歩いて再び京の都へ 旧中山道夫婦旅   (第9回) 本庄宿から新町宿へ 前編

>平成28年6月18日、3年半をかけて東海道五十三次を旅し、
京の三条大橋に立ちました。
そして夫婦は旧中山道69次の旅、再び京を目指して歩いています。

 

11月5日(土)、武蔵国最後の本庄宿に到達。

今日、11月12日(土)は上野国入りし、江戸から11番目新町宿を

目指します。

 

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いつものように早めの朝食後マイカーにて出立。

ナビが熊谷市から国道17号バイパスを案内で車を走らせて、市街への標識で

本庄市街へ向かうと、すぐ近くが本庄城址でした。

前回寄らなかったので、今日の旅立ち前に立ち寄り車を向けました。

 

本庄城は、武蔵七党の一角を占める武士団である、児玉党を構成する本庄実忠が

弘治2年(1556年)築城。

本庄氏は山内上杉氏に属したが永禄10年(1567年)に小田原北条氏の攻めに

敗れ配下に。

その後天正8年(1590年)豊臣秀吉の関東攻めにより再び落城した。

徳川家康の関東入国に伴い、小笠原信嶺が1万石を賜り本庄藩の居城となったが、

慶長17(年1612年)、その嗣子信之の代に古河城に移封され、本庄城は

廃城となり、幕府直轄領となた。

城域内の城山稲荷神社は、本庄実忠が本庄城の守護神とするため、西本庄から

椿稲荷明神を奉斉したといわれる。

社殿のすぐ前の大ケヤキは築城当時献木されたそうで、樹齢は約400余年の古木で

埼玉県指定天然記念物です。

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(お城の石垣が残ってると聞いていたが、確認できなかった)

 

.城址を後に車を走らせ、本庄駅近くの駐車場に車を止めて街道へ。

ここの駐車場は本通りから一方通行を入るところにあるので、付近では一番安い。

駅前本通りに行くと両側に5,6か所駐車場があるが、駅から離れるほどに、

一日料金が100円ずつ安くなる。

駐車場のすぐ目に本庄七福神、城立寺の大黒さん。

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駅前通りを旧中山道に向かいます。

小さな祠や庚申塔などが数基立ってる一角がありましたが、説明板などは無しでした。

道路拡張の際にここに集めたのかもしれませんね。

街道筋には、そのような仏塔、仏跡群が結構見受けられます。

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AM9:30、先に寄り道したのでいつもより遅く、前回足止めの

中山道県392・本庄駅入口交差点にて旅立ち、パチリ。

道路標識、上里方面へ向かいます。

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本庄宿、江戸から10番目、日本橋より21里31町(約86km)

(天保十四年)、人口、4554人 家数、1212軒
旅籠、70軒 本陣、2軒 脇本陣、2軒

中山道での宿村内人口は最大であったそうです。

英泉画 本庄宿(宿内ずーと先、国境の川付近ですね。後で通ります)

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 旅立ちショットの交差点を右に入ると浄土宗円心寺。

本庄領主・小笠原信之が亡き母の菩薩を弔うために天正9年(1581年)に建立されたと伝えられています。(天正19年(1591年)との説もあるようです)

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素晴らしい鐘楼仁王門ですね。

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ちょっとぽけもん風の仁王さん。

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七福神は福禄寿が祀られています

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本庄駅入口交差点の右角、りそな銀行の隣あたりが北本陣と呼ばれ、田村作兵衛が

勤めた田村本陣があったそうですが、示すものは何もなし。

田村本陣は、入り口前に高札場が有った由。

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本陣の門は後訪れる、歴史民族資料館の前に移設されている。

 その先左、東和銀行足利銀行が並んで建つところが内田本陣跡。

南本陣とも呼ばれ、内田七兵衛が勤めた。

こちらも案内板など何もなく、確認できませんでしたね。

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脇本陣跡も特定できず、また問屋場、高札場、旅籠なの史跡や案内など、

全くなしで寂しい限りです。

 

少し歩くと看板に「戸谷八商店」「創業永禄三年」と掲げる店があります。

永禄3年(1560年)といえば桶狭間の戦い今川義元織田信長に討ち取られた年だそうで、以来450余年余!!。おみごと!!!

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戸谷八の向かいに「岸屋」の看板を掲げた、葬祭ホール運営会社がありました。

元祖は創業元禄2年という回船問屋岸谷であったそうです。

家業としては変遷があっても、家としての存続、

元禄と言えば300年以上前ですね。

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風もなくほんわか道を進みます。おっ、医院だね、いい感じ。

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少し進んだら右手に二軒幅くらいのフェンスに囲まれた空き地?があり

奥に鳥居と小さなお堂。入ってみると真新しい植樹の碑が。

なんの奉りでしょう??

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その先を右に入り住宅街を進むみ右手に曲がると愛宕神社

天正19年(1591年)本庄城主・小笠原信嶺が勧請したと言われます。

もとはこれから訪れる開善寺の境内内であったそうで、

神社お社は古墳の上に祀られてます。

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神社から西方向に出て突き当り左に開善寺。

天正19年(1591)本庄城主小笠原信嶺が開基、球山宗温和尚の開山。

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和尚は城主信嶺の夫人久旺院尼の兄にあたる人で、武田信玄の弟武田逍遥軒の子。

仏門に入り甲斐国永岳寺にあったが、信嶺に招かれて当時を開山しました。

徳川家光から、15石の朱印地を下された。

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 当寺はあの本陣を務めた田村家の菩提寺で、一族の霊域がありました。

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 道路を挟んだ向かい側にも墓地があり、ここに小笠原信嶺夫婦墓所があります。

墓石は夫妻共に全高が約180センチメートルの宝篋印塔で、戦国末期より近世初期に

かけて関東でもよくみられる形状をしています。塔はここでも古墳の上なんです。

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七福神はちょっと変わった風情の布袋尊

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 一見どこにも有るような「仲町郵便局」は「旧本庄郵便局」で、秩父セメント

創始者である諸井恒平が昭和9年(1934年)に建築したもので、当時世界的に流行したアールデコ調に仕上げられ、、国登録有形文化財に指定されています。

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 てくてくてく・・・

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??電気館・・赤いビーフ?緑のポーク?

