10月22日、吹上駅前を旅立ち、熊谷駅踏切を渡って、昼食タイム
続き・・・
午後1時20分、交差点を横断直進の国道17号(中山道)へ向かわず、
道を北へ取り熊谷直実像のある熊谷駅前へ向かいます。
ロータリーへ来ましたが、うん?ずいぶん小さいな・・
と思ったら、東口のロータリーでした。
大きな駅ビルに沿って進むと、明るい大きな北口ロータリーへでました。
(浦和のサッカー、熊谷のラグビーですね)
直実像は近寄れない広場の中に立ってます。
熊谷 直実(くまがい なおざね)は、平安時代末期から鎌倉時代初期の武将。
武蔵国熊谷郷(現埼玉県熊谷市)を本拠地とし熊谷を名乗った一族です。
当初は平家に仕えていたが、石橋山の戦いを契機として源頼朝に臣従し御家人となる。
寿永三年(1184)一ノ谷の戦いで17歳の平敦盛を討ったことから、世の無常を感じ、後諸々の事情もあって出家し、法然上人の門に入り、名を法力坊蓮生と改め念仏修行に明け暮れた話は、平家物語や能、歌舞伎で有名ですね。
(像の周りは車の周回路で近寄ることができません。残念ながら案内板などもなかった
様子)
〇出家した直実の逸話は、東海道にもありました。
熊谷下向での東行逆さ馬の事。
西方極楽浄土は西方にあると思い、西に自分のお尻を向けてはならないと考え、馬に鞍を逆さにおいて、後ろ向きに馬に乗って東海道を下ってきました。
〇小夜の中山での山賊との事。
僧となった蓮生は、「殺生はしない、路銀は全部やるから持っていけ。」
と財布を山賊に投げ与えた。
〇藤枝宿での十念質物の事。
無一文になった蓮生は、郷士福井憲順に路銀を貸して欲しいと頼むと、「質物がなければ貸せない」と言われた。
蓮生が十度念仏を唱えると、蓮生の口から光り輝く仏が現れ憲順の口に入った。
ありがたさに喜び、路銀を貸してくれた。
その後、蓮生が京都へ上るため藤枝を通ったとき、借りた金を返し、質入れした十念を返して欲しいと言い、十念を唱えると、憲順の口から仏が現れた。
「最後の一体の仏だけは、私達にください。」という憲順の妻の頼みを承知した。
蓮生の信仰に教えられ、憲順夫妻が私財を捨てて建てた寺が藤枝の熊谷山蓮生寺だという。
駅からまっすぐ東に延びる広い通りを国道17号に向かって進みます。
真ん中を星川が流れるその名も「星川通り」を渡り17号の筑波交差点で大きな歩道橋を渡り、中山道復帰です。
市役所入口交差点にきました。
ここから先が熊谷宿の中心になる感じです。
(調べても江戸からの入口となる木戸がわかりませんでした)
現在の埼玉県熊谷市にあたる「熊谷宿」は
中山道六十九次(木曽街道六十九次)のうち江戸から数えて8番目の宿場。
天保14年(1843年)の『中山道宿村大概帳』によれば、宿内人口3,263人、
家数1715軒、本陣2軒、脇本陣1軒、旅籠19軒、問屋場1軒、高札場1箇所。
旅籠屋の軒数が19と少く、宿泊業に依存せず、絹屋、綿屋、糸屋、紺屋などの
機織関連の店、茶屋やうどん屋、穀屋などが軒を並べるなど、商業都市として賑わいを見せていたと言われます。
五街道分間延絵図(江戸時代)
市役所通りを右手に行くと、平安時代延喜五年(905年)、宮中において延喜式、式内社に指定された大変古い「「高城神社」があります。
入口右手の鉄製常夜灯は、高さ2.75mで天保十二(1841)年に江戸、京、桐生、高崎など 150人ほどの紺屋により奉納されたもので、その名前が台座の周囲に彫られている。
そして、樹齢800余年と言われる、ケヤキの御神木が風格を漂わせてます。
高城神社の表参道を17号に戻り北へ向かうと交差点の向こう側に、
3階建てのレトロなビル1階に蕎麦屋あります。
向う側の信号機、左に小さく見えてる立て看板、下に石碑。
そこが札の辻・高札場でした。
(信号を渡らなかったので、拝借写真)
蕎麦屋と言えば、十辺舎一九が、「東海道中膝栗毛」の弥次さん喜多さんも
中仙道編で熊谷宿へ登場させ、
「(江戸に向かう途中)
高柳、石原をうちすぎて、熊谷の宿に至る。
弥次「ナントここに評判のそば屋があるということだ。一杯食っていこうか。」
喜多「ソレソレ、久しく蕎麦を食わねえ、たしか梅本とかいう家だ。」
