歩いて再び京の都へ 旧中山道夫婦旅   (第16回)  岩村田宿~望月宿 中編

*ひょいと歩き出した東海道五十三次
途中で、断念かの肝臓癌をなんとか乗り越えて、京の三条大橋へ到着。
勢いをかって「歩いて再び京の都へ」と乗り出した中山道六十九次。
またまた腹部大動脈瘤、心臓動脈硬化、そしておまけに腹部ヘルニア。
挫折しそうになりながらも、カミさんの支えもあって、またまた乗り越え
旅の再開。
そんな、じじばば道中ブログです。*

 

10月9日、岩村田宿を立ち、第16回目の旅が始まりました。

 岩村田宿塩名田宿 1里11町 5.1Km
塩名田宿~八幡宿  0里27町 2.9Km
八幡宿~望月宿   0里32町 3.5Km

岩村田宿~望月宿 2里32町 11.5km

中編

岩村田宿から塩名田宿を過ぎて、千曲川を渡り旅が続きます。

f:id:hansui:20171011084612j:plain千曲川旅情の歌 」   島崎藤村

(一)

小諸なる古城のほとり          雲白く遊子(いうし)悲しむ
緑なすはこべは萌えず          若草も藉(し)くによしなし
しろがねの衾(ふすま)の岡辺(おかべ) 日に溶けて淡雪流る

あたゝかき光はあれど          野に満つる香(かをり)も知らず
浅くのみ春は霞みて           麦の色わづかに青し
旅人の群はいくつか           畠中の道を急ぎぬ

暮行けば浅間も見えず          歌哀し佐久の草笛(歌哀し)
千曲川いざよふ波の           岸近き宿にのぼりつ
濁(にご)り酒濁れる飲みて       草枕しばし慰む

 

千曲川は、

甲州山梨県武州・埼玉県、信州・長野県の3国境の奥秩父山塊の主脈の中央に

位置する日本百名山甲武信ヶ岳(2475m)、その麓を源流とし、

なぜか、上流である信濃国域(長野)では「千曲川」。
そして下流越後国域(新潟)では信濃川と呼称が変わる

長野県と新潟県を流れて日本海に注ぐ、全長367kmで日本で一番長い川です。

 「信濃川」の名称のほうが全国的には知られてるかな。

わしも「千曲川旅情の歌 」を知った高校生のころは、千曲川信濃川は別々の

川だと思ってましたね。

 万葉集の歌や島崎藤村の「千曲川旅情の歌」、五木ひろしの「千曲川」など、

 風情のある緩やかな流れの川のように思われがちですが、

実際には、幾重にも曲がりくねったの「千曲川」の名前の通りの急流でした。

江戸時代には川幅は120メートルほどもあったそうで、

ひとたび大雨が降って水嵩が増すと難所に一変し、旅人を苦しめました。

様々な方法でこの千曲川の急流を渡っていたのですが、明治6年1873年)、

9艘の舟を浮かべ、それらを繋いだうえで舟の上に板を敷いて橋とし、

人馬を渡す「舟橋」方式が採られるようになりました。

その際、舟を繋ぐために使われたのが「舟つなぎ石」で、舟橋は明治26年1893年

まで使われた。(案内板より)

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川に沿って左に曲り、橋下を抜けて左へ坂を上って県道へに出て、

歩行、自転車専用の中津橋を渡ります。

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 千曲川を渡り、坂を上ると御馬寄(みまよせ)集落に入リます。

馬を寄せ集める場所であり、その馬は朝廷に献上するものであったことから、

「御馬寄」という地名で呼ばれるようになったと言われます。

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 緩やかな坂が続く道の両側に、古い家並みが残る。

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集落を抜けて、御馬寄小学校入口の歩道橋下で右へ分岐する短いのぼりの旧道に

入ります。

視界が開け、千曲川西岸段丘の上にで様です。

元の道との合流点手前で街道から少し高くなった場所に、

白い頭巾と白い前掛けをしている、明和8年(1771年)建立と言われる、

大日如来の石像が立ち、「大日塚」と地元では呼ばれているようです。

大日如来像の後方に雄大な浅間山が望め、像の横に松尾芭蕉の句碑が立っています。

「涼しさや 直(すぐ)に野松の 枝の形(なり)」 松尾芭蕉

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街道筋と合流し、その先左手に「御馬寄一里塚跡」の標柱がありました。

江戸の日本橋を出てから44番目の一里塚です。

(後ろの石碑は関係なさそう)

