11月12日(土)中山道夫婦歩き旅。
国道との交差点を渡って県392を行かないで、街道は右折して国道462
沿いにしばらく進みます。 本庄宿からの続きです、
国道462号を東にしばらく進み、街道は左折して住宅街の中へと
入ってゆきます。
お城のような邸宅も見えた旧中山道は、5~6分で再び県392号に
合流、その先は歩道があったり無かったりの道を、しばし道なりに歩みます。
小島4丁目の標識交差点を右折して進むと、左手に道なり進むと奥に赤い鳥居と、
右手にお寺と墓地が現れました。
右手のお寺は真言宗長松寺。寺域一部が武蔵武士丹党の一族、小島氏の居住跡。
付近一帯、地名も今は小島地区。
長松寺を左に出て坂を下ると国道17号。
手前に、昔は長松寺の敷地内であったところに、唐鈴神社。
案内板に杵築大社とあるのは出雲大社のことだそうで、御祭神もお馴染みの神話の
神様ですね。
出雲大社か・・・3年ほど前念願かなってお参りしてきました。
出土した金鈴はいずこへ?
街道(県392)へ戻った角に馬頭観音。
うん!交通安全? ははは平成7年と刻まれてましたね。
馬頭観音を過ぎて左手に入ると、古墳の上に鎮座する諏訪大明神。
ご由緒書などをを読むと本当に面白いですね。
この地に住んだ人々は信州からの移住とあります。諏訪の神社との結びつきが
わかります。
関東には非常に古墳は多いんですね。
今まで歩いて来た道筋でも、古墳上に祀られた遺跡、史跡にたくさん出会いました。
本庄市小島から上里町神保原にかけて、本庄台地北端の広い範囲に分布し、
97基あまりあったといわれていますが、現在本庄市内には円墳ばかり数基が
残っているそうです。
地名が万年寺と変わる県351と交差する左角に、コンビニがありました。
街道(県362)沿いは、旅された方の紀行などでも書かれてますが、お店や
コンビニは本当に少ない、というよりほとんどありませんね。
足休めやトイレはお寺のお世話になることが多いです。
お腹も空いたで、コンビニ・サンドを買い昼食足休め。
イートインコーナーがなかったので、隣の大きなドラッグストア駐車場の
陽だまりで、ブロックに腰かけてランチタイム。
ストア来客が???顔・・
(我が旅ではよくやるスタイル!)
名前のない交差点から先、地域名は万年寺。
県351と交わるこの交差点付近が、上の写真で左は三国街道で、例幣使街道の
玉村宿を経由して渋川宿で高崎宿からの三国街道と合流する。
右はは児玉宿や藤岡市の鬼石宿に通じる旧道。
(通り過ぎての写真なのでややこしい)
この追分に万年寺一里塚(日本橋より22番目)があったそうですが、
区画整理された道筋、案内板も標柱もなく不明でした。
(下、お借りした中山道分間延絵図:万年寺の一里塚)
塚の側をを通ってるのが三国街道へや鬼石方面の道。
県351を鬼石方面に少し行くと、武田信玄没後、正室三条陽雲院がこの地に
移り住み、信玄の聖天像を安置したといわれる二柱神社があるそうです。
寄りませんでした。
(上里の名はなじみがあるわね、てカミさん。
高速関越道を早朝利用するときは、家から1時間くらいが、上里PA。
1回目の休憩を兼ねて、持参のカップ蕎麦でよく朝食を摂ったんですね。
つい先日も寄ったばかり)
上里町のマスコットキャラは「こむぎっち」(小麦産地から?)
