歩いて再び京の都へ 旧中山道夫婦旅   (第17回)  望月宿~長久保宿 前編

*ひょいと歩き出した東海道五十三次
途中で、断念かの肝臓癌をなんとか乗り越えて、京の三条大橋へ到着。
勢いをかって「歩いて再び京の都へ」と乗り出した中山道六十九次。
またまた腹部大動脈瘤、心臓動脈硬化、そしておまけに腹部ヘルニア。
挫折しそうになりながらも、カミさんの支えもあって、またまた乗り越え
旅の再開。
そんな、じじばば道中ブログです。*

 

秋の長雨とはよく言ったもんです。

3日ほど前から降り続く秋雨。

何気なく天気予報を見たら、あれ、長野の佐久、立科地方は明日は晴れるぞ。

すかさずカミさんが、「明日は仕事が休み、行ける時にいきましょうか」

で、急きょ17日(火)中山道夫婦歩き旅の第17回目へ旅立ちへ。

旅は日帰り継ぎ足し旅なので、街道への行き帰りまではマイカー利用。

駐車場、電車、バスの時刻を確認し、

今回の旅は16回足止めの、望月宿を出発地にし

望月宿~芦田宿(現立科町)  5.6km

芦田宿~長久保宿        5.7km

   計          11.3km

場合によっては芦田宿で足止めし、寄り道するかも。

雨の高速道を走り、AM7:10、前回も駐車した長野県・佐久平駅前駐車場着。

そろそろ雨が揚がる予報だったが、まだまだ雨脚が強い。

ここから千曲バスを利用して、足止めした望月宿へ向かい、望月資料館前から

旅立ち予定。
 バスはAM7:51発、次がAM9:01発。

しばらく様子をみるか、望月へ着くころには上がっていることを期待して、

予定通りバスに乗って向かうか・・・・

「雨は上がるの予報なんだから、最初は傘さしでもいいんじゃない」

とのカミさんの言葉で予定通りのバスへ。

バスが出る頃には雨脚はかなり弱まり、望月へ着いた頃には嬉しいことに

止んでます。

念のため傘を持参してましたが出番はなさそうでした。

 

 

【望月宿】 日本橋から25番目45里(176.7Km)、京へ90里34町 (357.2Km)
 天保14年(1843)で人口360名、総家数82軒、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠屋9軒。

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簡易雨コート着て、AM8:30、第17回の旅立ち。

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前回少し歩いた街並みを抜けると、望月宿のはずれに建つ大伴神社。

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階段を登ると境内には江戸後期の道祖神が沢山集められている。 

延喜式内社 景行天皇四十年(古墳時代)の鎮座と伝えられ、現在の本殿は

延宝5年(1677年)に建てられたものですが、今は覆屋に収められて見ることが

できません。

この辺りを支配した望月氏の庇護を受けた神社である。

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 街道書によれば、

祭神である天忍日命(あめのおしひのみこと)は、望月の御牧を管理していた大伴氏の

祖神で、大伴武日命(おおともたけひのみこと)とも呼ばれています。

祭神が馬に乗ってこの地へ来られ鎮座したとされており、乗って来た馬を種馬として

駒の改良繁殖をはかリ、この地は多数の馬を産する地となって、望月の駒が

有名になったことから、大伴氏は朝廷より「望月」姓を賜り、

信濃国最大の望月牧へと発展したといわれます。

毎年8月15日に奉納される例祭「榊祭り」(佐久市指定無形民俗文化財)は

信州の奇祭とも称される特殊神事で、松明山から松明を揚げて望月橋まで一気に

駆け下り、その松明を橋から鹿曲川へと投げ込み五穀豊穣や無病息災を祈願します。

 

*鹿曲川(カクマガワ)は蓼科山に源を発し、上流部には紅葉で知られる春日渓谷が

ありますね。流末は信濃川と落ち合います。

 

神社から少し進むと、ここが望月宿の京方のはずれ.。

望月宿を出ると旧中山道は、青木坂と呼ばれる鹿曲川の河岸段丘を登る

坂へ向かいます。

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御桐谷(おとや)西交差点を渡り、50mほど進んで、

左り大きくカーブ(奥の左斜めのガードレース)して分岐の急坂を登ります。

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坂を登り曲がり角に小さく馬頭観音

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さらにだらだら坂を上って行くと右手に「中山道→」の案内表示があり、

細い急坂道に入っていきます。

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けっこう急勾配の坂道です。

カミさんは後ろ向きで、景色を眺めながら上って行きました。

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振り返りの田園風景

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 途中に延享年間(1744~1748年)に建てられたと伝えられる、寒念仏供養塔が

立っています。でも、なんでここに??カミさん。f:id:hansui:20171018170249j:plain

坂を上り切り、国道142号線のガード下を左手に潜り、

右折してしばらく国道142号線と並行して進みます。

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曲がりくねる道を行くと交差点となり、左手に廃校となった小学校土地に、

