歩いて再び京の都へ 旧中山道69次夫婦歩き旅 第37回 寄り道編 多賀大社

11月23、24日の中山道歩き旅の2日間を無事に歩き、帰りの寄り道は

湖東三山の内の2院、金剛輪寺西明寺

素晴らしい錦秋の2寺を後に、お天気も持ちそうなのでもうひつ寄り道へ。

国道307を北へ走り、途中の道の駅「かがやきの里こうら」で早めの昼食。

さらに10分ほど走ると国道わきに観光協会の駐車場があり、

車を停めて「近道」の案内板に従って5分

行くとポンと近江鉄道多賀大社駅から通じる門前商店街に出ました。 

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寄り道は近江の国、多賀大社です。

正面にどしりとした大鳥居、両脇には威厳をもった大狛犬が控えてます。

社伝によると、

多賀大社は「古事記」に記された記述があり、創建は古事記成立より以前だとされて

いるようです。

日本最古の書物「古事記」によると、国造りの神である伊邪那岐命(イザナギ)・

伊邪那美命(イザナミ)の二柱をご祭神として祀っており、八百万の神々を生み出した

ことから、古くより延命長寿の神として信仰を集め「お多賀さん」の名で親しまれて

いました。
伊勢神宮の祭神である天照大神はその子であることから、
「お伊勢参らばお多賀へ参れ お伊勢お多賀の子でござる」

「お伊勢七度熊野へ三度 お多賀さまへは月参り」と

俗謡に詠われ親しまれ、年間約170万人の参拝者を 迎えているそうです。

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神社を清流が囲み、石の反り橋を渡ります。

豊臣秀吉が母の延命を祈願し寄進したことから、寛永15年〈1638年〉造営の

太鼓橋は「太閤橋」の雅名でも呼ばれる。

渡れるようでしたが、かなりの反りですのでカミさんSTOPで、脇の石橋を渡って

境内へ入ります。

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天災や火災による喪失が何度か繰り返され、その度に彦根藩や幕府からの手厚い保護を受けて再建されて今日に至っています。

太閤橋を渡ると正面に築地塀を広げた表門が建ち、入ると奥は玉砂利を敷いた

ご神域となります。

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正面に社殿群から突出した形で拝殿(切妻造妻入り・桧皮葺)
すぐ後に神楽殿(入母屋造・桧皮葺)が建ち、その左右に廻廊が延びる。
その後ろには幣殿、祝詞舎と続き、一番奥に一段と大きな屋根はご本殿が祀られてる
ようです。

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 厳かな雰囲気が漂う境内には、右に能舞殿、

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左に絵馬殿が立っています。

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社殿の造営案内の概略、
 「江戸時代には、寛永の大造営(1633--38)がおこなわれたが、

  安永2年(1773)の大火災によって諸堂社のすべてが焼失。

  文化5年(1801)には三間社流造の本格的な本殿が造られ再建された。
 (この本殿は、昭和の造営に際して豊郷町白山神社に移築され現存している由)。
  明治に入ると神仏分離令を経て、大正8年(1919)から再建がなされ、

  社殿は昭和7年(1932)に再建され、昭和の大造営事業として昭和8年(1933)

  に完成した。 

  さらに、平成19年に20億円を投じ,「平成の大造営」がなされました」

 (境内図)

 

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拝殿、奥の屋根は神楽殿

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堂々とした風格を持つ本殿が建つご神域。

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一段と大きく高い屋根のご本殿。

ご本殿のこの大きさは少ないのではないでしょうか。

 

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東廻廊の横に石碑が建ち、61歳の重源(ちょうげん)が東大寺を再建するために

延命を祈願し、無事願いが叶ったたことを記念した延命石が石囲いの中に置かれ、

祈願の際は、授与所にて祈願の白石を授かり、住所・氏名を書き、寿命石の上に

置いて願うそうです。

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(写真はピンボケだったため拝借したものです)

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境内の右手奥には、金咲稲荷神社が祀られてます。

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 拝殿前へもどり参拝。

史跡・名勝、多賀神社奥書院庭園には、残念ながら時間が無く拝観しないで帰途へ。

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再び太鼓橋の左手に回りながら戻ります。

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境内の紅葉が鮮やかなアクセントを添えていました。

伊勢神宮へは東海道の歩き旅で、三重県内を通ったっ折に参拝してましたので、

これで両参りを済ませることができました。

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国道側駐車場から入るゲート。

(近道を来たので通てはいません)

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道沿いに見つけた「ミセバヤ」が面白い色合いでした。

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雨の予報でしたが晴れ間の中山道歩き旅、4日間を終えて帰途へ。

湖東三山、金剛輪寺西明寺の紅葉はデジブックアルバムです。
(無料ですが登録は必要になります)


金剛輪寺デジブックアルバム

 

西明寺デジブックアルバム

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

歩いて再び京の都へ 旧中山道69次夫婦歩き旅  第36回    2日目・ 柏原宿~醒井宿~鳥居本宿 後編

11月4日(月振替休)AM11:30、

醒井宿を後にし、南へ向かいます。

六軒茶屋跡。

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続きです、

六軒茶屋跡から100mほどで国道21号に合流。

右手を見ると伊吹山が大きく顔を覗かせてます。

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道路を横切って進行右側に移動し約50m歩くと、右側に一類狐魂等衆碑と地蔵尊

祀られていました。

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薄れて読み難いですが「一類狐魂等衆」のいわれが記されてます。f:id:hansui:20191118070345j:plain

一類狐魂等衆碑から約50m歩くと十字路で、先に丹生川があり、

橋の手前川沿い道左側に、後ろ向きで新しそうな地蔵堂が祀られ、

川沿い右側は壬申の乱横河の古戦場跡があり、解説標板が建っていました。

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丹生川を渡り、国道を200mほど行くと街道は右手に分岐し、

中山道河南標識があり、河南の集落へ入ります。

タンポポが咲いている!

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約300m歩くと、右側に屋根付き囲いに地蔵堂が祀られ、その先を左に曲がった

道すぐに風格ある徳法寺、過ぎて400mほど先左手には作業中らしき鉄骨枠組の中に、地蔵堂が有りました。

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地蔵堂から約210m歩くと、国道21と交差点し横断して進んだ左手は畳屋さんで、中山道木看板下げられ、街道は樋口地区の家並みへ入って行きます。

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樋口交差点から約190m歩くと、左側に地蔵堂が祀られていました。

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地蔵堂から約100mほど、浄信寺入口を見送り城造り塀の屋敷の先で和佐川を

渡ります。

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和佐川橋を渡り約50m進むと、右側に旧家らしい吉田八十郎商店。

真向かいに、立派な長屋門のこれも旧家らしい屋敷がありました。

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長屋門から約250m歩き、右手に敬永寺を見て、
T字路分岐に突き当たり左折し、北陸自動車道の高架下を抜けると先は

Ý路分岐になり、

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分岐点に、日本橋から117番目の一里塚「久禮(くれ)の一里塚」跡があり、

跡地に解説標板と中山道碑が建っていました。

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一里塚分岐を右手にとり久禮(くれ)の集落へと足を進めます。

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すぐに家並みがとぎれ左手は田圃や畑、その向う側は高速道のフェンスが続く

里山道を約300mほどゆくと再び集落の家並みへ入り、

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右側民家の道端に問屋場跡石碑、中山道番場の木札や、家に挟まれた地蔵堂を見て

行くと、

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県道240との十字路になり、十字路手前右側の古民家前にも中山道番場宿・問屋場跡の石碑が建っていました。 

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街道は県道と交差して先へ続きますが、交差する県道240号の右方向は、

琵琶湖の米原湊に通じている米原道で、渡る手前の十字路右角に番場宿碑が建ち、

渡った角には石道標があり、「ここは番場宿です」と記された木製箱型の案内標識が

立ってます。ここが番場宿の東見附(江戸口)のようです。

(案内標識は県道を往来する車用のようです) 

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石道標には

米原 汽車汽船 道」とあり、鉄道・琵琶湖線が開通した明治22年(1889年)

以後にたてられたと、街道書にはありました。

番場宿は古く東山道の頃からの宿駅で、その名は全国的に知られていたようです。

東山道時代は宿場は西番場にあったのだが、慶長年間になって米原へ出る道が開かれると、宿場機能は現在の東番場に移った。米原は番場宿から一理ほどで江戸時代は琵琶湖湖岸にあったことから物資輸送の基地として栄えた。(米原市案内文)

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番場宿、江戸から62番目 116里24町 458.1km

天保14年(1843)中山道宿村大概帳」

本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠10軒、家屋178軒。

米原市 番場宿概要文抜粋」

「宿場の規模は下町、仲町、上町の3町合計で1町10間(約127m:中山道の宿場町の中では最短で旅籠の数も比較的少ない事から宿泊などの利用に不向きだったと思われます。しかし、慶長16年(1611)に彦根藩の命により北村源十郎が米原湊を開削されると、番場宿と北陸道米原宿との間に切通しが設けられ、琵琶湖を利用した舟運の物資が番場宿を経由して中山道に運ばれる物流の拠点として重要視されるようになり、小さい宿場町ながら問屋6軒を擁しました。

町屋にはあまり古い建物が少なく歴史的町並みも失われつつあります。」 

 

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広重 画 番場宿

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すでに問屋場跡を二か所見てきましたが、東番場地域へと進んでゆきます。

東見附からすぐ先右手は脇本陣跡で高尾家が勤め、高尾家は問屋場も兼ねており、

敷地の道路際に標石が建っていました。

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先隣りには北村家が勤めた本陣跡で石碑がたち、こちらも問屋場を兼ね、隣の跡地に

標石と、おおきな、明治天皇小休所跡 の碑も立ってます。

敷地面積は156坪。中には表門や式台付の玄関を有し格式の高い建物であった。

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本陣跡から約50m先の右側に、問屋場跡標石が建っていました。

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斜め向かいには東番場消防団の器具小屋が有り、右隣りの宮は地蔵堂のようでした。

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 東馬場地区には本陣・脇本陣の碑あったけど、遺構らしきものも残されてなく、

 静かな町並みが続いてました。

50mほど先左手に、「南北朝の古戦場跡 蓮華寺 」「 瞼の母 番場忠太郎地蔵尊」 と記された標柱があり、続いて「史跡・蓮華寺」の標柱が立っている。

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長谷川伸の戯曲『瞼の母』で一躍脚光を浴びた中山道の宿場町。

「番場の忠太郎」の故郷として、蓮華寺の境内に忠太郎地蔵尊が立てられています。

門前通りを真っすぐ約150m歩くと名神高速道路で分断され、高架下を潜って

進むと正面に蓮華寺があり、立派な山門が立ってます。

推古天皇の勅願により聖徳太子が創建したといわれる古刹・蓮華寺

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右側に「北条仲時墓所」の解説標板が建っています。

足利尊氏に攻められた六波羅探題北条仲時は番場宿まで逃げたが佐々木道誉に行く手を阻まれ、ついに蓮華寺で仲時以下430余名が自刃。寺に残された過去帳に自刃した

武士の法名が残されているそうです。

(解説抜粋)

墓所は山の上の方とのことなので、寄りませんでした。

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左側に土肥三郎元頼墓所があり、

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本堂裏手に結構大きな番場忠太郎地蔵尊が祀られています。

番場忠太郎は長谷川伸の戯曲「瞼の母」の主人公で、 番場宿は忠太郎の故郷と

いうことで日本版、母を訪ねて・・かな、

昭和6年の初演以来,舞台や映画,テレビなどで数多く上演され、歌も結構あるよう

です。

長谷川伸の作品には、上州沓掛宿の沓掛時次郎もありましたね。

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街道に戻り蓮華寺を出た宿場の道路は緩く上ってゆき、右手奥に法雲寺を見送り、

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その先右手に、寛永二年1625年)創建の彦根藩二代目藩主井伊直孝を祀る。

直孝神社の参道前を過ぎて、

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蓮華寺から約200m進むと左側に、地蔵堂が祀られ奥には大日如来堂が祀られて

いました。

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大日如来堂から約170m歩くと菜種川が流れており、この川が東番場と

鎌倉時代に宿駅だった西番場の境です。

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菜種川はここから街道に沿って左側を流れ、約20m歩くと地蔵が祀られた一角が有り、その先左側に鎌刃城案内標識が建っていました。

※鎌刃城は土肥三郎元頼が築城した山城ですが、織田信長の前に廃城となりました。

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緩やかな坂を上り西番場の街並みへ入ると、右側に寛平6年(894年)年に

創建され、菅原道真を勧請し祀っている北野神社があります。

注連縄の色合いが独特で、西日を受けて一段と目をひきつけます。

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北野神社の先隣は地蔵堂があり、その向かいにの民家前に

中山道西番場 古代東山道 馬場宿」と彫られた石碑が置かれてます。

西番場は元番場とも呼ばれ、中世東山道の宿駅で、あの源義経も宿泊した、と

街道書にはあります。

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ゆるい上り道を行き、寛永12年(1635年)に天台宗から真宗大谷派

改宗した称揚寺、同じく文明年間(1479年前後)に改宗した本授寺を見送って

15分600mほど、集落の途切れ左側に「中山道番場碑」が建ち番場宿を

後にします。

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西番場を後にすると、街道の直ぐ左側は名神高速道路。

振り返ると伊吹山が大きく眺められ暫し足止め。

こうしてみると花の伊吹山百名山伊吹山の西端は砕石場だったんですね。

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のこり少なくなった峠の一つ、の小摺針峠(こすりはりとうげ)へ向かって

緩やかな道を、時々振り返り伊吹山を確認しながらゆっくりと登って行きます。

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勾配がきつくなり、伊吹山の見納めをして、さらに上ると高速道トンネル上になり、

街道書に記されてる、米原市彦根市の市境、小摺針峠頂上へ着きました。

(示す標識などはありません)

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街道は下り坂となり、トンネルを抜けた高速道の轟音を耳にしながら行くと

右側に旅の安全を見守った地蔵堂があり、側に喉を潤した泰平水と呼ばれる水場が

有りました。

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泰平水水・地蔵堂から約500m歩くと、三差路分岐となり、左側に中山道道標が建っていて、分岐を右方向に進み旧ました。

(市境はこの変なのかな?)

