歩いて再び京の都へ 旧中山道夫婦旅 (第11回) 高崎宿~安中宿入口へ 後編

12月2日、中山道、高崎宿を後に旅は続きます。

橋の手前から左へ少し戻り、横切る国道17号高架下を回り込んで、
君が代橋を渡ります。

高崎市役所展望所21階からの君が代橋)

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君が代橋から国道18号豊岡バイパスとなる橋を渡ります。

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橋を渡り終えて左手の階段を戻るように下り、橋下をくぐって右手に回ります。

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回って橋の右手に抜けると、そこに萬日堂があります。

元は旧道の南側にあったけど、国道18号の拡幅工事、君が代橋の改良工事ため

昭和56年現在地に移され落慶法要されたお堂です。

ご本尊はみかえり阿弥陀像。「おもしろひ夢見る顔や涅槃像」と刻まれた

白井鳥酔句碑が市指定重要文化財

阿弥陀仏像はパンフより拝借)

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街道は橋の袂から18号と分岐し、右手に国406へ進みます。

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碓氷川と烏川にはさまれた豊岡地区はだるまの里。

だるま製造をしている民家やお店が点々と見受けます。

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高崎といえば「だるま」。この豊岡が発祥の地だったんですね。

達磨製造組合HPより、

http://www.takasakidaruma.net/history01.html

 

国道406を進み右手に石神社。

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下豊岡西交差点で、左手に県26号を分けた先に大きな食品スーパーがあり、

足休めを兼ねてランチタイムに。

近年はスーパーやコンビニにイートインコーナーが有るので便利ですね。

店内パン工房で購入し、100円コーヒーで昼食。

旅でよくやる定番スタイルです。チーズ系が多いかな。

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再び道を進むと、また二股になり中山道は国406と別れ、左の道へ向かいます。

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分岐には、自然石の道しるべ。

道標には「右 はるなみち/くさつみち」と刻まれている。

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10m位先、左に祠だけの八坂神社、そして市指定重要文化財の下豊岡の道しるべ。

正面に「榛名山/草津温泉 かわなか/かわらゆ/はとのゆ 温泉」、

右面に「従是 神山三里/三ノ倉五り半/大戸九り半」、

左面に「左中山道 安中/松井田/横川」と刻まれている。

 

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解説板によれば、往時は八坂神社のあるこの場所が信州道の追分だった。

そういえば、東海道五十三次膝栗毛の弥次さん喜多さんも、帰りに善光寺へ行き、

帰りに草津温泉いて疲れを癒したから、江戸への帰りはここを通ってるんだ!

なんて、面白いですね。

国道406と別れ街道は分岐を左に進みます。

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左手に、永承6年(1051年)奥州の安倍氏鎮圧に向う源頼義・義家父子が

戦勝祈願のために建立したという若宮八幡宮

ご由緒に寛文2年幕府代官が社殿の大改修を行ったとあります。

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この一帯は高崎宿と板鼻宿のほぼ中間に位置し、若宮の立場があった様子。

八幡宮から街道に出ると、上豊岡の茶屋本陣への標識が建ってます。

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しばらく民家の連なる街道を進みます。

右手奥に立ち寄りしませんでしたが、武田家の家臣で、豊岡領主・祢津政直が

慶長元年(1596年)創建した常安寺が見えてます。

本堂は平成19年に改築されてるそうです。

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自然石の庚申塔や達磨製造所など見ながら足を進めると、茶屋本陣の案内標識が

見えてきます。

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左手に飯野茶屋本陣跡で県指定史跡。大名や日光例幣使の休憩用に使われていた。

敷地内に今もお住いの様子でした。

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右手に石仏石塔群。昔からあったのか、道路改修などでここに集めたのか不明。

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左手に不動明王を祀る金ヶ崎不動尊の印標識で道路側はお堂の裏。

お不動さんは堂内が暗くて見えません。

狭い境内に道祖神庚申塔の建ってます。

 

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右手に瓦葺きの屋根で、吹き抜けが2つ出ている独特の「上州の櫓づくり」という

