男埵(おたる)川を吸収し、流末は

木曽川に落合います。

民宿・小嶋屋を見送り、

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藁と稲穂を使い、動きのある藁馬を一つ一つ作りあげている、

わら馬実演販売店「いんきょ」を過ぎて、

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坂道を行くと「民宿・八起」が尾又の最後の建物で、

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その先で国道256号大平街道線へ出てます。

左手に行くと伊奈方面、右手に行くと南木曾(三留野)方面です、

横断し町営第3駐車場の右手に建つ、大きな「妻籠宿」案内板の後ろ側の、

橋場旧道の土道に入ります。

案内板下に、中山道*さんまい「右まごめ 旧道/左志ん道 いいだ」自然石道標、

(さんまい??)

右手には中北道標「6.9km 馬籠宿/妻籠宿 0.8km」があります。

いよいよ妻籠宿、標高430mから標高801mの馬籠峠を越えて、

標高600mの馬籠宿へと向かいます。

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夏の匂いいっぱいの 蘭川(あららぎがわ)に沿う土道を進むと、田園が広がり

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車道(県道)に突き当たり、右折し橋場の集落へ入ります。

この分岐点には「中山道走しば邑(むら)」と彫られた自然石道標があり、

道標には「右 志ん道/左 旧道 つまご」と刻まれています。

京方面からの旅人への標ね、てカミさん。

(前にもありましたが、志ん道は新道のようです、

   中山道走しば邑は橋場村でしょうか))

傍らに木製道標「←中山道 妻籠宿へ1km」があります。

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少し先で 渡る大妻橋の手前付近が、橋場追分とも呼ばれ、追分は尾又からここに

付け替えられ中山道飯田街道の分岐点として栄えたそうです。

橋の手前に案内板は建っていますが、?、道標は何処かな??

周りをきょろきょろしますが、判りませんでした。

あとで確認すると、左手の民家の庭の中に、写真左下のような道標が

有ったそうですが、木々が繁っていたので見つけられませんでした。

石柱道標は明治14年(1881年)建立で、

  「中山道 西京江 五十四里半/東京江 七十八里半「飯田道」があります。

(写真左下の道標はパンフより)

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蘭川を大妻橋で渡り、突き当りに自販機があったので、Cafeタイム。

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先の民家の脇から道標に示す右手の大島邑旧道に入り薄暗い樹林の「神明坂」を

登って行きます。

この分岐点には中山道大島邑自然道標「右旧道/左志ん道」と

中北道標「1.2km 妻籠宿/馬籠宿 6.5km」が建ってます。

勢いよく山岳ランナーが声を掛けて追い抜いてゆきました。

この猛暑、カミさんが「わあ、凄い!」て言いながら道を譲ってます。

左下後方は先ほど渡った大妻橋、遠くに見える家並は妻籠の尾又地域かな?

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 大島旧道の山道は石畳道を一部残し、結構な急坂で右手にポツンと馬頭観音像が

祀られていて、木立を抜けると山上の旧神明村に入ります。

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すぐに村外れの急坂を下ると下道に突き当たり、右折し男埵(おたる)川を

神明橋で渡ります。

左手の一段高い民家の庭かな?涼し気な噴水?が勢いよく吹き上げてます。

川の水辺は吹いてくる風もヒンヤリと涼しさを覚えますね

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 橋を渡り急坂を進むと左手には、「弘法大師常夜燈」と「南無弘法大師之記念碑」

が建つ「旧旅籠・諸人御宿金剛屋」で、旅籠の二階に弘法大師を祀ったところ

参拝客で大いに賑わったといいます。

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坂を上り詰めると大きな大妻籠モニュメントが建つ、県道7号に突き当ます。

猛暑の中ですが、数人の集落の方々が周辺の清掃整理をしています。

「暑いね~、どこからですか」

 「こんにちは、埼玉です。今日は妻籠から馬籠まで 行きます」

妻籠、馬籠間は歩く人が多く、特に海外の方が増えてるので、定期的に清掃整備を

しているそうです。

そういえば、ここまで歩きてきてもゴミはほとんど落ちてなかったですね。

「ご苦労様、ありがとうございます。」

AM9:50、もう30℃は越えてるそうです。

「こんな暑さは初めてさ、気を付けてね」と見送られ先へと足を進めます。

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左の県道7号線が中山道で、、右は中山道旧道です、

妻籠のモニュメントから右手に坂を下り、手前に中山道自然石道標が建つ

男垂川に架かる橋を渡り、右手に水車のある坂道をのぼって行くと、

間の宿であった大妻籠でした。
妻籠は奥妻籠が訛ったものです。

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 上り坂を進むと右手に石置き屋根の水車小屋があり、石垣に馬頭観世音文字塔を

見送ると、妻籠宿保存地区内の一地区であり、袖卯建(そでうだつ)をもつ

出梁作(だしばりづくり)の旧旅籠が軒を連ね、今も民宿として盛業中です。

登り切って「近江屋」

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袖卯建(そでうだつ)の「まるや」、その奥は「つたむらや」

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「つたむらや」には満室で今回は泊まれませんでした。

多くの旅人が旅立ったのか、二階には布団などの満艦飾。

HPのフレーズです

「一歩足を踏み入れると 

   そこは、 

    日本の田舎ではなく 

         日本の「昔」

 テレビも時計もない客室で
    「今」をひととき忘れよう」

「つたむらや」は秋篠宮紀子さまが御学友と泊まった民宿で、

   宮様が来られるというので急遽洋式トイレにしたとか。

 

右手に路を取り5,6分坂道を上って行くと、建築年代はおよそ十七世紀後期と

推定され、木曽地方の古い農家形式を伝える貴重な建造物、

県宝・藤原住宅がありますが、パスして馬籠峠(標高801m)を目指します。 

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 左手に曲がり、 みたび男埵川を渡ると、街道は県道7号中津川南木曽線に突き

当たり、左手に中山道庚申塚があり、「右 志ん道/左 旧道 左 つまごに至る」と

刻まれていて、案内板の前には、中北道標「2.2km 妻籠宿/馬籠宿 5.5km」があります。

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持参街道図では、

ここが江戸日本橋から81番目「大妻籠一里塚跡」で、庚申塚とも呼ばれている、

と記されていますが、「一里塚らしい案内は何処にもないわね~」て

カミさんが言う通り、周囲を探しても判りませんでしたね。

県道を右手に曲がると旧旅籠こおしんづか(現民宿)があり、二階の軒下に

山駕籠を吊り下げています。

民宿前は庚申塚バス停で、宿泊したのか若いカップルがバス待ちをしてました。

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中山道はバス停の少し先で県道を横断し、どうがめ澤自然石道標

「下り谷を経て馬籠峠へ」や中北道標があるところから、石畳の山道へと入って

行きます。

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ここからはかなり急な、樹立するヒノキ林の上り坂石畳道を進みます。

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グングン上ると左手の斜面を見てカミさんが、「牛頭観音像が祀られてるわよ」

と指さします。

解説には「石の多い急な坂道を重い荷物を運ぶため黒牛が使用された。

その黒牛の供養塔である。この中山道に祀られた唯一の石仏(多くは馬の供養塔で

ある)」と記されています。

中山道塩尻峠を下ったところに文字供養塔「牛馬守護」がありましたが、

像としての牛頭観音は初めてでした。 

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九十九折りの急勾配坂を上ると、新しそうな熊除けの鐘がありました。

説明には「鈴を鳴らしてください。熊を追い払います」と記されています。 f:id:hansui:20180801065255j:plain

そういえば妻籠で休憩したとき、係りの人が、観光案内所で「熊鈴」を

貸し出してると言ってましたね。

行った先の観光案内所に返すんだそうです。

ただ、保証金の様なのが300円だとか。(返金されるそうです)

熊除鐘の先はちょと開けた台地の田圃があり、沿って進み少し下ると

小さな木造橋を渡り、自然石道標を見送り上り返すと、

その名も下り谷(くだりたに)の集落が見えてきます。

 

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左に曲がりながら村を抜け少しのぼると、左段上に倉科祖霊社が祀られてます。

松本城小笠原貞慶(さだよし)の重臣倉科七郎左衛門朝軌(とものり)の霊が

祀られています。

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倉科祖霊社から200m弱行くとY字路分岐となり、左手山道は

馬籠峠へ行く中山道、右手は男滝、女滝への道筋。

分岐手前にここにも熊除け鐘が設置され、ベンチの先には案内板が設置され、

英語でも書かれた木道標が有ります。

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案内板には外国観光客が記入したようで、日本語の下に英語で書き込みが

ありましたね。昨今は、木曽路は「Samurai Trail」と海外でも人気の

観光地なので、わりと案内板や道標などにも英語表記が多いですね。

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左手山沿いの中山道土道には分岐のすぐ先石垣の上に、庚申塔馬頭観音など

が祀られていました。

AM10:30、時間的にか、急に人の行き来が多くなってきました。

馬籠方面から、続々とトレッキングスタイルより、ラフなスタイルの欧米外国の

観光客がやってきます。

日傘や団扇を手にしてる女性もいますね。f:id:hansui:20180801133834j:plain

男滝女滝へ下る舗装道は「古中山道」の道筋になるという説があります。

最初から寄り道することに決めていたので、分岐を右手に進みます。

男埵沢を滝見橋で渡り、渡り詰めを中北道標に従って左の土道に入ると、

正面目の前に「男滝」が現れます。

吉川英治著の中で宮本武蔵が修行したといわれる滝ですね。

林間を通る風に渓流の冷気が入り込み、なんとも涼風が心地よい。

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手前には、

「この滝は・・・旅人に名所として親しまれ、憩いの場でした。」で始まる

案内板が建てられてます。

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渓流沿いの道の先に鉄階段が設置された展望台に、若い外国カップルが

向かってます。

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カップルはアメリカの男女で、お互いにツーショットを写し合い。

写したスマホを見て、親指立ててグッド!と笑顔で去って行きました。

(左上がシャターを押してもらった写真)

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先の小さな木橋で渓流を渡ると女滝の展望所です。

響き渡る水音、ナチュラル・ミストが流れ、なんともい~清涼風が、

ほてった体包まれ体力気力回復で、さあ、峠へ。

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ブログ記録後編は 馬籠宿までの予定でしたが、作成が遅れ気味なので、

「後編の前編」として、  後編の後編へ続きにします。

 

 

 

 

 

 

歩いて再び京の都へ 中山道69次夫婦歩き旅 第28回    野尻宿~三留野宿、妻籠宿、馬籠宿 中編

現在PM1:30です。
野尻宿から約11km、4時間30分も掛かって歩いてきました。

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この先に待つのは「妻籠宿 」、3.7km

木曽路はすべて山の中である」へと向かいます。

ガンと凍らせて断熱シートに包んだペットボトル飲料は、まだ半分以上は氷が

残っています。これからは山の中、木陰道も多くなるし、

「進みましょうか!」「よ~し、行こうか!」
気力体力、まだOK、もうひと踏ん張りと足を進めます。

民家の間の細い道を進むと和合集落で、

「昔,木曽の谷中に酒なし 和合の里人はじめてこれを造る 和合酒という」

江戸時代、和合酒「諸白」を醸造した遠山家跡は畑になり、町の天然記念物に

指定されてい遠山氏の庭木だった、名残りの「和合の枝垂梅」が道に枝を伸ば

している。

春には見事な枝垂れ白梅が咲くそうな。

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枝垂れ梅から少し道を下ると右手からくる道と合さり、街道は左方向の上り坂を

進みます。右方向への道は坂を下ると左下にD51が展示されたSL公園があり、

そのまま道をたどると南木曾駅へと続いています(写真左下)。

木陰になるたびに、足は自然にゆっくりになりまますね。

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山裾のゆるい坂道を行き、街道はいよいよ山の中へ。

道祖神や自然石の道標など如何にも中山道らしい道を行き、

川辺が近づくと、すーと涼しさを含んだ風が通り抜けてゆきます。

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最後に急坂(神戸坂)を上ると、立場であった神戸(旧合村)集落に入る。

街道書によると、

蜀山人の号でも知られ江戸時代の文化人、太田南畝は壬戌紀行の中で

「立場名物のあんもちを「東海道にもかゝる餅はまれなるべしと思はる」

と絶賛しているそうです。 f:id:hansui:20180723211652j:plain

村外れの左手に袖振り松の切株があります。 

 案内板の謂れによると、
木曽義仲が弓を引く際、邪魔になった松を巴御前が袖を振って倒し、
 その横倒しになった松から新芽が伸び、いつしか「袖振りの松」と呼ばれ
 何代目か後の樹齢130年ほどの松も虫害で枯れ、平成21年に伐採されて
 しまった。平成22年に巴御前が晩年過ごした富山県南砺市より、
「巴塚の松」と呼ばれる樹齢750年程の黒松の実生苗木を譲り受け、
 再植樹した」と記されてます。
(写真は写し損ねたので、左2枚はお借りしたものです、

               松はもう少し大きくなっていた)

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右手にはイベントが有ったのかテントが建てられていて、

後ろ側に神戸村の鎮守、慶応3年の「ええじゃないか」騒動に降ってきた御札を

祭ったと謂われの「神明神社」がありました。

わりと最近、建てられたような神社でした。

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 神明社の左脇から石段を下るとかぶと観音堂の境内にはいります。

 案内資料よれば

「平安末期、木曽義仲が北陸路に出撃する際、砦を築いた妻籠の鬼門の方角に

 兜前立の飾りの観音像を外して祠ったのが、始まりとされる。

 戦国武将で、後に初代木曽代官となる山村良候が中心になって

 1589年に堂舎が建立されたと伝えられ、現在の建物は江戸中期の築で、

 幕末の1847年に改修され、郡内の堂では最古級」とあり、

   側にひときわ大きな観音像も建ってます。

 また、資料によれば、

「後の天正十二年(1584)小牧長久手の合戦の際、秀吉方の木曽義昌

山村良勝に妻籠城の守備を命じましたが、落城寸前になったところ、義昌が

かぶと観音に祈願すると、白鳩が舞い上がり、妻籠城の天守に止まったので瑞兆と

戦意が高揚し、ついに徳川軍を退けました。

以来、武家の崇敬が篤く、往来の武士はもとより参勤交代の大名も必ず参拝したと

いいます」とありました。

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境内へ下った石段脇に、南木曽町読書地区の住民有志が、伐採した130年の

「袖ふり松」にて造った大にな水舟が置かれ、こんこんと流れていますが、

「飲めません」と、注意書きがありました。

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境内にはトイレもあり、出た先の地元民芸品を商う木工製作所前に自販機も

あったので、冷たいコーヒーで喉を潤し、しばし足休めをし街道へ戻ります。

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かぶと観音の参道口に中北道標「←1.2kmJR南木曽駅妻籠宿2.5km→」

があり、木工製作所右手の下り坂に入り、進むとY字路となり左方向に進みます。

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坂を下り、広い車道を横断し小さな橋を渡ると、右側に源臣光照院塚大明神碑が

建っていましたが、塚ということは何かを埋めた??