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三差路から約300m歩くと、右側に日本橋から118番目の摺針(すりはり)一里塚跡があり、

旧摺針村の集落へと入っていきます。

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一里塚跡から集落のきつい坂道をゆっくりゆっくり上り、100mほど右手に

本尊が阿弥陀如来浄土真宗本願寺派平野山・称名寺があります。

ここも真宗ですね。

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過ぎて約70m先が上りのピークで、街道は左側に残された細い道を鳥居の立つ

方向へ上がってゆきます。

さあ、見えるかな?見えるかな?

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約40mほどの道を上ると左側に鳥居が建ち、神明宮が祀られており、

ここが摺針峠(すりはりとうげ))頂上に当たるようです。

さらに鳥居前から石段を上ると、

創祀年代不詳、永禄二年(1559)再興とされ,祭神は天照大神とされる神明宮が、

 日陰薄暗い木立の中に祀られています。

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 そしてそして、今回の旅の一番の楽しみは、見えるか!!  見えたぞ!!

ついに西方に琵琶湖が見えている!!

デジカメをズームしてカミさんと交互にレンズを覗きます。

日本橋を出立してから4年3か月、歩いて再び、琵琶湖を目にすることが出来た、

感動でしたね。

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広重の江戸から63番目「鳥居本宿」画は、ここ摺針峠を描いているそうです。
すばらしい琵琶湖が見られる名所として知られていました。

左に描かれているのは「するはり餅」を供していた、峠の大きな茶屋「望湖堂」。

目の下に琵琶湖が見えますが、昔の干拓前の琵琶湖は、ずいぶん近くに

あったんでしょうね。

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案内文、

中山道は、かっての東山道で、ほとんどが山道です。近江路に入っても、伊吹山麓の柏原宿、醒井宿をたどり、山間の番場宿にいたります。そして、この番場宿の山坂を登り、頂きの「摺針峠(すりはりとうげ)」に着くと、一気に視野は180度となり、西方に湖東平野とその先に琵琶湖が雄大な広がりを見せます。その峠の傍らには、昔の旅人が一息つき、琵琶湖を眺めていたという「望湖堂」という茶屋がありました。

残念なことに、この建物は平成三年の火事で焼失しました。焼失した「望湖堂」跡に建てられたものです。
当時は前方まで入り江が見えました。焼失した「望湖堂」跡に建てられたものです。
当時は前方まで入り江が見えました。

石段の下り鳥居前の左手に往時峠の茶屋だった望湖堂跡があり、解説標板が建って

いました。

望湖堂
峠の傍らにたたずむ望湖堂からは、往時は琵琶湖が一望できたようで、中山道随一の名勝と言われていました。かって、この茶屋の名物は、弘法大師が供えた栃餅が受けつがれ、旅人たちにもてはやされていました。また江戸時代後期には「皇女和宮」が休憩されたというエピソードも残っています。

神明宮を後にくっだて振り返ると、望湖堂がお城の様に見えましたね。

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 望湖堂から坂を約30m下って街道に合流し、約50mほど行くと、左に下る分岐が

あり、「西国古道」の標識があて左手に下る階段道が有りました。

西国と有ったので旧中山道ではないと思って入りませんでしたが、階段を下るのが

中山道だったようです。

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車道を一曲がりの付近で、野猿の群れに出会いました。

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一曲がり下ると、左手木々の中を下て来た階段道、西国道(旧中山道)が道を

横切って、再び木々の中の草道へ下って行きます。

小さな中山道と記された標識があったので、こんどは草道を下ります。

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谷間の山道はほぼ真っすぐに下ってゆき、一部では踏み跡程度の薄暗い細い草道に

なりますが、しだいに明るさが戻り杉林の中をゆくと、10分ほどで前方がひらけ

山道を抜けました。

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山道の中山道は抜けてすぐに車道と合流し、国道8号と合流する手前で車道を

横断して、左手の下矢倉旧道へ曲がります。(写真右、車の前に見える建物の間)

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下矢倉旧道へ入り半円を回り込むように進むと矢倉川に当たり、川沿いを左手からくる道に合流し右折。その先で国道に合流し、矢倉橋を渡りなす。

矢倉川出会い角に中山道石碑と「摺針峠望湖堂」と書かれた大きな石碑が立っている。 

峠を越えて下ると琵琶湖湖畔の平地。

さすがに秋も深まった季節、時折強く吹く北西の風は冷気が肌を刺すようです。

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一級河川の矢倉川に架かる矢倉橋を渡り、すぐ20mほどに中山道道標が立ち、

街道は国道から分岐し矢倉川沿へ進みます。

道標には「右 中山道」「左 北国街道 米原 きの本」と書かれています。

北国街道は、この先、国道8号を米原に向かっていました。

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道標から約20m歩くと、左側に彦根市のモニュメントが建っていました。

モニュメントは三本の石柱の上に、近江商人、旅人、虚無僧の像が乗っていました。

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蛇行する街道をゆくと、右側に中山道鳥居本町標石が立ち、ここが鳥居本宿の

江戸口のようです。

鳥居本宿、江戸より69次の63番目 

天保14年(1843)編纂「中山道宿村大概帳」によると

本陣1軒、脇本陣2軒、旅籠35軒、家屋293軒、人口1448人
日本橋より117.25町 462.1km、醒井宿より1里1町 約4km

京の都三条大橋までは69.2km約18里 残り70kを切りましたね。

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多賀大社の鳥居がここにあったことからその名がついたと伝えます。
また、中山道と、彦根道(朝鮮人街道)〜北国街道が分岐する交通の要衝として

賑わいました。

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江戸口を過ぎて、鳥居本宿の街並みへ足を進めると、街道筋の情緒を漂わせた

家並へと入ります。

(写真下の中は、彦根市のマンホール蓋です。中央には、金亀山の亀甲をかたどった

 彦根市章を配し、市の木「たちばな」が添えられているそうです)

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左側に白い漆喰で塗られ、うだつを上げた、虫籠窓の名残が残る格子造りの商家。

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茅葺きの屋根を残したの民家

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その先は桝形路で、曲がり手前右角の広い敷地に建つ大邸宅。

ここが「さんあか」の一つ「赤玉神教丸」の製造販売元、有川家です。

「隣の宿場である高宮宿の多賀大社の神教によって製造されています。

万治元(1658)年の創業。腹痛、食あたり、下痢止めに効能がある、5ミリぐらいの

赤い粒の薬で、20粒入りを一服として、創業から350年を経た現在も、

昔ながらの製法で製造販売されています。」 (案内文より)

 

写真上が有川家の本屋で、建物は宝暦(1751~1763)年間の建築です。

有川家はもと郷士(ごうし)で、鵜川を名乗っていたようです。

250年たった今もどっしりとした大店風情があります。

その後、この地に居を構え有栖川宮家に出入りを許されるようになったのが縁で、

有川を名乗るようになったそうです

休日のためか、楽しみにしていた「赤玉神教丸」屋号を染め抜いた「暖簾」は

見ることができませんでした。

旧門前に明治天皇が小休所標石が建っています(写真下右端)

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旧街道からそれて、有川家の並びのお宅の前を進みます。10mぐらいで国道8号に

出ます。国道の向こう側にあったのが上品寺(じょうぼんじ)です。

このお寺も、天台宗の寺でしたが、明暦2(1656)年から浄土真宗改宗してますね。

西美濃へ入ってから、天台宗から改宗した浄土真宗のお寺が多くなりました。

江戸初期に幕府による宗派統制の影響なのかな?

ここの7代住職了海(法海坊)が江戸で托鉢し、吉原の遊女たちの寄進などもあって

つくられた釣鐘が残っています。

f:id:hansui:20191120172205j:plain有川家まえの枡形にもどり左折して、虫篭窓の建屋やうだつの上がる旧家などの街並みをゆっくりと進みます。

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右側に「旧鳥集会所」の看板がある建物があります。

こちらの妻入りの町家は、江戸時代には「米屋」の屋号をもつ旅籠でした。

この家の治平(後に、岩根治右衛門)は中島安康(井伊直弼の絵の師匠)から学び、

湖東焼きの絵付師として活躍し、藩窯として隆盛を極め写実的な画風の優れた作品を

生み出し、直弼から「自然斎(じねんさい)」の号を授けられました。

建物の内部は旅籠時代の面影を残しています。 (案内板)

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旧旅籠米屋から約80m進むと、左側に虫籠窓家屋「デイサービス鈴の音」があり

ました。

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白い漆喰の家は岩根家住宅で、右側に板塀に解説標板が掲げられていました。

「合羽」の製造・販売をしていた「木綿屋」です。

創業は天保3(1832)年で、看板「本家合羽所木綿屋嘉右衛門」を掲げています。
鳥居本宿には、寛政(1782~1800)年間には10軒、文化文政(1804~1830)年間には15軒の合羽屋があったといわれています。

鳥居本の名産の合羽は享保5(1720)年、馬場弥五郎の創業といわれていて、

楮(こうぞ)からつくった和紙に柿渋を塗って、保湿性と防水性を高めた良質の

合羽をつくり、雨の多い木曽路に向かう旅人には必需品になっていて名声を高めた

といわれています。

柿渋を塗る時に弁柄(紅殻)を加えたために、赤い色の合羽になったようです。

ちなみに、合羽は、ポルトガル語の”CAPA”(カパ)が語源のようです。

(案内文)

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木綿屋の看板です。「本家合羽所 嘉右衛門」と書かれています。木綿屋は江戸、伊勢方面に販路をもっており、大名、寺院、商家が得意先で、大八車にかぶせるシート状の合羽を主に製造していたそうです。「本家 合羽所 木綿屋 嘉右衛門」と書かれた当時の看板が今も家の前に吊り下げられている。

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合羽所木綿屋跡の斜め向かいに本陣跡があり、跡地に解説標板が建っていました。
本陣は寺村家が勤め、本陣門が倉庫の扉になっているとのことす。

昭和10年頃、洋館に建て替えられたため、現在、遺構は残っていません。

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本陣跡から約20m歩くと、右折出来る分岐があり、右方向の奥に近江鉄道鳥居本駅があり、少し先左手は脇本陣でした。

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 垂井宿を旅立って27.1km。次に高宮宿までは約6km。

時刻は午後の3時40分、秋の日暮れは早く気温も下がり始め、

日陰はかなり冷え込んできました。

まだ鳥居本宿は抜けていませんが、2019年11月4日、第36回目の旅は、

ここで足止め。

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脇本陣から少し戻りT字路を右折して、近江鉄道鳥居本駅へ向かい、

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 PM4:01分の電車で米原へ。
JR東海道線に乗り換えて宿の大垣へ向かいました。

JRの車窓から、今日も夕暮れの伊吹山を眺めながら・・

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旅は終わりました。

歩いて再び京の都へ 旧中山道69次夫婦歩き旅  第36回    2日目・ 柏原宿~醒井宿~鳥居本宿 中編

宿場時代雰囲気を残した工夫保存をされ、街道宿場町の風情を維持する柏原でした。
 江戸から60番目、柏原宿を後に、西へ西へと足を進めてゆきます。

広重画 柏原宿

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続きに入ります。

 江戸から武州、上州、信州、木曽路美濃路とたどってきた中山道は、関ヶ原から

今須、柏原宿(米原市)に入り、ここから近江路となります。滋賀県中山道宿場は、東海道と交わる草津宿まで九宿があり、今も往古の名残を町並みや道しるべに見ることができます。
そして彦根には2つの中山道宿場街「鳥居本宿」「高宮宿」があり

西見附跡から約30m歩くと、右側の段上に六地蔵が祀られていました。

f:id:hansui:20191114203654j:plain六地蔵から約20m歩くと、左側に東山道と九里半街道の解説標板が建っていました。
〈九里半街道〉説明文
「 中山道関ヶ原宿と番場宿の間は、九里半街道とも呼ばれた。
 木曽・長良・揖斐三川の水運荷物は、牧田川養老三湊に陸揚げされ、関ヶ原から

 中山道に入り番場宿で、船積みの米原湊道へ進む。
 牧田から米原湊までの行程は九里半あった。関が原・今須・柏原・醒ヶ井・番場の

 五宿は。この積荷で六、七軒と問屋が多かった」

右側に、ここから400mほど山の中に入った所に国史跡・北畠具行卿墓の墓が

あるそうで看板が建ってましたが寄りませんでした。

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東山道と九里半街道碑から約40m歩くとY字路があり、右方向に進み、200m位
歩くと、右側に鶯が原の解説標板が建っていました。

太田道灌が一句詠んだと記されてます。

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鶯が原標板から約300m歩くと、 貴人の通行に備えて整備清掃する区間