ちなみに、バスは一日2便でした。
住宅が途切れた左手、畑の中に赤い鳥居が見え、古墳の上に浅間神社。
浅間山古墳(せんげんやまこふん)で7世紀後半(古墳時代末期)の築造と
いわれ、仏教文化と関係の深い銅椀などが出土してるそうです。
道の向かいの民家の角に、石造りの橋の欄干らしきものが2基並んでる。
後ろの由来碑によると、「徳川幕府は街道筋に傳馬なる苦役を課したり。
農繁のさなかや、極寒風雪の日にも傳馬の人々この橋に憩い、家族を偲び身の
はかなさを嘆じてか、泪しきりなり」とありました。
東海道や通ってきた中山道にも涙橋はありましたが、罪人との別れ橋でしたので、
流す涙の味は違うものでしょうね。(橋のあった川はどこだ?)(余談)この付近の地名は神保原。石神村、忍保村、八丁河原村が明治期に合併し
三文字とって地名となったそうです。(頭文字でないとこが面白い)
寄りませんでしたが、しばらくすすんで神保原駅方向に入ると、曹洞宗安盛寺。
関東大震災の折、流言飛語により当地で犠牲になった朝鮮人42名の
慰霊碑があるそうです。
またこちらも立ち寄りしませんでしたが、高崎線の神保原駅1番線ホームに
七福神が鎮座しているそうです。 このあたりには "神"がつく地名が多いことから、
「この駅を『七福神の駅』にしよう」駅員さんお提案から祀られたそうです。
(拝借写真)電車で通るとき見てみたいと思ってます。
上里町ですが上里駅は無いんですね。
上里町は昭和の28~30年代の大合併時期に、七本木村、神保原村、長幡村、賀美村の4つの村が合併し上里村となり、町となってます。
駅は当時の神保原村にできたんです。
神保原町を進んで街道は右折し、国道17号(現中山道)を横切ってさらに
まっすぐ北東に向かいます。
すぐ左手草原に、両側に数基ずつ庚申塔や馬頭観世音などの石塔が並んでいる。
ひときわ大きい宝篋印塔のような形をした石塔もある。
奥に小さな祠に開運薬師如来坐像を祀った薬師堂が祀られてます。
何も説明板などありませんが、地域開発の波でここに集め祀られたかな?
右手先に自然石の庚申塔がありました。
北西の神流川流域に産する三波石??
歩道がちょこっとだけ出来てたり、無かったりの街道(県392勅使河原本庄線)を
道なりにゆくと集落は金久保地域に入ります。
右手に金窪八幡神社があり、町が建てた案内板がありました。
大永5年(1525年)に金窪城主の斎藤盛光が、鎌倉の鶴岡八幡宮を城内に勧請した
ことに始まりで、天正10年(1582年)の神流川の合戦によって斎藤氏が敗退した
後は、村民が村の鎮守として祀るようになったものということです。
天井画
神社を後に、遠くに赤城山や榛名山系を望む田園を行くと、こんもりとした森が
見えてきます。そこが今は公園となって金窪城跡でした。
金窪城址は神流川に臨む崖上に位置し、平安末期の治承年間(1177-81)に
武蔵七党の一党である丹党から出た加治家治が築城したと伝えられ、
元弘年間(1331-34)新田義貞が修築して家臣の畑時能に守らせたという。
室町中期の寛正年間(1460-66)には、斎藤実盛の子孫といわれる斎藤盛光が
居城した。
天正10年(1582)神流川の合戦で、滝川一益に攻められ落城討死し斎藤氏は
没落した。
神流川の合戦に勝利した北条氏は、金窪城を上州との境目の城として重要視し、
鉢形城の支城としたが、豊臣秀吉の小田原征伐に際し、天正18年、
前田・上杉軍の前に鉢形城と共に落城した。
徳川家康の関東入国後は武田信俊の所領となり陣屋が置かれたが、
元禄11年(1698)孫信貞の時、丹波国へ転封となり陣屋も廃されたという。
(史資料より)
「 神流川の合戦 」
織田武将・厩橋城主滝川一益が、織田信長が明智光秀謀反によって殺害された
本能寺の変の報を受け、明智光秀を討つため、いち早く本国伊勢にとって帰ろうと
したが、関東小田原後北條氏に攻められ、天正10年(1582)6月18・19日の両日に
わたって、武蔵鉢形城主北条氏邦・小田原城主北条氏直と、武蔵及び上野国境の
神流川を舞台としておこなわれた合戦でした。(史資料より)
県362・街道に戻って少し進んだ細い道との十字路が、 金久保の中山道と
三国街道の分岐点で、皇紀二千六百年の記念碑の脇に、平成26年に新たに
「三国道 入口」と刻まれた道標が建ってました。
ここも何か所かある三国道への追分なんですね。
日がだいぶ傾いた街道を進んですぐ左手に、陽雲寺の大きな石柱と案内板が
建ってます。
陽雲寺は正式には崇栄山陽雲寺(よううんじ)という漕洞宗の寺で、
元久2年(1205年)の創建と伝えられ当初は、唄樹山満願寺と称していました。
元弘3年(1333年)上野新田荘在の新田義貞が鎌倉を目指す途中、
当寺に立ち寄り、鎌倉幕府打倒を祈願して不動堂を造立したことから、
新田勝軍不動堂”などと称されたと寺伝あるそうです。
室町時代になり、周辺を支配していた金窪城主の斎藤氏は当寺への帰依が厚く、
天文9年(1540年)当時の城主斎藤定盛により堂宇が修復されました。
天正10年(1582年)の滝川一益と小田原北条氏直が死闘を繰り広げた
神流川の戦いに巻き込ますべてが焼失してしまいます。
天正19年(1591年)、武田一族の一人として家康に旗本として召し出された
川窪信俊(武田信玄の甥)が養母の武田信玄夫人(京都三条家から嫁いできた秀姫)
を伴い、金窪城跡に陣屋を構え、信玄夫人は当寺に住まいし、法号三条陽雲院と
称した。
夫人は元和4年(1618年)亡くなり、川窪信俊は養母の菩提を弔うため、
その法号である陽雲院を採って寺号を陽雲寺と改称した。
元和五年には徳川幕府から御朱印五石が寄せられている。
(ただ、正室三条夫人は元亀元年(1570年)に亡くなり、甲府・成就院に埋葬され
、そその法名から成就院は「円光院」と呼ばれるようになり、昭和42年(1967)には、山梨県指定史跡に指定されている)
???? どちらかは分骨墓か供養塔、それとも別夫人かな???
