歩いて再び京の都へ 旧中山道69次夫婦歩き旅  第35回 1日目 太田宿~ 前編

 

 長梅雨や猛暑の8月など、4ヶ月をなんとか乗り切り、

9月は3連休が2回あって、カミさんの仕事も休み。

「3泊4日で2回歩けるわよ、そろそろ旅はいかが」のカミさんの声に押されて

「よ~し、行くか」で4か月まえに到着の美濃太田宿からの旅立ちを予定したが。

岐阜の3連休は適当な宿確保に四苦八苦。

これもカミさん案で、太田宿からは次回に回して先に加納宿岐阜市)から

足を進め、垂井宿まで歩きの変則旅へ変更し再開へ。

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 (先行旅 9月14日、第34回 旅の記録 記事)

hansui.hatenadiary.jp

 変則旅を終えて、さあ次は太田宿~・・が、

台風やら、所用で延び延びになっていましたが、

ようやく予定が立ち、神無月10月に入ってのから旅の再開。

 

令和元年10月4日(金)

直前の台風18号接近で危ぶまれましたが、歩き予定の5日、6日は大丈夫と、

カミさんの仕事終わりを待って、マイカーを走らせ、圏央、中央高速を走り

岐阜県入りし、日も暮れた午後7時、美濃加茂市美濃太田駅前の宿へ到着。

 

明けて5日(土)快晴の夜明を迎え、

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朝食を済ませ、いつものように朝ドラを見てから、宿から15分ほどの

旅立ち地、前々回、5月に足止めした太田宿中山道会館へ向かいます。

(街の星座モニュメント、太田宿街並み)

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(令和元年5月足止め、太田宿中山道会館前)

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令和元年10月5日(土)AM9:00  快晴 夏日 さあ、行こうか!

江戸から51番目、太田宿を旅立ちし、飛ばしていた加納宿へ向けて2日間で

約27km継なぎ旅の再開。 

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中山道会館の向いが太田宿・福田本陣跡で、 現在は門が残されてるのみ。

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福田本陣から約110m、古い街並みが続く道を行くと右側に亀屋酒店があり、

 

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その少し先の十字路が西枡形跡で、街道は左手に曲がります。

十字路の手前空き地の右角に「高札場跡」の解説パネル、

向い角に明治26年1893年)、名古屋の塩問屋、伊藤萬蔵が建立した石碑道標に」

「左 西京伊勢 右 関上有知 道」とあり、右に曲がると関や上有知を経て郡上に

至る郡上街道の起点でした。
今も、美濃太田駅からは長良川鉄道が分岐しています。 

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高札場の右奥に西福寺が見えたが、一説には、福田本陣に宿泊する大名がいざっと

いう時に避難する寺ではないか、と言われてるようだ。

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中山道は桝形を左手へ曲がるとすぐ右手、 手前に小さな「秋葉神社」が、

奥の建物は、左が「下町自警隊器具庫」、右に「庚申堂」。

カーテンが掛かったお堂も珍しい?

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庚申堂から約50m歩くと街道は枡形道になり、左手にその名もマンション・カーザー桝形、が建って道は右手へ曲がります。

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右手に曲がらず、桝形のマンション駐車場内を通り抜けると、すぐ木曽川

堤防へ出、すこし左手へ行くと、尾張藩太田川番所跡があり、

本陣の福田三右衛門が船積荷物改め、筏川下げの管理、流木の取り締まりなどの

役目を勤めたという。

パネルには、ここの木曽川には、明冶以降から昭和34年代まで此処に

渡し場があり、ワイヤーが対岸の岩まで張られた岡田式渡船があったとも、

記されてました。 

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桝形へ戻り右折して約60m歩き、木曽川を横断するR41号の高架下を潜って

先を左折しすると、「大井戸の渡し跡」といわれた太田宿の京口となり、

虚空蔵菩薩堂が建ち、「虚空蔵堂と承久の乱 古戦場跡」の説明版が立っている。

(船は岡田式渡船の名残りかな) 

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虚空堂は旅人の休憩所であり、巡礼の宿泊場ともなったという。

境内には、太田代官所の役人の子として生まれた明治時代の小説家坪内逍遥夫妻が

その前で記念撮影したムクノキが、今も葉を繁らせている。

街道書によると、この辺りは鎌倉時代に起きた承久の乱(1221年)のときに、

後鳥羽上皇の朝廷軍と鎌倉幕府軍が木曽川を挟んで戦った、

承久の乱古戦場(大井戸の戦い)跡とあります。 

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虚空蔵菩薩堂の右手先の太田小学校が、太田代官所のあった処で、尾張藩代官所

置かれ、中津川から鵜沼までの中山道木曽川沿った尾張領約5万4千石の村々を

統括していました。
 代官所の役宅も此処にあり、坪内逍遥は此処の役宅が生家でした。

太田小学校の生垣の一角に説明板があります。
 逍遥の父は代官所手代で、
尾張藩天明年間になると藩政改革として領内の要所地を一括支配する所付代官を

 配置しました。太田代官所天明2年(1782)に設置され、当初の代官は

 井田忠右門でした。慶応4年(1868)、太田代官所は北地総管所と改名され、

 田宮如雲が総管に任命されました。このとき一緒に勤めていたのが坪内逍遥の父

 平右衛門です。美濃加茂市商工観光課」

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太田小学校の隣日蓮宗太田教会の場所に、坪内逍遥ゆかりの妙見堂がある。 

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虚空蔵菩薩堂前を枡形にまわり木曽川の堤防上へを西へ進みます。

(江戸時代は今のような堤防は無く、木曽川沿いの道が続いてたのでしょうね)

右手の保育園では秋の大運動会の真っ最中。

赤ガンバレ!白負けるな!スピカーから流れる大音量にも負けじと、

ワウショイ、ワッショイの子供たちの大歓声。

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 日差しは強いが川面を流れてくる風は心地よく、快適な歩きが出来てます。

この付近の木曽川はかっては弱小堤防が造られていましたが、

昭和58(1983)年、台風10号による豪雨によって木曽川は記録的な大出水となり、

美濃加茂市坂祝町などで氾濫し大災害に見舞われた。

このため、この災害を契機として、緊急的かつ抜本的な改修工事が必要となり、

激甚災害対策特別緊急事業(激特事業)として採択され、築堤及び護岸工事が

実施されました。

美濃加茂市の資料より)

木曽川は「太田の渡し」から鵜沼。犬山までの木曽川が、ドイツのライン川の景観に

似ているとして「日本ライン」と名付けられてるようです。

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おっ柿だ、

街道書にある、太田宿の名物なそうな「美濃つるし」と言われる「蜂屋柿」かな?

平安の後期、蜂屋なる者が後鳥羽上皇に献上し評判になった。

その後徳川歴代将軍家にも献上された、という。

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木曽川日本ライン下りは2012年に廃止されたが、当時の使われた船かな?

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心地よい川風を受けながら、とっとことっとこいい調子。

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 土手道に合流してしばらく歩くと、右側に深田スポット公園があり、

公園の手前右側に承応三年・1654に深田村で生まれ、美濃を代表する

俳人、兼松しょう風句碑有りました。

この付近からの木曽川堤防道は「日本ラインロマンチィック街道」と名付けられてる

ようです。

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公園から約600m歩くと、木曽川の中州のような地域に渡る一色大橋に通じる

十字路があり、右側に目印となるホテルチョコレを確認ながら土手道を右折して

下ると、左下に木立の陰に石碑、石仏などが並んでるのが見えてます。

かっては加茂川の流れがあり、木曽川に通じていたところで、「大まや湊口」と

書かれた白い杭がたってました。

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さらに下って国道21号に合流し、太田宿(美濃加茂市)を抜け

木曽川右岸に沿った町、坂祝町へ入ります。

さあ~て「坂祝」、さかしゅく?なんて読むんでしょうか??

難読町名として有名なようですね、「さかほぎ」と読むんだそうです。
ほぐ(祝ぐ)とは、元来は祝詞を述べ神意を伺うの意で、

坂祝は古くからある集落で、平安時代の記録「延喜式神名帳」にはすでに

「坂祝神社」の名が残されている

(参考資料より)

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21号に合流して約700m進むと、右手は三菱パジェロ製造のパジェロ製造(株)

工場が続きますが、パジェロは確か今年8月で国内向けは販売中止、海外向けは

継続してるから工場は稼働してるのかな?

山道や渓流沿いの道などで、よくパジェロよくに出会ったな~。f:id:hansui:20191009140418j:plain

工場が途切れたところで流れる四谷川を渡ると坂祝町取組地区へ入り、

左手に日本橋から99番目の一里塚跡があり、跡地に標柱が建っていました。

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町の資料によると、「取組」という地名は木曽川の対岸にある桃太郎神社に由来して

桃太郎が鬼と「取組んで」退治した所だそうです。

桃太郎伝説は、ここにもあるんですね。

一里塚跡から約250m歩き、坂祝町役場前坂祝(さかほぎ)交差点で左折して
木曽川の堤防上へ上がると、堤防道は「日本ラインロマンチック街道」と

名付けられ、国道21号と並行して西へと続きます。

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木曽川の「日本ライン」に沿っての4kmに及ぶ土手道路を

日本ラインロマンチック街道」と命名され、飛騨木曽川国定公園景勝地

いわれ木曽川の流れや奇岩が楽しめる堤防道路です。
この堤防の場所は、かっては道路沿いで、民家やガソリンスタンドが有りました。
昭和58年に台風と秋雨前線の影響を受けて水害が発生し、多くの家屋が浸水し、

その後年数を掛け、美濃加茂市から坂祝町に堤防の築造工事が行われて今日の姿と

なったそうです。

(長野県上田市より群馬県草津町沼田市を経て 栃木県日光市を結ぶ3県に

 またる 全長約320kmの街道を「日本ロマンチック街道」呼ばれてますね)

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行幸巌記念碑が建っている。
これは昭和2年昭和天皇が巡幸されたのを記念して建てられたもので、

日本ラインの岩を砕けて流れる清流や連なる奇岩怪石を展望されたという。

巌に上られて眺めたのでしょうね。

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前方に望む山は標高275mの勝山(城山)で。山頂付近に何か建造物らしきものが

見えてるのは猿啄城跡、坂祝町指定史跡と街道書に有り、

1997年12月に坂祝誕生100周年を記念して展望台の櫓が組まれたそうです。

応永14年(1407年)の頃は西村豊前守善政の城であったが、

その後の変遷を経て 土岐氏流の多治見修理が城主となり、斎藤道三の配下となる。 
 永禄8年(1565年)8月信長は稲葉山城の外郭諸城を攻略のため美濃に

 侵攻し攻め落とし 信長は幸先のよい戦勝を喜び以来この地を「勝山」と称する

 ことにし 、河尻鎮吉が信長より猿啄城を与えられ周辺13ヶ村の領主となった が、
 天正3年(1575年)岩村城へ移り、猿啄城は廃城となった

 (坂祝町 資料より)

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堤防道を西へ1kmほど行くと、並行する国道沿い北側に「寶積禅寺」の大きな

伽藍が見えてます。

この寺名も桃太郎伝説から付けられた(桃太郎が宝物を積んで帰ってきた場所)

と言われてるようです。

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右下に国道21号を見ながら堤防上を進むと、右手に水神・庚申塔が祀られている。