碑の謂れはわかりませんでしたね。

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次いで戦沢を戦沢橋で渡ると、大きな解説板があります。

重要伝統的建造物群保存地区南木曽町妻籠宿保存地区の説明が記されています。

いよいよ妻籠宿が近くなってきました。

川風が心地よく吹き抜けます。

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街道は左手に竹林の、復元された石畳道の上り坂になり、先でY字路を左側に

進みむと、自然石の「せん澤道標、右妻籠宿へ/下り国道へ/左なきそ駅へ」が

あります。

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上空が開け空が大きく広がりましたが、f:id:hansui:20180725165021j:plain

右手の木立の中を進むと、草木が繁りわかりずらいですが、両塚かが現存して

いる上久保(うわくぼ)の一里塚が現れます。

江戸より数えて八十里目ですが、なぜか解説板には78里目と記されています。

町内には十二兼、金地屋、上久保、お一里塚がありましたが、原型を留めるのは

ここだけです。

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旧道を下ると左側の傾斜地に良寛歌碑。

この歌は良寛木曽路を通った際に、詠んだ二首の内の一首で、

「この暮れの もの悲しきに わかくさの 妻呼びたてて 小牡鹿(さおしか)鳴くも」

と彫られているそうです。

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良寛歌碑からすぐ先の右手に、勝野家で「くぼほら茶屋跡」です。

手前の左手には中山道自然石道標「右つまご/くぼほら茶屋/左みどの」と

石置き屋根の水車小屋があります。

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 茶屋跡からは曲がりくねった上り坂を進み、突当りの上道(志ん道)を

右折します。

この分岐点には中北道標があり、妻籠宿1.4kmとありました。

右折すると左手に昭和45年(1970年)の建立の

中山道蛇石(へんびいし)」と刻まれた自然石道標が建ち、

「右つまご宿/左志ん道(新道)/下り道旧道」とあります。

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街道書では、少し先に蛇の頭のように見える蛇石(へんびいし)いわれる大石が

あり、「旧中仙道名石の一つ」と、書かれた木札が立て掛けられている、と

ありましたが、草木に埋もれていたのか気づかずに通り過ぎてました。

(資料の写真)

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木曽路の山間に穿かれた街道らしい風景が広がり、鬱蒼とした森がつづきます。

蛇石標板から約200m程歩くとY字路になり、右側の砂利道を先に進むと

すぐ車道と合さり、その先右手に「しろやま茶屋」の廃屋があります

妻籠方面からやって来た若い欧米系のカップルに、「ナギソステーシション」と

指さしで聞かれます。「イエス、ナギソ」こちらも指先で。

f:id:hansui:20180725203648j:plain しろやま茶屋のすぐ先が三叉路になっていて、真ん中の下り坂が旧中山道で、

道標には妻籠・1km、右手は妻籠城跡への山道です。

 分岐の木陰では3人の男性旅人が休んでいました。

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時刻はPM2:40、城址へ寄ることにし、右手の山道へと入ります。

この分岐点には妻籠城跡道標(下写真・右端の石)があります。

途中では、下りてきた欧米系の方が3組と、ハイキングスタイルの日本人ご夫婦に

出会います。

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外国の方々は、かなりラフなスタイル、妻籠に宿泊かな?

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結構な上り坂を進むと左手は竹林の谷、そのさきに土橋跡(写真左下)があり

左側に解説パネル、さらに約60m進むとY字路となり右に進み、堀切跡などを

見送ると、

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最後のきつい登り、息を切らしながら上がると、15分ほどで妻籠城址に出ました。

城は典型的な山城で、空堀、曲輪、土塁も備えていいたといわれます。

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木曽義仲が砦を築いたと、かぶと観音堂の案内に在りましたが、

城址の案内板や妻籠観光協会の資料によると、

室町時代中期ころ木曾氏復興の祖と称した、木曾義仲七世孫・木曾家7代当主

木曽家村が築城といわれ、標高521mに位置し、戦国時代には木曽氏中興の祖、

木曽義昌が整備した。

義昌は甲斐の武田信玄に従属していましたが、

天正10年(1582年)武田勝頼を裏切り、織田信長に寝返りました。

信長はこれを機に甲斐の武田勝頼を攻め滅ぼしました。

天正12年(1584年)小牧長久手の戦いに際し、一旦は徳川家康に従っていま

したが、羽柴秀吉に寝返りしています。

天正14年(1586年)秀吉と家康は講和を結び、義昌は再び家康の傘下に

入ります。戦国時代を器用に泳ぎ切った義昌でしたが、家康の関東移封のさい

秀吉により天正18年(1590年)下総國阿知戸一万石に移封され、5年後に

没しました。」

と記されてます。

また、関ケ原の合戦に間に合わなかった徳川秀忠は,、この妻籠城で勝利を知らされ、
家康の怒りに慄いたと言われてる。

妻籠城は元和2年(1616年)廃城となる。

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城址の西端から、これから訪れる妻籠宿の眺め、吹き上げてくる心地良い風に、

身を委ねます。

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広重は妻籠として画面の左に恵那山、中央に妻籠宿に向かう峠道、そして右手に妻籠城があった城山を描いたと言われます。峠独特の七折八折の道を旅人が行き交う。

天秤を担いだ人足、大きな荷を背負ったお遍路。杖をついた旅人。

皆一様に膝を曲げた姿で峠道の上り下りを描写していると言われます。

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城址を後に道を下り、再び三叉路へ戻り、いよいよ妻籠宿への最後の1kmです。

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 三差路中央の急勾配の石畳風舗装路の下り坂をゆくと、先で車道に合流し、

右にカーブした左手に中北道標「3.0km JR南木曽駅妻籠宿 0.7km」

があり、 その後も頻繁に道標が有りましたね。

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先に進むと妻籠宿手前の集落に入る右手に、英文字でも書かれた
道標「妻籠0.5km/南木曾駅3.2km」があり、先を右曲がりすると

Y字路となって、右手に路を取り妻籠宿へと入って行きます。 

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 妻籠宿の江戸(東)口の恋野に到着です。

右手に、今旅人が宿泊したと紀行文に書かれる、御宿大吉、続いて民宿ふじ屋の

趣のある建物が現れます。

さすが三連休、大吉は問い合わせましたが満室で予約できませんでした。

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民宿ふじ屋の隣は、江戸時代後期建築の長屋の一部が残る南木曽町有形文化財

「熊谷家住宅」 f:id:hansui:20180726205050j:plain

その向かいに恋野の地名由来になった大きな「鯉ケ岩」があります。

中山道三名石「烏帽子岩吾妻橋地区、兜岩(神戸地区))の一つで、

文化2年(1805年)刊行の木曽名所図会に記載(写真右)されているそうです。

しかし明治24年(1891年)の濃尾地震で頭部が落ち、形が変わってしまい

今は案内板が無ければ、巨大な岩というだけですね。

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進むと地蔵沢橋がありこの手前左手が、後に福島関所に統合され廃止された

口留(くちどめ)番所跡で、往来の人々を監視していました。

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 木造の地蔵沢橋を渡ると、この辺りからが東枡形跡で妻籠宿の江戸口、

PM3:20、三留野から約3.7kを2時間余も掛りながらも妻籠宿へ到着です。   

10年以上前ですが、御嶽山登山の折に足を伸ばし、 妻籠、馬籠を訪れたことが

有りました。  右手に曲がると、

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思い出よみがえる街並みが、眼に飛び込んできます。

あの時は車で来ましたが、いま一歩一歩歩いたどり着ついた妻籠

う~ん、感無量ですね。

前後が桝形で急坂の途中に、高さ二間、長さ二間、横五尺五寸と往時の通りに

復元された高札場があり、次いで左手に水車小屋があり稼働しており、過ぎて宿の

中心部へと入って行きます。

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高札が7枚ほど復元し、掲げられている。

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妻籠宿は江戸から81里6町47間(318.5km)42番目の宿場です。

宿内の町並みの長さは2町30間(約270m)。

木曽17宿の中では一番小さい宿場町と言われているが,中世からの宿として

利用され、木曾路から伊那街道と飛騨街道との追分を控え大いに賑わいました。

 

宿場は上町、中町、下町で構成され、寺下・在郷を含んだ

妻籠村を形成していた。中町に本陣、脇本陣問屋場が置かれ、

建物は出梁により二階を張り出した切妻造、平入りが特徴です。

電信柱は奈良井宿もそうでしたが、建物の裏手など目に入りにくいところに

設置しています。

下ると下町に入ります。

(ゆるい下り道の妻籠宿)

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坂を下ったところから、右手に分かれる細道を下ると国道256に出て、

南木曾、妻籠、馬籠を結ぶバス停がありますが、南木曾へのバス時刻までまだ

余裕が有るので、少し先まで足を進めます。 

 

天保14年(1843年)の中山道宿村大概帳によれば、

妻籠宿の宿内家数は八十三軒、うち本陣一、脇本陣一、旅籠三十一軒で、

宿内人口は四百十八人と記されてる。

 

足を進め中町に入ると右手に、屋号を奥谷といい林家が脇本陣を勤め、

問屋、庄屋を兼ねた「奥谷脇本陣跡」があり、林家は島崎藤村の初恋の人

「おゆう」の嫁ぎ先でした。

造り酒屋を兼ねており、造り酒屋の屋号が[「奥谷」だったのですね。

現在の建物は明治10年(1877年))禁制が解除されたヒノキをふんだんに

使用して建てられており、国重要文化財になってます。

 現在は皇女和宮よりの拝領品など、歴史を語る品々を展示した南木曽町博物館の

施設の名称として「脇本陣奥谷」と呼ばれ、公開しています。

 

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隣接して歴史資料館もあります。
前に立ち寄ったことがあるので、施設関連を今回は拝観しませんでした。

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妻籠観光協会の資料引用)

「時代が変り明治になり鉄道や道路が新たに造られ、宿場としての機能を失った

 妻籠宿は衰退の一途をたどりました。
 やがて昭和になり経済成長の中、江戸時代の宿場の姿を色濃く残している

 町並みが 見直され、ここに全国に先駆けて保存運動が起こったのです。
 妻籠の人たちは町並みを守るために家や土地を、

   「売らない・貸さない・壊さない」

 という3原則をつくり、ここで生活しながら、江戸時代の町並みという貴重な

 財産を後世に伝えているのです。

 昭和五十一年(1976)に妻籠宿は重要伝統的建造物群保存地区に指定され、

 地区内にある二百三十三棟の伝統的建造物の内、五十三棟が復元され一躍

 脚光を浴びるようになりました。」

 (詳しい妻籠宿については、下記 妻籠宿観光協会のHPにお立ち寄りください)

www.tumago.jp

 

 先左手に、桧をふんだんに使って建てられた無料休憩所「妻籠宿ふれあい館」

土間で広い板間になっていて、観光客が気軽に寝転んだり、お弁当を食べたりと、

自由にくつろぐことができる休憩所となっています。

季節季節に、お雛様や節句などの飾りがあり、朝市や地元民芸品の実演販売も

行われるそうです。つかの間足休め。

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休憩所の係りの方の話では、7月上旬の記録的豪雨の折には、南木曽町内の

地域バスもすべて運休となり、中央線も中津川、塩尻間が運転見合わせや峠道の

通行止めが起きて、大変な混乱があったそうです。

ひな祭りは1ケ月遅れの

 

振り返って来た街並み。

右手、軒卯建の建物は屋号「柏屋」

妻籠へ入った途端、日本人より多く感じるほどの外国の観光客です。

午後も3時を過ぎて、一般の日本人観光客は少なくなり、多くは欧米系の外国の

方々が宿場町をそぞろ歩きしたり、軒下ベンチで寛いでいたりしてます。

今夜は何処へ泊るのでしょうか? 

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休憩所の先隣は、代々島崎家が勤め問屋を兼ねた「妻籠本陣跡」があり、

島崎家は馬籠宿の本陣を勤める島崎家とは同族です。

幕末には妻籠の島崎家から、ぬい(藤村の母)が馬籠の島崎正樹のもとに嫁ぎ、

七人の子供をもうけ、末子が島崎藤村でした。

また、藤村の次兄広助は妻籠宿本陣の養子となり最後の当主となりました。

その後、本陣は明治32年(1899年)に取り壊されましたが、

平成7年(1955年)に、島崎家に残っていた江戸時代後期の間取り図を元に

忠実に復元されました。

本陣門手前脇に人馬会所(問屋場)が復元されています。

妻籠宿には本陣と脇本陣に人馬会所があり、半月交代で勤め、問屋、年寄、帳付、馬指、人足指などの宿役人が勤務し、人足の指図や荷物の割振りを行いました。

本陣は島崎氏が、脇本陣は林氏が、両方とも江戸時代を通じて勤めていた。

(人馬会所(問屋場)、右手が本陣です。)

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本陣跡の少し先、上町に足を進めると右手に、

島崎藤村『夜明け前』にも開局当時の様子が描かれている妻籠郵便局。

現在の建物は、昭和53年度に郵政本省建築部の指導で復元され、

同時に局前のポストも、全国で唯一の黒いポストが復元されました。

郵便史料館も併設された今も現役の郵便局で、昭和60年に開設されました。

妻籠案内資料から) 

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ゆるい坂道をさらに進むと、先は桝形の様で左手の妻籠宿観光協会(写真右)は、

江戸時代を抜け出して、大正昭和のレトロ感ですね。

 

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高札場からここまでの妻籠宿は、宿場の雰囲気十分ですが、あの奈良井宿よりも

なにか開放的な明るさを感じますね。

ゆるい山の傾斜地なのと道幅も広めだし、家々も少し間隔をもって建てられてる

からかな。

西の桝形下ると、

「そこに人が住み、生活しながら続いてきたのが、

   妻籠宿の保存運動。
    最初に保存事業が行われた寺下地区は、

     妻籠宿の原点とも言うべき町並みです。」

 と妻籠を語る時に称される寺下地区に入りますが、

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時刻はPM3:50

南木曾駅へ戻るバスの時刻が迫っています。

石畳を下ったところから、案内板に従って右折し国道256の妻籠橋バス停へ.。

 

PM4:04分の南木曾駅行(馬籠始発)へ乗車。

南木曾駅から小一時間待ちの中央線の電車で、今朝旅立ちした野尻駅へ戻ります。
さらに、マイカーで国道9号を南下し、今夜の宿は岐阜県北東部・中津川市
駅前ビジネスホテルへ投宿です。

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バスは国道256を走り山を下り国道9号へ出て、そして県道と国道を交互に走り、

直通バスのように途中の乗降もなく、なんと、文明の利器を使えば約15分ほどで

南木曾駅前です。

2時間もかけて行ったのにね~・・とカミさんと大笑い!

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 マイカーを置いた野尻駅への電車時刻に小一時間ほどあるので、

その間に歩いて10分ほどの、木曽川にかかる吊り橋・桃介橋へ行く予定でしたが、

駅前にCafé・izumiyaを見つけたので、まずは涼みに入ります。

メニューは英語、日本語表記で最近の外国観光客の多いことが判ります。

比較的に最近オープンしたお店の様でした。

カミさんはカフェオレ、私はホットブレンド

歩きの最中は冷たい飲み物ばかりだったので、冷房の効いたところでの暖かい

飲み物が何とも美味しんですね。付いて来た塩豆も美味しかった!

(残念ながら写すのを忘れてた)

マスターとの会話は、やはり続く豪雨の話。

木曽川も警報が出たそうですし、妻籠、馬籠を目指す外国の観光客も足止めに

なったりで、大変混乱したそうです。

店内の棚には木曽路関連のパンフレットが何種類もあり、

 マスターが都合がつけば如何ですか、と進めてくれたのが

南木曾から木曽川を対岸の山へ入った「田立の滝」でした。

中山道の話や私たちが登った御嶽山や木曽駒岳の話、滝の話などに時を忘れて
しまい、あっ、電車の時間だ!

