歩いて再び京の都へ 旧中山道69次夫婦歩き旅  第30回 中津川宿~大井宿 後編

9月23日、PM2:20

右手に市境の標識が立ち、左手に「中山道 是より大井」と刻まれてた大きな
中山道碑が建てられてます。
中津川市茄子川から恵那市大井町に入り、江戸から336.9kmになるそうです。

からの続きです。

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市境を過ぎると道は再び登り坂になり、坂道は広久手坂と言うようです。

右手に石仏が見えてきました

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側に建つ案内板には「三面八臂馬頭観音像」とあり、大正14年(1925年)

長国寺悦音和尚が「旅人の道中安全と悪人と悪病を防ごうと」開眼供養したと

記されてました。

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右手土手に中山道広久手坂碑があり、右手に大きなグループホーム施設のある

広久手坂を上り詰めると、大きな栗の木が有って、道にゴロゴロ栗が落ちてます。

先ほどの馬頭観音にも沢山供えてあったのはここの栗かな?

東美濃は栗菓子が名物ですね、カミさんが仏壇に供えると、

 3個ほど拾わせていただきました)

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道は下りになり岡瀬坂と呼ばれる坂を下ります。

うわ!とカミさんが素っ頓狂な声を上げた廃屋。う~ん、床が抜けてるのかな?

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下り切ると左手に、大ヒノキの根方に石祠が二社祀られている社宮司が有ります。

宮司は土地の神の信仰で、木の神とされているそうです。

街道書では、ここの社宮司は近世はじめの土地調査(検地 という)に使用した、

尺杖 や水縄 を土地の神に謝し納めたところと伝えられている、とあります。

回りは大きく開けた田畑。この地を開墾終えて祀ったのでしょうね。

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宮司から約50mほど先に岡瀬沢交差点があり、横断した左手に大きな

永代燈があり、竿石には「ひだりあきばみち」と刻まれています。

ここから28里112kmの、遠州秋葉山への追分常夜燈で、並びに岡瀬澤碑が

あります、ここが岡瀬澤村の東口です。

秋葉山へは東海道を歩いた時に、寄り道してお参りしました)

街道書では、岡瀬沢は中山道の整備とともに発展した村で、中山道に沿った

約三十戸がその中心集落となり、茶屋や馬宿もできたといわれている。
この秋葉道は荷役用の牛が行き来していたところから、「うしみち「」と

呼ばれていた、と記されてます。

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岡瀬沢交差点を進むと左手奥にに富士浅間神社の鳥居が見えてます。

貞享二年(1685))の創建で岡瀬澤村の氏神、池に湧き出る霊泉は女性の病に

霊験あらたかと言われ、八月の例大祭には三河万歳の系統を引く七福万歳

恵那市文化財)が奉納されるそうです。

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富士浅間神社には立ち寄らず街道を進み、保古山山系に源を発する濁川

川の流れに対して斜めに架橋されているところから「筋違橋」と名の有る橋を

渡ります。

(筋違い?下手な写真だね~・・)

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橋を渡った左側に岡瀬澤と濁川についての標板が建っていました。

「みんなで川を守り、豊かな岡瀬澤地区を守って行きましょう」の趣旨でした。

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筋違橋から5,60m先に、左に入ると岡瀬沢観音堂参道口と記された杭が

建っていて、境内には石仏石塔があるそうですが寄りませんでした。

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街道情緒たっぷり、上り坂の集落を抜けてゆきます。

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左手に庚申塔があり、先の右手にも庚申塔があります。

岡瀬沢は庚申講が盛んだったそうで、今も講が開かれてるとか。

中山道道標を見送り坂道を行くと、

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 道(県道410号線)は左にカーブになって上り、右手に途切れていた中山道

 示すカラー舗装の道となり、分岐「甚平坂」についての案内板が建ってます。

左下には、草に埋もれて甚平坂の碑もありました。

案内板によると、

 坂の名前は鎌倉時代源頼朝の家臣で、東信濃小県郡禰津(今の長野県

 東御市 祢津)の豪族・根津甚平是行に由来するという。

 甚平は、妻とともに大井の長興寺に祈って子を授かった、とも記されてます。

カラー舗装道に入ると先は階段になっていて、上は根津甚平公園になっています。

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「甚平坂は短いが急坂で旅人は難儀した。 明治13年(1880)明治天皇
 通行に際し、村人総出で頂上を2m程掘り下げて、二頭立ての馬車を通した」
 との説が案内板に書かれてました。
 カミさんが、”こんな短い坂、歩けばいいのにね~”
 いやいや、昔の高貴な方々は外出には歩かないんだそうだ。
 何らかの乗り物で旅をする、と読んだことがあるよ。
 ”和宮の時は削ってないわよ”
 それは下りだったからかな、それに東美濃は勤皇思想の地域だから忖度?・・
 なんて、たわいないおしゃべりしながらベンチで足休め。

 正面の階段で甚平坂を上り詰めて見下ろすと、頂を2mも掘り下げてもこの傾斜。

 頂上付近に茶屋が造られていたといい、今は展望台がある公園になってます。

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 広重画の「大井宿」はここがモデルといわれ、摸写した碑もあります。

空気の澄んだ季節ならば、画にも描かれた「御嶽山」が左手奥に、

右手奥に「恵那山」が見えるそうで、眼を凝らしましたがザンネ~ンでした。

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甚平坂の階段を上る左手の県道側土手に、犬塚と馬塚の解説板が有り、

下に犬塚の石碑が有りますが、馬塚は・・・見当たりません。

(あとで確認したら県道の山側に有るのでした)

解説板には

「昔、信濃國の桔梗が原に八重羽のきじという化け鳥がいました、里人や旅人の

 命を奪いました。鎌倉幕府は根津甚平に化け鳥退治を命じ、甚平は馬に乗り、

 犬と鷹を連れ化け鳥を追い、この坂に追い詰めました。

 しかし馬はここで倒れ、犬と鷹はなおも追い続けたが犬も力尽きてしまった。

 そこで里人はこの坂に馬と犬の亡骸を葬ったといいます。」

なんとも遠くまで追い詰めたものですね・・

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甚平坂公園をでて、回り込んできた県道に再び合流し、先で道は下りになって

関戸地区へ入って行きます。

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 先の左手に祖霊社根津神社の石柱が建ち、もの凄い急石段を上ると、本殿裏の

 境内には、野津甚平の妻が建てたという供養塔、「関戸宝篋印塔」

岐阜県重要文化財)がありました。

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街道に戻ると、右手に蛇塚、馬頭観音などの甚平坂石仏群がありましたが

残念なが写真はピンボケ、アップはパス。f:id:hansui:20181002185450j:plain 坂を下って行くと左手に石柱だけが立っている「関戸の一里塚跡」があり、

江戸からは87番目になります。かっては北塚は榎、南塚は松が植えられていた

そうですが、大正の頃に取り壊されまったそうです。

右手の木は、消えかかった説明板に辛うじて榎木と読めます。

北塚ということですね。

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一里塚跡から200mくらい下ると、県道401に突き当たる手前に

中山道標識が有り街道は斜め左に入りますが、右手の段上に草の生い茂った

正善寺の境内?と思われる所が有り、「大井鬼子母尊神」碑と並んで、

大きな「明治天皇行在所御舊址・是より三丁」碑が建ってます。

碑の横書きには岩井慶隆邸と彫られいますから、

三丁先に明治天皇が寄りましたよ~、との案内石碑なんですね。

なんでこんな大きな碑をここに建てたんでしょうか??

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斜めに入る街道を下り県道401に突当り、左折して蓮華寺坂を下ると

左手の段上に石塔群があります。

右手の長石塔は高さは3.62mあるそうで、長国寺四世・丹山和尚が

村内安全を祈願し、延宝八年(1680)に建立したものです。

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石塔群から右にカーブしながら坂を下ると、中央高速道路に架かる恵那峡橋が

あり、橋の手前左に「中山道大井宿旅人の墓」と記された標柱が建ってます。

立ち寄りしませんでしたが、持参の史料には

「この墓には、北は秋田県、南は鹿児島県までの広い地域の人々が旅の途中に、

大井宿で亡くなった方が埋葬されている。ここには六十余基の墓がある。

主に男性(内武士五人)で、女性は四人。旅人の墓は近くの長国寺が守ってきた」

とあり、お墓の写真は資料より拝借。

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中央自動車道恵那峡橋で跨ぎます。今朝はここを走って恵那市へ入ったんです。

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渡ると直ぐの右側に菅原神社が鎮座しています。

江戸初期慶長年間(1596~1615)の創建で、いわずと知れた学問の

菅原道真を祀っています。

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境内入口脇に大井村内図が建てられていました。持参の街道書と見比べチェック。

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街道は県道410号から右手に分岐し、階段を下り上宿地区へ入って行きます。

恵那市内が大きく広がってます。

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階段を下りた右側に馬頭観音が祀られ、側に

「文政九年(1826年)建立、上宿八人の女講連中で建てる」との標柱が

 有りました。

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左手には大井宿案内絵図が建ち「上宿広場」と名地けられた小さな公園が

造られていて、トイレを備えた休憩棟が建ってました。

風紀問題がありトイレは夜間は閉鎖される、と会った地元の方が言ってました。

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大井宿の特徴、六つの桝形

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下る坂道は寺坂、「長国寺」への坂の意であるという。

右側に標石と上宿石仏石塔群が並んで建っていました。

案内板には、

馬頭観音庚申塔五輪塔、徳本名号碑、痰切(たんきり)地蔵、等

十五基が祀られています。地蔵一体の光背には「痰切」と刻まれている。

風邪をひいたらこの痰切地蔵を拝むと直ぐ治ると多くの参拝者が在ったと云う。

上宿地区の東外れに当たり、これらの石仏は宿内への悪霊の侵入を防いでいます」

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石仏石塔群を過ぎてすぐの右に、石段を上るとこちらも菅原神社への参道口の

ようです。

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おやこのマンホールの蓋は、丸い蓋の中に角型の二分割蓋?

四角く開くのかな?

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先に明知鉄道線の中津架道橋のガードが見え、道は用水を渡って下ります。

右手にパネルがあり、「水不足解消のため安永元年(1772)に引いた山本用水で、

大変な水不足で困っていたので東野の山本(阿木川ダム下)の阿木川から

5400mほどの長さの灌漑用水を引いた」・・・と記されてました。

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架道橋を潜った直ぐの左側に、高さ2.1mある享和3年(1803年)建立の

名号塔題目碑が建っていました。

案内板を読むと。

武州国(埼玉県)の新井長左衛門と云う人が,伊勢参りの帰途この大井宿に

泊った際に,母が病に罹り1カ月余りの闘病の後亡くなった。

その供養のため江戸の石工に頼んで建てた」との内容が書かれてました。

親孝行、有りきですね。

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持参街道書には記載が無かったので、 立ち寄ってはいませんが、

名号塔題目碑で左折して行くと、甚平坂の折に触れていた根津甚平が再興した

といわれる長国寺があり、西行法師の位牌などが祀られてるそうです。

次回、時間が有れば寄る予定です。

(写真は市資料より拝借) 

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 短いが急坂くだりの五妙坂となり・・

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坂の途中に 「高札場」が復元されている。

(元は40mほど戻った坂の上にあり,もっと大型のものであったと云う)

ここから大井宿へ入る東口(江戸方)になります。 

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大井宿について街道書では、

「江戸から87里30町8間,町並み6町30間。日本橋から46番目の宿場。

 江戸初期は幕府領であったが、元和元年(1615)から尾張藩領となり明治を

 迎えています。 交差する街道も多く、中山道の旅人だけでなく善光寺

 伊勢神宮などの参拝客や、商売で訪れる尾張商人や尾張に向かう木曽荷などで,

 美濃16宿中で随一の繁栄を誇った宿場である。

 人口:466人 家数:110軒 本陣:1軒 脇本陣:1軒 旅籠:41軒

 大井宿は枡形が6か所もあり、通常は城下町に築かれるものなので、幕府が
 大井に城を築こうとしていた、とする説もあるくらいです。
 宿は横町・本町・堅町・茶屋町・橋場という5町に分かれ、それぞれの町が

 枡形によって区切られている。 本陣門や当時の商家,宿役人の家など往時の

 面影が色濃く残っている。 宿の成立は古く,文禄年間(1593~96)

 には旅籠・伝馬もおかれていた」 とあります。

 

高札場跡から下ると上横橋があり、渡って約20m進むと右角に、本尊の薬師如来

行基の作といわれている「寿院横薬師が」あり、左折し(一番目の桝形)

ミスマッチ感の色の建物のある横町を、100m程で県道401号に突きあたる。

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突き当りが二つ目の桝形で、右手へと街道は続き本町となってゆき、桝形の

左手角の高塀をめぐらせた壮大な屋敷が「大井宿本陣」を勤めた林家です。 

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 「当時の本陣は間口約40m,奥行約40mの敷地を持ち、

  母屋部分(151坪)は残念ながら昭和22年の火災で焼失したが,

  幸い表門と、樹齢200余年の 老松が残り、かつての大井宿本陣の

  威信を漂わせている。表門の反りを持たせた瓦葺き屋根・破風板・小屋組み

  の細工や彫刻は,安土桃山 時代の様式伝えると言われています」

   と、 案内に有ります。
 松は平成8年に枯死してしまい惜しむ声が多く、翌年、当主によって姿かたちが

 よく似た2代目の松が移植されたそうです。

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 枡形を左折し、本陣裏へ回り込むと赤い鳥居があり内城稲荷の石柱が建ち

 奥に稲荷神社祀られていました。

戦国時代にかけて豪族の砦があった所で辺りは内城と呼ばれていた。

稲荷社の側に本陣林家の常用井戸があり、皇女和宮が当家にて 昼食を摂った

際に供され、和宮泉と呼ばれた井戸があった由。 

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 「本陣」の角を右折すると左側に大きな旧家があり、前の道路の側溝蓋が

 「中山道」になってます。

 通りは本町でしばらく行くと「3っ目の枡形」になります。

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 本陣から50mほど先左手に,紺の幟を掲げる「ひしや資料館」があります 。
 ここは江戸時代に屋号を「菱屋」と称し,享保年間(1716~35年)から

 幕末まで、約150年間大井村の庄屋を務めた「古山家」で、明治以降は郵便・

 銀行業務や俳諧など文化面にも積極的に活動したという。
 屋敷は間口10間半,奥行35間の敷地に8部屋と土蔵をもつ広大な建物が

 在った。 江戸時代の雰囲気を色濃く残している一部が資料館として開放されて

 いる。

(入館料大人200円)

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古山家の角、左手を行くと作並神社があるようで、小さな案内板が貼ってあります。

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街道書には、「本陣」から150m右手に「宿役人の家」とある。
文化2年(1805年),本陣より分家して以来明治に至るまで代々大井宿役人の

問屋役を務めた林家で、間口7間半,奥行25間,客室14部屋,特別室4部屋が

ある格式高い大型旅籠屋でもあった。

明治以降「戸長役場」としても使用されていた。
(ちなみに宿役人は,問屋・年寄・その下役人の人足指・馬指・書役などがあり

 幕府道中奉行の命を受け道中の荷駄や人の輸送・飛脚などの継立て事務を行う

 宿場の最も重要な役人であった)そうな。 

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向かいに、脇本陣高木家跡で下問屋を兼ねていたと、案内板があります。

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 明治天皇大井行在所跡、旅籠兼商家の元伊藤家(現岩井家)がありました。
明治13年(1880年)中山道巡幸の折に宿泊した奥座敷が、そのまま残され

てると云う。

石碑が二つ建ってるが、何故?

