PM2:20、皇女和宮通行の際、御殿が造られたという物見峠の御殿場展望台
で、暫しの足休め。
展望台には子供や、法要姿の方が数人いました。
あれ?どうしてこんな峠に礼服を着た方がいるんでしょう??
10分ほど足休めをして、街道へ戻ります。
トイレ脇で休息をしていた単独行の男性が、お先にと坂を下って行きました。
なんとこの方は、今朝大井宿(恵那)を立ち、これから御嵩、さらに足が動けば
その先伏見宿まで行くそうです。
えっ、35km!か、江戸時代の旅人も30~40kmくらい歩いたそうだけど、
なんともすごい健脚ですね。
展望台に礼服の方がいた理由はすぐにわかりました。
すぐ先向かいは森のケーキ香房「ラ・プロヴァンス」だったのです。
朝早くから行列のできる人気のケーキ屋だそうで、駐車場にはたくさんの車が
停まってました。時間の余裕があったら寄りたいとチェックしていたのを忘れて
たんです。
目的地、御嵩まではまだ5,6kmあります。
カミさんに聞いたら、日のある内に目的地へ着きたい、というので、
横目に見ながら物見峠を下りました。
坂を下ると街道は舗装路と交差し、道標に導かれて斜めに横切り「謡坂」に
進みます。
5分ほど進むと、今は涸れているが昔は絶えることなく清水が湧き出したと
いわれる、唄清水と刻まれた石碑と句碑が建ち側には解説パネルが建って
いました。
石に囲まれた清水のそばには句碑があり、解説パネルによると、
「旧謡坂村が尾張藩千村氏の知行地で、千村平右衛門源征重(五歩)が
「馬子唄の響きに波たつ清水かな」と
唄ったことから「唄清水」と名付けられた」とあるそうです。
今は残念ながら 「この水は生では飲まないでください」との注意看板が
建ってます。
斜め向いには大正2(1913)年に建立された「禁裡御所巡拝記念碑」が建って
いましたが、巡拝したのは?いつ?なぜここなのか?
(今も調べ中)
両側が竹林の謡坂行くと、カミさんが右手に石碑があるといいます。
街道書には記載のない石碑で、あとで調べましたが由来はわかりません。
竹林が先が明るくなり、唄清水から2,3分行くと建屋が見えてきます。
街道書に記された「旧善知鳥(うとう)」村に入ったようで数軒の民家があり、
続いたあの竹林納得の、竹炭を扱う竹炭工房がありました。
「お休みどころ」との札も下がってました。
*「善知鳥(うとう)」て鳥の名?とどんな鳥かなと調べてみると、
「チドリ目ウミスズメ科の海鳥。ハトほどの大きさで背面は黒褐色、くちばしは
橙色。繁殖期にはくちばしの上部に角のような突起を生じ、砂地に穴を掘って
産卵する。北海道・本州北部の離島に群生。アイヌ語起源の名、とする説もある 」
を見つけました。海鳥のようですが、この山奥の村の名になったのはなぜ??