立ち寄る予定だった桃介橋は、またの機会にとし、

南木曾駅のホームへ出たとき。駅前を賑やかなお囃子と共に、

大きな神輿が通り過ぎました。

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そういえば当初の予定では、バス停隣の南木曾駅前駐車場へ車を停める

事にしてましたが、駐車場には祭り用かテントが張られていて、駐車禁止に

なってましたね。予定を代えてよかった、危ないところでした。

野尻駅から車を走らせ、夕刻の中津川駅近くの大きなショッピングモールで、

夕飯を調達し宿入り。

さっそくシャワーで汗を流し、まずは「カンパ~イ」う~なんとも美味い!!!

暑かったけれど、予定通りの一日、明日の馬籠への旅が楽しみです。

 

中津川へ向かう国道は、桃介吊り橋の下を通ってました。

Caféで貰ったパンフに有った写真を、お借りして。

(実際に目にした橋は、思っていたより大きい構造物で素晴らしい景観でしたね)

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パンフより、

 「桃介橋(ももすけばし)」大正11年9月に完成しました。木曽川水力発電

  開発に力を注いだ大同電力(福沢桃介社長)が読書発電所(大正12年完成)

  建設の資材運搬路として架けたものです。
  その後、昭和25年から村道(現在の町道)として、両岸集落の交通や、

  高校生・中学生の通学など地域の交通に大いに役立っていましたが、

  昭和53年頃から老朽化も進み、本格的な修理もできなかったため廃橋寸前と

  なっていました。この間、保存・活用の声が多くあり、付近一帯の天白公園

  整備に併せて近代化遺産(南木曽町有形文化財)として復元し、大正時代の

  長大吊橋の本格的な保存と活用をめざしたものです。

  橋の中央に資材運搬用のトロッコのレールが敷かれていたため、その痕跡が

  分かるように復元してあります。 

  桃介橋は全長247m、幅2.7mで、この付近では最大川幅のところに

  あり、美しく雄大な景観を誇っています」

 

 明日のほうが猛暑の予報!、続きます。

 

 

 

歩いて再び京の都へ 中山道69次夫婦歩き旅 第28回    野尻宿~三留野宿、妻籠宿、馬籠宿 前編

*ひょいと歩き出した東海道五十三次
途中で、断念かの肝臓癌をなんとか乗り越えて、京の三条大橋へ到着。
勢いをかって「歩いて再び京の都へ」と乗り出した中山道六十九次
またまた腹部大動脈瘤、心臓動脈硬化、そしておまけに腹部ヘルニア。
挫折しそうになりながらもカミさんの支えもあって、またまた乗り越え
旅の再開。
そんな、じじばば道中ブログです*

 

*角を右折し野尻駅にて、PM3:20、第27回の歩き旅は足を止めました

 関東甲信越はすぐに早めの梅雨入りとなりました。*

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早1ヵ月を過ぎ短い梅雨も明け後の夏日続き。

大変な災害を引き起こした豪雨。

被災地の皆様へ、心からお見舞い申し上げ声援を送る日が続いてます。

この間に1年経過、腎臓、心臓、腹部動脈、3年経過、肝臓と、経過診察が続き、

7月の10日にて、ありがたいことにすべて経過良好で決着。

 

天気予報はどうかな?

三連休は猛暑様相だが、「木曽路は山の中、足を進めてみましょうか」の

カミさんの決断?で急遽宿の手配。

当初は3泊4日で歩きは中2日、約30kmを計画したが、猛暑を考えて

2泊3日で足を進めてみて、歩く距離は当地で判断に切り替え、

急ぎ一部宿を手配しなおしをして、14日~16日へ ”行くぞ~”

 

ここまで和田峠越え以外は、早朝マイカーにて出発し日帰りの繰り返しで

足を進めてきましたが、さすがに300km越え往復10時間では、

日帰りは難しくなってきました。

 

7月14日(土)、いつものように早朝出立。

圏央、中央道と走り、伊奈から権兵衛峠越へをして前回足止めの野尻駅前へ

AM8:30到着。  う~ん、朝から猛烈な暑さです。

すでに国道19号の温度表示は27℃でしたね。

 

江戸から40番目、野尻宿を旅立ちし、足を進めるのは、

 41番目、三留野宿(2里21町10.1Km)

 42番目、妻籠宿(32町3.5Km)

 43番目、馬籠宿(2里0町7.9Km)

 44番目、落合宿(1里5町4.5Km)

 45番目、中津川宿(1里0町3.9Km)

 まで、約30km(約8里弱)だが、さて、どこまで足をすすめられるかな?。

 

AM9:00、野尻駅前にて恒例の旅立ちショット。

いざ、出立。

ガンガンに凍らせて持って来たペットボトル飲料と水を三本、腰とリックに。

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野尻宿は、江戸日本橋から79里24町(312.9Km)

天保14年(1843)の中山道宿村大概帳によればは家屋108軒。

うち本陣・1、脇本陣・1、旅籠19軒で、宿内人口は986人でした。

宿並は明治27年(1894)、昭和18年(1943)の大火で焼失し、

江戸の遺構はほとんど残ってはいませんが、防備上に設けられた「野尻の七曲り」

と言われる曲がりくねった道筋や道幅に街道らしさが残されています。

駅前から坂道を少し上ると、正面に「旧旅館庭田屋」があり中仙道に入ります。

大桑村の案内によると、昭和53年公開の第22作

男はつらいよ、噂の寅次郎」のワンシーンに出ている旅館だそうです。

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正面の風情ある庭田屋を見て、右手の西方向へ足を進めます。

14日、15日は野尻宿の西、山の手方向に鎮座する、須佐男神社例祭があり

赤い祭提灯が街並みを飾っていました。

 須佐男神社の総本山は、京都市東区祇園町の八坂神社と言われてるようです。

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宿の入口に東の「はずれ」がありましたが、宿の終りもやはり「はずれ」で、

 七曲りの最後の左手に建つ西村家は、屋号を「はずれ」といいました。

ここが野尻宿の西のはずれ(京口)です。

(屋号札は掛かっていなかった)

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宿場を出、道は橋を渡りY字路を右手、下在郷旧道へ入ります。

f:id:hansui:20180718105853j:plain先を行ってたカミさんが、指さし呼んでいた玄関わきに

珍しい綺麗な変化咲き朝顔の鉢がありました。(変化朝顔だと思います)

変化朝顔の栽培は江戸時代にブームとなり、盛んに栽培が試みられていた

そうですが、今は絶種寸前で非常に貴重なもの、と何かで読んだ記憶がありました。

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足を進めると、左手下在郷公民館の所に江戸日本橋より七十七里目、

「下在郷一里塚跡碑「」がありました。

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渡った左側に野尻宿碑が建つ、下在郷橋を過ぎると、おや!前方からピピッピ

とワッツショイの楽しそうな子供の声が聞こえてきます。

いや~いいですね~、夏祭りです。

わっしょいワッツショイ・・しばし足を止めて掛け声を上げました。

 

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神輿を見送ってすぐ左手に、奥に秋葉常夜燈が建つ小屋掛があり、

神輿はここから出たようでした。

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正面に三角おむすび・飯盛山を見ながら足を進めます。

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道なりにしばらく歩くと分岐があり、いったん国道に接近し右手は

<旧第3中仙道踏切>で、ここでは踏切を渡らないで山のへりに沿って、

国道と線路の間の道を100m程進みます。

 

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線路左手沿いをしばらく行くと、<第13仲仙道踏切>があり、

ここで線路を木曽川側に渡ります。

(あら、さっきは第三仲仙道踏切だったわよ?てカミさん。なぜでしょう?)

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本来の中山道は踏切を渡らずまっすぐ(しらなみ坂)を行くのだが,

いまは消滅してる由。

JR中央線の特急が猛スピードで通過し、ひと時の涼風が吹き抜けます。

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 右手は木曽川の「読書ダム」ですが木々に遮られ見れません。

「どくしょ」ダムではないのね?「よみかき」ダムというのね。てカミさん。

そうなんです、学問の謂れというのではなく、なんと

「よ」かわ(与川)「み」どの(三留野)「かき」ぞれ(柿其)が合併し、

地名を併せて「よ・み・かき」と称し漢字を当てはめた、街道書に在りました。

対岸に今回満室で泊まれなかった、阿寺温泉フォレスパ木曽が望めます。

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先でJR中央本線を第14仲仙道踏切で横断します。

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踏切を渡り勝井坂を国道19号へ向かって上っていく。

この時間帯、1時間に1本くらいしかない普通電車がカタコト過ぎて行きました。

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先は「新茶屋」と呼ばれていた集落があったと街道書にはありますが、
古い集落は残っておらず、大きな家が一軒建っていた。

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しばらくすると旧道は国道19号線に突当ります。

ここを右折し、街道は国道の向こう側に見える白いフェンス沿いの坂道へと

続いてゆきます。

この分岐点には中山道道標「左 野尻宿/右 三留野宿」があります。

この少し手前で失われた中山道と合流していたようですが、

痕跡を感じることは無かったですね。

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八人岩沢を下横橋手前で南木曾町(標高489m)へ入り、

ガードレールの切れ目から国道を渡り、

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十二兼の上り坂を進みます。国道との出会いが右下に見えてます。

本来の旧道は江戸方面から出会を直進し、八人石沢の左岸を進み先で沢を高巻し、

このヘアピンカーブに戻ってきていたそうです。

沢からの風の通り道かな、さ~と涼しさを運んでくれますね

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坂を上り切って左に回り込むと、かつて立場であった十二兼集落へと入っていく。

左手の石垣段上に「八人石の二十三夜様」と呼ばれる、石仏石塔が祀られています。

文政2年(1819))建立の馬頭観音、宝暦10年(1760)建立の観音像、

弘化3年(1846)建立の廿三夜塔等の石仏石塔などがあります。

かっては何らかの祠もあったかな?

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十二兼村は立場で、牛方の往来で大いに賑わいていたといわれます。

こんな小さな流れ落ちでも回るのね~・・てカミさんがしばし見入ってます。

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そうそう、木曽路でよく家の出入り口の軒下に掲げてる札「立春大吉」て

なんでしょう?と、ちょと調べてみると

立春は節分の翌日、かっては新たな年の始まりとして、禅寺で曹洞宗のお寺で

立春の日に「立春大吉」と書いた御札を門に貼り、厄除けにすることがあります。

そのお寺の檀家となっている家にも『立春大吉』の札が配られます。

厄除けの習慣なのですが、なぜ「立春大吉」が厄除けになるのか?

立春大吉」の文字を、縦書きにしてよく見ると左右対称になっています。

表から見ても裏から見ても、同じように読めます*
*昔、鬼が玄関から入ろうとした時、立春大吉の御札を見かけました。

 門をくぐって振り返ると、同様に立春大吉の文字。

 鬼は「まだ門をくぐっていなかったのか」と勘違いして、外へ出てしまいました。
 この言い伝えから、立春大吉の御札を貼っていると、一年を無事に過ごすことが

 できるという意味を持つようになったと言われています*

とあって、1年の厄除けお札だったのです。 

なるほど、木曽路は禅寺が多かったですね。

ちなみに、伊勢の赤福では「立春大吉餅」というお餅を販売してるそうです。

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先に進むとスグ先の左手に天保13年(1842)建立の天照皇大神宮常夜燈が

あり、村内を先に進むとY字路になり右の下り坂に入り、この分岐点には手造りの

案内標識「木曽路→」がありました。

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下り坂を進むと左脇に鳥居が見え神社の脇に出、「八釼神社」「熊野神社」の

石碑が立ち、石段段上に熊野神社が鎮座しています。

集落は牛方の崇敬が篤く、社殿には牛方が奉納した牛の絵馬を残しています。

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さらに十二兼旧道の急坂を降りると、先ほどの神社の石階段参道があるが、
危険なのか通れないようにとしてあり、その先で国道19号線の十二兼北交差点に

出ます。

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 ここで旧中仙道は国道と鉄道を越えて、木曽川沿いへと続く十二兼集落へ

でるのですが、国道は信号があり渡れても、鉄道は厳重に封鎖されていて

越えることが出来ません。

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持参街道書には、左側に見えるトタン屋根の所から水路のトンネルに仮設された

歩道を通るとあります。

沢の水を国道、と線路下に逃がすためのもので、その中に仮設通路を作ったものです。

(増水時などは潜るのが難しい時には、国道を右折して100m位戻る方向へ

 歩いた所に踏切があり、迂回しても街道へ合流できるようです)

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水路のトンネルを出て国道、線路を潜った先は、立場で賑わったという十二兼で、
近くにはバス停や公民館も見られ、そのまま鉄道に沿って左に進むと、
左手にはJR「十二兼駅」がありました。

丁度松本方面行きの電車が到着し、数人のハイカー姿の方々が降り立ちました。

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付近には十二兼の一里塚があったそうですが、国道及び中央線の敷設に伴い

消滅してしまい、街道書では駅の向こう側の国道19号線側に一里塚の跡碑が

あると記されています。

駅構内の跨線橋でJR中央本線を跨ぎ、国道19号線に出、京方面に進むと

十二兼南交差点手前の左手に一里塚の跡碑がありました。
 かっては南塚の塚木は榎二本、北塚は松一本の江戸日本橋より七十八里目です。

気温は30℃を越えました。

こまめに水分補給と塩飴を口にします。

そして少しでも日陰を選んで足を進めます。

熱風の中にもす~と、涼風が吹き抜けます。

川の近く水の有るところはやはり、涼しさがありますね

(つかの間ですが有りがたい)

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 右下の旧中仙道を先ほどの電車で着いた親子3人の旅人が、西へ向かって行くのが

見えました。

駅での会話で、親子たちはこの先は妻籠宿までむかうそうです。

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一里塚の先のフェンス切れ目から、線路沿いを戻り再び旧中山道を西へ向かいます。

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JR中央本線に沿って木曽川沿いをしばらく進むと、右手に柿其(かきぞれ)橋が

見えてきました。

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右に木曽川に架かる柿共橋からは、「名勝南寝覚」と呼ばれる景観が広がっています。

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すぐ近くは中川原立場跡で、秋葉神社碑があり、明治天皇が巡行の折り休んだ、

明治天皇御小休所跡」や「中川原御膳水碑」碑が建てられている。

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旧道は道なりに進むと柿其交差点にて、国道19号線に合流し、

左手に津島神社碑があります。草陰にゲンノショウコかな?

