歩いて再び京の都へ 旅の寄り道 南宮大社

「歩いて再び京の都へ」

中山道、夫婦歩き旅も美濃の国最後の旅になりました。

令和元年11月2日(土) 第35回の旅へ。

早朝AM5:00、家を出発し圏央道、中央道、名神道と走り養老SAにて

昼食、休憩を取り、養老SAスマートICで高速を降り、向かうは

岐阜県垂井町南宮山麓の美濃一宮「南宮大社」へ。

PM1:00 南宮大社門前着。

なにか開放的な空の広がる社前と感じましたが、大きな社号標や石灯篭は

建ってますが、普通建てられている鳥居が建っていないんです。

中山道の歩き旅の街道書には、2か所の南宮大社の大鳥居が記されてますが、
鳥居はその2か所だけということになりますね。

今日来たルートでは鳥居は一か所もないので、鳥居無しの神社になってしまいます。


大鳥居の一つは、旧中山道から南宮参道への入り口(垂井本町の四つ角)にある

石鳥居で、これも寛永十九年の築造。

花崗岩を使った明神鳥居型と呼ばれる様式でできている。
 地上から最上部までの高さは約7メートル。柱の直径は約70cmある。

造営文書の記録によると、柱の半分は地下に埋まっているそうで、地震などに耐える

堅固な造りになっているそうです。
 鳥居の中央部には社格を表す「正一位中山金山彦大社」の額がかけられ、

両側には一対の石灯籠と南宮道の道標がある。
(写真は翌3日に通った時の垂井宿の石鳥居)

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南宮山近辺は戦わずして趨勢を決した吉川広家をはじめ、安国寺恵瓊長束正家

長宗我部盛親ら西軍の主戦力が布陣した場所。

南宮の呼称は「美濃の国府の置かれた地の南に位置する宮」の意で、
社殿の南西にそびえる南宮山(419m)はその御神体に当たるようです。

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岐阜県観光案内、南宮大社HPなどより転記要約)

 岐阜県には約3,200余社(神社本庁包括下)の神社が鎮座しています。
古くから交通の要所として栄え、美濃国飛騨国で構成されていました。

また岐阜県は昔から672年 壬申の乱、1600年 関ヶ原の戦いなど、歴史上重要な

合戦が多く起こっている地域でもあり、8世紀には美濃国府が垂井町府中に

おかれました。

南宮大社の名は国府の南側に位置することから起こったといわれ、927年(延長五年)成立の延喜式神名帳には「仲山金山彦神社」として記載されている。

社伝によれば、神武東征に功のあった金山彦命美濃国府近くに(不破郡垂井町府中)に祀ったのが始まりといい、崇神天皇の治世(前97-前30年?)に現在地へ移ったとされる。

中世以降は美濃国一宮として武家の崇敬も篤かった。

金山彦命主祭神に、旧国幣大社美濃国一の宮として、また全国の鉱山、金属業の総本宮として、今も深い崇敬を集めています。
 現在の建物は、慶長5年(1600年)の関ヶ原合戦の際、西軍方の安国寺恵瓊

陣地となり焼き払われたものを、寛永19年(1642年)、春日の局の願いにより

三代将軍徳川家光公が寄付した7千両(約21億円)をもとに、造営奉行、岡田将監の指揮によって建築・造営された。
春日局は美濃の国にて幼少時を過ごしており、その強い勧めがあったといわれ、
春日局が没したのは寛永20年(1643)年、南宮大社の再建が成った翌年のことだった。


境内には本殿・拝殿・楼門などが、朱塗りの華麗な姿を並べ、江戸時代の神社建築の

代表的な遺構18棟が、「 国の重要文化財」に指定されています。

(記載写真建造物はすべて国重要文化財になります)

  建築様式は、和様と唐様を混用した独特の様式であることから、

南宮造と呼ばれている。

本殿と弊殿だけは素木造りで、その他の社殿は鮮やかな朱塗りになっていることも

特徴の一つと言える。

社殿の軒回りは、すべて刳抜蟇股という社寺建築独特の装飾が施されている。

その形が蟇の股の曲線に似ていることから蟇股と呼ばれる。

中でも高舞殿の蟇股にある十二支の動物の丸彫りが特に名高い。
 楼門の表には右大臣、左大臣の木像、裏には狛犬がそれぞれ門番のごとく配置され、参拝の人々を見守っている。
 屋根を葺き替える式年遷宮は、51年目と定められていて、最近は昭和48(1973)年に行われた。

宝物館には名刀など多くの宝物が保存され、毎年、文化の日(11月3日)に

公開される。

(ということで、残念ながら宝物館に収蔵されている品々は見ることが

 できませんでした)
 このほか三重塔、本地堂、鐘樓などの仏教関係の建造物も同じ時期に建てられたが、明治維新神仏分離のとき、これらは近くの真禅院(朝倉山)に移築された。

 

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門前に建つ、斎館 

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参道脇に鎮座する、美濃国総社・数立神社

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石輪橋 楼門

築地塀に囲まれた境内。

風格ある楼門の前には川が流れ、正面に架かるのが花崗岩の「石輪橋」、

寛永19(1612)年架橋。
輪のようなアーチを描いていることから「そり橋」とも呼ばれ、
高い円弧の神橋は神様専用の神橋です。

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築地塀に沿って献納された石灯篭が整然と並んでます。

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楼門から高舞殿

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楼門の外側には右大臣、左大臣木造が鎮座し、内側には狛犬が守りについている。

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広い空間、正面に高舞殿、奥に拝殿と廻廊が巡らされて神域です。

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 高舞殿の軒下の蟇股に十二支の彫像が刻まれてます。

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高舞殿から相対して立つ拝殿はすぐ近くで、間には普通見られる狛犬や石灯篭などは

ありません。

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拝殿

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拝殿前より楼門を振り返ってみる。

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拝殿、弊殿

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神域ではありますが、廻廊越しに覗かせて頂きます。

廻廊の向こう側には本殿の鎮座する神域ですが、大社では右側には樹下社と隼人社、

左側には高山社と南大神社、本殿の奥には七王子社と5つの、摂末社が鎮座している。

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ご神殿は素木造で造営されてます。

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廻廊に沿って左手に回ると、屋根の庇の下に鋸、鏝、鋏などを収めた箱が並んでいる。
主祭神金山彦命が金属の神であるところから奉納されたものだろう。

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奉納された刃物が軒下に据えられた木造の大きな建物は神輿社。
5月5日の例大祭で活躍する神輿が安置されている。
この神輿は寛永19(1642)年に社殿が再建された際に家光が寄進したもの。
欅造りで金具には三葉葵の御紋があしらわれているそうだ。

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神輿殿の北軒下には時代物の金物をあしらった奉納絵馬が掲げられてます。

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南門近くから見る北門、神官殿方向。

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高舞殿、楼門、手水場

内側には木々もなく大きく広がる空、すっきりとした空間、、朱色の建造物が

実に綺麗に映えてます。

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南門を抜けて南宮山ハイキングコース方面へ。

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聖武天皇大仏建立勅願所・湖千海社への鳥居。

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 社殿に使用されてていた古い瓦を集めた「瓦塚」

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さらに参道を行くと、南宮稲荷神社の千本鳥居、そして稲荷社殿へとたどり着きます。

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 先は南宮山ハイキングコースがあり、山頂付近(左手山)には関ヶ原合戦時の

毛利家陣所跡の碑が建つそうです。

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南宮大社を後に南宮山山麓を少したどると朝倉山真禅院。

 朝倉山真禅院(あさくらさんしんぜんいん)は、
元は南宮大社の神宮寺で、開祖は行基、創建は天平11(739)年。

当初は象背山宮処寺という名で、延暦12年(793年)桓武天皇の勅命を受けた

伝教大師最澄により南宮大社と両部習合、神と仏が一体化され、
同時に現在の南宮大社の鎮座地に移転し、寺号も神宮寺となり天台宗の寺院となった。
明治初(1868)年、明治政府の神仏判然令により南宮大社と袂を分かち現在地へ移転。

寺号も現在の「真禅院」に変更した。

神宮寺も関ヶ原の戦いで炎上した後、南宮神社と併せて家光が再建。
これらの仏教建造物も同時期に建てられた。

社号碑の建つ緩やかな石段を登り山門をくぐると、

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重要文化財である現在の本地堂は、約380年前の再建です。

一重の入母屋造妻入り造り 桁行4間(9.9㍍) 梁行3間(7.6㍍) 
 明治の移築時に 棧瓦葺(さんがわらぶき)屋根に改められ、平成の大修理時に

 屋根を銅板葺に変更された。

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観音堂は元宝珠院の建物。

堂内には秘仏・十一面観世音菩薩像を安置し、堂の前には賓頭盧尊者像が置かれている。

秘仏ご開帳は10年に一度。

次回は2020年4月18日(土曜日)予定

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鐘楼は同じく1643年(寛永二十年)の再建。

吊るされている梵鐘は、国重要文化財

 奈良時代後期、美濃国最古の鐘として知られる。

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うん??

三面六臂馬頭観音 様かな??

