歩いて再び京の都へ 旧中山道夫婦旅   第2回  後編 蕨宿~浦和宿へ

平成28年6月18日、3年半をかけて東海道五十三次を旅し、京の三条大橋に立ちました。 そして夫婦は旧中山道69次の旅、再び京を目指して歩いています。 ;AM10:30 江戸より2番目「蕨宿」の木戸口へ着きました。 

9月27日(土)続きです。

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蕨宿は 江戸から2番目、4里28町(役18.8km)、板橋宿からは、2里10町(8.9km) 江戸初期、東海道など五街道の整備を進めたころ、日本橋より板橋宿の次は浦和宿でした。 この距離が約14.4kmと遠く、しかも間に戸田の渡しが(荒川)があり、増水で渡れない場合困難なので、 新たに立てた(慶長17年=1612)、比較的大きな宿場だったと言われてます。 本陣2、脇本陣1、旅籠23という中程度の宿場町で、約2,000人の規模だったそうです 埼玉県の旧街道や旧宿場町など、歴史的景観資源を保全・活用する、「景観モデル地区」に選定されています。 現中山道国道17号から右手への道があり、道の分岐するところに『中山道蕨宿碑』と書かれた立派な石碑と
木戸にみたてた柱が2本建っていまs。

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木戸をくぐるとゆるく左へカーブし、蕨宿(景観保存区域)へ入ってゆきます。

(栄泉・蕨宿は戸田の渡しですね)

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江戸口から入ると、石畳風の歩道には、日本橋から順に街道浮世絵タイル画が交互にはめ込まれており、 右に左にと辿ると69次絵を見ることができます。 道路、街並み、綺麗に整備されていて、中山道への地元の人々の思い入れようが伝わってきます。

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おや、これは何のモチーフかな??

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街道は電柱はあるものの、バリアフリーで大変歩きやすく、あちこちキョロキョロにはありがたいですね。

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綺麗な秋色の紫式部の実。 すぐ先に明治時代の織物商の家を公開した、、歴史民俗資料館分館がありました。

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進むと先に、創業二百十数年の「うなぎ今井」看板が見えてきます。 ここから浦和宿にかけては、荒川の氾濫などで沼地が多く鰻が大量に獲れたので名物になっていたそうです。 カメラを向けていたら店主さんが掃除に出てきて、「写真かい、待ってな・・」 と言ってまだ開店前でしたが、わざわざ暖簾をだしてくれました。 うれしいですね、暖簾は中山道69次街道図。 いい記念になった。

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東海道の丸子(静岡)宿のとろろの「丁子屋」さんでも、暖簾を出してくれね・・・」 そうでした、あれもうれしい思い出になりました。

そ先に岡田脇本陣だった岡田厚生堂薬局。

 

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先隣には岡田加兵衛本陣であっ「た歴史民族資料館本館」があります。 ここの本陣は「孝女和宮」の休憩場所にもなったんです。

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歴史民族資料館本館内には、蕨宿の街並み模型や、旅籠など楽しんで学べる資料館でした。

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はははは・・道路にあったモチーフはこれだったんだ。 旅からす?旅はと????

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このあたりが蕨宿の中心だったようです。 時間はAM11:10でしたが、カミさんが右手の道角お店を見て「お腹空かない?」て。 「うどん屋」さんがあったんです。 いつもより朝飯が早かったのと、思ったより気温も高く足休めを兼ねて「うどん屋」さんへ。

(私がいただいた野菜天もりうどん) あら?すごく美味しいけどちょと風味が違う感じが・・・ 会計時カミさんが聞いたら「あご出汁」だそうでした。 (あご・・トビウオなんですね) 元気回復足を進めます。

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(おっ、今日の目的地まで4.7kmだ) 板橋宿(橋)~ここまでが2里10町(9・3km) 日本橋から4里28町(17.7km)・・うん、これでもわしらにゃ、いいペース! なんて言い訳しながら北へ北へと歩くと結構古い商家がありますね。

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せんべいの「萬壽屋」は昔は茶屋で江戸時代から10代続くんだそうです。

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エッ、この商いも??看板には 「江戸の昔より葬儀は伊勢屋」!!、(社の案内によれば、江戸時代創業とか)

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街道から少し離れ東に入る蕨城址、和楽備神社はパスして先へ進みます。 「萬壽屋」の角を右にたどれば三学院への地蔵通り

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大きく左に弓なりに曲がると、京方の蕨宿口。 ここにも木戸を模したモニュメントが建っ」てます。

京への出口木戸に着きましたね。

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左手に、「中山道ふれあい広場」があり、碑や行列壁画、そしてからくり時計塔がありました。

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(ちょうど12時だったけど、カラクリ時計は・・・・・残念・・・故障してた!)