定めたのを「掃除丁場」の説明板があります。

あわせて「並び松」との解説の説明文も記されてます。
「街道並び松 中山道宿駅制定400年記念植樹平成十四年十二月柏原学区史跡保存会」の標柱が立ち、2002年に植栽された若い松が右側に植生されていました。

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奥手川に架かる橋を渡り旧長沢村集落へ入ると、左手への分岐があり角に柏原宿外れ

にもあった「従是明星山薬師道」の道標が建ってます。

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道標の右手向かいに、応永13年(1406年)創建といわれる白山神社への

参道があり、鳥居が建っていました。

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白山神社参道入口から5分ほど行くと二股が有り、真ん中に小川関跡の標石、解説板、

後左手に菖蒲ケ池跡の標石と解説板が建っていました。

手前には「歴史街道・加沢原宿枝郷 長沢 左←、中山道 右→、旧中山道」の

案内板も有ります。

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小川の関は不破関以前に開設された関だそうです。

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分岐から草道を入ってみましたが、約80m歩くと獣害防止金網フェンスが設置されており鍵を開けて中に入るようで、踏み跡程度の道は草に埋もれていたため、

戻って左手の道を進みました。
街道書によると、十善寺跡の標石、小黒谷遺跡の標石などがあるそうです。

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森の中の旧中山道と並行したように進むと旧中山道は右手から合流し、

角に「歴史街道・江戸後期・旗本西郷氏領 梓河内村 東地先」石柱が建っていて、

旧梓河内村へ入るようです。合併して柏原村、そして現在は米原市内地区となってる。

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近畿地方で最初の縄文時代中期末(約4000年前)の竪穴式住居跡と多数の土器・

石器などが発見されたという、番の面集落跡碑が建っていました。

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合流地から2分ほどの右側に、沢山の地蔵尊が並んだ地蔵堂が祀られていました。

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地蔵堂から1分ほど歩くき、国道21と並行した左側に、墓跡黒谷遺跡標石と

中仙道自然石道標が建っていました。

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墓跡黒谷遺跡標石から約10m歩くと分岐の手前左角に、

歴史街道中山道碑が建ち、

石碑には(← 東山道横河駅跡 梓 柏原宿 江戸後期大和郡山領 →)刻まれ、

左手の石板には、「街道並び松 梓12本 柏原6本」と彫られています。

松並木のことをこの地方では「並び松」と呼ぶそうです。

松は・・・?

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中山道碑から約40m歩くと、名神高速道と並行した国道21に合流する梓河内交差点があり、国道の向こう側、高速道脇に石碑が2基あり、一基には河内とあるので、

旧梓河内村入口の道標と思われますが、街道書に記載がなく不明。

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街道は合流せず高速道、国道と並行して、古代東山道の宿駅といわれる旧梓河内村内をそのまま真っ直ぐに進み、真宗大谷派慈圓寺、八王子神社を見送り、

鈴鹿山脈の北端を源流とする梓川を渡って700mほど行くと街道は左手へ

分岐します。先への道は松並木になってました。

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左折すると高速道と並行する、関ヶ原不破の関を出て以来の国道に21合流し、

右手を行くが歩道帯がなくなり、交通の隙間を縫って、エイと左手渡って進みます。

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国道に合してして、大きな中山道碑をみて約15分ほど行くと、国道から斜め左手へに分かれ高速道脇の道へ進みます。

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R21の分岐から約300m、5分ほど歩くと、右側に八幡神社が祀られています。

拝殿左側には珍しいですね、三猿の石像がありました。

樹齢五百余年と街道書に有る大杉は無かった様子、見落としたかな?

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八幡神社から、街道らしい旧一色集落の道を150mほど行くと、

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左側に日本橋から116番目の一色一里塚跡があり、高速道で失われたため、

跡地に標石が建てられていました。

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さらに50mほどの右手に、横穴式石室の等倫寺古墳のあるお寺、等倫寺。

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その先100mほど左側に、墓守かな?の地蔵堂が祀られていました。

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振り返り東を見ると、伊吹山が右手後ろに見えていた。

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地蔵堂から約50m進むと、右側に「佛心水は旅人の喉を潤し、御仏の慈悲のもとで道中の安全を祈願した」といわれる佛心水(井戸)が、建屋に囲まれてありました。

もう一度振り返り、伊吹山

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左手にすっかり風化した沢山の地蔵を安置した地蔵堂を見送り進むと、

桝形手前網フェンスに鶯ヶ端跡のパネルが取り付けられてます。

街道書には「西に京の空を望める名所」とありますが、展望は・・・

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先は右に曲がり左手へ行く枡形道で、ここが江戸から61番目、醒井宿(さめがい)の

東の江戸口に当たる東見附跡で、フェンスに説明パネルが有ります。

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右に曲がった枡形道は約25mで十字路となり、左折するのですが、

その手前の左側に醒ヶ井宿碑、宿場図が建っていました。 

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お江戸から、61番・醒井宿 115里24町 454.2Km

天保14年(1843年)中山道宿村大概帳によると、

宿内家数138軒 本陣1軒 脇本陣1軒 問屋7軒 旅籠11軒 人口539人

大和郡山藩領

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桝形の十字路から宿内へ足を入れる前にこの看板!

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うん、現代アート六地蔵?この家は何を商ってるのかな??

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ベンガラ塗の家、街道風情の街並み、振り返ると伊吹山

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宿独特の右に左に曲がり街並み

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東見附跡から街道街並みを味わいながら5分ほど歩むと、左手の綺麗な流れを石橋で

渡った先に鳥居が現れ、石段石垣も高くに祀られてるのは加茂神社です。

このへんまで来ると、急に散策されてる方を目にするようになります。

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加茂神社参道階段の先隣りに石燈籠が建っており、この辺りが醒ヶ井宿三名水の一つである「居醒(いさめ)の清水」で、岩間から滾々と湧き出る清水は、

街中を西へ流れる地蔵川の源流となり、地図を見るとこの先で天野川の合し流れは

琵琶湖へとそそぎます。

けっこう若いグループやカップルの方も多く、清流を覗き込んで、清らかな流れに

感嘆しています。

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鳥居をくぐり、石段を登ると、狛犬に守られた神楽殿

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鳥居の左手から西方向を務渡すと、醒井の街並みが見えてます。

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後ろは、さらに一段高く神域で拝殿とご神殿。

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石段を下ると流れのふちに日本武尊の像が有ります。

伊吹山の大蛇を退治したが、猛毒で発熱し、この清水で体を冷やすと回復したと

伝えられ、「居醒(いさめ)の清水」と呼ばれたようです。。

つわぶきの花があちこちに咲いてます。

ヤマトタケル伊吹山の神の逸話は、醒井宿に入る手前にもあったね)

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道路側からは石橋が架けられ、遊歩道があり、石垣沿いに進むと沢山の古石仏が

祀った一角が有ります。

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街道の左側に「居醒の清水」が源の澄んだ水の地蔵川が流れており、

清流には梅花藻(バイカモ)が群生し、緑が清流の中で優雅に踊り、

小さな白い花が流れに揺れてる姿はなんとも美しい。

バイカモは、キンポウゲ科の水生多年草で、水温14度前後の清流に群生し、

梅に似た花を咲かせることからその名が付いた。

5月下旬~秋にかけて1センチほど可憐な花を咲かせ、夏の花の印象でしたが

11月の今も咲いてるとは珍しのでは。

街道旅では東海道五十三次の旅で、、三島宿を流れる富士の湧水が有名で、

源兵衛川に咲く花は「ミシマバイカモ」とよばれてましたね。

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低温の清流にしか棲まないハリヨが生息している。ハリヨはトゲウオ目・トゲウオ科に属している淡水魚で、自然分布は滋賀県北東部、岐阜県の南西部

環境省レッドリスト絶滅危惧種・IA類として指定され、保護活動が行われている。

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「居醒の清水」から約20m歩くと、左側に延命地蔵堂があり、堂の右脇に、

醒井のパワースポット」と案内板に記された「石地蔵菩薩」が祀られています。

地蔵は総高270cmの半跏像(はんかぞう)で、大形の丸彫り地蔵尊

全国的にも珍しく、鎌倉時代後半の作と云われます。

当初は水中に安置されていたことから「尻冷し地蔵」とも称されるていそうです。

(半跏像とは片方の足をもういっぽの足の太もも上にのせるように足組をした姿で

  お堂を覗かせてもらいましたが、上半身しか拝見はできませんでした)

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ごみ収集場所にありました。「

旧街道に沿って、たくさんの呼びかけが並んでいます。

観光地として、米原市でも色々と手を打ってるのが良くわかりますね。

柏原もいい街でした。足を伸ばしてもらいたいな、と思いましたね。

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ハリヨ生息地標。

後ろは醒井彫刻美術館です。

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地蔵川に沿って少し進むと、本陣 樋口山という料理店があり、屋号板、本陣と

書かれた暖簾が下げられています。

江龍家が勤めた本陣跡で、今も当時の関札が残っているそうである。

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本陣跡から約20m歩くと、左側に堂々たる和風三階建ての民家(大林家)が

違和感なくありました。

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川沿いに立つパネル

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左側に川口家が勤めた問屋場跡があり、江戸時代前期築木造平屋建で、

現在は遺構が米原市醒井宿資料館になっていました。

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問屋場跡から約25m歩くと、右側に明治39(1906)年に創業したヤマキ醤油店が

あり、店前に大きなたらいのバイカモを咲いてました。

水は毎日変えてるのでしょうか?
 「しょうゆソフトクリーム」に「しょうゆプリン」、ソフトは食べたことがあった。

人気があるようで、けっこう大勢の方が来ていました。

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ヤマキ醤油店から約60m歩くと、右側に旧旅籠の多々美屋があり、現在は料理旅館を営んでいました。

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旧旅籠多々美屋跡から約30m進むと、右側に問屋や庄屋を勤めた江龍家の立派な

門があり、門脇に明治天皇駐輦所碑が建っていました。

江龍家は本陣並みの規模があったそうです。

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江龍家の塀に沿って北側へ入ると、彦根城の城門から移築されたという山門の法善寺

がありのました。彦根城のどこの門だったのかな?

f:id:hansui:20191117154843j:plain法善寺から街道に戻り約90m歩くと、右側に了徳寺参道入口があり、境内に国の天然記念物で葉の上に実を付ける御葉附銀杏が生育されており、了徳寺参道入口に標石が建っていました。

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了徳寺から街道へ戻り約40m歩くとY字路となり、地蔵川の醒ヶ井大橋の手前

左側に、醒ヶ井三名水の一つである十王水があり、地蔵川に石燈籠、川沿いに

解説標板が建っていました。

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先で地蔵川を醒ヶ井大橋で渡りその先分岐は、街道は左手へ行きます。

お~い、街道はそっちじゃないよ・・

カミさんが渡ろうとした居醒橋で、もう一度地蔵川を渡り行くと、大正時代に

建てられた、木造2階建ての擬洋風建築館があり、現在は醒井宿資料館があり、

現在は国重要文化財になってるそうです。昭和48年までは醒井郵便局として

使われていたとか。

その先にはJR醒ヶ井駅もあり、街道書を見ていたカミさんが、

「駅名だけヶを付けた醒ヶ井駅なのは何故?」

いや~実は調べたんだけどはっきりした理由はわからなかったんです。

駅を誘致し駅名をつけたときに「地名・醒井(さめがい)」を見た目でも

さめい、ではなくさめがい、と読み易いようにした、というのが有力でしたね。

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分岐を左手へ行き約70mほど歩くと、右側は祭りのときに演じられる

子供狂言上演場跡があり、解説標板が建っていました。

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さき5,60m左手には西行水、泡子塚がありました。

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岩の上のくぼみに前垂れを掛けた五輪塔が見えましたが、これが泡子塚だそうで、

説明板が建ってました。

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水琴窟があったのでカミさんが水をかけてみたら、やわらかな琴音が聞こえましたね。

f:id:hansui:20191117180520j:plain西行水から2,3分の右側に醒ヶ井宿標石が建っており、番場宿へ1里と刻まれおり、ここが醒ヶ井宿の京口だった西見附跡でした。

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醒井宿を後に、番場宿、鳥居本宿へとむかいます。

京口から約150m、県道17号線と交差する十字路の先すぐ右側が、

亨保9年(1724年)に大和郡山藩領の境に建てられた六軒茶屋跡で、

赤い屋根の家が、往時六軒あった茶屋の内、唯一現存する一軒だそうで、

広重画 醒井宿はこの六軒茶屋を描いてるそうです。

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旅は続きます・・




  

歩いて再び京の都へ 旧中山道69次夫婦歩き旅  第36回    2日目・ 柏原宿~醒井宿~鳥居本宿 前編

11月4日(月・振替休日)

いいお天気の夜明を迎えました。

ホテルの窓から、東、遠くに見える山の小さな突起は、あの岐阜城でした。

デジカメのズームを最大にしてパチリ。

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今日の予定は約15km。朝ドラは見ないで少し早めに昨日の足止め地、
柏原へむかい、AM8:15、柏原駅前をスタートとして中山道へ向かい、

朝の光に包まれた、昨日歩いたまだ目覚めぬかのような、柏原の宿場町を

再び通ってゆきます。

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昨日足止め常夜燈・高札場前で旅立ちショット、市場川に架かる市場橋(初恋橋)を

渡って旅の始まり。

「初恋橋」の呼び名、は映画監督 吉村公三郎の若き日の「思い出の橋」なのだとか。

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橋を渡った左手は番所跡と街道書に有るが、示すものはなにも有りません。

広い空き地があり、石垣目前に屋号札があり「お茶処 亀屋〇〇〇」と記されてますが

建屋は無く売り物件の看板が立ってます。

 