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 国重要文化財 三重の塔

当寺にはじめて三重塔が建てられたのは741年(天平十三年)と伝えられるが、

関ヶ原の戦いの際に焼失し、現存の建物は1643年(寛永二十年)の再建。

高さ約25メートルの優美な三重塔には大日如来が祀られてる。f:id:hansui:20191107132508j:plain

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秋も深まれば、素敵な紅葉三重の塔が見られそうです。

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なかなか寄ることは無いと思われる古刹。

いい旅の寄り道が出来ました。

車を走らせて今宵の宿地の大垣市へ。

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大垣市駅北口近くのホテルに投宿し、日暮れまで少し間があるので再建城ですが、

大垣城までそぞろ歩き。

4層の天守を持ち、「城下町・大垣」のシンボルとして市民に親しまれている大垣城
慶長5年(1600年)の関ケ原の戦いでは西軍・石田三成の本拠地にもなり、本戦部隊が

関ケ原に移動した後も壮絶な攻防戦が繰り広げられました。
戦国の世が去った江戸時代、寛永12年(1635年)以降には戸田家11代が十万石の城主を

続け、戦火で焼失したものの、昭和34年(1959年)に再建されました

戦災で焼失する以前、大垣城天守は旧国宝に指定されていた。

(写真左上は戦前は国宝に指定されていた艮隅櫓(うしとらすみやぐら))

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天守からの西、夕空に眺める山塊。

真ん中の高い頂は「花の百名山伊吹山」のようです。

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大垣は、松尾芭蕉俳諧紀行「奥の細道」の終着点で、地下水が豊富に湧き出る

ことから別名「水都(すいと)」とも呼ばれているそうです。

お城からの帰路は芭蕉の句碑のある水辺を少し歩いて、ホテルへ戻ります。

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さあ、明日は街道へ、

庭の秋

前日の天気予報で、30日の夜明は濃霧に注意と流れていた。

明けて30日、日の出前の朝は曇り空で、遠くの街灯なども見えていたが、

太陽が昇ったと思われるころから、どんどんガスが流れ始め、

AM6:40頃には30m先も見へないガスの中。

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濃霧もAM8時ころには消ると、暑さを感じるくらいの陽が差し込みだした。

三日ほど前から咲きだした秋の花小菊が、昨夜の雨に水たまりを造りながら

咲いている。

小菊は花径2~3cmほどなので、我が家の卓上仏壇にはちょうどです。

さっそく切り花になって飾られました。

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もう一つの庭の秋は小さな秋。

夏の花、ルコウソウが咲き終わり、整理した鉢から9月になって芽を出した

モミジバルコウソウ、別名ハゴロモルコウソウ

草丈10cmくらいに育つと小さな蕾も一個つけたが、

天候不順、気温も低く、花開くことなく小さな秋の姿に。

(10月初めのルコウソウ

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昨夜の雨に濡れて、すっかり秋色に染まった今朝のルコウソウ

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もみじ、だね。

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 所用帰りに寄ってみたお寺の境内に、こちらも秋の一風物は風に揺れていた。

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明日は、はや11月。

残すところ・・の言葉が聞かれるな~

 

久しぶりに日光中禅寺湖三滝巡りへ。

10月28日(日)、圏央、東北道と車を走らせ栃木県日光へ。

いろは坂から上り、中禅寺湖、奥日光、金精峠を経由し日本ロマンチィック街道を

走り群馬・沼田経由で関越道と一回りドライブ。

あいにく午後の2時ころから雨がふりだしたが、曇りがちながらもまずまずの

お天気で、滝巡り、湖畔散策など、で秋のひと時を過ごしてきました。

 

いろは坂を上り切った中禅寺湖一望の明智平では、8時ころですでに駐車場は

駐車待ちの行列。

(写真はクリックにて大きくなります)

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あさりパスして、中禅寺湖華厳の滝へ。

全体的に紅葉はイマイチですが、久しぶりの大瀑布、見ごたえがありますね。

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エレベーターで100m下り観爆台へ。

まじかに見る華厳の滝、落差97m、さすがに日本の三大名瀑の1つの大迫力。

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華厳の滝を楽しんで、中禅寺湖南岸へ車を走らせ、立木観音駐車場へ駐車。

何度も中禅寺湖へ来ていたが、立ち寄ったことのなかった中禅寺「立木観音」へ。

中禅寺は世界遺産「日光山輪王寺」の別院で、784年、日光開山「勝道上人」によって建立されましたお寺。

御本尊「十一面千手観世音菩薩」(国重要文化財)は、勝道上人が中禅寺湖上に

千手観音様をご覧になり、その姿を桂の立木に彫ったと伝えられています。

観音様は、現在も地に根をはり、訪れる人々を穏やかな表情で迎えます。

また、坂東三十三観音霊場の第十八番札所として多くの巡礼の方たちもご

参拝になります。(中禅寺案内より)

地に根をはる木立に直接彫られた観音像は、近江大津と福島会津で拝観したことが
ありますね。

本堂内を説明を聞きながら案内していただきましたが、堂内は写真は禁止のため、

パンフレットより拝借の立木観音様。

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境内から望む日本百名山男体山・2486m

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立木観音を後に湖畔の遊歩道を紅葉を楽しみながら15分ほど歩き、

紅葉スポットの八丁出島がよく見える旧イタリア大使館別荘跡へ。

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イタリア大使館別荘跡

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八丁出島

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対岸高く、百名山日光白根山、標高2587m、 何年か前に登ったけ・・

(左頭を出す一番高い山)

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湖畔のベンチでお昼を摂り、車を走らせ竜頭の滝へ。

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さらにひと登り、奥日光戦場ヶ原へと車を走らせます・

龍頭の滝上流の滑滝。

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草紅葉は終わったようですが、だいぶ草木が多くなんてるように感じましたね。

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ここまで登れば紅葉の主役は黄金色のカラ松の黄葉です。

三本松園地にて。

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園地でみかけた、これは??

花?実?  (現在調べ中)

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日光湯元温泉の湯の湖から流れ落ちる「湯滝」

雲が広がりだし薄暗くなってきましたが、しとりとしたいい紅葉滝でした。

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東の空はまだ青空も見えてるが、西の空は黒雲が沸き今にも雷雨になりそうな気配。

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湯の湖、湯元温泉へ向かうが雨が降り出し、しだいに本降りに。

時刻はPM2:30.

湯の湖はそのまま通過し山登り路の金精道路へ入り、標高2024mの

金精峠トンネルを抜けて群馬県入り。

日本ロマンティック街道を命名された国道120号を日光白根山の山裾を

回り込むように下り、尾瀬の入り口・片品村沼田市そして関越道を経て帰宅。

 

外国観光客が大変多い日光で、中国、東南アジアの若い方が目立ちましたが、

残念ながらお隣の国の言葉が全く聞かれづ、昨今の情勢の厳しさが垣間見えましたね。

 

日光三爆巡りは、ちょとアレンジしてBGMにのせて、デジブックアルバムに。

(見るには無料ですが登録がいります)

 

www.digibook.net

























 

 

 

歩いて再び京の都へ 旧中山道69次夫婦歩き旅  第35回 2日目 鵜沼宿~加納宿  後編

5中仙道へ戻り今尾医院の前を通り、100m先を現代道標を見ながら桝形に左折し
加納宿をめざします。10月6日(日)12:20

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約300m歩くと、濃川に架かる濃川橋があり、橋を渡ると左側に石柱が建ち、

京方面側に「中山道間の宿 新か納宿」と彫られてます。

橋を渡った先には住宅が途切れ、かっては松並木が続いていたそうですが、

いまは片鱗も感じられず左手は田畑、右手は名鉄各務原線赤い電車が通過して

行きました。

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 後ろから追いついてきた一人旅の男性とご挨拶。

「この先にお昼を摂れそうなところあるようですか?」と聞かれたが、自信無し!

 「間の宿で何とかなると思ったんですが・・」と男性も我々とおんなじことを

期待していたんですね・・まあ、街道外れて探してみますわ!と去って行ったが・・

 

濃川橋を渡り、東海北陸自動車道の高架を過ぎて、700mほど歩いた境川に架かる

高田橋を渡るも店や食事処は全くなし。

(新境川の元はこんなに離れてたところを流れていたんですね。

 別の資料にはこの川が美濃と尾張の国境とあったし、現代の地図でも各務原市

 岐阜市の市境になってます)

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さらに30分ほど右に左にくねくね曲がる街道らしい道を行くと、左手からの道に

合わさり、大きな石造り鳥居が建ち、手前に小さな「左木曽路」の道標がありました。

鳥居は「手力雄神社(たじからおじんじゃ)」の入り口の鳥居でした。

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 「手力雄神社(たじからおじんじゃ)」は多くの旅人の記録に、風格あり神社と

記されていて、門前通りなら食事処も、と期待してて拝観へ。

(と行ったのですが、神社の写真が何故かブレブレ・・お腹が空いてたからかな~)

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街道書には、

貞観2年(860年)の創建で天岩戸を開いた手力雄命を祀り、織田信長の崇拝

篤く、ゆかりの「弓掛け桜」「的場桜」あり、雨乞い時の火祭りでしられる」と

あり、力強さを感じる風格のある社殿の神社でした。(’写真が・・ざんねん)

手力雄神社は関東では千葉県館山市にも鎮座し、岐阜、奈良など6社あるようです。通ってきた各務原市那加にも、創建が少し古い社が地図に有り、こちらも信長所縁の

神社だとか*

 神社前で地元の方に,、先きへ行けば浄慶寺の前に天ぷら屋があるよ、と教えて頂き

そくさと足を速めます。

赤い鳥居、石鳥居をくぐると地名は切通(旧切通村)。

切通地域は境川北岸に位置して、岩戸南方一帯の滞溜水を境川に落としていたこと

に由来していると言われます。

神社から約700mほど来ると、右手に立派な二脚門の浄慶寺がありました。

昔は天台宗でしたが、親鸞聖人に帰依し文明18年(1486年)浄土真宗に改宗したそうです。

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浄慶寺の向いに、教えて頂いた天ぷら屋さんの屋号看板を掲げた店があり、

入ると、5,6人掛けのテーブルと小さな上がり座敷で、出前が主なのか

昔風の平木箱型の蓋付き岡持が沢山あり、昼時後の一休みか店主が新聞を読み

寛いでました。

「うどんならすぐできるよ」で頼んだのが天ぷらうどん、これがまた美味かった!

