歩いて再び京の都へ 旧中山道夫婦旅   (第6回) 熊谷宿へ 前編

>平成28年6月18日、3年半をかけて東海道五十三次を旅し、京の三条大橋に立ちました。 そして夫婦は旧中山道69次の旅、再び京を目指して歩いています。

 

10月15日(土)、江戸から7番目、鴻巣宿を過ぎ、次の熊谷宿との中間、

吹上にて足止め。

 

10月22日(土)、旅の再開です。

マイカーにて家を早めに立ち、熊谷宿の先JR高崎線籠原駅前に駐車。電車にて

吹上駅へもどります。

AM9:00、吹上駅前を旅立ち。

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 昨日まで晴れの予報が今朝は一日中うす曇り。

(また予報はハズレだね)

でも歩くのにはいいのかもしれません。

日本橋から数えて7番目の宿場である鴻巣宿と8番目の熊谷宿との中間の吹上は、

茶店や土産物屋などが軒を連ね小規模ながら間の宿でした。

いまは面影も失われてしまっています。

右手駐車場付近が茶屋本陣林本陣跡で、明治天皇が小休止したようです。

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本町交差点に、中山道案内石碑。

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案内石碑の通り先の吹上本町より県道を左手に入ると、ここからは歩道区別のない一般道。右手に1751年ー1764年(宝暦年間)に造立されたいぼ神様といわれる地蔵を祀る東曜寺(創建年代不詳)、隣が吹上の鎮守「吹上神社」

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先へ進むとJR高崎線に寸断され、跨線橋歩道にて渡ります。

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少し線路沿いに進み、ゆるく左手へと道は榎戸地域(旧榎戸村)へと続きます。

民家の一角に1786年の建立といわれる猿田彦大神碑。

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先の右曲がり角に、中山道道標。

 

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道標の右手に入ると、トイレのある榎戸堰公園があり、

元荒川が流れている。

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元荒川は古くは荒川の本流でした。しかし寛永6年(1629年)、伊奈半十郎忠治により、荒川は石原(熊谷市)で現在の荒川に流路を変えることになりました。

その結果、これまでの荒川は佐谷田さやだ(熊谷市)からのわき水を水源とした河川に

なり、全長:約61kmの「元荒川」と呼ばれるようになりました。

(湧水が源流だったとは初めて知りました)

そのさきに小さな小川がありレンガ造りの橋がかかり「元荒川起点」の標石がありました。明治時代に造られた農業用水の道路橋を兼ねた煉瓦樋管で、源流との意味ではなく、大正~昭和初期に県で実施っした改修工事の起点のようです。

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右に左にと街道らしくゆるく曲がりながら進むと、正面に荒川の土手が現れます。

土手下に権八延命地蔵(別名「物言い地蔵」)が祀られてます。

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旧東海道・品川の鈴ヶ森刑場の案内板にも権八の名があったね)

権八地蔵は鴻巣宿の勝願寺にもあり、二体目です。

(英泉描く「熊谷宿八丁堤の景」はここ、との説もあるようです。)

中山道は地蔵堂の横を通って熊谷堤に上がり、しばらくは堤の上を歩いて行きます。。この付近で鴻巣市から熊谷市・久下地区に入り荒川の土手(熊谷堤)を歩きます。

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浅間山,赤城.榛名,谷川岳連峰が見えるはず・・・・

うす曇りで、遠くに見えるはずの山々は全く見えません。

浅間らしきが、かすんだ中に見えたような・・

鴻巣で川幅日本一とありましたが、熊谷堤も対岸が見えない広さです。

しばらく行くとY字路、いったん土手下へ下ります。

下ったところに小さな垣根囲いに大曲八幡神社と天徳5年(1715年)建てられた

青面金剛像と寛文6年(1666年)建立・庚申塔があり、

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その先に安永8年(1779年)建てられた「馬頭観音」があります。

 

 

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その先から再び土手上(熊谷堤)を歩きました。

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この熊谷八丁堤は、天正2年、針形城主・北条氏邦が荒川の氾濫に備えて堤を築き

、江戸時代にには忍藩が修築を行いったよし。

堤道には頻繁にこの標識が現れます。

初めは道路の距離標と思っていたら、なんと川の海までの距離でした。

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街道は右下の道ですが、広がる景色があるので堤上道をあるきました。

しばらく進むと昭和22年(1947年)のカスリーン台風で、堤防決壊の跡碑

があります。

この台風は利根川の氾濫とともに、関東下流木域の甚大な被害をもたらしてます。

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並行して流れていた元荒川が熊谷市との境のようです。

土手下に建つマンション前に鳥居とお稲荷さんの一角が日本橋から15番目

「久下新田一里塚跡」すこし離れて草むらに埋もれて馬頭観音石碑。

今の道は、昔の土手道中山道とは少しずれてるんですね。

マンションの向こう側は元荒川が流れていて行田市との境。

橋を渡ってまっすぐ250mほど行くとJR行田駅です。

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しばらく堤上歩きを楽しんでると、道は二手になり堤をくだる道へ下り、久下の集落へと入ってゆきます。

