歩いて再び京の都へ 旧中山道夫婦旅   (第19回)  碓氷峠越え 編

*ひょいと歩き出した東海道五十三次
途中で、断念かの肝臓癌をなんとか乗り越えて、京の三条大橋へ到着。
勢いをかって「歩いて再び京の都へ」と乗り出した中山道六十九次。
またまた腹部大動脈瘤、心臓動脈硬化、そしておまけに腹部ヘルニア。
挫折しそうになりながらも、カミさんの支えもあって、またまた乗り越え
旅の再開。
そんな、じじばば道中ブログです。

 

2016年9月17日、お江戸日本橋を旅立ちし、

12月17日に、旧中山道の一番目の難所、碓氷峠を控えた

上州(群馬)最後の宿場坂本宿到着で足止。

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雪の季節に入りのため、年が明けて、雪解けを待って再び旅へと思えども、

春以降に三回の入退院で足踏み。

足腰の衰えは顕著で、ある程度の体力は戻った感あるも、秋の入口になっても

難所、碓氷峠越えにはなかなか挑めない。

そんな弱腰を見かねたか、

「一筆書きの街道旅は途切れるけど峠は後回し、

   どんどん歩けるところを先へと行きましょう!」

と、カミさんの一言で、9月10日、峠登りを飛ばして信州信濃(長野県)

 碓氷峠頂上から軽井沢へ向かって旅を再開。

 

 

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旅を重ねて10月26日(木)には、日本橋から29番目の、和田宿を経て
中山道の最難所と言われる和田峠の口下の、唐沢集落入口へ到着し足止め。
今年の気候は、雪の季節がいつ来てもおかしくないような不安定。
26日に眺めた浅間山は綿帽子をかぶり、和田峠の一部道は降雪で通行止めに
なっていました。

 

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帰宅の車中で、

「早めに、歩き残した碓氷峠を登ってしまいましょう」とノリノリのカミさんの

意見で、天気予報と行ける日を調べ、

11月3日(祝)に歩き残してた「碓氷峠越え」旅立ち決定。

行き帰りの車の便とバス時刻をを検討して、マイカーを軽井沢の駅前に置き、

JR関東の路線バスで群馬県・横川駅へ下り、碓氷峠登り口の坂本宿を経て

峠へ取りつきます。

 

11月3日(金)、夜明け前にマイカーを走らせ、関越道、上信道を走り

順調にAM6:00軽井沢駅到着。

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いつものカップ天蕎麦で朝食、支度をして6:59発のJR関東バスに乗り、

18号バイパス峠を下り7:33横川駅前着。

横川駅前からは昨年秋に歩いたことがった、鉄道の廃線跡を利用した

アプトの道・遊歩道と行き、昨年足止めした碓氷峠入口へと向かいます。

 AM7:40

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 こんちわ~いい秋晴れですな~

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途中にある日帰り温泉、峠の湯前庭でトイレ休憩をしアプト道から離れ、

坂本宿を通る国道18号旧道(旧中山道)の坂本宿京方を過ぎ、

坂本浄水場の巨大な貯水タンクの脇を通る、細い道に入るのが旧中山道

安政遠足コース」の案内道標が有ります。

安中藩が実施していた「安政遠足」のコースは旧中山道とほぼ同じ道筋で

行われていました。

*「安政遠足・あんせいとおあし」

1855年安政2年)、安中藩主板倉勝明が藩士の鍛錬のため、藩士に安中城門から

碓氷峠熊野権現神社まで、7里余りの中山道を走らせた徒歩競走。

日本のマラソンの発祥といわれ、現代は「安政遠足 侍マラソン」と銘打ち

毎年5月の第2日曜日に開催され、毎回たくさんの仮装したランナーが走ります。*


ここからが旧中山道街道歩き旅で途切れていた、軽井沢宿へ向かう碓氷峠頂上

までの旧中山道が始まります。

 

AM9:00 旧中山道継ぎ旅へ、いざ出立。

(路面に置いての撮影)