丼からはみ出す大きさの揚げたて熱々のエビ天2本。

天つゆを使うのか、透明感のある昆布だしのきいたつゆ。

そしてコシのあるうどん。

お腹が空いていたから、だけではなくカミさんも「おいしいわ~」で、

旅の思い出に残る美味しさでしたね。

「気をつけて~」の声に送られて再び街道へ。

食事処を探していたあの旅人は脇へ逸れたか、立ち寄った様子はなかった・・。

(写真写しとけばよかったな・・)

 天ぷら店より200m強、右ての鍼灸院の前に案内板があり、小路へ入ると

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加納藩主安藤信成が陸奥国磐城平(いわきたいら)藩に移封後、老中として活躍した

功により旧領のこの地を領した折、陣屋を設けたという「 切通陣屋跡」があります。

美濃国にありながら磐城平藩の所領であもあったということか。

明治維新後も約65年間、現在の名鉄切通駅東100メートルの地点から中山道まで広い屋敷がありましたが、その屋敷は今や存在せず、ただ観音堂の片隅に碑が残るのみ

で、「 切通陣屋跡」碑、切通聖観音お堂、中山道碑、右きソみち道標や、

切通由来解説碑などがあり、この辺りは切通陣屋の惣門だったそうです。

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切通の由来」碑記載解説

切通境川北岸に位置し地名の由来は岩戸南方一帯の滞溜水を境川に落としていたことによると言う。文治年間(1185)渋谷金王丸が長森庄の地頭に任ぜられこの地に長森城を築いた。延元二年(1337)美濃国守護二代土岐頼遠土岐郡大富より長森に居を移し長森城を改修し美濃国を治め天下にその名を知らしめた。江戸時代に入るやこの地は加納藩領となり以後幕府領・大垣藩預り地と変わり享保三年(1802)盤城平藩の所領となるに及びこの地に陣屋が設けられ幕末までこの地を治めた。
切通は古来東西交通の要路にあたり江戸初期中山道が開通されるや手力雄神社前から浄慶寺付近までは立場(休憩所)として茶屋・菓子屋・履物屋等が設けられ旅人の通行で賑わいを見せ各地の文物が伝来し文化の向上に大きく寄与した。」

 

やあ、この鵜と鮎デザインマンホールは!

岐阜市に入ってることを知らせてるね。

前回33回目の旅は今歩いてる間を飛ばして、加納宿岐阜市)から足を進めていて、

なんどか見かけたデザインなんです。

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さらに10分ほど進むと伊豆神社があり、街道に面した祠に馬頭観音が祀られている。

そのすぐ横には石柱に「右」の文字があり、街道書では「右 江戸ミチ、左 京ミチ」

中山道道標と記されてます。

解説板の由来書によれば、
創立年代は不詳であるが、御祭神は健康長壽をつかさどる神の大山祇神

娘石長姫命で、手力雄神社の御祭神が男の荒神であり、この神をおいさめするため

往時の長森細畑字石長あたりに鎮坐されていたのを水害等のため当地に遷された

と伝えられている。

(石長姫命は石が長い間存在するのと同じように、永遠の命の象徴である神様で

 すが、醜い容貌だったために受けた仕打ちから人の命を短くしてしまったとの

 神話もあるそうす。御祭神が同じ静岡の伊豆神社からの分社したものでしょうか)

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おや、屋根が?、おや、家のクレマチスと同じ花、秋咲きしてるね。家のはどうして

咲かないんだろう、なんてお喋りしながら4,5分ゆくと大きな通りと交差する切通4交差点を渡ります。

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交差点をすぎて2,3分の右手に長篠の戦があった天正3年(1575年)に西宮から

勧請したという、ゑ比寿神社が鎮座。

中山道拡張改修のためか、参道が中山道と並行し、民家は参道を横切って道へ

出るんですね。

左に南へ向かう道があり、境川を渡る橋は恵比寿橋で欄干は赤く塗られていた。

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ゑ比寿神社から50m先右手に大きな寺標が建った、真宗寺参道入口があり

奥に大きな伽藍が見え、200m強先右手奥には真宗本願寺派誓賢寺、右手の民家脇に咲くアメリデイゴ、左手の塀から伸びてる秋の気配を見送り、さらに50m先の

左手、細畑のバス停の脇に、小さな「秋葉神社」が祀られてます。

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さらに50mほど先に、岐阜から長良川をさかのぼり、郡上。白川郷から富山県

高岡にまで至っている国道156号バイパスを長森細畑交差点で横断し、正面に

見える信号機下の細めの道へと足をすすめます。

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バイパスを越えると、立派な蔵のある古い商家や板塀の続く屋敷など風情ある風景に

迎えられ、

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その先には庵看板が掲げられた商家があり、看板は「明治水」と読めた。

登録商標の文字も見え江戸期のものではないが、明治水とは目薬との説があります。

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先へ100mほど行くと、両塚が復元された「細畑の一里塚」は江戸から104番目。

南塚の奥には秋葉神社、稲荷神社が祀られてました。

(写真は南塚、神社側から)

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細畑一里塚跡から約140m歩くと領下地区で、二股路分岐があり、右方向に

進みます。

左に進む道は境川沿いを進み、加納から南に進む御鮨街道と合流する。

分岐角には領下延命地蔵堂があり、左側に明治9(1876)年に建立された伊勢道追分の道標が建ち、道標の表面には「伊勢 名古屋ちかみち笠松兀一里」、右側面に「西 京道加納宿兀八丁」、左側面に「木曽路 上有知道」裏面に「明治九年一月建之」と彫られているそうです。

(御鮨街道とは加納宿長良川鵜飼の鮎鮨を尾張家や将軍家へ俊足で運んだ道でした)

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すぐに、左手に八幡神社があるが、正面参道は地蔵尊が祀られた二股追分の伊勢街道

に面していた。石垣上に風格ある立派なご神殿が祀られてます。

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神社からほんの少し先領下往還南交差点を渡ると、続ていた普通の街並みから一転

風情が替わり、立派な長屋門や正門を備えた屋敷が現れ、両側に街道らしい時代を

感じる街並みになります。一軒の100年を超えると書かれた古民家は、懐石料理店

でした。

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さらに500mほど街を進むと、右手にモダンな街灯をもった和洋折衷?の

秋葉神社が祀られていて、その先で東海道線が初めて登場しガードをくぐります。

東海道本線は岐阜から中山道近くのルートを取ったので、これから東海道新幹線

含め頻繁に登場することになります。

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ガードから約150mほど右手には県指定都市景観重要建築物の重厚な森邸屋敷が

あり、屋根には煙だし小屋根が有りました。

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森邸のすぐ先に、名鉄名古屋本線茶処踏切で、左側に名鉄茶所駅があり、踏切を

渡った岐阜方面への駅入り口に「中山道加納宿碑」がでんと控えてました。

かっては地名の上川手駅だったそうですが、茶所の駅名に変わったのは??です。

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30mほどで南へ分かれる路が御鮨街道で、右手に石柱道標がありました。

以前に記しましたが。尾張家や江戸将軍家に長良川の鮎鮨を献上した道で、

岐阜町から加納、笠松、一宮を経て、熱田からは東海道で鮎鮓を運んだ。
江戸に着くころに食べごろとなるよう、岐阜から江戸まで5日間で運んだとされる。

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 (街道書に、御鮨街道へ曲がり20mほどに、素行の悪さを改心し、等身大の

 木像・ぶたれ坊を造り旅人に叩いて貰い罪滅ぼしをしたいう、加納所縁の相撲取り

 鏡岩にまつわる碑と、道標「東海道いせ路(御鮨街道)」が記されてましたが、

 寄らずに来てしまいました)

道標のすぐ先の団子やさんの角は桝形で「中山道 加納宿」碑があり、

中山道、御鮨街道は右に曲がります。

加納宿は城下町で左手方向に加納城が有ったので、城下町独特の城を遠回りの桝形

だといわれてる。

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約50m歩くと荒田川を渡る加納大橋があり、右側に加納宿案内標識が建って

いました。橋の欄干には、参勤交代行列図が彫られた胴板があります。

荒田川は境川の分流で、加納大橋を過ぎるとすぐ南に流れを変え、加納城の東の外堀になっていたそうです。

加納宿は、関ヶ原合戦時に岐阜城にあって西軍に組した織田秀信(かつての三法師)が追放された後に、慶長6年(1601)、徳川家康の娘婿である奥平信昌が加納の地に入り、破却された岐阜城の建材で加納城を築城したことに始まる。
豊臣氏やその恩顧の大名への監視をするとともに、織豊から徳川への時代の移り変わりをわかりやすく示したのだろう。
その後、寛永11年(1634)に加納宿中山道の宿場に定められるが、中山道に沿って21の町が並ぶ細長い町だったという。」(案内板)

あの戦災で焼き尽くされ、宿場遺構は残されていないそうです。

左手川岸に立派な蔵造りが並んでますね。

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加納大橋を渡り約70m歩くと右側に薬局本店があり、その先は左桝形で

石柱道標と明治18(1885)年に建立された「右 岐阜 谷汲路、左 西京路」と

彫られた谷汲道標があり左折します。

「右 岐阜 谷汲路」となってる直進の道は、明治時代に造られた道だそうです。

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左折して約70m歩くと秋葉神社が祀られていて、約100m歩くと二股になり

左手へ進みます。

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少し歩くと、右手の広い通りへ出る手前の右側に、「中山道加納宿の東番所跡」碑が

あり、加納宿東入口に到着です。

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加納宿は、
「江戸から53番目、日本橋より105里4町8町、約412.8キロ。

鵜沼宿より4里10町 16.8キロ

天保14年(1843)で人口2,728名、総家数805、本陣1、脇本陣1、

旅籠屋35、の加納藩の城下町であった。
加納城下町の建設は、関ヶ原の合戦から半年後の慶長六年(1601)三月、

十万石の領地を与えられた奥平信昌が地元の有力者たちを指揮し、整備した

ことから始まります。
 その後、寛永十一年(1634)には中山道の宿場に定められました。
 城下町であり宿場町でもある加納宿は、二十一の町からできており、中山道

 沿って軒が並ぶ細長い町でした。
 宿場の中心部では、岐阜町から名古屋の熱田へ続く御鮨街道(岐阜街道・尾張街)

 と交わっており、交通の要となっていました。

(通って来た加納大橋案内板より)

広重画 加納宿

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左手へ入ると正面に大きな伽藍の「浄土真宗本願寺派 法性山善徳寺」がある。

加納宿の成立とともに現在地に移されたそうで、東番所と連動した加納城の出城の

 ような役割をはたしていたとの説がありました)

正面のお寺前で道標に従って右折(4回目の桝形かな)し西へ進みます。

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右折して約50m歩くと幅広い道路にで道標があり、街道は広い道を斜めに