通って来た正善寺跡にあった石碑「明治天皇行在所御舊址是より三丁」は

ここを示していたんですね。

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右手に「町医者の家跡」のプレートだけ有る家が有りました。

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明治天皇行在所跡」から100m程先で「3っ目の枡形」となり右手に折れて

ゆきます。ここから先が「竪町となる。

角は旧「旅籠角屋」、現在は旅館「いち川」の看板が掲げられてます。

案内板には明治初年の角屋の写真が掲げられていて,「木曾路に多い出桁造り,

取り外しのできる格子戸がはまり,表には講札が沢山かけてある。

右手に特別な方の出入り口がある」と説明されている。

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 「堅町」のほぼ中央左手に豪壮な土壁の防火建築を残す「大井村庄屋古屋家」。

街道書には江戸時代は商業を営み庄屋を勤めた、と記されています。

重厚感のあるどっしりとした大屋敷ですね。

表札も「古屋」でしたので、今も子孫の方がお住いの様です。

(国会議員を勤めたかもいたそうです)

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簓子下見塀(ささらこしたみべい)の一部が外れて、土壁が見えてます。

「ずれた」のではなく、構造を見られるように、あえてずらした感じでしたね。

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 「堅町」の突き当たりが市神神社で、ここでまた左折する「四つ目の枡形」です。

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毎年正月七日に煙草市がたったといわれます。

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神社前を左折すると先が「茶屋町」。
街道書には、右手建物脇に「白木番所跡」とあるが見逃したようです。

100m程先で五つ目の枡形で右折すると、橋場町になります。

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橋場町を80mほど行くと「六つ目の枡形」で、本陣から本町を真っすぐ来る

道にぶつかり,街道は右に曲がって、阿木川に架かる大井橋の袂へと出て来ます。

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大井橋は、欄干の解説板によると、

再三洪水で流され架け替えられてるそうで、大正12年(1912)に永久橋に

架けかえられたがこれも昭和58年(1983)9月28日の豪雨で破壊。

その後新設された橋の欄干には、陶板にて広重「木曽街道69次の浮世絵」が

飾られています。

今日は祭りの為、PM5:00まで車は規制されてました。

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 大井橋は大井宿の西の口(京方)です。
 橋を渡ると,旧中野村,”東銀座”という商店街となり、およそ150mほどで

右手の「JR恵那駅」から延びる中央通り、<中央通り1丁目>交差点です。

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PM4:30 江戸より46番目、87里27町(約345Km)大井宿。

なんとも遠くへ来~たもんだ~・・・

「歩いて再び京の都へ」第30回目の旅は足止めとしました。

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中央通りは5時の交通規制解除を前に、祭りの店仕舞いで搬出車があふれ大わらわ。

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ホテルへ向かう途中の「中山道広重美術館」で「木曽海道六拾九次之内」の

企画展中でしたが、閉館の時間が迫っていたので残念ながら今回はパスでした。

恵那市在住の収集家・田中春雄氏から寄贈された、歌川広重の浮世絵版画などを

所蔵し、特に世界で十数点しか確認されていない、広重画「雨の中津川」があることで知られてます。

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翌、24日も薄曇りなれど晴れ。

帰路の途中に伊北ICで一旦高速を降りて、箕輪町の「赤そばの里」へ立ち寄り。

赤い絨毯を敷き詰めたようなソバ畑をしばし散策。

高速道の渋滞も有って予定より1時間半遅れで帰宅し、美濃路3宿の旅は

終わりでした。

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  「赤そばの里」のブログに記録、こちらです。

hansui.hatenadiary.jp

大井宿から先は、街道がJR中央線と離れるため、駐車場と街道への接続が

難しくなり宿の確保など、よく練った計画が必要になるようです。

 

元気なうちに歩ける内に、旅は続きます。

 

 

 

 

歩いて再び京の都へ 旧中山道69次夫婦歩き旅  第30回 中津川宿~大井宿 前編

*ひょいと歩き出した東海道五十三次
途中で、断念かの肝臓癌をなんとか乗り越えて、京の三条大橋へ到着。
勢いをかって「歩いて再び京の都へ」と乗り出した中山道六十九次
またまた腹部大動脈瘤、心臓動脈硬化、そしておまけに腹部ヘルニア。
挫折しそうになりながらもカミさんの支えもあって、またまた乗り越え
旅の再開。
そんな、じじばば道中ブログです*

9月17日、18日に所用がなくなり、天気もいいからと、

いつものように「じゃ、ゆくか!」で急遽の旅立ちをし、

美濃の国へ第一歩を印し、美濃路、2宿目の中津川宿到着。

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当初から旅への予定していた9月23日、24日も、天気が良さそうで。

予定道理に旅立ちです。

彼岸の墓参りは22日に済ませて、

23日、いつものように早朝に出立し、マイカーを走らせAM8:50、

岐阜県恵那市のホテル着。

車だけ駐車させてもらい、恵那の駅から電車で中津川へ向かいます。

恵那市は、22日(土)23日(日)と実りの秋を楽しむ恵那市の一大イベント

「みのじのみのり祭り」の真っ最中。駅までのメインどおりははビッチリと

露店が並び、広場広場はいろんなイベント会場となり、大勢の人が準備で大賑わい。

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夕刻にたどり着く予定の恵那市(大井宿)を後に、電車で出発地の中津川市

向かいます。

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恵那駅でも大勢降りましたが、電車はそれでもほぼ満員状態。

津川駅へ着くと、ど~っとほとんどの方が下車!

えっ、まさか馬籠、妻籠への観光客??それにしては若者ばかりだね??

聞いてみると、かっては東京武道館で開催され、今は中津川公園内特設ステージ

に移って開催される、3,4万人くらい集まるという大ロックフェスティバルへ

向かう人波でした。

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 前回足止の中津川橋の袂へやってきました。

広重画 中津川宿・中津川橋f:id:hansui:20180929052714j:plain

9月23日(秋分の日)AM10:30、

あらためて出立ショットから、第30回目の旅のスタートです。

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雲多けれど青空も広し。気温は高め予報ですので夏日姿。

やはり秋、吹く風の心地よさで今日もいい旅になりそうです。

中津川を中津川橋の歩道橋で渡ります。

中津川は恵那山に源を発し、下流で四ツ目川を合し、流末は木曽川に落合います。

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中津川橋を渡ると右・柳町、左・駒場町(こまんば)に入ります。

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緩やかな上り坂を進むとY字路に突き当たり左の坂道へに進みます、

右は駒場村の鎮守津島神社への参道です。

この分岐点には津島神社道道標と歴史の道青色道標「←中山道↓」があります。

上り坂の右手段上の竹林下に彼岸花彩られて、石塔群があります。

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 右から明治37年(1904年)建立の馬頭観世音文字塔、

文化12年(1815年)建立の奉納西國巡拝供養塔、文化三年(1806年)

建立の馬頭観音文字塔、南無阿弥陀佛名号碑が並んでいます。

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 坂道を上り切ると駒場(こまんば)の集落をすすみます。大きく左に曲がった先で

Y字路となり、街道は右手に進みます。

この分岐点には青色歴史の道道標「↓中山道→」がありました。

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右折して100m程左手に高札場を示す石柱が建ち、屋の板壁に高札3枚が

復元掲げられています。駒場村の高札場跡でした。

う~ん、なんて書いてあるのかな~??カミさんと判読をこころみましたが・・

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緩やかな上り坂を進みます。ハイハイ、右見て左見て、もう一度右を見てね・・

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 次いで右手にいろいろ趣向を凝らした小庭造りがあり、

右端に東山道自然石道標が建ってます。

「左 大井駅(おおいのうまや)/坂本駅/右 阿智駅」とあります。

駒場村は古代の道、東山道坂本駅があった場所と推測されているそうです。

ここから西へ向かえば大井駅、東は神坂峠を越えて阿智駅へ至る。

しかし、坂本駅の位置については諸説あって、その場所は特定できていない

とも言われてるようです。

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街道書には左手に、中山道自然石道標「左 江戸/右 京都」と有ったのですが、

見落としたようです。あとですらべ手見ると蔓性の木に覆い隠されていたようです。

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 次いで左手に中山道駒場村自然石道標「左 中津川宿/右 大井宿」があります。

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 前川を上宿橋で渡ると、正面にこんもりとした小手の木坂が立ち塞がっています。

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正面に着くと、左りの石段、その下に草道を上る道に分岐し、小手ノ木坂石碑と

白板の解説パネルが建てられていました。

パネル解説では、左手に上る道は小手ノ木坂(コデノキサカ)といい、

坂の上に大きな「こでの木」があったからの由ですが、

カミさんが、どんな木かしら??、う~ん、判らん!

石段下の草道を登ります。

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 旧道を上るとスグに車道に突き当たり、横断して左上に行く石階段を上ります。

石段を上ったら、Uターンする感じで車道を右方向に進みます

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Uターンして車道を進むと正面に石仏石塔群ののある分岐、

苗木道追分に出てきます。

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そのまま直進する道筋は苗木道で、遠山佐渡守一万三千石苗木藩の苗木城下に

通じるそうです。苗木城は木曽川右岸に聳える城山に築城されていました。

追分にの右手には、道標「右中山道/左苗木道」、

道標「こでの木坂/左ひだみち」、そして津島神社常夜燈があります。

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中山道は追分を左折してゆきます。

右手、小高い土手上に、曼殊沙華咲く石仏石塔群があります。

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一角に双体一身道祖神の石柱が建ち、文化13年(1816年)建立の

双頭一身道祖神が祀られてます。

カミさんは一体ではなく「しっかり抱擁道祖神」の気がするわ!ての賜った。

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先に進むと右手に上宿の一里塚は、江戸日本橋から85里目(約334km)。

南側の塚は消滅し、北塚が規模を縮小して昭和9年(1934年)の復元。

塚上に立つ石柱には「史蹟 中津一里塚址」と刻まれている。

塚の前(右端)には明治天皇御鳳輦前駆奉仕蹟碑があります。

小手の木坂は急峻で明治13年(1880)明治天皇の巡幸の際、駒場村の

青年達が待ち構え、懸命に馬車の先引きを行って通過させた由。

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  一里塚の傍らに祠があり、地蔵尊が安置されています。

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台上の駒場村上宿集落を行くと、左側にトイレも備えた上宿休憩所があります。

寄りませんでしたが、こうゆう施設は今旅人には有りがたいですね。

中津川宿内の旧中山道はほとんどがカラー砂利が混じった舗装になっているので、

街道ウォーカーにとって道を間違えることがないので助かります。

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カミさんが、右の実を見つけて、♬この~実、なんの実、気になる実~♭

ハイハイ、宿題だね・・

オキナワスズメウリでした。秋深まると真っ赤になるんだとか)

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左右に大きくうねる急な上り坂を進みます。

 上り坂が緩やかになると幅員の広い車道を横断します。

先にコンビニが有ったようですが、建物のみ(白い建物)

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元コンビニ前、左手に小石塚の立場跡(石柱)があります、。

この地は山村甚兵衛等木曽衆の領地であった千旦林村(せんだばやし)と手金野村

との境に位置し、数軒の茶屋があり、恋し塚立場とも呼ばれていたそうでっす。 

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 向かい側に、寛永3年(1626年)建立の嵐讃岐(あらしさぬき)供養碑が

あります。嵐讃岐は木曽家の有力武将の一人で、千旦林に居を構え、千旦林八幡宮

の再建に尽力した人、とパネルに記されてます。

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中山道は、先の国道257号線、国道19号線、中央自動車道の敷設で消滅して

います。

中山道案内解説横の階段を下り、千旦林地域へ入って行きます。 

左右からくる国道19号と257号が合流の手前に出て、

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 国道257号線を横断歩道で横断して、国道257号線の歩道を左に進み、

JR中央本線の踏切を右に見て、国道9号とJR中央線に挟まれた道を行きます。

先の歩道橋を過ぎると線路沿いに右手に曲がって、中央高速インターの下を

回り込む道を行く、と街道書に有ります。

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 バイパス脇の出たところで、遠く先に食事処らしい看板が見えてました。

デジカメで拡大してみたら、チェーン店の牛丼店でした。

カミさんが、お腹が空いた~て言ってたので、少し早めですが立ち寄ることに。

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何軒か店があるようなので、国道バイパスの向こう側へ行ける抜け道が

あるだろう、と、インターチェンジ下の道を回り込むと、消滅していた旧中山道

復帰した付近で、国道バイパスを向う側へ抜けるトンネル有りました。

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牛丼店で昼を摂るのは中山道旅では初めてではないかな?