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緩い登り坂の一本道を先に進みます。

しばらく歩くと下原と呼ばれる集落に入ります。

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御井大神(みいのおおかみ)と刻まれた石碑です。

御井大神は万物の生育に欠かせない水を司る水神、水霊であり、

古くは井戸の神様としても祀られました。

このあたりにも浅間の美味しい湧水が出ていたのでしょうか。

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さすがに美味しい米を産出する集落、立派な門構えの民家が幾つもあります。

f:id:hansui:20171011113035j:plain下原の集落を通り過ぎて緩い下り坂。

文政5年(1808年)建立の小さな石仏、観世音菩薩が見られます。(右)

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さらに坂を下ると、

なぜか街道に背を向けて(街道が付け替えられた?)、ここにも

井戸の守護神・生井大神と馬頭観音の石碑が立っています。

馬頭観音は文政12年(1828年)の建立だそうです。

 

f:id:hansui:20171011114324j:plain坂道を下ると、前方に次の八幡宿の集落が見えてきました。

(左の標柱は?)

f:id:hansui:20171011120456j:plain真っ赤になったコキア。

左隣りに神社の社殿のような形をした千曲バスの「八幡神社前」のバス停。

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そしてその横に「中山道八幡宿」と書かれた標柱が立っています。

このあたりが八幡宿の江戸方の入り口です。

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 吾妻鏡鎌倉時代)にも記述がある、宿場の名前の由来になった八幡神社です。

創建年代は、定かではないが貞観元年(859年)、御牧の管理をしていた

滋野貞秀によるものと言われています。

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境内には国の重要文化財である高良社のほか、本殿、拝殿、端垣門、随神門があり、

なかなか歴史を感じさせる趣きを放っています。

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天保14年(1843年)、小諸藩主・牧遠江守康哉 により造営され、

精巧な彫刻が彫られた、ずっしりとした風情の随神門。

f:id:hansui:20171011135058j:plain進むと随神門よりも130年前、宝永5年(1709年)に建てられた、端垣門からが

神域です。 

f:id:hansui:20171011135752j:plain本殿(左上)と拝殿です。

 本殿は天明3年(1783年)、拝殿は天明4年(1784年)に再建されたと言われます。

当初は、極彩色を施していたと思われる彫刻は経年劣化して、

かなり剥がれだしていますが、それが古い歴史を感じさせますね。

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 国の重要文化財に指定されている旧本殿の「高良社」です。

三間社流造りで、屋根はこけら葺、室町時代の神社建築の特徴を

伝えているそうです。

八幡神社の境内にある棟札の墨書名から、延徳3年(1491年)に
滋野遠江守光重によって建立されたものだそうです。

浅間山が大噴火を起こした、天明3年(1783年)に現在の本殿が建てられた時、

旧本殿を高良社として移築したものです

高良社は元々は高麗社と呼ばれていて、高良玉垂命を祀っているのですが、

朝鮮半島から渡来して、望月の牧を指導した高麗人を祀っているのだとも

言われています。 

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 (我が県にも秩父地方に、先般天皇、皇后両陛下が参拝された高麗神社が有ります)

 

神社を後にし八幡宿の宿内に入っていきます。

 

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八幡宿は、現在の地名は長野県佐久市八幡。

江戸・日本橋から24番目の宿場です。

千曲川の西岸にあたり、対岸の塩名田宿との距離は1里も離れておらず(約3km)、

宿間距離は中山道一短い距離です。

天保14年(1843年)の記録によれば、八幡宿の宿内家数は719軒、うち本陣1軒、

脇本陣4軒、旅籠3軒で宿内人口は719人、総家数は143軒でした。

f:id:hansui:20171011145021j:plainこの八幡宿は小さな宿場であったにも関わらず、脇本陣が4軒もあった。

荒ぶる千曲川や、この間の道が名うての悪路だったため宿泊・休憩する大名が

多かったと言われます。

八幡宿の本陣だった「小松五右衛門家」の跡です。

小松五右衛門家は八幡宿の本陣・問屋を代々務めた家です。

皇女和宮の宿泊地となったところです。

今は表門のみが残されていて、この表門は馬に騎乗のまま通過することが

できるように、かなりの高さがあります。

この門は中山道の宿場本陣の門のうち、現存する最古の門と言われています。

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(本陣跡門塀は、資料写真などの古色感と違い、最近リホームされたかな??)

f:id:hansui:20171011145557j:plain本陣門の向かいには、脇本陣・問屋の「依田太郎兵衛家」のようです。

依田太郎兵衛家は脇本陣と問屋のほか、八幡村の名主も務めていました。

(案内板は有りませんが、街道書に写真記載あり)

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右手の民家も脇本陣「半三郎家」が有った所、と記載されてますが

案内板もなく不明です。

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 脇本陣はそのほかに2軒置かれていたのですが、残念ながら不明でしたね。