突っ切った二股道の左手へ続きますが、一旦広い道を横断、10mほど左へ進み

二股道の左手へ斜めに入って行きます。分岐手前にも道標が建ってました。

広い道を渡った正面のマンションの脇に「柳町秋葉三尺坊」が祀れていていました。

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二股の左を70mほど行くと、

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左手に浄 土真宗大谷派 大会山専福寺があります。
専福寺は織田信長豊臣秀吉の朱印状、池田輝政の制札状などあり、

岐阜市重要文化財に指定されているそうです。

(駐車場確保のために塀の一角を取り払たんですね、もったいない)

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専福寺から約100m歩くと、右側に秋葉神社が祀られていました

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秋葉神社から100mほどで桝形で、右手奥に秋葉神社が祀られ、街道は左手へ曲がり、角の薬局前に道標や中山道説明板がありました。

(あれ?街道書には、桝形の手前に秋葉神社との間に、献上鮎鮨の継立をした問屋場

 記されてるが、どこに有ったのかな??見落としたようです)

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(あとで調べると問屋場跡の案内板が、建物の軒下に小さく有ったようです)
左折して歩くと清水川に架かる広井橋があり、橋の手前を右折すると右側に水薬師寺

が沢山の幟を立ててありました。

臨済宗妙心寺派,本尊薬師如来
慶長17年6月21日の夏に伊三郎という若者が清水川にて遊泳中、足に触れた異物を拾い上げたら黄金の薬師像で、
これを光国寺に奉納しました.
藩主奥平忠政と亀姫はこれを慶び清水川に川中に二間四方の浮見堂を建て安置しました。以来水薬師または乳薬師と呼ばれ,
乳がよくでる仏として親しまれています.7月20,21日には清水川の灯籠流しが盛大に行われています」(加納宿資料)

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清水川に架かる橋を渡った所に「加納宿高札場跡」の立て札、街地図が立っている。
加納宿では、加納城大手門前の清水川沿いのこの場所が高札場で宿御高札場と呼ばれていました。この高札場は加納藩の中でも最も大きく、石積みの上に高さ約三・五メートル、幅六・五メートル、横ニ・二メートルもあるものでした。正徳元年(1711)に「親子兄弟の札」が掲げられて以後、明治時代になるまで、何枚も高札が掲げられました。平成十ニ年三月 岐阜市教育委員会」(説明版)

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高札場跡から約100m歩くと、加納大手町交差点の手前に歩道橋があり、

歩道橋の処に「中山道加納宿 右 河渡宿」の道標と「加納城大手門跡」碑が建ち、

街道がお城の門の側を通ってるのは珍しいのでは。

ここも桝形で街道はお城に近づくことなしに十字路の手前への道を右手へ続いて

いきます。

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右折してすぐ左手に広い更地になっており、解説パネルが掲げられていました。

広い空き地には大正15年建築の登録有形文化財・旧加納町役場庁舎がつい最近までは

建っていたそうですが、老朽化により解体された跡地だそうです。

100m強ほど先左手には、元和6(1620)年に創業した旧旅籠の二文字屋跡

(現在は「うなぎ・二文字屋」)がありました。

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二文字屋には左甚五郎作「月夜に河原で餅をつくウサギ」の欄間があるそうで、

入口右手に欄間をモチーフにした蹲のモニュメントがあり、道標もあって時代を

演出してました。

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そのすぐ80mほど先に宮田家が本陣を勤めた「当分本陣跡」の碑が立っていました。

ごく最近までは塀をめぐらしたお屋敷が有ったようですが、周辺は駐車場が

広がっていて、碑の後ろは管理事務所のような家屋がありました。

当分本陣とは、幕末に参勤交代が緩和され通行増大に伴い当分の間、本陣を勤めた

ことから当分本陣と呼ばれたようです。

(案内解説板などはみつけられなかった)

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当分本陣跡の先は、交通量の多い加納中通りだが信号がないため、50mほど南の

信号のある交差点で渡りって、街道へ戻ります。

来た道を振り帰ると当分本陣跡の駐車場などが見えました。(写真下右端)

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渡ってすぐのビル脇に、皇女和宮が宿泊した松波藤右衛門が勤めた加納宿本陣跡碑が

たってます。

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本陣跡から約40m歩くと、右側に万治元年(1658)から松波清左衛門が勤めていた

西問屋場跡があり、跡地に標柱が建っていました。

約30m歩くと、右側に延享2(1745)年から森孫作が勤めていた脇本陣跡があり、

標石が建っていました。脇本陣跡から約15m進んだ十字路を右手を見ると正面に

加納城の守護神であった加納天満宮の大きな石碑、遠くには森を背負った神社が

見えてます。

もともとは加納城の前身にあたる沓井城の守護神として勧請されたものが、加納城

築城の際に現地に移転されたものだそうです。

街道書には、加納名産の加納傘は加納城主となった松平丹波守が播州明石から連れて

きた傘職人が始まり、とも記されてます。

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子供のころは和傘、番傘が普通でしたが、和傘が加納の特産とは知りませんでした。

岐阜市の伝統ある和傘屋さんのホームページに有った一文です。

「城下町として栄えた加納は、和傘といえば加納といわれるほど、古くから名産地として知られています。生産が盛んだった昭和20年代頃までは、天気のいい日には加納の町のあちこちで和傘が天日干しされ、その風景は庭いちめんに色とりどりの花が咲き開くかのようでした。なお、岐阜和傘は平成4年、岐阜県郷土工芸品に指定されています。 材料となる良質な竹が木曽三川流域に豊富にあり、美濃和紙、柿渋、えごま油が身近にあり和傘づくりは、一つひとつの行程が複雑で、それぞれに専門的な職人技が不可欠な工芸品。熟練した数十人の職人の手を経て、数か月をかけて仕上げられます。
神社・仏閣の祭礼はじめ、歌舞伎・舞踊・野点のお茶席、婚礼用の差しかけ傘など、日本の伝統文化に欠かせない和傘は、これからも守らねばならない大切な文化です。入手しやすかったことが、地場産業までに成長した要因だったようです。」


天満宮参道口から60mほど右手の小ていな洒落た宅前に、小林家が勤めた

脇本陣跡標石が建っていて、

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150mくらい歩むと、前回第33回先行旅立ちをした、岐阜駅南口通り到着で、

10月6日(日)PM4:15、第35回旅の足止めです。

これで中山道街道旅は一本線で継ぐことができました。

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鵜沼から加納まで結構長丁場でしたが、旧道には街道の雰囲気も結構残っていて

楽しめた歩きでしたが、ただガードレール無しの歩道帯が多く、全般的に交通量も

多く、かなり気を使った歩きが多かった気がします。

そういえば、自転車で通る方もほとんど見かけなかったな~。

右折して岐阜駅へ出て、構内店で夕食の総菜などを手当てし、JR高山線

美濃太田駅へ。

途中の停車無人駅ホーム外側に十月桜が咲いてました。

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翌日7日(月)は修復工事中ですが、国宝・犬山城へ立ち寄りして、

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名神、新東名、圏央道を走り、全く渋滞にもかからず夕5時帰宅。

次回35回は美濃を通過し近江の国へ。さあ~て、いつ日か・・・

「終わり」

 

(余談)

かの信長が築いた岐阜なのに、どうして加納宿なのだろ?

JR岐阜駅の南側に当たる岐阜市の中心部で、何故に「岐阜宿」ではないの?という

疑問が沸きますが、加納城徳川家康の天下統一後に築かれた城で、斎藤道三織田信長の居城で有名な岐阜城の城下町とは別の町になり、まさか「加納」という城や宿が、家康による織豊政権を象徴する「岐阜」を否定することで成立したとは思いもよりま

せんでした。さらに、徳川政権を否定した明治政府の意向なのか、「加納」は「岐阜」にのみ込まれてしまうという歴史の流れだった。

東京都薬用植物園 

10月20日(日)所用で出かけた帰り道、東京都薬用植物園へ久しぶりに

寄りました。

 すこし時期的に遅いかな、と思いましたが、目的は「ホトトギス

園内の一角や、樹林の中に、ピークは過ぎてはいましたが、

まだまだあのユニークな花姿を見ることができました。

ホトトギスは、お盆を過ぎた頃に咲き始めることから、夏の終わりと秋の到来を

感じさせる植物としても詠われるようです。

そして、今年を象徴するようにマメザクラが咲いました。

様子はアルバムを兼ねて写真を並べてます。

 (画像はクリックで大きくなります)

 

 

園内の一角の小ぶりの木に桜が咲いていた。

冬桜?と思ったが「マメザクラ」(フジザクラ)の札が下がってる。

「マメザクラ」 バラ科、サクラ属 桜の野生品種の一種。

富士山近辺やその山麓などに咲くマメザクラは良く知られて「フジザクラ」とも

呼ばれてます。

通常の開花期は3月下旬~5月上旬ですから、今年は桜の狂い咲きが話題になり

報道もされてましたね。

秋から冬に咲く十月桜や冬桜は、マメザクラとコヒガンザクラヤマザクラ

交雑種で生まれたそうだから、資質はあったということかな。

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ジュンサイの水鉢に 咲く、オオバナイトタヌキモ( 大花糸狸藻)

タヌキモ科 タヌキモ属 東南アジア、オーストラリア、アフリカなど分布

小さな可愛いな派ですが、ミジンコなどを捕らえて消化する食虫植物。

本当は夏の花のようだが、暑い秋だったからか咲いていた。

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秋の花はシュウメイギク

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切り花としておなじみの「ヤマジノギク」

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ダルマギク キク科シオン属(キク属ではない)

元々は海岸線におおく咲いていて、薄い紫の花色は独特な美しさをもっています。

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モリアザミ(森薊)

キク科 アザミ属

根は太く直径約1cm。栽培され、ヤマゴボウの名で味噌漬けなどのみやげ物に

なっている。

(ここのは野生種だそうです)

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 ホトトギス ユリ科ホトトギス

高隈杜鵑草(たかくまほととぎす)

鹿児島県の高隈山で 発見された杜鵑草。

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下方向に向く釣鐘型、紀伊上臈杜鵑草(きいじょうろうほととぎす)は黄花

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キバナノツキヌキホトトギス(黄花突抜杜鵑草)