大きな民家がありました。養蚕農家だったのでしょうね。

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その先で中山道は右にうねった細い道へ入り、上豊岡交差点から国道18号に

接します。

f:id:hansui:20161206163052j:plain一旦右に曲がって18号から北へ延びる高崎環状道路を横断、垣根の草むらの中に

辛うじて読める馬頭観音、先の湾曲道を進み国18号に接します。

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18号の左手は碓氷川が流れています。地は豊岡から藤塚町になりました。

右手に赤い鳥居の浅間神社は藤塚の北の一里塚跡。18号の道路拡張に伴いここに

移設され、地名の藤塚の由来となった富士塚と呼ばれているそうです。

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そして国道18号を挟んだ向かい南側に、江戸から28番目の藤塚一里塚。

18号を横断できないため、浅間神社からパチリ。

群馬県内で現存する唯一の一里塚で、塚の上には樹齢400年といわれるムクノキが

茂っている。県指定史跡。

(慶長9年(1604年)年 に大久保長安が築いたという説があるようです) 

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この辺の旧中山道は街道案内書によって、国18号南側の碓氷川土手道と北側の

18号側道と解説がまちまちです。

季節によっては土手道のほうがいい気分かな。

まばらに民家や工場などが続く道。

おっ、大根干し!懐かしいね、鰊漬け沢庵漬け、子供のころ手伝いさせられたけ。

ベランダで干して鰊漬けを作ったこと有ったわよ、なんて大根談義。

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浅間神社から5分ほど右手に天照皇大神宮。立ててある由緒書を見なかったので

謂れは不明、伊勢からの御分霊を奉遷?

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ここから約1・3km位、18号を横断し碓氷川を鼻高橋で渡って行くと、

高崎名物縁起だるま発祥の地:達磨寺がありますが、今回は寄りません。

次回の時に寄り道したいと思ってます。(土手へ上がる歩道橋より)

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200mほど行くと八幡大門交差点に朱色の大鳥居。

八幡宮」の額の文字は弁慶が書いたと伝えられているが、

あっ、「八幡宮」の扁額が無い!(塗装補修かな?)

上野国一社八幡宮の鳥居で、本殿は先のJR信越本線をこえて700m向こう。

長い参道は八幡大門通り、地名は八幡町。

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参道へ足を進めます。

右に小学校、中学校。やっぱり「挨拶」大事ですよね・・・・。

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信越線を渡ります。

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踏切を渡るとやっと境内の丘が見えてきます。

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麓に神門があり、神門の前には「上野國一社八幡宮」と刻まれた社号標。

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う~ん、擦れて読めないね・・・

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たぶん、

「八幡の八幡宮(やはたのはちまんさま)

天徳元年(957)山城国の岩清水八幡宮を勧請しての創建。

源頼義、義家父子が前九年の役(1051年)で東北に向かう途中に戦勝祈願をし、

大役を果たすことができたので社殿を寄進した。

その後も、源頼朝新田義貞武田信玄などが信仰するなど、清和源氏一族の崇拝を

受けてきた。

江戸時代には三代将軍徳川家光から社領100石の朱印地を与えられた。

通称は八幡〔やわた〕の八幡〔はちまん〕様である。

1754年から復活した「太々神楽〔だいだいかぐら〕」は市の重要無形文化財

指定されている。」

 

石段を登ると隋神門が建っている。

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狛犬がいない境内に、慶応3年(1867)に奉納された、市指定重要文化財の唐銅燈籠。

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本殿・幣殿・拝殿などの社殿も市指定重要文化財で、本殿は宝暦7年(1757)に新築されたもの。

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ほかにも、県指定重要文化財の算額、市指定重要文化財の胴丸、市指定重要無形民俗文化財太々神楽(だいだいかぐら)などがあるそうです。

長い参道を中山道に戻ります。

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街道(国18号)に戻って八幡大門交差点を過ぎると高崎市から安中市板鼻地区入り。