大盛りを頼んでいた体格のいい若者が居ましたが、そのおおきさにビックリです。

ゆうに2倍以上は有りましたね。牛肉がどんぶりからこぼれんばかりでした。

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12時20分、昼食を済ませ、またトンネルを抜けて旧街道に戻ります。

街道角にあった道案内板(青線を道が中山道、右手に現在地)

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千旦林地域の集落を進み、木曽川水系の六地蔵川を六地蔵橋で渡ると、

おっ、ハナノキとシデコブシ

中津川「岩屋堂シデコブシ群生地」、国指定天然記念物「坂本ハナノキ自生地」が

あるそうです。ハナノキて見たことないな~です。

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右手の板塀先に、明暦3年(1657)の建立と言われる、六面に地蔵が

六体刻まれた石灯籠の形をした、六地蔵石幢(せきどう)があります。

その傍らには 宝永六年(1709)建立の南無阿弥陀佛名号碑も建ってます。

六道を巡って衆生を救い、極楽往生へと導いてくれます、中山道を行き交う旅人が

道中の安全を祈り、心の安らぎを得ました。

どこかでも見たな・・と記録を辿ってみたら、六地蔵石幢は中山道を歩き始めた

初期のころ、武州・浦和宿(埼玉)の真言宗豊山派の尼寺「成就院」で見たことが

ありましたね。

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 しばらく千旦林集落を進みます。

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バス停先の右手に式内坂本神社八幡宮の参道口があります。

明治6年(1873)開校、松風義校(後の千旦林学校)跡、が有るそうです。

大宝2年(702)創建の古社で、天平2年(737)八幡宮が勧請され、

後に、先に供養碑のあった、嵐讃岐が再建に尽力したと言われる神社ですね。 

本殿は参道を進み、JR中央本線を横断した250mほど奥に鎮座しており、

頭を傾けて通過です。

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 次いで右手に千旦林村の高札場跡(石柱)があります、千旦林村は立場で

この辺りは札の辻と呼ばれたそうです。

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先に進むと左手の民家前に秋葉大権現常夜燈と小さな秋葉神社が祀られています。

高札場から230m、東巣川に架かる東巣橋を渡ると、

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左手に如意輪観音像と三面六臂馬頭観音像が祀られています。

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馬頭観音から約240m歩くと、Y字路分岐となり、街道は左方向に進みます。 

この分岐点には手差し道標左「旧国道 大井町ニ至ル」、

右「新国道(現在市道美乃坂本駅ニ至ル」があります。

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街道の正面に、笠を置いたように見えるところからに由来する、

笠置山(かさぎ、標高1128m)が遠望出来ます。美濃路に入り、

進み行く先にけっこう目立って見えている山です。

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 田園風景の中を進み、右手に常夜燈が見えてきます。

弘化三年(1846)建立といわれる秋葉山常夜燈で、竿石には「秋葉大権現」、

「常夜燈」、「町内安全」と刻まれているそうです。

先へ進むと、常夜燈は右手に伸びる道端に建ってました。

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 鮮やかな色合いの植え込みを楽しみながら・・、

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秋葉山常夜燈から約50mほど行くと、街道脇左に「弘法大師七十七番」の石碑が

建ち、草道を進むと段上に中平弘法堂があり、祠の中に石造弘法大師坐像が

二体安置されています。

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太子堂から200m程、緩やかな上り坂を進むと左手に中平神明神社案内板が

建てられ、草道の参道を登った森の中に神明神社、他に津島神社と妙見社が祀ら

れているようです。神明神社は坂本神社八幡宮境内社だったとか。

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先に進むと下り坂になり、右手の段上に地蔵と石塔が祀られています。

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 再び上り坂になると右手に将監塚のパネルが建ってます。

大久保長安の後を継いで慶長18年(1613)より18年間美濃代官を勤めた

岡田将監善同の墓だそうですがどれが、塚であるのかは判りませんでした。

当時大井村には名古屋築城の際の材木番所が設置され、木曽材持出奉行として

当地に駐在していましたそうです。

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将監塚から約200m強ほど緩い坂道を上ると、右手に三ツ家の一里塚跡の

石柱のみが建っていて、遺構は残されていません。

江戸日本橋より数えて86番目です。

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一里塚跡の先で2車線道と交差し、街道書では千旦林横断地下歩道で車道を

横断するとなっていましたが、交通量も少なかったので車道を横断して進みました。

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横断して道を下り再び急な上り坂を進むと、右手の石の祠の中に

三面六臂馬頭観音像が安置されています。 

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 さらに急坂を上ります。

美濃路に入ると短いですがアップダウンの連続です。

木曽路の比ではありませんね。

上り詰めると十字路に出て、街道書では手前に「馬の水飲池」と記されてるが、

見た目池らしいのが見当たりません。

左手を覗いていたカミさんが「水が見えるからここね」て。

すっかり水草などに覆われていた中に、確かに水が有りましたね。

池脇に歴史の道道標「←中山道→」があり、馬のマークが書かれてます。

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十字路を右手に行くとJR中央本線美乃坂本駅へ出ます。

街道は十字路を横断し、右手に坂本立場跡で石柱が建ってます。

千旦林村と茄子川村の境界だった場所で5軒の茶屋があったそうで、古くは東山道

の宿駅だったそうです。

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立場跡から可成り急な坂本坂を下っていくと、左手に綺麗に並べられた石塔群が

現れます。ガードを潜ってさらに下って行とと、

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くぐった先で街道は坂本川に突き当たり、ここを左折しさらにすぐ右折して、

坂本橋を渡り旧茄子川村に入って行きます。

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橋を渡ると右手のちびっこ広場に、坂本観音様由来碑が建ち、奥に坂本観音堂

あり、延享二年(1745)建立の馬頭観音が安置されています。

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いい雰囲気を感じる、茄子川の集落に足を進めてゆきます。

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ゆるく登り坂道を行くと分岐となり、分岐左手段上に茄子川村の高札場跡(石柱)

があり、茄子川(なすびがわ)村の東口です。

昔、この地の殿様が亡くなると鳴り物禁止の触れが出ました、

村人は鳴り物と生り物を勘違いし、収穫間近の茄子を川に捨ててしまった

といいます。これが地名の由来となりました。

落語みたいな由来が資料に有りました。

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村内を進むと右手の田の前に尾州白木改番所跡(石柱)があります、木曽産の

白木材の抜荷を厳しく取り締まりました、明治四年(1871)廃藩置県

措置によって番所は廃止されました。

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  千旦林川を渡ると、左手の所に長連寺薬師堂解説があります。

この辺りに織田信長の家臣森蘭丸天正十年(1582)岩村城主になった際に

建立した薬師堂がありましたが後の兵火で焼失しました、と案内板にありました。。

f:id:hansui:20180930212346j:plain大井宿から1里(約4km)、中津川宿から1里23町(約6km)の地点にあったので、

茄子川村は間の宿として、茶屋本陣がありました。

少し行くと左手に、茄子川茶屋本陣篠原家があります、

篠原家は加賀前田家の重臣篠原一孝の子弥右衛門が十七世紀の初め頃、当地に移り

住んだことに由来し、酒造業を営み、参勤交代の大名の休息所も勤めてきました。

篠原家の当主は代々長八郎を名乗り、茄子川村の村方役人、尾張藩の庄屋、戸長等

を歴代にわたり勤めたそうです。 

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 建物前に明治天皇茄子川御小休所附御膳水碑があり、皇女和宮明治天皇

休息した部屋、厠(かわや)、表門等は当時のままに保存されているそうです。

茶屋本陣脇が中山道から遠州秋葉道への追分です。

追分の両側には秋葉大権現常夜燈があります。

手前の常夜燈は享和三年(1803年)、向いの常夜燈は安永五年(1776年)

の建立で、「是よりあきはみち」と刻まれています。

秋葉大権現は、いわずと知れた火伏火防の守護神です。

 

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 先に進むと左手の畑の前に歴史の道中山道茄子川解説があります。

江戸時代初期の茄子川村は、御三家筆頭の尾張徳川家給人の山村氏(木曽方)、

千村氏(久々利方)、それに旗本馬場氏ら八名の入相支配地であり、

村高1368石余はこの付近では大きな村の一つでした。

名産の茄子川焼は天正6年(1587)の頃から始まりといわれ、飯田方面から

物資を運んできた帰り馬が茄子川焼を信州に運び人気を博しました。

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スグ先の十字路を直進します、この十字路には道標標識「←この道は中山道→」

があります。

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ここから先は上り坂の里路を、しばらく心地よい秋風を受けながら足を運びます。

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道路は古い家並みを抜けて、上り道となり、

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民家の庭先の地蔵尊をなどを観ながら 田んぼの広がる道を抜けてゆくと、

左手に江戸時代から陶磁器の生産をしていた茄子川焼窯場跡が有りました。

中山道道標と茄子川焼解説パネルが建っています。

標板には「茄子川焼は天正10(1578)年頃、瀬戸の加藤吉右衛門が諏訪の前窯場に来て、施釉陶器を焼いたのが始まりで、木曽飯田方面からの帰り馬が茄子川焼を信州に運び人気を博した」と記されていました。

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 坂を下り、左右に実りの田園が広がります。

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右手に市境の標識が立ち、左手に「中山道 是より大井」と刻まれてた大きな

中山道碑が建てられてます。

中津川市茄子川から恵那市大井町に入り、江戸から336.9kmになるそうです。

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続きます。

 

 

 

歩いて再び京の都へ 旧中山道69次夫婦歩き旅  第29回 馬籠~落合宿~中津川宿 後編

 転がるが如く下り、三五沢を三五沢橋で渡ります。
 三五沢は落合と中津川の境川で、地名も中津川となってきます。

続きです・・

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三五沢橋を渡ると上りの坂道となって、100mほどをゆるゆる坂を上って

行くと、左手斜面に子野の一里塚跡碑石柱が建ち、わずかに盛り上がった東塚痕跡

を残しています。江戸日本橋より数えて八十四里目です。

道路脇に建てられる案内板には英語表記のみとなってるの何故?

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一里塚跡から、槙坂(まきさか)と言う急勾配の坂をふうふう登ると、

坂の途中左手に案内板はここも英文表記のみで、年号不詳(元禄8年ともいわ

れる)馬頭観音が建ってます。

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ようやく槇坂を上り切ると右手に、天明5年(1785年)木曽御嶽を開くため、

覚明行者が中山道を通り、ここにあった茶屋に泊ったを記念して「覚明霊神」を

祀った御嶽神社があり、その際に残した金剛杖、湯呑、数珠等を祀っているそうです。
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f:id:hansui:20180926175345j:plain 御嶽神社先は、こんどは曲がりくねった急な下り坂になり、左手の森の中には

子野地区の守り神、神明神社が祀られてます。遠望の街並みは中津川ですね。

だいぶ気温が上がり、汗ばむ肌に吹き上げてくる風が心地よい。

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坂の左手にはJR中津川駅 2.0kmの中北道標があり、トイレもある休憩所の

快心庵がありました。

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ようやく坂を下り切ると子野川の橋の袂へ下りてきます。

子野川の橋手前に駐車場やベンチの有る広場があり、右手下に「子供たちが大人に

なってここに住みたいと思ってくれれば良いと思います」との願いで

「子野区ふるさとを守る会」が子供を含め区民で管理している、ホタルの舞う

小川の流れる野原が広がっていて、5月末~6月にかけて源氏ボタルが舞うそうです。

馬籠宿でも蛍が観られる、てポスターがあった、とカミさんが思い出しました。

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あっ、””このはし”を渡れね!、てカミさんが面白がった「子野橋」を渡ると、

道は再び上り坂になり、秋の花や実を楽しみながら足を進めます。

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もう午後の3時ちかくですが、ルコウソウがまだ綺麗に咲いてます。

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先に進むと、なんとも見事な枝垂れ桜の大木が、街道を覆っています。

樹齢は350年以上と言われてるようです。

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枝垂れ桜の下は小野の地蔵堂があった跡で、多くの石仏石塔が有ります。

中山道沿いの無縁の石仏などが集められた、と言い伝えられてるとか。

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文政5年(1822年)建立の徳本名号碑「南無阿弥陀仏」(写真右)があり、

元禄7年(1694年)建立の庚申塔地蔵尊、観音像等など等、

多くの石仏石塔がが祀られ、和英文の解説板も建ってます。

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見事な高野槙の巨木も立ってます。

春の桜の季節に、通ってみたいところですね。

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 地蔵堂川を地蔵堂橋で渡り、一旦左に進み、一本目を右にヘアピン状に回り

込み上り坂を進みます。

この分岐点などにはには中山道案内があり、迷うことはないですね。
急坂を上り詰めると、街道は国道19号線に寸断され、右手にある中山道地下道で

国道を横断します。

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中山道地下道を抜け地上に出ると、左側に中山道石碑と解説パネルが建ち、

先をカラー石材舗装に沿って右折し緩い坂を下ります。

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足を進める集落は、寛政7年(1795年)には、石高67石余りの小村で、

家数18戸、人口85人と記録の有る里村らしい佇まいの上金村に入り、

単独行の若い外国女性がスタスタと追い抜いてゆきました。

旧上金村は立場で有ったそうです。

左側に自然石道標を見送り、先に進むと左手に文政6年(1823)建立の

秋葉大権現常夜燈があり、傍らに廿三夜塔が祀られています。

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その先で上金の台地に出、水路脇に平成21年8月と記された「上金メダカの池」

の案内板と、男女双体道祖神がありました。

水草生い茂る小さな池は有りましたが、メダカはいたのかな?