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国道に合流した街道は、左手山裾の鉄道、右手は木曽川沿いとなり、

日は頭上高く熱射を遮るものがありません。

時おりに木曽川を渡る川風はありますが、舗装の輻射熱もあって、かなりの暑さです。

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かっての木曽川沿、島崎藤村の「夜明け前」の冒頭部分

木曽路はすべて山の中である。あるところは岨づたひに行く崖の道であり、

 あるところは数十間の深さに臨む木曽川の岸であり・・・」

 というのはこのあたりを描いているといわれる。

羅天から与川渡間は、山間も狭い断崖が木曽川に垂直に落ち込んだ、

木曽路最大の難所といわれた「羅天の桟道跡」で、慶安元年(1648)に

開通しましたそうです。

木曽路名所図会には

「野尻より三留野までおよそ二里半、道は深き木曽川に沿い、せまき所は木を切り

 渡したかずらにてからめて、その巾をおぎない馬にも乗りがたき はなはだ危うき

 ところあり」

   と記されています。

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現在ではそんな険しい道だったとは想像もできないような、整備された国道を

木曽川を見ながら歩いて行きます。

後で三留野で休んた時に聞いたのですが、先日の超豪雨の際は、

木曽川は水嵩が道路ぎりぎりまでになり、注意報が出されていたそうです。

(来し道を振り返り)

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この難所は大雨が降ると水害で度々通行が出来なくなったので、野尻から山中を通り三留野に至る「与川道」が迂回路として造られてます。

街道を進むと木曽川に注ぐ与川があり、この与川の上流で高巻きした与川道が

三留野に通じていました。

国道を横断しJR中央本線ガードをくぐると、左手の段上に

与川度(よかわど)の石地蔵が祀られています。

天保15年(1844)に発生した蛇抜け(土石流)で犠牲になった人々の霊を弔う為に尾張藩が弘化二年(1845)に造立したものです。

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 国道に戻り先に進むと、右手に牛方の集落だった金知屋(かなちや)村があり、

短い砂利道の旧道に入ります。

村内には江戸日本橋より数えて79里目、金知屋の一里塚が有ったそうですが、

今は位置が不明になってるようです。

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国道19号線の歩道を進むと、妻籠5.5kmと書かれた標識があり、

さらに先で国道を左手に横断し、30分ほど歩いた国道から、

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県道264号南木曽(停)線の三味坂に入ります。

(国道の気温計は32℃を示してました)

三味坂右手の眼下には木曽川の景が広がります、これにて木曽川とはしばらくの

お別れです。

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坂を上って左手に馬頭観音を見て、JR中央本線ガードをくぐり、道なりに左に曲がると三留野宿にの入口です。

宿場と反対方向左手から下ってくる「与川道」が合流した与川道追分で、

馬頭観世音文字塔があり、左の上に神社があります。

 神社の日陰で一休みし、下って江戸から41番目、三留野宿に入っていきます。

(12時12分、宿内の街道筋は食事処が無いようなので、神社の木陰石段を

 お借りして、いつも持参の健康補助食品にてお昼タイムに。

 吹き下ろす風が意外に爽やかで、涼しい)

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 この地には木曽氏の館があり御殿(みどの)と呼ばれ、「三留野」の地名由来と

しています。

天保14年(1843)の中山道宿村大概帳によると、

三留野宿の宿内家数は77軒、本陣、1、脇本陣、1、旅籠32軒で、

宿内人口は594人でした。

街道書には、

木曽路屈指の難所羅天の桟道を控えて旅籠は多かったものの、宿場の規模は

 それほど大きくなく、「宿悪しく、わびしき所」といわれました。

 宿並は度々火災に見舞われ宿長は当初より25間も短くなり、

 明治14年(1881)にも火災に見舞われましたが、国道から外れている

 ために 古い家屋を今に残しています。* 

 とあります。

宿並には出桁造りや卯建をあげた旧家を残し、家屋には旧屋号札を掲げています。

祭礼の幟が立ち、道筋には祭り提灯が飾られ、三留野も東山神社の祭礼日でした。

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宿並を進むと左側に宮川家が勤めた脇本陣跡があります。

宮川家は本陣の鮎沢家、問屋の藤野家と宿の指導的役割を担い、

三留野村の庄屋を兼ねました。

(現在も宮川家の方がお住まいのようです)

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次いで右手は鮎沢家が勤めた本陣跡です。

皇女和宮は十三日目の夜を鮎沢本陣で過しました。

 明治天皇は明治13年(1880)巡行の際、中川原で休息した後、

鮎沢家(旧本陣)を宿泊所(行在所)としました、明治天皇行在所記念碑が

あります。

旧本陣建物は三留野大火災で焼失してしまい、今は南木曽町森林組合

事務所となっていて、庭木であった枝垂梅(町の天然記念物)を残すのみです。

(白い建物の左)、

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 本陣、脇本陣などがあった宿町中心を過ぎると、道路わきに唐突に現れる

右手ガードレール切れ目の細い階段を旧中山道は降りていきますが、

寄り道の為階段は下りないですこし先へ進みます。

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先に進むと左手に曹洞宗日星山等覚寺への道標があり、坂道を上って立ち寄りします。

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 風格ある仁王門をくぐると

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境内の左手に円空堂があり、円空作の韋駄天像、弁財天座像、天神像の三体が

安置されていると資料に在り、自由に拝観できるとありましたが、

、残念ながら堂内は見ることが出来ませんでした。

円空は美濃の生まれの江戸初期の行脚僧で、一生に十二万体の仏像を造ることを

発願し、貞享の頃三留野に滞在し造像に励んだと言い伝えられてるそうです。

(右仏像はパンフより)

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 等覚寺の側を山側に上る参道があり、奥に祭礼の三留野鎮守・東山神社がありました。

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一説では、三渡野(三留野)として広重が描いたのはこの付近からといわれ、
左手に宿並、右手の小山の上に東山神社の鳥居、そして手前に麦畑を描いています。

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等覚寺への坂道を下り、街道へは戻らず左手に祭りの太鼓台?が置かれた

路を進むと、細い階段を下っての街道と合流しました。

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街道へ戻って50mほど行くと梨子沢を渡りますが、ここは平成26年7月、

記録的な大雨により梨子沢川で蛇抜け(土石流)が発生し、大きな被害が出で、

2年前に復興竣工したところです。

先日来西日本を中心に、記録的豪雨による災害が各地で発生していますね。
一日も早い復興を心から念じるばかりです。

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  新しく架け替えられた梨子沢川に架かる梨沢橋を渡り、斜め左方向に進むと、

左手に南木曽小学校入り口の石段で、4段ほど上ったところに中仙道⇒の案内板

があり、街道は右手に民家と蔵の間を通って行きます。

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 長閑な旧道は大沢田川のT字路に突き当たり右折し、さらに先を左折して

大沢田川を渡り、先に進み北沢を北沢橋で渡ったY字路を左に進みます。

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しばらく街道を進むと右方向に入る道がありますが、左手に路を取り、

右手の眼下に三殿貯木場の遠景を見ながら行くと、左側に園原先生碑が

建っていました。

側に建つ解説板によると、

*園原旧富(ふるとみ)は三留野村和合の東山神社の

 神官の家に生まれ、 長じて京に遊学し、吉田兼敬(かねゆき、神祗管領長)

 に師事して神学を学び神学則を著し、尾張、美濃、信濃に門人多数を擁する

 大学者に なりました。

 この碑は師の死後五年目の天明元年(1781)に、学徳を慕う門人たちに

 よって建立された*

    とありました。

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園原先生碑前の変則Y字路を右に進むと、右下に南木曾駅が見え、右へ下り

跨架橋を渡るって行くと南木曾駅になります。

中山道道標は「左 妻籠宿」「右 三留野宿・与川経由野尻宿」とあります。

道標は中山道の文字はありますが、「歴史の路」案内になってます。

街道書では三留野宿の出入り口と書かれてますが、道標では確認できませんでした。

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 現在PM1:30です。

野尻宿から約11km、4時間30分を掛けて歩いてきました。

 

さて、足を進めるか、足止めして野尻へ電車で戻り車で宿の中津川へ向かうか。

電車は1時間後、2:44があるが。

気温は33℃くらいの様です。

お互いに「足は大丈夫かな?」 「体長はいかがかな?」

所持してきたガンガンに凍らせた水は1本、ほぼ氷のままに残ってます。

途中補給もOK。

この先は山道に入り妻籠宿まで約3.5km。

2時間30分を見ればいいだろう。

妻籠からの戻りのバスも大丈夫。

 

「進みましょう!」「よ~し、行こうか!」

 気力体力、まだOK、

 

旅は続きます・・・・・

 

 

 

 

 

 

 

 

歩いて再び京の都へ 中山道69次夫婦歩き旅 第27回    須原宿・野尻宿へ 後編

 定勝寺をでて隣の水船庭のベンチでお昼としました。

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歩き旅の後編。

 

12時、20分ほどの昼食タイム後旅の足を進めます。

向かいの板塀を回した、大きな屋敷の角を右手入り足を進めてますが、・・・

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??、ここまでブログを記してきましたが、街道書と写真を確認していて

気が付きました。なんと、桝形・「鍵屋の坂」を通っていなかったんです。

直前に二人の旅人が、街からやってきてこの角を曲がっていたんです。

「あ、あそこを右だ」と桝形のことをコロッと忘れて、全く疑わずに足を進めて

いたわけです。

正しくは、定勝寺から少し戻って、写真に残してたこの「蔵」のところを

曲がるんでした。

そして「真中に用水が流れ、左右に家があるという宿場の原風景をとどめるという

中を下って行く」と記されてる道、歩きたかったな~・・

定勝寺前の水船案内図、ちゃんと見てたんだけど・・・、

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赤枠、曲がる桝形 青線、誤った道筋

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坂を下ると突き当りを左へ曲がって、大きな屋敷前を通って行きます。

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街道はゆるやかな左カーブになり100mほど先で、須原の街並みから真っすぐ来る

県道265号線に合流して、右方向に進んだ二股を左の道へと歩きます。

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二股の左手脇に、「左、野尻宿」の石柱が建ってます。

補足のように⇒で指す道筋板もありました。

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県道265号・須原大桑停車場線の緩い上り坂を行くと、中央線の第9中仙道踏切

を渡ります。

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眼下に木曽川と中央線を眺めながら長い、その名も長坂を歩いていきます。

福沢諭吉の娘婿、福沢桃介が造ったと言われる、須原水力発電所も見えてます。

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長坂が下りにかかる付近の、昔茶屋が二軒あったと言われたところは、

なんの印もありませんが、民家が一軒ありましたね。

まだバイカウツギ(写真右)が綺麗に咲いてます。

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ゆるい下り坂も線路が近づくほどに下ると、旧橋場村の案内板があり、

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穏やかな里山集落、橋場へと入って行きます。

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大桑村公民館橋場分館と、赤いポストのある所で左折し山裾を行くと、

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左手崖上の中腹に、高いやぐらの上に御堂がある懸崖造りで、本尊は馬頭観音

木曽の三大馬頭観音の一つである岩出観音堂でした。

この懸崖造りの景観から木曽の清水寺と呼ばれているそうです。

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案内パンフによると、

文化10年(1813)に焼失,須原の定勝寺19代住職により再建された。

堂内には沢山の絵馬が奉納されていてこの地方の人々の暮らしや文化を伝えている。

山側の崖に多数の石像が建ち,馬頭観音三十三観音が集められている。

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右はウツボ草、中は?? 公民館分館の十字路に戻り南へ進むと、

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伊那川渓谷が流れ、伊奈川橋を渡ります。

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英泉の木曽69次野尻宿「伊奈川橋遠景の図」はこの橋を描いたと言われます。

伊奈川は暴れ川であったため、橋桁が架けられづ刎ね橋であったことが,

この絵で分かりますね。

左手上の奥には、ちょっと判りづらいですが、岩出観音堂も描かれてます。

(旧橋場村は、この橋の築造保守担う職人衆が居住していた集落だったそうです)

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現在架けられている橋 にも橋杭が無く、往時の姿を残しているよう。

橋を渡ったT字路を伊奈川にそって、擁壁側の歩道を右手へ向かいます。

 

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しばらく坂道を上がって擁壁が石積で低くなったところで、

足元に「どっさ」と何かが落ちてきて、

 「うわ~、蛇だぞ!」えっ、と言ったきりカミさんは近寄って来ませんでした。

なんと太い大きな蛇がぎょっろと睨みつけて、素早く道端の草むらへ

動き出しました。

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普通に見られる青大将か、と思ってましたが、帰宅して写真をよく見ると、

ちょっと違う様子。

調べてみると、並んでる赤い文様などから、なんと「ヤマガガシ」の様です。

昔は飼っている人もいたようで、50年くらい前までは毒蛇と思われていなかった

ようですね。

いや~、危ないところでした。

中山道で蛇にも何回か出会ってますが、こんな足元近くに上から落ちてきたのは

初めてでしたね。

 

坂を上り切ったところで、Y字路を左へ入ると中北道標が現れ、大島という

集落へ入ったようです。

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Y字路を左方向に約220m歩くと、「初期の中山道」との分岐点へやってくる。

左側に大桑村消防団第二分団があり、その約30m先が十字路になっており、
街道書には、ここを直進する道は「江戸初期の中山道」といわれ、木曽川畔を辿る

道筋だったが、度重なる水害に遭い現在の大回りの道に付け替えられたと

記されてます。

代わりに左折する道が造られ、十字路右角に中北道標、右手須原宿(京から来て)

の石柱が建つここを左折する。左折角に水船があります。

 

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曲がって進む道は街道書を見ても、木曽川から大きく離れた山を回り込む道で

載ってます。

左折してしばらく歩くと緩やかな上り坂となり、東集落へと入って来たようです。

自転車の少年が「こんにちは!」と大きな挨拶を残して追い抜いてゆきました。

ほっと、心が微笑みますね。

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田植えも終えたのどかな里路を行きます。

左手の用水路には、こんな幟もありました。

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一気にすべての蕾が開花しような、カルミア、このブルーの花は?

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家々に巨大な葉の朴木が、1本は植えていますね。

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神社の幟柱を見てしばらく行くと分岐があり、八幡神社入口標石が建っていました。

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八幡神社入口を右手に送り、ゆるく曲がる道へと進みます。

八幡神社入口標石から100mほど歩くと、T字路になり、手前左手の段上に

大正十二年(1923)の土石流で二十六名が犠牲になった水害記念碑が

あります。碑によると土石流のことを「蛇抜け」というようです。

旧道分岐から800m程、分岐の道の左手には中北道標と「右 中山道 野尻宿へ」

「左 中山道 須原宿へ」の標石があり、右手に足を進めると東集落から西集落へ

入ります。

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右手は山裾、左手に田畑や民家が点在する、山々に大きく囲まれた、のどかな

広々とした里が広がっています。

持参街道図を見ると、何本かの川が里の中を流れ、木曽川にそそいでいるようです。

その河川が大洪水を引き起こしたのでしょうか。

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心地よい里風に吹かれながらのんびり進むと、田畑の中に寺院の屋根が見えて

きて、左山裾に道標と案内板が立つ、天長院への道が分岐してます。

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街道から左手に折れて、天長院へ向かいます。

山門石段下にいろんなポーズのお地蔵さんが迎えてくれます。

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 天長院は、もとは真言宗であったと云われているが現在は臨済宗妙心寺派

室町時代に木曽家祈願所として、伊奈川大野に創建され広徳寺と称したが、

天文年間(1540~)に武田軍の兵火で焼失。

その後文禄年間(1594~)須原の定勝寺の第7代住職により開山され,

寛文年間(1662~)に現在地に移転された。
境内山門脇に、子供を抱いた子育て地蔵があり、抱いた紐が十文字になっている

ところからマリア地蔵とも呼ばれています。

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奈良井宿にもマリア観音がありましたね。

木曽谷には隠れキリシタンが住んでいたのでしょうか。
山門下には、ばんざいをしたお地蔵さんなどユニークなお地蔵さんが並び、

思わず頬が緩みます。

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街道に戻り、山裾の道を少し行くと、道下に山からの豊富な湧水を利用した、

水場や池が見られます。

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カミさんが、わあ、面白いわよ、て手招きする先に、山裾道脇に水場から流れ出る

小さな水溜まりが見え、カミさんが草むらをトンと足踏みすると、何かが

ぴょんぴょん飛び込みます。

何匹ものカエルでした。トノサマカエルかな?