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坂本宿~軽井沢宿は、2里34町 11.6Km

(今日は横川駅から軽井沢駅までなので、実歩き距離は15kmほどになるかな)

  道を進み突き当たりを左に曲がり、崖下を数10メートル歩き、

中山道」の表示がある所で 階段を上ると、さきほど分かれた国道18号旧道を

走っていた路線バス「中山道バス停留所」へ出ます。

(現在は路線バスは通常は有りません)

道を横断し、真っすぐスギ林の中へ入って行くのが街道です。

いよいよ中山道の難所『碓氷峠越え』のはじまりです。 

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中部北陸自然遊歩道も同じルートです。

f:id:hansui:20171104120358j:plainいよいよ中山道最大の難所である碓氷峠へ向かって、

最初に刎石山(はねいしやま)への杉木立の薄暗い急坂山道を登っていきます。

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登り始めてすぐ右手斜面上に「堂峰番所跡」の説明板が現れます。

説明板によれば、

堂峰番所は横川にある碓氷関所の出先機関で、裏番所とも呼ばれ、

碓氷関所を通らずに山中を抜ける、関所破りをする旅人を取り締まるために

設けられました。

「元和2年(1616年)に開設され、明治2年(1869年)まで使用されました。

堂峰の見晴らしのよい場所の石垣の上に番所を構え、中山道を挟んで西側に

定附同心の住宅が2軒置かれていて、門のの土台石が今も残されています」

(説明板の右側の石のようです)

昔は周辺の山はスギ林ではなかったんでしょうね。

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どうしてこんな山中に有るのでしょうか?「念仏百万遍供養塔」を過ぎ、

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見透しの無いV字型の薄暗い坂道急登が続きます。

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 我慢の登りを続けるうちに山の中腹に回り込み、広葉樹林になると木漏れ日の

山道になって、明るさが戻ってきます。

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岩屑だらけの山道を、足元を注意しながら歩きます。

だれかが置いたんだね、石灯籠型のケルン、右崖注意ですね。

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さらに急登は続きます。朽ち果てた道案内かな?

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急登の突き当りを左へ曲がったところが「壁曲」といい、

(数人のグループが急登を登ってきます)

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左が絶壁の「柱状節理」の説明板が立つ岩場に着きます。

柱状節理とは火成岩(溶岩)が冷却・固結する時に収縮して四角または六角の規則的な柱状に割れた岩盤のことで、それがこの絶壁に露出しています。

山道の角の有る岩屑はこの破片なんです。

f:id:hansui:20171104135014j:plain柱状節理のすぐ先には、馬頭観音や大日尊、南無阿弥陀仏碑などの石塔が

並んでいます。

前に坂本宿を通った時、上木戸「芭蕉句碑」がありましたが、

はかつてはこの場所にあったものなのだそうです。

f:id:hansui:20171104135756j:plainこの辺りのすごい傾斜地を通る坂は「刎石(はねいし)坂」と呼ばれ、坂本宿から

見えた刎石山の頂上に向かう坂です。

角の有る岩屑だらけの山道を、昔の人は草鞋履きで行き来したんですね。

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 その先左手に「上り地蔵 下り地蔵」の案内板だけが立っていて、

肝心の地蔵はどこかな?? 確認できません。

平らな石に線刻の地蔵像が刻まれたもので、1体が上り方向を向いていて、

もう1体が下り方向を向いているので「上り地蔵 下り地蔵」と呼ばれているとか。

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刎石坂を登りきって右へ曲がると、「覗き」と呼ばれる

展望台のような場所に出ます

ここは碓氷峠を歩いた皆さんが、必ず話題にする坂本宿がよく見える場所です。

坂本宿の街並みが一直線に整然と並んでいるのがよく分かります。

この景色は江戸時代も同じだったようで、小林一茶もこの絶景を見て次のような

一句をしたためています。

「坂本や 袂の下の 夕ひばり」 小林一茶

坂本宿の標高は約450メートル。刎石山の山頂の標高が810メートル。

この「覗き」は刎石山の山頂のすぐ近くですので、ここまで約350メートルの標高差を

一気に登ってきたわけです。

きつかったはずですね。

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同年代の感じの御夫婦が、眺めています。

このあとすぐに追い越してゆかれましたね。

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ここから先は緩やかな勾配に変わり、木漏れ日の中の快適な道が続きます。