東美濃地方にはメダカは生息していない、とかの説が有ったようですが、

関係があるのかな?? なにかの記念でしょうか。

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ここにも、上り坂を進むと右手に尾州白木改番所跡(石柱)があります。

天明2年(1782)与坂から移設され、木曽から搬出される材木を厳しく

監視しましたが、番所は明治4年(1871)に廃止されました。

尾張藩の木曽材の重要視が良く判りますね。

側に、かなり枝打ちされた大木が有り、サザンカでは?とカミさんが言った通り、

後で調べると、ピンクの花を咲かせるサザンカでした。

冬の季節になると遠くからでもピンクの花が見れるそうです。

(写真では1本に見えますが、紅白2本のサザンカ、と記された旅記もあります)

隣りに平成17年建立の中山道碑がありました(左下)。

17年とは、馬籠の越県合併と関係あるのかな?

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中山道碑から茶屋坂と呼ばれる上り坂を100m程進むと、坂の頂で左手には

中北自然遊歩道の大きな案内板が建ち、旭ケ丘公園があります。

赤い鳥居が建ち伏見稲荷が祀られてます。

公園への正門は別のところなのか、公園の案内板などは見ませんでしたね。

後で見た資料では天満宮なども祀られてるそうです。

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公園道沿いに安永八年(1779)建立の経王書写塔(きょうおうしょしゃとう)

があります。

台石の下に法華経の経文を一字づつ一寸(約3cm)の丸い小石三百六十個に墨で

書いたものが納めてあるようで、文盲の者や旅人が祈願したと街道書にありました。

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公園から右手に茶屋坂と呼ばれる坂を下ると、ガードレールの切れ目から

Uターンで左手に石畳の細い急坂が下ってます。

曲がりに安永二年(1772)建立の芭蕉句碑(すみれ塚)があります。

  「山路来て 何や羅遊(らゆ)かし 寿み連(すみれ)草」

芭蕉の八十回忌記念に建碑されたもので、碑の傍らには三面六臂馬頭観音像、

庚申塔もあります。右手の石垣上は県立中津高校でした。

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街道書には「三面六臂馬頭観音像」と記されてます。

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 芭蕉句碑前から石畳道を下ると、折り返しに右へ曲る所に間元矩(はざまもとのり)碑があります。解説パネルによると、中津川の初代町長を勤めた方の顕彰碑です。

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碑からもさらに右手に、Uターン状に石畳の急坂を下ると車道に突当り、

またヘアピン状に左折しさらに下り、旭ケ丘歩道橋で旧国道のバス通りを横断します。

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歩道橋には旭ヶ丘公園から市街地へ入る、中山道案内板があります。

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歩道橋を渡りUターン状に右手へ坂をくだり、左手に同じ標識の有る石階段を

下ると茶屋坂は終わりです。

逆の京方面からの東下りだと、かなりの上り急坂だったでしょうね。

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石段を下ったところには、文化3年(1806年)の中山道中津川宿絵図や

中津川宿解説パネルが建ち、復元された高札場(跡)があり、中津川宿の

江戸口に到着です。 

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中津川宿は江戸より85里9町334.8km、45番目の宿場町。

元の高札場の位置は、ここより約10m程坂を上った北側にあり、

街道に面して建てられていました。

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 街道書によれば、
「中津川宿は、北に苗木(なえぎ)城下、東に木曽の宿並を控え、物資の集散地

 とし て栄え、三と八の付く日に六斎市が立ち、東濃の中心地として大いに賑

 わいました。宿長は十町七間(約1.0km)で、宿並は江戸方より淀川町、

 新町、本町、 横町、下町で構成され、宿場機能は本町に集中していました。
 天保14年(1843)の中山道宿村大概帳によれば、中津川宿の宿内家数は
 228軒、うち本陣1、脇本陣1、旅籠29軒で、宿内人口は928人でした」

 と記載されてます。

高札場の並びに常夜燈、文化2年(1805年)建立の庚申塔

天保6年(1835年)建立の二十三夜搭が並んでいます。

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高札場跡から 淀川町を進み中津川宿の中心街へ入ります。

中津川市史には、

「道は淀川町で小淀川と淀川を越すが、駅前通りの改修で川の流れも見え橋も

 あった 淀川は道の中へ埋められてしまった。新町通りと緑町線と交わるす

 ぐ東に淀川に掛かる橋があったが今はない」 とあります。 

写真左下、貸店舗の札の下った蔵造りは、以前は肥料などの商店だったそうです。

いまはあまり見かけなくなった、下見板張りになってますね。

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街道らしい細めの一方通行道を、向かってくる車に注意しながら300m程行くと

新町交差点で、右に行くとJR中央本線津川駅

街道は交差点を渡り、一方通行出口になるところから新町で、宿場の中心部へ

入ります。

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左手に「すや」があります。

元禄年間(1688~1703)創業の元は酢屋でした。

7代目から御菓子屋、8代目が栗きんとんを始めたという栗きんとんの老舗です。

中津川は栗きんとん発祥の地といわれています。

 

中津川の「すや」紹介文を長いですが記します。

美濃中津川、町の中を旧中山道が通っている。
木曽路の入口にあたる古い宿場町である。
中津川の町は、町のどこを歩いても恵那山が見える。2191mのこの秀麗な山は、

美濃と信濃とを分ける分水嶺だ。
この山の上に、刷毛で刷いたような雲が流れると、美濃路のはてに秋がはじまる。
幾筋も波打つように横たわる丘陵には、野萩が紅い花をつけ、やわらかな芒の穂が

風にそよぐ。
そして広大な恵那山麓のいたるところに栗の毬が笑みほころびはじめ、
中津川新町の古い菓舗“すや”に、一年のうちでもっとも忙しい季節がめぐってくる

のである。
良寛の書から拾ったという「すや」の二文字、その木曽けやきの大看板を掲げる

この店は、中津川でも、一、二の旧家として知られる家だ。
栗きんとんの箱に貼られている版画風の絵は、わらぶきの茶店を描いているが、
建物はそんな姿で江戸後期の宝暦頃から、中山道に面して立っていた。

創業は元禄年間。
江戸から下ってきた赤井九蔵という武士が、この宿場町に住みつき、「十八屋」の

屋号で酢の店を開いた。その人が“すや”の初代である。

中津川宿の酢は、中山道でも有名だったらしく、享和二年(1802)に、

中山道を大阪から江戸へ下っていった大田南畝は、この宿場に酢をひさぐ「

十八屋」があることを、『壬戌紀行(じんじゅうきこう)』の中に書き留めている。
“すや”の現在の建物は、南畝が通ったときすでに建っていたわけだが、
彼も、この酢屋が百年後に菓子屋に変わろうとは思ってもみなかったことだろう。

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中津川宿の名物「栗きんとん」は、栗の季節ものですが、
おせちに出てくる「栗きんとん」とは少し違いますね。
説明文によれば、
「栗きんとんは、蒸した栗をタテ割りにして、
竹べらで実をほじくり出す。
それをつぶして少量の砂糖を加えながら煮る。
煮あがったのを、茶巾渋りにする。
名物に美味い物・・・あった!のいい味でした。

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栗赤飯も江戸時代の名物だったことが書かれた資料もありました。

 

向いの愛知銀行前に、近代日本画壇の重鎮で、法隆寺壁画修復や高松塚古墳壁画

の模写等を手懸けた、当地出身の前田青邨画伯誕生之地碑が有る、と街道書に

ありますが通り過ぎてしまったようですので、パンフより拝借。

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向かい側に有ったこのオブジェはなにかな??

岩山、滝?茅葺屋根の家、小川、橋、 題名はなかったよね・・

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先の左手小路角に「桂小五郎隠れ家跡」への標識が有り、小路の奥に

隠家「料亭やけ山跡」があります。
文久2年(1862)、幕吏に追われる長州藩桂小五郎木戸孝允)は

平田門人、間秀矩の手引きで料亭やけ山に身を隠し、京に向かう長州藩主毛利慶親

をここで待ち受け、藩主を説得し公武合体から尊皇攘夷に藩論を変更させ、

倒幕への道を突き進むこととなり、史料ではこれを中津川会議という」と

案内板にあります。

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先に進むと左手の中津川郵便局の並びの奥に、「明治以降の近代的工法と従来の

土蔵造りが混在」しているという、「間家、大正の蔵」があります。

市の史料などの記載などによると、

大正6年(1917年)頃築の鉄筋コンクリート造りで、市有形文化財です。

江戸時代から東美濃随一の豪商と言われ、尾張徳川家御用商人を勤めた

間杢右衛門の屋敷跡である。

間家のもともとの祖先は、京極家に仕えた近江の武士の家系で、関が原の戦いでは

大津城にいたために落城して、兄矩久、弟矩定は母の縁で美濃に落ちのびた。
 関が原後は、兄矩久は京極家に帰参し、弟矩定が武士を捨て中津川に落ち着き、

杢右衛門と名乗った。彼は醸造技術を持っていたので、清い水のある中津を選んだ

ともいわれる。
兄矩久の間家本家筋は、後に赤穂藩へ仕え、子孫の間善衛光延は息子二人と

ともに忠臣蔵四十七士に加わったため、間本家は途絶えた。

左のビルは郵便局で、かっては郵便局の敷地も含めた約1000坪ちかく有った由。

間杢右衛門の5代目に当たる方が、小説『夜明け前』の登場してるそうです。

前に顕彰碑の有った初代中津川町長も一族なんでしょうね。

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次いで右手に江戸時代を模したミニチアセット造りの休憩所、往来庭があります。

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恵那山に源を発し、流末は木曽川に落合う四ツ目川を、四ツ目川橋で渡り、

新町から本町へ入ります。

橋上には石灯篭が並び、街道感を演出しています。

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振り返り、歩んできた日の丸の揚がった新町の街並み、今日は敬老の日ですね

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渡りながら眺めた蔵のある家

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橋を渡ると中津川宿の中心、本町に入ります。

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NTTビルの一部を借用した 中山道歴史資料館(有料)があり、中津川市の重要な

古文書・公文書等を所蔵、展示しています。

資料館の左手に中津川宿脇本陣跡石柱があり、「脇本陣はここから右(西方)

約20mの所にありました」との張り紙があります。

資料館の南裏の脇本陣跡には、現在「脇本陣上段の間」が復元されていて、
脇本陣は、建坪128坪で代々森家が務めていた由。

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街道に戻ると資料館の向いに、中津川宿本陣跡石柱が建っていて、今は駐車場に

なっている。

代々、市岡長右衛門が本陣を勤め問屋を兼ね、かって本陣の入口には五軒続きの

長屋が建ち、その中央の一軒分が 門となっていた。

門右手の一軒分は問屋場で、門をくぐると 裏庭があり、その奥に建坪283坪の

本陣があったそうです。

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本陣跡の向かい角の「卯建(うだつ)」がある建物は、江戸時代は中津川村の

大庄屋を勤めた肥田家が所有していた中津川村大庄屋居宅跡。

中津川村は七つに分かれ、それぞれの郷村には小庄屋がおかれ、それを総括する

大庄屋がありました。

肥田家は代々「九郎兵衛」と名乗り、屋号は田丸屋といい、島崎藤村

「夜明け前」には小野三郎兵衛として登場しているそうです。

江戸後期からは旅籠を営み、一時期脇本陣を勤めたところから上段の間を今に

残しているそうです。

明治30年代になると曽我家がこの建物を譲り受け、中津川で最初に開業した医院と

なったそうです。

史料にある解説文。

【 旧肥田家住宅 】-肥田家の祖とされる肥田玄蕃は美濃の土豪であった明智家の家臣で、玄蕃の子供される肥田帯刀則家は織田信長に従った明智光秀の小姓などを歴任し、天王山となった山崎の戦にも従軍しています。その後の則家の消息は不詳ですが(討死?)、正室は嫡男三右衛門と共に中津川の地に土着、帰農し、江戸時代に入り中山道が開削され中津川宿が整備されると、実力者として宿場の上役を歴任しています。肥田家は屋号「田丸屋」を掲げ、旅籠を営む一方で江戸時代中期の享保3年(1718)から宿場制度が廃止となった明治5年(1872)まで中津川宿の庄屋を歴任しました。中津川宿の支配層として教養が高い当主を輩出し、特に10代当主肥田九印兵衛通光は俳諧や絵画を門人に教える一方で、平田篤胤の教えに傾倒し有力な門人の一人でもあります。平田篤胤の教えは天皇を強く意識させるものだった事から、必然的に倒幕思想が芽生え、幕府から追われた倒幕の活動家を密かに支援をしていました。中津川宿の本陣職を担った市岡殷政や、豪商と知られる間秀矩なども同様に平田派の教養人だった事から、元治元年(1864)に水戸天狗党が中津川宿を通過した際にも、宿場を挙げて歓待したと伝えられています。現在の主屋は江戸中期の建物で、木造2階建、切妻、桟瓦葺(下屋庇:鉄板葺)、平入、2階正面は1階から構造材を持ち出し外壁を支える出桁造り、2階正面両側には本ウダツ、外壁は真壁造り黒漆喰仕上げ(外壁側面は下見板張り縦押縁押え)、当時の大型町屋建築の遺構として貴重な事から中津川市指定文化財に指定されています。 

 

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街道は正面で左手に曲がる枡形で、横町に入ります。

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この横町は火災から免れた為に、往時の面影を色濃く残しています。

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右手に川上屋があります、元治元年(1864)創業の栗菓子の老舗で、店前には

木曽路道標があります。

 

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栗きんとんでも名店ですが、珍しい干し柿を使った「柿きんとん」が数限定品です
が有名なんです、と後で教えていただきました。

パンフの写真、栗きんとんを干し柿で包んだお菓子なんですね。

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向かいに十八屋があります。

江戸中期の建物で、上がり框(かまち)や天井の梁は当時のままといいます。

十八屋は東美濃の豪商といわれた間杢右衛門家の親戚筋で、中津川宿の旅籠を

営んでいました。
皇女和宮の通行の際には、宮廷方の供の者がここに宿泊しました。

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 十八屋の隣は卯建をあげた白木屋跡(横井家)です。
当家の先祖宮大工横井弥左衛門が天保十三年(1842)に建てたもので、

150年以上を経過しています。
四畳ほどの中二階の隠し部屋が今も残されているそうです。

ここへ梯子を懸け、中二階に登ると梯子を取り外し、収納すると外からは部屋の

あることが全く分からない仕組みになっているとか。

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十八屋の真向かいは江戸後期に建てられたという天満屋(吉井家)がありました

が、連子格子が有ったのがガラス戸になり、なにやらリホーム中?