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水溜まりの草陰からのっそりと出てきたのは・・

おっ、イモリかな??いや、もしかして「サンショウウオ!!」

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(判別はつきませんね)

中山道に戻り、

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下り坂をグングン進むとY字路が現れます、左に進みます、

 

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やがて左手からの上田沢がすぐそばへ寄ってくる。

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下りきると分岐に中北道標があり、左手の道へ進み、すぐ先の斜めT字路を

左折し、上田沢を長野宿橋で渡ります。

T字路を右手へ行く道が本来の中山道で,この先で道は土石流災害で埋まり

消滅しているという。

周辺は「弓矢」という集落があり,当時は間の宿として「弓矢茶屋本陣」が

あったそうです。

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橋を渡った50mほど先の十字路を、右折し下ったた突きあたりが、
JR中央本線大桑駅で、左手に行くと大桑役場があり、大桑村の中心かな。

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そのまま直進し、ししご沢に掛かる長野橋を渡り黒塀の大きな家を見送り進むと、

 右手、田圃越に大桑駅ホームが望めます。

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JR踏切手前左側の山裾に、奉燈と記された常夜燈が2基があり、

「第10中仙道踏切」を渡って国道19号に合流します。

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国道を横断し、右折して大桑駅のところから木曽川方面へ下り、道なりに進むと

古中仙道の「大桑の一里塚」が残っているようですが、寄りませんでした。

江戸時代の中山道としての一里塚は築かれなかったのでしょうか。

国道19号線に出て横断し、左に緩やかに坂を上って行きます。

大桑の道の駅案内板が見えてきました。

もう少しだ、頑張ろう、ソフトが待っているぞ!

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振り返れば中央アルプスの山並みも見えるはずですが、雲に隠れてますね。

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坂を上り切ると右手裏手は木曽川の崖となっていて、片欄干橋(桟のようなもの)

が架けられた難所だったという。この狭い通路を利用して木曽義仲が関所を置いた

といわれるが、詳しい経緯はわかりません。

関所跡には廃墟のホテルと手打ちそば関山が並びに、奇妙な関所跡碑があります。

碑には関所跡・モーテル関山と。モーテルが独自に建てた物なんでしょうね。

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関所跡先の国道19号線右側の歩道に架かるニガ溝橋橋側歩道橋を渡ります。

「橋側歩道橋とは河川、湖沼、海峡、運河などの水面を越えるため、あるいは水の

 ない谷、凹地または、建築物や他の交通路等を越えるために桁下に空間を残し、

 架設される 道路構造物で橋長2.0以上のものをいう。」

国土交通省資料)

要するに「かけはし(梯)」に類した橋ということかな。

 

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関所跡の下をトンネルで抜けた、特急電車が駆け抜けてゆきます。

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関所跡から500mくらい国道を進み、ガソリンスタンドの手前で、

国道を左手に横断し、道の駅大桑(木楽舎)で一休み。

PM2:15

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日陰で食したリンゴソフト、気温の高い中の歩き旅の疲れを

スーッと取り除いてくれたような。

20分ほどの足休めをして街道へ戻ります。

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 のぞきど森林公園の大きな標識先を、右の国道と中央線の間の

下り坂へ入って行きます。右手草むらの中に中山道の石柱がありました。

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 線路わきは大きくはなってますが、ワラビがいっぱいです。

「頭の部分なら、まだまだ食べられるわね」てカミさん。

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 第11中仙道踏切で右手に渡ると林集落で、ばったんばったんと機械音が聞こえ、

賑やかなお喋りが、右手の建物から聞こえてきました。

集落の方々の集会所兼作業所の様です。

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先が大きく開け、中北道標の建つ分岐を、左手へとゆるやかな坂を進みます。

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振り返ると、・・もう少し前のなら雪を頂いた中央アルプスの峰々が見られる

そうですが、ちょ雲がかかってしまってます。

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第12中仙道踏切を渡って、倉坂の少し急な道を上ると、

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斜めT字路で、左・野尻宿と刻まれた道標が立ち、右手坂下には煉瓦造りの

洋館が見えてました。

左手へ行くとすぐに、右・野尻宿の道標があらわれ、さらに坂道を右手へ登ります。

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Y字路分岐から約40m歩くと、左側に南無妙法蓮華経髭題目碑があり、

台石が、触るとイボが治ると言われるイボ石で説明板がありました。

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すぐ先が野尻宿の「東のはずれ」といわれる江戸口の様で、どちらかの家が

「はずれ」という屋号札を掛けているそうですが、見落としたかな?

(さっきの「いぼ石説明板」のところが高札場だった、との説あり)

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立ち寄りませんが、野尻の七曲りの道を行くと、左手に上る細い参道の国道を

横断した山側に、「妙覚寺」があります。

資料によれば、

臨済宗妙心寺派の古刹で須原定勝寺の末寺。 およそ700年前の創建とされて

 いるが,火災で焼失後,寛永元年(1624)に再建された。「鐘楼門」は

 1726年の建立,「本堂」は天保3年(1813) の建立,「観音堂」は

 安政3年(1856)の建立。 観音堂の左手奥に 天保3年(1832年)

 建立の「マリア観音」が安置されている。

 千手観音の右手には錫杖(しゃくじょう),左手に持った宝激(ほうげき)に

 紛れて十字架のようなものを高く捧げている。石仏の裏には「天保辰年」の

 銘が刻ま れていて,キリシタン禁制の時代にひそかに造られたものである。

 木曽川右岸の「野尻向」に在ったものを昭和46年(1971年)に現在地に

 安置された。」

(次回、野尻宿旅立ち時、寄ってみたいと思ってます)

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参道角の右手に常夜燈と祠がありました。

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中仙道の石柱を左手に見て、野尻宿の宿場街並みへと入ります。

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野尻宿は左右にくねくねとうねる街道筋に家々が軒を連ねる町並み。

この宿場を貫く道は「七曲がり」と呼ばれ、先を見通せないようにすることで

外敵の進入を防ぐ目的があった。 

真っ直ぐに通りを約30m進むと、左側に本陣碑と明治天皇御小休所碑が建って

いました。

本陣は森本家が務め問屋も兼ねていましたが、建物は明治27(1894)年の

大火で焼失しまったそうです。

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本陣から約30m先の右側に問屋と庄屋を兼ねた脇本陣があり、現クリーニング店の前に跡碑が建っていました。

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野尻宿は、江戸から77里6町47間,日本橋から40番目の宿場。

古くから集落が形成されていて,以前は「野路里」と書いた。他の宿駅と同じく

駅伝制度が出来た慶長6年(1601)に宿場として整備された。

宿は現在の大桑村南端にあり,木曽川左岸の段丘上に位置し,上町・仲町・下町・

荒田町となっており,荒田町の端に「はずれ」という屋号をもった家がある。
宿建人馬は25人,25頭で,不足の場合は下4宿(野尻・三留野・妻籠・馬籠)

共有の助郷制度で賄われた。

江戸時代に2回(1791・1824),明治27年(1894)に大火で,

宿場の大半が焼失し,さらに昭和18年(1943)の火災で追い打ちをかけられ

,昔の面影はほとんど残っていない。
街道の姿をわずかにとどめるのは,格子窓と低い軒並み。「七曲り」と呼ばれる

曲がりくねった街道筋(現県道261号)と「枡形」で外敵から町を守る町並みが

特徴的である。

 人口986人(男:490人 女:496人) 家数:362軒 本陣:1 脇本陣:1  問屋:2 旅籠:19 

(以上街道解説より)

 

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交番(写真右)を過ぎて,御大典記念碑から約30m歩くと、

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左側に宿場の雰囲気が漂う旅館庭田屋があり、

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倉本駅から約14km(3里半)、夏日になりましたが、木陰は爽やかで
今日もいい歩き旅。

江戸より77里6町37間(303.1Km)、京都より58里26町55間(230.7Km)、

一歩一歩京の都が近づいてます。

 

角を右折し野尻駅にて、PM3:20、第27回の歩き旅は足を止めました。

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帰りは権兵衛峠は通らずに奈良井を通り、塩尻から高速道へ入り、

多少の渋滞は有りましたが、8時30分帰宅で、旅はおわります。

 

帰宅後すぐに関東甲信越は梅雨入りでした。

次の旅路は天気予報と睨めっこしながらかな。

 

 

 

歩いて再び京の都へ 中山道69次夫婦歩き旅 第27回    須原宿・野尻宿へ 前編

*ひょいと歩き出した東海道五十三次
途中で、断念かの肝臓癌をなんとか乗り越えて、京の三条大橋へ到着。
勢いをかって「歩いて再び京の都へ」と乗り出した中山道六十九次
またまた腹部大動脈瘤、心臓動脈硬化、そしておまけに腹部ヘルニア。
挫折しそうになりながらもカミさんの支えもあって、またまた乗り越え
旅の再開。
そんな、じじばば道中ブログです*

 

途切れていた信濃の国・和田宿、下諏訪間の中山道最大の難所と伝えられる

和田峠を5月25日、無事越えることが出来、街道を一本に継ぐことが

出来ました。

旅というより山登り、で翌日は足はパンパンに張ってましたが、

こんな時は、もっと歩いたほうがいい、と変な理由をつけて、

余勢を駆って、木曽路の街道旅へと出かけます。

6月2日(土)

目覚まし無しでも予定時刻に起床、洗顔を済ませ即マイカーを駆って出発。

中央高速諏訪SAで諏訪湖を眺めながら、ワンタンメンで朝食に。

そのとき、衝撃的な事が起きました。

湖畔を眺める窓際に腰を据えていたのですが、軒下に燕の巣があるらしく、

数羽が飛び交い出入りしていて、そこへカラスが一羽やってきて

フェンスに止り、軒下を見上げてました。

突然カラスが飛び上がり、軒下へ・・なんと、巣からヒナを咥えて飛び去ったのです。

すぐ燕も数羽追いかけて行きましたが、・・・

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AM8:55

長野県、木祖の野尻駅前到着。

イカーを置かせていただいて前回足止めの二駅戻った倉本駅を目指して

AM8:26発の電車に乗りました。

なんと、ホームで出会った東京の御夫婦も、倉本から野尻までを旅する方でした。

前日、木曽福島から歩いて、上松の目覚め床の宿に宿泊したそうです。

ご夫婦も継ぎ足し歩きで中山道を歩いてるそうで、私達と同じく難所の峠越え、

碓氷峠和田峠は飛ばしたりしていたそうでした。

碓氷峠越えの話しでは交通や宿の問題から、某社の街道旅ツアーを利用されたが、

大雨に有ってしまい下着までずぶぬれで、えらい目に合った難儀な旅だった

と話してましたが、これも思い出峠越え、楽しそうに語っていたのが印象的でしたね。

 

(5月5日第25回足止め)

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お気をつけて、と倉本駅でご夫婦は先行し、私たちは前回足止め地にて

出発ショット。

今日の道筋、倉本駅前から約6.5kmの江戸から39番目、須原宿
その先7.5kmの40番目、野尻宿まで約14km(約3里半)です。
AM8:50、27回目の街道旅に足を進めます。

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 中央線を潜り東側へ抜け、ヘアピン状に曲がりながら、緩い坂道を上って行きます。

左手に先ほど下車した倉本駅にホームが見えてます。

曲がり角の標識は「←登山道 空木岳・木曽殿」で中山道の文字は有りません。

中央アルプスへの登山口だったんですね。

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鉄道で分断され大きく迂回してしてますが、本来の中山道へは倉本駅

福島寄りを通ってくる、左手(写真右)からの道に出会い旧中山道が復帰します。

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消滅していた旧中山道が復活し、少し先は左手に道筋も見えない、草茂る空木岳

の登山道が有りました。

空木岳は、木曽駒ヶ岳の南方、中央アルプスのほぼ中央に位置する百名山

中央アルプスでは木曽駒ヶ岳に次ぐ高峰で、標高は2864m。

ここから約10時間以上かかるそうですが、ちょっと厳しいコースですね。

下山に使われることが多いのでは。

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雪の下が可愛い顔を覗かせてます。

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屋号らしき札が掛かってますが、意味が??

屋号でなく表札?上の矢高さんもあるのかな?

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旧道らしいのどかな道を行きます。

竹林のところで左に曲がると、斜面上に天王様の石仏群とも呼ばれている

牛頭天王」と刻まれた文化6年(1809年)建立の常夜燈、その後方に

享保12年(1727年)建立の「除三尺之罪」と刻まれてた庚申塔が建ち説明板が

ありました。

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「除三尺之罪」の判りやすい解説板ですね。

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その先で道標に導かれ、右の心地よい草道を下りて行くとすぐに、大沢川の

ほとりに出ます。f:id:hansui:20180604061014j:plain

旧道は30m程左から大沢川を跨いで、国道19号線のももやま商店付近に直線的に

あったが、今は橋もなく通れないので、右に行って鉄道鉄橋下を潜り国道へ出る。

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交通量が多くて、向こう側には渡ることが出来ませんでしたが、暫らく行くと

国道右手の家の脇に、木々に囲まれれて江戸より74番目、倉本一里塚の跡碑が

確認できました。

ここも地域は上松で、上松内で北から四番目の一里塚。

一つの町村で四つも一里塚がある(沓掛・上松・萩原・倉本)のは上松だけ。
もともとは現在地より南へ20mほどの地点に左右両塚があったそうです。 

白色壁の民家が資料にあった「一里塚」を屋号とした家の様です。

ちなみに、この辺は皆屋号が残っているそうで「上の茶屋」「下の茶屋」という

屋号の家が残っているそうです。

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すこし先の池の尻信号で国道と分かれて、右斜めに通称、金吾坂下りて行く。

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 右に入ると池の尻集落で往時「池の尻立場」があった場所です。 

家々は屋号札をさげていると街道書に在りましたが、これも屋号かな、

「梅のぼく」「一家」「池尻の大屋」「すみれ」

何を商っていたのでしょうか???