綺麗に冬桜が咲いてます。
石の祠が畑時能供養祠で県指定旧跡。
畑時能は、新田義貞の家臣として活躍した武蔵武士です。秩父郡長瀞町の藤谷淵が
出身地と書かれています。
新田義貞が足利尊氏と共に鎌倉幕府倒幕のために挙兵すると、義貞に従って進撃した。武勇や策略に勇名をはせたが、1341年伊地知の地で討死した。
時能の首は、従臣の児玉五郎左衛門光信が、敵の網の目をかいくぐりながら持ち帰り
供養した。
街道に戻ると、道の向こう側に赤城山をバックにした、「畑時能首塚碑」が建って
ましたね。
賀美公民館に中山道案内板がありました。
新町宿への直路ができるまでは、陽雲寺の東で北に向きを変えて、角渕(現群馬県玉村町)を経て、倉賀野宿へ向かっていたとある。
県道392号勅使河原本庄線は、賀美集落を過ぎてゆきます
小学校を過ぎると、寛政12年(1800年)建立と言われる、庚申塔、石塔が
建ってます。
倉のある民家の前一角に祠&石碑が建っている。
ここが江戸日本橋から23番目、勝場一里塚跡でした。
街道は間もなく勅使河原北交差点でR17に合流し、神流川へと向かいます。
境内には本庄側に設置されていた「見透燈籠」が移設されているそうですが、
今日は寄らづに進みます。(次回、立ち寄る予定です)
ゆる~く右カーブしながら神流川の堤へ上って橋を渡ります。
橋のたもとに今は大光寺に移設された、見透燈籠の小さめのレプリカ灯篭が
設置されています。
本庄宿側の石灯篭は、豪農本庄宿名主の三代目戸谷半兵衛門が、新町の石灯篭と
同じ文化十二年(1815年)に建立したもので、夜でも見通せて渡れたことから
[見透灯籠]と呼ばれたそうです。
ここが本庄宿でアップした、栄泉画、本庄宿ですね。
遠くに榛名連山が望めます。
天正10年(1582)滝川一益と北条氏邦・氏直が戦い、両軍が川を挟んで
対峙していた神流川古戦場。
こちら側が北条軍の陣地だったのかな。
国道17号で神流川橋を渡ります。
歩道の幅が狭いのに自転車の通行が多く、チリリーンと警告されぱなし。
(雑記)
神流川は暴れ川で出水の度に川筋を変え、伝馬や旅人を悩ませたそうです。
仮板橋と渡渉、水嵩の多いときは舟渡だったようですね。
神流川は上州・群馬、武州・埼玉、甲州・山梨の国境の三国山北麓に源を発し、
ここから右手下流1km余で烏川に合流し、さらに1km余で利根川に合流してます。
(当然、現在も埼玉、群馬の県境)
赤城や榛名の上州の山々や御荷鉾山など、晴れた日には眺めのいいとこですね。
神流川の最上流の上野村を過ぎ、源流近くの山に、あの御巣鷹山があります。
川はここから10km位上流流から奥は渓谷になっていて、途中には神流ダムが
あり、鬼石や城峰山の冬桜、また渓谷や支流には数々の滝、そして見事な氷瀑と
なる早滝など、私たち何度かドライブで訪れてました。
(氷瀑の早滝)
神流川橋は新橋設置工事中。
渡り終えると群馬県高崎市で、国道17号で日本橋より、94kmです。
11月12日PM3:24、上野国上州へ入りました
寄ってませんが、堤防の最初の信号を左後方へ少し戻ると、本来の仮橋や舟渡で
右手に上野国側、滝川軍の神流川古戦場跡。自衛隊敷地の脇にひっそりと建ってました。
おっ、これ何?交通見張り塔??