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その先隣は旧中川家(杉本屋)
中津川村や子野村の庄屋であった中川萬兵衛野屋敷の一部だそうです。

昭和30年代の初めま頃までは江戸時代の面影を残す帳場があり、
これを舞台に映画「青い山脈」のロケが行われたことは有名だそうです。

屋根部分など、最近元の姿に改修したようです。

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突き当り枡形で、宿並は右折します。
ここを直進する細道は延喜式内社恵那神社への川上道(かおれ道)です。

ここには慶応元年(1865)建立の式内恵奈山上道と刻まれた道標が有ります。

 枡形を右折すると下町に入ります、

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左手に卯建をあげ、酒林を吊り下げた「はざま酒造」があります。

街道書には、慶長6年(1601)創業の銘酒恵那山の老舗蔵元とあり、

前述の「京極家に仕えた武士の家系で、室町時代に美濃の国に移り住んだ」
間家の創業のようです。

慶長5年の関ケ原戦の直後からの400年以上、すごいわね~て、カミさん!!
建物は中津川市景観重要建造物指定です。

 

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はざま酒造からすぐ先の細い道とのY字路分岐は、高札場があった跡で、

中津川宿の西方(京方)になるそうです。

右手の細い分岐道が旧中山道の本道でしたが、中津川に遮られて通行はできません。

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先に進み大正13年(1924年)架橋の中央橋を渡ります、

橋下の細道は、かっては川の流れていた所であるが、尾鳩にある旧本州製紙

原料・製品を運ぶための軽便鉄道が敷設された。創業当時は軽便軌道を馬力で

ロッコを曳かせていた。その後ガソリン、ディーゼル蒸気機関を使用し、

現在はトラック輸送に切り替えられて昭和44(1969)年に廃線となり、

遊歩道として再生された道になった由。

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先へ約50mほど歩くと中津川に架かる中津川橋です。

川の名前としての中津川は、江戸時代は川上(かおれ)川、又は河上川と呼び、

宿・村の名として中津川を使っていたのだそうです。

9月17日、PM4:15

約128kmと言われる、美濃国十六宿の第一歩はここで足止めとします。

次回は当初から予定していた、23、24日にお天気が良ければ足を進めます。

元気なうちに、歩ける内に、

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 広重画 中津川宿 「晴れの中津川」と言われます。

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広重の中津川宿画はもう一枚あり、世界には十数枚しか現存していないそうです。

某TV局の鑑定番組で1500万という鑑定結果があったそうですが、

それがこの「雨の中津川宿」だそうです。

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第29回 完

 

信州 伊那の路 赤そばの里

 

 

彼岸の9月23日、24日、ライフワークの「中山道69次、夫婦歩き旅」。

美濃路・中津宿~大井宿へと足を進め、秋晴れの下いい旅をできました。

24日その帰り道に、前々から行ってみたかった信州・伊那の「赤そばの里」

へ寄り道をしてきました。

伊那に「赤そばの畑がある」と知ったのは十数年も前、木曽駒ヶ岳へ登った

折りで、一度は訪れたいと思いながら、咲く時期のタイミングが合わずに今日に

至ったものでした。 

岐阜県恵那市のホテルをでて、中央高速を伊北(いほく)インターで下り

約5キロメートル 約10分ほどで、南アルプスを遠望する信州伊奈高原、

「古田の赤そばの里」駐車場へ到着。

長野県南部、上伊那郡箕輪町の西、中央アルプスの麓に位置する「赤そばの里」

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「古田の里 赤そばの会」の案内記述よると、

「中国の雲南省やヒマラヤに植生しているアカソバ。
1987年にヒマラヤの標高3800mのところから、信州大学の氏原暉男教授

が赤い花の咲くそばを日本に持ち帰り、タカノ株式会社(宮田村)と

共同で品種改良を行って真紅の花を作り、「高嶺ルビー」と名付けられました。

平成9年、50枚を越す段々畑が箕輪町により、現在のような雄大なスロープを

持った圃場とし開拓され、「中箕輪そば組合」が農地の遊休化防止のために耕作を

始めた赤そばの里は、平成18年、上古田地区の有志による

「古田の里 赤そばの会」が耕作を引き継ぎ、整備や管理を行っています」

 (駐車代、入園料などはなく、運営維持ご協力金をお願いしますとあります)

駐車場から林の中の細い道を進むと、右手に農産物直売所があり季節物の果物や

野菜が売られ、赤そばの食事処もあります。。

時間も早めだったので、食してませんが、普通のそばと比べてみると、

「赤そばの方が、コシが強いく、若干もっちりとした弾力があり、 味や香りも

 強く感じられるそうです」

 

緩いアップダウンの針葉樹の中の道を行き、沢を渡り10分ほど歩きます。

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沢にかかる橋の脇に、イヌサフランが優しいうす紫の花を咲かせています。

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標高は900m、道は登りとなって林が切れた先、広大緩やかな傾斜地一面が

赤い絨毯となっています。

広さは東京ドームほどで、約4.2haあるそうです。

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そばの花は直径3~4mm。

花が各枝の先端にたくさん集まり、総状をなし、たくさんのツボミがついて、

毎日下のほうから少しずつ咲き、しだいに先端へと咲き進むそうです。

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空は薄曇りで、秋の陽光に映えるとは言えませんが、和かに広がる赤い絨毯も

またいい景色です。

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南アルプスの山並みを遠景として開放的な赤い園が広がります。

中、右の一段高い山は、仙丈ヶ岳(3033m)

その左手三角の頂は甲斐駒ヶ岳(2996m)

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咲きはじめは淡い紅色だが、気温が低くなるにつれて色が濃くなる。

5枚の花弁のように見えるのは萼片だそうですね。

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赤い花の中に、ぽつりぽつりと白花も咲いてます。

赤そばは、茎も赤味を帯びてますが、白い蕎麦の花の茎は、白っぽいんですね。

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秋の日を浴びて、赤そばの花が輝き山裾に季節を写します。

多くのカメラマンがじっくりと腰を据えて、シャターチャンスを狙ってましたね。

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 3連休の最終日。

高速の渋滞を避けるべく早めに後にしましたが、

中央高速は午前から早くも渋滞が始まり、1時間半遅れで帰宅でしたが、

いい旅からの素敵な寄り道帰り道でした。  そして明日へと・・

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

歩いて再び京の都へ 旧中山道69次夫婦歩き旅  第29回 馬籠~落合宿~中津川宿 中編

 旧街道の面影を色濃く残す山間の木曽路はここで終りました。
そして美濃路に入ります!

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一里塚先を中山道カラー舗装道と分岐し、斜め右に石畳の新茶屋遊歩道に入ります。

平成17年(2005年)の越県合併の記念事業として120m間を

 新茶屋遊歩道として整備されました、との案内板が建ってます。

(カラー舗装の旧中山道と遊歩道石畳、どちらが本来の中山道になるのかな?)

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整備した石畳遊歩道に入り、突き当たる車道を横断して石段を下ると、

こんどは旧中山道の十曲峠(じゅっこくとうげ)落合の石畳になります。

(多くの資料や紀行文に馬籠、落合の間に十曲峠落合石畳とありますが、

 標高500mと言われる「峠「」は、新茶屋の付近になるのでしょうか?)
落合の石畳は、保存されていた江戸時代の石畳(三ケ所70.8m)を繋ぎながら

復元した全長830mの道で、江戸時代の部分は岐阜県指定史跡になってます。
石畳はいつごろ敷設されたのかは不明ですが、皇女和宮明治天皇行幸の際には

修理さた記録があるそうです。

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落合の石畳道を進むと右手の開けた所に東屋(休憩小屋)があり、ここは新茶屋に

移転する前の立場茶屋跡で、大きな中山道パネルが建てられてます。

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鬱蒼とした木立の中の道。

うわ!猛烈なやぶ蚊の襲来で蚊に刺されやすいカミさんは大慌て。

虫よけスプレーだけでは防げない!

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先に進むと左手に「なんじゃもんじゃ」の杜碑があります。

学名を「ヒトツバタゴ」というモクセイ科の落葉高木で、東美濃木曽川流域に

分布する雌雄が異株の稀産種ですが、村人達は名が分からず、

「ナンジャモンジャ」と呼んでいたことに由来するそうです。

ヒトツバタゴの自生地は、愛知県犬山市岐阜県瑞浪市恵那市中津川市

またがる自生地と、長崎県対馬市にある自生地が国の天然記念物に指定されて

いるんですね。
家近くのお寺や県立公園にも2本植栽されていて、5~6月頃小枝の先に多数の

白い花を咲かせます。

f:id:hansui:20180920202705j:plain葉や小枝の積もる、苔むした石畳道の勾配は次第にきつくなり、足を滑らせぬよう

慎重に下って行くと、「山のうさぎ茶屋」の看板を掲げた小屋が現れました。

股旅姿の絵看板、入口木柱には「出羽三山神社修験道羽黒派」と書かれてる。

営業はしてない様子の???謎の小屋でしたね・・・

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謎の小屋から200mくらい下ると、石畳道の解説パネルが建っていました。

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解説パネルから、約300mほど下ると木橋を渡り車道に合流して石畳は終わり、

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車道を横断して再びカラー舗装の街道となり山中の集落へと続き、

左手に寛保2年(1742年)この先にある医王寺の梵鐘を鋳ったことから、

「かねいえいば」と呼ばれる跡があり、木立の中に桜の木の下に馬頭観音が祀って

あるようですが草木が繁り見つけられません。

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この先からは山中集落に入り進むと左手に、浄土宗瑠璃山医王寺があります。

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本尊は行基上人が彫ったという薬師如来が安置されていて、別名・山中薬師と呼ばれて、 古来より「虫封じの薬師「」として広く信仰を集めていた由。

 

江戸時代には、刀傷に効く「狐膏薬」(和 尚さんに命を助けられた狐が御礼に

造り方を伝えた)なるものを売って評判になっていたとか。

十返舎一九の「木曽街道・続膝栗毛」にも出ているそうです。
 
「 サアサアお買いなさってござりませ 当所の名方 狐膏薬 御道中お足の痛み 金瘡 切疵 ねぶと はれもの 所嫌はず一つけにてなほる事受合ひ 外に又吸膏薬の吸ひ寄せる事は金持の金銀を吸ひ寄せ 惚れた女中をもぴたぴたと吸ひ寄せる事奇妙希代 御たしなみお買なされ」。
 
 孤膏薬は、本陣井口善兵衛の子善右衛門を分家させて十曲峠に住ませ、その製造販売をさせたものである、と解説板にありました。

本堂の賽銭箱の脇に狐膏薬看板が展示されています(写真右)。

境内には芭蕉句碑や大きな枝垂れ桜も有りました。

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 医王寺を出るとすぐ先で再び下り坂、、それもかなりの急坂になってきて、

眼下に落合宿や大井(中津川)方面がが遥かに遠望できます。

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下った先でY字路となり左手の傾斜地に、

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馬頭観音(いぼ観音)が祀られてます。

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街道はY字路を右手へと下っていきます。

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かなりの急勾配、足に負担がかからないよう、ジグザグに道を切りながら下ると

「落合川」に架かる「下桁橋」が見えてくる。

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合川は恵那山に源を発し、同じく恵那山を源とする湯舟沢川を上流で吸収し、

流末は木曽川に落合います。

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広重画、落合宿は、落合川に架かる下桁橋(落合橋)、先の御判形坂(下の枡形)、
そして落合宿の宿並を描いています、遠景の山並は恵那山だそうです。f:id:hansui:20180921120645j:plain

この橋から医王寺までは難所の為、何度か道が付け替えられたことが書かれた

案内板がありました。

 

「下桁橋は落合橋と呼ばれ、少し下流に架橋されていました。

しかし洪水により度々流失した為、寛保元年(1741)から神坂湯舟沢経由の

新道が開削されましたが、悪路で約1.8kmも遠回りでした。
そこで明和八年(1771)再び十曲峠を通る以前の道筋に戻りました、その際

つづら折りの道を廃し、現在の北側に大きく曲がって穏やかに上る道に付替られま

した。」 

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 下桁橋を渡り、上り坂を進むと上道に合流します。

この分岐点には道祖神享保十五年(1730)建立の馬頭観音像等があります。

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この上道の一部が開削された神坂湯舟沢旧道です。

(写真の右手の下ってくる道)

追分道標「右飯田道/左善光寺 御岳道」、

飯田道道標「右神坂ヲ経テ飯田町ニ通ズ」、が建ってます。

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分岐合流から少し先の滝場地区に入る左手、石垣上の民家付近が、

寛文9年(1669年)から享保12年(1727年)まで白木番所が置かれ、

また江戸初期からあった堂前では、下馬しないと落馬するとのいわれから

下馬庚申堂とよばれた堂が有ったことを示す小さな標識が立ってます。

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滝場地区を花々を愛でながら行くと、

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集落を抜けると県道7号中津川南木曽線に突き当たります。

左側に中北道標ここが落合宿の高札場跡(石柱)、落合宿に到着です!

