*ひょいと歩き出した東海道五十三次。
途中で、断念かの肝臓癌をなんとか乗り越えて、京の三条大橋へ到着。
勢いをかって「歩いて再び京の都へ」と乗り出した中山道六十九次。
またまた腹部大動脈瘤、心臓動脈硬化、そしておまけに腹部ヘルニア。
挫折しそうになりながらも、カミさんの支えもあって、またまた乗り越え
旅の再開。
そんな、じじばば道中ブログです。*
9月19日(火)再び街道旅へ。
(中編)
国道18号の最高地点(1003m)の標識を過ぎ、右へ分岐する道に入ると
北国街道との分岐点(分去れ)追分宿。
信州・善光寺を経て直江津で北陸道に合流する、北国街道との分岐点(追分)で、
「追分宿」の名はこれに由来する。
(追分けという地名は全国に見られますが、最初にこの地名が生まれたのは
信濃追分という説があるそうです)
追分宿は中山道と北国街道の分岐点であり、下仁田街道(姫街道)をはじめ、
入山道、大笹道、日影新道などの中馬道があつまる交通の要衝として、
この地域の宿場町の中ではもっとも賑わいました。
天保14年(1843)の中山道宿村大慨帳によれば、
町並み東西5町42間、家数103・人数712(内男263・女449)、
本陣1、脇本陣3、旅籠屋35・問屋1とある。
実に103戸の家数のうち35軒が旅籠屋で、しかも200人の飯盛女を
抱えていたそうで、圧倒的に女性の多い宿場だったそうです。
また、追分節の発祥の地でもあるんですね。
国道18号からの分岐を入ると、すぐに追分郷土館や浅間神社がある。
18号から少し入ると左手に広い追分宿駐車場が有り、
右手の木立の道を上ると追分郷土資料館が有ります。
ここは、追分節発祥地であり、江差追分”や“越後追分”もこの付近で唄われていた
歌詞や節を変えて伝わったものだそうです。
正調追分節が聞けるそうですが休館日でした、残ね~ん。
郷土資料館左手には浅間神社が祀られてます。
江戸時代には「すは大明神」と呼ばれていました。
本殿は室町時代に建てられたもので、木造建築としては軽井沢町内で最古のもの
とのことですが、社殿の中に収められているため、見ることはできません。
普通、「浅間神社」と書くと「せんげんじんじゃ」と読み、
木花開耶姫命を御祭神とした、富士山本宮浅間大社(静岡県富士宮市)を総本社と
していますが、この「浅間神社」は「あさまじんじゃ」と読み、大山祇神と磐長姫神を御祭神としています。
書によれば「あさま」は火山を示す古語とされ、富士山の神を祀る神社が
「浅間(センゲン)神社」と呼ばれるのも、同様の理由のようです。
浅間神社の後ろには浅間山の地震や噴煙を観測し、火山活動情報を全国に発信している気象庁軽井沢測候所があるんだそうです。
境内には 追分節の発祥地の石碑が立っています。
「浅間山さん なぜ焼けしゃんす 裾に三宿 もちながら」
「追分ます形の茶屋で ほろと泣いたが忘らりょか」
解説によると、
この馬子唄が飯盛女の弾く三味線の音色と相まって洗練され、座敷歌となって
北国街道を北上して各地に広まり、越後に入り越後追分として船頭歌になり、
さらに酒田追分、新庄追分を経て蝦夷地に渡り、江差追分になった
とされています」
江差追分は故郷の民謡ですが、子供のころはのど自慢の民謡と言えば「江差追分」で
ラジオからよく流れていたのを思い出します。
不思議なもんですね、初老になってからかな、
なんとも言えない江差追分の良さを、ちょっぴり感じるようになりましたね。
カミさんの父親が民謡の名取で、江差追分を得意としていたので、
「ほろ酔い上機嫌の時によく聞かされたね~・・」て、二人で思い出話・・
芭蕉句碑もあります。
「吹き飛ばす 石も浅間の 野分(のわけ)哉」
浅間神社を出てすぐのところに常夜灯が立っていて、その先で昇進川に架かる
昇進橋を渡った先が追分宿の中心部になります。
旧中山道は西へ向かいます。石畳の道に整備されていて歩きやすく、
趣きもある道になっています。
バス停のところに本の入った、こんな箱が有ります。
「夢の箱」
どうも本を保管して待ち時間に読めるようにしているようです。
なるほど、バスは日に何本もないからね。
3か所ほどにありましたね。
橋を渡って少し行くと左手に大きな門が有りました。
この門は堀辰雄文学記念館の入り口の門です。
この門は以前は追分宿本陣の裏門で移築されてます。
追分宿は文士の別荘地として人気があったところで、
堀辰雄も、大正末期から昭和の中期までの約30年間ここに住み着き、
美しい村、風立ちぬ、などの作品を書いたそうです。
記念館のちょうど向かいに、元脇本陣で旅籠 油屋だった
旅籠 油屋は道の向かい側にあったのですが、昭和12年(1932年)の