街道書には、かってこの付近の木曽川には勝山湊があり、尾張の桑名方面へ向かう

年貢米の積み出し港として、また水上交通の要所として栄えたといわれます。

とあり、水神碑は明治18年(1885)4月建立、台座は大正11年(1922)5月

修繕と刻まれている。

さらに街道書には道標とあるが、どこかな?と見渡せば、後ろ下の国道21号の

勝山交差点手前の右手に、自然石の小さく道標らしき石が見えてます。 

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カメラをズームしてみると確かに文字が刻まれ道標のようです。

街道書には、

「左江戸善光寺、左せきかじ」と刻まれているとあります。
せきかじとは、刀匠関孫六で有名な刀鍛冶の関に至る道ですね。

案内板も何もなく、堤防道を歩いていたら見落としてしまいますね。

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50mほど先で右手国道21の勝山交差点へ下り、再び車の多い街道を西へと

足を進めます。

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国道21号を約150m歩くと、左側に勝山神明神社御跡地之碑が建っていて、

日本ロマンチック街道の終点です。

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日本ロマンチック街道の終点から約160m歩くと勝山西交差点があり、

街道書では、交差点の先で国道21号線から岩山の上へと道は延び、

岩屋観音堂へ向かています。

国道右側に観音堂駐車場あり、山道へ入る中山道道標が建っています。

「岩屋観音」上り口に立場があり、赤飯を三角の形に入れて、抜いた「三角強飯」が

 此処の茶屋の名物だったそうです。

 

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今では木曽川沿いに国道21号線が走っていますが、昔は大きな岩が木曽川

迫り道は阻まれて街道が出来ないので、川から岩山の上を通り道が作られました。

左側に中山道道標が建っている岩屋坂の入口があり、

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 木曽川を見下ろすと、奇岩渓流の景観が広がってます。

遠くの岩陰に何やら黄色く見えるものが動くのが見え、デジカメのズームを目いっぱいにして覗くと、ゴムボートが二艘浮かんでます。

ラフティングといわれる渓流下りを楽しんでるようです。

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土道を進むと左側に木曽川を眺める落石防護ネットの間の道になり、

坂道を上ると左側に「巌屋坂の碑」が立っている。

この碑は文化十三年(1816)に建立されたもので

「何地無山秀、何処無水流、借間東西客、有此山水不」とあるそうで、

「いずれの地にか山の秀でたるなからん、いずれの処にか水の流るるなからん、

 借間す、東西の客この山水有り無しや」と読むのだそうだそうです。

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巌屋坂之碑の先でやや下ったところに、岩屋観音堂が建っていました。
観音堂推古天皇の時に勧請されたものと伝えられ、

奥の岩窟に石造り岩屋観世音菩薩像が安置され、馬頭観音などが祀られてます。

皇女和宮も下向の際に参拝されたようです。

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岩屋観音堂から下ると落石防護ネットで仕切られた道となり、

細い道は、皇女和宮下向のときに1尺5寸(約45cm)拡幅されたそうですが、

輿を担いで通行するのにはそうとう難儀したことでしょうね。

階段を下った処を折り返す形で曲がり、ガードレールのある処で、

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斜め右方向の遊歩道に進み、約130m歩くと再びR21号に合流します。

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右手に彼岸花咲くJR高山線、ガードレールを挟んで国道21号線。

さらに左手には木曽川が流れ、鵜沼方面からの旅人ひとりとご挨拶。

街道は向うに見える山裾へと向かってます。

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江戸時代は木曽川まで岩山が迫り道が切り開けないので、中山道は山を越えて

鵜沼宿」へ抜ける道「うとう坂」を開きました。

今でも落石防止のシェルター内を走る国道21号線、そして平行して走るJR高山線

トンネルで抜けます。
中山道は右の山の一番低いところを鵜沼へ抜けます。

しばらく行くと今は営業していないドライブインやレストランの入口に、

小さな「中山道左へ」看板があり、駐車場の南端に「中山道 下りる」の道標、

下り階段があり、水路を兼ねたトンネルで国道をくぐり抜けてゆきます。

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細久手~御嵩の間にあった「謡(うとう)峠」いらい、久しぶりの峠越え、

標高140m「うとう峠の上り坂」となります。

 

御嵩宿へ向かう途中の「旧善知鳥(うとう)村」と記されたところを通たり、

その先には馬子が歌って通ることから謡坂、転じて「うとうさか」というの

がありました。

同じ呼び名なので紛らわしいですが、「謡峠」が”謡う(うたう)”の意味なのに

対して、ここでは『うとう』とは、「不案内・よそよそしい・気味の悪い」などの

山と山との間を意味する言葉、”疎い”からきているそうです

余談ですが、

善知鳥峠(うとうとうげ)には、長野県塩尻市にある峠もあり、かつて三州街道が

通り、現在は国道153号が通る峠もあるんです。

TV、「まんが日本むかし話」しのも「うとう峠」というお話があったそうです。

昔ある所に猟師が住んでいた。この猟師女房に死なれてから生活が荒れ、村の掟をも破りついに子供と共に村を追い出されてしまった。
それで都へ向かおうと思いある所で休んでいると、岩の穴から「うとう」という珍しい鳥が顔を出したので、こいつを都で売れば儲かると思い鳴き真似をしてヒナを捕まえた。そしてヒナを持って都へ出掛けたがうとうの親鳥が追ってきた。
男は都を目指して昼も夜も歩き続けたが、うとうの親鳥はどこまでも追って来た。そのうち吹雪になってしまった。男は子供を背負って必死に歩いていたが、その時うとうの声が聞こえた。男は「どんなことがあってもこのヒナは都へ持って行くぞ」と叫んだ。
次の朝近くの村人が歩いていると、人が倒れているのが見えた。駆け寄って起こしてみると父親は子供をかばうように倒れており、父親の息はもう無く、子供は生きていた。 その近くに鳥が死んでおり、その下にはもう一羽の鳥がうずくまっていた。村人が拾い上げてみると鳥ははばたき出した。
猟師の男もうとうの親鳥も、わが子を守ったのだった。

とは前に「謡峠」を調べたときにあった話です。

 

山の中の道は約1.2㌔あり、20分かかるそうですが・・・
上り口には「中山道の説明版」が立っている。
中山道は、太田宿から現在の国道21号線の坂祝・各務原(かがみがはら)境までは木曽川に沿ってありました。しかし、この先鵜沼までが大変急斜面の危険な場所であったため、ここから山合いに入りこみ、うとう峠を越えて鵜沼宿に慶安四年(1651)
に付け替えられました」(案内板)トンネルを出ると急に旧中山道の時代に戻った

ような山道になります。

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 噂さの看板、ハイ、有りました!「マムシ注意!」の赤い看板。

「蛇はまだ冬眠してないよ、用心用心」とすこし歩くのを早めます。 

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小さな小川の流れがあって、右手に丸太木橋がありますが、みなさん飛び石で渡る

ようで踏み跡は丸太橋横の飛び石へ続いてます。

渡ると先には、歩き易い平らな石畳道となっていますが、昔もあったのかな?

すこし登るとベンチが置かれ一休み処ですが、うん、危険注意看板が!

イノシシじゃ今は秋、活発な活動時期だ、これも用心用心、と通り抜け。

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先が明るさを増し、峠はそろそろ終わりかなの坂の左手に石碑があり、

街道書によれば、

峠で山賊に襲われた、田原宿の喜右衛門の菩提を弔うための石碑で、

年代は不明ですが、石碑の裏に刻まれた村役人の名前から、

おそらく江戸時代後半に建立されたものと考えられます。

この石碑の右側に「うぬまへ拾六丁」、左側には「太田へ壱里廿丁」と

刻まれており、道標の役割も担っていましたとありました。

峠道に山賊はつきものなのね、なんて変に感心したカミさんがおかしかった。

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さらに石畳道を登って行くと峠の頂上のようなところへ出て、石畳道は下りとなって

ゆきます。

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下り石畳を10分程行くと、江戸からちょうど百番目の「うとう峠の一里塚」の

北塚があります。

直径10メートル、高さ2メートルの大きさがあるそうで、対になる南塚は

戦時中陸軍の兵舎が建てられたことにより、崩れてしまったようです。

日本橋から約400キロを歩いたことになるんだけれど、 実距離の400kmは

  もう少し先だけどな・・) 

 

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うとう峠を出ると石畳の左手に森の交流館 「森の本屋さん」 が建っている。
中山道はこの先で右手の車道に出て峠越えはお終いです。

30分強で歩けましたね。

旅人がひとり、峠越えの森へ入って行きました。

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車道を下って行くと右手に江戸時代から農業用水として利用されていた、

合戸(かっこ)池が広がっている。

池の左手に街道書には記されてない、石塔石仏があるが?

周辺は整備されたばかりの様子で、街道書でもっと下ったところになってる

石塔石仏群を移設したのでは?

(実際に移設したようで、下った坂にはありませんでした)

資料では、文化6年(1809)の大乗妙典六十六部日本廻國供養塔、

明和3年(1766)の三面の馬頭観音、元禄11年(1698)の南無観世音菩薩、

宝暦11年(1761)の馬頭観音などと記されてる

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合戸池沿いに右手に回り込んだ街道は、先の分岐で左方向に進み、天王坂と呼ばれる

坂を下ってゆきます。
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坂道を下って来ると右手に鵜沼の街並みが一望できる展望の良いところに、

鵜沼宿の街並みパネルが建っていました。

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そして坂上から眺めたはるか前方のお城は、街道書には国宝・犬山城の遠望と

ありました。

現在は修復作業中で櫓が組まれ全容は見えなかったようですが、10月からは

修復の終わった天守の櫓が外されが姿を見せているようです。

うん、この姿なら旅の帰りの寄り道しよう、と決めて坂を下ります。

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 後編へ続きます。

歩いて再び京の都へ 旧中山道69次夫婦歩き旅  第34回 完  2日目 赤坂 垂井宿へ 

4 

9月15日(日) 2日目が始まります。

 

宿で見たTVでは、西美濃は最高気温35℃で、やはり今日は酷暑日になる様子。

昨日、予定より足を伸ばせたので今回の旅の予定地・垂井宿までは約7km。

その先は、約6kmの関ヶ原宿でJR関ヶ原宿駅が利用できるが・・・

まあ、垂井へついたらどうするか決めよう、がのんびり旅の良いところ。

酷暑になりそうだから午前中に進めるだけ進もう!