世界中で宮崎だけに自生する。1934(昭和9)年に尾鈴山で発見された。

はじめてお目にかかったホトトギスでした。

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葉の基部が茎を取り巻いているため、茎が葉を突き抜けているように見える

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 そのほか、ロックガーデンを占拠したかのように咲いてます。

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ゲンノショウコ 東日本に多い白花。

風露草(ふうろそう)科 フウロソウ

薬効   下痢、便秘、整腸
 昔から下痢止めの薬草として知られ、

 煎じて飲めばぴたりと効く、ところから「現の証拠」と名付けられた。

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イヌサフラン

ユリ科コルチカム属の球根植物。

サフランとは、科や属のまったく異なる植物です。

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鉢植えで有った「八重咲きイヌサフラン

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初冬から咲き始める 沖縄に咲く「サキシマフヨウ」

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こちらは、ほろ酔い前の酔芙蓉(すいふよう)

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赤と黒、花からは想像できない山シャクヤクの実

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透き通るような薄クリーム色は、ゼフィランサス・エージャックス

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白花はゼフィランサス、たますだれ

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 ベンケイソウ科ミセバヤ

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ちょっと遅いかな、コスモス

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眉刷毛万年(まゆはけおもと)

ヒガンバナ科ハエマンサス属 南アフリカ原産

太くて長い花径が伸び、眉刷毛を連想させる白い花

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そして秋に咲く花、透き通ったような水色

リンドウ 竜胆(りんどう)科リンドウ属

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夏撒き秋蕎麦が今満開

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ハイビスカスの仲間、ローゼルの実

葵(あおい)科。ハイビスカス属 アフリカ北西部原産。

「ハイビスカスティー」 になる植物

 赤い実は 「巾着(きんちゃく)」や「おむすび」みたいな形。
 お茶は赤い実の外側の部分を使うとか。

(まだ味わったことはありません)

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ハッカの花

シソ科ハッカ属

強い芳香がありハッカ油の原料として古くから栽培されていた。

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クリトリア(チョウマメ) 鮮やかな青の花

マメ科 クリトリア属 原産 インドや東南アジア

ハーブティーに用いるようです。

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ブルージンジャー(ジンジャーの仲間ではないようです)

ツユクサ科 ディコリサンドラ属 ブラジル原産

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真っ赤な「蓮霧(れんぶ)」の実

 蒲桃(ふともも)科 フトモモ属 東南アジア原産

さくっとした軽い歯ごたえ瑞々しさ、酸味と甘味を感じる美味しさがあるとか

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う~ん、何だったかな~・・(札を写し忘れた)

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ボケが咲き始めてた。

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帰り際、目についた鉢

おや、2倍体ヒガンバナ? とは??

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観単にいうと、染色体が普通の3倍体の植物は種が出来きないが、

 2倍体は種ができるということのようです。

日本のヒガンバナは球根で増やせるが、3倍体で種ができない。

中国原産の「コヒガンバナ」は種が出きる、「2倍体ヒガンバナ」というそうです。

解説文

「2倍体や3倍体などは倍数体(polyploid)といって、細胞内の染色体の数が普通の個体の整数倍になっているものをいいます。
たとえばキクの基本染色体数は9本ですが、2倍体(18本)や10倍体(90本)が自然状態で存在します。
偶数倍数体では実や種が多くなり、奇数倍数体では逆に少なくなるという性質があります。
なので作物では異質4倍体が好んで栽培されたり、逆に種なしの果物を作るのに3倍体を交配させるといったことが行われます。
一般に偶数倍数体は基本倍体の個体よりも大きく育つ傾向にあります。

 新しい品種を作るために種から育てているのが普通だそうです。

 

勉強になりました。で園を後に。

 

歩いて再び京の都へ 旧中山道69次夫婦歩き旅  第35回 2日目 鵜沼宿~加納宿  前編

歩いて再び京の都へ、第34回も2日目の朝を迎えました。

今日も快晴のようですが、暑さはどうかな?

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今朝は日曜日なので朝ドラはなし。

身支度をして早めにホテルを出て、JR美濃太田駅 、AM8:03発の

JR・岐阜駅行乗車し、昨日足止めの「各務ヶ原駅」前へ。

10月6日(日)AM8:30 第35回2日目の旅立、快晴夏日

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 美濃太田宿~加納宿岐阜市)は約27km。

1日目はここ各務原駅前で半分の13km強で、2日目はのこり約14km。

ただし、街道筋は国道、県道を含めかなり交通量が多く、その割には歩道は狭く

ガードレール無しも多い、との情報があり、歩きには要注意です。

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激しい交通量の国道21号を1km強行くと、左右に郊外型店舗が続き、車で立ち

寄るための店が次々と並びます。

街道書には左手二十軒バス停付近は二十軒立場跡と記されてますが、探しても

周辺に示すものが何もありません。

直線の中山道は円蔵寺縄手と言われ、周辺三ツ池地域は鵜沼宿の本陣を務めた

桜井家一族が開拓し、三ツ池新田と呼ばれた、とも記されてます。

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二十軒立場跡から約300m歩くと三ツ池交差点があり、ここは地下道で横断するようになってます。(地下道を利用しなくても横断は可能な様子ですが、なにせ交通量が

多く、年寄りは安全に、安全にと地下道を利用して斜めに右手へ渡りりました)

道路の右手には寄りませんでしたが、街道書に拝殿が伊勢湾台風で崩壊したと記さ

れてる神明神社がありました。

(現在も再建されてないのかな?)

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地下道で斜めに交差して渡り階段を上がると、すぐ右手は曹洞宗長楽寺で、

大きな地蔵尊と祠に祀られた三面六臂馬頭観音があり、境内には、

明和の文字彫られた観音石像や、平成に改築したお堂に、江戸末期ころに奉納された

といわれる三十三観音像が祀られてました。

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 長楽寺から約200少し歩くと左手に、地蔵座像、立像の二体が祀られてた。

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地蔵祠からは、しばらく花などを眺めながら、たんたんと国道歩道帯を

700mほど歩いてるうちに左右は鵜沼川崎町で、先に蘇原三柿野駅前交差点が

見えてきて、国道21号は名鉄線を越す陸橋へ上がってゆきます。

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交差点で国道左手へ渡り左手の側道を行くと名鉄三柿野駅がありますが、

街道書は国道右側の川崎重工の工場群が続く側道へ案内しています。

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100mほど先の左陸橋下越しに名鉄三柿野駅舎が見えてます。

階段で陸橋へ上がり名鉄線を越えさらに100mほど行き陸橋下の側道へ

階段を下ります。

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下りた側道で橋桁越の左手は航空自衛隊岐阜基地営門、右手に航空機など手掛ける

川崎重工工場が続き、国道と合わさって更に300mほど先の三柿野交差点が近づいてきます。

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国道の左手に自衛隊官舎が続き、国道21号はバイパスとなって左手に分岐して行き、中山道は直進で分岐右手へ進み蘇原六軒町へと入ります。

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分岐から約300m歩くと、右側のブロック塀の角地に標柱が建って、

日本橋から103番目の六軒一里塚跡がありました。
六軒一里塚跡付近は茶屋が六軒並んでいたので六軒茶屋と呼ばれた立場跡で、

往時は「野をわけゆけば六軒茶屋の村はわびしき様也」と云われていた、と

街道書にはあります。

横の塀に有る標語、いいですね。

つたえたいな~・・でも人影は無し・・

(でも、むかしはこれが普通の生活の中での挨拶よね~、てカミさん、

 そうか、こうしてみんなに思い出してもらわなければ・・の今世相なんだな))

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真向かいに竹林寺、右手に白壁塀に門扉に三ツ柏の家紋を付けたお屋敷、

普通の民家のようだが、なにか由緒の家柄かな?

などを見ながら足を進めると、大きな幟、石の鳥居、灯篭も立派な秋葉神社

祀られてます。 お祭りが近いのかな?

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40mほど先右手の祠に祀られるは、お花を供されて地蔵尊

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地蔵祠から約120m歩くと右側に神明神社が祀られており、神社の参道入口脇にも

祠があり、馬頭観音が祀られていました。

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街道筋の神明神社でも見られましたが、拝殿前に彫刻が施された立派な透垣

(藩塀)があり、幣殿に献燈と狛犬が本殿を守っています。

研究公開された方の資料に、下記の記述がありましたので参照させて

いただきます。

「蕃塀は、神社の一施設で、通常は参道上で拝殿の前に存在する短い塀で、

「不浄除け」、「透垣」、「籬」などとも呼ばれる。

正殿を直視しない(できない)ようにするとか、不浄なものの侵入を防ぐために

造られたと思われるが、正確な目的は不明とか。

尾張地域に多いといわれ、元々は伊勢神宮のものを指すようで、伊勢神宮

起源は8世紀以前に遡ると思われ明治2年(1869)の第55回式年遷宮の際に玉垣

共に蕃塀が再興されたという。

尾張地域の蕃塀の歴史をみてみる。これまでのところ、記録上最古の尾張の蕃塀は

承応2年(1653)に補修された「紙本著色真清田神社古絵図」に描かれた真清田神社の

蕃塀である。絵図の表現などの分析からみて、この蕃塀は安土桃山時代にまで遡る可能性もある。そして江戸時代には、少なくとも尾張大国霊神社(1714年以前の建立)、

熱田神宮(1752年以前の建立)、津島神社(1825年頃の建立)の3社にも蕃塀の

存在が確認され、尾張にはある程度広がっていたものと考えられる。

これらは「透垣」などと呼ばれ、「蕃塀」と記された事例はないようである。

この結果、尾張地域の蕃塀は、平安時代前後の段階に伊勢神宮の蕃垣の影響を受けて

成立した可能性が残されるものの、江戸時代に尾張独自に「透垣」が造られるようになったと考えられる」 とありました。

拝殿脇では来週のお祭りの準備が氏子の方々の手で進められてましたね。

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神社のトイレを利用させていただき、相変わらづ狭い歩道帯の街道を進みます。

おや、「くねくね」てどんな食べ物??なって看板をみながら行くと、なじみの

Caféチェーンのお店があり、AM10:30Caféタイムの足休め。

(くねくねは、豚骨ラーメンのチェーン店だったようです)

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Caféタイムを20分ほどで終えて住吉町表示の交差点を越えると、歩道帯は広く

なり、電線も地下化されたか、すっきりとした街並みになりました。

街道地図を見ると、面白いですね。

右手の町名が那加信長町で、次の街は那加織田町。奥の名鉄各務線近くには

織田信長公園が記されてますが、なにか所縁がある?洒落気の語呂合わせ?