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 県道を横断して、向いの右に緩やかに上る横町を行き、道は右手に桝形を

 曲がって行きます。 f:id:hansui:20180921140706j:plain

枡形跡を曲ると上町、すぐ右手に、井戸が残され、寛政4年(1792)の

年号のある上町の秋葉常夜燈が建ってます。

落合宿には4基の常夜燈があり道の中央にあったと言われています。

道路整備の際、3基は他へ移されて、この1基だけがここに移設されている。

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落合宿は美濃路の東端にあたり、日本橋より44番目、84里12町 約331km

天保14年(1843)の中山道宿村大概帳によれば、

宿内家数は75軒、本陣 1、脇本陣 1、旅籠14、宿内人口は370人

と小さな宿でした。
宿長は三町三十五間(約390m)で、宿並は東から横町、上町、中町、下町で構成され、宿並みの中央には幅二尺の用水が流れていましたが、明治天皇通行に際し片側に寄せられました。

文化2年(1804年)、同12年(1815)の二度の大火で宿内ほとんど焼失してしまい、あまり多くの古い町家を残していないが、街道街らしい雰囲気は

漂てましたね。

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宿並を進むと左手に落合宿脇本陣跡(白い石柱)があります。

塚田家が脇本陣を勤め、問屋そして尾張徳川家給人山村氏(木曽方)の庄屋を

兼ねました。

敷地内には飢饉に備え、穀物を備蓄した郷倉があったそうです。

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次いで右手に落合宿本陣跡(石柱)があります。

井口家が代々本陣を勤め、問屋、そして尾張徳川家給人千村氏(久々利方)の庄屋

を兼ねました。
二度にわたって大火で本陣も焼失したが、文化15年(1818年)に復興された。

本陣門は、その際に当家を常宿としていた加賀前田家から火事事見舞いとして

寄贈されたもので、玄関から上段の間、本陣門は文化5年のまま

残されてるそうです。

本陣門脇には明治天皇落合御小休所碑があります。

明治十三年(1880)巡幸に際に休息所となりました。

平成22年、国史中山道の一部として追加指定を受けてます。

6年ほど前まで、井口家住居として使われてましたが、現在は市に寄贈され

手入れをして、現在は一般公開されてます。

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先の左手に落合宿助け合い大釜があります、 文久元年(1861)皇女和宮

大通行時には、四日間で述べ約二万六千人余が落合宿を通行しました、

その際、暖かいおもてなしをする為に、各家の竈(かまど)はひきも切らず焚き

つづけられたといいます。この大釜はその時の状況を示す象徴です、大釜は寒天の

材料である天草を煮る時に使用されたもので、直径1・5m、容量1000リットル

を越えるという。(解説板記)

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帰し街並みを振り返ると、街並みの向こうに恵那山がなだらかな山容をみせてます。

f:id:hansui:20180921161447j:plain本陣から100mほど先に、慶長5年(1600年)の創建の曹洞宗善昌寺

があり、右手に樹齢450年といわれる松が道路上に突き出ています。
創建時の善昌寺山門を覆っていたことから、門冠(もんかぶり)の松と呼ばれてい

ましたが、明治24年(1891)の道路改修工事で寺の一部が道路となり、

寺は東側へ移設されましたが、境内にあった松はそのまま残され、

現在は「路上の松」と呼ばれているそうです。

先の本陣、上段の間に危急の際の抜け穴が有り、この善昌寺の裏手に通じていた、
と本陣の係りの方の説明に有りました。

中山道は門冠の松前を左折します。西の枡形跡で落合宿の京口です。
直進の道筋は明治の道路改修で新設されたものです、往時は行き止りでした。

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時刻はお昼を回ってます。

桝形を曲がらずそのまま道を下って国道へ出て、コンビニ・イートンコーナーで

質素にランチタイム。

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 しばし足も休めて道を戻り、善昌寺前の歩道帯の桝形(京方)を曲がり、街道旅へ

復帰します。

この分岐点の左手には大正11年(1922年)建立の「中仙道中津町石柱道標」

と青色歴史の道道標「←中山道→」、向いの公園には落合宿案内板があり、

中山道の印のカラー舗装は田中地区へと入って行きます。

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下り坂は、やがて向坂という急坂を息を切らせて上ると、路肩に地蔵尊が祀られて

います。

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上り詰めを右折して、国道19号線をおがらん橋で跨ぎます。

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渡詰め右手の石段上に「落合五郎城跡(おがらん様)」がある。

街道書によれば、落合五郎兼行は木曾義仲の四天王の1人で義仲の育ての親で

美濃国の押さえとして「落合」に館を構え ていたというという伝承がある

そうですが、建てられてる説明板によれば、不確定でもある様子。

 館跡とされるところは「おがらん」と呼ばれ、寺院の「伽藍」から来たものと推定
されている。
鳥居の額には「おがらん四社」とあり、案内板に書かれた
愛宕神社、山之神神社、天神社、落合五郎兼行神社」の4つの神社が鎮座している。
愛宕神社には落合五郎の霊が祀られているそうです。

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おがらん四社前から左に国道19号線に沿って坂を下り、突き当りのL字路を

右折します。ここには青色歴史の道道標「↑中山道→」があります。
左右にうねる旧道を進み下落合川を横手橋で渡ります。

 

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その先で国道に旧道は阻まれて(国道を渡れない)道が消えている

(カラー舗装がなくなる)。

そのまま国道沿いに行き、

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先の十字路分岐を左折して国道19号線ガードをくぐり、カラー舗装になった

中山道へ合流します。

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この間は青い道標がポイントごとに設置されていて、迷うことは有りませんでした。

ここからが「与坂」で、途中で一休みも二休みもしなければならないほどの急坂。

ここがあまり難所とはいわれていないのが不思議なくらい、と言われてるようです。

おっ、ヒメリンゴかな?

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おや、おの奥の山は中央アルプスかな?

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左右にうねる上り坂をグングン上り切ると、実りの田圃が広がり恵那山が姿を現し

与坂の集落です。

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一息ついたところ、右手に与坂立場跡。

立場茶屋越前屋の名物は、米粉餅に黒砂糖をまぶした三文餅。
立場跡の向いには、石造地蔵尊坐像二体を安置した地蔵祠と、弘法大師三十六番

札所標石があります。

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ここからは、うっかり転んだらそのまま転げ落ちそうな、まるでジェットコースター

の様な急坂を下ります。

小石を投げたら、ピョンピョン飛び跳ねてカーブしながら転がって行きました。

(人がいたら、どうするの!!、カミさんに叱られましたが・・)

歩幅を狭め、道幅一杯をジグザクに使い、ゆっくり下ります。

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この急坂の途中には中北道標「←落合の石畳 2.6km/JR中津川駅 2.5km→」があります。道端には彼岸花が咲き、秋の街道を演出してくれます。

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 道の両側に点々と10か所ほど、小さな祠が切り株に乗っかってます。

春に旅された方の紀行文に、小鳥の餌場と記述がありましたが、

これがそのようですね。

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最後の曲がりを下ると、集落が広がってます。

 

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 転がるが如く下り、三五沢を三五沢橋で渡ります。

 三五沢は落合と中津川の境川で、地名も中津川となってきます。

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後編へ続きます。

 

歩いて再び京の都へ 旧中山道69次夫婦歩き旅  第29回 馬籠~落合宿~中津川宿 前編

*ひょいと歩き出した東海道五十三次
途中で、断念かの肝臓癌をなんとか乗り越えて、京の三条大橋へ到着。
勢いをかって「歩いて再び京の都へ」と乗り出した中山道六十九次
またまた腹部大動脈瘤、心臓動脈硬化、そしておまけに腹部ヘルニア。
挫折しそうになりながらもカミさんの支えもあって、またまた乗り越え
旅の再開。
そんな、じじばば道中ブログです*

 

2017年9月10日から始まった信濃の国(長野県)の歩きも、

11月19日木曽路へ入り、10か月を掛けて2018年7月15日に、

岐阜県・馬籠宿へ着き、そしてもうすぐで木曽路の旅も終わりです。

猛暑の中の街道旅でしたが、しっかりと足を進め、信濃の国から美濃の国へ。
一歩一歩、京の都が近づいてきます。
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猛暑、異常気象の8月が過ぎ、9月になっても大きな災害続き。

長期予報では敬老の日を絡んだ3連休も、あまり良くない天気予報でした。

 

町会の「敬老の祝い会「」は所用が有って欠席にしていたが、都合で所用は中止

になりました。

TVを見ていたカミさんが、

敬老の日は岐阜は晴れ予報だって、火曜は仕事は休みだから」で、

わが家のいつものパターン、「よし、行くか!」敬老祝いは旅の空の下で!!

 

急ぎ中津市内に宿をとって、

17日(月祝日)、AM4:00自宅をマイカーで立ち、岐阜県中津川市へ。

ホテルへ車を置かせてもらい、中津川駅AM9:10発の馬籠宿行のバスへ乗車。

ほぼ満席で半分は外国の方々でしたね。

AM9:35、馬籠着。

前回足止めの、巨大な土産物店や駐車場のある馬籠宿西端(京方)、

江戸八十里半、京五十二里半と彫られた、中山道馬篭宿の大きな道標前から、

第29回歩き旅の再開。

(カメラを2台も抱えた方にシャター押をお願いしましたが、

 中國の方だったようで、イイデスヨ、と片言でした)

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 今日の旅は、馬籠宿から山を下り、約4.7km(約1里5町)の

江戸から44番目、落合宿へ。

そして4km(1里)の45番目、中津川宿の京方まで足を伸ばす約9km。

気温は高めだが、吹く風が涼しくまさに秋の気配です。

距離は短い、のんびりと山を下ります。 

 賑わいのあるエリアを過ぎると、すぐに田園風景のなかの静かな田舎道になり、
吹き上げてくる涼やかな風を受けながら、石屋坂を下って行きます。

(振り返り写真)

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石屋坂の左手には、中央アルプスの南端に位置する 信仰の山、古くからこの地域の

象徴である。恵那山(2191m)が悠然と姿を見せてます。

日本百名山、登りたかったな~です)

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勢いよく流れる水路脇にはシュウカイドウ(秋海棠)のピンクの花が揺れてます。

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中津川道標と中北道標、横屋バス停を見送り、実りの棚田を左手に草花の咲く

丸山の坂を上ると、右手に丸山の坂標石、馬籠城跡解説板が建っていてます。

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城址案内によると、

「500年ほど前の室町時代から馬籠城(砦)があり、戦国動乱の時代,馬籠は

 武田信玄の領地となるが武田滅亡後,織田信長の時代を経て豊臣秀吉傘下の

 木曽義昌の治めるところとなる。
 天正12年(1584)3月豊臣秀吉徳川家康両軍が小牧山に対峙した。

 秀吉は木曽義昌に木曾路の守りを命じ,義昌は兵山村良勝に妻籠城を、

 島崎重通(馬籠本陣の島崎家の祖,後に野に下り馬籠宿本陣を勤めた)に

 馬籠城の 警備をさせた。

 同年9月,家康は飯田の菅沼定利・高遠の保科正直・諏訪の諏訪頼忠らに木曽

 攻撃を命じ三軍は妻籠城を攻め,その一部は馬籠の北に陣を張った(陣馬)。

 馬籠城を守っていた島崎重通は、夜陰に紛れて木曽川沿いに妻籠城に逃れた。

 このため馬籠の集落は戦火から免れる事が出来た。
 その後慶長5年(1600)関ケ原の戦いで天下を制した家康は木曽を

 直轄領としていたが元和元年(1615)尾張徳川義直の領地となり,

 馬籠城は廃城となり この地は丸山とも城山とも呼ばれるようになった、

 今は城跡は畑地,竹林の奥に小さな祠があるのみにて、城口には庚申塔

 馬頭観音等が祀られています」とあります。

城址から馬籠宿を望む)

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 丸山の坂の荒町集落を行くと、左手に鳥居が建ち馬籠村の鎮守馬籠諏訪神社

長い参道の奥に鎮座しています。

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参道口の右手に島崎藤村の父、島崎正樹翁を記念する「島崎正樹翁顕彰碑」

(明治45年建立)があります。

江戸時代、木曽五木は尾張藩により厳しく監視され、さらに明治政府は木曽谷の

ほとんどを官有林に組み入れ、島崎正樹は木曽三十三ケ村の総代になり木曽山林の

解放運動に奔走するも、弾劾に遭い、失意の内に生涯を閉じています。

碑はこの島崎正樹の徳を顕彰したもので、明治四十五年(1912)正樹の

二男広助が建碑したものです。

広助は妻籠宿本陣の養子となり最後の当主を勤めえいます。

正樹翁は「夜明け前」の主人公、青山半蔵のモデルですね。

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 民宿も見かける静かな山村の集落が続きます。

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鋭い棘はカラタチですね。

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カミさんは

「からたちの花が咲いたよ~・・」の北原白秋の「カラタチの花」を口ずさみ、

わしは、「心で好きと叫んでも、口では言えぬ~・・・

島倉千代子の「カラタチ日記」を口遊む・・青春時代の思い出の歌・・・。

そしてつい最近、藁でも掴むの思いで調べまくっていて、こんな「果樹研究所」の

記事を見つけたことがありました。

「カラタチはミカンの仲間で、原産地の中国長江上流域から8世紀ごろには日本に

 伝わっていたと言われています。病気に強い、早く実がなる、樹の高さが低い、

 接ぎ木品種の味が良いなどの利点からミカンの台木として使われています。
 果実は生では食べられませんが、果実酒の材料として使われています。未成熟の

 果実を乾燥させたものは枳実(きじつ)と呼ばれる生薬となっています。健胃、

 利尿、去痰作用があるとされています。

 *カラタチはガンなどの抑制に効果があるとされる機能性成分(オーラプテン)

 などを沢山含んでいますが*、臭い、苦い、酸っぱいなどで食べられませんが、

 カラタチに 食用のカンキツを交配し、生で食べられる品種を作りました。

 「オーラスター」で、平成23年に登録されました。できたばかりの品種で、

 まだ皆様のお目に 留まるのは先のことと思いますが、記憶に残していただけれ

 ば幸いです。 愛称は「俺たち・オレタチ」です」

    もう市場には出回ってるのかな?