また「能」に猟師を題材にした「善知鳥(うとう)」曲目があるようで、
猟師の多かった村からか、なんて勝手に推測楽しんだ*
竹工房の先をひと下りすると、左手に「東海道標」「歴史の道道標」があり、
右手からの車道に合流し、左折します。
舗装道路に合流したところに、屋根覆いされた「一呑み(ひとのみ)清水」跡が
あり、清水碑と地蔵尊が祀られてます。
側の解説版には、
皇女和宮はこの水を賞味し大変気に入り、後に和宮が江戸から京へ上る際、
多治見の永保寺で休息した時に、この清水を取り寄せ点茶をされた、とあります。
先ほどの唄清水もそうでしたが、昔は旅人にたいそう喜ばれ、岐阜県名水50選
にもなっていた両清水は、今ではそのままは飲めません。
「生のままは飲まないでください」の注意書き付きになってます。
清水のところで道は二股になっていて、左手の道が街道らしい雰囲気でしたが、
石柱道標に示す「中山道石畳み」の右手車道へ進みます。
うっかり、左手にあるとされる「馬頭観音」を見過ごし、西に少し傾いた陽を
受けた街道を下ると右手に「十本木立場跡」を示す石柱と解説パネルがあり
「宝暦五年(1756)刊の岐蘇路安見絵図(やすみえず)にも記載されており、
元々は人夫が荷運びの途中に休憩を取っていた場所に、次第に茶屋が建ち旅人
の休憩地となった。
古老の話しでは、参勤交代の諸大名が通行する際にはここに警護の武士が駐屯
し、一般の通行人の行動に注意が払われた」とありました。
すぐ先に道標があり街道は左に分岐し、またすぐ二つの道標が現れ右に曲がって、
西日に綺麗な紅葉を見ながら足を進めると、
分岐から2,3分の左手に、石置き屋根を乗せた井戸があり、脇に地蔵が安置され
ている、「地蔵の清水」がありました。
地蔵の清水から約50m歩くと、右手に一里塚跡があり、塚が復元され解説パネル
が建っていました。
江戸から94番目の「謡坂(うとうざか)十本木一里塚」です。
「瑞浪市にあった4つの一里塚は往時の姿のまま現存しているが、
この塚は明治になり不要となって2円50銭で払い下げられ、取り壊されていた
ものを、昭和48年(1963年)に地元有志によって復元されたもの」と記され
てます。
一里塚跡から約40m先き右側に、ほとんど読み取れない標板が建っていましたが、
街道書にある立場の共同洗い場、「十本木洗場」跡のようです。
右手一角は広めの草原になっていて、中山道歴史の道パネルがあり、
「広重が描いた木曽街道六十九次の「御嵩宿の木賃宿の様子」はこの建物が
モデルになっている。絵の中に、野菜でも洗っているような人物が描かれてい
ますが、ここが洗い場だったことからも推察できる」
と記され、浮世絵が貼ってあります。
パネル向かいに家屋があり、家前に「十本木茶屋跡」の案内がありました。
十本木は、10本の松の木があった由来の由。
広重画・御嵩宿、画の解説には、
「広重は御嶽として謡坂村の十本木立場の夕景を描いています。
そして宿場の外れにあるのが常であった、木賃宿(きちんやど)を描いています。
木賃宿は薪代を支払って宿泊し、自炊が原則でした。
前の小川では老婆が米を砥いでいます。
軒下の柱行燈には御嶽山御神燈が描かれいます、尾張は御嶽講が盛んで、多くの
講中がここに泊り、登拝に向いました。画面左は謡坂の下り坂です。」
とあります。
茶屋跡から5,60m行くと分岐があり、石畳みの敷かれた左手の急な下り道へ
入ります。
そこには謡坂石畳と刻まれた石柱が立ち、ベンチがありました。
ここで下る旅人は足元の見直し、登ってきた旅人は一息つく、だね。
謡坂の石畳は平成9(1997)年から12(2000)年にかけて修復整備
されたそうです。
木立が生い茂り、西に傾いた日差しがさえぎられる石畳みを下ると、
右手に歴史の道中山道のパネルが建っています。
説明板によると、
「西からの旅人は謡坂の急な上り坂の苦しさを紛らわすために、歌を唄いながら上ってきたことから「謡坂(うたうさか)」と呼ばれるようになり、更に転じて「うとうざか」になった」という。
そういえば街道書には謡坂の付近は、善知鳥村(うとうむら)と記してあったのですが、謡坂の読み方と関係はないのであろうか??