周りの木々のい色合が変化し、モミジ、カエデの紅葉と、陽の光を受けて

黄金色に輝くカラマツなど、 赤や黄色が織りなす紅葉を楽しみながら歩きます。

まもなく馬頭観音があります。

馬頭観音の石碑があると言うことは、この狭くて急勾配が続く碓氷峠越えの道を

荷を背負った馬も越えていたということです。

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尾根道へ出てきたようで、先で再び杉木立の中へ入ります。

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その先左手に「風穴」という変わった穴があります。

溶岩の裂け目に手をかざすと、ほんのり暖かい湿った風が微かに感じられます。

苔には水滴の水玉が着いてます。風の入り口は?まさか噴気孔??

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しばらく木立の中を上ると、右側に「弘法の井戸」が見えてきました。

その昔、刎石山の山頂付近の茶屋が水不足で困っていた時、通りがかった

弘法大師空海が「ここに井戸を掘ればよい」と教えたのだそうです。

今でも水が出ているのだそうで水場だそうですが、屋根がつぶれてしまってます。

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 井戸からすぐ上のところで、道が平らになっています。

ここが弘法の井戸の水を使い、小池小左衛門の茶屋本陣をはじめ4軒の

茶屋があり、力餅やわらび餅等を売っていた「刎石茶屋跡」です。

峠行き来の大名や旅人が一休みした茶屋だったでしょうが、

現在は僅かに石垣や平場が残されているのみで杉木が林立し、

面影はうかがえません。 

弘法大師が教えた水を使ってた、ということは遠い昔から茶屋は有ったのだ!!

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茶屋跡の少し先へ行くと「碓氷坂関所跡」の説明板が建てられています。

説明板によると、

平安時代の昌泰2年(西暦899年)に碓氷坂の関所を設けた場所」と記されており、

1200年以上も昔からこの坂が、大和朝廷が置かれた近畿地方と関東地方を結ぶ

交通の要衝であったと言われます。

古い文献には、天慶3年(940年)に関所は廃せられたとあるそうです。

跡にはなぜか新しそうな東屋が建てられていて、道標には6.4kとありました。

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尾根道に出たようで、これまでの登り坂とは一変し、アップダウンの少ない

なだらかな道になりました。

このあたりから植生も変わり、ブナと思われる木々や落葉広葉樹の林となり、

彩られた街道を進んでいきます。

(峠越え紅葉はデジブックアルバムへ)

f:id:hansui:20171104150106j:plainしばらく緩やかな道を進むと急に道が狭くなり、両側が切り落とした深い谷に

なっている、「堀り切り跡」と呼ばれている尾根道になり、案内板が立ってます。
天正18年(1590年)、豊臣秀吉の小田原攻め時、北陸・信州軍の進軍を防ぐため、

松井田城主大道寺政繁が、元々狭かった尾根道をさらに削って狭くし、

北陸・信州軍の進軍をここで食い止めようとしたものだそうです。

以外に短い区間だけれど一人ずつしか通れないですね。f:id:hansui:20171104151636j:plain掘りきりを過ぎ紅葉の明るい尾根道を進みます。f:id:hansui:20171104151842j:plainしばらく明るい尾根の掘割状の道を行き南に回り込んだ途端に、

道の左側が絶壁となり、ここもちょっと危険な場所です。 

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昔、この付近は道に逃げ場がなく、山賊が頻繁に出たところと言われてるようです。

この険しい場所を抜けると、絶壁の途中の岩の上に寛政3年(1791年)に建立された

「南向馬頭観音」が立ってます。

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その先で尾根の北側に出たところに、文化15年(1808年)に建てられた