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隣のでんと構えた大きな家屋は、寛文元(1661)年に創業した「伊吹もぐさ」を

商う「伊吹堂亀屋」です。

旅といえば、てくてく歩くしかなかった江戸時代には、疲労回復にもぐさは

必需品だったでしょう。

旅人は故郷の土産に、軽くて荷物にならず手土産にはもってこいの亀屋の艾を

買った。

案内板には、
 「古来よりこのあたり滋賀県伊吹山」ふもと一帯は、もぐさ業の中心として栄え、

 この地で作られ日本全国へ出荷されたほど「伊吹もぐさ」として有名なところ

 だった」とあります。 

街道書では、亀屋の六代目松浦七兵衛は江戸に出て「伊吹もぐさ」の唄を遊女に

毎晩宴席で歌わせ、その名を広めた。と記されています。

開店前で中は見れませんでしたが、天井につかえるほどの巨大な「福助人形」が

座った姿で”いらっしゃいませ”をしているそうです。 
 「福助」はもともとこの「亀屋もぐさ店」の番頭で、その働きぶりによって商売が

 繁盛した。ご利益があるということでその福助人形が全国に広まったといわれ、

 ここが福助人形の本家本元と伝わってる。との説もあります。

かっては10軒ほどのもぐさ店があったそうですが、「伊吹堂亀屋」は今でも

唯一「伊吹もぐさ」の専門店として暖簾を維持しているそうです。

広重も柏原宿の画では、ここを描いている。

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広重画 柏原宿 

(画の解説文より)

「 駕籠が二挺とまっている。これはどうやら荷物を運んでいるとみえる。

 担ぎ棒に荷札を掲げている。
 左から、
 「酒さかな」の看板の向こうに結構な庭がある。屋根越しに築山の緑もみえる。

 それを眺めながら一服しているのは、かなりの上客ではないか。
 上がりかまちにわらじのまま休んでいる人の右に据えてあるのは、伊吹山の模型で

 ある。それに商品の艾(モグサ)の袋を並べてある。柱の陰になっている男は、ここの

 手代であろう。お客にお灸のすえ方なんかを教えているのだろうか。
 菅笠をもち、道中の振り分け荷を肩にかけている男は、買い物をすませて出立し

 ようとしている。衝立看板をはさんでその男を見送っているのは番頭であろうか。

 金看板には「薬艾」とある。
 その右が、この家の大看板である福助の人形である。」

( 福助は、いまもその現物が残っているそうです。)

 

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そういえば、カミさんの実家にもお灸道具があって、カミさんの嫁入り道具の中にも

入っていた。腰の調子が悪かった時に、二度ほどすえたことがあった、

なんて、遠い昔を思い出しおしゃべりしながら歩きます。

 

伊吹堂の真向かいに、造り酒屋巌佐九兵衛跡があり、家屋横に解説標板が建っており、醸造樽が残っていました。
 店には慶長年間に酒造りした記録が残されており、江戸期に醤油醸造に転業しましたが、明治初頭に酒造りに戻ったそうです。

宿内には造り酒屋が4軒あったそうです。

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造り酒屋巌佐九兵衛跡の先隣りは造り酒屋山根庄太郎跡があり、家屋の左側に屋号の

看板が掲げられていました。

酒造りは宿内合わせて百五十石許されていたそうです。

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向いに、うん、信長本陣?

昔は「たばこ屋」だった様子の造りで、看板が新しそうだから現在営業の茶房ですね。

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造り酒屋・山根庄太郎跡の先隣りは旧柏原村役場があった所で、

入口左脇に柏原宿石柱、右手に表札、探訪マップなどが掲げられていました。

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隣は、左軒下壁に「隅照燈」の木札が掛かり、低い石灯篭が有ります。

玄関右手には「仁右衛門〇」の横書き木札が有りますが、なんの家か??

 

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村役場跡の先隣りが平成10年に開館した「柏原歴史館」

大正6年に建てられた 旧松浦久一郎邸を改築した主屋は、国 登録有形文化財
中山道向けて三つの入母屋造妻飾りを重ねる重層な表構えに特徴があるとされる。

まだ朝の8時半、開いてませんが、中に喫茶「柏」があり食事処で名物は

「やいとうどん」。

やいと?、そうですね、 もぐさに火をつけて、アツツ、アツツ…と我慢する

昔懐かしの健康療法お灸「やいと」をイメージしたうどんとか。

パンフにあったフォット、まさに熱そう!「やいと」だけど、

美味しそうですね。

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向いに建つユニークな建物は柏原生涯学習センターでした。

表通り面は和式建築ですが、後ろは鉄筋コンクリート2階建て。

お面を被った建物ですね。街の風情に合わせた建て工法です。

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柏原歴史館の隣は、創祀年代は不詳ですが元暦元年(1185年)創建と伝えられる

日枝神社の参道入口。

御由緒は不明だそうですが、大山咋神を祀る山 王信仰の神社で、ここも明治維新まで

は「山王社」と呼ばれていたらしい。

拝殿は茅葺でしたが、後で奥のご神殿も茅葺屋根と知り、鳥居前で参拝し通り

過ぎてしまったのは残念。

その向かいはレーク伊吹農協柏原支点があり、敷地の左角に柏原小学校跡の解説標板

が建っていました。

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ベンガラ塗の家々を眺めながら日枝神社から約80m歩くと、左側にやっと商店らしい

ショッピングセンターが現れ、向かいの「日用品のさわや河村店」は、家屋の二階が

虫籠窓になっていました。
※虫籠窓(むしこまど)は、京町家特有の低い二階(厨子二階)にある塗り壁の窓のことで、その姿形が「むしかご」のようだからとされるようです。二階の通風や採光のために設けられたもので、古いものほど小さい場合が多いそうですが、街道筋でも

良く見かけました。

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漆喰の鏝絵デザイン虫篭窓です。

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少し先左手の板塀空き地は、かっては造り酒屋だったようで、

屋号札がっかってました。

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先隣りは新しそうな袖暖簾を掛けた建屋ですが、何を商ってるのかな?

庭の楓が朝日を受けて綺麗です。

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左側に柏原福祉交流センター入口の標柱があり、標柱の右側に問屋場跡で、

東西2ヶ所あった内の西荷蔵跡があり、解説標板が建っていました。

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 西荷蔵跡の直ぐ隣りは白壁の虫籠窓の柏原銀行跡で、現在は柏原福祉交流センターと

なっており、正面玄関には「東部デイサービスセンターはびろ」の看板がかかる。

建物の脇に解説標板が建っていました。
さらに先隣りも白壁の虫籠窓の建物になっていました。

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交流センターからすぐ先左側に、薬師道道標、説明板が建っていました。

この道標は享保二年(1717)と古く、正面が漢文、横に面が平仮名・変体仮名

使った二つの和文体で刻まれている、と記されてます。

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道標の斜め向かいは、問屋役(山根家)跡があり、板塀に標板が掲げられていました。

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左隣は旅籠屋 麻屋 林左衛門で、その先は十字路になり、醒井宿・5.8km

と書かれた案内道標が有ります。十字路を左手へすぐに「火の見櫓モニュメント」

があったのですが、写ってなかった。

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十字路を右折して約10m進んだところに、 駐車場を備えた緑地公園があり、

ここはお茶屋御殿跡でだそうで、標石と解説標板が建っていました。

茶屋御殿跡は年代は定かではないが、 天正16年(1588年)徳川家康が柏原村の西村家で

休息したことを契機として、中山道通過の際には柏原村で休息をとることが慣例化した。元和9年(1623年)徳川秀忠は御殿を新築して以後御殿番を置いて守備したというが、徳川幕府の権威が安泰になるにつれ上洛する機会も減少し、元禄2年(1689年)廃止となった。「お茶屋御殿説明板」 

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 一角に「柏原地区街なみ環境整備事業」と書かれた大きなパネルが立っていた。

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米原市の広報「柏原地区街なみ環境整備事業」に、感じていた街並みについて記された

一文がありました。

「柏原地区の歴史的な街なみ保存に関する取組み」
柏原地区は、江戸時代の中山道六十七宿の六十番目の宿場で、近江中山道筋では規模が大きく、中山道の重要な宿場であった歴史を持ちます。道路には、江戸時代から昭和30年代までに建築された建築物(切妻造瓦葺入町家、入母屋造草葺入民家)等が軒を連ね、全体として調和の取れた街なみを形成しています。
柏原地区のまちづくりは、地域の資源を大切にする暮らしの中でその歴史と文化を感じ、引き継いでいくことであり、単にまちの形を保存するだけでなく、地域住民がまちに対する愛着を持ち、まちでの住み方、まちの守り方を探っていくことが街なみ保存にとって大切なことです。それを長年に渡り実践してきたのが柏原地区であり、この街なみ全体を博物館として捉え、柏原地区を象徴する旧家を活用したまちづくりを進め、現在においても歴史的な街なみを見ることが出来ます。
街なみ環境整備事業着手までの経過
柏原地区は、平成14年4月1日に制定された、山東町美しいまちづくり条例により「歴史的・文化的景観または、自然景観の形成のための整備等が必要な地区」として指定を受け、その具体的な整備等の検討については、柏原地区住民により柏原地区街づくり協議会が組織され、平成15年10月17日の第1回街づくり協議会が開催され、その後定期的に地区内の現地調査、まちづくりに関する有識者の指導を受けながらワークショップ等を実施しながら整備方針の作成を進め、平成16年3月31日に国土交通大臣の承認を受けました。
街なみ環境整備事業の承認を受けた平成16年度からは、具体的な事業を実施するための事業計画の策定作業に着手し、世代を超えて街道の歴史的な街なみを保存するため、柏原らしい町家の基準を定め、これを「街づくり協定」として地区住民と締結しました。この協定に強制力はありませんが、この基準に沿って家屋を改修する場合には、助成を行うこととしています。
また、地区内の住環境向上のため、基盤整備についてもさまざまな検討がなされ、旧中山道を中心に排水路、舗装、公園、集会施設等の整備が計画に盛り込まれました。中でも地域の拠点として位置付けられていた旧柏原銀行の保存・改修・利活用については、街づくりアドバイザーを交え、街づくり協議会で何度となく利活用の方針について協議を行いました。事業計画は平成17年2月4日に国土交通大臣から同意を受け、平成17年2月14日に旧坂田郡3町が合併した米原市が誕生し、米原市となって平成17年4月1日から具体的な事業を実施することになりました。」

街道風情ある街並みだった柏原、改めて納得ででした。


お茶屋御殿跡から十字路に戻ると左手に「郷宿跡」という札を掲げた豪壮なお屋敷が

あります。

郷宿とは脇本陣と旅龍屋の中間規模の宿で、身分の高い武士や公用で旅する庄屋などが利用したという。

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郷宿跡から100mほどの、昭和6年架けられた中井川橋を渡ります。

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しばらく歩くと、右側に金毘羅山常夜燈が建ち、その先で再び中井川を丸山橋で

渡って進むと、 

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左側の川沿に橋が架かり渡った右手に、日本橋から115番目の、復元された

柏原一里塚がありました。
 

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一里塚跡から再び橋を渡って街道に戻った向いは、山中腹にある愛宕神社参道の

石段があり、入り口付近にかっては東一里塚があったと、街道書にありました。

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愛宕神社参道入口から5分ほど、左側に柏原宿西の入口だった西見附跡があました。 

道の両側に喰い違いの土手(土塁)がある、と説明板に記されてますが形跡は

無かった。

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解説板に、ここは海抜175mと書かれていて、柏原宿は高原の宿場町だったん

ですね。

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「いい街だったわね~」のカミさんの言葉通り、江戸時代の家屋ではありませんが、

 宿場時代雰囲気を残した工夫保存をされ、街道宿場町の風情を維持する柏原でした。

 江戸から60番目、柏原宿を後に、西へ西へと足を進めてゆきます。

 

続きます。

 

歩いて再び京の都へ 旧中山道69次夫婦歩き旅  第36回    1日目・ 垂井宿~関ヶ原宿~今須宿~柏原宿 後編

11月3日(日)PM2:15 江戸から番目今須宿へ入ります。

江戸から59番目、日本橋より112里24町 442.55Km 

美濃16宿 最後の宿場町。

人口1784人、家数464軒、本陣1軒、脇本陣2軒、旅籠13軒

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今須橋から100mほど行くと、左側の生活改善センターの前に今須宿石柱、

本陣跡・脇本陣跡の解説標板が建っていました。

「~215坪の本陣が一軒で、現在の小学校・支所付近一帯に位置していました。

又、脇本陣は美濃16宿の中でも当宿のみ2軒あり、各々現在の小学校駐車場付近

あたりに有ったのです~」と記され、関ヶ原合戦に勝利した家康は本陣(伊藤家)で

休息し、腰掛た石は青坂神社に置かれている、とも記されています。

(小学校はこの先左手に見えるようです)

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本陣跡の斜め向かいは妙応寺参道入口で、国道21号とJRのガードと二重の城壁

に守られたかのように妙応寺があります。

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関が原町の説明によれば、
妙応寺は正平15年(1360年)に、今須領主長江重景が母妙応の菩提のため

曹洞宗の大徳峨山禅師(道元の弟子)を開山として創建し菩提寺にした、

県下で最も古い曹洞宗寺院です。

薬草の枸杞(クコ)を用いた精進料理でも知られ枸杞寺ともいうそうです。

(一説には、妙応は年貢の取り立てを大枡、米の貸付を小枡と、異枡(います)を

用いたことが「今須」の地名由来になっている、とありましたね) 

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わらないのは家康腰掛石の所在で、先の本陣、脇本陣の説明板では、青坂神社へ移した

と記されてますが、ここの説明では当寺に移設と記されてます。どっち?