「売地」の看板が立ってます。過疎少子化の波ですね。

旧道は望月宿西入口交差点から長野県道148号牛鹿望月線と合流すると、

道路右手に「御巡見道標」石標が有りました。

巡見使は江戸時代、幕府が諸国の大名・旗本の監視と情勢調査のために派遣した

上使のことで、天領及び旗本の知行所を監察する御料巡見使と、諸藩の大名を

監察する諸国巡見使があり、ここから中山道と別れ上田・松代・長野方面の監察に

向かったものと思われます。 

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右手に割と大きな開発造成住宅地を見ながら、しばらく坂道を上って行くと

峠の頂上に着いたようで、

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その先は県道から右に分岐した下り口に、「中山道茂田井入口」の説明板が

ありました。

下り道は、望月宿と西の芦田宿の間に設けられた間の宿・茂田井宿に入って

行くようです。

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道端に咲く草花を見ながら、道を下っていきます。

前方に“間の宿”茂田井宿が見えてきました。

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坂を下り茂田井宿の集落へと入って行きます。

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右手の山きわ斜面に小振りの神社が見え、街道書には神明社とありました。

10数段ほどの石段を登ったところに本殿があります。
案内板によると,

神明社の祭神は天照大神,雨乞いの霊験として崇拝されている。

宝永6年(1709年),茂田井村初代名主となった大沢茂右衛門が願主となり

建立された。
本殿はこの地方では珍しい神明造りとなっているため、神明社と呼ばれている」

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神明社を過ぎると、縫うように下る坂道の家並に、ハッと足が停まります。

街道書に書かれた
「道の両側に用水が流れ、漆喰壁の白さが町並みを美しく際立たせ、
民家、造り酒屋の建物が連なる坂道に、江戸時代の面影を色濃く残す
茂田井の街並みが続きます」

 

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間の宿は本宿の機能保護のために、旅籠をもつことを禁じられ休憩するだけでした。 寛保二年の大洪水で、望月新町が道ごと流されたり大きな被害を受けたため、

茂田井村を望月宿の加宿にしようと、江戸幕府に願い出たが却下された経緯がある。

 

茂田井地域は良質の米の産地として名を馳せていて、小諸藩主やその家臣達は

茂田井産の米のみを、わざわざ毎年江戸まで輸送させたほどだったといわれています。

今も豊かな水が音を立てて勢いよく道端の側溝を流れています。

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蓼科山の伏流水と地元の良質な米。

茂田井宿には造り酒屋が2軒あるんですね。

右手に重厚なたたずまいの門構えの建物が「武重本家酒造(叶屋)」です。

江戸時代末期の慶応元年(1865年)に建てられた住宅と

明治初期に建てられた酒造施設など、30棟もあるという現役の建造物が、

歴史的景観を伝える貴重な建造物であるとして、国の登録有形文化財に指定されて

います。

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杉玉(すぎたま)

スギの葉(穂先)を集めてボール状にした造形物です。

酒林(さかばやし)とも呼ばれています。

日本酒の造り酒屋などの軒先に緑の杉玉を吊すことで、新酒が出来たことを

知らせる役割を果たします。

「搾りを始めました」という意味でもあります。

吊るされたばかりの杉玉はまだ蒼々としていますが、やがて枯れて茶色がかって

きます。

この色の変化がまた人々に、新酒の熟成の具合を物語ります。

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その武重家の道を隔てて用水路傍の蔵の敷地に、若山牧水の3首の歌碑が

立っています。

一句に、

「人の世に たのしみ多し 然(しか)れども 酒なしにして なにのたのしみ」

資料によれば、

「明治、大正から昭和初期にかけて歌人として親しまれた若山牧水は、

旅と自然とともに酒をこよなく愛した漂泊の歌人として知られています。

その酒量たるや1日に1升以上を飲む大酒豪だったのだそうです。

しかしながら、酒と歌で人生の悲哀を昇華しながらの生涯は、43歳で肝硬変により

幕を下ろすことになりました。

若山牧水が生涯に残した約七千首に及ぶ和歌のうち、酒を詠ったものが二百首に

及ぶと言われています。

若山牧水は望月に歌友が多く、吟客としてこの茂田井の“間の宿”に長期間逗留したと

言われています」

岩村田にも歌碑が建てられてましたね。

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おや、凄い紅葉した樹、モミジでは?

歌碑の左側小路奥左手に、燃え立つように紅葉した樹が見えます。

近寄ってみると、見事に紅葉してる「モミジ」でした。

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すごいね、鮮やかに紅葉してる!!早すぎる!

なんて言いながら街道へ戻りかけると、

歌碑の側に植えられてる梅の古木を見上げてカミさんが、

「赤い葉、モミジじゃないかしら?」

なんと、確かに紅葉してる「モミジ」

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いや~ビックリです!

梅の古木の幹から紅葉が生えてるんです。

少し上の方にはまだ緑のモミジも葉を茂らせて生えてるんです。

何らかの理由で、空洞や幹の腐れなどのところに、風に乗って飛ばされてきた
種が発芽したのでしょうね。
それとも誰かが、モミジの種を空洞に植えた??