柑橘類の台木にカラタチが多く使われてるととも、初めて知りましたね。

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のどかな里山道を進むと右手に中北道標が立ち、向かい左手に男女双体道祖神

祀られていて、スイレンの咲く池や秋の花々を楽しみながら、

のんびりと足を進めます。

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やがて山道もピークで、なかのかやバス停を過ぎると神坂の下りになり、

西方が開け美濃の風景は広がってきます。

おっ、クロユリ

いや、ツルニンジンのようですね。

植物園で見たことは有りましたが、野に咲くのは初めてでした。
キキョウ科・ツルニンジン

ニンジンとは、何ぞや?と思ったら、塊根がチョウセンニンジンに似ている由。

別名「ジイソブ」。
似た花で「バアソブ」という花もあるそうです。
「ソブ」とは長野県木曽地方の方言で「そばかす」とか。
となると「そばかす顔のお爺さん」

敬老の日に、中山道の旅に出て木曽路で出会った花でした。

岐阜県に入ってますが、まだ木曽路なんです)

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集落を過ぎて下り坂となり美濃の展望が広がるところに、四阿屋の設けられた

小さな公園があり、ここは信州サンセットポイント百選の一つだそうです。

公園には正岡子規句碑

 「桑の実の 木曾路出づれば 麦穂かな」があります。

明治22年、正岡子規は松山に帰郷の折り木曽路を越え、その時に詠んだ句で、

馬籠観光協会によって建立。

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 小公園から花々や風景を楽しみながら、ゆっくりと坂を美濃へと下って行きます。

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コンバインが入り、稲刈りも始まってる様子ですね。

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坂をさらに下って行くと、

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新茶屋集落に入ります。

江戸初期にはもう少し下の美濃(岐阜県)側に立場茶屋があったが、後にここに

移って「新茶屋」と呼ばれ、名物のわらび餅を売っていたと伝えられ、今は

民宿新茶屋が建っています。

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湧水の池に黒いゆっくり動く生き物。

イモリかな?、バシャバシャと何枚か写したが、光が反射して残念ながらピンボケ。

頭部の丸味から、クロサンショウウオではないかな・・・やっぱりイモリ??

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民宿新茶屋の向いに天保13年(1842年))建立の翁塚と呼ぶ芭蕉句碑

  「送られつ 送りつ果ては 木曽の穐(あき)」があります。
貞享5年(1688年)芭蕉中山道を旅し、更級紀行の中に納めた句だそうです。
藤村の「夜明け前」の中で、この句碑の建立に尽力した馬籠宿本陣の当主吉左衛門

(島崎正樹の父)と年寄役の金兵衛の二人が出来上がった碑を見て

「この穐(あき)という字が私は少し気に入らん、禾(のぎ)へんが崩して書いて

 あって、それにつくりが亀でしょう」

 「どうもこれでは木曽の蠅(はえ)としか読めない」とぼやいている場面が

 書かれているそうですが・・(読んだはずだが、思い出せません) 

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句碑の先に東屋(休憩所)があり、その脇に

  「是より北 木曽路」と刻まれた碑があります。
碑文は昭和15年(1940年)当時六十八歳だった島崎藤村が、地元の要請に

より揮毫したものです。

馬籠宿の越境中津川市編入までは、ここが信濃(長野県)美濃(岐阜県)の国境で

ここから西、落合宿から今須宿まで十六宿の中山道を「美濃路」と呼ばれてました。

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 そして両側に新茶屋の一里塚跡が両塚とも残されており、江戸日本橋より

83番目、83里の一里塚。

西塚には昭和六年(1931)建立の国境碑「信濃/美濃」もあります(写真右)。

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 長かったけど、旧街道の面影を色濃く残す木曽路はここで終点です。

そしてここからはいよいよ美濃路に入ります!

美濃路は十六宿です。

落合、中津川、大井、大湫、細久手、御嵩、伏見、太田、鵜沼が東美濃と呼ばれ

尾張藩領でした。

加納、河渡、美江寺、赤坂、垂井、関ケ原、今須は西美濃と呼ばれ、

鵜沼から美江寺にかけては木曽三川木曽川長良川揖斐川)が横たわっています。

 

 

続きます。

 

 

 

 

歩いて再び京の都へ 中山道69次夫婦歩き旅 第28回    野尻宿~三留野宿、妻籠宿、馬籠宿 後編の後編

木曽路もいよいよ終わりが近づいてます。

妻籠から馬籠への後半へ入ります。

先の小さな木橋で渓流を渡ると女滝の展望所です。
響き渡る水音、ナチュラル・ミストが流れ、なんともい~清涼風にほてった体包まれ体力気力回復で、さあ、峠へ。

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涼しい川沿の「女滝」から「男滝」方向へに戻る途中で左折し、脇の急な鉄階段の

道を手すりにすがりながら登ると県道7号に出、廃業した「滝見茶屋跡」と

バス停があり、バス停名は男捶滝(おだるたき)とありました。
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県道を左手に行くと、歴史の道中山道の案内板が建ち、左手に滝の上の山道を

通る中山道が降りてきて街道に復帰します。

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街道に復帰して一石沢を右手に100m程行くと、右手に木造橋が架かり

「馬籠宿4.6km」の木道標が有り、渡ると石畳の荒れた道が続いています。

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一石沢へ流れ込む小さな沢を木橋で渡り返ししながら、木曽林の山道を進みます。

AM11:10

この付近から、馬籠方面から次々とやってくる欧米系の方とすれ違います。

日傘片手の女性もいましたね。

「こんにちは」「コンニチハ」・・あ~忙しい!

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直ぐそばを綺麗な沢が流れてるので、時々手拭を濡らして、顔や首すじに、

「うわ~、ひゃっこい!!」思わずお国言葉が飛び出します。

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先が明るくなって左右に通る県道に(峠入口)のバス停が見え、横断手前には

東上り旅人のために京方向きで中山道自然石道標が建ち、

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横断した先には京上りの旅人のために

東方向きで一石栃口道標(自然石)が建ち、石畳の道が馬籠峠へと続いています。

道標の手前には国史中山道解説があり、

 「県道7号中津川南木曽線の敷設に際しては、破壊することなく、形状を

 維持したまま、埋蔵保存を実施しました。」と記されています。 

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途中から砂利道になり、木橋を渡って進むと日、英語で記された

「サワラ合体木解説板」があり、

「この対岸の山のサワラの大木は合体木です、享保元年(1716)頃、

 木の伐採を行い、切株の横に幼木二本植えました。

 文久三年(1863)幼木は成長しながら一本の木になりました。

 そして平成二十一年(2009)合体木となり今でも成長を続けています。」

 と記されていますが、合体木はどこかな??

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やがて左手に樹齢300年以上、「神居木」と呼ばれる」サワラの大樹があり、

手前に建つ説明板は日本語だけで、
「このサワラ大樹は、樹齢300年、胴回り5.5m、樹高41m、材積34?。

 サワラ材は耐水性が強く、風呂桶や壁板、建具等に多く使われます。
 この木一本で約300個の風呂桶を作ることが出来ます。

 さらに、このサワラの下枝が立ち上がって、
 特異な枝振りとなっていますが、
 このような形の枝を持った針葉樹を神居木(かもいぎ)と言います。
 昔から山の神(または天狗)が腰をかけて休む場所あると信じられてきました。
 傷つけたり切ったりしますと、たちまち祟ると言い伝えられ、
 杣人(そまびと=きこり)はこの木の下を通ることを嫌がりました。
 この木のように両方に枝の出た木を両神居(りょうかもい)と言います。」

   木曽森林管理所 南木曽支署

大木の横から枝が横に立ち上がっているが、山の神の腰掛け、はこの枝のことかな。

(写真の右手、樹上は枝葉が繁り見えませんでした)

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コンイチハ!!元気な声で母親と手をつなぎ、低学年の男の子が下って行きます。

ほのぼのとした、いい風景ですね。

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さらに樹林の中の山道を進み、木橋を渡ると木柵が見えてきます。

川の脇に実はクルミでうね。

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木柵の先に番所門があり、一石栃白木改番所跡でした。

「一石栃」とは「一石」もの栃の実がとれる大木があったそうで、

白木とは皮をはいだ木材の事です。

白木改番所は木曽から移出される木材を取締るために設けられた番所で、

ヒノキの小枝に至るまで、許可を示す刻印が焼いてあるかどうかを調べるほど

厳重であったといわれています。

 

木曽の森林資源は、領主たる尾張藩にとって、それほど重要なものだったのです。

番所は当初、下り谷に設置されていましたが、蛇抜けによってここ一石栃に移転

しました、木曽谷諸事覚書には寛延二年(1749)のことと記されています。

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 改番所前から右の坂を上ると

「一石栃沢流域に住むものは難産しない、という言い伝え信仰の子安観音堂と、

二度の大蛇抜けにも耐えてきた枝垂れ桜古木があります」

と持参街道書に記されており、遠くからぱしゃり。

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番所の先、玄関脇に御休み処の看板が掲げられている「一石栃立場跡」の

牧野家住宅があります。

江戸中期の建物で築約300年と言われており、桧や高野槙が使われている建物です。
往時は七軒の茶屋がありましたが、今は、牧野家が一軒残っているだけです。
当時は間口が十間半ありましたが、現在は八間に縮小されてるそうです。

中山道の今旅人の多くが、立ち寄ってお茶を頂くことを薦めていますね。

室内は土間で、いかにも時代を遡った茶屋の雰囲気。

中では外国の方が多く、10人くらいの方が分厚い板木の大きなテーブルを囲み

お茶をいただきながら一休みしています。

丁度空いた席に腰掛けるとすぐに、小屋番の方が熱いお茶を出してくれます。

猛暑の中、冷たい飲料ばかり飲んでいた体に、熱いお茶のなんとも美味しいこと。

お代わりをさせていただきました。

(茶代は志に、とあり竹筒に入れさせていただきました)

テーブルには数冊のノートが置かれ、訪れた方がそれぞれの思いを綴っていて、

開いてみると、なんとほとんどが欧米系の横文字!!

東南アジアや中東系の文字は有りませんでしたね。

お隣のブロンド髪の可愛い女の子が、一生懸命ボールペンと取り組んでいましたね。

私も、”いい旅、暑いぞ中山道!”

と遠慮気味に書き込んで、お後に席を譲ります。

 周辺には子安観音堂の枝垂れ桜をはじめ、たくさんの桜の木が見られます。

春には中山道旅に突如現れる桜の園に出会えるんだそうで、

のどかな時間が流れる立場茶屋に訪れる事を目的に、妻籠や馬籠から中山道

歩く方もおおいんだとか。 う~ん、桜の季節に再び・・・来てみたい

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立場を後にして、歩き出せば馬籠峠まではあと1km弱です、・・・

次々と出会い、追い越され、石仏を目にしながら葛籠折りの急坂を登って行きます。

 

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前方が明るくなり石畳になった峠道をさらにひと行き、ぽ~んと広場に出、

そこが県道7号線前で、馬籠峠頂上(801m)でした。

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広場の左側に峠の茶屋があり、茶屋の右側に正岡子規の句碑が建ってい・・

 あっ忘れた!。

馬籠峠は今は町境、県境ではあるが、峠頂上は長野県南南木曾町(妻籠)。

平成17年の越県合併により、長野県木曽郡南木曽町岐阜県中津川馬籠の県境に

なりました。

それまでは馬籠の新茶屋が信濃(長野)、美濃(岐阜)の國境(県境)でした。f:id:hansui:20180805034233j:plain時もお昼、峠の茶屋に入り、まずはかき氷、うま~い!

五平餅を頼み、持参のお馴染み健康補助食品とでお昼タイム。

うん?五平餅が丸いよ??

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英泉は馬籠として画面手前に馬籠峠、中間に馬籠宿そして遠景に恵那山を描いて

います。
ところが実際には馬籠峠から馬籠宿は望めません、しいて言えば峠村が当てはまり

ます。
そして馬籠峠上から流れ落ちる男滝、女滝を描いていますが、これも実際には

谷間にあるものです。
滝の先に牛方を描いています。

牛方は木曽谷を中心に荷を運び駄賃稼ぎをしました。

峠村にはこの牛方が多く住み、村内には牛方の頭を讃えた碑もあります。

(ある解説分から引用です)

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お腹を満たし、喉を潤し、足も休めて街道へ戻ります。 茶屋から50m程下ると長野県から岐阜県に入る県境となり、左側に県境標識が建っていました。

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さらに下ると分岐となり、右手に下る中山道の道しるべと、左手に熊除け鐘が

設置されていて、モザイク舗装の下り道へ入ります。

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木立の中を100m程行くと視界が開け、「峠」と呼ばれる集落へ入ります。

集落に「峠の一里塚」江戸から82番目が有ったそうですが、今は位置不明の由。

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左手に灯篭の建つ石段鳥居があり熊野神社が祀られてます。

境内の大樹は樹齢500年と街道書に在りました。

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旧旅籠桔梗屋

峠集落は民間の荷を運ぶ牛方の集落で、名物「栗こわ飯」の茶店なども有った

そうです。

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牛方組頭・今井仁兵衛居住跡・

今井家住宅は中津川市景観重要建造物指定

両端、軒下の石柱は牛繫ぎ石だそうです。

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怪獣!巨竜!