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妙応寺参道入口から約30m歩くと、左側に小中学校が一緒の今須小中学校があり、

小学校と中学校それぞれの校門が建っていました。

(写真は中学の校門)

この付近に本陣伊藤家や脇本陣の1軒が有ったということです。

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少し先の右手にJAにしみ支所が有りますが、街道書では河内脇本陣跡となってます。

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交番も街並み合わせて木造だね、と学校から150mくらい歩くと交番(写真左下)の

向い右手に見えるのは、

 

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文政3(1820)年築の建物といわれ、山崎家が勤めた問屋場跡があり、

家屋の前に解説標板が建っていました。

「美濃十六宿のうち、当時のまま現存し、その威容を今に伝えるのは

 ここ山崎家のみです」と案内板には記されてます。

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問屋場跡から約50m進んだ左側に、ベンガラ塗りの家があり、この先数多くのベンガラ塗りの家が建っていました。
ベンガラ塗は西日本全域に分布してるようですが、この先、滋賀県に入ると湖北地方に多く見られ、次の宿場、柏原から県境の長久寺までが圧倒的に多いとあり、

楽しみのしています。

ベンガラは土から取れる成分で紅殻、弁柄とも呼ばれ
語源はインドのベンガル地方より伝来したことからそう呼ばれるそうです。
防虫、防腐の機能性から、木造建築の柱など木造部分を朱色に塗る顔料として使われ、陶器や漆器、としても使用されてきました。
洞窟壁画にもみられ旧石器時代から使われた最古の顔料であり古代色です。
経年変化に強く、日光による褪色がないことも特徴で昨今では無害であることから

天然素材として見直され繊維製品への染色、オーガニック製品にも使用されるように

なりました。
ベンガラと聞くと「赤」や「朱色」をイメージする人が多いと思いますが。
燃焼温度と調合により黄、黒、緑、 紫といった色合いをつくりだし、24色の染料が

現在出来上がっています。(ベンガラ解説文より)

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ベンガラ塗りの家の先隣りに金毘羅大権現永代常夜燈が建ち、常夜燈のいわれ

を記したパネルが有りました。

「京都の問屋河内屋が建立したもの。大名の荷物が行方不明になったとき金毘羅様に

願かけしたところ発見されたので、そのお礼に建立した」

正面には「金毘羅大権現永代常夜灯」と刻まれてます。

「当時は灯篭を寄付することは、それにかかる毎日の油代も併せて寄付することを

意味し、一般的には使用する菜種油が必要な量だけ採れる畑を寄付しました。

並々ならぬ感謝の表れであったことがうかがえます」

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常夜燈からすこし歩くと、右側に愛宕神社の参道口があり、参道の途中に年代物の

山燈籠が建てられていました。

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ベンガラの家や地蔵堂?、立派な鐘撞堂の寺は真宗大谷派真宗寺。

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今日は文化の日、祝日だった。何軒かの家で日の丸の旗を掲げていたが、

交番やJAでは掲げてなかった。

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旅人一人、コンチワと声をかけてスタスタ足早に去って行った。

真宗寺から300mほどの右手に、こちらのお寺も真宗大谷派の法善寺。

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法善寺から50mほどの左側に、村の鎮守・今須八幡神社の鳥居が建っていました。

車は鳥居の下を通らづに道がつけられ、鳥居奥には大きな山灯篭が置かれてます。

神社は南へ約300m、名神高速ガードを潜った先に鎮座してるようです。

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鳥居から約100mほど歩くと十字路があり、その手前の左側に山燈籠が建って

いました。

そのすぐ先の十字路が、印はありませんが今須宿の西口(京方)と言われてる

ようで、今須宿とはお別れです。

(PM2:45)

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西口から緩やかな上り坂を約160m歩くと、今須交差点手前の左手に土道の

「車返しの坂」と呼ばれる旧道痕跡の上り草道坂があり、坂を上ると正面に

車返地蔵が祀られているそうです。(下から眺めただけ)

案内プレートには、

南北朝の頃(1336~92)摂政の二条良基が「荒れ果てた不破関屋の板庇から、

漏れる月の光が面白いと聞き」わざわざ都から牛車に乗ってやって来ました。

ところが不破の関では高貴な方が来ると聞き、見苦しい所は見せられないと急遽屋根を修理してしまった、良基はこの坂の途中でこの話を聞いて嘆き「葺きかえて 月こそもらぬ 板庇 とく住みあらせ 不破の関守」と詠み、車を引き返したところからこの坂を車返しの坂と呼ぶようになりました。」

せっかく「ソンタク」だけど失敗ね、とカミさんが言ったので大笑い。 

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地蔵尊入口をすぎて下り坂を進むと、R21の今須交差点となり、斜めに横断して

進み、その先でJR東海道本線の車返踏切、電車の通過を待って越え、緩く坂を上り

長久寺集落へ入って行きます。

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坂道の右側石柱や石碑。

右手に「おくのほそ道 芭蕉道」という標柱と「奥の細道」の一文を彫った碑が

建ち、左手には、松尾芭蕉の「野ざらし紀行」石柱、野ざらし紀行に一文の碑、

そして芭蕉が、貞享元年十二月、芭蕉が郷里越年のため熱田からの帰り

ここで詠んだ句碑が建っていました。
    「正月や 美濃と近江や 閏月」

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さらにすぐ先は・・・・

「寝物語・美濃国不破郡今須村」の碑が立っていて、その横には50cmほどの

細い水路があり、来ました着きました!!、ここが「岐阜県」と「滋賀県」の県境。

水路の隣に美濃国近江国の「国境碑」が立っていて、ここで美濃路に別れを告げ、

近江路へと入っていくことになる。

2018年9月、江戸期旧中山道美濃16宿の落合宿入りし、平成最後の年4月の

手術も有りましたが、なんとか14か月目の近江の国入り。

TVの旅番組をまねて、手をつないでピヨンと飛び越えて国境を一っ跳び。

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国境からすぐの右手に、「寝物語の里」の自然石碑と由来石碑があります。

「近江と美濃の国境は、この碑の東十メートル余にある細い溝でした。この溝を挟んで両国の番所や旅篭があり、壁越しに「寝ながら他国の人と話し合えた」ので寝物語の名が生まれたと言われています。また、平治の乱(1159)後、源義朝を追って来た常盤御前が「夜ふけに隣り宿の話声から家来の江田行義と気付き奇遇を喜んだ」所とも、「源義経を追って来た静御前が江田源蔵と巡り会った」所とも伝えられています。
寝物語は中山道の古跡として名高く、古歌等にもこの名が出ていますし、

広重の浮世絵にもここが描かれています。
- ひとり行く 旅ならなくに 秋の夜の 寝物語も しのぶばかりに - 太田道潅

平成四年一月 滋賀県米原市

おや、太田道灌もここを通ったんだ。

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広重画 今須宿 (国境木柱が描かれてます)

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ここは「寝物語の里」旧長久寺集落。

村名は昔この辺りにあった両国山長久寺に由来しているそうです。

街道書には、

「美濃側5軒、近江側25軒の集落で、美濃側は美濃なまりで金が流通し、近江側は

近江なまりで銀が流通した」と記されてます。

緩い坂道が続いています。車もしっかり「滋賀」ナンバーですね。

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 長久寺集会所先の右手水路沿い奥に春日神社があります。

祭神は天児屋根命で、応永十三年(1406)の創祀だそうです。

汚水マンホール蓋に「さんとう」とあるので地図を調べたら、山東町というのが有って、2005年に米原町伊吹町と合併して米原市(まいばらし)となっていました。

「寝物語の里」も現在は米原市でしたね。

 

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ベンガラ塗りの家々を眺めながら集落を進みます。

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集落がまばらになり緩やかな上り坂の野瀬坂です。

右側の斜面に弘法大師御佗水碑が建っています。

師御陀仏(おだぶつ)とは阿弥陀仏を唱えて往生する意だそうです。

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弘法大師碑から山の縁に沿って進むと楓の木が多くなってきました。

かっては松並木だったそうですが、枯れてしまい楓を明治期に植栽したそうです。

山添道を行くと立派な石碑が現れ、

歴史街道中山道 ←江戸後期大和郡山領 柏原宿  寝物語の里 長久寺→」と

あり柏原地区に入ります。

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石碑の左手は長比城跡への登り口で、道に沿って左上に明神社の鳥居と参道口が

有りました。

(この参道が本来の登り口で、神社を越えた美濃との国境の山頂に城があった)

長比城跡(たけくらべ)は浅井方の築城した城でしたが、姉川合戦の時に織田信長

調略によって、長比城を守備していた堀秀村、樋口直房が内応しては戦わずに

落城した城だそうです。

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神明神社」の横に「旧東山道」の道標が立っていて入ってみましたが、

先は閉鎖されており進めませんでした。道が僅かに残っているようですが雑草の

中に消えてしまってます。

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長比城跡登り口分岐から2分ほど先に右手に方向道標が有り、分岐を左折して

JR東海道本線の野瀬踏切を渡り、渡った直ぐに右折し線路に沿って進みました。

方向道標には踏切を渡らず道なりの進む方向に「白清水200m」とありますが、

岐阜県との県境に近い野瀬山の麓に湧き出ている湧水で、古事記に記されている

事によると、ヤマトタケルノミコト伊吹山の神に惑わされたが、この水で正気を

取り戻したと伝わる清水である。

また、中世の仏教説話には相模国の古代豪族「横山将監」の娘である照手姫の

白粉により泉が白く濁ったので、白清水と呼ばれるようになりました」

米原市地域情報観光案内文)

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踏切を渡り線路沿いに約80m歩くと、

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柏原宿の時代順略史、柏原東部分間絵図がありました。

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このような箇条書きの掲示は少なく、宿の概要が分かりやすいですね。

 

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柏原宿碑から約100mほど右側に、照手姫笠掛地蔵が祀られていました。

左の大きな地蔵が照手姫地蔵。

(右の二地蔵は、昭和十年廃寺となったお寺の地蔵を預かったものだそうです)

 現在はここに祀られているが、元はこれより東の野瀬坂、神明神社鳥居東側に

在った蘇生寺の本尊だったそうで、「蘇生寺笠地蔵」ともいようです。

中世の仏教説話「小栗判官・照手姫」にまつわる伝承で、「小栗判官」と銘打って

浄瑠璃、説教節などで広まったようです。

先ほどの白清水、ここに祀られた笠掛地蔵。照手姫の遠く相模の国から近江、美濃へ

の逃避行の伝説がつながってるんですね。

歩いてきた美濃国青墓村には照手姫にまつわる古井戸が残され、旧街道路傍には

五輪塔姫の墓として伝承されている。

(関東では神奈川県の藤沢市遊行寺境内に、小栗判官・照手姫の墓があり

 東海道五十三次旅で立ち寄りました)

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江戸からくる近江側最初の宿場である「柏原宿」、(現在は滋賀県米原市)に入った。

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照手姫笠掛地蔵から約300m歩くと、柏原宿の江戸(東)口の東見附跡があり、

右側に解説標板が建っていました。

柏原は東西の今須宿・醒ヶ井宿までの距離が1里程度と近いにもかかわらず、

長さ1400m(も13町)にも及ぶ比較的大きな宿場だそうで、 
天保14年(1843)の「中山道宿村大概帳」によると、
宿駅の町並み 家数344軒、人口1468人、旅篭22軒、
本陣1軒 脇本陣1軒、人馬継立問屋場5ヶ所(脇本陣兼で6か所)あった。

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「 柏原宿は江戸から近江路へ入って最初の宿場で、江戸より約百十四里、京までは約二十一里のところにある。 江戸時代には艾(もぐさ) の産地として有名で「伊吹もぐさ」の老舗、伊吹堂の建物は今でもそのまま残っている。
江戸時代、吉原の遊女に「江州柏原伊吹山の麓の亀屋佐京の切りもぐさ」という唄を教えこんで毎夜宴席でうたわせ、伊吹もぐさの名を広めた亀屋の七兵衛。 
宿場の規模は大きく、宿場の長さ十三丁(1420メートル)、戸数人口もこの辺りでは東の加納(岐阜市)、西の高宮(彦根市)に次ぐものである。 旅籠屋は、隣宿との距離が近かったにもかかわらず二十二軒もあった。 本陣、脇本陣は、それぞれ一軒、問屋は、六軒、問屋を補佐する年寄(村役人)は八軒あり、造り酒屋も一時は四軒もあった。
木曾路名所図会には、「柏原宿・今須まで一里。駅は伊吹山の麓にして、名産には伊吹艾(もぐさ)の店多し。」と紹介されている。
織田信長豊臣秀吉等そして徳川家康もこの柏原宿に泊まり、二代将軍秀忠によって御茶屋御殿(柏原御殿)が建てられました。
しかし、徳川幕府の政権安定につれて将軍上洛は減少、元禄2年(1689)ついに御茶屋御殿は廃止されます」 (柏原宿解説文より)

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宿場情緒を感じさせる数件の古い家屋が当時のまま残っている。  

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東見附跡から約80m歩くと、右側に竜宝院跡があり、標石が建っていました。

秘仏安置との石柱もあるが?