と、ホテルでの朝食を済ませ、即車を走らせ最寄り駅の西岐阜駅へ。

駅前駐車場に車を置いて、AM8:00発の米原行きへ乗車し、大垣駅

昨日も利用した養老鉄道線に乗り換え、東赤坂駅到着。

(アップいてる写真は、レンズの曇りを気づかず撮り続けたため、斑紋があります)

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9月15日(日)AM8:50 快晴の真夏日空の下、岐阜県神戸町東赤坂駅

歩いて再び京の都へ、第34回 二日目の旅立ち。

天気予報は猛暑、酷暑の35℃。でも、まだ朝方は風は涼しい。

バックにはガンガンに凍らせたペットボトルがずっしり。

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歩きだし踏切を渡るとすぐに大垣市に入り、先の菅野1交差点を直進し

踏切から約300m進むと中山道標識に従って、左手に分かれて行きます。

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左手に入り約350m歩くと、南方排水路に架かる白山橋があり、

渡った先、左側に白山神社が祀られていました。(写真右端 本殿)

約290年前の宝永年間に、水害を避けて当地に移るとある。

脇社の諏訪社と琴平社は、それぞれ明治期、大正期に合祀されたとのこと。

建て替えられたようで「建設記念碑」がありました。

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白山神社から少し進んだ左手に、家屋を取り壊したようでショベルカーや廃材を

積み上げた空き地があり、

道端にポツンと「史跡 中山道一里塚跡」の石碑が残されてました。

日本橋から110番目、池尻一里塚跡でした。

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一里塚跡の先で右曲りしながら約100mほど歩き、交差する道を左斜めに渡って

進むと、左手に高い幟を立てた多賀神社があり、氏子の方々が秋祭りの準備を

してました。

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約100m歩くと国 道417号と合流する左側に「交通安全」と彫られ、側面には

「左 なかせんどう、右 おおがきみち」とある現代美濃路追分道標燈籠が

建ってます。

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合流して40mほどに杭瀬川が流れ、赤坂大橋が近づいてきました。

今朝、旅立ちの東赤坂駅からの歩き始めころに見えだした、大きく山肌を
えぐり取られ山が、まじかに見えてます。 

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一級河川・杭瀬川の大きな看板を見て、川を渡ります。
街道書には、
杭瀬川は「我が国最大のゲンジボタル)が生息している」あり、大垣市の資料にも
「今から400年ほど前、初代大垣藩主・戸田氏鉄(うじかね)が大垣城入城後、
「天の川蛍」と命名されたといわれ、市の天然記念物に指定されています」
と書かれてます。
川面を覗くと、蛍の幼虫の食餌となうカワニナ巻貝の姿が見え、シーズンには
幻想的な蛍の舞を見られるんですね。
しばらく蛍の乱舞を見に行ってないわね~、とカミさんが懐かしそうに・・
まだ街道旅を始めてなかった頃、長野県辰野町のホタルの里へよく行ってたんです。

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橋を渡ると赤坂大橋西交差点となり、交差点を横断して約200m歩くと

元は本流だった旧杭瀬川に架かる赤い欄干の橋が掛かり、橋の手前が参勤交代の

大名や公家が通る時に宿役人や名主が送迎した、赤坂宿の江戸口(東口)で、

御使者場跡の標石が建っていました。
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赤坂宿江戸口から赤坂宿へ入ります。

赤坂宿は、中山道六十九次の57番目の宿場町。

日本橋から110里1町(432.1Km)、京へ25里33町 (101.8Km)
 天保14年(1843)で総家数292軒、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠屋17軒、

 人口1,1129名、
 東西に連なる町筋には、本陣・脇本陣をはじめ旅籠屋17軒と商家が軒を並べ、

 美濃国の宿場町として繁盛していました。
 現在もその古い建造物や数多くの史跡が多く残されています。

 また、赤坂宿には谷汲 街道・養老街道が通っており、分岐点である四ツ辻には

 道標が建てられています。
 明治年間には杭瀬川の豊富な水量を利用した舟運交通が最盛期を迎え、赤坂宿の

 東端にある赤坂港が重要な役割を果たしていました。

 (本陣公園の案内板より)

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旧杭瀬川に架かる赤い橋を渡った、左に建つ小豆色の高いのは?

街道書では、大灯台のモニュメントとありました。

火の見櫓モニュメント、時の鐘のモニュメントとの説はいろいろあるようですが、

地元の方にお聞きするのをわすれてしまった。

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モニュメントの真向かいの右手に「赤坂湊跡」があり、埋め立てられた旧川湊附近は、

四阿、遊歩道、噴水、などを設けた赤坂港跡として整備され公園になっていて、

当時の大きな常夜燈が残り、洋館造りの赤坂湊会館が建っていました。

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「赤坂湊跡」街道書には、

赤坂港江戸時代に設けられ、諸藩の廻米が集積され、明治期に整備されて1900年ごろ

には、500艘を超える船が往来したとされ、杭瀬川の豊富で安定した水流を利用し、

石灰や大理石産業で栄え、舟運が大正時代まで続いていた。

後に鉄道により衰退し、現在では公園にその姿を残している。とあります。

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会館は明治8年中山道と谷汲街道の分岐点に建てられた警察屯所だったそうで、
赤坂港会館として外観を復元、往時の赤坂港の繁栄ぶりを示す資料が残されている

そうです。

会館前のバス停には「芭蕉元禄の街」とあります。

街道歩きを始めたころ、松尾芭蕉の「奥に細道」に触れたことがありましたが、

奥の細道の旅は大垣を「むすびの地」にしている、とあったのを思い出しました。

会館の方にお聞きしたら、赤坂宿近くに芭蕉がよく訪れたお寺があるんだそうです。
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左手に建つ、広重画・赤坂宿は、杭瀬川付近だそうですが、赤坂湊は??

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隣に明治以前は「浅間権現社、俗に「富士の宮」と呼ばれていたという

浅 間神社がありました。
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赤坂湊から足を進めると踏切があり、 西濃鉄道市橋線で「赤坂本町駅跡」の碑が

建ってます。

この線はJR東海道線の支線(地図などでは東海道線)になる終点の美濃赤坂駅から

出て、赤坂湊の舟運に代わるものとして昭和3年に開業した、金生山の石灰石を積み

出す、営業距離2.6kmしかない貨物線で、戦前の一時期には旅客列車も運行されていて、ここに旅客専用駅があった、と街道書にあり、往時の踏切番や線路跡が残されて

いました。

(蛍の杭瀬川の橋付近で見えた、削り取られた山が金生山でした)

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 赤坂本町駅跡の踏切から約50mほど歩くと、左側に本陣跡があり公園になって

いる。

本陣の敷地は間口二十四間四尺、二反六畝ニ十九歩、建物の坪数は、

およそニ百三十九坪あり、玄関・門構えの豪勢なものであった。

本陣役は馬渕家、平田家、谷家と続き、以降は矢橋家が明治初年まで務めている。

との案内板が建ち、 公園の一角に据えられている銅像は、高杉晋作らと行動を

共にした幕末の志士「所郁太郎像」。 刺客に襲われ重傷を負った井上聞多

畳針で縫合手術し一命を救ったことが知られている。

 文久元年十月二十五日、皇女和宮が、ここに泊した。

(本陣案内板)   

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一角に「散策マップ」がある。

左右に横断する赤い線が中山道、上に向かう橙色が谷汲巡礼街道、下に向かう緑が

養老街道で、赤坂宿は、東西南北に街道が分岐する交通の要所であったと示してます。

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宿内は、旧街道らしい道幅で歩道区分が狭く、道端ぎりぎりによって歩きます。

左手の家屋は銀行で、宿場町並み景観に合わせた作りでしたね。

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銀行の右向いは旧清水家住宅(市重要文化財)で、大垣市の案内には

「8世紀半ばに建てられた宿内最古級の町屋建築です」とあります。

平成24年度に大垣市へ寄附をされた建物で、平成26年度から修復工事を行い。

現在は、歴史的建造物として保存公開し、まちづくり活動の拠点としても利用して

いる、とありました。

清水家は江戸時代には町役人を務めていた米屋で、近代には医者に転じて

屋敷地内で診療を行っていたとある。
日・祝は見学もできる。

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Caféがひらかれ、日曜には100円コーヒがサービスになるようで、

老夫婦の方が、向いの銀行前のベンチで時間が来るのを待ってました。

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旧清水家のすぐ先の路は「四ツ辻」と呼ばれ、

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街道書には、谷汲の道標をはじめ、矢橋家や脇本陣など歴史的な建物や史跡が集積し、

宿場風情が最も色濃く残っているところ、とあります。

四つ辻の右角には常夜燈の「たにくみ道道標」、天和2年(1682)に設置された

もので、 谷汲巡礼街道と伊勢に向う養老街道、そして中山道が直進して交差して

います。

左へ行く養老街道をたどれば、400mほど先に、東京、大阪を結ぶ東海道本線

支線JR美濃赤坂駅があります。

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四ツ辻を向こう左側に見える長大な町家群は、天保4年(1833)に建てられ

最後に本陣を務めた、国登録有形文化財の「矢橋家住宅」です。

左奥や右側にも延々と家が続く広大な屋敷で、東西南北100m四方あるとのこと。

(矢橋家は現代も企業群を持った家で、グループ本社の看板が掲げてありましたね)

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矢橋家住宅の隣が「脇本陣跡」の飯沼家で、宝暦年間(1751年~)以後脇本陣

勤め、明治まで問屋と年寄役を兼ねていたとのこと。

近年まで榎屋の屋号で旅館を営んでいたため、営業中として紹介されている旅行記

見かけます。

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すぐ隣が大きなかんばんを掲げ、た「宿場の駅五七処」が建ってます。
(屋号の五七は日本橋から数えて赤坂宿は57番目に由来しているそうです)

 

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先隣りはに、皇女和宮来た時に見栄えだけでもと表側だけを二階建てにした

お嫁入り普請探訪館(旧増田家住宅)があったようですが見逃したようです、

 

道路挟んだ反対側(進行右側)に妙法寺があり、門前に所郁太郎墓(左側)と

戸田三弥墓(右側)と刻まれた石碑が建っていました。

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妙法寺から約90m歩くと右側に、所郁太郎生誕地碑が建っていました。

所郁太郎は天保9(1838)年に赤坂宿の矢橋家一族、酒造家の矢橋亦一の四男とし

て生まれてるんですね。

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生誕地碑から約350mほど歩くと、赤坂宿御使者場跡で石碑が建ち、

このあたりが、赤坂宿案内板にあった赤坂宿の京(西)口になります。

後ろは小さな小山で石碑があります。手前の小さな案内板には「関ヶ原の戦」の

前日、杭瀬川の戦で亡くなった東軍・中村隊の武将・野 一色頼母を葬ったことから

「兜塚」と呼ばれるようになった、とある。

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そのすぐ先に封鎖された路のようなものが?

覗くと線路跡で、調べてみると美濃赤坂駅から、わずか1.9kmの営業だった

西濃鉄道昼飯線廃線の跡だそうです。

左の小屋は、遮断機の開閉を人が操作していた踏切詰所のようでした。

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地域の資料によると、

そもそも、東海道本線美濃赤坂駅自体が、大垣駅の先から分岐している5.0kmほど

の支線の終点で、赤坂近くの金生山は石灰岩の産地で、貨物輸送のために、

杭瀬川や揖斐川の舟運にかわって細かい鉄道網が敷かれて、今はトラック輸送に

とって代わった。
輸送力の増強を図るために、独自の鉄道を敷くことができるだけの財力が有った、

ということだそうです。

踏切跡を過ぎると、変わった町名の昼飯町((ひるいまち)に入り左右は石灰工場が

続き、十字路のカーブミラーで、お遊びショットしたりして300mほど行き、

「昼飯大塚古墳←」の案内板の所で左手へ入り先を右折して古墳へ立ち寄りです。

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「昼飯大塚古墳は今から約1600年前に築かれた岐阜県最大の前方後円墳です。

全長約150m、後円部径96m高さ約13mの前方後円墳。県内第一の規模の古墳。

4世紀後半頃に築造され、その特徴は墳丘の長さが150mにもなることやその構造が

三段築成となる点、さらには後円部の頂上に竪穴式石室、粘土槨、木棺直葬という

3つの埋葬形態が存在する点にあります。
 保存整備では現況の墳丘を修復しながら、後円部の一部に復元ゾーンを設けて葺石や埴輪、周濠を復元しています」

ちなみに、近くには小ぶりの「大塚古墳1号」「大塚古墳2号」がある、と案内板が

あります。

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古墳の頂上で期待の山並みは・・・見えた!!

