平成28年6月18日、3年半をかけて東海道五十三次を旅し、京の三条大橋に立ちました。 そして夫婦は旧中山道69次の旅、再び京を目指して歩いています。 >9月17日、お江戸日本橋を旅立ち。 上尾宿を過ぎ、Café店でランチ足休め・・続きです。
県道164号線(旧中山道)、北上尾駅入口を過ぎて右手に、うっそうと茂る木々にうずもれて 黒板塀に囲まれた、お屋敷が見えてきました。 街道資料では紅花の仲買問屋であった豪商須田家」とありました。
先の家先に秋の七草のひとつ、絶滅危惧種にもなってるフジバカマが咲いてます。 あの海の渡りをする蝶、アサギマダラの大好きな花、南への途中、立ち寄って行ったかな。
東海道の箱根山中でアサギマダラに出会ったね・・・ なんて思い出話をしているうちに、上尾市を後にし桶川市に入ってました。
そばに顔より大きなアメリカ芙蓉、
わいわい進むと『木戸跡』の石碑が建っていて、ここから桶川宿に入ります。 皇女和宮降嫁通行時、自身番が詰め、半鐘があったとか。
10月10日、PM12:45、桶川宿へ入ります。 江戸から6番目、10里14町(40.8km) 天保14年(1843)で 人口1444名、総家数347軒、本陣1軒、脇本陣2軒、旅籠屋36軒。 英泉描く桶川宿
桶川宿は近隣の村々で生産された農作物の集散地でもあり、「武州藍(ぶしゅう-あい)」と呼ばれた 染料の藍、「桶川臙脂(おけがわ-えんじ)」と呼ばれた紅花なども取引された。 なかでも紅花は、桶川宿を中心とした桶川郷一帯で盛んに栽培され、最上紅花に次いで 全国第2位の生産量を誇っていた。 (紅花、資料より)
左手に年代を感じる旅館が現れます。 江戸時代の旅籠の姿を今にとどめる、国有形文化財にも指定されている「武村旅館」です。 今は宿泊できませんが、奥にビジネス旅館として営業してるようです。
その先に、おっ、まんじゅうもあるよ!「べに花まんじゅう」のお店
左手路地奥に浄念寺仁王門が見え、浄土宗・浄念寺があります。 室町時代後期の天文15年(1546年)に開創。 この朱色に塗られた仁王門は鐘楼門で、元禄14年(1701年)に再建され、楼門下の一対の仁王像は 明和5年(1768年)に開眼されたものです。
平成16年(2004)本堂新築落慶。 本尊は、「木彫、阿弥陀如来坐像
境内には、古いものは正和4年(1315年)、新しいものでも天文19年(1550年)の板石塔婆。 荒川を渡る手前にもあったが、半壊状態。全体像が分かり貴重ですね。
歩道橋のさき交差点は、左、桶川駅です。 この周りはお桶川宿の中心であったようです。
交差点を過ぎてすぐに、島村家住宅土蔵の案内板があります。 天保7年(1836)の建築と伝えられ、桁行6間、梁間3間の総3階建ての土蔵です。 国登録有形文化財に指定されてます。 土蔵3階建で 天保7年(1836)の建築と伝えられている。 凶作で飢餓に苦しむ人々に(蔵を建造することで)仕事を与えるために建てられたことから 「お助け蔵」と伝えられている。 内部を公開は毎月第一土曜日、見られませんでした。
隣が島村老茶舗。 創業は嘉永7年(1854年)、二階の連子格子、、右から「御茶処」と彫られた板看板。 今の建物は昭和初期建てられたそうですが、宿街並みにマッチしたいい風情です。
さらに隣は「矢部家住宅」 矢部家は、「木半」の屋号で知られた穀物問屋で、 江戸時代に紅花商人としても活躍していました。 中山道に面した土蔵造りの「店蔵」と、その奥へ続く「住居部」と「文庫蔵」で構成されます。 現在の店蔵は明治38年に建てられたものですが、実に時代を感じるどっしりとした風情を持ってます。
道路対面に小林家住宅主屋(国登録文化財)があります。 発見された棟札から、穀屋(古久屋)吉右衛門が江戸時代天保11年(1840)~嘉永5年(1852)、頃に 建てた旅籠です。 古久(穀)屋吉右衛門」と書かれた棟札が遺されています。 また、文久元年(1861・酉年)皇女和宮の下向時の割書帳には、すでに吉右衛門の名が記されているそうです。 その後、小林家が建物を買い入れ、材木商を営みました。 それに伴い大きく改修され、旅籠当時の間取りは図面に残っているのみですが、 外観は建築当時の姿をとどめています。
足を進めて、