火事で現在の場所に移動したものです。
明治の文豪 川端康成や堀辰夫らが愛した宿として知られている。
最近まで高級旅館として営業されていましたが、
現在は文化施設「信濃追分文化磁場 油や」として再生しています。
寄りませんでしたが、2階の一室に堀辰雄資料室が設置されているそうです。
この先に「明治天皇追分行在所碑」が建っています。ここが「追分宿土屋本陣」があったところです。門柱だけが残っていて、表札に「中山道追分宿 旧本陣」という文字が刻まれています。
その先に、昭和58年に当時の古文書などから復元された、追分宿の高札場跡が
再現されています。
追分宿には、石畳の道や往時の旅籠の雰囲気を漂わせる出桁造りの建物が
幾つか残っていて、旧街道の面影を残す工夫がされてます。
*「出桁造り(だしけたづくり」
梁または腕木を側柱筋より外に突出して、その先端に桁を出した構造で、
江戸時代以来一般的だった町家は、軒を深く前面に張り出した「出桁造」による
立派な軒が商店の格を示していた。
路地を右に入った奥に、小林一茶の句碑がある諏訪神社があり、
「有明や 浅間の霧が 膳をはふ」
その先に今から約410年前の、慶長3年(1598年)
上州常林寺の第5世・心庵宗祥禅師によっ開創と言われる、浅間山泉洞寺洞禅寺
という寺院があります。
心庵宗祥禅師は三河国の人で元は武士で、天正3年(1575年)、長篠の戦いに遭遇、
数多くの戦死者を目のあたりにして無常心をいだき、出家したといわれています。
裏の墓地入り口に、堀辰雄がこよなく愛したという石仏があります。
物思いにふけっている半伽思惟像で、その名も「歯痛地蔵」。
左の奥歯が痛いのか、手で押さえている格好になっているから
「歯痛地蔵」と名付けられたとか。
何やらかなり変わったお地蔵様が建てられてます。
のんびり歩いて、40分ほど。
出桁造りの町家が街道筋に何軒か点在し、
別荘地 軽井沢の観光地響きイメージのように、綺麗に整備された近代風宿場町かな。
先に追分宿の京方の出入り口、上木戸の跡で、街道は国道18号と合流。
かつてはここに枡形道があり、「枡形の茶屋」と呼ばれた茶屋が数軒あったのだ
そうで、 右手に往時の面影が色濃く残したその1軒「つがるや」が有ります。
その「つがるや」の前で旧中山道は国道18号線と一時合流します。
写真は振り返って、右、国道18号、左追分宿街道。
(中央に立つ櫓は、モニュメント)
国道18号線と合流したすぐ先に「分去れ(わかされ)」の碑が建っています。
「分去れ」とは道路の分岐点、すなわち“追分”のことです。
ここで京都・三条大橋へ向かう中山道と、善光寺を経て直江津で北陸道に合流する
北国街道が分かれます。
分去れ(わかされ)、なんとも味のある表現ですね。
現在は3つの道路の分岐点。
旧北国街道と旧中山道の間に、現在の北国街道である国道18号線が通ってます。
(右、旧北国街道 左国道18号(現北国街道)、国道の先に小さく見える標識のところから左側に旧中山道が分かれてゆきます)
追分には高さ4メートルもある大きな常夜灯が立っています。
この常夜灯は寛政元年(1789年)に建立されたもので、側面には、
「さらしなは右、みよしのは左にて、月と花とを追分の宿」
という歌が刻まれています。また、常夜灯の台座には「是より左伊勢」という
文字が刻まれています。
江戸から来た場合,右は北国街道の更科や越後方面。
左は伊勢・京都・吉野など関西へ向かう分岐点ということかな。
道祖神・歌碑・道標・道しるべ石・常夜灯・子抱き石地蔵坐像,
その奥には観音像など、多数の石造群が立っている。
写真 右、「分去れ(わかされ)」の碑
旧中山道はこの追分のところから、斜めに国道18号線を横切るように延び、
「←旧中山道」という案内標識が出ているものの、
横断歩道も設けられていないので、ここで直接進むことが出来ません。
この追分のところから旧中山道に行くには、国道18号線を少し先まで歩き、
青い道路標識のところにある横断歩道を左側に渡り、
逆に「←旧中山道」の道路標識のところまで戻って来ないといけません。
すこし戻る国道18号左側には歩道がないようで、
無理をしないで、先の青い標識の信号を渡って左へ入る道を行くことに。
国道を横断し、左手からくる旧街道に復帰。
左角に中山道のすべてが判ると進められていた、「中山道69次資料館」という
民間施設が有ります。
「中山道69次を歩く」という本を執筆した岸本豊氏が館長で、
庭にはミニ中山道六十九次が作られてます。
寄ってみましたが残念ながら火曜日は休館日でした
近くを通る機会があったら、ぜひ寄りたいですね。
「笑坂」と呼ばれる長い坂を下っていきます。
笑う坂? 続きます・・