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さらに国道を西へ進むと、 板鼻東の信号の先、板鼻堰(用水路)石橋があり、

脇に寒念仏(かねつ)橋供養塔が建っている。

板鼻宿の念仏講中が、寒中に念仏を唱えて回って得た浄財を、石橋を架ける費用に

充て、 その後破損したため享和二(1802)年、木嶋七郎左衛門がさらに改修し、

供養記念塔を建てた。

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交通量の多い国18号側道をたんたんと進みます。木柱道標が次の板鼻宿、1km。

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 板鼻下町交差点で国道は左カーブするけど、旧道は右折へねじ曲げられて旧道は県道137号となる。

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中山道(県137)に入ると先に板鼻堰に架かる板鼻川橋が見えてきます。

橋そばに女神が瓢、男神が盃を持ち仲睦まじく肩を寄せ合っている、双体道祖心神

台座に街道の路程表が書かれいるというが摩滅していてよく見えない。

ここが英泉描く「板鼻宿」と言われてます。

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橋を越えると左の工場の一角軒下に、年代不詳ですが庚申塔やお地蔵さん。

う~ん、いいですね・・きっと古くから祀られ、大事にされてきたんですね。

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第九中仙道踏切を渡ると板鼻二丁目交差点で、踏切手前が見附跡、板鼻宿入口。

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板鼻宿は江戸から24番目、日本橋より28里24町40間(112.7km)。

天保14年(1843年)中山道宿村大概帳によれば、

本陣1、脇本陣1旅籠は54件、宿内人口1422人。

堅苦しい城下町の高崎宿を避けた旅人で大いに賑わい、茶店や商店も多数あり

上州・中山道7宿の中では最大規模の宿場で、幕末には幕府直轄地となった。

今は静かな、ちょっぴり宿場の面影の残る街並みへ足を進めます。

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板鼻2丁目交差点は榛名道の追分で板鼻宿木柱と、電柱側に文政13年(1830)建立の

石造りの八幡榛名道道標が建っている。

正面に「やはたみち」、右面に「はるな くさつ いかほ・川原湯 かねこ・澤たり

しぶ川 みち」と刻まれている。

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ここから街道標識は県137から県10号になりました。

先を左手に入ると、古い歴史を持ち代用本陣をも勤めた曹洞宗長伝寺。

およそ450年前(天文年間中期)に、安中市後閑の長源寺の九世為景春和和尚が

八幡宮高崎市)境内に開基し、後に板鼻に移転再建されました。

火災に遭いましたが、慶応4年(1868)に再建された寺院でした。

本堂内に入れませんでしたが、゛彫刻の寺″とも呼ばれる木造装飾彫刻は、

日光造営彫物師の流れをくむ工匠が、十数年かけて完成させたそうです。

 

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街道に戻り右手に手に、天保年間(1830~44)には旅籠として営業していた、

旧旅籠角菱屋跡に四代続く「かつ丼の老舗、板鼻館茶屋」

うん、なぜ、かつ丼?? 資料を見たらTVでも紹介されたとか。

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板鼻館左手路地奥に県26号を越えて、天台宗称名寺

本堂より高く堂々とそびえる梵鐘は、郷土鋳物師・金井兵部重久が宝永5年(1708)

に鋳造したもので戦時中の供出からも免れた。

板鼻城陣屋門を移築の裏門がある。

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板鼻宿信濃との境で武将や軍勢が良く往来したところだったそうです。

称名寺裏手には源義経伝説にまつわる、伊勢三郎屋敷があったという説が

ありました。

路地を戻り板鼻宿交差点の手前に、敷地504坪、門構え玄関付き建物の

福田脇本陣があったそうですが標識識もなく、資料からこの辺んかな?。

昭和20頃の大型台風で倒壊したとの説があります。

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板鼻宿信号を過ぎて右手に板鼻公民館が建つところが、先の寒念仏橋供養塔を建てた、板鼻宿の木島家本陣跡。 