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右手遠くに白い桃山発電所を眺め、f:id:hansui:20180604110011j:plain

少し進むと街道は左手へ分岐し、やがて坂の草道を上がって行きます。

左手の小さな畑に植えられていた花は「なんの花」かな??
ラッキョウにも似てますね。 行者ニンニクかな?f:id:hansui:20180604110440j:plain

右下に養殖池を見、廃墟となってるドライブインの脇を抜けると国道19号線に

合流します。

直ぐに境の沢橋があり、右側に標高(588m)標柱が建っていて、

この橋が上松町と大桑町の境で、沢橋を渡るとここから大桑町に入ります。

和田峠の1600mから、1週間ごに1000m下って歩いてるんですね。

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 のんびりと境の沢橋から、合流した国道右手を約200mほど行きます。

この付近からくるみの樹が多いですね。

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右側に木曽のお酒木曽路の大きな看板

(なぜか西向きで、京側からしか見えません)

   が建ち国道左手に細い道が通っています。

その道が街道書にある、エドヒガン桜旧道の東口痕跡のようです。

街道書では、

*左手へ国道を渡り、中央線を跨ぐ、草道にから・・うんぬん・・進む・・

と「エドヒガン桜旧道」のことが記載されてますが、

「但し、JR中央線の横断は禁止されてます」との記載はあり、実際に線路際に

 禁止看板も建ってます。

(線路がカーブしているため運転手からも見えないそうで、本数は少ないとはいえ

 確かに危険な道筋ですね。旅人は結構渡ってしまうようですが)

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エドヒガン桜旧道へは入りませんでしたが、線路の東側には上郷集落があり、

養殖池などがあるようです。

ちなみに資料によれば、

大桑村天然記念物 樹齢 不明 樹高 13.5m 幹周5.8m、

「国道からはずれた旧道は、木橋で沢を渡り往時の旅が偲ばれる。その街道脇に

エドヒガンの古木がある。昔からこの木の下を行き来する旅人を見てきた古桜だ」

とあります。

(資料写真)

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国道にコミュニティーバスの停留所がありました。

この路線にも大きそうな病院名があります。

乗合タクシーバスもあるようで、今日は土曜日、運休日でした。

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バス停から200m程行き、阿寺渓谷標識の建つところからの右手の道が

街道です。

木曽川沿いを5分ほどで国道へ合流すると

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道の左右が擁壁状になっていて、両側の擁壁の高さからして国道19号線は

堀切道で、右手の擁壁上の土道が本来の旧道痕跡の様ですが、草が生い茂っている

ため、止むなく歩道のない国道端を歩きます。

すぐ先、左手の擁壁上に見事な枝垂れ桜が聳えています。

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歩道がなく日差しも強まったので、日陰の多い左手に渡り、車に注意しながら

足を進めます。

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道端にはクルミの樹が多く見られ、手の届きそうなところに実がなってます。

実りの時に旅したら、くるみ拾いをしながらあるけそう。

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こんなの探しながらの旅歩き、楽しいですね~

何故かオダマキ、もの凄い花付き、ナルコユリマムシグサかな、いい姿

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国道を800m程進むと名古屋119kmの距離表が現れ、

左手に「神明社、夫婦杉」の小さな看板とが鉄路を潜るトンネルがありました。

距離とタイムを目的にした旅でしょうか、単独行の旅人が、わき目も振らず

急ぎ足で去って行きました。

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トンネルを抜けると左手に神明社の石の鳥居が建ち、右手に巨大な杉が

立ってます。

さらに鳥居をくぐり境内の石段左手に、これまた超巨大な夫婦杉がありました。

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大きいですよね~、夫婦杉を含め3本の大杉を見ることが出来ました。

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 夫婦杉入口から100mくら行くと、左手土手上に車道のガードレールが見え、

「糸瀬山登山口」の看板が建っています。

看板下の草道を上がって車道に出ますが、車が入れるのは40mほど先からです。

現在、先ほどのエドヒガン桜を見るにはこの道から入って行くそうです。

(相当の戻り道にになるので、立ち寄りしません)

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すぐ先が猿沢橋。橋の側の温度計は28℃・・わあ!渡った瞬間、29℃表示に!

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猿沢付近から須原宿手前までかっての中山道は、エゲ坂の旧道と言われる道が、

山道として僅かにその体裁を保っているそうですが、長い期間ほとんど人が入って

いなため藪に阻まれ、廃道と化してるのだそうです。

猿沢橋から200m程国道を行くと、歩道案内板が建ち、左手中央線と国道の

間の側道へ街道は続いて行きます。道脇に中山道石碑も立ってます。

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右下に国道、さらに右下は木曽川の流れ。

鉄道線の擁壁や木々の茂りもあって日差しが遮られ、ちょっと嬉しい側道です。

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 側道を500mほど行き、民家の先の宮の沢橋を渡り国道へ合流し、

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さらに 約100m進むと国道から左手に分かれる分岐があり、

「左 中山道 須原宿へ」 と刻まれた標石が建ってます。

その後ろの伸び放題に繁った草木の中に隠されて、「須原宿の街並み案内」や、

「水屋の里・須原」等の案内板が建ってます。

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ちょっと左側に回ると、草に埋もれて、江戸より75番目の「須原の一里塚跡」碑が

ちょこんとありました。

「あれ、街道書はもう100mくらい国道を進むになってるわよ」のカミさん。

たしかに、この分岐を左に上って行くと須原宿須原駅へ行くようですが、

持参街道書では、
「江戸方面からは左の県道へはいらず、国道を直進する」
さらに「国道19号線を少し進んだところで、左へ上がる細道が旧道であり、
入り口に小さな 「中山道」 の道標がある。この旧道を進むと民家の間を通って
須原駅の少し先に出てくる」と記されてます。
事前の下調べの4年ほど前の資料には、「一里塚跡碑は須原駅正面にある」
とも記載があるのです。

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 左か、右か、ちょっと迷いましたが、トイレ休憩もしたいので、

カミさんの「一旦県道へ入り須原駅前行き、国道からの細道を確認しましょう」

との意見に従うことに。(素直だな~)

と県道へ入り、100m程行くと駅前に出ました。

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駅前広場の手前、金網フェンスに後ろにに建てられている石碑は

幸田露伴文学碑」。 文学碑によると

「明治22年、木曽路を旅した幸田露伴須原宿に泊まり、その縁で出世作

風流仏』を著し、文中には桜の花漬のことも記されている」とか。

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駅正面に、露伴の分中にも出てくる、名物「桜の花漬け」を商う大和屋があり、

街道書では一里塚跡木標識があったはずですが、なさそうです。

(ただし、分岐のところが本来の一里塚があったところであり、

 元のところに碑を立て直した、との説があります)

なにか分岐のところの方が合ってる感じがしますね。 

それにしても碑の有ったところは、草ぼうぼうだったね。

(街道書も書かれた時期がちょいと古くなったかな?)

桜の花漬て桜茶のことかな。

中山道を歩く旅人に人気の秘密は

   「すばらしいぞえ須原の桜、つけてにえ湯の中で咲く」

 と唄われた「桜の花漬」を売っているからである、と。

 桜の花漬はどこでも売っているが、大和屋の花漬は江戸時代からの

須原名物で、しかも自家製。

桜花漬は八分咲きの八重桜を梅酢と食塩だけで漬け上げ、色あざやかで香りも

豊かで、お湯の中に花が美しく咲き開くため「桜茶」として、お祝い事によく用い

られますね。

むかしむかしまだ若かったころ、何かの折に上司に「二回ほど桜茶を飲んだ」と

話をしたら、 「お見合いしたんだね、どうだったかな」とからかわれたことが

あったけ。(カミさんは私は一回だけよ!て)

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なんてじゃれ話をしながら行くと、右手に高札場跡の立て札だけが立っていて、

後ろは石垣で一段低くなっていて、先ほどの分岐の国道をもう少し辿り、左手へ上ってくる須原宿への道筋は、この付近に出てきて旧中山道須原宿江戸口だったようですね。(この付近から方々に旅籠行灯があって、いい風情です)

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高札場跡のすぐ先に「大桑民族資料館」の道案内標識があり、右下へ階段を行く

案内になってます。持参街道書の道筋はここへ出るように書かれてました。

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階段を下りて道筋を逆にたどってみると、国道から斜め左へ来る廃屋?前の

草道になってしまった道筋があり、その道が本来の中山道須原宿への道だった

ことが判ります。

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宿場の街並みへ戻ります。

須原宿は、一つ手前の上松宿から、3里9町(12、67km)あります。

木曽路案内によれば、

須原宿は江戸戸日本橋から39番目の宿場で、天保14年(1843年)には

人口748人、家数104軒、本陣1、脇本陣1、旅籠24軒。

須原宿は正徳5年(1715年)に木曽川の氾濫で流失し、

享保2年(1717年)に現在地へ移転し、木曽谷の中ででは一番古くに栄えた

歴史ある宿場町です。

広々とした街道に面して格子戸の家が連なり、宿場情緒を携えた静かなたずまい。

宿内には丸太をくりぬいて作られた水舟という水場が点在し、今も昔と変わらず

清水がこんこんと落ちている。

宿場の京側外れには桝形跡である鍵屋の坂があり、道の中央に用水路が配され

宿場町の原風景を残している* とあります。

大きな川沿いの宿場町は洪水を避けるため、ほとんど一段高い所に営まれて

いますね。

左手空き地のところが、木村本陣の跡地で、木札が建ってます。

(ほんのつい最近まで家屋があったようですが、今は空き地になってました)

う~ん、時代の流れは速いんだね~・・・

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 本陣跡の先には、旧脇本陣の西尾家があり、塀の前に板碑が建っている。
西尾家は木曽義仲の家臣であり、中山道の宿場が出来るのに伴い須原宿脇本陣

問屋、庄屋を兼ねてきた家柄です。
酒造業は江戸時代から続いている銘酒 「木曽のかけはし」 を生み出している

蔵元でもあります。

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脇本陣の向かい側には水船があり、その後ろに正岡子規の歌碑が建っている。

正岡子規は明治24年(1891年)に須原を訪れた。
歌碑には、「寝ぬ夜半を いかにあかさん山里は 月いつるほとの 空たにもなし」 と

刻まれている。

明治20年代は鉄道もなく、露伴も子規も長旅をしてきたんですね。

須原駅前を過ぎると、街並みのいたるところに水船(水場)が見られるように

なります。

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脇本陣の先に清水医院跡がある。
黒板塀の前の立札には「島崎藤村の ”ある女の生涯” の舞台となった清水医院跡。

建物は愛知県犬山市明治村の中心地に移転、保存されている」 と記されている。

藤村の姉 園も入院したことがあるのだとか。

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医院跡の板塀前に、ミュージック仕掛け?がありました。

観光案内によると、大桑村指定無形文化財「須原ばねそ」(はね踊り)で

*須原ばねそは古くから伝わる郷土民謡盆踊りとして

唄い踊られる地唄で、はね踊るところから由来。 嘉慶年間より京都から伝承した

庶民文化です。 「よいこれ」・「竹の切株」・「甚句」の三種があり、いずれも

楽器を用いない地唄でこれを称して「須原ばねそ」と呼んでます* ありました。

水色の3っのボタンは左から押すと、まずは「ご挨拶」二つ目は「唄」

三っ目は律儀に、「お別れの御挨拶」結構な音量で静かな宿場街に流れます。

はあ~~・・・

長そうなので唄は一節だけ拝聴し、ちゃんと最後の挨拶も受けました。

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と、民謡を楽しんで、清水医院跡の少し先左手に文化10年(1813)の常夜燈が

建ってます。正面には秋葉大権現、横に金毘羅大権現と刻まれていて、常夜燈の

側の幟柱のところを左へ入ると、須原宿の鎮守、鹿島神社仮宮がある。

鹿島神社須原宿の鎮守ですが、鉄道線を越えて600m程の山裾にあるようです)

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広重画・須原宿は、右手に大杉が描かれてることから鹿島神社門前の様子を

描いてる、と言われてるようです。(他説もありますね)

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右手に大きな石門柱が建ってます。

白い札には「昭和二年建立」と「大桑村立須原小学校」と読めました。

この村も小学校は今はなくなり、村立の保育園がありました。

平成15年、野尻小学校・大桑小学校・須原小学校が統合し、野尻に「大桑小学校」

が開校してるそうです。

えっ、野尻まで7キロ以上も通学してる!

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その向かい側は、下松田屋の屋号が掲げられた家の前に立派な水船がある。
この水船の覆屋の軒には木札があり、「水船の水のきをめぐりて」 と歌われている

ように須原は中山道に面して数多くの井戸があり、生活の場として親しまれたこの

水船もその面影を残す」 と記されている。 

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旧旅籠吉田屋明治2年(1869年)の建物で、ここにも水船があります。 

(近年は民宿すはら、でしたが民宿も廃業したそうです)

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街道左手の桝形手前に、旧旅籠柏屋がある。

軒下には、大阪を講元に京都・江戸を世話方とする 「三都講」 、御嶽講の一つ

宮丸講の 「宮丸北之組」 の看板が下がっており、江戸期の指定旅館と

いうわけですね。

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旧旅籠柏屋のすぐ先が桝形で、中山道は(鍵)の屋号紋をつけた蔵が建つ家の

角から、右手に曲がり「鍵屋の坂」を下りますが、坂道は何か改修のような

工事をしてました。

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その少し先にある、永享2年(1430年)創建、臨済宗妙心寺派

木曽三大寺の中でも最古刹の定勝寺へ立ち寄りします。

桝形を過ぎてすぐが定勝寺へです。

f:id:hansui:20180605043626j:plain「山門」「本堂」「庫裏」の三建築が国の重要文化財に指定されています。

山門

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本堂(なぜか、本堂を撮影してなかったのでパンフより)

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庫裡

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定勝寺には、国の重要文化財指定の木曽家縁の資料等が保管されており、

その中には日本で最初の「そばきり」についての文献、天正2年の定勝寺仏殿事

記録があるそうです。

戦国時代木曽谷を支配した戦国大名木曽義昌」の位牌が安置されているほか、

東洋一の木曽ヒノキダルマ座像があるそうですが、覗けませんでしたので、

パンフから(左上)

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「鶴亀蓬莱庭園」奥が亀、手前が鶴のようですね。

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山門を出て、AM11:40

朝食が早かったので、まだ昼前ですがいつも持参の補助食品でお昼タイム。

宿内では食事処が見られなかったので、門前脇の水船の花壇前のベンチを借りして。

水船の里の図がありましたが、宿入り口付近にもあったかな?

図によると水船は宿内に六ケ所あるようです。

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休憩してる間にも、西から東から何人もの旅人が、声を掛け合い挨拶を交わして、

通り過ぎて行きました。

外国の方は二人だけでしたね。

と、ここまで旅の記録写真を整理しながらブログを書き進めてきて、

あれ!!写真が無いが・・・

この後、おおきなミスをしていたことに気が付きました・・・・・

 

後半へ続きます。

 

 

 

 

歩いて再び京の都へ 旧中山道夫婦旅  第26回      和田峠越え 後編

*峠越えは後半へ

 広重画 和田t宿・和田峠 峠は切通しで描かれてますね・

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薄曇りで遠くは霞む空模様ですが吹く風も心地よく、雲間から薄日挿す峠です。

それでも、朝の天気予報にあった山沿いでの雷雨注意報を意識して、

30分ほどの休憩で記念写真を撮って、峠を下ります。

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 和田峠といえば、険しいことで知られた中山道でも一二を争う名うての難所です。

参考資料などによれば少し長いが引用します。

「参勤交代といった往昔の峠道の往還には、荷物の運搬のための人足や馬が必要に

 なる。所謂人馬継立とも伝馬が宿に置かれその用に供した。助郷と呼ばれる

 人馬継立 の負担は大変であったようで、宿だけでは対応できず、近郷の村にも

 応援を求めた。

(常任を定助郷、臨時を代助郷と呼ぶ)
 人馬継立・伝馬は公用の場合は無料で奉仕することになる。宿はその負担の代償

 と して年貢を免ぜられた、とのことであるが、それでも伝馬の維持は大変で、

 しばしは幕府からの下渡金が支給されたようである。和田宿の脇本陣である

「翠川家文書」には享和3年(1803)には1300両(現在の価値で1億三千万円程度)

 を10年の無利子で借り受けたりもしている。
 和田宿通過が幕府から公認されている大名は美濃加納、美濃苗木、信州松本、

 信州 飯田の4大名。そのほか、彦根の井伊家、大垣の戸田家など本来は東海道

 筋 を進む 8大名が中山道通過も認められていた。公式にはこれだけの大名が

 参勤交代で和田峠を越えることになる。とはいうものの、実際は天竜川や大井川

 などの川止めを嫌った多くの大名が参勤交代に中山道を利用し和田峠を越え

 ている。 参勤交代で和田峠を越える大名家はほとんどが3月から9月に集中し

 て いる。 冬には積雪3mとも言われる峠の往還を避けたわけである。とはい

 う ものの、積雪 期に峠を越える大名もいたわけで、そのときには和田宿他か

 ら 人足が出て雪踏みを することになる。文政8年1月8日(西暦1861年

 4月6日)の尾州様御帰国に は24ヶ村から人足1800名が動員され、

 峠茶屋 より峠までの雪踏みを行っている。積雪が残っていたのだろうが、

 とも あれ大変なる 負担である。 また、和田峠を皇女和宮が越えたのも冬季

 である。下諏訪宿を 出立したのが1861年12月7日。積雪の時期ではある。

 ただ、和宮のお供は3万名とも言われ、雪の吹き溜まりもあろうが、なにせお供を

 先導する人足が大勢 出て雪を踏み固め、筵などで道を整備するので心配ない、

 と宿からの回答がある。

 ともあれ、冬の峠越えは宿にとって大騒動ではあったのだろう」

   とありました。

 驚くのは和宮の行列が、日の短い旧暦11月6日冬季に峠越をしたことですね。

下諏訪を夜明けの朝7時に出発して、日が暮れた峠道を松明を掲げて、夜6時に

和田宿に到着したと言う記録が残っているそうです。

約6里弱(22.5km)の山道を、11時間で走るように上り駆け下った!!