「南御牧村道路元標」が立っています。道路元標が立っているところは各村々の中心と言うことです。

f:id:hansui:20171011160404j:plain古い町並みが続きます。

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宿場町の中心部を抜けて、八幡入口バス停の先から旧中山道は右下へ入り、

約200メートルほど進みます。

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三基の馬頭観音

f:id:hansui:20171011161546j:plain古い小さな小さな地蔵尊さん。

ちゃんとお供え物も置かれていて、地元の人達に大事にされているようです。

f:id:hansui:20171011161758j:plain地蔵尊の先に「中山道八幡宿」と書かれた案内標識が立っています。そこで再び県道と合流し、ここが八幡宿京口(西方)。f:id:hansui:20171011162134j:plain

 歩いてきた県道は信号で国道142号線と合流します。

ここからはしばらく国道142号線の歩道を歩きます。

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国道142号に合流した辺りから右手を見ると、広大な「御牧原(みまきがはら)」

が見渡せる。

この辺りは奈良時代から平安時代にかけては御料牧場で、旧暦8月満月の日に

朝廷へ馬を献上していたことから「望月の牧」と呼ばれ、

多くの歌人が望月を題材にした歌を残している。

この「望月の牧」を指導したのが渡来の高麗人だったのでしょうか。

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しばらく国道142号を進みます。左手に持参街道書に記載の食事処が有りました。

調べると、昼はPM2:00までの営業のようです。

 

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実はこの食事処は、街道では大変貴重なお店なんです。
今朝、岩村田宿を離れると、ここまでは食事処が街道筋には全くありません。
食品を売っていそうなお店も、コンビニないんです。
通ってきた塩名田宿千曲川沿いに、川魚料理の看板を掲げた家が何軒かあり、
ちょうど昼時ででしたが、なぜか暖簾が掛かった家は無かったですね。
街道案内などで、有ると記載が有っても、よもすれば現在は閉店とゆうことも
多く見受けます。
うっかりすると、昼食抜きの歩き旅になってしまうので、要注意区間ですね。

そんなときのために私たちは、健康機能食品と言われるものを常に持参してます。

かさばらず、軽いのでウエストバッグに入り、消費期限も長いので重宝してますね。
たまたまここは国道で、交通量も多く、ガソリンスタンドなどもあった地域でした。

 

 緩くしばらく下って行くと布施川に架かる百沢橋を渡ります。

 

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安藤広重が描いた「木曽海道六拾九次」の中の「八幡宿」は布施川に架かる

百沢橋のあたりから見たこの風景を描いたものではないか…との説が有ります。

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すぐの百沢橋交差点で、道路の右下に下るこの細い道が旧中山道です。

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ここから旧中山道の雰囲気を感じながら、百沢と呼ばれている集落の緩い登り坂を

登っていきます。

国道から離れているため今も昔の風情が色濃く残り、落ち着いた家並みが

続いています。(ただ、まったく人影を見ません)

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「百沢の双体道祖神」です。

珍しい衣冠束帯(いかんそくたい)と十二単(じゅうにひとえ)という宮廷貴族風の

衣装をまとった男女が祝言を挙げ、酒を酌み交わす様子を表現の双体道祖神です。

地元では「祝言道祖神」とも呼ばれています。

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布施温泉入口交差点で国道142号線を渡り、そこから把握長野県道150号百沢臼田線を

ほんの少し歩きます。

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少しゆくと「仲仙道(中山道)牧布施道標」です。

この道標は元禄10年(1697年)に建てられた古い道標です。

擦れていて判別しがたいですが、石には“中山道”のことを“仲仙道”と表記して

彫られています。

中山道”、“中仙道”、“仲山道”、“仲仙道”…と同じ“なかせんどう”でもバラバラの

漢字表記だったこの街道の名称を、“中山道”に統一したのは

正徳6年(1716年)で、この道標はその19年前に立てられていたんです。

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右の旧中山道は民家の裏手山で「金山坂」に入ってゆき、

瓜生坂入口へ上って行きます。

(やぶ蚊苦手のカミさんは、走るように上って行きます)

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すぐに道は舗装道に突き当り、本来はまっすく道を横断して、その先の藪の方に

続いてるはずですが消滅してしまってるようで、道角にはこんな標識が立ってます。f:id:hansui:20171014085533j:plain

右に曲がるとすぐ国道142号線と出会い、中山道はそこを突っ切って先に進みますが、

横断歩道帯は有りますが信号が有りません。

車両通行も多く、車の流れを見計らって手を挙げて停車してもらい

なんとか渡れましたね。

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ここから先は「瓜生坂・うりゅうざか」と呼ばれ、

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瓜生坂の頂上を越えて坂を下り、25番目の宿場である望月宿へと入っていく。 

続きます・・・