公民館裏手に、皇女和宮が降嫁のため江戸へ向う途中宿泊した木島家本陣の書院を

移設した皇女和宮資料館があるが、閉まってる!(写すの忘れてしまった)

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隣にあるのが江戸末期に建てられた、ちょと変わった土蔵造りの

旧てうちん屋(ちょうちん)。屋根が二層の構造に見える。

(写した写真がピンボケで、拝借写真です)

 戸が土で出来ていて、昔は火事の時隙間に味噌を塗り防火したという。

今は使用されていないそうです。

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斜め前の駐車場になってるところが、牛宿跡であると資料にあるが、

空き地と公園になっている。

資料にには牛宿に道祖神があったと記されていて、公園の一角に道祖神が有るので、

どうも公園が牛宿跡のよう。 

牛宿とは荷物の継ぎ立て所の役割を果したもので、荷役の牛と牛方が宿泊した宿。

裏手には牛小屋があったという。一つ屋根の下じゃなかったのですね。

(もっとも荷役の馬や馬役人なども泊まったとか)

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*牛宿て、信州白馬付近で見たけれど、ここの牛宿とは違うわね、

てカミさんが思い出してました。

そうでした、信州白馬山麓小谷、白馬、大町で、日本海側から信州、甲州方面へ塩を

運んだ旧街道を歩く塩の道祭が5月に3日間開催されます。

数年前に小谷村の祭りに初めて参加、歩いたことがありました。

途中に牛方と荷を背に運ぶ牛が、こちらは一緒に泊まる「牛宿」があったんです。

アルバムに残してありました、懐かしいね~

 

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公園(牛宿跡?)の先から右手山側を通る県171号( 旧国道18号)への道へ

入りました。

途中に住宅街の中を、とうとうと流れる板鼻堰(用水路 )が見られます。

板鼻堰は慶長中期から後期に開窄され、鷹巣山麓の堰口から碓氷、九十九両川の水を取り入れ、安中東部と高崎西部に配水し烏川に流している延べ15kmに及ぶ用水で、

4百年前から水が流れ続けているんですね。
各家に引き込まれているので、昔は野菜などを洗ったり洗濯したりと、生活に使われていたそうです。

あの英泉が描いた板鼻宿画の流れも、この堰の下流だったんです。

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坂道になり上って行くと石段脇に大きな庚申塔が2基あり、左の塔には二匹の猿が彫られてます。猿は庚申の使いでしたね。

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石段の先は県道を挟んで南窓寺への登り参道で山門が見えてます。

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現在上毛三山パノラマ街道とも呼ばれる、県171号(旧国道18号)へ出ました。

群馬県内にある赤城山榛名山妙義山の3つの山を結ぶ道でした。

赤城、榛名は後方になり、妙義山が左手に見え隠れしています。

三山とも登ったことがあります。もっとも妙義山は中腹の横歩きでしたけど。

立ち寄りしませんでしたが、南窓禅寺には江戸後期、伊能忠敬のもとで

測量・天文学を学び、伊能図作成のための測量隊にも参加した和算家・小野良佐栄重

のお墓あるそうです。

また、南窓禅寺の小高い山は永禄年間(1567年頃)武田信玄が上州攻略時の

鷹ノ巣(板鼻)城址ともいわれてます。

街道に戻らず県道をそのまま合流地点まで進みます。

前方に逆光ですが、妙義山が名のとおり妙な姿を見せてます。

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先で宿内からの道と合さり、街道は碓氷川を鷹之巣橋で渡り、安中へと続きます。

橋手前の宿からの道右手、に鷹之巣神社入口碑と依田六郎なにがし・・と書かれた

石柱が建ち、その脇には常夜燈や御神燈などが立ってます。

歩いて来た県道右手の奥の山の途中に、慶長19年(1614年)以前の創建と

言われる板鼻の鎮守、鷹巣神社があるそうで、参道が国道に分断され、一部だけ

残っているようです。

依田六郎は信玄の家臣、鷹巣城の城主でした。

資料がありませんが、板鼻宿京口はこの付近だったのか・・・?