歩き中、遠くに霞むように見えていた、花の山・伊吹山

もう目の前にど~ん、と優美な姿を見せてました。

(だいぶズームしてますが、思っていたよりくっきりと)

右手には砕石で頂上を亡くした金生山が、後ろ姿を見せてました。

(写真下左)

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古墳の前方へ下り、回り道して街道へ戻ります。

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街道に戻りすぐ右側に、早野邸跡の岐阜大学セミナーハウスや、

風情ある門構えのお屋敷、竹細工の工房などを見ながら、いい雰囲気の街道らしい

道を歩きます。

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右手奥に、明秀寺を見送り少し先に浄土宗如来寺があり、

参道右手に、なんで?と気になっていた「昼飯」の由来か書かれた

説明板がありました。

(むかし、善光寺如来という仏像が、大阪の海から拾い上げられ、
長野の善光寺に納められることになりました。
その仏像を運ぶ人が、青墓の近くまで来た時は五月の中ごろでした。
近くの山々は新緑におおわれ、つつじの花咲き乱れる素晴らしい光景です。
善光寺如来を運ぶ一行は、小さな池のそばでゆっくり休み、
美しい景色に見とれました。ここで一行は昼飯(ひるめし)をとりました。
そこから、この辺りを昼飯(ひるめし)というようになりました。
しかし、その呼び名が下品であるというので、
その後、飯の字を「いい」と音読みにして「ひるいい」と
呼ばれるようになりました。でも、「いい」は発音し難いため、
「い」の一字を略して「ひるい」と呼ばれるようになりました。
また、この池は一行が手を洗ったので、「善光寺井戸」といわれ、
記念に植えた三尊杉の木も最近まで残っていたということです。)
大垣市立青墓小学校・大垣市史青墓編より)とあります。
さすがに小学校での由来の教えですね。

非常に解りやすくやさしく書かれている。
「ひるめし」と書くのにどうして「ひるい」というのかと、質問があったのかな。

浄土宗は家の宗派なので、ここで手を合わせて足を進めます。

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如来寺をすぎて少し先は昼飯交差点で、交差点を横断するとすぐ大垣駅で分岐した

これも東海道本線の下り線で、ガードをくぐります。
もともと大垣から関ヶ原に向けての急勾配を迂回するための路線で、

一時は上り線の垂井駅とは別に、新 垂井駅も設置されていた。
その後、下りの特急や貨物は、こちらを通るらしいです。 

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東海道本線のガードを潜り約100m歩くと、史跡の里青墓町標柱が建っていました。

 赤坂が中山道宿場の指定以前は、青墓宿は鎌倉時代東山道の宿駅として栄え、

遊女の里として知られたそうですが、赤坂湊の繁栄と共に青墓宿は衰退。

青墓を地元では「あおはか」ではなく「おおはか」と呼ぶとのこと。

この地方の王様の大きいお墓という意味の「王墓」「大墓」から「おおはか」、

「青墓」という地名になったとのこと。

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史跡標柱から約30m歩くと、右側に粉糖山古墳があるので、街道から見ると

墓石が立ち並び町営の墓地になっていたので、立ち寄らずに進みます。

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約300m弱歩くと右手道脇に「国宝・観世音菩薩円興寺」の石柱が建ってます。

街道書などによれば、

 円興寺は最澄が創建し、1574年(天正2年)織田信長により焼き討ちにあい
 全てを焼失。この際本尊が勝手に動き、石の上へ難を逃れたというこのことから、

 本尊を石上観音と呼ぶ。
 1658年(万治元年)に再興され、現在地へ移転し
 本尊は木造聖観音菩薩立像【石上観音】として国の重要文化財です。

と記されてますが、この先の山の中腹にあ るそうで立ち寄は・・止めときます。


石柱の立つ奥正面は白 鬚神社で、隣に山門が青野城表門を移築したという延長寺が

あり、と街道書に有るの寄ってみることに、

白鬚神社は、滋賀県西部の高島市に本社があり、国つ神のサルタヒコを祀っている。
岐阜県に分社が多く、最澄が白鬚神社の霊験を受けて、円興寺を起こした。

隣の延長寺の移築した青野城表門は、と向かいましたが、

あれ、この門が??  新しく建替られてしまい表門は消滅したようです。

青葉城は別資料によると、「天和2年(1682)稲葉正次の子・正休は1万2千石の

 大名となり青野城を築城したが、2年後の貞亨元年(1684)8月28日江戸城本丸

 内で従兄弟でもある大老堀田正俊を刺殺し、自らも斬殺され青野藩は廃藩となって

 いる」とある)

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街道に戻り、豪壮なお屋敷を目にしながら、

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白鬚神社参道口から足を進めると、右手に照手姫水汲井戸入口看板が建ち、

左手へ入ると井戸がある、と書かれてます。

照手姫といえば、説教節や浄瑠璃のなどの芝居で知られる伝説の人、小栗判官の妻。

「青墓宿に売られてきて、主人から無理難題の苦役を強いられ、かごで水汲みをしたと

伝えられる井戸の跡」ともあります。

帰ってか調べた大垣市の資料には、「平成3年に小栗判官ゆかりの地が大垣に集り

小栗サミットが行われました」ともありました。

そういえば、歩いた東海道藤沢宿入口の遊行寺境内に判官と照姫のお墓があり

ましたね。

井戸へは立ち寄らずにさきへ進みます。

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看板のすぐには、旧圓願寺跡・芦竹庵の標石が建っており、芦竹庵は奥州に向かう

義経が源氏再興を祈願し、杖代わりの芦を地面に突き刺すと芦竹になったそうです。

(ここにも照姫の墓といわれる塔があるそうですね)

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芦竹庵跡しばらく歩くと、右側に青墓宿碑が建ち、右奥にますます近くなった

伊吹山が望まれます。

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青墓宿碑から大谷川を渡ると青野地区へ入り、少し先で県道216号に突き当たり、

街道は斜めに交差した先に進むのですが、直進の横断歩道はなく、県道を右折し

約50m進み横断歩道で渡ります。

渡ったところのコンビニがあり、イートインコーナーが有ったので、

時間は早いが朝食も早かったからと、いつものコンビニサンドで質素に昼食。

AM11:00

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冷房の効いた店内でゆっくり40分ほど昼食休憩を取り、コンビニの敷地内を横手に

出て、街道の県道228号に合流です。

天気予報どおり日差しを遮るもののない街道は、猛烈な暑さの夏街道となってました。

約550m歩くと、右側に灯篭国分寺道標が建っていました。
道標を右折して約300m歩くと美濃国国分寺跡があり、国史跡として「歴史公園」

として整備されていそうですが、東海道の旅でも国分寺跡には寄ったことがある

ので立ち寄らず、道を入った約40mほどの左側、教覚寺へ寄りました。

教覚寺入口右手には、青野城城主であった、稲葉石見守正休公碑が建っていました。

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鐘楼の石垣に、約2億5千年前金生山が海底だった時に繁茂した貝「フズリナ化石」

が露出している。とありますが、どれからな~???

フズリナ古生代に全盛期を迎えた有孔虫で、化石は石灰岩の中に多く存在する

そうです。

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街道に戻り熱気を帯び始めた県道228号を歩くと、ここにも右側に

地蔵堂が祀られ、すぐ先右側に日本橋から111番目の「史跡 中山道一里塚跡」。

標石の後ろに大正5(1916)年に建立された大神宮常夜燈が建っていました。

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一里塚跡から約500mくらいでしょうか、右側に駒引稲荷神社が祀られており、

参道口左側にここにも地蔵堂がありました。

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数分進むと駒引交差点で、大垣市から不破郡垂井町に入ります。

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交差点を横断し約100mほど、右側に平尾御坊道道標が建ち2体の地蔵がある。

平尾は、街道の北側に広がる垂井町の地名で、「平尾御坊」とは、道標から右に

入ったところにある願證 寺を指すようです。

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前方に、どんどん近づく伊吹山

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道標から約600m歩くと追分交差点があり、真っ直ぐに渡り進みました。

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交差点を渡り歩くと、右手に喜久一九稲荷神社が祀られ、すぐ先の広場の一角に

地蔵堂が祀られていました。

隣のごみ籠、何とかならんもんでしょか・・・

それにしても地蔵堂の多い西美濃街道ですね。

木曽路を抜けた中津川宿くらいまでは、圧倒的に馬頭観音庚申塔(塚)が祀られて

ましたが、西美濃街道でほとんど見かけることはありませんでした。

登り下りのほとんどない西美濃路だから、牛馬による荷役などは無かったのかな?

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地蔵堂から約90m歩くと、中山道は梅谷川にぶつかり、川沿いに少し進んだ

ところで、左から来た道に合流するT字路になり、右に曲がってゆきます。

合流手前左の一角に、道標と右に白い案内板が建ち、垂井町 指定史跡とあり、

石の道標は1709年に建てられ、「是より 右東海道大垣みち 左木曽海道たにぐみ

みち」とあり、裏に「宝永六年己丑十月 願主奥山氏末平」とある。

中山道の道標中7番の古さである。とも記されています。

東海道の宮宿に通じる美濃路で、幕府道中奉行の管轄下に置かれ、大垣、墨俣、
起、萩原、稲葉、清洲、名古屋を経て宮宿へ至っているんですね。

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追分を右に取り、直ぐに梅谷川に架かる追分橋となり、橋を渡って約50m進むと

相川橋北交差点、左折して横断歩道を行き相川橋を渡りました。

 「相川橋」を渡らずに直進すると約3.6kmほどで豊臣時代の戦略家

竹中半兵衛」の陣屋跡へ出ます。

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渡る橋からも大きく伊吹山が、

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相川は昔からの暴れ川でたびたび洪水があり、江戸時代の初期の渡川は

人足渡しだったそうで、渡った橋のたもとの左側に、人足渡し跡標板(白)が

建っていました。

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人足渡し跡から、道路を渡ったところに垂井宿江戸(東)口の東見附跡があり、

9月15日 PM1:00、江戸から437Km(111里10町)、

なんとも遠くへ来たもんだ~♬、で57番目、垂井宿へ到着です。

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中山道の旅も残すところ100km弱になりました。

宿内を通り、次の58番目、関ヶ原宿へはここから約6:00km(1里12町)。

東海道関ヶ原駅を利用できるので、時間的にも十分歩けそうですが、

気温がぐんぐん上がり、猛暑の35℃越え。

酷暑だった昨年夏の妻籠、馬籠、中津川でのバテバテ歩きを思い出し、

腎臓機能要注意の医者の指導を心配したか、ドクターストップならぬ、

カミさんSTOPで、まあ、急ぎ旅じゃないよね、と

歩いて再び京の都へ、第33回を足止め。

東見附跡から約70mの垂井駅入口で。足止めのスナップショットを。

先には天下分け目の関ヶ原、そしって最後の難所?琵琶峠が待ち受ける。

あ。いやいやその前に、飛ばしてしまった、美濃太田加納宿を歩かなくちゃ、

なんてお喋りしながら 左に折れて300mほどの東海道本線垂井駅へ。

すぐに入って来た電車で大垣乗り換え愛知県・豊橋行きに乗り換えて、

車を置いた西岐阜駅へ向かいました。

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(旅の後書き)