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モミジバルコウソウに、八重クチナシ

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集落の外れに「峠之御頭」の碑。安政3年に中津川の問屋との争いに、上の今井家が頭を勤める牛方が勝ったことを記念した

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いいですね~、菅笠かぶりの御夫婦旅。

菅笠は妻籠の実演販売で買われたとか。

馬籠に車を置き、バスで妻籠へ出て宿泊されたそうです。

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すぐ先で道は分岐となり、馬籠1.6kmの中北道標。

中山道峠 右 ま古め宿 左 伝田原」と刻まれた自然石道標が置かれた

右手の道へ下ると、

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「渋皮乃 むけし女は 見えねども 栗のこはめし ここ乃名物」と彫られた

十返舎一九の歌碑が建ち、広場の一角に休憩所とトイレが設置されてます。

外国人の旅人が妻籠へ向けて旅立ってゆきました。

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句碑より先は県道7号を二度横断し

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アジサイ咲く田圃脇の道や、

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竹林や石仏の今風石畳道を5分ほど行くと、

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県道に出、手前を右に曲がり橋を渡ったところに、水車小屋があり、

休憩所の左手に水車塚の碑がありました。

その碑文は、明治37年(1904)の水害で、ここにあった家屋は一瞬にして

押し流され、一家4人が亡くなった遺族と親交があっ、た島崎藤村によるものと

案内板に書かれてます。

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県道を横断し、県道土手下の石畳道をしばらく進みます。

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10分ほど行くと県道へ出、脇の歩道を行くと

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県道右手に熊除け鐘の設置された、石段の登り山道陣馬坂が現れ、

重い足を持ち上げて、ふうふう最後のあがきか・・・と期待して上ると、

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ど~んと空が広がり、霞んではいますが恵那山が正面に姿を見せ、

美濃を見下ろす高台へと出てきます。

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回り込むように右手に行くと陣馬見晴台で、天正12年(1584年)、徳川家康

豊臣秀吉が戦った小牧・長久手の戦いの時、徳川方の菅沼・保科・諏訪氏の軍が

陣をとった場所であり、ここは馬籠宿の江戸への出口。

正面に聳える美しい恵那山、美濃の最高峰であり、中央アルプスの最南端。

標高2191m、日本百名山

馬籠宿と妻籠宿も、この山の北山麓に当たるのかな。

誰もいないように見えますが、見晴台は近隣のお国の観光客の言葉が

大きく飛び交っています。

周りは大勢の観光客で騒がしいくらいなんです。

2007年8月にも御嶽山登山の折に、マイカーで妻籠、馬籠を訪れてます。

確か見晴台側に駐車したと覚えてます。

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写真左上、、島崎藤村の父・正樹の長歌反歌の自筆による歌碑。

生まれ故郷の木曽谷神坂をたたえているものだそうです。

左下写真は、島崎藤村の筆による「心を起さうとおもはば先づ身を起せ 

  ニィチェの言葉より」の碑。 なぜこの言葉ここに?
右は、「越県合併の記念碑」

ある旅人の言葉では、。越県合併がよほど異例だったのか、かつて木曽が

 美濃であったことや、「夜明け前」の「あの山の向うが中津川だよ

 美濃は好い国だねえ」の一節も引き合いに出しながら、合併の正当性を

 必死にアピールしている感がある」

 と書かれてたのを読んだことがあったね。

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妻籠を出てからの中山道は、本当に多くの欧米系の外国人ハイカーに出会いました。

欧米系以外の方には全く出会っていませんね。

あの鳥居峠越えは、トレッキングスタイルの方が多かったのですが、

妻籠から出会う人は団扇や日傘片手の女性もちらほら、散策スタイルも

多かったです。

木曽路の紹介の文の中に、

「2009年に「妻籠・馬籠宿」がミシュラングリーンガイドブックで一つ星を

 獲得してから、世界的に有名なガイドブック「ロンリープラネットJAPAN」

 に、他の観光地よりもずっと行を割いて『中山道』が薦められています。

 ハイキングや ランドネなど農山村地域を歩くことが文化的に受容されてきた

 欧 米諸国のツーリストは、訪日観光でも日本独自の自然や文化に触 れられる

 歩く ツーリズムを求めるようになってきているようです。
 紀伊熊野古道を訪れる観光客の8割が外国人ともいわれています。
 馬籠宿〜妻籠宿間にある山間部の街道は、現在では世界中から訪 日者を

 集めるインバウンド観光地となっている。

 インバウンド・ツーリストは名古屋や松本方面から中津川駅へ とアクセスし、

 そこから徒歩をメインに落合宿を経て、宿場町で1〜2泊し、妻籠宿と

 馬籠宿の間にある約7.3km の山間街道を歩きを楽しむのだそうです」

 と解説されてます。

 「ロンリープラネットJAPAN」ガイドブックらしきものを片手にする姿を

 多く見かけます。

 今やネット社会。一枚の写真があっという間に全世界を巡る時代、

 そして世界中から人々が集まって、観光地へ来ると痛感しますね。

  馬籠宿は、江戸から43番目の宿場町で、距離は83里4町・332km。

 道路が南北に通り、山の尾根に沿いで急斜面の為、その両側に石垣を築いては

 屋敷を造る「坂の宿場町」です。
 山の尾根のため水に恵まれておらず、火災が多いのが特徴で、何度かの大きな

 火災がありは、1896年の大火でほとんど焼失してしまい、いまある家並みは

  その後 復興されたものです。

 観光協会の案内には 
 「馬籠は島崎藤村の生地として、藤村記念館を訪れる人が飛躍的に増加する

 ようになったのは日本が高度経済成長期に入った頃からと言われます。

 その後の紆余曲折はあったものの、環境保護の機運も高まり、

 町並みの景観整備、電柱の移動などの街道の修景美化などが実施され

 街道そのものを自然の博物館とする発想に基づく、岐阜県境から妻籠宿に至る

 間の中山道およびその周辺の環境を整備し、観光客がこの街道を歩くことに

 意義を 持たせるという

 「フィールド博物館構想」に基づいた街造りが行われた」 とあります。

 妻籠奈良井宿の伝統的建造群保存地区の持つたっぷり浸れる「江戸情緒」

 に対して、「江戸情緒を持たせた観光地」の受け止めでした。

 ある方は「街道宿場テーマーパーク」とも表現してましたね。

 見晴らし台から西手にだらだらと坂を下りていくと、高札場があり

 先に県道7号に突き当り、馬籠の家並みを見下ろしながら下ります。

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坂を下って振り返り、馬籠宿石碑が建っ角の蕎麦屋が、依然来た時より

綺麗に見えるね。

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板石を敷いた宿場の街並みへ下ります。

街中を抜ける風はなく、家々の間から時折風にホット一息です。

 

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とてつもなく大きな葉は、なんの葉???

巨大な蕗の葉は古里北海道で見ますが、負けず劣らずの巨大さ。

(お聞きしたら「桐」の幼木の葉なんだそうです)

右手の休憩所で一休み。

居合わせた係りの方が「今年は異常なんです。とくに今日は33℃の異常高温に

なってます」

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それでも多くの観光客が行き交います。

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現大黒屋茶房は、かって問屋を勤め、造り酒屋を営んでいました。
10代当主が40年間書き続けた「大黒屋日記」が、

島崎藤村「夜明け前」の原点になっているそうです。

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右側に上段の間が復元されてるという蜂谷脇本陣跡は、いまは資料館

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続いて島崎藤村の生家・問屋庄屋を兼ねた馬篭宿本陣跡があり、

藤村記念館となってます。

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藤村は最後の当主、島崎正樹の末っ子で、9才までここで過ごしたそうです。

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すぐ下に良く観光案内書籍などに出てくる馬籠茶屋がある、向かいには外国人が良く泊まるらしい、宿泊宿の馬籠茶屋が建ってます。

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太陽に向かって下る街道は、真向かいから陽の光を受け、日陰が無いために

宿場内は猛烈な暑さです。

おっ、ソフトがあるよ!!

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抹茶ソフトでカンパ~イ?

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約110年前の囲炉裏が残されていると言われる、但馬屋。

向かいには、藤村の父親である島崎正樹の自筆文献を所蔵している

槌馬屋資料館がありました。

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左側に宿役人を勤めた原家の清水屋資料館があり、古文書や藤村の書簡などが展示されているそうです。(有料)

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清水屋資料館から左折の道を約40m歩くと、街道は右に石階段を下ります。

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急階段を降りると、右手に「馬籠水力発電1号機」の札を掲げた水車小屋があり、

先を90度左折(桝形)。

(えっ、水車の回転で発電??)

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さらに下って枡形道を左折して進むと、正面に阿弥陀堂があり、街道はここを

右折して進むと、

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左右に土産物店が建ち並ぶ、県道7号に突き当たり、街道は横断し

真っ直ぐに進み、1里5町4.5km先の「落合宿」を目指すはずでしたが、

西日を受けての下り道・・・・、

  今日はここで足止めをすることにしました。

 

突き当たった県道7号を横断した右角に宿碑が建っていました。
馬籠宿の京出口のような場所で、右手が中津川への沿発バス停で、向かい側には

妻籠、南木曾駅方面バス停、一般車駐車場。

左手には巨大な土産物店とバス駐車場があり、十数台もの観光バスが並び次々と

出入りもしています。

まだPM2:40、ツアーのバスが次々ときて観光客を下ろしてゆきますが、

猛烈な暑さ、人々はすぐに軒下や家屋の中へ入り日差しを避けてましたね。

見晴台から高低差約100m、ここからだと上り道。

35℃だって、と悲鳴に近い声も聞こえてました。

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PM2:55発のバスに乗り中津川駅へ。 

f:id:hansui:20180816171855j:plain前泊ホテルに置かせてもらったマイカーで、今夜の宿、中津川IC近くの

ホテル(よく利用するチェーンのホテル)へ移動し、早めのチェックイン。

なんと中津川は38℃の表示です。f:id:hansui:20180816172331j:plain

7月17日、当初計画では、前日歩けなかった場合は午前中を馬籠から落合宿へ

下る予定でしたが、 朝の天気予報ではこの付近はまたも38℃予想。

あっさりと歩き旅は中止として、ゆっくり朝ドラを見てから、

それでは少しでも涼しいものを見て帰ろうと、

南木曾駅前のCaféで奨められた、南木曾、木曽川西岸の山に流れ落ちる

田立の滝(滝群)へ寄り道することに。

主爆「天河滝」までは駐車場から登り1時間。

途中に幾つかの滝があり、渓谷沿いなら少しは涼しかろう、登れるとこまで

行ってみようと車を走らせました。

木曽川を西岸に渡り、かなり厳しい山道を走ると、1時間ほどで駐車場へ。

「熊注意」の看板にビビりながら山道へ。

うん、こりゃ登山だね!

深い谷、渓流の水音、吹き抜ける山風、山道は結構な急登り。

湧き出る山肌を流れ落ちる清流に手拭を浸し「ヒャッコイ!」

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 エッチラオッチラ、途中の小滝を見ながら1時間以上かかって、

 やっと一つ目のお目当て滝、 「霧が滝」へ。

 「ゴツゴツとした岩壁を水は踊るように落ち、飛沫は大乱舞しています」

  パンフの言葉通り、素敵な清涼感溢れるいい滝です。 f:id:hansui:20180816180826j:plain

 

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 これて良かったわね・・、ああ、いい滝だ~

もう少し登れば主爆・天河滝ですが、十分いい滝を楽しめたと、

  しばし飛沫を浴びながら心地よい涼風を受けて寛ぎ、下山へ。

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2017年9月10日から10か月を掛けて信濃の国を歩き抜けました。

正式には、もうほんの少し先までですが、木曽路の旅も終わりです。

猛暑の中の街道旅でしたが、しっかりと足を進め、美濃の国入り。
一歩一歩、京の都が近づいてきます。
      中山道69次夫婦歩き旅 第28回 
              「完」

木曽路と言えば、有る方の文で「夜明け前」を引用した一文があり、

印象に残ってました。

あらためて図書館で借りてきて、目を通しました。 

 

島崎藤村の「夜明け前」序の章から


「木曾路はすべて山の中である。あるところは岨そばづたいに行く崖の道であり、あるところは数十間の深さに臨む木曾川の岸であり、 あるところは山の尾をめぐる谷の入り口である。一筋の街道はこの深い森林地帯を貫いていた。東ざかいの桜沢から、西の十曲峠じっきょくとうげ まで、木曾十一宿はこの街道に添うて、二十二里余にわたる長い谿谷の間に散在していた。道路の位置も幾たびか改まったもので、古道はいつのまにか深い 山間やまあいに埋うずもれた。名高い桟かけはしも、蔦のかずらを頼みにしたような危ない場処ではなくなって、 徳川時代の末にはすでに渡ることのできる橋であった。新規に新規にとできた道はだんだん谷の下の方の位置へと降くだって来た。 道の狭いところには、木を伐きって並べ、藤づるでからめ、それで街道の狭いのを補った。長い間にこの木曾路に起こって来た変化は、 いくらかずつでも嶮岨けんそな山坂の多いところを歩きよくした。そのかわり、大雨ごとにやって来る河水の氾濫が旅行を困難にする。 そのたびに旅人は最寄り最寄りの宿場に逗留して、道路の開通を待つこともめずらしくない。
この街道の変遷は幾世紀にわたる封建時代の発達をも、その制度組織の用心深さをも語っていた。鉄砲を改め女を改めるほど旅行者の取り締まりを厳重にした時代に、 これほどよい要害の地勢もないからである。この谿谷の最も深いところには木曾福島の関所も隠れていた。
東山道とうさんどうとも言い、木曾街道六十九次つぎとも言った駅路の一部がここだ。この道は東は板橋を経て 江戸に続き、西は大津を経て京都にまで続いて行っている。東海道方面を回らないほどの旅人は、否いやでも応でもこの道を踏まねばならぬ。 一里ごとに塚を築き、榎を植えて、里程を知るたよりとした昔は、旅人はいずれも道中記をふところにして、宿場から宿場へとかかりながら、この街道筋を往来した。 馬籠まごめは木曾十一宿の一つで、この長い谿谷の尽きたところにある。西よりする木曾路の最初の入り口にあたる。そこは美濃境にも近い。 美濃方面から十曲峠に添うて、曲がりくねった山坂をよじ登って来るものは、高い峠の上の位置にこの宿を見つける。街道の両側には一段ずつ石垣を築いて その上に民家を建てたようなところで、風雪をしのぐための石を載せた板屋根がその左右に並んでいる。宿場らしい高札こうさつの立つ ところを中心に、本陣、問屋、年寄、伝馬役、定歩行役じょうほこうやく、水役みずやく、 七里役しちりやく(飛脚)などより成る百軒ばかりの家々が主な部分で、まだそのほかに宿内の控えとなっている小名こな の家数を加えると六十軒ばかりの民家を数える。荒町あらまち、みつや、横手、中のかや、岩田、峠などの部落がそれだ。 そこの宿はずれでは狸の膏薬を売る。名物栗こわめしの看板を軒に掛けて、往来の客を待つ御休処もある。山の中とは言いながら、広い空は恵那山のふもとの方に ひらけて、美濃の平野を望むことのできるような位置にもある。なんとなく西の空気も通って来るようなところだ。…」

 

木曽路は山の中”でしたね。