「北向馬頭観音」が在ります。

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山の稜線(尾根線)を通ってはいるのが、「南向馬頭観音」は進行方向左側が、

「北向馬頭観音」は進行方向右側が険しい崖斜面になっていて、

人馬ともに危険な場所であり、安全を見守るために祀られたものでしょうか。

しばらく笹路を歩み、

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10分ほど歩くと「一里塚跡」の説明板があります。

江戸・日本橋から数えて36里目の一里塚なのですが、どれが一里塚なのかは

よく分かりません。

案内板に「座頭ころがしの坂を下ったところに、慶長以前の旧道(東山道)がある。

ここから昔は登っていった。

その途中に小山を切り開き『一里塚』がつくられている」と説明されています。

この付近から東山道中山道は少し違うルートを辿っていたようです。

(一説にはこ看板の裏側の左尾根上に旧道(東山道)らしき跡があり、

 一里塚らしい小山も見られるとか。)

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 一里塚跡から少し行くと「座頭ころがし」の急な坂に差し掛かります。

急傾斜の坂道となり、路面には岩や小石がゴロゴロしています。

街道書では、赤土となり、おまけに常に湿っているので滑りやすい難所で、

目が不自由となれば、この滑りやすい坂道はかなり難儀しただろう、とのことから

「座頭ころがし」と呼ばれた、とありました。f:id:hansui:20171104160846j:plain

今日何人目になるかな? 登り下り多く山道を楽しむ方々に会いましたね。

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急坂を登りきると、この先はしばらくゆるやかな坂道が続きます。 

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尾根道になりカラマツが現れ、黄葉が綺麗になってきました。

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f:id:hansui:20171104161924j:plain明治8年(1875年)の明治天皇北陸巡幸の際に設けられた迂回路が左から上がってきて、ここで合流します。

御巡幸道はここから国道18号線の碓氷橋へ出るルートになっており、この場所は

中山道と追分の形になっていました。

現在、明治天皇御巡幸道は途中の崖崩れ等によって通行不能になってるそうです。

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謎の標識

f:id:hansui:20171104162248j:plainすぐ先のちょっと広くなった「栗が原」と呼ばれる場所には、

巡行に先立ち、明治8年(1875年)群馬県で最初の「見回り方屯所」が設置され、

この「見回り方屯所」が交番の始まりであるといわれているそうです。

時刻ははやお昼で、相変わらずの亀足歩き。

明るい開けたところなので、倒木に腰かけていつもの機能食品で昼食兼一休み。 

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栗が原のすぐ先は進行方向の左側が谷で、急勾配の斜面になっていて、

ちょっと危険な道が続きます。

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紅葉を楽しむ、外人グループ(コンニチワ、の挨拶でしたね)

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路面幅の底深い掘割状の、狭いV字形の道が続きます。

安政遠足への練習かな?、何人目かのトレイルランナーが駆け下りてゆきました。

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なだらかな鞍部のような明るい所へ出ました。素晴らしい赤黄葉です。

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しばらく歩くと所々で倒木に遮られる、杉林の中を通る狭い道に変わります。

このあたりは「入道くぼ」と呼ばれています。

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ここは「入道くぼ」と説明板に在りますが、意味はを読んでもよく分かりません。

手前の深い切通し風の道のことかな?

説明板の後ろ上に「入道くぼ線刻馬頭観音」があります。

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 「入道くぼ」はこの先の山中茶屋入口に当たり、道は唐松並木となって

車が通れるほどの広い道になり、右手斜面も石状のもので補強されてます。

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左側にはかなりしっかりしたコンクリート製の擁壁が造られています。

人が住んでいた形跡のようですが、何の目的で造られたものなの?? f:id:hansui:20171104170946j:plain

またランナーが走り抜けてゆきました。

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コンクリートの擁壁を通り過ぎると「山中茶屋跡」の説明板があります。