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交差点から200mほど行くと、右手の大きく立派な建物は各務原市役所のようでし

たが、移転したのか空きビルになっていて工事が始まる様子。

見える街道沿いには何の説明板も有りませんでしたが、地元の方のお聞きすると

高層ビルの新庁舎建設で工事が始まったようです。

一時期、各市町村の庁舎新築ブームとも言える時期がありましたが、

今の時期には珍しいのでは。

基地や関連企業なども多く、財政的に豊かなんでしょうか。

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市役所から約400m歩くと門前町2交差点があり、先の右側は

岐阜大学農学部敷地跡に造園された広大な各務原市民公園が続きます。

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公園内を北側へ横切り300mほど先に神明神社があり、そこには鼠小僧治郎吉の

碑がある、と街道書には記されてましたが、寄り道せづに足を進めます。

鼠小僧治郎吉、といえば昔から歌舞伎、講談などで義賊としてもてはやされた

庶民の人気者ですが、最期は処刑されたようです。

私も昭和映画の全盛期やTV草創期、少年雑誌などでなじみの主人公でしたね。

モデルとなった実在の盗賊はいたそうで、一時江戸追放(江戸払い)になった頃に

でもこの地になにか逸話をのこしたのかな?

各務原で名を見るとの旅の面白味ですね。

たしか今年の前進座での秋の上演広告がありました。

 

公園の西は新境川が流れており那加橋で渡ります。

川上側河畔は桜の名所で、この地の出身の歌舞伎役者、市川百十郎が、新境川

(放水路)開削工事時の物故者供養のためにと、1931年から2年間に渡り

吉野桜を寄付したことに由来し「百 十郎桜」と呼ばれていました。

戦時中は燃料として伐採されたそうですが、市制施行記念として1千本を再植樹

した、と市資料に有りました。

街道書には新境川は戦国時代美濃、尾張の国境であった、とありますが、

調べた資料によると、「新」とはついてますが、

「現在の各務原市の西部地域は農業用水が慢性的に不足していた。そこで境川を現在の各務原市蘇原大島町より分流し、各務原市下中屋町にて木曽川に合流する放水路が計画され、1930年(昭和5年)に完成した。各務原台地を切り込み、放水路を掘った時に出た土砂は、陸軍各務原飛行場の拡張に使用された」とあり、

境川は、旧境川部分と境川放水路部分(那加橋は放水路の川)があるそうです。

旅に当たって各務原の歴史を紐解いたときに、各務原市は我が町と意外な

結びつきがあり、似たような街の歴史があることにを知りました。

私達の住む街は、初めて日本の空に飛行機が飛んだ日本航空発祥の地と言われ、

戦中は 所沢陸軍飛行場や演習場などがあり、大正年代に各務ヶ原に設けられた

陸軍飛行場に所沢陸軍航空第2大隊を移したそうです。戦後は各務原と同じく米軍に

接収されていましたが、昭和34年ころに返還され、一部は広大な米軍の通信基地が

今も残っていますが、一部分の跡地は官庁街、住宅団地と県立「航空記念公園」となっていて、公園内には「日本航空発祥記念館」があり、復元された初飛行の機体「ファルマン機」ばどが展示されてます。

初飛行の滑走路跡は花壇となって残されており、隣接市の飛行場は現在航空自衛隊

基地として運用されてます。

各務原市も、所沢の航空隊が移設して旧軍の基地となり、接収、返還、自衛隊基地の

歴史繋がりがありました。

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橋を渡ると電柱が復活し、渡った橋の袂に大きな「なかモール21」と掲げたアーチ

が建ち、歩道には初期の航空機をモチーフにしたタイル画は埋め込まれた

那加地域商店街です。

「並木などのある遊歩道的商店街モール」の街づくりを目指してるということかな?

各務原市にも自衛隊基地に隣接して「航空宇宙博物館」がありますね。

時間が許せば寄り道したいと思ってましたが・・またの機会にです。

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那加橋から電柱復活の道を100mくらいの右手に、栄町秋葉神社が祀られ、

さらに50mくらい先にも「なか21モール」のアーチがあり、右手へ入ると

名鉄那加駅になるようです。

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さらび100mほど歩むと右手に赤い鳥居があり、神殿が秋葉神社の様に鉄扉を持った

西那加稲荷神社が祀られてます。

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足をすすめてさらに100mほど行くと、先は二股分岐の加納町5差路交差点で、

街道は二股の右手へ進みます。

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分岐には石柱「中山道間の宿新か納宿」があり、鵜沼、加納宿間は

4里10町(約17km)と長いため設けられた間の宿、新加納へと向かいます。

(あっ、コンビニへ寄るの忘れた!目の前の焼き肉屋の看板をみて思い出しました。

 手前、150mくらいにコンビニが有ったのです。

 今回の旅でも、いつもの非常用の健康補助食品(昼食代わり)を持参するのを

 忘れていて、 この旅区間も食事のできるお店が殆どないようなので、食品店か

 コンビニが有ったら 寄て食品をゲットする予定だったのです。

 まあ、この先に新加納間の宿があるから、何とかなるだろうと、戻らず足を進めて

 しまいましたが、・・ というのはちょいと甘かったんですね・・・)

  ( AM11:30)

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交差点から200mほど右手のがっちりとした石積上には秋葉神社がまつられていて、先隣軒下に茶色の杉玉が下げられた建屋は、大正9年(1920年)年に創業の

「銘酒栄一」蔵元、林本店で、新酒の熟成を知らせてました。

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すぐ先の左手住宅の角に自然石があり、中の文字が読み取れ、街道書では

中山道道標とあります。

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道標から50mほど右手に鳥居と社標、蛙の親亀こけたら式の三代石造があり、

参道を50mほどに赤い両部鳥居が建ち、さらに100mほど奥に

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滋賀県大津市にある日吉大社分祀社の「日吉神社」が祀られてます。

案内板によると、

昔、この神社の境内には池があり、そこに住み着いた蛙と村人たちにまつわる伝承が

伝わっています。

「 むかし、日吉神社のひょうたん池に、いつのころか大きな蛙が住みつき、 

 村人にいたずらをするようになった。村の人は、かえるは腹が減って悪さを

 するのだろうと、池にごちそうを投げ入れた。

 すると、蛙のいたづらがなくなっただけでなく、薬を届けたり、日照り日には   

 雨まで降らせてくれた。
 以来、福蛙として村人に親しまれるようになった。」

初午の4月の第1日曜日には「蛙まつり」、通称「げえろ祭り」が行われ、境内の池に

まかれた餅を食べると無病息災でいられるとされてます。 現在、池は埋め立てられて

いますが、祭りは行われているそうです。

日吉神社の境内には、狛犬の代わりに狛蛙が建てられ神社を見守っていますね。

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この狛蛙は、子供蛙が背中によじ登ろうとしているよ!

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日吉神社鳥居から50mほど行くと左手へ入る道があり、角にたてられた新しい

石柱道標の上にも蛙がちょこんと鎮座してます。

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街道脇の空き地には秋の気配が漂ってますが、今日は暑い夏日街道です。

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蛙道標から50mほど先から「新加納の立場」で、疝気(せんき)の妙薬が評判で、

皇女和宮が休息した梅村屋茶屋本陣跡が右手にある、と街道書に記されてますが、

標識などが無くどちらかな?

(この先に有った新加納宿宿絵図が示した場所から、写真左上の二軒の家屋の

 前の家ではないかと憶測)

先は道がすぐに二股路となり、角に新加納案内図や蛙石像、一里塚跡の石柱があり

ました。

(AM11:55)

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新加納の立場跡から桝形に入る二股の手前と角、二対の日本橋から104番目、

「新加納の一里塚」跡碑が置かれている。

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 (新加納宿の資料から抜粋記載)

中山道は江戸の日本橋から京三条大橋までの、約532Kmで、この間に六十九(草津から東海道に合流、六十七宿が中山道)の宿場が設けられました。岐阜県内は落合宿から今須宿までで美濃十六宿といわれます。そのうちの鵜沼宿から加納宿までの四里十丁(約十七Km)間に新加納は位置し、両宿のほぼ中間です。まさに「間の宿」です。

宿場は一里(4Km)から二里の間隔が普通ですが、鵜沼、加納宿間は、中山道では二番目に長い間隔です。これは多分この間は地形が平坦で通行しやすく、また、各務原台地は水が得にくいため居住に適さなかったからでしょう。

新加納に立場(たてば)について、
 立場は、宿場間に通行する人や馬が休息するために設けられた施設です。幕府が十九世紀初期に作成した中山道分間延絵図の新加納村に、立場の文字が一里塚の東に記されています。
 立場がいつ頃から設けられてかわかりませんが、宝暦六(1756年)の「木蘇路安見絵図」にも一里塚に隣接して立バがあります。新加納の他に各務原台地には、六間茶屋と二十間茶屋が地名として記され、中山道筋で湯茶の接待がされていたようです。
 分間延絵図作成のために享和元(1801)年に新加納周辺の村々が書き出した事項の中に、「往還立場、更木新田煮売茶屋渡世仕候」とあり、更木新田の位置は不明ですが新加納の立場では煮売茶屋が営まれている」

 

二股分岐の右手道は近年造られた道で、旧街道は左手の直進の道を行くと、

突き当り正面に高札場跡の石碑がこれも蛙を載せて建ち、中山道は桝形となり

右折して続いてゆきます。、

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突き当り左手はこの地の領主旗本「坪内氏」の御典医だった江戸時代から続く

今尾家の広大な屋敷で正面は現在も医院を開業している今尾医院。

高札場跡を左手へ歩き30mくらいで右折し、街道書に有るお寺へ向かいますが、

その右手道筋は今尾家の黒塀に囲まれたお屋敷が続き、木戸口を付けた立派な

薬医門が残され「今尾醫院」の表札も掲げてあり、門や塀の瓦の上にある

「逆立ち獅子」「七福神」等、実に趣のある素敵な建物で文化庁登録有形文化財

 の標識が掲げてありました。

(ちらりと覗いた庭も、よく手入れさた風情あるいい庭園でしたね)