少し先でR17に「旧中山道→」と標識があり右手県131に進みます。
R17と旧道の間に中山道新町宿碑&再建された見通灯篭(常夜燈)が建っている。
灯篭は文化12年(1815年)新町宿の浄財で建立されたが、なんと明治期に
売却され、今は高崎市の大八木諏訪神社に置かれているそうです。
近年になって、新町側では元に戻してもらう交渉をしたもののうまくいかず、
昭和53年(1978)に再建したとか。(戻れないのはなぜ??)
ここからが上野国最初の宿、新町宿の入口(東の木戸口かな)です。
新町宿は、中山道で最も遅く成立した宿で、江戸から11番目の宿ですね。
天保14年(1843年)の『中山道宿村大概帳』によれば、
家数は407軒、うち本陣2軒、脇本陣1軒、旅籠43軒で宿内人口は1,473人。
先の交差点を渡ると右手に八坂神社です。
鳥居脇に柳の大木があって、茶屋は柳茶屋と呼ばれ、柳にちなんだ芭蕉の句碑が
あります。「傘におしわけ見たる柳かな 翁」 芭蕉の句碑は本当に多いですね。
東海道でもそうでしたが、旧所名跡やお寺などで幾つ句碑に出会ったかわかりません。街道旅をされてる方の中には、旅の主題を芭蕉の句碑に出会うことにしてる方も
多いようです。ここの句碑は、地元の俳人が柳にちなむ芭蕉の句を選び、
天保10年(1839)頃建てたのだとか。
そして今旅人に大人気?なのが芭蕉句碑の後ろ滑り台に、これ、な~んだ!
おおトカゲという説が多いですが、カミさんは恐竜じゃない?て。
先ほど渡ってきた神流川源流、上野村付近は化石が沢山発見された「恐竜の里」
で、恐竜館もあるんです。
でも子供が遊ぶ滑り台にリアル過ぎるのなぜ?
八坂神社から100mほど先を右手の道に入ります。
左手に諏訪神社。 創建は天正年間(1573~1593)に諏訪大明神の分霊を
勧請したのが始まりと伝えられています。
当初は笛木村の鎮守として鎮座していましたが宝永5年(1708)に現在地に
遷座しています。その後も火災がありましたが、都度再建された由。
昔の石鳥居は元禄15年(1702)製で、老朽化のため境内の裏に埋めてある?
(のではなく、上の部分だけが残したんでしょうね)
隣が真言宗智山派専福寺。万治3年(1660)に開山した寺院です。
推定樹齢300年の"くす"や"かや"、江戸時代の年号の銘がある庚申塔や馬頭観音、
供養塔があり歴史の古さを感じます。
さらに隣が浄泉寺。天正2年(1574)に開山した寺院です。
境内にある大銀杏は推定樹齢400年、樹高25m、幹周5.2mある大木で
昭和55年(1980)に高崎市指定天然記念物に指定されています。
新町郵便局前で信号をわたって県178と変わり、右手の住宅門扉内に、高札場標識があります。この場所はかつての落合村と苗木村の境界だった場所。
すぐ先公園奥に、明治天皇新町行在所。明治11年8月から11月にかけて、
北陸・東海地域の御巡幸され、新町に宿泊された施設がこの行在所です。
この行在所は御巡幸にあわせて新築したもので、明治12年(1872)には
英照皇太后(考明天皇の皇后:明治天皇の御母君)の伊香保行啓の際も宿泊で
利用しています。現在は行在所公園として周辺が整備されています。
さらに奥に進むと、於菊稲荷神社で、本殿は新築中でした。
社伝、
創建は天正10年(1582)、北条氏政と滝川一益との間に神流川合戦が起こり、
氏政は守護神である稲荷大明神に戦勝祈願をしたところ、白いキツネが現れ見事
北条側が勝利しました。御神徳に感謝しこの地に稲荷大明神の分霊を勧請、
社殿を建立したのが始まりと伝えられています。
宝暦年間(1751~1763)頃には、新町宿の大黒屋の娼妓於菊が、
稲荷神社の境内に小屋を建て3年間、病気快癒の祈願をしていた所、
夢枕に稲荷大明神が立ち、今後人の為に尽くすことを条件に病気を治していただく。
病気が治った於菊は不思議なことに霊力が付き、未来の事が予見出きるようになり、
そのまま神社の巫女となり多くの人達の相談を受けるようになりました。
その話は広がり、近隣、遠方から多くの参拝者が訪れいつしか於菊稲荷神社と
呼ぶようになったそうです。
街道に戻り100mほど行くと、新町駅入口交差点。
日がすっかり傾き夕景になってきました。
日本橋から約24里(約97km)
PM4:15、 上野国入り初日はここで足止めとし、新町駅へ向かいます。
元気なうちに、歩ける内に と旅は続きます。
旅の出会い花