*ひょいと歩き出した東海道五十三次。
途中で、断念かの肝臓癌をなんとか乗り越えて、京の三条大橋へ到着。
勢いをかって「歩いて再び京の都へ」と乗り出した中山道六十九次。
またまた腹部大動脈瘤、心臓動脈硬化、そしておまけに腹部ヘルニア。
挫折しそうになりながらも、カミさんの支えもあって、またまた乗り越え
旅の再開。
そんな、じじばば道中ブログです*
11月3日に歩き残してた「碓氷峠越え」を果たし、街道は江戸から
28番目・和田宿へ一本線に継ながりましたが、先にはこれまた難所の
和田峠越えがあり、雪の季節となって一再び中断。
峠越しは雪融けを待ってとし、元気なうち歩ける内にと足を先へと向けて、
ぐ~んと冷え込み各地で降雪予報の19日(日)。
再び街道旅へと向かいます。
今朝も早めに家を出て、中央高速をひた走り。
休憩したPAからは朝日を受けた南アルプス・甲斐駒ヶ岳や北岳が雪山となって
輝き、遠くには金峰山の五丈岩まで見渡せました。
(右、甲斐駒ヶ岳、左上、五丈岩)
みどり湖PAで朝食は、カミさんがラーメンがいい、というので
いつも持参のカップ天蕎麦は止めて、食事処でラーメン朝食。
あれ、この辺は昨夜は雪が降ったんだ!
(食事処で聞いたら、初雪だったそうです)
塩尻駅前に車を停めて、トイレを済ませて前回足止めした、塩尻・下大門交差点
へ向かいます。
塩尻はブドウ栽培が盛んだったんですね。
駅前の観光協会の建物にもデザインされてます。
案内所で「木曽路イラストマップ」配布しているそうですが、まだ開いてませんね。
駅より2kmほど東へ歩き、前回足止めの三叉路となっている下大門交差点へ。
中山道、伊奈街道(国道153)長野道が交わる追分の交差点では、
18、19日の2日間開催される、県北長野市から県南飯田市間、217.5m
全22区を走る、超長距離・長野縦断駅伝のコースで、関係者の方々が大勢準備を
してました。
間もなく選手が通過、私たちが通ってきた塩尻宿を走り抜け、東の追分から
伊奈街道(国道153)へと向かうそうです。
1952年(昭和27年)「若者たちの体力と精神力を養うのに役立つスポーツを」と、
長野県を南北に一本の襷を繋ぐ駅伝が誕生し、今回が66回と伝統の大会でした。
選手の通過応援をしたい気持ちがありましたが、もうしばらく時間がかかるとの
ことで、居合わせた係りの方にシャターを押していただき、
AM8:30、第21回旧中山道夫婦歩き旅へ旅立ち。
正面に日を受けて輝く雪山を見ながらしばらく西へ進みます。
前方に巨大な木々が見え、そこは「大門神社」で、大木は樹齢300年の3本の
見事な大欅でした。
大門神社縁起によれば、
「昭和37年中央線の再度の開発のため、二番町の若宮八幡神社と柴宮八幡神社が
移転合祀し大門神社となった、大門地区の氏神。
また,昭和35年,境内から高さ64cmの弥生時代の銅鐸が出土した。
長野県は,銅鐸文化の圏外と思われていたので注目され,考古学者の間では知られた
神社でもある」と。
すぐ先右手に小さな祠があり、案内板は「耳塚」で、
耳の形に似た素焼の皿やお椀に穴を空けて奉納されている。
耳の聞こえが良くなるとの評判が立ち伊奈地方からなど多方面から
参拝者がいると云う。
天文17年(1548年)5月,武田信玄と小笠原長時との桔梗ヶ原合戦の際,
討ち死にした将兵の耳を葬った所とも云われている。
(カミさんが、どうして耳だけなのかしら??)
右手民家の電信柱下に小さな男女双体道祖神
新しそうですが、立派な長屋門ですね。
左手に海鼠塀の倉と、大きな屋号(曲尺の中に文字、カネホンかな)。
たしか普通は「カネホン(屋号)〇〇商店」のような表示だと思うが、
あれで「カネホン商店」だ、何を扱っていたんだろう?
木塀囲いになってるので、今は廃業したかな?