PM2:00に車を回収しましたが、宿へ戻るのはまだ早い。

明日の寄り道予定だったが行ってみよう、と向かったのが岐阜城

「お城は山の上だし、ロープウェイも有ってスイート登れそうだから」

と車を走らせましたが、なんと駐車場は臨時も含めてすべて満車で長蛇の列。

さすが3連休の中日。

少し待てば止められるだろうと並んび、案内係の方にお聞きしたら、

ロープウェイも小一時間待ちで、ずらりと並んでる由。

あっさり、予定通り明日にしよう、近くの鵜飼いの街並みや、長良川沿いを

回り道したり、途中食品スーパーで買い物したりで早めに宿入り。

明けて16日月曜(敬老の日でしたね)、いつものTV朝ドラを見てから再び

岐阜城へ。

ロープウェイ側の駐車場へ車を停めて、いざ、いざとロープウェイでの城攻め。

(岐阜観光パンフレットから抜粋)

岐阜城金華山(きんかざん)山頂に位置し、岩山の上にそびえる岐阜城は、

難攻不落の城としても知られ『美濃を制すものは天下を制す』と言われるほどでした。
戦国時代には小説「国盗り物語」の主人公である斎藤道三金華山稲葉山城と称した

居城でもありました。その後、織田信長がこの城を攻略、城主となり、地名を「岐阜」に、「稲葉山城」を「岐阜城」に改めたといわれています。現在の城は、昭和31年に

復興され、金華山一帯は平成23年(2011年)に「岐阜城跡」として国史跡に指定されています。」

 ふむふむ、司馬遼太郎の「国盗り物語」、大河ドラマ平幹二郎たったね。

(予備バッテリーを車に置き忘れて、写真はこれだけ) 

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お城の天守閣へ登り、眼下に鵜飼で有名な清流長良川や、街並みを取り囲むように

並ぶ山々。恵那山は判別出来ましたが木曽御岳山は?北つらなるといわれる乗鞍岳

アルプスはあれかな? 西には伊吹山などの山並み、南には濃尾の大平野が豊かに

開け、木曽の流れが悠然と伊勢湾へ向かっている。

そんな景観をゆっくり楽しみ岐阜を後に、帰りは高野山以来の名神高速、新東名

などを走り家路へ。

4か月ぶりの街道歩き旅を終えました。

 

 

 

 

 

 

歩いて再び京の都へ 旧中山道69次夫婦歩き旅 第34回 1日目  後編 美江寺宿~どこまでかな?

49月14日 PM2:20、

江戸から55番目、美江寺宿を後にします。

 

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墨俣分岐から右手に曲がり、美江寺宿を後に約10km二里8町の

次の宿場町、赤坂宿へと足を進めますがどの辺まで進めるかな?

午前中は風も有り日陰は涼しさを感じる歩きになっていたが、お昼を過ぎてから

ジリジリ気温も高くなり、予報通り30℃を越えて来た様子。

西へ向かう街道は日が真上からしだいに正面からの日差しとなってきて、

街道は日陰も少なくなってきた。

美江寺の京口からすこし歩くと右側に「美江寺千手観音堂」があり、その先が

新月橋で犀川を渡ります。

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先に記載していた、広重画・美江寺宿はこの付近を描いたといわれるようで、

解説板も有りました。

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千手観音堂から犀川新月橋で渡ると、田之上の集落に入り、その先で街道は

T字路になり左に曲がる。
突き当りに浄土宗千躰寺で、鎌倉後期に美江寺の地で没した遊行僧・自然居士作の

高さ12~23cmの檜一木造の阿弥陀如来立像千体が8段に並べられており、

千躰仏と呼ばれ、瑞穂市指定有形文化財になってます。

(堂内は薄暗く覗いても良くは見えませんでした)

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左折してしばらく歩くと、右側に旧新月村の鎮守神明神社が祀られています。

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神社の80mほど先を左折して川を渡って行き、街道を外れ寄り道すれば、

江戸城大奥・春日の局の旦那稲葉正成の十七条城だった跡の出世熊野といわれた

熊野神社が街道書には記されてますが、パスし約300mほど進むと右側に

JAもとす巣南があり用水路脇に用水路のフェンスに隠れて、

大垣藩傍示石が建っていました。

美江寺宿大垣藩預かりの幕府領でしたが、ここからは大垣藩領になっていた

ようです。

(うっかりすると見逃してしまいそう、フェンスの工夫してほしいような)

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100mほど先で分岐を直角に右曲がり、すぐの県道156号のT字路を左折し
朱色の欄干の長護寺川に架かる長護寺橋を渡ります。

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左手に巣南中学、右側に中山道大月多目的広場と名付けられた広大な広場のある

中山道は公園を左斜めに横切って続くようですが、

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先の右手に見えた巣南交番の道路標識手前に自販機が見えたので、立ち寄らずに

そのまま進み、冷たいお茶をゲットし交番前の日陰をお借りして一休み。

交番の建物の表示は、最近よく見かける「KOBAN」だけで、〇〇交番などの

日本語無し。カミさんは「なんだかね~・・・」

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交番前での一休みから道をチョピリ戻り、左折し左手の用水路に沿って少し歩くと

多目的広場を横切ってきた旧中山道と合流したところに、中山道左曲がり矢印の

標識があり、用水を渡って田圃の中を斜めに進む農道のような道へ入ります。

この道が旧中山道と記す標識が建っており、この辺りは江戸初期に植栽された

松並木があったそうですが、残念ながら土地改良等で消滅し日陰を作るものは

何も無し。

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さらに約700m歩き、ゆるく右カーブすると、突き当りは揖斐川(いびがわ)の

土手で左折します。

付近は瑞穂市呂久の集落で、かっては突き当りの揖斐川(いびがわ)は無く、

まっ直ぐに呂久の集落の中を道は伸びて行き、その先で旧川を呂久の渡しで

渡っていた、と街道書に有ります。

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左折して約200mくらい歩くと、右手の揖斐川(いびがわ)を鷺田橋(さぎたばし)

で渡るためのスロープ道で、左側に旧中山道の街道歩き案内標識が建っていました。

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案内標識を確認、正面のガードは潜らず左へ折れて50mほどのガードをくぐり、

右手に折れて鷺田橋への側道歩道を上ります。

(写真右はスロープを登ってきた道を振り返り)

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ここでPM3:20 出発の加納宿から約13km(3里強)。

ここから2日目予定の赤坂宿を経て垂井宿へは約13km。

当初はここを1日目の足止めとして、戻る形で街道を離れ県道を東へ向かい、

約1.5㎞先の樽見鉄道・十九条駅経由で出発地の岐阜駅へ向かう予定でした。

気温は30℃くらいのようだが、風が吹き出し意外とまだ歩けそう。

事前確認では約5km先に名鉄養老線東赤坂駅がある。

 そこから大垣へ出て東海道線に乗り換えで岐阜駅戻れる。

となれば、明日は35℃の猛暑になりそう、今日の内に距離を縮めよう。

「足は大丈夫、まだ歩けそうなの?」とカミさん心配げだったが、

思い切って先へ足を進めることに。

揖斐川を約700mの鷺田橋((河口から45㌔地点)の瑞穂市呂久と書かれた

歩道橋で渡ります。

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揖斐川は、岐阜県三重県を流れる木曽川水系の一級河川
揖斐川長良川木曽川とともに「木曽三川」と呼ばれ、揖斐川長良川は河口

近くで合流して伊勢湾へ流れ込み、このために河口付近の旧東海道は宮から 

三重県桑名へは海上七里の渡しとなっていた。

現在は河口横断の木曽川大橋揖斐川長良川大橋で尾張名古屋から三重へと

巨大な吊り橋で渡ってゆき、東海道歩きの時は何回も車で渡った懐かしい

思いでがありますね。

 

古くは木曽川長良川揖斐川木曽三川は網目状に繋がって流れ、大正時代に

至るまで呂久地先(岐阜県瑞穂市)は、川幅が狭く湾曲もはなはだしく、

その上堤防もなかったため、洪水により広大な区域が浸水被害を被っていました。

これらの氾濫を防止するため、大正12年(1923)より始まった木曽川上流改修

(大正改修)により、特に湾曲の激しい平野井川合流点付近の呂久川を廃川とし、

新川1500mを開削することとしました。
この改修工事により、湾曲のはなはだしかった呂久川は直線化した揖斐川として

生まれ変わりました。
そんなことで江戸時代の街道は、先ほどの松並木があった道から現揖斐川を斜めに

通り、呂久の渡しで旧揖斐川を渡っており、当然鷺田橋はありませんでした。

国土交通省中部地方整備局木曽川上流河川事務所の資料より抜粋)

 

大きな川幅を悠然と流れる揖斐川

大正末期の付替工事までは川ではなく、呂久の集落で田畑や人々の暮らしがあり、

中山道が通っていたとは・・・不思議な感覚になります。

遠く山並みが見え、川は西美濃一体の水を集めて伊勢湾へと流れている。

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渡り終えた左側に呂久歩道橋があり、左折して歩道橋を渡ります。

橋下へ下り車も通る土手下道を進み、川で分断されしまった神戸町の呂久地区へ

入ります。

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土手下道をさらに約60m前進するとY字路分岐となり、揖斐川堤防下の道に沿って

建つ良縁寺に沿うように、街道はナナメに進む。

この斜め路が瑞穂市側の土手突き当りから斜めに通ていた街道に、

つながっていたようです。

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良縁寺には、呂久の渡しで舟年寄りを勤めた馬渕善左衛門の墓標があるそうですが、

立ち寄ることなくには先へ歩みます。
良縁寺から約40m歩くと、白鳥神社の鳥居が建っており、鳥居の奥に祀られてる

本殿が遠く見えてました。
白 鳥神社は、白鳥になって天に昇ったとされるヤマトタケルが祀られてるよし。

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白鳥神社参道入口の鳥居から約100m歩くと、道なりに右に曲がり、

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約20m進むと左側に即心院があり、参道口に地蔵堂(写真はボケボケで無し)が

祀られ斜め前には蓮生寺があります。

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蓮生寺から90m歩くと、右側に呂久の渡しの舟年寄りを勤めた馬渕家の

長屋門があり、門の右手脇の石碑は、明治天皇御小休所跡の標石です。
馬淵家は1610年(慶長15年)ごろに呂久の渡しに13あった船頭屋敷の船年寄を

務めており、船頭8人、助務7人が置かれていたとされる。

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馬渕家長屋門の前が街道の分岐で、左折して枡形状の呂久旧道を進みました。
呂久旧道は分岐を約60m進むと右折し、ゆるやかに左に曲がったところに、

「瑞 穂市指定史跡・小簾紅園」が現れます。

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中山道を降嫁する和宮が、呂久の西を流れていた呂久川(旧揖斐川)を御座船で渡る際、
対岸の馬淵孫左衛門の庭の紅葉に目を留め、簾越しに眺めつつ歌を詠んだとの記録から、昭和4年になって整備された小簾(おず)紅園があり、
皇女和宮の遺徳を偲ぶ歌碑や呂久渡船場跡(写真左下の池が跡)がある。

御座船で渡る和宮は、対岸の馬渕家の庭に紅葉しているもみじを目にとめ、

「落ちて行く 身と知りながら もみじばの 人なつかしく こがれこそすれ」と

和歌を詠まれたという。

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小簾紅園の西側の入り口に、「揖斐川呂久渡船場跡」の碑がある。

