歩いて再び京の都へ 旧中山道夫婦旅   (第14回)   碓氷峠頂上~沓掛 前編

*ひょいと歩き出した東海道五十三次
途中で、断念かの肝臓癌をなんとか乗り越えて、京の三条大橋へ到着。
勢いをかって「歩いて再び京の都へ」と乗り出した中山道六十九次。
またまた腹部大動脈瘤、心臓動脈硬化、そしておまけに腹部ヘルニア。
挫折しそうになりながらも、カミさんの支えもあって、またまた乗り越え
旅の再開。
そんな、じじばば道中ブログです。*

 

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(坂本宿~軽井沢宿に立ちはだかる碓氷峠は、いつの日にかはチャレンジ)

 

思いがけなく病で中断した、旧中山道歩き旅。

思い切って連続継ぎ旅は、吹っ切って

「夫婦で楽しむ歩き旅」で再開。

2017年9月10日、思い立ったが吉日とマイカーを走らせ

AM8:30、信濃国(長野県)軽井沢へ。

駅近くの駐車場へ車を置いて、碓氷峠頂上にある熊野神社へ行く

軽井沢赤バスの乗り場へ。

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軽井沢の静かな森を走る通称「赤バス
万平ホテル・旧軽井沢を経由して旧中仙道(明治天皇巡行時整備)を登り、

碓氷峠頂上熊野神社、「見晴台」まで走行している季節限定の路線バスです。

バスは9時ちょうどに走り出し、20分ほで標高1200m近く、

碓氷峠熊野神社前到着。

本来なら峠下の坂本宿から山を登って、この碓氷峠頂上へだった。

(右の山道を下れば群馬・坂本宿)登ってきたつもり・・・

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碓氷峠頂上は上野国(群馬)信濃国(長野)の国境。

頂上には熊野神社が祀られており、、碓氷峠を通った諸大名が必ず参拝に

立ち寄ったと言われます。

熊野神社を参拝して再開の旅、スタートです。

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鳥居の両脇の一対の狛犬(こまいぬ)」は、なかなか愛嬌のある顔をしています。

長野県内で1番古く、室町時代中期(1400年頃)に造られたそうです。、

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神社は上野国群馬県)と信濃国(長野県)の国境上に建っており、

参道と本宮の中央が国(県)境。

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社宮は3つあり、

本宮は伊邪那美命(いざなみのみこと)、日本武尊(やまとたけるのみこと)。

長野県側の那智宮は事解男命(ことさかのおのみこと)、

群馬県側の新宮は速玉男命(はやたまおのみこと)。

あれっ!本宮のお採算箱や鈴が二つ有る。

そうなんですね、本宮も国(県)境上に有り、大戦後に宗教法人法によって、

ひとつの神社でありながら県境を挟んで、長野県側が熊野皇大神社

群馬県側が熊野神社という別々の宗教法人となったためだそうです。

今日は信濃国入りのスタート。

碓氷峠の登りをまだしてないので、上野国群馬県)はまだ完歩してないため、

長野県側、熊野皇大神社をお参り。

いつの日か碓氷峠を登って群馬県側、熊野神社へもお参りできるよう願いました。

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参拝を済ませ、街道へ出た神社対面には「元祖力餅 しげの屋」。
地面に引かれた赤いラインが県境で店の中も通っているそうです。

お嬢さんたちが、いえ~!と県境をまたいでお遊びショット。

ははは若いっていいですね~

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熊野神社から下ってすぐ左手に「見晴らし台」の案内板があり、寄り道。

見晴らし台にも県境のモニュメントが建っていて、目の前に群馬の奇峰

妙義山(裏妙義)、右手奥に山頂に雲をかぶった浅間山の絶景。

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碓氷峠から軽井沢へ下るのには、3本の道が有りました。

明治11年(1878年)9月の明治天皇の北陸東海御巡幸の際に開削された、

県道133号旧軽井沢軽井沢停車場線(赤バスが走った車道)。

最近作られた見晴台入口から下る遊歩道。

そして、谷底に下りていく感じで谷間を通る“旧中山道

神社から下って突き当りに駐車場が有り、県道は右へ曲って下って行き、

駐車場左手、石積脇を下る細い踏み跡が旧中山道

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すぐに一旦車道にで、少し右手に車道を戻ったところのガードの切れ目から