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門の向いの道を挟んでお堂があり、ここも今尾家が管理する「薬師如来尊御堂」で

重要有形文化財の指定されてました。

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今尾家の西隣の道を入ると左手は、尾張徳川家が狩りの際に宿所とし、「葵の紋」が

許された真宗大谷派・善休寺あり、屋根瓦には葵の紋があります。

写真下右端、山門左手に「右きソみち 左京ミち」の道標がありましたが、

「なぜ、ここに?」

(道標の有る南北の道は、中山道の更に旧道の説あり)

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善休寺の南側の道は、手前には狛狐から参道を歩くと赤い鳥居、各務原市重要文化財

の稲荷堂があり、突き当りには鎌倉時代夢窓疎石が開山した少林寺で、

織田信長に属し、後に徳川家康に仕え関ヶ原合戦の後に六千五百石を領した坪内家の

菩提寺で、旗本・坪内家は新加納陣屋を構えて、代々続いて明治に至った由、

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付近南側が坪内家の陣屋屋敷跡だそうですが、明治に入り解体されたため陣屋の

遺構は無く、現在は表門などの再建修復工事などが行われてました。

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中仙道へ戻り今尾医院の前を通り、100m先を現代道標を見ながら桝形に左折し

加納宿をめざします。(12:30)

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後半へつづけます。

 

歩いて再び京の都へ 旧中山道69次夫婦歩き旅  第35回 1日目 太田宿~ 鵜沼宿  後編

国宝・犬山城を眺めながら天王坂をとっとと下ります。

う~ん、電線がね~

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池から約10分程下ると右手に広場があり灯篭や鳥居が見え雰囲気の良い神社

が祀られていました。

街道書には、往時は天王社と称し、寛永12(1635年)年に遷座した赤坂神社と

あり、右に折れて立ち寄ります。

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主祭神 は、盞嗚命(すさのおのみこと)稲田姫命(いなだひめのみこと)

門前の常夜燈は寶暦6年(1756年)年の建立と言われるそうです。

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赤坂神社から下って約100mほで坂を下りきり、Y字路分岐に右手を示す

中山道道標が有り右折するとすぐに、

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鵜沼宿の江戸口に当たる東見附跡となり、赤坂地蔵堂が建っている。

すっかり風化してよく読み取れませんが、赤坂地蔵には、

「宝暦13年 女人十二講中」、「左ハ江戸并せんこうし道(善光寺道のこと)」

「右ハさいしょみち(在所道のこと)」と刻まれていて、道標の役割を兼ねていた。

と説明板に記されてます。

地蔵堂前で桝形の様に右手へ曲がり、昼12:50、鵜沼宿へと入って行きます。

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約50mほど歩くと、右側に東鵜沼町ふれあいセンターがあり、街道書にある

高札場跡の解説パネルがあるはずでしたが、改装中の天幕が周りを覆っていて

確認でず、右先に先ほどの赤坂神社への参道があり、宝暦6(1756)年に

建立されたという常夜燈が建ってます。

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さらに約200m行くと、左側からの道と併せ、角に江戸方面へ向かう旅人用か、

「ここは鵜沼宿 これよりうとう峠 左」の自然石道標が建っていました。

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自然石道標のすぐ先の十字路を渡ると道の舗装色が替わり、

渡った右手に常夜燈が建ち鵜沼宿の中心街へ入って行きます。

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鵜沼宿東山道の頃から宿駅があった所で、うとう峠経由の中山道

整備された時に現在地に宿場が開設されました。

各務原市各務原台地東端で、木曽川を挟んで愛知県犬山市と接する鵜沼地区は

名鉄各務原線鵜沼宿駅の北側にあります。

 

江戸の日本橋から数えて52番目の宿場。

日本橋より100里28町395・7Km1 太田宿より2里 約8km

天保14年(1843年)の中山道宿宿村大概帳によると、

家数68軒、本陣 1、脇本陣 1、旅籠25軒、宿内人口は246人。

宿のパンフレットには、

「宿内の全長は東西約840m。道路は幅員5mほどの舗装がされているものの、江戸時代にかかれた家並図に見られる地割はほぼ残っており、往時の面影を偲ぶことができる。

 また、ところどころ歩道に石張り舗装がしてあったり、大安寺川に架かる「大安寺大橋」には常夜灯や木製の欄干が整備してあって、当時の風情も楽しめる。木曽川の南には、国宝犬山城を望むことができる」 と記されてます。

現在は各務原市の鵜沼地域になります。
英泉画 鵜沼宿、対岸の犬山側から見た構図で、はるか遠方に、

かすむような小ささで鵜沼の宿場が見える構図になってます。

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常夜燈から約170m歩くと、国道21号坂祝バイパスとの交差点で、

名は「鵜沼中山道交差点」。

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交差点を渡る手前の右側に復元された高札場があり、

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左側に、明治時代以降に一時街道から移されて鵜沼中学校に建っていましたが、

中山道鵜沼宿再生整備に当たり市が中山道にもどした「是より東尾州領」傍示石が

建っていました。

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鵜沼中山道交差点を渡った左手に、Café「陣屋」があり、角の白壁塀前に
鵜沼宿問屋場跡の解説パネルと、移設された尾州領傍示石(西)が建っていました。

Café陣屋の地はかっての問屋場跡で、野口家が勤め東町庄屋を兼ね、
安政5年(1855年)以降は脇本陣も務めた、と街道書に記されてます。

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時刻もお昼を過ぎていて、すっかりお腹も空いた、と昼食を兼ねて冷房の効いた

陣屋で一休み。

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ゆっくり足を休め、元気回復!PM1:50旅の再開。

道路向い側に英泉描く鵜沼宿画のモニュメントを見て、宿中心部へと足を進めます。

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中心部へは大安寺川に架かる「大安寺橋」を渡りますが、橋の手前左側には、

常夜灯と「太田町二里八丁」とほられた道標が置かれ、橋を渡った右にも常夜燈と

足元に「岐阜市ヘ四里十丁」の道標が立っていて、電柱が地下化された宿場町の

雰囲気をかもしだす風情ある街並みへと入って行きます。

明治24年の濃尾地震で殆どの建物が倒壊してしまったので、
明治期以降の町並みになりますが、それでも100年近い歴史があります

 鵜沼村の村域は東西・南北約1里10町程で、宝暦年間(1751~63)の戸数661・人数2,815。村内北寄りに中山道が通っている。慶安4年(1651)には西町・東町に鵜沼宿が設けられた。
中山道の古道の道筋は現在の鵜沼古市場町から鵜沼南町を経て鵜沼渡で木曽川を越えていたが、慶安4年(1651)に中山道の道筋付け替えがあって宿は北部に移動し、以後は木曽川北岸のルートになった。
寛政3年(1791)の鵜沼村絵図や分間延絵図などによると、宿内は西町と東町に分かれ、西町には東から本陣・問屋場脇本陣が並んで建っている。大安寺川を境に東町には108戸・540人、このうち宿内に50戸(上旅籠屋7・中旅籠屋18・百姓家25)、西町には88戸・360人、このうち宿内に29戸(上旅籠屋7・中旅籠家8・百姓家14)とある。
西町の本陣は桜井家が問屋と兼ねて勤め、南町から移って来たという。脇本陣の坂井家も西町に住したが、天保期以降は東町の野口家が問屋を兼ねて勤めた。

大安寺川の大安寺橋渡る手前左に常夜燈、橋の先に続く街並み。

散策が楽しみな家並みが続いてますね。

 

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端を渡った右手に大きな緑あふれる柳一本、垂れ下がる枝に隠れるように

常夜燈、そして隣は食事処の宇留摩庵、その隣の風情ある家屋は、

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旧武藤家住宅の現在は「中山道鵜沼宿町屋館」。

手前の板塀に鵜沼宿図は掲示されてます。

旅籠屋の絹屋だった場所で、
昭和39(1964)年までは郵便局として利用されていました。

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中山道鵜沼宿町屋館」(旧武藤家住宅)は、菊川酒造を営んでいた武藤家の

 分家だったそうで、

「当館は、江戸時代に「絹屋」という屋号で旅籠を、明冶の初めから昭和三十年代

 まで郵便局を営んでいた。
 平成十八年、各務原市が建物の寄付を受けて公開しています。
 敷地は972.76m2。屋敷は中庭を囲むように、主屋、東側の付属屋、西側の離れの

 三棟からなり、3つの建物は登録有形文化財各務原市景観重要建造物に

 指定されている。 
 主屋は、明冶二十四年の濃尾震災で倒壊し、その後、再築されたもので、

 江戸時代の旅籠の形式を残しています。
 付属屋は、大正から昭和初期に建築されたものと見られ、太田宿から移築された

 ものと伝えられています」

 (案内板)

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中山道鵜沼宿町屋館」の奥隣民家の角に、桜井本陣跡があり解説パネルだけが

建っていました。本陣の跡は既に分譲されているため看板が残るのみです。

パネルによれば、「鵜沼宿の本陣は、江戸時代を通じて本陣・問屋・庄屋の三役を
兼ねて 桜井家が務めていました・・・」などと記されています。

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町屋館の向かいには、鉄板で作られた「旧大垣城鉄門」が立っている。
「由来・当門は、大垣城本丸の表口に建てられていた鉄門で、明冶九年に払い下げ

 られた後、安積家の自邸の門として維持されてきたことから、「安積門」と呼ば

 れています。各務原市へ寄付され、平成二十一年に当地へ移築されました。
 主に城門として用いられ、当門のもう一つの特徴は、正面の木部を全て鉄板で覆い、

 軒下を白漆喰で塗籠めている点で、これらは火矢による攻撃から門を守るためと

 考えられます。
 当門と同様に高麗門に鉄板を張った遺構は、名古屋城表二之門、大坂城大手門)

 の二例が現存しています。」(説明版抜粋)

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すぐ隣は、明治4(1871)年創業の銘酒「美濃地酒蓑火」の蔵元,菊川酒造が