呂久の渡しは天正8年(1580年)に織田信長の長男信忠によって開設され、

江戸時代に入り中山道の渡しとして引き継がれた、との説もあります。

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 小簾紅園は、当時の呂久川沿いにあったようで、案内図によれば

大正14年の「揖斐川新川付替 工事」により、図の真ん中の大きな流れの旧揖斐川

廃川となり、図の右側に描かれている現在の流れに代わったとあります。

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小簾紅園を後に街道に戻り約20m歩くと、小川のような流れが豊後川で、

揖斐川(旧呂久川)であったそうですが、右手の門付民家に気をとられたとみえて、

カメラを向けるのを失念、写真なし。

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豊後川から約350m歩くと、左側に地蔵堂が祀られていました。
地蔵堂すぐ先の平野井川に架かる新橋を渡ります。

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新橋を渡ると約20mでT字路分岐となり、右折して進みます。
平野井川を渡る川の向こうに横たわる高い土手が見えるが、

街道書によれば、「大きな河川が多い濃尾平野の家や田畑を、洪水から守るために

築かれ、「輪中」と呼ばれる大垣輪中の一つで、大島堤と呼ばれている。
大島堤の手前は瑞穂市で、堤が境となって向こうは大垣市である」とあります。

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渡った突き当りはT字路で、右折して約300mほど坂道を行き、大島堤上の道に

合流する左手前に「左 木曽路 右 すのまた宿道」と彫られた墨俣追分道標が

建っていました。(京方面から来た旅人へかな?)
この追分も右手へは一夜城で知られる墨俣に向かう道なのです。

(写真、堤左下は歩んできた中山道、道標右手の道を左方向が墨俣方面)

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大島堤道に合流し左に曲がる平野井川を遠巻きにするように進みます。

堤上道はバス通りでもあり、地域のコミュニティーバスが通て行きました。

右下を平野井川を見下ろしながら足を進めると、右手平野井川向うに神社の幟が

見えてきます。

街道書を見ると、神明宮が祀られその前に日本橋から109番目の「柳原の一里塚」

跡があり、標柱が建っているとあります。

持参の街道書や他の解説でも、一里塚へは「寄り道」場所的に記載されてたが、

「むかしの平野井川は神社の裏手を流れていたといわれ、一里塚が有った当時の

中山道は平野井川に沿っていて神社前を通た」との説があります。

神明宮へは、大島堤上道から右手へ下る道が分岐しており、平野井川を柳瀬橋で渡る

とありますが、堤上から眺めて先へ足を進めます。

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神社を見下ろしたすぐ先で、左手に下る道が分岐しており、標識を確認しないまま

下ってしまいました。

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途中で気が付きましたがそのまま下ると、右手から下ってきた標識がある道と

合流し、その先で中山道標識に従って右折し堤下道を進むと、Y字路となり、

再び中山道標識に従って直進の堤下道へ入ります。

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約200mくらい先の、県道高架下を潜り200mほど行くと分岐があり、

直進は再び大島堤に合流する道で、街道は左に曲がります。
曲がり角で振り返ると、京に向かって三つの曲がりと僅かな曲がりが一つあることを

知らせる「中山道三廻り半」の石碑が建ってました。

(向きが変ですね)

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左折して約180m歩くと、2つ目の曲がりとなり、左角に祇園信仰の神社である

素盛鳴(すさのう)社が祀られていました。
1888年(明治21年)の大垣輪中瀬古堤決 壊時に、曽根赤花一帯が汚泥海と化した時に

神府が漂着し、スサノオと鑑定されたことから小さな祠を設置し、1913年に

現在地に遷座した、との案内板がありました。

さらに左曲がって、三津屋の集落に入ってゆきます。

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右側は排水路の水門、左側は桜並木になっている曽根排水路の境橋を渡り、   
しばらく歩くと三回り半の最後の僅かな曲がりがあり、さらに約200先の

東の川橋を渡って進むと三津屋町3交差点へでます。

交差点を右折してゆくと、弘法大師が爪で彫った薬師如来が安置されている

薬師堂があるそうですが、立ち寄らず先へ進みます。
三津屋町3交差点から約50m歩くと、左側に三津屋町の鎮守秋葉神社が祀られて

いて、さらに約100mほどに右側に浄土真宗大谷派の長徳寺がありました。

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長徳寺前から約200mくらい歩くと十字路分岐右角に、聖観世音菩薩が祀られ、

「右ぜんこうじ道、左谷汲山ごうど いび近道」と刻まれています。
右折した道は、西国三十三ケ所札止めの谷汲山華厳寺に通じる谷汲山道だそうです。

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三津屋の集落を抜けたところの、建設中の高架道路手前の曲がり角に

「七回り半道標」(黄丸)の石碑が建っていた。
確かに、ここから街道は、右左と曲がりながら西に進んでいくようです。

一説には、「長い大名行列が幾度にも折れ曲がったて通っていた様子」とも有り、

見通しが良さそうなこの地形では、単に曲がりが多いより、曲がりくねる

大名行列の方が絵になりますね・・

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曲がりながら建設中の高架道路の下を潜るなど約120m歩くと、加納排水路があり

西浦橋が架かっていました。

f:id:hansui:20190924211926j:plain西浦橋から約100mくらに、二車線道を横断しすぐ先民家の角を右折。

約100m歩くと中沢交差点横のT字路(県道230号)に突き当たり左折し、

この道は大垣市神戸町の市町界道になってます。   
合流した県道230号を約200m歩き右カーブしてゆきます。

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右折して約90m歩くと、左折する右角に地蔵堂が祀られ「北かのうむらやくし」と

彫られた石柱が建ってました。

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左折すると遠く2~300m先くらい先の、踏切標識が小さく見えてます。

デジカメをズームして覗くと、今日の目的地養老線の北大垣第9踏切。

足が早まり、PM5:00 養老線の北大垣第9踏切到着!

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踏切手前の小道を右側へ入るとすぐが名鉄養老線東赤坂駅

到着写真を撮る間もなく、カンカンカンの踏切警報音が鳴りだし電車到着。

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 乗車10分ほどで大垣駅。すでに入線していた東海道線豊橋行きへスムーズに

乗り換え、岐阜市出発地で車を回収、途中買い物をしてPM6:30、

約18kmを歩いた一日目の旅を終えました。

いや~、4か月ぶりの長距離歩きでしたが「歩けた!!」「あるけたわね~!」

 

街道旅は二日目と続きます。

歩いて再び京の都へ 旧中山道69次夫婦歩き旅  第34回  1日目   中編 河渡宿~ 美江寺宿へ 

59月14日(土)AM9:00、江戸から53番目の加納宿を旅立ち約6kmm。

正午12時、54番目河度宿。

 天王川をゆるく右カーブしてる慶応橋で渡り、河度宿を後にします。

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橋を渡る少し前に工場などでサイレンが鳴り、正午に。

橋を渡って食事処が有ったらお昼にしよう、と話していたすぐ先に牛丼店。

朝飯が早かったのでお腹も空いた、でお昼を兼ねて一休み。

さあ、スタミナも付いたぞ!といても当然並盛ですが・・旅の再開。

店の前付近から直線道路が続く生津縄手呼ばれる地域で、

生津縄手は、慶応橋を渡った処から県道23号が交差する生津交差点の先きまで

700m強続いています。平安時代には荘園があったといわれるそうです。

慶応橋から縄手の中間くらいまでは、道路の北側が岐阜市、南側が瑞穂市で、

縄手の中間くらいから瑞穂市へ入ります。

 右手にカーブして縄手は終わり、

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工場や民家が続く歩道のない路は、生活道路のようで結構車の往来が多く、

注意しながらたんたんと足を進めます。

右手に生津小学校を見て縄手の曲がりからさらに700m強足を進めると

突き当たるようなY字路分岐で石碑と現代の道標があり、小さな祠の馬場地蔵堂

あり、持参街道書には「墨俣街道との馬場追分と呼ばれていた」とありました。

 

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馬場地蔵堂からしばらく行き、糸貫川を渡ると本田の集落に入る。
街道書には「糸貫川は流末で天王川に落ち合って長良川に注ぎ、

 かつては「鶴の名所」で和歌の歌枕として詠まれていた」とあります。
糸貫橋を渡った左に、南無延命地蔵尊が安置されている文化6(1809)年に

建立され本田地蔵堂があります。

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本田の集落へ入ると右手民家の庭の一角に、現代風門扉の本田仲町秋葉神社

祀られてます。

旧本田村は東町、仲町、西町で構成された立場があったそうです。

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左手に緑の中山道道標と「中山道街並み」と記した木柱標識が立てられ、旧家らし

家屋が残されてます。

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路の右側には、これも立派な門扉の本田西町秋葉神社が祀られていました。

秋葉神社の立派な鉄製門扉は加納宿から良く見かけたわね、この辺の風習かしら?

て、カミさん。

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本田バス停の脇は本田代官所跡で、

「本田は初期江戸幕府天領で、寛文10年(1670年)野田三郎左衛門が

初代幕府直轄地代官に任ぜられ、この地に代官所(陣屋)が設けらた」

との解説パネルが建つています。

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代官所跡から約100m歩いた先の水路を越えた右側に、 

なぜかな?京方面向きに高札場跡の解説パネル(赤丸)が建てられていました。

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約100mほど歩くと本田松原交差点で、街道書には「右側に大エノキ」とあるが、、

伐採された切り株が残る(歩道信号機右下)だけで、一角はつい最近整地された

ようです。

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本田松原交差点を過ぎて左手は田畑と民家、右手は用水路に沿って大きな工場や

研究所が続き、左手ては従業員用の広大な駐車場。

そして道は相変わらづ歩道帯の無い道が続き、車の往来が激しく路肩ぎりぎりを

歩き約400m、工場の終わったところに流れる川が五六川。

橋の手前左手川沿いに少し入ると、造園されたばかりのような小公園で、

こぎれいなトイレがあり、利用させていただきました。

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街道に戻り五六川を五六橋で渡ります。

街道書には、「この先の美江寺宿が、江戸日本橋から56番目の宿場であることに

由来して名付けられた」と書かれてる。

本田の集落はここまで、川を渡ると農村地帯になる。

とカミさんが、美江寺宿が56番目、55番目では??