再び谷間を通り、谷底に下りていく感じで“旧中山道”を進みます。

長い間忘れ去られた街道だったんでしょうね。
近年になり、今旅人が歩いただろう踏み跡で、辛うじて道が保たれててる感じです

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崩れかけた急勾配の道を降りていきます。

3か所ほどの小さな「中山道」の木道標が、辛うじてこの道が旧中山道であると

確認し下ります。 

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ロープ下りも二か所

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30分ほど下ると道が広くなって、周辺は別荘地帯に入ってきます。

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さらにしばらく下ると峠からの舗装車道に出、遊歩道も合流して、

矢ヶ崎川に架かる「二手橋」に着きました。

軽井沢宿の飯盛女が客をここまで見送り、東西に別れたことから「二手橋」

この橋を渡った先からが、信濃国(長野)最初の宿場である軽井沢宿。

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浅間の火山岩でしょうか、「上信越高原国立公園 碓氷峠」の大きな石碑があり、

瀟洒なトイレもあって小休憩。

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二手橋までは多くの観光客も足を伸ばしてくるようです。

橋を渡って旧中山道、18番目の軽井沢宿へと入って行きます。

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天保14年(1843年)の記録によると、軽井沢宿の人口は451人、家数は119軒、

本陣1、脇本陣4、旅籠21軒。

中山道有数の難所、碓氷峠の西の入口にあたり、峠越えを控えた旅人で

たいそう賑わった宿場だったのだそうで、最盛期には100軒近くの旅籠があったと言われてます。(街道浮世絵はなぜか、寂しい感じ)

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急に人が多くなり二手橋を渡ったすぐ右手に、

アレキサンダー・クロフト・ショーの胸像と教会が建っています。

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明治17年(1884年)に碓氷新道(現在の国道18号線)が開通すると、

宿は急速に衰退してゆきます。

明治19年(1886年)、布教の途中で偶然軽井沢を通りがかった、

英国国教会の宣教師、アレキサンダー・クロフト・ショーと友人。

彼等は軽井沢の涼しい自然環境に、祖国の風景を思い出し感動し、

既に休業状態に陥っていた旅籠『亀屋』を訪れて、ひと夏滞在しました。

アレキサンダー軽井沢のことを大変気に入ったようで、その後も毎年夏には

避暑に訪れるようになり、明治21年(1888年)には別荘を建て、

友人や日本の知識人達に絶好の保養地であるとアピール。

そして外国人、財界、文人、芸術家達の別荘が増え、西洋文化の香り漂う

高級別荘地・軽井沢の形が作られたようです。

旅籠『亀屋』の主人、万平は明治27年(1894年)、旅籠の一部を洋風に改装し、

『亀屋ホテル』となり、さらに、その翌年の明治28年(1895年)、

良く知られた「万平ホテル」と名称を改め、今に至っています。

(拝借写真、万平ホテル)

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 二手橋を渡るとすぐに松尾芭蕉の句碑が有り、その先に文人が滞在したことで

知られる、江戸時代初期の創業の旅籠「鶴屋」(現つるや旅館)があります。

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このあたりから軽井沢宿の中心部、現在は「旧軽井沢銀座(旧軽銀座)」と称し、

休日には多くの人が足を運ぶ、お洒落な観光散策街となっていて、

宿場時代の面影は、全く感じることは有りませんね。

新しい洒脱な街造りが最優先されたようで、史蹟旧跡の案内解説板などは全く

見ることは有りません。

観光会館でいただいた街案内図にも宿場時代の案内は全く記載なし。

街道の旅人としては、ちょっぴり寂しいですね。

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かろうじて、「脇本陣 江戸屋」と、軽井沢宿らしく“脇本陣”の名称の付いた

カフェが小路奥にありました。江戸時代は脇本陣が有ったのかな。

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日曜とあって銀座通りは大変な人の波。

人気店なのか、何軒かの店先は人が列を作ってます。

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先へ3~4分行くと、三笠通りとの交差点で軽井沢の宿場(旧軽井沢銀座)も

終わります。

江戸時代にはここに、クランクのように直角に折れ曲がった

「京側枡形道」があったそうです。

左へ進めば20分くらいで軽井沢駅

中山道は右手の道へと進みます。

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時刻はお昼少し前。

有名店なんでしょうね~・・長蛇の待ち人々。

蕎麦屋でした)

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朝が高速のPAで持参のカップ蕎麦を食したので、

側にあったお店で、パンで昼食、足休め。

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二手橋へ着いた頃から、左足中指に軽い痛みを感じてました。

念のため持参の絆創膏でテーピング。

軽井沢は何回か訪れたり通ったりてますが、中軽井沢、南軽井沢方面ばかりで、

軽井沢駅旧軽井沢銀座方面へ来たのは初めてでした。

続きます・・・