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中山道は県171と一緒になり碓氷川を鷹之巣橋で渡ってゆきます。

江戸時代は50mほど上流側で、夏は徒歩渡し、冬場は仮橋が架けられていた。

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写真 左上・板鼻宿方面 下・上流側、紅葉メタセコイアのところはクレー射撃

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橋を渡ると中宿交差点。

左手に、創建は安土桃山時代天正年間(1573~1591)と言われる、安中中宿の鎮守

諏訪神社。(諏訪大社を勧請を受けた神社でしょうね)

国指定重要民俗文化財・中宿糸操燈篭人形芝居が、保存会により神社祭礼に上演されるそうです。

明治天皇が北陸東海巡幸の際に休まれたという石柱と、大きな腰かけ石もあります。

町内子供会でしょうか、大勢の子と大人が境内の掃除をしてました。

都会では見かけなくなった風情ですね。

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*中宿糸操燈籠人形芝居*

明暦2・3年(1656・1657年)頃、始められたと言われる。昭和52年(1977)に国指定重要無形民俗文化財に指定された。燈籠人形は竹と和紙によって作られ、ロウと絵の具で描くものであるから、上演の度に新たに作られる。人形の胴体は中空で内部に回転するカンテラをつける。演目は4つあり、「三番叟」、「俵小僧の力自慢」、「曲馬かご抜け」、「安珍清姫」である。人形は1体16~9本の糸で操られる。人形に取り付けられた糸は舞台の天井に取り付けられた框の穴を通して下げて、舞台の「奈落」にいる操り手によって操られる。平成12年度には「中宿糸操燈籠人形展示館」が完成し、中宿糸操燈籠人形保存会によって管理されている。(安中市HPより)

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奥隣に鎌倉時代前期 寛喜3年(1231)栄朝禅師の創建と伝えられる、

臨済宗の開祖栄西の高弟、栄朝の開山の蓮華寺があります。

境内開山堂に祀られている栄朝禅師木像が、県指定重要文化財

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中宿交差点に戻り県171を横断して進むと突き当りで旧中山道に復帰します。

突き当りを右へ少し戻ると木柱の中山道道標、奥つき当り付近が中宿側の渡河地点。

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民家が点在する中の改装したような蔵のところに、江戸から29番目の中宿一里塚の

標識がありました。

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街道は車の往来も少なく、静かな(寂しい?)たたずまい。

左手に蔵を改装した新しい感じの公民館がありました。

400年余の歴史を持つ、大河原家が市に寄贈した、との石碑がありました。

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すぐ先に、享和2年(1802年)建立と言われる、庚申道標。

街道面の庚申塔、左面に「従是 一宮 大日 街道」と刻まれている。

一宮、大日はどちらも富岡市にあるのでここが追分でもあったのですね。

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100mほど先で道は二手に分岐し、右手にゆくと旧道は碓氷川の丸石の石垣堤防に

当たり街道は消滅です。

昔は中州を挟んで仮橋や渡渉碓氷川を越えました。

写真右、石積み土手側の木柱道標には、安中、1.2kmとあります。

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今様中山道は、寛政10年(1802年)建立の馬頭観音道祖神のところから

土手沿いにゆるく左曲がり。

 

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曲がった先で街道は土手から左へ入り、國道18号へ出る手前十字路を右に曲がり、

久芳橋を渡って安中宿へとゆきますが・・・・(写真右、久芳橋へ)

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今日の旅は直進し国道18号を横断して、突き当りの安中駅で足止めします。

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12月2日(土)PM4:00、JR信越線・安中駅で、高崎宿から約11km、

中山道歩き旅第11回目の足止め。

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日本橋から14番目、板鼻宿を通過、上野国(上州群馬)も、安中、松井田、坂本

約20km強を残すのみとなりました。

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JR信越線で高崎へ戻り、関越高速道を走ってPM6:40、旅を終えました。

 

雪の来る前に、碓氷峠口、坂本宿へたどり着けるでしょうか・・・・・

旅は続きます。