弥次「オオ、その梅本よ。ハハアここが布施田だな。これも評判のいい宿屋だ、ヤア蕎麦屋はこれだ、これだ。」
と、うち連れてかの梅本へ入り、
弥次「モシ、ぶっかけを熱くして二膳たのみやす。」
蕎麦屋「はいかしこまりました。」と早速二膳もってくると、
喜多「なるほどいい蕎麦だ。そしてめっそうに盛りがいい。汁のあんばいも申し分なしだ。」
弥次「こりゃ、一首やらずばなるめえ。」
>熊谷の 宿に名高き故にこそ よくもうちたり あつもりのそば<
梅本の蕎麦を、一ノ谷の戦いで直実が討ち取った敦盛(あつもり)とかけたお話。」
(拝借逸話)
こんなにわか仕込みうん蓄をカミさんと話しながら足を進めると、本町で再び右へ行くと直実の父の熊退治にまつわる千形神社。
神社前をすこし北へ向かうと、熊谷直実が出家し、ひたすら念仏を唱えた草庵が始まりと言われ、立派な山門を構えた浄土宗・熊谷寺(ゆうこくじ)があります。
境内に熊谷直実の墓と伝えられる宝筐印塔があるそうですが、一般拝観はお断りになっていて入れませんでした。
(法要などがない限り、お願いすれば拝観できるとの情報もありますが)
右手に八木橋デパートの建つ17号へ出てきました。
あっ、本陣跡は・・行き過ぎた、道のむこうだ・・
17号を少し戻った本町一丁目信号交差点を渡ると、明治の火災と戦災で失われてしまった、敷地1600坪、建坪700坪、47部屋あり国内最大規模であった竹井家本陣の跡碑がありました。
再び交差点を右手に渡り、街道の右側を進み鎌倉町交差点先に埼玉県内初の百貨店、
創業110年を超えた老舗百貨店「八木橋百貨店」に行き当たります。
街道案内図を見ると、建物の中に線が引かれている???と思ってましたが、!
なんと中山道が1階フロアを通ってるということなんです!!。
かつては、旧中山道を挟んで北側と南側に分かれて店舗が置かれていたが、
1989年に改築する際に、敷地の一部を公共の歩道として寄付することを条件に
旧中山道を遮断する形で建設された。
そのため、1階には旧中山道の位置に幅を広めに取った店内通路が設置されている。
それぞれの端には出入口も設置されているため、営業時間内であれば、迂回せずに旧中山道を辿ることが可能になってます。
街道に沿った建て方なのか、国道17号側は少し端すって建てられてますね。
いまでこそ隣県の前橋や館林などに首位の座??を奪われた格好ですが、
熊谷と言へば猛暑の街・熊谷です。
熊谷市で国内観測史上最高の40.9度に達したのは、平成19年8月17日。
熊谷の夏の風物詩の一つ、暑いぞ熊谷!『大温度計』はこの百貨店前に設置されるんだそうです。
店前交差点は鎌倉町。この付近を鎌倉街道が通っていて、追分でもあったのかな。
(未確認)
百貨店の化粧品売り場の前を30mほど抜けると正面西口に出る。
西口を出ると一番街アーチを通り二股の道右へ。
しばらくの間道の両側に点々と百貨店の駐車場が続いてました。
今や駐車場が備えてなければ集客できない時代ですね。
歩道区分のない弓なり左カーブの道は、すぐに国道17号に合流し石原地区へ入ります。明確ではありませんが、この付近が昔の熊谷宿の西端(京口)であったと記された資料がありました。
少し先の石原1丁目歩道橋の先に「かめ道」の石原公園があります。
かめ道とは、
東武鉄道熊谷線(妻沼線)の跡地に整備された公園。
この路線を走っていた電車が、カメ号(我々のように、のんびり走ったか?)と呼ばれていたことに由来して、かめの道公園という。
この公園は、秩父鉄道上熊谷駅を過ぎ北に分岐したところから始まり、第2北大通りまで約1.7kmで4つの区域に分かれてます。(③のところ)
石原公園には3基の道標が残されています。
左側は明和3年(1766)の碑で 「ちゝぶ道、志まぶへ十一り」とある。
「志まぶ」とは秩父三四カ所巡礼道の「第一番四万部寺」。
中央は安政5年の碑で「秩父観音巡禮道、一ばん四万部寺へ、たいらみち十一里」。
右側は弘化4年(1847)の碑で「寶登山道 是ヨリ八里十五丁」で江戸講中が
秩父へはよく行きますので、なじみの寺、山ですね。
片側2車線だった国道17は、ここから片側1車線となり、
立派なお屋敷の塀が続いた先に熊谷警察。