珍発見!!かな??それとも・・・

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少し歩いたところで、地元の方にお会いしました。

”酒蔵奥の真っ赤なモミジ見たかな。

あのモミジは何かの映画の撮影の造りもんだよ。

先日、撮影があって古井戸やモミジのセットを作ったのがまだ残ってるんだ”

いや~、見事に真っ赤な紅葉は造り物だって・・・

そうか、赤が鮮やか過ぎたもんな~・・・

ただ地元の方でも、梅ノ木のモミジは気づいてなかったね。

謎のモミジです。

 

左手に急流の流れ落ちる用水、右手に武重家の白塀。

けっこうな急坂を曲がりながら進みます。

この美しい景観から茂田井の地には2002年に、時代小説家藤沢周平さんの

短編小説を原作として作成された、山田洋次監督、真田広之さん主演の映画

たそがれ清兵衛』のオープンセットが「武重本家酒造(叶屋)」の裏手の敷地に

作られて撮影された、と武重本家酒造の資料にありましたね。

この茂田井の美しい景観も、映像の中に残されてるんですね。

藤沢周平さんの作品の文庫本は、ほぼ全巻読んだけど映画は見てないな~)

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 その先を左にカーブしたところに、元禄2年(1689年)に酒造りを始めた

「蔦屋・大澤酒造」が建っている。

重厚な長屋門には大きな杉玉がぶら下がり、敷地内には酒造りや街道文化に関連する

資料等を展示する民俗資料館、名主の館、書道館、美術館が設けられている。

(平日、朝も早いため資料館などは見ることができ来ませんでしたが、

敷地内に少しだけ入らせていただきました))

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大澤家は名主を勤めていて、元冶元年、幕末に京都に上る水戸天狗党を追ってきた

小諸藩兵士の本陣となり、400名の兵士の宿となったという。

間の宿で旅籠はなかったけれど、400名もの兵士を宿泊させるだけの建物と

経済力があったことを示してます。

(左手白壁の連なる大澤酒造(蔦屋)。まだまだ上手に続いてます)

 

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今回は見学できませんでしたが、大澤酒造の民俗資料館に展示されている品々は、

全て大澤酒造の蔵の中に眠っていたものだそうで、代々伝わっている鎧兜など、

貴重な品々が多くあり、街道旅人の間では是非見学を、とお薦めです。

いつの日かの寄り道をして、立ち寄りたいと思ってます。

(あの謎のモミジも様子をみたいですね)

 

茂田井宿は戸数が多かったので、高札場は二か所あって、名主の大澤家の

土塀前に下組高札場が有り、西寄りの坂の途中に茂田井村上組の高札場が

設けられていた。

(大澤家前の高札場跡)

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 坂道の小さな公園には、清掃の行き届いた「雪隠(トイレ)」も設置されてます。

 

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白い漆喰壁の建物が建ち並ぶ登り坂の道の家並みを、堪能しながら歩いて行きます。

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なんどもなんども登っては振り返り、登っては振り返り繰り返しながら

心に残る街並みをカメラに収めて坂道の街道を進みます。

 

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今も大きな門構えの屋敷や土蔵造りの町並み。

時計の針を戻したかのような、昔の雰囲気を感じながら足を進めています。 

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木造では少ない、三階建てですね。

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ちいさなちいさな秋、こぼれ種から生まれたかな?

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薪がが摘まれた、懐かしい風景です。

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左手に高さが2メートル以上もある、大きな馬頭観音がありました。

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この付近の坂は勾配もきつく大きな石が有ったため、その大石を割って中山道

通したと言われます。それで坂の名は「石割坂」

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坂の途中に上組の高札場が有った、と案内板が建ってます。

f:id:hansui:20171019060742j:plain「石割坂」と呼ばれている急坂道も少し勾配が緩くなってきました。

 

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さらにもうひと登りして曲がると、

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江戸から46番目の「茂田井の一里塚跡」がありました。

現在は南塚跡が公園になり、小さな祠が建っています。

きれいに整備され、塚は残っていないが説明板も立てられており、

茂田井宿の保存に尽力していることがわかりますね。f:id:hansui:20171019060933j:plain

 

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左に茂田井の田園。右手山の斜面に祀られてる水神や庚申塔を見て、

さらに緩い坂を上ると、 

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茂田井上の変則十字路で、「中山道茂田井間の宿入口」の標識と案内表示板が

立っています。ここが茂田井間の宿の京方のようです。

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道標に従って緩い坂を少し上ると、パット視界が開け田園地帯が眼に飛び込ん

できて、一帯は少し高台の高原になるでしょうか。
あいにくの曇り空で、景観は望めませんが、晴れていれば北の方角(写真左上)には

浅間山山魂が連なり、その山裾あたりが戦国時代末期、真田昌幸が築城した

上田城の有った上田市になるのかな。

 

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ゆるく坂をくだって芦田川を渡り、上り返して旧中山道は、次の宿場へと

繋がって行きます。

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 周囲の山々が低くなってきたように感じるのは、

今日のこの先の峠越え、笠取峠か近づいてるから?

 

続きます・・・