12時10分、2番目蕨宿を後に国道17号を斜めに渡り、左の道県道79号を少し西向きの道に入ります。 (上フォット交番左、蕨宿京口、右17号) (下フォット、街道は左へ、17号は右へ)

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時代を思わせる商店などを見ながら足を進めます。

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道なりにゆるく曲がりながら街道は続きます。 しばらく進むと小さな橋のかかる用水路があり、このあたりでは1と6の付く日に“市”が立ったところで、 橋は「一六橋」と呼ばれたそうです。

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少し進むと再び小さな橋の架かった用水路があり、蕨宿(蕨市)と辻村(旧浦和市、現さいたま市南区)の 橋の名は「境橋」

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先に東京外環自動車道の高架があり、手前右手公園に隣接して、「一里塚の跡」の碑があります。 これが5里目、辻の一里塚跡です。、水難除けにの「水の神弁財天」も一緒に祀ってあります。

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外環道を抜けた先左側に、「辻村に熊野権現のやしろあり」と木曽名所図会に詠われた熊野神社をお参りし、 足を進めます。

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先の六辻の交差で、旧中山道と現中山道(国道17号線)が斜めに交差します。 足を進めてまた斜め道に入ったり、少し先で右、左に信号を渡ってゆくと、登り坂が始まります。 ゆるく登るその坂は「焼米坂」。

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この付近には名物焼米を商う立場茶屋が何軒かあったと言われ、、名物に由来して「焼米坂」。 焼き米というのは、籾(もみ)のままの米を焼き、それを搗(つ)いて殻を取り除いたもで、そのままか、煎り直したり、水や茶に浸して柔らかくするなどして食します。保存食として古くからあったようですね 旅人の携帯食として、たいへん重宝がられたようです。

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この坂は江戸方から京方(上方)へ向かっては結構な急勾配。 この焼米坂の下をJR武蔵野線が通っています。

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中山道は左右の道は下り坂。 焼米坂を上って大宮台地へと上がり尾根筋をたどって行きます。

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付近の地名は「白旗」。 街道案内書には、 「ここに、平将門追悼の陣を張った藤原秀郷が源氏の白旗を立てた」とありました。 ちゃんと由来による地名なんですね。 どんどんこのような謂れにもとづく地名が消えて、味気ない地名・町名が多いですね。

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焼米坂を登ってしばらく歩いた左側に現在は米穀店の関元屋という商店がありました。 元々は材木商で建物は大正5年(1916年)頃に建築といいます。 今も残っている井戸(左電柱の後ろ)は「お助け井戸」と呼ばれ、関東大震災東京大空襲で東京から逃げ延びてきた人々の喉を潤したと言われています。

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そのさきでさいたま市南区から浦和区に入り、右手に調(つき)神社が現れます。 平安期の古社で調(つき)は“貢ぎ物”のことで、伊勢神宮への「租・庸・調」の調物を意味し、 武蔵国の調はここに集められ、調物の搬入、搬出の邪魔になるため、この神社には鳥居が有りません。 社殿は、本殿と拝殿が一体となった権現造りの建物で、安政6年(1869年)に建立。

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あら、狛犬は「兎」なのね。 そうなんです。 調(つき)の名が、月と同じ読みであるところから、月の動物と云われた兎が神の使いとされ、 月信仰と結びつき、兎の石像や社殿に飾られた兎の彫物、兎の絵馬など所々に兎が配されています。

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(境内に保存されてる古い兎)

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神社より300Mほど進むと、交差点の先に石柱が見えてきました。 交差点を渡った石柱には「中山道浦和宿」、浦和宿の江戸口に到着です。 江戸から3番目浦和宿。日本橋より約4里・約25km。 9月27日PM1:50 早めですが京への旅はここで足止です。 50M先を右に曲がり、浦和駅へ向かいます。

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次は江戸より四番目・大宮宿、はいつの日か・・