はい、ごもっとも。これはお江戸日本橋を1番目と数えたから、なんだそううな。

 右手の用水路はルコウソウに覆われ、左手に「富有柿と花の街 瑞穂市」の大きな

丸看板があり、美江寺観音 1km、本陣跡 1.3kmなどと記され、

少し先左手に「この道は中山道」の縦看板が見えてきます。

富有柿は良く知られる柿ですが、この地が発祥の地だったのですね。

市の案内 によれば、「富有柿は、1857年(安政4年)に美江寺宿の北西・瑞穂市

居倉で栽培されていた柿の木を、接ぎ木栽培が成功したことから、

1898年(明治31年)に「富有」と命名され、全国に普及した」とされてます。

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美江寺五六町交差点を渡ると左手に並ぶ巨大なビニールハウス群があり、

街道書では「さ ぼてん村」とあり、すべてサボテン栽培のハウスだそうで、
また、交差点の先には松並木が続いてたそうですが、戦争で松根油を採取するため

全て伐採された、と記されてます。

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美江寺五六町交差点から少し歩くと美江寺宮前町交差点で、

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すぐ先は大垣から谷汲口を経て樽見に向かう、樽見鉄道美江寺駅の踏切があり

宿街へ入ります。右手に美江寺駅ホームが小さく見えました。

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踏切を渡って30mほどのところが、北方向にある華厳寺に向かう谷汲街道の追分と

なっていて、丁字路右角に、「左北方谷汲ニ至ル」「右岐阜加納ニ至ル」の道標。

(写真はなぜかボケボケでなし)。

左角に美江寺宿名所・遺跡の案内板があり美江寺宿の東(江戸)口になるようです。

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瑞穂市の案内板によると、「美江寺宿は江戸から55番目。

東の長良川「河渡の渡し」と、西の揖斐川「呂久の渡し」の中間にあり、
徳川幕府中山道整備される前から、豊臣秀吉の命で宿場として重要視され

問屋場」が設けられ、往還(5街道以外の脇街道のこと)の荷駄中継ぎの業務に

当たっていた。
江戸時代になって中山道が整備され、1637年(寛政14)に昇格し公式に

宿場として開設した。
美江寺の地名は、奈良時代(719年)建立の美江寺観音から由来している。
間の宿的な立地のため、本陣が建てられたのは1699年(寛文9)と遅く、

脇本陣は置かれることはなかった。

宿場は、濃尾大地震(明治24年)で全壊してしまった」とあります。

天保14年(184年)の宿村大概帳では、家数136軒、582人。
本陣 1、脇本陣無し、旅籠11軒で天領大垣藩預かり)。

広重画 みえじ(美江寺)

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宿場内の道幅は狭く人影はほとんど見かけませんが、結構車の往来が多く
路肩ぎりぎりを注意しながら歩きます。

少し進むと美江寺大門交差点があり、すぐ先右側に石碑だけが残る、

日本橋から108番目の「瑞穂市指定史跡 美江寺一里塚跡」(写真下左)と、

鎌倉時代後期の禅僧で美江寺で亡くなった自然居士(じねんこじ)の墓所

示す石碑(写真下右)が立っている。

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碑の先左手には、うだつの上がった「酒の布屋」と看板にあるこの店は、

元禄9年(1696年)創業の造り酒屋で、明治24年(1891年)の

濃尾地震ときに宿場内で唯一被害を免れた建物だそうです。

(現在は酒の小売店かな)

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ちょっぴり昭和レトロの風情を残す町並みを行くと、美江寺交差点で右手に

美江神社があり、手前に右折の道角に美江寺観世音道の道標が建っています。

市案内によれば、

この地には、もともと719年(養老3年)から「美江寺」「美 江明神」があり、

1549年(天文8年)に斎藤道三により岐阜市内に移築された後、
1566年(永禄9年)からは新たに熊野権現社となっていたものが、明治以降に

美江神社と改称されている。
神社の奥には、1567年(永禄10年)に織田信長の命により再建された

「美江寺観世音菩薩」が今も美江神社奥に祀られている。

(そういえば、宿で見た岐阜城のパンフに金華山山麓に美江寺がありましたね)

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美江寺交差点を街道は左折して進みますが、交差点の少し手前右側が美 江神社。
鳥居の脇の案内板には、「ここに高札場がありました」とあり、

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右側奥に復元高札場、手前右側に宿碑が建てられていました。

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神社の奥には、1567年(永禄10年)に織田信長の命により再建された

「美江寺観世音菩薩」が祀られています。 

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 美江寺神社を後に、交差点を街道は桝形で左折して進みます
直ぐ右側に虫篭窓を備えた、旧美江寺城主の和田氏の末裔が庄屋を勤めた

和田家があり、左手にうだつを上げたちょと旅籠風の家?

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和田家から約160m歩くと左側に幟を立てた、山本金兵衛が勤め問屋を兼ねた

本陣跡があり標石が建っていました。

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本陣跡の道路隔てた斜め向かい側に、明治6年に当時の美江寺村が創立した

小学校・開蒙学校跡碑が建っていました

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学校跡碑からしばらく行き、商人宿の看板を見ながら進むと農家風の家の前の

分岐を右に曲がりると道標石碑が建っていて、後ろに屋根付きのベンチが

置かれてました。石碑はここも墨俣道の道標で、

「左 大垣墨俣ニ至ル 右 大垣赤坂ニ至ル」と彫られてます。

あの秀吉の(当時は藤吉郎かな)の一夜城のあった墨俣へ向かう道なんですね。
そして、ここは美江寺宿の京(西)口でもあるんだそうです。

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PM2:20、

江戸から55番目美江寺宿を後に、56番目垂井宿を目指しますが・・・

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続きます

 

 

歩いて再び京の都へ 旧中山道69次夫婦歩き旅  第34回    1日目 前編 加納宿を抜けて~ 河度宿へ

残暑の残る9月も、朝晩は過ごしやすくなってきました。

9月は連休が2回、まだ暑いけど連泊で思い切って出かけない?
のカミさんの誘いにのって、よ~し、行くか!

美濃路16宿も8宿をたどり、歩いて再び京の都への夫婦歩き旅は、

令和元年5月25日(土)PM3:05、中山道51番 太田宿にて足止めをして

ました。

前回の歩き旅から早4ヵ月・・・・、
(足止めの太田宿・中山道会館前)

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さっそく宿の手配に入ったが、3連休の岐阜は宿の調整がなかなか難しい。

 「旅の歩き順を後先逆にしたら」のカミさんの提案で再度調べると、

太田~加納間を次回に回せば調整できそう。

てなことで、再開街道旅は、太田宿~加納宿岐阜市)約25kmを次回に回し、

今回の9月13日~16日は、その先の加納宿岐阜市)~垂井宿約26kmを

2日間かけて歩くことに。

関東直撃の台風15号も去って、猛烈な残暑もなんとか収まりか、

朝晩は過ごしやすくなった9月13日(金)、

カミさんの仕事終わりを待って、PM1時マイカーにて自宅発。

4か月振りに圏央、中央道をひた走りし岐阜県入、PM7:10 岐阜羽島

宿へ到着。

翌朝、ホテルの朝食済ませ、JR岐阜駅南口か200mくらい離れた

中山道加納宿岐阜市)近辺の駐車場へ車を走らせ、AM8:30駐車。

ウォーミングアップも兼ねて、岐阜駅まで歩きトイレなどを済ませて、準備OK。

再開旅は、江戸から53番目、105里2町412.5Kmの加納宿中心を抜けたところから、

西へ足を進めます。

 (岐阜駅)

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加納宿・広重画 

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 岐阜市域が歴史に登場したのは旧石器時 代。最初は岐阜市の北部から東部にかけて の台地上に、そして、縄文・弥生・古墳時 代には、ほぼ全域に先人たちの営みは広 がっていた。戦国時代には、不  世  出  の英  傑  ・織田信長が岐阜を天下統一の拠点とし たことから、全国にその名が知られること になった。その後、江戸時代には「岐阜町」 は尾張徳川領に、「加納町」は加納藩の城 下町として、また、中山道の宿場町、商工の街として発展していった。
(市岐阜市の歴史より) 

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令和元年9月14日(土)AM9:00 快晴、微風、吹く風は爽やか。

岐阜駅から南へ約200mの中山道・信号の無い交差点にて旅立ちショット。 

「旧中山道69次夫婦歩き旅  歩いて再び京の都へ」 第34回 旅立ち。

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日中の気温は予報31℃。朝の内は秋はすぐそこの風も爽やかな旅立に。

涼しいうちにどこまで足を伸ばせるか・・・

まずは、1里半約6km先の江戸から54番目「河渡宿」を目指します。

JR岐阜駅を右に見ながら、加納宿中心街並みを抜けた、加納本町5丁目から

交差点を西へ渡って加納栄通り3丁目へ進んでゆきます。 

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渡って右手に加納本町の秋葉神社があり、宿場に火事は大敵と加納宿は町ごとに

秋葉神社が祀られているようです。 

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左手、駐車場越に見える伽藍は西方寺。

川端康成の初恋にちなんだ作品「篝火(かがりび)」に登場するお寺だそうです。

(小説は読んでないので・・) 

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加納本町の秋葉神社から約200m歩くと、右側に加納本町七丁目の秋葉神社

祀られていました 

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更にしばらく少し足を進めると、左手に加納本町八丁目秋葉神社があった。

その境内入口に「加納宿西番所跡」の石碑があり、ここが加納宿京口

ここから先は本荘村になるようである。

境内のさらにその奥左手に小屋があり、手前に愛宕神社の碑があった。

愛宕神社は関西の防火の神だそうだが、小屋が神殿なのか?(写真左下)

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江戸から53番目の加納宿を後にし、現在の地名で加納本町から南本荘になる。

西番所跡から県道151号の加納本町9交差点を渡ってしばらく進むと、

左側に阿 賀多神社が祀られている。

失焚を逃れて阿賀多の地に滞在した一条兼良が、河水氾濫で漂着した「御神体」を

応仁2年、この地に祀ったとされる。

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街道書には少し歩くと、黒板塀に囲まれた秋葉神社が祀られている、とあったが・・・通り越したかな? それともこれか?

さらに、秋葉神社から少し先の十字路を左折しすぐ右の民家の前に、

一里塚跡ありと記されてるが・・曲がってみたが見当たらない?

と、先を見ていたカミさんが「ず~と先に何か案内板らしきものが??」

ごく最近移設したのか、ありました!左側の塀脇に「加納一里塚跡碑」と案内板。

元々の塚は、大正元年の暴風雨で崩壊してしまったそうで、日本橋から106番目の

一里塚跡。

案内場には「三里一里塚」と記されてるがなぜ??、

「さんり」ではなく「みさと」かな?まあ、帰ってから調べてみよう。

(まだ解明できてませんがね)

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 一里塚のすぐ先で、東海道本線の高架にぶつかり街道はふさがれて、

高架に沿って左方向に進み、清本町2交差点で右折し東海道本線のガードを潜ります。

ガードを越すと高架下沿いにゆく細い道、中が街道幅の道、さらに右手の車道と

三又になっていて、中の道右手に中山道の標識板がありました。

(ただ、持参の街道書では一番右手の車道を示していたが)

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 この標識が無かったら一番右手の道を行ったのですが・・

この先の六差路で、しばしうろうろ・・

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約200mくらい進むと幅広の道に出、すぐ右手が六差路の清本町10交差点。

方向的に交差点向う側のV路のどちらか街道かな??