パネル左手に林の中へ続く細道があり、聖母マリアの案内板がありました。
細道に入り300m程道なりに行くと、キリシタン信仰の弾圧から逃れるために、
仏教の墓地を利用したキリシタン遺跡見つかり、後に聖母マリア像が建立された
そうです。
道を急ぐため、立ち寄りはしませんでした。
午後の日差しに映える紅葉を眺めながら、5分ほど石畳の下り坂を行くと、
道標や謡坂石畳の石柱があって謡坂石畳みは終わり、突き当りの舗装道路を左
に曲がり、とどめき橋を渡ってり広めの車道へと出て、旧斎藤村へ入ります。
左手に道標があり、街道であることを確認しながら車道を200m下ると、
右手に石段があり、段上に耳の病にご利益があり、平癒したら錐(キリ)を奉納
する耳神社があり、入口に標石と解説パネルが建っていました。
我が年齢からお参りと思いましたが、かなりの狭い急石段、あたりは暗さがある
ので石段下でお参り。縦型解説パネルには英文でも詳しく書かれてましたね。
そういえば、昨年の11月に塩尻過ぎ木曽路へ向かう途中に「耳塚」があったのを
思い出しました。形の似た椀がたくさん奉納されてました。
「耳塚」
時刻はPM3:20、
事前調べでは、向かう御嵩の到着駅まで約4km強。
4時を過ぎていたら懐中電灯明かりでも歩ける歩道のある国道へ、道なりに
約1.2kmを直接下る計画でしたが、何とか明るさが残るうちにたどり着け
そう。
少しゆっくり歩きになって足を進めます。
神社付近の崖が崩れそうな下に馬頭観音像があり、少し進んだところに
御嵩宿まで4100m、細久手7700mの道標があり、道路は右に曲がります。
曲がった先は道標が立つ分岐となり、街道は右手へ行き、先で再び道標に導か
れて、さらに右手の登坂に入って行きます。
坂道の上り口左手に、大きな百八十八ケ所順拝納経塚碑が建っていました。
西国、四国、坂東、秩父の霊場巡拝記念だそうですが、どなたの記念碑なのかは
読み取れず不明。
記念碑を過ぎ竹囲いの付近から、道は西洞坂(さいとさか)と呼ばれる土道の
急坂が続きます、
急坂を3分ほど登ると、右て斜面石積みの祠の中に、三面六臂のの馬頭観音が
安置されている石室があり、街道書には明和二年(1765年)の建立の
「寒念仏供養塔」と記されてますが、周りには標識らしきものがなく、
急坂を俯いて登ったら気が付かないかもしれません。
供養塔を過ぎると、牛の鼻が地面にこすれ、欠けてしまうくらいな急坂なので、
「牛の鼻欠け坂」と呼ばれている、と記された歴史の道中山道の案内があり、
「つづら折れの道となり、下り終えると京までは比較的平坦地になる」、
とも 記されてました。確かに懐中電灯では不安を覚える坂道です。
パネルのまえで、御嵩のボランティアガイドさんに出会いました。
来週、11月17日に行われる「中山道ぎふ17宿踏破ウォーキング」の一部、
御嵩から御殿場(物見峠)へ解説案内人としてグループ20人ほどの道案内を務
めるそうで、道筋状況確認をしていたそうです。
道の曲がりなどに書かれた矢印は、そのイベントや、別の企画スタンプラリー
のためだったんです。
(イベントのことは、大湫や細久手への接続交通手だてを調べて知りましたが、
日が合わず利用しませんでした。尚参加には有料で予約が必要でした)
急坂も5分ほどで下り終え、道標や石碑を右手に見てY字分岐を右手に進み、
旧西洞村へ入って行きます。
あら、トンボよ!のカミさんのひっそり声、そ~と脇を通り抜けます。
坂を下ると、田園風景が広がります。
まっすぐ進み突き当り(車が見える)を右手に曲がって、さらに車道に出た
突き当りを路面に矢印に従って左手へ曲がります。
越えて来た山方面を振り返り、
先ほどのパネルにありましたが、この先京へはわりと平坦な道のりとなるようです。
この牛の鼻欠け坂辺りを境にして、江戸へと向かう東は山間地域になります、
京へと続く西は比較的平坦地になり、ちょうどこのあたりが中部山岳地帯と平坦地
の境界線になっていようです。 幕府は要害の地として西洞村を天領とした、と
別資料にありました。
道標を右手に見て5分ほど進むと、右手の小高い丘の上には、摩利支天の石塔や、
六字名号が置かれている、と街道書にあります。
さらに5分ほど行くと、田園地帯が大きく開け道標の先で二車線道に合流し井尻の
集落へと入ります。
ここにも大井宿から十三峠へ向かうところに建てられていた、飲食関連の