資料によれば、

山中茶屋は碓氷峠ルートのちょうど中心あたりにあった茶屋で、

寛文2年(1662年)の記録によると、この場所には13軒の立場茶屋があり、

茶屋本陣や寺もあり、その茶屋本陣には「上段の間」が2ヶ所もあったという。

こんな山の上の場所ですが、それなりの数の人がここで暮らし、明治期には

小学校もあったそうです。

明治11年(1878年)の明治天皇御巡幸の際には、児童が25人いたので25円の下附が

あったそうです。

倒木も多く今は廃墟と化してますが、集落跡には石垣や墓、コンクリート製の

下水溝等が残骸のように残された廃墟となってます。

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右手の小屋が小学校跡のようです。

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茶屋跡を過ぎ尾根道を行くと、

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いったん下った先にある登り坂が「山中坂」。

案内板によれば

「空腹では登るのは困難という急坂で、旅人達は先ほどの山中茶屋でちゃんと飯を

喰ってから登ったことから「飯喰い坂」と呼ばれ、中茶屋の集落はこの坂が

あったから繁盛していた」

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実感としては飯を食うほどでは??の、少し急になった坂を上ると、

廃屋・廃棄されたようなバスが見えてきます。

霞んだ看板文字からこの周辺は分譲地(別荘?)だった様子です。

バスはその会社の物だったようで送迎ようだったのかな?。

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ここで急に上の方から、何かが勢いよく駆け下る音が聞こえてきました。

かなりのスピードで下って来たマウンテンバイクでした。

カーブの急坂で前を行くカミさんを直前に気づき、一瞬曲がらずにまっすぐバスの

置かれてる方向へ乗り込むようにして止り、慌てて後続するもう一台に

曲がらないよう指示しました。

あのまま曲がってきたら、かなり危険だった感じで、

二人は何度も詫びを言ってましたが、カミさんも足が竦んだと言ってましたね。

最近はこのような登山やハイキング道で、MTBの走り抜けに多く出会いますが、

衝突危険に直面したのは初めてです。

 

そんなショッキングもありましたが、大事が無くって良かったねで少し急坂を

上ると「一つ家跡」説明板が立ってます。

「ここに老婆が居て旅人を苦しめた」とだけ書かれてますが?

江戸時代にこの辺りに、老婆が商う一軒の茶屋が有ったのでしょうかね。

どんな意地悪をしたのでしょう。f:id:hansui:20171104172300j:plain一つ家跡からしばらく尾根下のスギ林道を行くと、明かるい広場に出ます。

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 「陣馬が原」と呼ばれる古戦場跡に到着します。

古くは、太平記に新田方と足利方の合戦がこの場所で行われたと記されおり、

また戦国時代になると、武田方と上杉方の合戦が行われた場所と言われます。

古戦場か、狭いけどな~。

また、このあたりは子持山山頂の標高(1,107m)の頂上付近になるようです。

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陣馬が原で道は「追分」になっていて、道は二手に分かれます。

右は皇女和宮降嫁時に拓かれた和宮道で、比較的広く安全な道になってる

そうです。

中山道は左の道に入って行きます。

安政遠足は和宮道を通って熊野神社を目指すのだそうで、

ここから先の区間だけが、旧中山道とは違ったコースになっているのだそうです。

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尾根沿いの細い道を唐松黄葉を楽しみながらしばらく進みます。

ちゃんと「中山道」の案内表示も出ています。

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紅葉、黄葉に彩られた明るき道、天気晴朗のうえ風も無し。

旅を忘れてハイキング。

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まもなくチョロチョロと流れる小川が道を横切っているところに出ますが、

ここが「化粧水跡」といわれる場所です。

峠を登る人々が一息入れ、水に映った己の姿を整えたと言われる水場ですが、

倒木や雑草の繁りに埋もれ面影も無し。

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倒木の多い荒れた道のその先谷沿いの崖に、人馬の労をねぎらう休憩所だった