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集落に入り右手に小学校、先に「久下神社」ひっそりと鎮座しています。

歴史は古く 源頼朝の前で熊谷直実と領地争いをした久下直光が創建した三島神社で、

後に周辺の神社を合祀し明治になって久下神社となった。

f:id:hansui:20161023165248j:plain境内には嘉永4年(1851年)建立の常夜燈や稲荷、庚申塔道祖神らしきや祠が

多くありました。

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白壁土蔵の家などが建つ久下村を進み、県257久下橋への高架下を通り再び熊谷堤へ向かって行くようです。

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静かな街道を十数分歩くと個人のお宅門横に「中山道碑」が置かれてます。

「ここは久下上宿」と「この街道、旧中山道  屋号・大銀治屋」と刻まれているので

鍛冶屋を営んでいた家だったのでしょうか。

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 みちはこの先で堤に突き当り、堤下が権八久下公園になってます。

一角に三つ目の権八地蔵のお堂、熊谷堤改修碑があり、寛政8年(1796年)建立の塞神道標には左面に「左松山道」、右面に「右熊谷道」と刻まれている。

道標の通り、右に進めば中山道熊谷宿、左に進めば久下の渡しで荒川を渡って約10㎞で松山宿(現東松山市)方面になる追分だったようです。

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 堤改修工事にて旧中山道は中断されたようですね。

道は堤を上って続きます。

上には久下の渡し&冠水橋跡解説板が立ってました。

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昭和30年ころまで船渡しがあったんですね。

遠く下流に見えてるのが新久下橋のようです。

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堤を右に下ると「カッパの妙薬みかりやさん」のみかりや茶屋跡で、 ここが「英泉の描いた『八丁堤の景』」のようです。

消滅していた旧道と合流したようです。

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左手にでかい案内板。

当地周辺の武蔵国大里郡久下郷に居住した鎌倉幕府御家人久下次郎重光が、

治承4年(1180)源頼朝の石橋山挙兵の時の駆け参じ武功をたて、頼朝より下賜された「丸に一の字家紋」。

東竹院は久下家の菩提所でした。

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参道まえに庚申塔などの古佛が並んでます。

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境内に達磨石と言われる大石があります。

寛文年間(1661-1672)に忍城主が、禅宗の祖達磨大師に似たこの巨石を、秩父かからいかだで運ぶ途中で川に落ちてしまい、何度か引き上げようと試みられたものの、度重なる荒川の洪水で行方が分からなくなってしまってました。

それから250年ほど経った大正14年、この伝説の達磨石が荒川の東竹院のすぐ前で偶然に発見され、 当時の青年団など有志の手により、川底から掘り起こされ、東竹院に安置されましたそうです。(こりゃ運ばされた人々は苦労したでしょうね)

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隣から子供の歓声が聞こえ、なんだろう??

突き当りが土手で手前に水槽がたくさん並んだ「埼玉中央漁協」が

ありました。

 

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秋恒例の家族釣り大会が開かれてたんですね。

水槽でホテイアオイ(左下)が綺麗に咲いてました。

ぐるりと炭火を囲んだ串焼きの穴なかに、金色の魚が、イワナかな?(右上)

初めてみたね。

しばらく進むと非常に澄んだながらの川に出合います。

橋の名が「熊久橋」

この付近が久下直光と熊谷直実との領地争いの地だったようです。

(ということは、、建久3年(1192)源頼朝の御前で直光と訴訟対決中、

裁決の前に直実が出家してしまう原因となった場所!)

そしてこの流れは元荒川源流部で、世界で熊谷市にしか生息していない

県の天然記念物・希少魚「ムサシトミヨ」が生息しているそうです。

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元荒川の水源は湧水と聞いてますが、水量も多く何より澄み切ってます。

豊富な湧水があるのかと思いましたが、聞いてみると今は

源流部に設置されてる「熊谷市ムサシトミヨ保護センター」において、

ポンプで汲み上げられた地下水を流しているんだそうです。

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この先で右まがり先で街道を見失ったりしたが、足を進めると小さな公園に

江戸日本橋から16番目、八丁一里塚跡がありました。前の一里塚と個々の間に

八丁堤があることから「八丁一里塚」と呼ばれたそうです。

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公園フェンスに

あら!いい色のッルコウソウ

さっそく、種を少しいただきました。

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一里塚を後にすると、街道は家が立て込んできて、左手に大きな熊谷駅舎の見える手前で、秩父鉄道の踏切、新幹線の高架下、さいごに高崎線の第六中仙道踏切を渡ったて

広めの賑やかな通り交差点へ。

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街道は交差点を横断し、もう少し先の国道17号中山道)銀座1丁目交差点へと

進むのですが、時間も12時半。

すぐ右の大きな、新しくできたとみられるショッピングモールにて、

足休めを兼ねて質素にランチタイム。

(パンも良かったが、アイスコーヒーがとても美味しかった)

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旅は午後の部、後編へ・・・・・