さよなら~和田峠、再び足を運ぶことはあるかな??

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左手は賽の河原と名付けられた岩ゴロゴロの傾斜地で、

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和田側登りは街道らしい道幅の草道が続いていましたが、街道書にも記されてる

「賽の河原七曲り」と呼ばれる、所々ガレ場の狭い急下り険路が始まるようです。

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ここからが和田峠西坂下り急坂です。

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さらに下っていきます。大きく曲がるところには「七曲り」、「六曲り」と名称が

書かれた白い杭が立っています。

枯れてしまった水場脇には苔むした地蔵尊が静かに見守って、

急坂七曲りも終わりですが・・・

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とにかく中山道は峠越えの連続ですね。

このアップダウンの激しい山道を、皇女和宮の御降嫁の大行列は通っていったとは。

七曲りが終わって少し下ると右手に石小屋跡の案内板が建ってます。

今は石垣場が残っただけの岩の塊ですが、ここにあったに石小屋は、雨や雷、風雪を

防ぐための避難小屋で、安政2年(1855年)、下原村の名主・勝五郎によって造られた

もので、高さ2メートルの石積みをした上に片屋根を掛けた構造をもち、

長さ約55メートルという非常に大きい施設で、人馬の待避所や荷置場には絶好の

施設であった。その後慶応3年に修理したが、現在は、石垣の一部を残すのみ、

と案内板には記載されています。

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 石小屋跡から少し緩やかなカラマツ林の中を、ケルンに小石を置いて下がって

行きます。

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林を抜けると広々とした草場にでてきます。

和田峠からは1kmほど下って来たようですが、約25分かかてますね。

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草場は植林された若木が筒の中で鹿などの食害から守られてます。

今頃歩かれた方の資料では、蕨摘みが出来る、と記されてましたね。

草場の縁を回り込むようにして道は続き、狭い急坂を一気に下って行くと、

国道142号線の旧道との出会いです。

左手の丸太道標には、「←矢印和田峠0.9km諏訪大社秋宮11.1km→」

和田宿、下諏訪宿間は約22,5km、やっと中間までたどり着いたようです。

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国道142号線を斜めに横切り、道標に従って再び草道を下って行きます。

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雪融け時期や雨が降ったら、小川になりそうな狭い道を下って行くと、

再び国道の横断です。

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道標に導かれてジグザグに曲がる国道142号線の旧道を一気に貫くよう
に横断してゆきます。

すぐ下が次の国道横断。大型トラックがうなり声をあげて登って行きました。

ガードレールの切れ目から再び草道の急下りです。

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 しばらく下って行くと、ヒノキ林の下に文字道祖神牛頭天王碑が立ち、

石垣の奥には古い墓地がみえ、草原の広場へと降りてきました。

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右手にこんな注意看板!

(でも6月だと最近じゃないわね?てカミさん)

最近じゃなくとも生息地だぞ、持参の熊鈴を盛大に鳴らします。

資料によればこの付近で瓢標高は約1300m。

和田峠から1.5km、標高差300mを1時間強かけて降りて来たんですね。

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かつてここは西坂の立場(休憩所)で、西餅屋茶屋(跡)があったところでした。

建っている案内板によれば、

「茶屋本陣の小口家、それに茶屋の武居家、犬飼家、小松家という4軒の茶屋があり

 ました。東餅屋同様たいへん賑わっていたそうですが、明治の時代に入って

 交通機関が整備されるとともに中山道を歩く人が激減し、急激に寂れていき、

 大正時代に離村してしまった」とのことです。
街道書や資料によれば、

*名物は「氷餅」で、重湯のようにしたうるち米を、氷点下の中で自然乾燥させた

ものです。*

和田峠道で出会った方の何人かは、下諏訪の宿から此処まで車で送ってもらった

様でした。

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 「あら、この花はなんの花なの?」

てカミさんが覗き込んだには、おっ、白花のオドリコソウではないかな・・

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再び国道142号を横断し、ガードレールの切れ間から石ゴロの草道を

下って行きます。

案内書によっては「雨降り時などは国道を進むように」とのアドバイスもある、

渓流沿いの道が始まります。

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いいオブジェだね・・太い蔦の絡まりが独特の雰囲気を演出してます。

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国道142号の土手下坂は垂木坂と呼ばれるようです。

少し下ると右土手に江戸日本橋から53番目の一里塚(跡)がありました。

現在では塚らしきものは見当たらず、大きな石でできた一里塚碑のみが置かれている

だけです。

塚の上は国道が走り、あいかわらずのハルゼミの大合唱と、バイクの轟音が木々に

響き渡てます。

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一里塚から先は、左下が和田峠の南方面に連なる車山(1925m)に源を発する

「砥川(とがわ)」で、右上方を国道が走るガレ場の連続する荒れた山道になり、

(垂木坂と呼ばれている)、倒木の下をくぐりフタリシズカを「5人静」だねなん

 ておしゃべりしながら進むと、左下は切り落ちた崖上のごく細いガレ場道になって

 きました。

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右手には黄色と黒の通称“虎ロープ”が張られ、危険地帯と教えてくれます。

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「出来るだけ右側を歩きなよ!」と言うほど、道下はえぐられて、

梯(かけはし)のようになった所もあらわれます。

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ぐんぐん下り渓流の流れが近くなってきます。

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石の囲いに守られてクリンソウが一本、

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おや、この小さな白花は・・ワダソウか!違うかな?

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谷底を流れるせせらぎの音が大きくなり、さらにら道を下って行くと、

再び国道に合流です。

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この国道142号線に合流するあたりは、地形が焙烙に似ていることから

「焙烙(ほうろく)平」と呼ばれているそうです。

焙烙とは素焼(すやき)の平たく浅い土鍋のことです。

そういえば焙烙地蔵尊が、八百屋お七絡みでありましたね。

合流地点に建つ道標には、

「これより先下諏訪方面中山道は国道の拡幅等により、道筋が確定しておりません。

是より先は国道を1.7km下り、左手に浪人塚に向かいます車にご注意ください」

とあります。

土曜日とは言え、有料道路も合流した国道142号は結構大型車も多く、諏訪方面へ

の下りは一車線、和田峠への登りは登坂車線があって二車線です。

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 難所と言われたピークは過ぎましたが、びゅんびゅん行き交う歩道帯の取ってない

国道歩きは、これまた現代の難所ですね。

街道書のアドバイスには「歩道帯の無い交通量の多い坂道は、登坂車線のある方を

歩くように」とあります。

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先行していたカミさんが右上を指しながら呼んでます。

レンゲツツジが咲いてるわよ~

レンゲツツジの季節になってきてるんですね。

和田峠に連なる高原や、美ヶ原に連なる高ボッチ、鉢伏山

レンゲツツジの大群生が良く知られ、私達も何度か足を運んだことがあるんです。

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(以前に訪れた、鉢伏山レンゲツツジ

 うっすらと最奥に霞んでる峰が和田峠方面の山並みです)

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資料ではこの付近で標高は1100m、和田峠から1時間40分ほどかけて、
500m程下ってきたことになります。

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歩道のない国道をしばらく下ると、左手の側道への道標が建っており、

行き交う車両を確認してそれっと渡り側道を下って行きます。

”芙蓉パーライト工業”の工場に突き当たり、道なりに右に国道下をくぐり抜けた先に

道標と「浪人塚」への案内板が建ってます。

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資料によれば、

パーライトとは黒曜石や真珠岩などのガラス質の火山岩を1,000℃ぐらいに焼いて

膨張させた球形の小さな砂利のことで、重量が普通の砂の10~20%ほどで、セメントと混合してパーライトモルタルを作ります。このパーライトモルタルは軽量であるうえに断熱性、吸音性にすぐれ、断熱材、軽量骨材、軽量プラスターなど建築用材として用いられます*

大型ダンプが2台、側道を下ってきて、トンネルを抜けてゆきました。

原料を運ぶダンプなんでしょうね。

左手に「浪人塚」と書かれた石碑が建ち、その先が「浪人塚」でした。

解説によれば

「浪人とは「天狗党」と呼ばれた水戸藩士を中心とした千余人の浪士達のことです。

ここ和田峠で幕末の元治元年(1864年)11月に「天狗党の乱」と呼ばれる一連の戦いの

1つが繰り広げられました。ここはその天狗党が高島(諏訪)藩・松本藩両藩の藩兵との

間で激戦が繰り広げられた跡です」とあります。 

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案内板を読んでたカミさんが、「なぜ高島藩が敵対した天狗党のために

浪人塚を造ったのかしら??」て、ごもっとも。

 「きっと、明治になって恭順の意志と尊王の態度を示すために、ではないかな?」

なんて自己流解釈を。

でもこのことにより水戸市との交流が生まれ、下諏訪町に対する水戸市長名の

御礼の木碑とともに、水戸の名木梅が植樹されているそうです。

浪人塚から再び国道下のトンネルを抜け、工場前を通って砥川を渡り、

右手に砥川、さらに右に国道を望みながら進みます。 

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砥川を樋橋で渡り国道142合流手前に注連縄をさげた鳥居が建ち、

杉林の中に、蠶玉(かいこたま)神社と山の神が祀られてます。

蠶玉神社は養蚕が盛んだった地域での守り神なのかな。

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神社の先で国道142号に合流すると、火の見ヤグラのところで左に国道を挟んで

S字状に曲がる旧道に入ります。

ここが樋橋立場跡で国道側には樋橋茶屋本陣跡碑があります。
樋橋(とよはし)村は寛永11年(1634)立場として開村し、茶屋本陣は

小松家が代々勤め、数軒の茶屋があったそうです。
茶屋本陣には御殿と呼ぶ小建築があり、文久元年(1861)皇女和宮はここで

休息しているとありました。

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樋橋集落は下諏訪コミュニティーバスの折り返し地点です。

今、PM3:03です。3:07発の下諏訪行きがすぐにありますね。

西餅屋付近で追い越して行った若い方が。バス停で待ってました。

雷雨や何かのアクシデントがあったら、ここからのバスを利用することに

してましたが、有りがたいことにこのまま歩き続けられそうです。

すぐに国道に合流した右手に、小さな墓地の一角があり、 つい最近までここには

茶屋本陣を勤める小松家の者が全国巡礼達成後に建立した地蔵堂があり、

延命地蔵尊が安置されていましたそうです。

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先を側道にちょこっとだけ進み、再び国道142号線に戻ります。

小さく標識もあったので、この極短い側道が旧中山道で、桝形であったようです。 

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国道142号線に合流した地点に「標高1,000メートル」の標識が立っています。

和田峠の頂上は標高が1,600メートルだったので、あそこから一気に約6km、

600メートルも下ってきたことになります。f:id:hansui:20180530085608j:plain

再び先の分岐点に中山道道標があり、国道142号線と分かれ、国道と並行して

延びる側道を歩きます。このあたりは「深沢越え」と呼ばれてるそうです。

そのまま国道下の草道進むかと思いましたが、道標が建ってるところで、逆戻りの

上りをすると、やっと歩道帯の分離された国道に合流し、やれやれです。

f:id:hansui:20180530090340j:plain樋橋茶屋本陣から先の本来の中山道は,国道の右手下砥川の間を通っていたそうです。

現在はそのほとんどが失われているため、国道の歩道を進みます。

まだニセアカシアが咲いてますね。

(この先も何枚かの撮影をしたのですが、露出や絞りの調節ダイヤルが効かず、

 残念ながら真っ白け!予備のコンデジを忘れていた・・・)

カミさんが取り扱いが乱暴すぎない!!・・て。はい、ごもっともです・・

(なんと左足のふくらはぎが、攣りの痛みが出始めた・・)

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軽くストレッチ気味に動きながら、足を進めます(しばらく撮影無し)

国道の右手、砥川との間は工業地帯で、大きなリサイクルセンターや産業廃棄物の

処理工場が続いてます。

消滅している中山道は、工場の敷地の川側の淵を通っていたようです。

国道142号から分岐し、右手の産業廃棄物の処理工場の敷地へ通じる道に

「一里塚碑」の案内看板が立っています。

これはここから急坂を下った敷地内に、江戸の日本橋から数えて54里目の、

「樋橋一里塚」の跡碑があるそうですが、パスしました。

 

(かちゃかちゃカメラをいじりながら歩いてるうちに、カメラの不調が復帰した!

やれやれです。そのうえ、なんと左足の不調も回復、連動してるぞ!!)

樋橋立場から1.5kを30分もかかって下って、道路標識には標高930mと

ありました。かなり下ってきたので、気温が上昇27℃の表示です。

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右手のドライブインの自販機に立ち寄り、アイスコーヒーが美味い!