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竜宝院跡から約30m歩くと、右側に八幡神社が祀られてます。

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ご神殿は覆屋に収められてます。

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八幡神社境内から伊吹山が良く見える、と残念ながら後で知った)

境内の松の木の手前に、芭蕉句碑が建っていました。

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詳しく距離など書かれた案内標柱が所々にあり、歩き易い町並みです。

右側に旅籠の看板が立ててあり、隣が街道書では東薬師とありますが、案内板は

ありません。

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八幡神社から先は古い町並みで昔の面影を残している。

建物は建て替えられていると思いますが、家々には屋号書いた看板が掲げられ、

旧街道宿場町の面影、雰囲気を今も感じ取ることができます。

 東薬師の先、右手奥のJR柏原駅を見送り、ベンガラ家々を見ながら手入れされた

街並みを歩きます。

写真右の家は、「旅籠屋 大和郡山坂田郡内取締大工 惣左衛門」の看板を

掲げていて、柏原宿は、江戸時代初期は天領でしたが、享保9(1724)年に

大和郡山藩領になっていたことがわかります。

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左手奥のJR柏原駅入り口を過ぎると、市場町で柏原宿中心部へ入ります。

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しばらく「旅籠屋 井筒」(写真上中)「煮売屋 源藤」(写真下中)、

「蝋燭屋 助三郎」(写真下右)などの看板を掲げた家、ベンガラ塗の家などを

楽しみながら歩きます。

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柏原駅入口から約90m歩くと、左側に問屋場跡がありました。
柏原宿には6軒の問屋場があり、東西3軒ずつに分かれ、10日交代で勤めていた

ようです。

問屋場跡の隣が、当日中に処理できない荷を蔵に保管した東の荷蔵があったそうで

、パネルが立ってます。

荷蔵は、藩の年貢米集荷の郷蔵でもありました。

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道を挟んだ向かいには柏原宿脇本陣跡で、南部本陣の別家、南部源右衛門が本陣同様

江戸時代を通して務めた。
間口は、この家と隣の郵便局を合わせた広さで、屋敷は228坪、建坪は73坪あり、

問屋も兼ねていたと案内板に記されてます。

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脇本陣の左先は、問屋場と庄屋を兼ねた吉村家で、映画監督の吉村公三郎の実家が

ありました。祖父は柏原宿の最後の庄屋であったそうです。

問屋場跡の門前脇に、柏原宿解説文と宿場絵図の大きな掲示板が建てられています。

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柏原宿解説文(長いが引用)

「 ここ柏原宿は,お江戸日本橋より中山道六十九宿(草津東海道と合流)の内

 六十一番目になり,約百十二里(一里は約3.9キロメートル),京までは

 約二十一里のところにある.
 江戸示談は,随分栄えたもので,宿場としての業務も,かなり苦労が多かった様で

 ある.
 幕末広重画く柏原宿の看板は,何と言っても「伊吹もぐさ」の老舗伊吹堂で,

 現在の建物そのままである.当時「伊吹もぐさ」を商う店は十指に余り,

 中山道有数の宿場名物となっていた.現在は一軒だけとなっている.
 柏原宿は,規模が大きく,六十九宿中宿高で四番目,宿場の長さ十三丁

(一四二〇 ートル)は十番目,戸数人口もこの辺りでは東の加納(岐阜市),

 西の高宮(彦根市)に次ぐ宿場である.
 しかも旅籠屋(旅人たちの宿場)は,隣宿との距離が近かったにもかかわらず

 二十二軒もあった.
 現在,一軒も残っていないのは残念である.
 本陣,脇本陣は,それそれ一軒,問屋(人馬,荷物の継ぎ立て一切を行う)は,

 当宿には六軒(開宿当時は二十軒を数え,幕末になると,普通各宿多くて三軒まで

 なのに,関ヶ原から番場までの五宿は,それぞれ六,七軒であった),その問屋を

 補佐する年寄り(村役人)は八軒あり,造り酒屋も一時は四軒もある盛況であった.
 この宿は,古くより東町・市場町・今川町(箕浦と言ったこともある)及び西町の

 四町からなり,宿場機能の中枢は,市場町でした.一つの宿場に四社も氏神がある

 のはそのためである.
 柏原の総社は,野瀬の神明神社である.
 又お寺の多いことでも有名で,ひと頃は三十ヶ寺を越え,現在も十五寺と三堂が

 ある.
 中世京極道誉の随臣,箕浦氏が四百年柏原を守った館跡(柏原箕浦城趾),

 近世徳川家光により創建された柏原御茶席御殿跡(地名として残る)等がある.
 宿場から外れるが,織田信長が宿泊した成菩提院は,天台談林三箇随一と言われた

 名刹で,盛時は,六十坊を数えたという.国指定重要文化財等豊富である.
 また,宿場の東約十三丁の地に江濃国境があり,有名な寝物語の里(長久寺)が

 ある.
 _このような柏原宿であるが,しだいに昔の面影が消え,今にも忘れ去られようと

  している。 せめてもの思いに,下図の様な復元図(山東町史付図)を掲げた」

 

 *今にも忘れ去られようとしている。 せめてもの思いに,下図の様な復元図

 (山東町史付図)を掲げた*・・・・・

う~ん、いい街なれど、町興し、観光客誘致にはなかなか難しいんでしょうね。

 (文冒頭、61番目とありますが、江戸を1番としたからかな?)

向いには「旅籠屋 京丸屋五兵衛」掲げた風格ある家屋、

宿場内の職業内訳などが記されたパネルが立っています。

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吉村家問屋場の隣は、南部辰右衛門が勤めた本陣跡があり、標石と解説標板が

建っています。

柏原宿は江戸時代を通し南部家が本陣を務め、間口はこの家の両隣りを合わせた

広さで、屋敷は526坪、建坪は138坪あった。

建物は皇女和宮宿泊の時、新築されたとも云われる。
明治になり、柏原小学校前身の開文学校はここに創設された。

その後、建物は明治中期に岐阜県垂井の南宮神社宮司宅へ移築された。

宮司宅には今も残されてるのでしょうか?)

和宮の夫の第14代将軍家茂も第二次長州征伐の途上、当本陣に宿泊した、

とのパネルが掛けてあります。

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向いは「医師 年寄 堤 覚之丞」の邸宅跡、現在も医療に携わる醫院でした。

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その斜め向かい、2階の格子戸に「渋谷酒店」と書いた看板を掲げ、右軒下には

袖看板が取り付けられていて、今様で 1階には自動販売機が並んでいる。

 自販機隣に掲げられた板には 「南部家風雅の道」とあり、句が何編か書かれて

 いる。 この酒屋も南部家一族で句会などが催されたのかな。

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本陣の先の路地の角に、戎の宮市場寺跡の標板が掲げられ、
市場寺跡から約15m進むと市場橋の手前右角に秋葉山常夜燈が建っており、

常夜燈の右脇に高札場跡の解説標板が建っていました。

高札場は、道沿いの長さ4.86m、高さ0.91mの石垣を築き、その上に高さ3.33mの

高札懸けの建物があった由。 

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時刻はPM4:00、秋の日暮れは足早にやってきます。

宿のある大垣への電車時刻もちょうどよく、第35回の旅、一日目は足止めとします。

電車の車窓からは夕暮れ迫る伊吹山が大きく姿を見せていました。

いい歩き旅の一日でした。さあ、明日も・・・

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歩いて再び京の都へ 旧中山道69次夫婦歩き旅  第36回    1日目・ 垂井宿~関ヶ原宿~今須宿~柏原 中編 

続きへと入ります。

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無料休憩所から何本かの松の木がある道をゆくと、国道21号に合流する手前の

右側に三面六臂馬頭観音道祖神が祀られていました。

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道祖神の先で、中山道はまた国道21号に、合流し、右方向に進みました。

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合流してしばらく行くと関ヶ原東町交差点があり、

街道書には、その付近が関ヶ原宿江戸(東)口と記されていましたが、

印されるものは何もありませんでした。
交差点から約200mくらい歩くと、右側に若宮八幡神社が祀られていました。
関ヶ原の戦の際に破壊された後、江戸期に復興したとのこと。

(神社前が関ヶ原宿江戸口という説もあります) 

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AM11:30 江戸から58番目、関ヶ原宿到着です。

江戸日本橋から、112里24町 442.55Km

北国脇往還と伊勢街道への分岐点にあたり、大変賑わった宿場であったそうです。

天保14年(1843)に発行された宿村内大概帳によると、

人口:1389人 家数:269軒 本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠33軒

旗本、竹中氏の領地であった(1843年)

 (広重画 関ヶ原宿)

解説文をお借りします。

広重は、敢えて、何処にでもある平凡な風景を描いています。
右手の茶屋の軒下に下がる提灯には、「名ぶつさとうもち」
(名物 砂糖餅)の文字が見えます。
また、茶店の看板には、「そばぎり」「うんどん」と書かれて
います。
茶店の前の縁台の旅人は、名物の砂糖餅に箸をつけようと
しています。
そして、お盆にお茶を乗せてきた老婆が、もう一人の旅人の
注文を聞いています。
その左手は、馬を引いた馬子、そして、更にその左奥には
2頭の馬を引く女が描かれています。

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宿内へ足を進めます。

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ガソリンスタンドの裏側にあると記された興市宮(よいちのみや)へ立ち寄り、

街道へ戻って直ぐ右手の民家の庭に石碑が建ってます。

アップで確認すると「関ヶ原興市之邸跡」とありました。

関ヶ原観光WEBの説明文)

関ケ原与市(本名:藤原基清)は平安時代の貴族で、用水の乏しかった関ケ原揖斐郡粕川上流から水を引こうと計画します。粕川は関ケ原からいくつかの山を越えた向こうにあり、工事は困難を極めました。権力者であった与市はこの地を通行する者は、何人といえども1日はこの工事に参加しなければ通さないようにし、使役したのです。この努力の結果が現在の関ケ原の基盤となっているといえるでしょう。子孫の方が作った与市宮は今も手入れが行き届き、関ケ原開拓の祖であるといわれる与市への尊敬がうかがえます。

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右側に十九女池に棲む竜女が美女に化け、民家に借りた椀を返しにきたら生臭かった

という十九女池の竜女伝説に登場する「椀」が保管されている、と街道書に記された

法忍寺を見送り、

街道書にも位置不明と記された、日本橋から113番目の「関ヶ原一里塚」跡らしき

形跡は、と探しますがまったく判りませんでした。
街中は歩きスタイルの方を、多く見かけるようになりました。

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 関ヶ原宿は、宝暦十年(1760)の大火の他何度も火事が発生し、古いものは

ほとんど残っていないそうです。

伊吹おろしの強風に加え、川らしい川がないため、火事が発生すると

大火事になることが多かったという。

そのうえ宿場町内を国道21号が通ったため、街道らしさも失われたようですが、

レトロの建物も有りすこしは風情を醸し出しています。
交差点の左側に明治32(1899)に創業した関ヶ原醸造がありました。
関ヶ原醸造の「たまり醤油」は宮内庁御用達だそうです。
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(この付近に一里塚があったという説あり)

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足を進めると関ヶ原駅前交差点に到着。

 

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関ヶ原駅前には、新しく建てられた観 光案内所があり、資料を求めトイレを拝借で

向かいます。

関ヶ原戦場に出陣した武将の旗指物を思わせる幟が並び、駅前周りには、

諸将の家紋がずらりと掲げられてます。

駅前の観光案内所のコインロッカーも関ヶ原の戦いの東西の従軍した武将の氏名と

家紋、推定兵力がロッカーの表に描かれている。

関ヶ原主戦場が駅の裏手に広がるため、大勢の戦場巡りハイカーが通り過ぎて行きます。

駆け足で半日、ゆっくり全体をめぐると1日掛かりなんだとか。

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戦場巡りはやめにして街道に戻り、西へ向かいます。

今は、中山道の宿場町というより、古戦場関ヶ原の町を町興しにの主体にされてる

ようすで、なにからなにまで古戦場関ヶ原ですね。

戦場巡りは人気があるようで、団体で、グループで、一人歩きで、とパンフ片手の

大勢の方々に出会いました。

先に有った無料お休みどころの木看板「ここは中山道」は、

宿場町だよ!戦場だけでは無いよ!かな?

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関ヶ原駅前交差点から約100m歩くと、「関ヶ 原宿脇本陣跡」の案内板のある

門がある。相川家が勤めていた脇本陣跡で、江戸初期の高僧・至 道無難禅師の

生誕の地でもあるようです。

(無難禅師寛は、寛文2年(1661年)創業の江戸日本橋白木屋元祖木村彦太郎とは

 従兄弟の間柄という説がありました)

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脇本陣から十六銀行関ヶ原支店の手前を右折する道は北国街道の脇往還だそうで、

右折付近に本陣があったといわれ、約60m進むと八幡神社があり、八幡神社

境内のスダジイの木が、本陣の庭木だったと街道書に記されてます。(移植した?)
八幡神社天正16年(1588年)ころの領主竹中重門が創建し、関ヶ原の合戦

焼失し家康が再建したといわれる。
神社の左手の道を北に向かった先に、関ヶ原の首実験をしたという東首塚があると

街道書に記されてます。

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街道に戻り八幡神社入口から約100m歩くと、関ヶ原西交差点で、

右手に圓龍寺参道入口がありました。

寄りませんでしたが、境内手前右側に明治天皇御善水碑、左側に勤王志士三上藤川

誕生地碑が建っているそうです。

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時刻もちょうど昼の12時。

交差点を左へ少し行くと、街道紀行などにも良く登場する食事処「レストラン伊吹」

があり一休みで入りましたが、これが当たりで、美味しかったです。

(あんかけそば,シャーシューめん)

店を出るころに入り口付近は、待ち人が列を作ってました。

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お腹を満たし、足休めも終えて再び旅は続きます。
関ヶ原西町交差点から約150m進むと、左側に大神宮常夜燈が建っており、

この辺りが関ヶ原宿の京(西)口だったそうです。

(こちらの京口標識は無いんですね)

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おや、ビニール袋にしめ縄を入れて、飾りつけてる?