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お~い右右、曲がるんだよ~・・・

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進んだ先の消防署のところを右に入ると、前述の田村家本陣門が移築されている、

市立歴史民俗資料館でした。

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歴史民俗資料館は、明治16年に建築された旧本庄警察署(県指定文化財)を

復元・改修し、内部を展示室として活用しています。

建物には明治期の洋風建築の特徴が随所に見られます

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歴史民族資料館裏側の 慈恩寺に祀られているのは銭洗い弁天 。

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街道に戻り1~2分歩くと、

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今は洋菓子店となっている明治29年に建てられた、赤レンガの!あれ、無い!

旧本庄商業銀行の、担保に取った繭や生糸などを保管する倉庫だった

赤レンガ造り建物。

有りました・・改装修復工事中!。国登録有形文化財となってます。

(写真左下、拝借写真)

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建物の裏通りには曹洞宗泉林寺。

七福神は寿老人

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再び街道に戻り、(消火栓蓋もはにぽん、さすが全国大会第2位!!)

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その先の交差点を右に曲がり突き当たると、室町時代 文明7年(1475)開山の

「若泉の霊域」と言われる曹洞宗安養院。

山号を若泉山、寺号を無量寺、本尊は無量寿如来

武蔵七党の児玉党の一族本庄信明の弟藤太郎が仏門に帰依し開基。

慶安2年(1649)25石の朱印地を授かる。

渡辺崋山や谷文晁、加賀千代女など多くの文人墨客の石碑、そして芭蕉の句もあるそうです。    「もの言は 唇さむし 秋の風 」

本堂は安永8年(1779)に焼失後、寛政2年(1790)に再建。

山門は元禄15年(1702)の建築で同院最古の建造物、総門は享保元年の再建と

いわれています。

総門

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山門(仁王門)

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カミさんが、凄い迫力ね~・・お気に入り

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本堂

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 安養院の七福神毘沙門天 であった。

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 裏手の普寛堂に木曽御嶽講の祖、木食普寛行者のお墓があります。

木曽御嶽講では深谷宿の少し手前に、一心行者の記念碑のある御嶽山遥拝所が

ありましたね。

木曽の御嶽山には何度か登ったことがありました。

あの痛ましい災害に合われた方々へ、手を合わせ黙礼。

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 普寛堂の裏手が公園のようになっていて、鳥居と社が見えました。

立ち寄ってみると公園奥にひっそりと古い歴史を持った神社がありました。

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街道へもどりさらに北西へ向かいます。

風がなく、汗ばむくらいにくらいです。

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大きな交差点の手前右に高尾山と刻まれた大きな石柱が建ってます。

社伝によれば、中性の高野山聖僧威徳坊玄正が天授年間(1375~1381)に開創した

金鑚山白蓮寺と号した威徳院であったが、再度の火災や明治新政府神仏分離令

より一時廃寺となり、その後、檀信徒が復興に努力をし明治二十年に本堂・庫裡を

再興した。
再興当時、御本尊が准胝佛母観世音菩薩であったため、佛母寺と改称。
三十一年には鐘楼堂が再建され、篆額は故吉田茂元首相が書いています。
境内には大正十五年、大本山高尾山薬王院より飯縄大権現を勧請し「本庄高尾山」を

建立し、高野山真言宗の本庄高尾山と呼ばれる佛母寺になった由。

七福神は現代キャラクター風m銭洗い弁天ちゃん。

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その手前右に荘厳な銅葺き屋根を付けた鳥居が現れます。

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本庄の総鎮守。「金鑚(かなさな)神社」が鎮座しています。

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社伝によると、創立は欽明天皇2年(541)創建尾古刹で、

武蔵党の一つ児玉党の氏神として、またのち本庄城主歴代の崇神が厚かった。

社殿などは本庄城主小笠原氏が建立。

ご祭神は

天照大御神〔あまてらすおおみかみ〕
素戔嗚尊〔すさのおのみこと〕
日本武尊〔やまとたけるのみこと〕

各所に彫刻が配されていている大門は、文化11年(1814年)の建立と伝えられ

別当金鑚山威徳院百蓮寺の総門でしたが、明治維新後に廃寺となったため、

金鑚神社が管理保存しているそうです。

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七福神は大門脇で恵比寿様が拝めます。

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社殿は本殿と拝殿を幣殿でつないだ権現造り、建物の細部には見事な極彩色の彫刻が施されている。

本殿は享保9年(1724)、拝殿は安永7年(1778)、弊殿は嘉永3年(1850)に再建されたもの。

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社殿のほか、神楽殿、神輿殿、境内社がありますす。

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御神木のクスノキは、嘉永16年(1636年)社殿改修時の植栽といわれ、

樹齢が300年以上の巨木で県指定天然記念物になってます。

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  街道に戻り、、先は中山道下仁田街道(上州姫街道)の分岐点だった国道462号との交差点で中山道本庄宿碑。この付近が本庄宿の西の木戸口になるのか?

交差点を右折すると、歩道には中山道六十九次の宿場、日本橋から草津までの

プレートがはめ込んである。 

中山道は国道462号を金鑚神社の脇を通り、先ほどの佛母寺が右手に見えるところを左へと曲がり続いてゆきます。

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 旅は後編へ。