(他の資料に元は、「酒店」とありました)
私の父親の家の屋号がこの「カネ」で、本家がカネに桝形で「カネマス〇〇」
分家はカネに勝で「カネカツ〇〇」とカネに八で「カネハチ〇〇」と称してました。間もなくJR中央東線のガードが見えてきましたが、手前を右に少し入ると、
有明山御神燈は、坂上田村丸が、安曇郡有明山の賊退治の平定後に祀った社が、
先の塩尻宿京方に鎮座する阿禮神社の奥宮との事。
ガード上はJR中央線、操車線で、国鉄塩尻駅は,明治35年篠ノ井線開通時には,
ガード先の”昭和電工”の北隣りにあった。
明治39年中央東線,明治42年中央西線が開通。昭和57年(1982年)
塩嶺トンネル開通により中央東線が辰野を経由しなくなったのを機に,新駅が
西500mの位置に移された。旧駅は「塩尻大門」として主に貨物列車の退避場所・
操車場として残されている。
ガード先100m程の住宅地を行くと、右手は”昭和電工工場”の長が~い
コンクリート塀が続きます。
ガードをくぐって約1kmほどの平出遺跡十字路のすぐ先に「平出一里塚」。
松は,武田軍軍師山本勘助が,赤子を拾った伝説にちなみ「勘助子育ての松」と
呼ばれ、宝暦6年頃には茶店も2軒あった様です。
街道からは左側だけしか見ませんが、右側は民家の裏にありました。
先ほどから左手と前方に広がる広大な畑が桔梗ケ原で、東西3km,南北5kmの
台地で、天文17年(1548)5月武田信玄と小笠原長時の桔梗が原の合戦の戦場で
あった。
一里塚の200mほど先左手一帯に「平出遺跡」の案内板が見えてきます。
このあたりは「うばふところ」と呼ばれる丘陵地帯で、「桔梗ケ原」に復元された
竪穴住居が何棟も見えている。
縄文時代から弥生時代・平安時代にかけては大集落跡(175戸)であった。
遺跡は江戸時代から土器や石器が拾える場所として知られ,本確的な発掘調査は,
昭和25年から始まり,中でも古墳~平安時代の豊富な出土品は,当時の生活様相を
復元可能にするものとして貴重なものであると評価され、昭和27年国史跡に
指定された。
日本三大遺跡に数えられる大きな遺跡。
土器・石器など約2万点の出土品は隣接の平出博物館に展示されています。
また日本一大きな、奈良時代中期の瓦塔も展示されているそうです。
青森の三内丸山遺跡や静岡県の登呂遺跡など有名な遺跡が有り、立ち寄ったことが
ありますが、こ平出遺蹟は殆ど知らなかったですね。
この場所から北アルプスの山並みが見えるそうですが、雲がかかり姿を見せて
くれませんでした。
平出遺跡を後に、どこまでもつづくぶとう棚が広がる街道をさらに進んでいきます。
江戸時代にはこの辺りは畑以外何もない原野が広がっていたといいます。
このことからこの辺りを「桔梗ヶ原」と呼ばれていました。
甲斐の武田信玄が松本を根拠とした小笠原氏と合戦し、これを破った戦が行われた
古戦場です。
振り返へると、霧ヶ峰、美ヶ原の雪の山並みが大きく見えてました。
付近のブドウ棚にはもう収穫はしないのでしょうか、たくさんのブドウが残され
てます。
おっ、スイスへ行ったときに見た、木立式のブドウ畑。
旧中山道は,中央西線の踏切を渡り,”中信農業試験場”,”野菜花き試験場”の前を
通過する。イチョウの木には銀杏が鈴なり!
ブドウ畑やワイナリーが点在の道を行くと、間もなく国道19号への突き当たりが、
その名も。中山道一里塚交差点。
国道を横断して右手下に旧中山道跡が残り、200m程先で国道19号に合流する
ようです。
およそ1km先,コスモ石油手前から左の細い草道に入り、しばらく行くと国道に出,
<平出歴史公園>交差点で国道を斜めに横断し、右手の緩い坂道を下って
県道304号線を「洗馬」集落へと入って行きます。
おっ、雀おどりの屋根飾り!
坂道となり右手下に田畑が広がり、川も流れているようです。
左手側に山が迫り、山裾の段丘上の国道から分かれておよそ500m,
右手に「細川幽斎肘懸松碑」と呼ばれる
一本の赤松が道にせり出して立ってます。
説明版では、「洗馬の肘松日出塩の青木お江戸屏風の絵にござる。」と歌われた
赤松の銘木だったそうな。
細川幽斎が「肘懸けてしばし憩える松影にたもと涼しく通う河風」と詠んだ
と伝えられ、また、江戸二代将軍秀忠上洛の時、肘を懸けて休んだとの説もある。
昔の写真も添えられており、大きさから現在の松は何代目?