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常夜燈から約80m歩くと梨の木川に架かる梨の木川橋があり、橋を渡った右側に
関ヶ原に参戦した武将の家紋をあしらった幟が並び、奥に二つの堂があり、

国 史跡・関ヶ原古戦場西首塚が有ります。
関ヶ原合戦死者数千をの首級を葬った塚で、塚の上に江戸時代になって

十一面千手観世音や馬頭観世音の堂が建てられ祀られたそうです。

塚の大木の裏には胴塚もあるそうで、巨木の向こう前の古い石碑には

「柴ノ内 關ケ原合戰戰死者胴塚」とあるそうです。
寄りませんでしたが「東首塚」もあり、戦死者の多さがうかがえます。

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西首塚から50mくらい先で街道を逸れて、陣跡を見に寄ります。

関ヶ原中学方向へ左折して行くと、中学校グランド右手に藤堂高虎、京極高友陣跡があります。

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街道へ戻る途中から左手へ向かう細道があり、戦場巡りの沢山の案内板に導かれて

行くと、

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春日神社が祀られており、この場所は南宮山の頂きに出る月見の名所だったそうで、

境内の大杉は月見宮大杉と呼ばれ樹齢は約800年だそうです。

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春日神社の道を挟んだ左側は東軍の武将・福島正則の陣所跡があった処で、

跡碑が建っていました。

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陣跡から西へ50mほど行くと変則十字路で、角に井上神社の大きな石社標が建ち、

左手南へ300mほどの東海道新幹線を越えたあたりに、壬申の乱の縁から、

天武天皇(大海人皇子)を祀っている井上神社があるそうです。

さらに南へたどると、関ヶ原合戦の最終とどめを刺した、小早川秀明が陣跡の

松尾山に至るようです。

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陣所跡から右手にとって、一旦街道へ出てすこし戻ると不破関跡の東城門跡があり

ました。

写真左上は東城門ががあったところだそうで、城門は日の出と共に開門、

日の入りと共に閉門したといわれます。

来た道を少し戻り右折して行くと、大海人皇子の兜掛石・沓脱石の案内標識があり

ましたが、民家の庭先へ入るようなので、カミさんが通り越していってしまい寄り

ませんでした。

今は畑になった中に兜掛石・沓脱石があり、不破関の中心部になっているそうです。f:id:hansui:20191109170018j:plain

案内板に導かれて進むと「県 史跡・不破関跡」に至りました。

美濃不破関は、東海道・伊勢鈴鹿関、北陸道・越前愛発関と並ぶ東山道の関。
古代三関は壬申の乱後に設けられたもので、美濃から近江に攻めいった天武天皇

逆に美濃の出口に関を設けたことになる。
往時の関は、北面460.5m、東面432.1m、南面120mの土塁が巡り、西は藤古川で

画された巨大なものであった。(不破関案内より)

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街道はこの先でY字路分岐となり、右方向に進むと不破関資料館などがあり、

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分岐の左手は不破関守跡で、碑が建っています。

今は関守の末裔(まつえい)である三輪家が所有する庭園「関月亭」が

その一部として公開されています。

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「西暦672年に起きた日本古代の最大の天皇家の内乱である「壬申の乱」の翌年、

天武天皇はこの関ケ原の地に「不破関」をおき、天下の変乱に備えるとともに

通行人たちを調べたのだ。
ちなみに、この不破関を境に関東、関西の呼称が使われるようになったのだ」
歴史授業で習ったはずですが、初めて知ったかのようです。

改めて学習しました。


藤古川へと下りる途中に「戸 佐々神社」を案内する石碑があり、

不破関西城門があったという案内板が立ってます。

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戸佐々神社入口から約40m歩くと、藤古川に架かる藤下橋がありました。

藤古川は、壬申の乱の時、両軍がこの川を挟んで対峙したそうです。

藤下橋を渡り約20m進むと、左側に若宮八幡神社の社標が建っていました。

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社標から急坂を上るなど約100m歩くと、Y字路分岐となり右方向に進みました。
分岐点に大谷吉隆の墓道標があり、約20m先の左側に箭先地蔵堂が祀られており、

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地蔵堂の先隣りに壬申の乱の際に大友皇子軍の兵士が矢尻で掘ったといわれる

矢尻の池跡がありました。

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「從是西不破郡山中村地内」の石碑を見ながら進むと、

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国道21号にぶつかり、米原まで18km。

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国道21号に合流し、すぐ左手で東海自然道歩道橋を渡り、下ってY字路を右方向に

進み、山中集落へ入って行きます。 

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 右側に山中立場跡があり解説標板が建っていました。

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立場跡から約60m歩くと、若宮八幡神社参道入口があり、脇に社標が建ち、

宮上大谷吉継陣の石柱、陣、墓、松尾山展望地の案内標識が立っています。

若宮八幡神社は藤古川の西側とあって、壬申の乱で敗れた弘文天皇を祀っている。
参道の階段を登った上に東海道本線が走り、さらに登ったころに神社がある。
神社のさらに上に「大 谷吉継陣跡」があり、小早川秀秋の陣を監視したした

「松尾山眺望地」もあるらしい。
大谷吉継の墓は、さらに山の奥になるそうです。

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若宮八幡神社入口から約200m歩くと、右側に標柱が建つ山中・間の宿跡があり、

山中村は、関ヶ原宿と今須宿の間の宿であり、立場茶屋が設けられていた。
また、この場所は高札場が設置されていました。

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山中・間の宿跡から約60m歩くと、壬申の乱の時、流血で川底の岩石が黒く染まったと云われる黒血川が流れていました。

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黒血川から約90m歩くと、小さな祠が三つ並ぶ。
右側に鶯瀧地蔵、黒血川地蔵が安置されている三地蔵が祀られていました。
一番右は?社は新しいもののようでしたが。

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三地蔵の真向かいには、黒血川の源流が、ここで数mの落差をつけて流れ落ちていて、高さは5m.の「鶯の滝」がありました。
この滝はかつて、今須峠を上り下りする旅人の心を癒してくれる格好の場所だそうで、

水量は豊富で、夏は冷気が立ち込め、年中ウグイスが鳴くことからこの名が付い

たとされています。

平坦地の滝は珍しく、江戸時代になってから街道脇の名所となっていました。

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鶯の滝の先で、鶯の滝の上、もう一つの黒血川を渡ると、正面には東海道新幹線

ガード手前でY字路となり、右方向に進んでゆきます。

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150mほど行くと右側に「常磐御前の墓」の大きな標識がみえ、角に地蔵堂

祀られ、地元の老夫人がお花を供えたり手入れをされてました。

右手へ入ると東海道線の土手下が小さな広場になっています。f:id:hansui:20191110054435j:plain

その左手一角に竹塀に囲まれた中に常磐御前が祀られた墓と、芭蕉句碑と化月坊が建っていました。

1159年、天皇家の跡継ぎをめぐる争い「平治の乱」で夫「源義朝」が敗北後、わが子「牛若丸」が鞍馬山を抜け出して東国へ走ったと聞き、常盤御前は、この地の山中まで、乳母の千草と後を追って来たが、この附近の土族に殺されてしまったのである。
源義経の母・常盤御前は、「いずれ義経が、この道を通って都に上るはず」と形見の品を託して当地で亡くなった。

これを哀れに思った里人がここに葬り墓をつり塚をつくった。
その後、義経が上洛した際、若宮八幡神社で勝利を祈願するとともに、常盤の墓やこの地蔵の前で、母の冥福を祈ったとされる。

(案内板)

宝篋印塔と五輪塔が並んで建ち、お花も新しく先ほどの方が手入れされた様子でした。

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その右隣には芭蕉と弟子の化月坊の句碑が並んで建っていました。

芭蕉句碑には、

・ 義ともの心耳 似多里秋乃可世   者世越翁(はせおおうの変体かな)
(義朝の心に似たり秋の風 芭蕉翁)

とあり、もう一つの芭蕉の弟子の句碑には、

・その幹に牛も かくれて佐くら哉  七十六雙(おきな) 化月坊
       (その幹に牛もかくれてさくらかな 化月坊)

とある。関が原町の説明では、
(化月坊は慶応四年(1868)には、
この塚の前に俳人接待のための「秋風庵」を開いた。
庵開きには十数人の俳人が参加し、盛大な句会が催されたという。
その後庵は日守の一里塚東隣(現垂井の一里塚東隣)に移築され、
茶所として旅人の休息所、
句会の場となって活用されることとなった。)とある。

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 街道へもどり100mほど左手に、道標を兼ねた山中大師石仏が建っていました。

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仏道標から約70m歩くと、右側畑の一角に小さな祠があり、案内板には、

「常盤地蔵」とある。

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常磐地蔵から約300m緩やかな坂を上るとJR東海道本線の山中踏切がありました。 線路沿の街道の緩やかな上り坂を歩くと、次第に傾斜がきつくなり、いつのまにか

線路を見下ろすようになり、東海道本線のトンネルが見えてきました。

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上り坂はトンネル入口を過ぎてしばらく歩いた所が頂上付近となり、右側に今須峠碑が建っていました。
今須峠の厳冬期は積雪が多く難所だったそうです。
峠を過ぎると下り坂となり、R21に合流し右方向に進みましたが、合流点の右側に中山道標柱が建っていました。
今 須峠を越える。「往時この付近には、茶店があり」とのこと。明治までは、もっと急勾配の坂道であったとされる。
脇の石碑には、「従是東不破郡山中村地内」とある。東西の境界に石碑を建てたんで

すね。

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街道がゆるゆる下りる道に代わると、国道21号に当たり横断して左手を下ります。

(写真左下、国道へ出たところで横断します)

国道21号線は自動車がスピードを出して走るので、横断ははなはだ危険でしたが、

左右の見通しがいいので、それ!と渡ります。

国道の右下を、今須峠をトンネルで抜けた東海道線が通っています。

美濃路最後の宿場町である「今須宿」の街並みが見えてきました。

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分岐から約50m歩くと左側に、日本橋から114番目の一里塚、今須一里塚跡が

有りました。

(現在の一里塚はR21号の敷設で撤去され、本来の位置より東側に復元されました)

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東海道線の向こう側に、神社、お寺が見えているが・・

線路の向こう側というと、街道書には青坂神社が記されてるが?

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街道は一里塚跡から約100m強下ると分岐があり、

「これより中山道今井宿・関ヶ原町」の碑が出てきて少し先の分岐を左手に下って

街並みへと入って行きます。

国道21号はバイパス道として東海道線に沿って今井宿内を通らづに抜けて行く

ようです。

(写真左下、今須宿画は判りますが、右手の石碑と石像は??)

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その先で中挟川に架かる今須橋、標識はありませんが今須宿の東口(江戸口)

になるそうで、いよいよ美濃16宿の最後の宿場、今須宿へ入ります。

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続きます。

 

歩いて再び京の都へ 旧中山道69次夫婦歩き旅  第36回    1日目・ 垂井宿~関ヶ原宿~今須宿~柏原宿 前編 

「歩いて再び京の都へ」
中山道、夫婦歩き旅も美濃の国最後の旅になった。


大田宿、加納宿 間を飛び越えて、9月の33回旅は加納宿~垂井宿。
前回10月初の35回旅で、太田宿~加納宿を歩き、なんとか中山道旅を
1本線で継なぐことができた。
垂井宿は江戸から437km、旅の残りも100kmを切り、
美濃の国から近江の国、そして山城の国で「京の都」へです。

11月には3連休があるから、と10日間天気を見ると旅はOK。
即、宿の手配も何とか確保、で11月2日(土)~5日(火)の三連休を
絡めて3泊4日の街道旅へ。

令和元年11月2日(土) 第36回の旅へ。
早朝AM5:00、家を出発し圏央道、中央道、名神道と走り養老SAにて
昼食、休憩を取り、養老SAスマートICで高速を降り、向かうは旅の寄り道、
岐阜県垂井町南宮山麓の美濃一宮「南宮大社」へ。

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  寄り道を終えて、大垣市駅北口に近いホテルへ投宿。

11月3日(日)、明けて晴れの夜明を迎え、朝食後早めに宿を出て

スタート地点の垂井宿へ電車で向かいます。

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歩いて再び京の都へ、第35回の予定旅路は、

江戸,    57番・垂井~ 58番・関ヶ原 1里14町 5.5Km
日本橋より 112里24町 442.55Km

      58番・関ヶ原~59番・今須  1里 0町 3.9Km
      113里24町 446.44Km

      59番・今須 ~60番・柏原  1里 0町 3.9km
      114里24町 450.3Km

      60番・柏原 ~61番・醒ヶ井 1里18町 5.9Km
      115里24町 454.2Km

      61番・醒ヶ井~62番・番場  1里 0町 3.9Km
      116里24町 458.1Km

      62番・番場 ~63番・鳥居本 1里 1町 4.0Km
      117里25町 462.1Km

                            27.1km

      1日目の進み具合などによっては、

      63番・鳥居本~64番・高宮 1里18町 5.9Km
       119里7町 468.0Km

                            33.0km

 