歩道帯のある国道はまだまだ下り坂です。

さらに500mほど下ると、左手山側に町屋敷集落、右手国道下川沿いに下屋敷集落

が見えてきて、さらにくだると左手に「木落し坂」の立て看板と、諏訪大社秋宮へ

標識があらわれました。

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中山道は国道の左手の道へ通じて、町屋敷集落へと入りますが、交通量の多い

国道なのに信号も横断歩道もありません。

右手に「中山道」の標識が出てきて、「地下道を渡る」と書かれています。

国道右下から上ってくる階段先、小屋掛けのところが国道横断地下道でした。

資料の中には、先ほどの一里塚を通る消滅してる旧中山道は、この階段に繋がり、

左手山側へ通じていた、ともありました。

この地下道が、中山道そのものだということのようです。

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 地下道は渡らず、それっ!と国道を横断し、町屋敷集落へと入ります。

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 道路に面して花々の植えられた静かな里路を300mほど進むと、

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左角地に、さすが諏訪大社のお膝元ですね、御柱に守られた道祖神が建ってます。

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道祖神の先の二股を右手の下り坂へと下りてゆきます。

坂道のマンホール蓋

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坂を下ったT字路右手角に、見事な苔庭を見て、左手の上り坂を100mほど

登ると・・

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諏訪大社、秋宮春宮の御柱木落し坂上です。

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上った右手に木落し坂広場があり、広場には

諏訪大社下社御柱街道天下の木落し坂碑」、「模擬御柱「」等があります。

偶然居合わせた地元の木遣保存会の方から、いろいろ説明を頂きや資料なども

頂きました。

そして木落し坂を覗き込むと、急勾配の下に国道142号線が望めます。

*『御柱祭』、正式には「諏訪大社式年造営御柱(みはしら)大祭」と言われる

 諏訪大社のお祭りです。この祭りは、七年に一度の寅と申の年に行われ、社殿の

 造営 (現在は宝殿のみ)と「御柱」と呼ばれる直径約1メートル、

 長さ約17メートル、 重さ約10トンにもなる樅(モミ)の木の巨木を山から

 切り出し、それを大勢の人々の 力で山から里へ曳き、最後に上社、下社の

 各社殿の四隅に建てます。

 現存する最古の記録では、平安時代桓武天皇の御代(在位西暦781年~805年)

 から、信濃国一国をあげて奉仕がなされ、盛大に行われたとなっていますが、

 それよりも以前から諏訪地方では大木を建立する祭りが行われていたとされて

 いて、明確な 起源は判っていない*

 ということです。  (資料より)

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 諏訪大社下社の春宮と秋宮に立てる御柱(樅の大木)八本を奥山から切り出し、

曳行の途中、この坂から御柱を落とす神事が「下社山出し祭」最高の見せ場

「木落し」と呼ばれる奇祭です。

氏子達は滑り落ちる大木に跨り

  「男見るなら七年一度諏訪の木落し坂落し」

                  と唄われてきました。

*実は私たちは前々回(9年前)に上社、下社の御柱祭り里曳きの日に来たこと

があり、下社の日はこの坂を下った先の、木落し後御柱を里曳まで安置する

「注連縄掛」広場からの御柱の坂落とし、里曳きに訪れたことがありました*

 

御柱木落し坂上からの下り道を教えていただき、急坂を国道へと向かいます。

木落し広場内の外れに「←和田峠8.5km 諏訪大社下社(秋宮)3.5km→」の

中北道標があり、ここから歩行者用の舗装路を下ります。

下る右手に落合発電所の送水管があり、先は階段になっています。

 

 

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約400m程下ると国道142号に出、手前右手の斜面に道祖神や馬頭観世音等が

祀られ、左手には芭蕉句碑がありその隣が「落合発電所」でした。

芭蕉の句「はゆき散るや 穂屋のすすきの 刈残し」とあるそうで、

 元禄3年(1690)四十九歳時の句で、 甲州道中の御射山祭りの神事の様を

 描写していると街道書に記載されてます。

「落合発電所」脇の標柱には「諏訪地方電気発祥の地 明治三十三年(1900)

 運転開始」とありました。

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砥川にそそぐ東俣川を一つ目の落合橋で渡り、二つ目の落合橋の手前で落合旧道に

入ります。

この分岐点には中山道道標や中北道標「←諏訪大社下社(秋宮)3.1km 

和田峠8.9km→」があります。PM4:12

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砥川を左手に何軒かの工場を見ながら、木落しされた御柱が曳かれる道を下ります。

おや石仏、あっ、ニッコウキスゲが咲いている!

えっ、なぜ工務店の壁に「小売りします」が??

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左手に御柱の里曳きまで安置される、「注連縄掛」広場への道を分けると、

国道142と合流し左手へ曲がって行きます。

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合流して回り込んだところが、9年前に訪れた「注連縄掛」広場からの

御柱坂落しと里曳き祭りの出発地です。

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(2010年5月8日)

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車の流れは142号バイパスへと流れるため、わりと静かな国道になり、

国道142号線の右側は砥川の谷になって、せせらぎの音が心地いいです。

諏訪湖が見え、下諏訪宿はまもなくです。

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先の左手擁壁上に馬頭観音など六基が並んでいます。  

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 右手砥川の川棚はのどかな畑です。

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 左手に山之神があります。
 山之神の背後の山は宝暦の頃(1750年代)白鷺が巣をかける瑞兆があったと

ころから白鷺山と呼ばれ、山頂には石尊大権現と白鷺稲荷大明神が鎮座し、山中には

三十体に及ぶ神仏碑が祀られています。 

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 「山の神」の前を通り過ぎたところで、一度右の側道に入ります。国道142号線から

一段下がったところに民家が立ち並んでいて、ここが昔の街道だったってことが

 偲ばれます。民家の屋根越しに諏訪湖が目の前に見えてます。

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 ここが中山道だったことを物語るように、道の傍らに道祖神が祀られています。

「木落し坂」のところにあった道祖神もそうでしたが、この諏訪地方の道祖神

特徴は周囲に4本の御柱が立っていること。

さすがに諏訪大社のお膝元って感じですね。f:id:hansui:20180531051521j:plain

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道祖神から約270m歩くと、国道142号線のほうも徐々に高度を下げてきて、

再び合流します。
右側に中山道道標がたっており、道標のところでR142に合流し、右方向に進み

ます。

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合流したR142を約180m歩くと、諏訪神社下社・春宮方向に右折する分岐が

あり、斜め右の道に入ります。

 しばらく歩くと右手に旧道入口があり、諏訪大社の「春宮」が見えてきます。

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右側には杉並木が続き、木立の隙間から諏訪大社 下社春宮が見えてます。 

諏訪大社には諏訪湖を挟んで南に「上社(かみしゃ)」、北に「下社(しもしゃ)」が

あり、さらに「下社」には「秋宮(あきみや)」と「春宮(はるみや)」という2つの

お宮があります。春宮はJR下諏訪駅から少し遠いためか、秋宮ほど参拝者は多くない

のですが、鬱蒼と茂る静寂な森の中に社殿が建ち並んでいて、歴史の深さが偲ばれる

神社です。 

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 春宮の境内を右下に見て歩いていると、縄で仕切られた場所があり、

そこは里曳きにおいて最後の難所とされる「春宮上(はるみやうえ)」
と呼ばれる地点です。御柱を境内に直接落とす、落し口でした。

ここまで運ばれてきた御柱はこの急傾斜を使って木落しが行われ、一気に春宮の
境内に運び込まれます。

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( 2010年御柱祭り落とし口の様子)

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御柱落とし口から約50m歩くと左に曲がるり、曲がり角右手の石段から

春宮の境内に直接行くことも出来ます。
左に曲がって急坂を下ると、春宮に繋がっている道路の分岐があり、分岐点に道標が建っていました。

右にUカーブの坂を下ると、春宮の正門鳥居と万治3年建立と言われる最近人気の

パワースポット、万治の石仏へとつながってます。

旧街道は春宮に繋がっている道を横切り、真っ直ぐに進みます。

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(春宮や石仏へは御柱祭りの折に拝観してるので寄りませんでした)

万治の石仏 参拝方法 】
「万治」は、本来は年号である。しかし何時の頃からか、「万(よろず)のことを

 丸く治(おさ)める」という意味に変わってきたそうで、石仏近くの説明版には、

 お参りの作法が書かれていて、
1.正面で一礼し手を合わせて「よろずおさまりますように」と心で念じる
2.石仏の周りを願い事を心で唱えながら時計回りに三周する
3.正面に戻り「よろずおさめました」と唱えてから一礼する

(以前の御柱里曳で寄った万治の石仏です)

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坂をおりて約70m歩くと、左の石段を上った先に慈雲寺という寺院があります。

その境内に「矢除石」と呼ばれる岩があるようで、

慈雲寺の境内には寄りませんでしたが、街道書には、

武田信玄が慈雲寺に立ち寄った際、慈雲寺中興の祖と言われる天桂和尚に戦勝祈願を

問うと、天桂和尚は境内にある岩の上に立ち、信玄に「弓で射よ!」と告げました。

信玄が数本弓を射ると、矢はことごとく岩に弾かれて、天桂和尚には1本も刺さる

事はありませんでした。天桂和尚はこの岩には矢除けの霊力がある…と信玄に告げ、

それ以降、武田信玄はたびたび戦勝祈願に訪れるようになった、と記されてます。

その慈雲寺の入口には「龍の口」と呼ばれる湧き水が流れ落ちている、龍頭水口の

石像があります。この龍頭水口の石像は寛政年間に山田金右衛門という職人の手に

よって作られた物と言われ、参拝に来た人だけでなく、中山道を旅する多くの旅人の

間でも評判だったとのだそうです。

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 慈雲寺の前を過ぎると、一気に風景が変わってきます。土蔵造りの家屋や旧旅館などが建ち並んでいて、宿場の雰囲気が漂ってきます。

昔からの温泉宿の風情が残る湯田坂を抜けて、下諏訪宿の中心部へと向かいます。

 

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右手の民家の前の板葺き屋根の軒下に小さな石碑が立っています。

これは江戸の日本橋から数えて55番目、「下諏訪(下之原)の一里塚」跡でした。

 

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一里塚碑の隣が伏見屋邸で、150年ほど前に建てられ、近年、復元修理された

「歴史的風致形成建造物」でした。

伏見屋は信玄の諏訪統治と共にこの地に移り住み、代々名主・年寄役を勤めた

そうです。
現在は休憩所として無料公開されているますが時間外でした。 

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 少し先の左手に御作田神社があり、境内に柵で囲われた小さい水田があります。

この水田は諏訪大社の水田で、春宮の「御田植神事」はここで行われます。

また、収穫された稲は春宮の神供として捧げられます。

(今年は田植えはこれから?雑草生い茂る田になっていた)

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御作田神社から200m程歩くと右側の角に番所跡石碑が建っていて、下諏訪宿

江戸口であったようです。

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街道資料によれば、

下諏訪宿は、江戸・日本橋から29番目の宿場で、五街道の1つ「甲州街道」の

 江戸」・日本橋から39番目の終点にあたる宿場です。
 下諏訪宿は現在の長野県諏訪郡下諏訪町の中心部にあたり、難所であった

 和田峠の西の入口として、また、諏訪大社下社の門前町として大いに栄えた

 ところでした。

 天保14年(1843年)の中山道宿村大概帳によると、下諏訪宿の宿内家数は315軒で、

 人口は1,345人。本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠40軒、この他、茶屋が2軒、商屋が

 15軒あり、さらには宿の外れには木賃宿もあって、巡礼者や下級の旅芸人などが

 利用した。

 古くは鎌倉時代から温泉の利用が確認されており、中山道唯一の温泉の

 ある宿場として知られ、ともに難所である和田峠塩尻峠の間にあり、旅人に

 とって格好の休憩地だった」とありました。

 旧称は「下ノ諏訪」と言ったようです。

 写真左上に鉄鉱泉本館、下は鎌倉時代、慈雲寺を訪れる修行僧達の為に建てられた

と いわれる旦過寮の湯で、湯口は52度という高温で、戦いで傷ついた武士も入浴し

たと言われます。

下諏訪温泉はかつては各旅籠に引き込まれておらず、共同浴場でした。

古くから「綿の湯」、「児湯(こゆ)」、「旦過の湯(たんかのゆ)」などの湯があり、

今でも共同浴場が営業されています。

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鉱泉本館からすぐ先の右側に、今井邦子文学館がありました。

今井邦子文学館は茶屋「松屋」の建物を復元したものです。

案内板によれば、

「今井邦子は、四国・徳島市出身の「アララギ」の歌人で小説家。後に女流短歌誌

「明日香」を創刊したことで知られています。四国・徳島の生まれではありますが

 2歳の時に下諏訪町の祖父母の家に引き取られ、ここで育ちました。結婚、出産を

 経てアララギ歌人の島木赤彦と出会い、短歌の新境地を開いた」とありました。

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おっ、宿場町にクラシックカー、合うわね~てカミさん。

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 宿場の入口から坂を少し上った左に、天文10年(1541年)創建の来迎寺があります。

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 寺院の境内には平安中期の歌人和泉式部の供養塔があり、傍らに

「あらざらむ この世のほかの 思い出に 今ひとたびの 逢うこともかな」

という和泉式部の歌碑も立ってます。

和泉式部の幼少の頃にまつわる伝説の守り本尊の「銕焼地蔵尊」があり、

毎年4月中旬にご開帳供養が行われるそうです。

また、写真左下は、「かな焼地蔵尊」というそうで、

「平安の昔、顔に大けがを負った「かね」という少女が、普段から信仰厚くお参りし

 ていたこの地蔵様に拝んだところ、不思議なことに傷は地蔵様の顔に移り、傷はた

 ちどころに治ったという伝説があります。そして美しく成長した少女「かね」の噂

 は都にまで聞こえ、時の帝に召し出され、のちにかの平安の歌人和泉式部

 なったとの言い伝えもあることから、立身出世にもご利益があると言われて

 います。とありました。 

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中山道を挟み来迎寺の反対側に、諏訪大社の神陵とされた諏訪地方随一の

前方後円墳青塚古墳」があったそうですが、気づかずに通り過ぎたようです。

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「遊泉ハウス児湯」の前あたりからが下諏訪宿の中心部となり、

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左に本陣跡の標識が見え、向かいに真っ白い漆喰の壁が印象的な大津屋が建ってます。

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公開時間は過ぎていましたので、はいることはできませんでしたが、

左手に格式高い門構えの岩波家本陣跡があります。(PM5:20)

岩波家本陣は本陣問屋役を元禄元年から明治維新まで務めていた家で、

現在の当主は28代目にあたるのだそうです。

この岩波家本陣は諏訪大社下社秋宮の境内を借景とし、ここの広大な庭園は

中山道随一の名園としても有名だったそうです。

現在も一部が一般公開され、皇女和宮が御降嫁される際に、また明治天皇が宿泊した

際に利用された奥の座敷を見学することができます。

また、玄関には、参勤交代の際、大名家が宿泊している時に掲げる関札を展示して、

徳川御三家や井伊家などの関札が残されているのだそうです。

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 本陣の少し先に「綿の湯」の跡があり、当時の「錦の湯」の様子を描いたタイル絵が

飾られています。

江戸時代、各旅籠には温泉は引き込まれておらず、宿泊客も一般開放されていたこの「錦の湯」を利用しました。

他の湯は地元の人以外は入れず、温泉は混浴が普通だったのだそうです。

*広重画 下諏訪宿、客が風呂に入ってますね。この宿は温泉ではなかった?

(広重は当地を訪れていなかった、の説もありますね)

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直進する道は甲州街道で、ここには「甲州街道中山道合流之地」と刻まれた碑が

立っています。

ここで江戸の日本橋からやって来た中山道と、甲斐国(山梨県)経由でやって来た

甲州街道が合流しました。

埋め込まれているタイルには、
 「旧甲州道中・江戸53里11町、旧中山道・江戸55里7町、京都77里3町」

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そのまま真っすぐにたどれば、諏訪大社秋宮の門前を通り甲州街道が江戸へ続き、

中山道は直角に右に折れ、元脇本陣丸屋、旅籠だった「桔梗屋」の間を真っすぐに

笠取峠越えと向かいます。

歩き残していた難所、和田峠をなんとか超えることが出来て下諏訪宿へ到着し、

念願の「中山道歩き旅」を継なぐことが出来ました。

(PM5:25)

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すこし急ぎ足で駅へ向かいます。

予定の列車にも間に合い、下諏訪PM5:40発、

初めての中央線 特急あずさ30号乗車、PM9:20帰宅、旅を終えました。

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いや~登れました、下れました。歩き旅というより、登山旅でした!

下諏訪宿の先は、昨年11月に下諏訪を旅立ち、現在は木曽路を歩んでいます。

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おわり