注意看板がありました。
(でも、いずれも注意看板の付近は、準備しようにも何も無し、ちっと手遅れ気味)
4,50m先の道標や路面の矢印にしたがって右折し、
右に左にと道標を確認しながら何度か曲がり、10分ほど進むと、
PM4:06、ようやく国道21号に出てきました。
国道に出で右折しすぐの民家の裏手に回ると、古代の東山道をたどる途中の御嶽で
病気になり鬼岩温泉で湯治したものの、寛仁3年(1019年)にこの地で没した
と伝わる、平安時代を代表する女流作家和泉式部廟所があり、石碑が建てられ
解説碑があります。
和泉式部の墓と言われるものは他県にもあるそうですが、
廟所に立てられた石碑は
「天文五年(1563年)に建立されたと言われ、式部の歌
「ひとりさえ 渡れば沈む浮橋に あとなる人は しばしとどまる」の歌のほかに
「いずみ式部廟所 寛仁三巳未天」と記されているそうです。
国道に戻った直ぐ脇に中山道ではなく「右・中街道」と刻まれた大きな道標
があり、大井・御嵩ともあります。
古街道の解説の中に、
「江戸時代に中山道として道が整備される以前は、「東山道」という名称でした。
この大井~御嵩間も、東山道時代は十三峠とは別のルートでした。
中街道と呼ばれているその道は、大井から下街道で土岐郡釜戸へ南下し、
日吉村の宿・本郷へ入り、可児郡上之郷村のうち次月・美佐野・宿・中切をへて
御嵩宿へ達していた・・・これらによって、東山道のこのあたりが平安時代は
「木曾街道」と呼ばれ、江戸幕府によって中山道が整備されたときに「中街道」
という名前で残った。
旧中山道は、慶長七年(1602)大久保長安によって大井~大湫~細久手~
御嶽間の道筋が新たに開削されましたが、これは江戸防衛上の観点から難路を
選択した結果といえます」と記されてました。
ということは、この国道21が平安時代の古街道ということですか!?
低くなった西日を受けて、右手に大きな八幡神社の社標石柱が立ってます。
500mほど奥に鎮座しれてるそうですので、立ち寄らずに御嵩宿へ進みます。
左手に丸山稲荷神社の鳥居と小山を見送り5分ほど進むと、国道は井尻交差点で
左手に大きく曲がり可児御嵩バイパスとなって去り、街道は直進して
栢森(かやもり)地区に入り御嵩へむかいます。
街道書には、分岐する付近に日本橋から95番目の「栢森一里塚「」があったが、
位置不明と記され、確かにそれらしき遺構の姿は全くありません。
分岐の井尻交差点から100mほど先の長岡交差点の道標に、横断して左手へ渡る
表示と路面の矢印があり、信号で左手にわたって右手に進みます。
渡て7,8分ほど行くと、左手に道標、右御嵩、左細久手があり桝形道なって、
街道は左に分岐し、
11月10日、PM4:30、江戸から49番目、御嵩宿に入ります。
御嶽宿は江戸から95里27町(376.Km)、美濃国になりますが、
宿は大湫宿や細久手宿と同じく尾張藩領です。
家数66軒 (うち、本陣1、脇本陣1、旅籠28)
人口600人 (うち 男323人、女277人)
弘仁6年(815年)に伝教大師によって創建された、願興寺の門前町として
古くから栄えたといわれます。
中津川宿から続く5宿は山間の宿場ということで、宿場の規模が小さいにもかか
わらず、旅籠数は平均的な軒数(28軒)を有している。
宿長は4町56間(約540メートル)あり、と案内文などに記されています。
先ほど横断した道の右手に鳥居があり、山側段上に津島神社が祀られてました。
御嵩の地名は御嵩町に平行して流れている、可児(かに)川の対岸にある
金峰神社からきているそうで、御嶽と呼ばれた吉野の蔵王権現を勧請したため
この地を、御嶽、御嵩と呼ぶようになった、との資料がありました。
右手に弘法堂があったはずですが、なぜか左手を見ていて見過ごしてしっまた。
御嵩宿の石柱から300mほどで右手に曲がり、左手に「正一位秋葉神社上町組」
の石柱が立つ井戸があり、上屋にはしめ縄があり水神が祀られ宿場の防火の目的
もあり「用心井戸」と呼ばれたそうです。
夕暮れ迫る御嵩宿を進みます。
街道書には、用心井戸から約300mほど先の御嵩郵便局角に、高札場跡が
あった、と記されてますが、標識やそれしき遺構は何もなく、これが
「高札場跡」と勝手に決めてパチリ。
マンホール蓋、「郵」の字は、専用マンホール?