AM8:30 垂井駅着、駅前では垂井ゆかりの竹中半兵衛像が迎えます。

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駅前から北へ150mほど行き、前回足止めの中山道垂井宿入口の桝形路へ。

11月3日(日)AM8:50 無風、薄雲り、日差し有り

第35回の旅路へ。

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江戸から57番目の垂井宿 

天保14年(1843)に発行された宿村内大概帳によると、
垂井宿は宿人 1179人、家数は315軒、本陣1、脇本陣11、問屋場13、

旅籠が27軒。 

(広重画 垂井宿)

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桝形から少し行き、街道から左に細い路地を入ったところが「 垂井の泉の清水を利用して紙を漉いた 」といわれる 紙屋塚 。

垂井町教育委員会説明版)

「古来紙は貴重品であり奈良時代には紙の重要な生産地を特に指定して国に出させた。国においては、戸籍の原簿作成に重要な役割をはたした。ここの紙屋も府中に国府がおかれた当時から存在し、室町頃まで存続したと考えられる。
 又当初は国営の紙すき場と美濃の国一帯からあつめられた紙の検査所の役割をはたしてものと考えられる。一説には美濃紙の発症地とも言われている。

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街道にもどり、その先で左に湾曲していて、二つ目の枡形である 

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枡形道の右側に、かつての旅籠・亀丸屋旅館がある。

「安永6年(1777年)に建てられ、間口五間・奥行六.五間の母屋と離れに上段の間を

含む八畳間が三つあり、浪花講、文明講の指定旅館であった。

当時は南側に入口があり、二階には鉄砲窓が残る珍しい造りである」

 垂井町(説明版)

県内の中山道美濃路で江戸時代から営業を続けていたのは、細久手宿の大黒屋との

2軒であったが、現在は残念ながら亀丸旅館は廃業したようです。

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亀丸屋から少し歩くと、右手におもてなし処・たるい庵(写真左)があり、

街道書には、向いに問屋場跡、と記されてますが、

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案内板や標板が建っていないが、調べてみたら左手の家屋のようです。

街道書によれば、金岩家は代々「彌一右衛門」といい垂井宿の問屋、庄屋などの

要職を勤めていました。
問屋には年寄、帳付、馬指、人足指などがいて、荷物の運送を取り仕切り、

相川の人足渡の手配もしていました。
当時の荷物は必ず問屋場で下ろし、常備の二十五人二十五疋の人馬で送っていました。
通行が幕末になると荷物も多くなり、助郷の人馬を借りて運送したようです。

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 右側に立派な玄関屋根の丹羽屋(松井家)がありました。

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丹羽屋から少し行くと左側に安田歯科医院があり、先隣りに本陣跡の標板が建ち、

栗田本陣のあったところで、栗田家は酒造業も営んでいました。

 本陣は寛政12年の記録によると、建坪178八坪の大きさで、門構えや玄関など

 あったが、明治維新後、学習義校(小学校)になり、その後役場になり、

 現在は個人病院になっている。  

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本陣跡から約40m歩くと十字路があり、左側にここから2kmほど南に建つ

美濃国一宮・南宮大社(南宮山の麓に鎮座している)の大鳥居が建っていました。

寛永19年(1642年)、将軍徳川家光南宮大社の社殿を再建した際、石屋権兵衛が約4百両で造った」といわれる明神型石鳥居で、鳥居の横幅(内側)は4m55cm、頂上までの高さ7m15cm、柱の周りは2m27cmある大きなもので、

 鳥居のまわりでは、月に6回、5・9日の日に市が立つ六斎市が立ち、近郷から集まった人々で賑わったようである。

 

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 (南宮大社へは前日2日に車を走らせ拝観しました)
  南宮大社 ブログ

hansui.hatenadiary.jp

 

大鳥居を潜り少し歩くと右手に開創1628年の臨済宗臥龍山・玉泉寺があり、

寺境内に隣接して、樹齢800年、幹回り8.2mの欅(けやき)の大樹根元から

湧きでていた「垂井の泉」があります。

 (大ケヤキは残念ながら2015年(平成27年)その長い一生を終えたそうです)

垂井の地名の起源とされる歴史に残る泉で、岐阜県名水50選にも選ばれている。

 木曾名所図会の垂井清水の項には、「垂井宿玉泉寺という禅刹の前にあり、清冷にして味わい甘く寒暑に増減なし。ゆききの人渇をしのぐに足れり」と記されている。

 清水は古代より枯れることを知らず、中山道を旅する人々の咽を潤し、地元の人々の生活に利用されてきた。 
古くから和歌などに詠まれており、元禄四年、芭蕉もここで詠んでいる。
    葱白く   洗ひあげたる    寒さかな    

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この水が曳かれ美濃紙が漉かれたということです。

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(左側に倒木と追記されてます)

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隣にある 專精寺 は、関ヶ原合戦に西軍に参加した平塚為広の 垂井城(1万2千石) が

あったところだそうで、碑があったようですが見過ごしてしまいました。 

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再び大鳥居を潜って街道に戻り、すぐ左側にふれあいプラザがあり、街道書には

金岩家が勤めた脇本陣があった、とありますがなんの標示もありません。

門と玄関が、このさきにある本龍寺に移築されてるそうです。

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その先には、「垂井宿お休み処」の看板を出す「旧旅 籠・長浜屋」がある。

平成10年までは酒屋として営業していたらしい。

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旧旅籠長浜屋から約50歩くと左側に、文化年間末期(1817頃)に建てられた油屋卯吉家跡(小林家住宅主家)がありました。
幕末頃に建てられたとされる国登録有形文化財「小林家住宅主家」である。
油屋だった宇吉家から明治14年(1881)に小林家が譲り受け、「亀屋」の屋号で旅籠を営んできたとのこと。
「切妻造瓦葺つし二階建平入りの建物で、二階には両側面に袖卯建を設け、庇下には防火用の濡れ筵掛けが残っている」そうだ。

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約10m先の右側に創建は不詳ですが、浄土真宗大谷派・東光山本龍寺が有り、

山門前が高札場跡だったようです。

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本龍寺の山門と書院玄関は明治時代初期に中山道の宿場町である垂井宿の脇本陣

表門と玄関(奥)を移築したものです。

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江戸時代初期の住職は松尾芭蕉と親交のあり、元禄4年(1691)芭蕉は当寺

で冬籠りしたとされ、、境内内に句碑や時雨庵には芭蕉翁木像が安置されている

そうです。

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本龍寺から街道らしい曲がりくねった道を200mほど行くと、

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街道に戻り少し先は宿場のはずれは西の見付です。

左側に垂井宿京(西)口の西見附跡があり、解説標板が建っていました。

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冒頭にアップした広重描く垂井宿は、雨が降る中山道の松並木の中を

大名行列が西の見付へ入ってくる垂井宿の様子を描いているそうです。 

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西見附跡の直ぐ隣りは愛宕神社が祀られていました。

愛宕神社を出て大谷川に架かる前川橋の手前左側に、八尺堂地蔵尊道道標が建って

いました。

 八尺堂地蔵尊は少し川筋を南に進んだ先にあるらしい。

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大谷川沿いに右奥に行くと八重垣神社があった。
祭神は素盞嗚尊と稲田姫命である。 南北朝の争乱で土岐氏に守られて当地に来られた後光厳天王が南郡追討を発願し成就したので、山城の祇園社を勧請し、牛頭天王社と称したのが創建の謂われだそうです。 

春5月には例祭、曳山祭りが開催されるそうで、大きな曳山蔵が学校グランド脇

に建ってました。

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(垂井曳山祭り・曳山 パンフレットより)

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街道に戻り大谷川を前川橋で渡ると、かつての松島村で、右側に地蔵尊が祀られ、

地蔵尊の先には、左側に松島稲荷神社が祀られていました。

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松島稲荷神社から約500m歩くと東海道本線が現れ、出屋敷踏切を渡ると

鉄道と並行した国道で塞がれ、日守交差点を歩道橋で渡り街道へと出ます。

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道の四つ角に、南宮神社近道八丁と表示した道標がありました。 
京側から来た場合、この道を行けば宿場を通らず、南宮神社に近道していける。

八丁、約900m弱、確かに近道だ。

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日守交差点を渡り約200m歩くと右側に、日守の茶屋跡があり、

建物の前に解説標板が建っており、地蔵堂が祀られていました。

もともと江戸末期に関ヶ原山中に建てられた庵で、明治になって当地に移され、

昭和の初めまで休み場として利用されたそうです。
また、大垣新四国八十八ヶ所弘法の札所でもあったとのこと。

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すぐ隣が日本橋から112番目の、国指定史跡「垂井の 一里塚南塚」が現存し、

標柱と説明板があります。

「浅井幸長は五奉行の一人である浅野長政の長男で、甲府府中の10万石の領主だった。 石田三成犬猿の仲だったことから、関ヶ原の合戦では東軍に属し、池田輝正等と岐阜城を攻略。  戦い当日は、南宮山の西軍に備え、この付近に陣を構えた」と、

書かれていた。

関ヶ原の戦いの折、ここに東軍の浅 野幸長の陣があり、南宮山の毛利秀元と対峙した

と石碑が立っているそうで、以前は一里塚を登ることが出来る、と旅人に人気だった

ようですが、鎖が張られていたので登るのはやめにしました。

中山道では板橋宿の志村一里塚とともに2か所だけの国指定遺跡。

大事にしたいもんですね。 

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一里塚跡から約200m歩くと日守西交差点となり、右折して交差点を横断し、

左方向に曲がって進みました。 

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 日守西交差点からしばらく行くと左側に、「ここは垂井宿」板が建ち、

 さらに先には「これより中山道 関ヶ原宿野上 関ヶ原町」の標柱があって、

 関ヶ原町に入る。

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関ヶ原宿入口碑から関ヶ原バイパス上を渡り野上の集落をしばらく進むと

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右側に、「縣 社伊富岐神社」の石柱、伊富岐神社の石鳥居が建っていました。

鳥居からしばらく進んだ垂井町伊吹に美濃国二宮・伊富岐神社がある。
伊吹山のふもとにあたり、伊福氏の祖神である多々美彦命(伊富貴神)を祀った

古い神社で、713年(和銅6年)には存在したともされる。
ちなみに、一宮は南宮大社です。 

(この付近後方からすでに関ヶ原戦場になるのか、遠くの山中腹に陣跡であるよう

 に幟が立つ台地が見えました)

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平木川に架かる平木川橋を渡ったりしばらく行くと、

右側に「野 上の七つ井戸」があり、そばの説明板には

「野上は間の宿で、僅少の地下水を取水して多目的に利用されてきた」とあり、
休息所を兼ねて修復・再現したもので、井戸の釣瓶は実際に使えるようでした。

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井戸の左側にしゃもじ塚の案内標識が建っていたので、分岐を右折して路地を

進みました。
路地はクランク形に進むと東海道本線の線路沿いの道となり、踏切を渡らずに

線路沿いを進むと、草道の左側に五輪塔が建っているしゃもじ塚がありました。

平忠常の墓で、長元4(1031)年に平忠常の乱で捕えられて京に護送される際、

病に倒れ、里人が出した食物をしゃもじごと口に入れ息絶えてしまったそうです。

平忠常とは、平将門の乱の約100年後に関東で反乱を起こした人物なんですね)

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しゃもじ塚から街道に戻り約130m歩くと、左側に岩田家の豪邸が建ち、

静かな野上集落を楽しみながら足を進め、

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野上の間の宿を出ると松並木に代わり、いよいよ関ヶ原戦場の色合いが濃くなって

きました。

右側に関ヶ原の合戦山内一豊が布陣した陣所跡がありました。

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これは? 防火用ホース格納庫でした。
徳川と石田の家紋が並び、徳川の家紋が上には位置しているが、

石田の家紋のほうが大きく描かれてるところが面白いですね。
側面には「一筆啓上火の用心」と書かれてるが、徳川の家臣・本多重次の逸話という

説がありました。

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陣所跡から少し先左側は小公園に整備され、六部地蔵が祀られている。

「六部」とは「六十六部」の略で、全国の社寺を巡礼しながら修行する者のこと。
宝暦11年(1761)頃、この地で亡くなった行者を祀ったものであるとのこと。

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六部地蔵からも松並木は続き、右側に解説標板が建っていました。

樹齢300年松並木が両側に十数本残っていて、岐阜県内で唯一残る松並木で、町では

天然記念物に指定し、防虫対策や補植で保存に努めている、と記されてます。

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松並木の解説標板から約200m歩くと、左側山の中腹に徳川家康最初の陣所跡が

眺められました。  
※桃配山は壬申の乱の際、大海人皇子がここに布陣し、兵士に桃を配って勝利を得たところで、故事にならって家康の最初の布陣を行ったそうです。

(それにしても「立ち入り禁止」とはなぜでしょうか??)

脇から登る道がありましたが・・

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初陣所跡から約210m歩くと、いったん国道21号に合流して、

すぐにまた右手へ分かれる。

(渡る手前の左側は車関係の会社ですが、「トイレ有ります」の矢印付案内板があり

 利用させていただきました。老老旅人にはありがたいですね)

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国道から左側にくだると、

「ここは中山道」「この家は築100年無料休憩所 関ヶ原町非公認」の看板がある

民家があります。

このまちは戦場の町で全国的に知られ、中山道の旧宿場町としての知名度は低い。

中山道「宿場町関ヶ原」をアピールしてるんでしょうね。

(街中を歩いていてよくわかりましたね) 

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続きます。