矢部家の数軒先にある冠木門が「府川本陣跡」。 本陣は代々府川家が務め、また、名主として宿場の運営にあたっていました。 加賀百万石前田家の宿所であり、また、文久元年(1861年)の皇女和宮の下向の際には、皇女和宮がここに宿泊しました。冠木門をくぐると薬医門があり、その脇に「明治天皇行在所」の碑が建っています。奥に皇女和宮も泊まられたという本陣建物(上段の間、次の間、湯殿等)が今も残っているそうなのです。 今も民家として使用されています。 「本日は誠に申しわけありませんが、公開いたしておりません」 う~ん、残念!・・・と思ったら通年非公開なんだそうです。
本陣の北隣に脇本陣、対面に問屋場と脇本陣が資料にありましたが、 案内板もなく不明でした。 少し進むと左手に「中山道宿場館」があり、桶川宿の観光案内はお任せ下さい! というところですね。 散策マップなど頂き、紅花の桶川の話などいろいろと聞かせていただきました。
宿場館を後にすると、左手にトイレのある小公園があり、 「桶川宿碑」と「桶川宿案内板」が建てられています。
公園内に、「お茶博士・辻村みちよ顕彰碑」というのがありました。 辻村みちよ1888年〈明治21〉、足立郡桶川宿(現桶川市)に生まれました。 茶がいろいろな面で良い飲料であるというのは、いまでは当たり前のように思われていることですが、 研究の結果、緑茶にビタミンCが含まれていることを発見し、さらにテキンを取り出すことに成功し、 タンニンの結晶を取り出し、化学構造を明らかにしました わが国最初の女性農学博士にして、お茶の栄養を発見した「お茶博士」だそうです。 (お茶の産地の住人ですが、知りませんでした)
公園の先を右折、しばらく進むと、12世紀の創建とも言われる「桶川稲荷神社」があります。 縁起によれ明治2年に現在地に移転してますが、創建は嘉録年間(1225~6年)といわれ、 桶川宿の人々の「村の鎮守」となっていたそうです。 境内には、紅花商人が安政4年(1857)に廃寺となってる南蔵院に寄贈し、明治2年に現在地に移転した、 「石灯篭一対と御手水石」がありまる。
境内正殿に向かって右手に、文字通り、日本一の大きさ・重量(約610kg 121×54×75(cm)である、 力石が奉納されてます。 />
力石は街道旅でよく見ましたが、これほど大きいのは初めてでした。 境内の道路に面した一角に・・
桶川宿も終わり近く、左手奥に弘治3年(1557年)の開基と伝えられる曹洞宗大雲寺があります・ ここには「女郎買い地蔵」といわれる1体の地蔵菩薩像が鎮座しています。 文化・文政時代には桶川宿も殷賑をきわめ、「大雲寺の地蔵が、夜毎抜け出して、女郎買いに行った…」 で、和尚さんがこらしめ「地蔵の背に鎹(かすがい)を打ち付け、鎖で縛って動けなくしてしまった」とのことです
(カミさん曰く、きっと小僧さんたちが遊びに行ったんだね・・・だろうな・・・) 北1丁目陸橋そばに江戸から10番目の「一里塚」があったが、明治9年に取り壊され、案内板のみ建てられてました。
一里塚跡の先、市役所入口交差点の右手前に「木戸跡」の碑がありました。 桶川宿の京側出口ですね。
江戸から6番目、桶川宿を後に中山道の旅は続きます。 次の宿場は1里30町(8.3km)鴻巣宿です。
旧中山道(県道164号鴻巣桶川さいたま線)を北へと向かいます。 ほどなくして桶川・北本市境の標識を過ぎます。
地下を走る高速圏央道を歩道橋で渡ります。
道路脇のドウダウウ、紅葉が始まってます。
お屋敷だけど・・・・
本宿村は明治12年(1879年)に「北本宿村」に改称され、昭和34年(1959年)の町制施行の際に、 北本町となったそうです。
北本に入ってから、旧中山道(埼玉県県道164号鴻巣桶川さいたま線)は道路拡張が続けられて利用で、 広くなったり、旧道のままだったりを繰り返してます。旧道帯は歩道がなく、結構交通量も多いので、あまりきょろきょろしてられませんね。
(セイタカアワダチソウ、道脇の原っぱで)
道路向こう、右手に万治4年(1661年)に開山された真言宗の寺院、多門寺があります。 境内の、埼玉県・天然記念物、樹齢推定400年といわれるムクロジ(無患子)の巨木が、高々とそびえてます。
隣が寛文2年(1662年)、京の北野天満宮を勧請した天神社がです。 学問の神様、菅原道真を祀ってます。
その先は北本駅入口です。
時間は午後3時30分。 7番目の鴻巣宿までは1里半町くらいですが、今日の旅は北本で足止めにします。
旅立ち、宮原から4里強(約12.5km)江戸から約12里(約45km)くらいですね。 亀足夫婦旅は、まだまだ先は長~~い・・・・第5回へと続きます。