あり、本蔵、豆蔵、倉庫群などは国登録有形文化財の指定を受けてます。

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菊川酒造の向い、本陣跡の先隣りには南無妙法蓮華経碑があり、

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そのすぐ先が「脇本陣・坂井家」で、

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脇本陣の処に「芭蕉句碑」三つ並んでいます。

説明版に記によると、

「貞享二年(1685)、「野ざらし紀行」途中の松尾芭蕉は、鵜沼を訪れ

 脇本陣坂に滞在したと伝えられています。
 その後、貞享五年(1688)七月頃、芭蕉は再び脇本陣坂井家を訪れ、
 汲溜の水泡たつや蝉の声、 の句を読み、さらに同年八月頃、再度訪れた

 脇本陣坂井家で菊花酒のもてなしを受けた折には、主人の求めに応じて、

 楠の化石に即興の句を彫ったと伝えられています。
 ふく志るも喰へは喰せよきく之酒
 その後、木曽路を通って信濃へ更科紀行に旅立つ芭蕉は、美濃を離れる際に、
 おくられつ送りつ果ハ木曾の秋、と詠み、美濃の俳人たちと別れを惜しんだと

 いわれます」

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管理人の方によると、脇本陣は宿駅制度が廃止された後もその姿をとどめていたが

明治24年(1891)の濃尾震災で倒壊した。

復元は2010年今から9年前の平成になって、江戸時代末期の鵜沼宿各家の間取りを

描いた「鵜沼宿家並絵図」に平面図ではありましたがこの建物に関しては見取り図が

残っていたため、間取りはそのままに再建することが可能だったそうです。
ただし外観はわからなかったので、隣の太田宿にある林家に習い復元されました。

2億5000万円をかけて復活した脇本陣だそうです。

「由緒・鵜沼宿脇本陣は、坂井家が代々これを勤め、安政年間に至って坂井家に

代わり野口家が勤めました。坂井家の由緒は古く、貞享ニ~五年(1685~88)に

松尾芭蕉が当家に休泊し句を詠んだと伝えられています」(案内板)

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脇本陣・坂井家」の西隣は、古墳の石室の上に鎮座する、村社のニノ宮神社です。

常夜燈を兼ねた灯篭が建ち、鳥井をくぐり石段を上がると広い境内へ出、目の前に

古墳玄室の入り口が有ります。

さらに注連縄鳥居から石段を上がると、古墳の上に社殿があります。

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正面の本殿石垣のしめ縄鳥井脇に、ぽっかりと古墳の横穴式石室が口をあけています。

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境内からは木曽川越しに犬山城が見えてます。

木曽川の源流、鳥居峠からほどんど川沿いを歩いてきた眺めも、この付近で見納め。

木曽川は南下し伊勢湾に注ぎ、中山道は西へ西へと続きます。

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二宮神社の向い側には「国登録有形文化財」に指定されている古民家が4軒

が軒を連ねている。
鵜沼は、1891年(明治24年)の濃尾地震によって壊滅的な打撃を受け、

1軒の旅籠を残して全壊し、現在の町並みはその後再建された明治・大正期の

 ものです。

写真は、奥から菊川酒造、豆蔵、再建された坂本屋、

その手前全容が写ってませんが、濃尾地震で崩れ落ちなかった唯一の建物、

江戸時代に建てられた旅籠・茗荷屋梅田家(本家)。

織田信長の宿老林佐渡守通勝は、天正八年(1580)改易をうけた。
 その子総兵衛は津島の大橋家にお預けになった。
 林家では改易の実態を整えるため、大橋家の領地「埋め田」にちなんで氏を梅田とし、家紋は大橋家の家紋「丸に抱き茗荷」を使って屋号を茗荷屋とした。
 ここは江戸時代の建物で、鵜沼宿では現存しているのはここだけである。

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左ては梅田家、奥が安田家などの明治期建築。

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大安寺川から水を引いて用水が通り、町屋の間には常夜燈、秋葉神社が祀られ

いい雰囲気の街並みでした。

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その先右手にには、鵜沼西町交流館(町会会館?)があり、

塀前の「鵜沼宿 東・坂祝町 西・加納宿」の道標を見送り、ゆるく左へ下ると

交差点があり、左手に鵜沼宿案内パネルと道筋標が有り、交差点を渡った

左手に「鵜沼宿」碑が建ってます。

交差点を右手へ曲がり約100㍍進んだところに、昔の鵜沼石の切出し場で

山腹に「石亀神社」があるようですが寄らずに先へ進みます。

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交差点からのこの付近からは、かっては道路の北側(右側)にのみ家があり、

ここを片町といったそうです。

少し進むと右て台地傾斜地に灯篭、狛犬を持つ小社が祀られ、祠の横に「氏神」と

彫られた石碑が建ってますが、周辺のか隣接するお宅の家神かなんでしょうね。

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小社から100mほど歩いた右手に石仏石塔群台地があり階段で台地上へ上がれるようになってます。上には農業用水池があるそうです。

そしてここが鵜沼宿西見附京口)になり、案内板が有りました。

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西見附から約150mほとの左手には、八木山弘法堂があり、文化四年(1807)

建立の六十六部廻国碑をはじめ江戸時代末の石造物が並んでいます。
 六十六部は六部とも言われ、法華経を背負って全国六十六ケ所を回る修行者です。 

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弘法堂から50mほど進むと北側には衣裳塚古墳があります。
「衣裳塚古墳は、各務原台地の北東辺部に位置する県下最大の円墳です。墳丘の大きさは直径が52m、高さが7mあり、周囲は開墾のためやや削平を受けていますが、北側はよく原形をとどめています。また、墳丘表面には葺石や埴輪は認められません。
衣裳塚古墳は、円墳としては県下最大規模の古墳ですが、ここより南西約300mのところに、県下第2位の規模を有する前方後円墳の坊の塚古墳が所在することや、本古墳の墳丘西側がやや突出する形態を示していることから、本古墳も本来前方後円墳であったものが、後世に前方部が削平されて、後円部が円墳状に残された可能性もあります 。
衣裳塚古墳の築造年代については、本古墳の埋葬施設や年代が推定できる出土遺物が知られていないため、正確な判定は出来ませんが、おおよそ古墳時代の前期から中期にかけて(4世紀末から5世紀前半)の時期に坊の塚古墳に先行して築かれたと推定されます。(各務原市教育委員会説明版)

左手を見ればすれば犬山城が遠くに見えてました。

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前方後円の衣裳塚古墳の西側が、堂々たる門構えの空安寺で、寺の境内の部分は

衣裳塚古墳の墳丘の後円部分であったがため、古墳は削られて円墳となってしまった

と、古墳の説明にありましたね。

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歩道帯の狭い街道を車に注意しながらしばらく進みます。

途中、左手に逸れて7,80m入ると県指定史跡前方後円墳の「坊の塚古墳」が

あるようですが、調査中のようなので寄らづに先へ進みます。

(前回の加納宿から垂井宿への途中でも。古墳に立ち寄ってたし・・)

台地上を歩んでいたと思ってましたが、知らず知らずのうちに平地歩いていた

ようです。

各務原というように、もともと原野(平)地ですよね。

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衣裳塚古墳から10分程歩くと羽場(はば)の交差点で、先の右手に「島津神社」が

あります。鳥居を入った拝殿で村芝居が上演され、説明板によると、

回り舞台を持った「皆楽座」と称し(写真上白壁の建物)、

「客席を持たない舞台のみの農村舞台ながら、廻り舞台、奈落、セリ、太夫座などを

 備える。公演時は舞台前面にむしろを敷いて見物席とし、花道は仮設で設けられ  

 た。」そうです。(登録有形文化財指定)

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津島神社を過ぎると道幅が広くなってきて、左右に家屋も立て込んできます。

約400mほど行くとしばらく離れていた国道21号へ、鵜沼羽場交差点で合流です。

「あら、向うの消防署前の石物はお地蔵さんでは?」とカミさんの指す方を

デジカメズームで見ると、確かに地蔵尊が西方向へ顔を向けてます。

事故の慰霊尊なのでしょうか。

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轟音の四車線国道を200mほど行くとおがせ町交差点で、左手にしっかり

木の祠で守られた馬頭観音像がありました。

明治39年(1906)に建立されたそうで、最近修理改修されたようすです。

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おがせ町交差点から約300m弱歩くと山の前町交差点があり、その少し先で

国道はJR高山線を越える弧線橋の上り坂のとなるが、街道書の通り左側側道へ入り、

100mほど先の階段で弧線橋へ上がります。

街道書には、このあたりに「播流上人碑」があり、そこが江戸から101番目、

「山の前の一里塚「各務原一里塚)」と記されてるが、カミさんと探してみましたが

見つけられず、弧線橋の階段を上りました。

(帰宅後調べてみたら、側道へ入って分岐から約80mほどの建物と建物の間へ

 入るようでした) 

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JR高山本線を越える跨線橋は300mほどで下り、

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さらに100mほど歩むと各務原町交差点。

各務原」は「かかみがはら」と読み難読地名の一つだそうですね。

各務原市濃尾平野の北部に位置し、中山道の宿場町(鵜沼宿)として栄え、

近年は自衛隊岐阜基地などに関連する工業都市として、また岐阜市名古屋市

ベッドタウンとして発展を遂げた人口約15万人で岐阜県第3の都市です。

横に長い市で、JR鉄道で4駅、名鉄線では12駅もあるようです。

 

右に高山本線各務ケ原駅で、左に入って行くと名鉄名電各務原駅です。

10月5日(土)PM3:40

太田宿旅立ちから加納宿までの約27kの中間へ到着で、

約13kmを歩いて1日目の足止め。

 

(写真右は各務ヶ原駅、岐阜市加納宿)へ延びる線路をこ線橋から)

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地名は各務原市(かがみがはらし)なんですが、駅の名は「各務ヶ原市」なのね。

とカミさんの珍発見。

名鉄の表記は「各務原駅」なんだそうです。

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JR各務ヶ原駅は、なんと無人駅でトイレも無し。
市の名の駅名から大きな駅と勝手に思い込んでいたが⁉

2日目へと続きます。