ちょと案内標識が判別し難い図でしたが、目印の八幡神社そばを北側へ抜け、

なんとかV字の右手の中山道での目印、本荘小学校前信号へ復帰出来ました。

(写真左上、道のもう一本V字の右手の道が中山道なんです)

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 小学校前信号から約300mほど行くと、左へ緩くカーブし、

街道書にも記されたCaféが営業してました。

この付近から先は、かっては多羅里(だらり)と呼ばれた「多羅野立場」で、

茶店などで餡をまぶした「だらり餅」が名物だった、と案内板に記されてます。

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しばらく歩くと鹿島町8西交差点で、渡った先に「多 羅野(だらり)八幡宮」。

天満神社秋葉神社も祀られていました。

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 先は鏡島となり、多羅野八幡宮から鏡島大橋南交差点、さらに鏡島前川南交差点を

横断し、さらに足を進めると諭田川に架かる追分橋があり、橋を渡った右側に

岐阜街道との鏡島追分碑が建っていました。

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追分橋を渡りT字路を左折して小社を見送り進むと、右側に乙津寺の入口となる

寺標が建っています。

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乙津寺は現在は臨済宗だが、「行基草創、空海再興」の伝承を持ち、

別名鏡島弘法「かがみしまの弘法さん」と親しまれ、京都の東寺、川崎大師

と並び日本三躰厄除弘法大師の一つだそうです。

国指定重要文化財の本尊は、平安前期作の「千手観世音菩薩立像」の秘仏

毎年4月のご開帳のため拝観はできませんでした。

先ほどの多 羅野八幡宮付近に建っていた案内図によれば、広い境内の裏手は

長良川で土手で、今も弘法大師の命日日に運行される「小紅の渡し場」がある

そうです。

境内の木陰をお借りしてベンチで一休み、水分補給とトイレ休憩。

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中山道に戻り足を進めると、右側には鵜飼で有名な長良川が迫り土手が見えてきます。

「すこし涼しくって助かりますね」と言葉を交わし、京方面から江戸を目指す

今日初めての旅人とすれ違いました。

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古民家を利用したカフェを過ぎ、右側に拝殿が寛政6(1794)年に建立された

神明神社、さらに約300m歩くと、祭神が菅原道真の北野神社が祀られ、

この付近は旧湊村の鏡島湊があって賑わっていた地域であったそうです。

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 しばらく先分岐の右側の南無地蔵尊を過ぎ 長良川土手道に出て上る先右側に

「鏡島湊跡」標柱と解説パネルが建っている。

「湊村は伊勢湾に通じる舟運があり、対岸の「河渡の渡し」も控えており

大変賑わった」と記されてます。

享保14年(1729年)の鏡島村差出帳によると、
家数297軒、人口1345人と記録されていて、長良川対岸の河渡宿よりは
規模の大きな集落であったようです。

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江戸時代には「河渡の渡し場」があり、長良川を越えて江戸から54番目の河渡宿

入ったのですが、明治14年(1881)に橋が架けられ、現在の中山道は、

土手道へと登って行き、河渡東の交差点を横断し長良川に架かる河渡橋の左側を

渡ります。

(先の遠い山並み一番奥は、伊吹山か!)

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右手加納宿岐阜市)方面の三角山は金華山

やあ、岐阜城が見えている!!

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長良川の中間付近で下流の川面を見ていたカミさんが「なにか水鳥がいる」と。

デジカメをズームしてみると「鵜」が一羽漁をしていましたが、突然橋桁の下から

グループを組んだ鳥の大群が次々飛来! 

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岐阜の長良川の鵜飼いは有名ですが、あの鳥は「ウミウ」だそうですが、

これだけの野生鵜はカワウでしょうね。

付近が漁場なのか着水とともにすぐ潜水のくりかえし。

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かなり魚影も濃いのでしょうか、アオサギ、シロサギも後追いで飛来し、

おこぼれ漁をするのか鵜の漁を見守っている。

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長良川は昔から川漁も盛んで、鮎の放流などにも力を入れてるようですが、

う~ん、難義なことですね~

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しばらく漁を眺め、鵜も移動し始めたので旅を再開です。

橋の中ほどの標識は市境と思ったら、「これより岐阜北署管内」とあり、

逆側は、「これより岐阜中署管内」とある。

警察の管轄縄張り標識?? なぜかな~

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400m強の橋を渡り、街道書ではフェンスの切れ目から土手下へ下る、とあるが

鎖が張られ降りられない。

(旅人の紀行文を読むと、結構鎖を越えて下ってる記述が多いです)

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と思ったら今は少し先に鉄骨階段が設けられ土手中腹へ降りられる。

階段を下り進むと、左土手にフェンス切れ目から降りてくる草道跡が残っていた。

進んで土手上の道へ上がり先へ200mほど行くと、

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小社が祀られた左手の長良川付近が「河渡の渡し」跡へで、中山道はで右手へ

今は石段を二つ下って河渡宿へと続いてゆきます。

江戸時代、中山道は対岸の「小紅の渡し」付近から長良川を渡って、

現在の河度橋のすぐ下流河渡宿の河渡の渡し」場へ向かっていたようです。

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 石段を2回下り、土手下の道を横切り道なりに約40m直進すると

右角に「三面六臂馬頭観音」を祀る堂、河渡大燈籠が建つて十字路へでます。

(像や灯篭は新しそうでした)

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十字路を左折し進むと再び土手下道となり、土手下道を約140m先の小社を祀った

五差路を、再び現れた緑色の中山道標識にしたがって右折しまします。

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右折して約80m歩くと少し鄙びた家並み、左側に「中山道河渡宿」碑、

碑左側面に「一里塚跡」と刻まれここが日本橋から107番目の一里塚跡。

正面奥の小社「松下神社」が祀られていました。

長良川と糸貫川にはさまれ何度も洪水に苦しんだ河渡宿だが、1815年(文化12年)の

大水で宿の大部分が流され、幕命により美濃郡代官・松下内匠堅徳が5尺(1.5m)の

土盛し防水対策を講じたのを 宿の者が感謝し、松下神社として祀ったという。

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(英泉画・河渡宿は長柄川(長良川)の鵜飼船を描く「河渡 長柄川鵜飼船」。

鵜匠たちは捕獲した鮎の大半を尾張藩に上納させられ、尾張藩はその一部を

鮎鮨にして、何と!、東海道をたったの”4日間”で、江戸まで運んで将軍家に

献上したそうです。

4日間!!う~ん、我が旅は・・・・・ 

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河渡宿は江戸から百六里二十七町、54番目の宿で、
宿人272人、家数64軒、 本陣1軒、脇本陣無し、旅籠24軒、
家数は安中宿とともに中山道の宿場では最も少なく、人口も鵜沼宿細久手宿
次ぎ3番目に少ない小規模な宿場である。
長良川の渡しを控えた宿場であるため、小規模の割には旅籠数は24軒と平均の27軒に近い軒数を有している。川留めのときには旅人が宿泊して賑わったというが、それ以外の時は宿泊客も少ない鄙ひなびた宿場であったという。しかし、長良川の船着場であったため、コメ、塩、木材等の物資の集積地として栄えたそうである。幕府領の宿場であり、天保14年(1843年)の記録では、商店が35軒余あり、旅人にわらじ、草履、菓子等を売っていたという。
残念ながら第二次大戦による焼失や長良川河川改修によって、往時を偲ばせるような
旧家は一軒も残っていませんでしたね。

河渡宿案内文より)

こんなほほえましい河渡宿の紹介板がありました。

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一里塚跡から約270m歩くと河渡2交差点で枡形があって、この付近が

河渡宿の京(西)口跡となり、その先天王川(旧柚木川)を往時は徒歩で渡り、

(現在は慶応橋で)河渡宿を後に、正午12時に岐阜市から瑞穂市に入りました。

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旅は続きます、

 

 

葉月 8月の徒然 なんでかな~まあ、いいか~

8月23日、雷雨の夜が明け新聞を取りに庭先へ出ると、

蕾だったクレマチスが一輪咲いていた。

あれ、白花だが?? 

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根元に残していたタグを見ると、

クレマチス エンテル とあり写真は6花弁のピンク花。

タグの品名からネットで検索してみると、

品種名、 ビチセラ系 エンテル
開花時期  5月下旬~
花径    4~6cm
弁数   4~6枚
色合いも白系~ピンク色

とあり、

開花後次第に極薄くピンクが差し込んでくる、とのブログもありましたね。
タグの写真とは違ってるが、エンテルではあるようだ。

植えたのはかなり遅く、なかなか蔓を伸ばさなかったので、今年は咲かないかなと

思っていた。

翌、24日の朝のエンテル

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花びら裏側の赤味が陽を受けて、ほんのり浮かび上がっている感じ。

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24日、夕刻5時のエンテルは真っ白に・・・

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25日、夜半の小雨を受けたエンテル AM7:00

後ろからの朝日を受け、花びら裏のう薄赤い色が透けている。

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AM9:00

クレマチス白花はフルディーンが咲くのでピンク系をと植えたんだが、

かなり安かった苗だったし、まあ、いいか・・です。

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 25日、夕暮れ空

日中は30℃を越えていた夏日だったが湿度が少なく、

日陰に吹く風は涼しく爽やかでした。

久しぶりにウォーキングがてら歩いて、買い物に。

6kmほどは歩けたかな。

街道旅へ、チョッピり手ごたえかな・・

25日、秋気配の夕空、

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葉月 8月の徒然 雨が止んだら

数日続いた夜半の雷雨や烈な蒸し暑さも、

今朝は、開けた窓を思わず閉めたほどの冷気が流れ込んできた。

8月22日(木)、見上げる空は灰色に塗られた雲に覆われてる。

天気予報では、秋雨前線の言葉が使われだした。

残暑は終わり「暑さ寒さも彼岸まで」を抜きに一気に秋突入??

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二度目咲の庭のキキョウが咲き続いている。

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写真をPCに取り込んでいて気が付いたが、幼期から見かけていたオオカマキリ

庭の緑に溶け込んで写っていた。

大きくなったな~

(写真右のキキョウの左側)

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おや、毛深いキキョウ?

ではありませんね。
今年最後の一輪となった「カンパニラ」です。
キキョウ科ホタルブクロ属
イギリスの「ケント州」で作出されたベル型の園芸品種で、
その名も「ケント・ベル」
日本では、1997年サントリーフラワーズから発売されたそうです。

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雨に(水に)濡れると、ガラス細工のような透明感の神秘的な花、

「サンヨウカ」は良く知られてますね。

白いシャツが水に濡れると透けて見える、と同じように、

水を含んで、光の屈折や反射が弱まるため、など様々な説があるようですが、

まだ解明はされてないんだとか。

おや、透けてるのでは?

庭の花で、ほんのチョピリだけど似たような現象がみられ、透明感を感じるには、

3本の花茎を伸ばした「ゼフィランサス・シトリナ」

別名、キバナサフランモドキとも呼ばれてるようです。

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3日前の一番花

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夜半いらいの雷雨に濡れて2番花が咲き、続いて開花した雨に濡れる3番花。

(後ろは1番花、2番花)

花びらに水が浸透したからか、黄色みが薄くなってきて、クリーム色に。

部分的に透けて見えるところがあり、一番の変化は雄しべが完全に色抜けしたように

透明感のある真っ白になってしまった。

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 そして束の間、陽を受けた後には水滴が消えた花びらは、少し透明感を持った

クリーム色が濃くなり、雄しべには黄色みが戻ってクリーム色になり、

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 そして再びの雷雨の夜が明けて、今朝の雨に濡れたシトリナは、

白色に変化して透明部分を増した姿を見せていた。

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 以前に今回の花が咲いたところから、20cmほど脇に咲いた長雨後に見た

 ゼフィランサスが、 もっと白っぽい薄クリーム色で、交配種誕生か!と

 思いましたが、同じく色抜けの現象だったのかな?

(以前長雨後に見て写したゼフィランサス。7月10日の花)

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 今朝のまだ霧雨の残る中に、庭の草花も瑞々しく咲き続いてる。

おや、バラ咲き、なんの花?

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ハーイ、咲きました~

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サルビア

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ソワレ(ニチニチソウ、赤花白花)

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ポーチラカ

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 4年前の今日8月22日は、延べ40日の入院生活をの肝臓がんの手術を終えて、

再び家へ戻ることができた「生還の日」と命名した記念日。

有難いことに再発の兆候もなく、4年目の朝も家で迎えられた。

あの日は猛烈な暑さだったそうだが・・・・

 

そして明日へと、

咲き続く「スイレンボク」

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