「人馬施行所跡」案内板が立っています。

案内板によると「人馬施行所」は、

文政11年(1828年)、江戸呉服橋の与兵衛という商人が、安中藩から

間口17間,奥行き20間の土地を借りて、この笹沢の清流が流れるほとりに

人馬が休める休憩所を造ったところなのだそうです。

“施行”という文字からすると、主として旅費の乏しい旅人のための茶屋だったようで

いまでいう「ボランティア運営」のようですね。

おもてなしとは違う、持てる者は救いを施せの優しさかな。

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人馬施行所跡の左側の下に川があり、細いですが結構な渓流です。

ここは橋がなく、飛び石伝いで渡りますが、雨の時にここを渡れるのか、ですね。

足場も悪く飛び越えるには難しそう。

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沢を渡ると、細い急勾配の道となりジグザグに登っていきます。

ここが「長坂」と呼ばれる急斜面の坂です。

和宮道」はこの急坂を避けるために設けられたといわれます。

坂本からの登り口も急坂でしたが、この坂もかなりのキツさです。

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きつい登りが続きますが、木々の美しい眺めにいやされながら、

一歩一歩足を進めます。

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熊笹が生い茂る区間を過ぎても、旧中山道は急な登り坂が続き、汗ばんできます。

日が西へだいぶ傾いて来たようです。

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急登は30分ほど続きやっと平坦なところへ抜けました。

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一休みして 呼吸を整え、その先はこの長坂の急斜面の坂を避けて、大きく

迂回してきた和宮道との合流点(追分)に到着します。

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左から来た和宮道と合流した場所に、明治維新で廃棄された神宮寺の

「仁王門跡碑」や小さな祠などの「石塔群」が散在しています。

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仁王門は元々は熊野神社の神宮寺の入口にあったもので、明治元年(1868年)に

神仏判然令により神宮寺は廃寺となり、その時に仁王門も廃棄されてしまいました。

仁王様自体は今も熊野神社の神楽殿に保存されているそうです。

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和宮道との合流点の付近には「思婦石」が建っています。

別名を「日本武尊をしのぶ歌碑」とも言われており、群馬郡室田の国学者・関橋守

作で安政4年(1857年)に建立された「日本武尊」の故事を詠った歌碑です。

 「ありし代に かえりみしてふ碓氷山 今も恋しき 吾妻路の空」

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熊野神社まではもう一息です。

あれ、「熊出没注意!」の立て看板だ、そういえば、注意看板は下には

なかったのでは?

(クマよけは、わたしはベル型でカミさんは風鈴型をつけてましたよ)。

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道標に中山道霧積温泉の文字が有りました。

西條八十詩集』の麦わら帽子の詩、

「母さん、僕のあの帽子どうしたでしょうね」

ええ、夏、碓氷から霧積へゆくみちで、谷底へ落としたあの麦わら帽子ですよ

霧積温泉は、森村誠一の長編推理小説人間の証明」に出てくる舞台ですね。

 

最後の坂道を上ります。 

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PM2:40過ぎですが、途中、私たちを追い越して登っていったご夫婦が、

今度は坂道を下って行きました。
歩きなれてるようで、かなりの速さです。

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PM2:45、中山道碓氷峠の頂上に到着しました。

登山口から登り始めて約5時間45分。

亀足歩きでも一歩一歩上った、中山道最大の難所と呼ばれるに相応しい碓氷峠

一度はあきらめかけた峠越えです、いや~嬉しかったですね。

群馬県側速玉男命を祀る新宮「熊野神社」へお礼参り。

すでに碓氷峠頂上から西への街道は進んでますが、これで正式に関東平野

別れを告げ、碓氷峠を越えて長野県への継ぎたしができたことになります。

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中山道の旅も一本につなげることが出来ました。

まだまだこれから軽井沢駅までの6kmほどの歩きが続きます。

名物「力餅」で疲労回復元気を貰い、「碓氷峠遊覧歩道」で下ります。

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木立越に浅間山

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PM5:00、軽井沢駅駐車場

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満月のようなまんまる月に見送られ家路へ。

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 継ぎたし旅は終わりました。

 

峠紅葉、デジブックアルバム

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