交差する道、右へは国道407号。利根川を渡って群馬足利方面へ。
左へは140号、秩父方面を経て山梨へ。
道は直っぐにさらに300mほど行くと、旧街道は石原北交差点の先二股で左へ
17号と別れます。
すぐ右手に日本橋から17番目、市指定史跡、「新島の一里塚」の北塚。
樹齢300余年の欅が塚の木でしたが、平成22年9月の雷雨により
大半が折れたものの、今は再び若枝が芽吹きよみがえりつつありました。
ガンバレーケヤキ!(応援したくなりますね)
一里塚のすぐ先、細い道との十字路角に「忍領石標」があります。
安永9年(1780)、忍藩主が領地の境界を示し、他藩との境界争いを防ぐため十六か所にたてた石標のひとつ。
新島と石原の境にあり、高さ190センチメートル、幅30センチメートルで、「従是南忍領」と刻まれている。県指定旧跡。
先に松原の立て場跡があるようですが、確認しないまま通り過ぎてしまったようです。
左手に浄土宗新照寺があり、お参り。
山門前に享保6年(1721年)建立と言われる地蔵尊や馬頭観音などなどの
石仏石塔郡がありました。
時刻は午後3時、Caféタイムにと街道を右手に離れ、国道17号のコンビニへ。
17号を渡る手前に、小規模ながら隣接するお宅で育ててるのでしょうか、 良く手入れされてるバラ園がありました。
うす曇りで日差しがないのが惜しいですが、秋ばらが綺麗に咲いていて、
少しバラを育ててるカミさんは大喜び。
園内に足を踏み入れは遠慮して、周りを2度ほど回りしばし秋ばら鑑賞。
20分ほどのCaféタイムをして街道へは戻らづ、国道17号を旧道と合流地点まで
歩きます。
左右に広大な田園が広がってます。
稲の収穫が終わり、二毛作での麦の作付けも間もなくでしょうね。
新島から玉井窪地区へ入り、 農業総合研究センターの歩道橋のところで
旧道と合流します。
歩道橋手前に道路距離標、東京へ70km、大宮へ40km、
向う側には東京から70km深谷へ7km。歩いて来たんだな~・・・
試験場を過ぎ、すぐに街道は17号と別れ右手に県道264を進むと、すぐの付近が
玉井窪川越場跡、筋交橋。
満水時には人足による川越しが行われたそうですが・・・
今はひとっ跳びできそうな細長い用水路なんだけど・・(昔はいく筋も川があったのかな~)
熊谷バイパスが立ちはだかり、歩道橋で渡ります。
おや、送電線にコサギが空を見上げてる!
歩道橋を渡り進むと右手に広がる田園の中に、島のように小さな森を作って
お社が見えました。
堂々たる門構えのお宅を過ぎて、上の茶屋集会所脇に地蔵座像堂。
街道資料を見ると熊谷・深谷の中にあたり、昔は茶店があったそうな。
おっ、これ何だ??高圧鉄塔の並ぶ幅広い地帯が長~く緑地帯になってます。
(あとで聞いたら玉をさえる下の台が井桁になていて「玉、井桁・・玉井」)
田園が見なくなり家が立て込んできました。
右手に観音堂があり観世音菩薩が安置されてます。
境内はたくさんの地蔵尊や庚申塔があります。手持ちの街道資料では詳しくはわかりませんでしたが、一説には区画整理などで撤去されていたのを、個人の方がここに安置し施主となられたとも。
街道を横切るコンクリート橋の用水路を通ります。
橋は「市右衛門橋」のひとつなのだそうです。
奈良堰幹線用水路と呼ばれ、玉井・別府地域を南北に走る用水が流れてます。
「江戸時代、荒川の水を得るための水利権をめぐって様々な闘争が行われるなど、農業用の水確保は重大な課題であった。
18世紀後半、奈良村の慈善家、吉田市右衛門(三代、宗敏)は多額の私費を投じ、用水路の整備を行った。
この恩義に地元農民は感謝の意を込めて、用水に掛かる橋に対して「市右衛門橋」と名付けた。中山道と奈良堰用水の交わる橋においてもこの名前が残されている。」
地図で確認すると中山道の玉井地区の東方に奈良地区というのがありました。
夕暮れも近く午後の4時半です。
大きな食品スーパー前を過ぎると名無しの十字路になり、左へ道は17号を横断して
吹上から約15km、日本橋から約71kmを越えました。
今日の旅はここで足止めし、車を止めた籠原駅前へ足を向け家路へ。
中山道、夫婦旅はまだまだ・・歩けるうちに、元気なうちに・・・