と思いましたが、御嵩宿街並み絵図によると、高札場はこちらの家の角の
ようでした。
小さな犬矢来のある家には「御嵩、可児、散策切符」などの暖簾がさがり、
スタンプラリーのポスターが貼られてます。
スタンプラリーは岐阜17宿に、長短三種類のコースが設定され、参加コース内で
のすべてのスタンプを取得で賞品がもらえるそうです。
岐阜17宿内に二つのイベントが企画されてるんですね。
陽が傾き街並みはそろそろ夕闇が迫ってきてます。
街道書では、元旅籠の吉野家
立派な家屋ですが非公開、
先となりは、御嵩町指定有形文化財に指定されている、犬矢来のある豪商「竹屋」
本陣野呂家から分家し、材木や木綿、絹織物などを手広く商っていた商家です。
主屋は大火後の明治10年再建され、約130年を経た建物です。
現竹屋資料館となって公開、隣に駐車スペース、塀に御嵩街並み絵図があります。
その隣は代々野呂家本家が勤めた本陣跡で、建坪は181坪、前棟、奥棟合わせて
室数24、畳数172畳あった。
非常の場合は北側の藪を抜けて5町離れた「宝積寺」へ避難できたという。
母屋は明治10年頃建替えられたが、本陣門は往時のものと、資料に記されてます。
隣は「脇本陣跡」で、現在は町立の図書館と郷土館の複合施設の
「中山道みたけ館」で、御嶽宿・伏見宿に関する資料が豊富で、宿場の模型を
通してみる御嶽宿の様子、大名食の復元。皇女和宮通行の折の下賜品など紹介して
いるそうです。閉館時間まじかなので、次回に立ち寄ることにして先へ進みます。
町では「みたまち 中山道御嶽宿復興プロジェクト委員会」を立ち上げ活動してる
そうです。
中山道みたけ館から約50m歩くと、唐沢川の唐沢橋をわたります。
みぎて前方に足場を組んだ大きな建物が見えました。
あっ、あれは国の重要文化財に指定されている「願興寺」では!
なんと本堂修復工事が始まってるようです。
立ち寄りは次回ゆっくりすることにして、先へ進みます。
左手に無料の観光休憩施設で軽食もとれる「御嶽宿わいわい館」がありますが、
今日は閉館です。
願興寺前が桝形となって街道は続きますが、正面が名鉄広見線御嵩駅。
11月10日、PM4:55 第32回の旅はここで足止めとしました。
名鉄広見線、JR太多線、中央線と小一時間乗り継ぎ土岐市のホテルへ
PM6:20戻りました。
空にはきれいな眉月が・・
大湫宿から御嵩宿、約18kmの旅、歩けたね~・・乾杯の旨味倍増!!
昨年11月江戸から30番目塩尻宿から木曽路へ入り、木曽川沿いに、木曽谷の
山道、いくつもの峠を越えて東美濃へ。
宿場間には現代の水場(自販機)や食事処も少なく、水、食料携帯は必需品。
そして中山道最後の山中に続く街道を歩き、江戸から49番目御嵩宿へ。
中部山岳地帯の中山道を、塩尻宿から約149km(約38里)、
1年かけて乗り切りれました。
歩いたのね~、歩けたんだ~・・さらに美酒乾~杯い!!
またいつの日か西美濃をへて京への旅を・・
「第32回、旅の完」