坂道は「肱松の坂」と呼ばれるそうです。
「あら、道標が、ここを下るのよ」
道脇草むらの中にちっちゃな道標が有りました。
細い坂道を下ると、左手からの道と合流の桝形で、高さ4mの
旧分去れ(かわされ)の常夜燈が建ってます。
安政4年(1857年)の建立で、ここが北国西往還(善光寺西街道)追分。
(現県道294号)
右:桔梗ケ原を経て塩尻宿へ向かう中山道
左:松本,麻績を経る善光寺道
ここからが洗馬宿の江戸方(東口)かな。
50m程先で下って来た県道303との合いには、新「分去れ道標」や石塔群が
県道が出来たとき桝形の「旧分去れ」から移設されて建ってます。
街道案内によれば、
江戸から59里33町(約235km)、31番目の洗馬宿 (せばしゅく)。
慶長19年(1614年)の中山道が塩尻峠経路に付け替えられたのに伴い、
近くの村が集合して塩尻宿・本山宿とともに新しくできた宿場です。
左手の鳴雷山、霧訪山などの山裾段丘上に開かれ、さらに下がった右手平地には
奈良井川が流れています。
北国往還善光寺道との追分にあたり,善光寺詣り,御岳講の人々などの旅人の往来で
賑わった宿場。
当初は松本藩の管轄下にあったが,享保10年(1725年)幕府直轄領となる。
何度かの大火に見舞われたが、昭和7年(1932)の大火で、宿場のほとんどが
廃墟と化し,往時をしのぶことはできない。
天保14年(1843年)中山道宿村大概帳によれば、
往還の長さ5町50間。
家数:163軒,本陣:1,脇本陣:1,旅籠:29軒、宿内人口:661人,
案内木柱に従って、右の細い横道に入り階段を下った所に、「洗馬(せば)」の地名の
由来になったと言われる「邂逅(あうた)の清水」
欅の古木の根元から清水が湧き出していて、塩尻市ふるさと名水20選の
ひとつである。
伝わる故事によると、
木曽義仲の重臣今井四郎兼平が,義仲の旗揚げを知ると直ちに馳せ参じて
この清水で邂逅した。義仲の馬は強行軍に大変疲れており,そこで兼平は馬の脚を
この泉の水で洗ってやると,たちまち元気を取り戻したという、
そこから「洗馬」と呼ばれるようになった。
(一説には、洗馬の地名の由来とも云われるが,平安時代に既に洗馬牧の名が
あったといわれる)
下方の田畑の中を”奈良井川”が蛇行しながら流れています。
*広重は洗馬として、宿の西を流れる奈良井川の夜景を、邂逅の清水辺りから
描いたと言われます。
川面には満月の明かりを頼りに進む、柴舟と筏を描き、 絵の中央には洗馬の
宿並みが描かれています。
この絵は、広重の最高傑作といわれています*
(宿場が奈良井の流れる平地ではなく、山側の高台地上に開設されたのは、
水害を避けたのでしょうか)
街道に戻り先に進みます。
昔の建物は大火で焼失してしまっているので,宿場の面影はなく,
道幅も大火の経験からか宿場町としては広く、人通りはほとんどありません。
洗馬駅への入口で、奥突き当りから右手が駅舎の有る敷地は、本陣、脇本陣の
名所案内にもうたわれた名庭園があったところだそうです。
駅入口から50mほどのところに「宗賀農林漁業体験実習館」という比較的新し
そうな建物がありその壁に「洗馬宿」の街並みについて説明版が掲げてありました。
洗馬駅入り口を過ぎて,左手に
「百瀬本陣跡」
問屋を兼ねていた「志村脇本陣跡」
*「本陣」,「脇本陣」の庭園は,「善光寺名所図会」に「中山道に稀な・・・」と
紹介された名園であったが,明治42年(1909)中央線の開通によって
洗馬駅の敷地となり失われたそうです*
「荷物貫目改所跡」
「公用荷物の重さを計り運賃を決める役所」だったそうで、
さらに進むと、民家と洗馬公園の間から登る参道が裏手の山への「洗馬神明宮」の参道で、大祭に演じられる太神楽が塩尻市無形文化財だそうです。
JR中央線の線路をこえての林の中に見えてました。
進むと、洗馬公園のフェンスの中の「芭蕉句碑」に
つゆはれの わたくし雨や 雲ちぎれ 芭蕉
そして「高札場跡」が続く。
その先、洗馬宿の西のはずれの桝形(西の口・京方)は急坂となっていて、
そのさきでJR中央線のガードを潜ってゆきます。
その桝形坂手前の左に 新福寺跡と言成地蔵尊(いいなりじぞうそん)を安置する
地蔵堂の案内板が建ってます
桝形を左に曲がったガード手前に案内標柱が立ち、上り200mほど山の方へ
行くと、新福寺地蔵堂(言成地蔵)が祀られてるようです。
なぜか立ち寄りはしませんでしたね、なんでかな??
街道書には
「元は西の桝形あたりに安置されていたが(案内板が建っていたところでしょうか)
あまりに落馬する人が多いので,ある時一人の武士が怒って地蔵様を斬って
しまった。
これでは縁起が悪いと村人たちが新福寺に移し、言成地蔵として地蔵堂に安置した。
その後、明治3年(1870)の廃仏毀釈により新福寺は廃寺となり、
地蔵堂は言成地蔵として境内の南方の一角に須弥壇とともに遷された。
境内には旅の途中で死んだ人など墓31基その他があり,今も参拝者が絶えないと
云う」とあります。
街道はこの先でJR中央線のガード下を通って右にカーブし、次の本山宿へと
足を進めます・・・後編へ。