歩いて再び京の都へ 旧中山道夫婦旅   (第22回)  贄川宿~奈良井宿 後編

*「大雪になる前に、あと一回旅へでたいわね」のカミさんの一言があって、
帰宅後すぐに週間天気予報とにらめっこ。
よし、25日(土)なら歩けそう、と再び旧中山道夫婦歩き旅へ。*
 

の後編です。

奈良井宿へ到着です。

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奈良井駅」。
 明治42年(1909)12月1日中央東線塩尻~奈良井間延伸と同時に開業。
観光地の奈良井宿の玄関口ですが,特急は停車しません。

線路の東側は奈良井川が流れ、川を挟んで水辺公園側と国道19号から

直接入れる駐車場を大きな木製太鼓橋で結ばれた、「道の駅・奈良井大橋」が

あります。

ただし、道の駅は物品販売や食事処などは併設されてい、不思議な道の駅ですね。

f:id:hansui:20171130131242j:plain駅左側に大きな奈良井宿の看板、右手の乗り入れ禁止の立て札後ろに並んだ

樹木は、木曽谷を管轄していた尾張藩によって、伐採や持ち出しを厳しく管理され

ていた、桧・さわら・ねずこ・あすなろ・高野槇の木曽五木が植栽されてます。

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分厚い板柱と宿場案内板

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奈良井駅の少し先の右手に戻るように付いている坂道を山側上って行くと、

奈良井川の左岸を通って橋戸の一里塚から平沢へと通じていた、江戸時代初期の

中山道・杉並木の一部や、奈良井宿の鬼門除け八幡宮、観音像が194体ある

二百地蔵堂などがありますが、雪で足場が悪いと教えていただき、今回は寄らずに

次回の楽しみとして宿場内へ足を進めます。

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駅前を過ぎると、いきなりとゆう感じで、大勢の観光客の姿が見え始めます。

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中山道奈良井宿は、鳥居峠上り口にある鎮神社を京都側の端に、

奈良井川沿いを緩やかに下りつつ約1kmにわたって町並みを形成する、

日本最長の宿場です。

中山道木曽路十一宿のうち、北から2番目の難所:鳥居峠を控えた宿場町。

江戸側の板橋宿から数えても京側の守山宿(大津、草津東海道)から数えても

34番目に位置する中山道の丁度真ん中の宿場町です。

 昭和53年に国から重要伝統的建造物群保存地区に選定されました。

 

国土交通省重要伝統的建造物群保存地区規範事例集より抜粋)

*記録上では20回に及ぶ火災にあい、特に弘化4年(1847年)の大火により

 全焼し現在の街並みはそれ以降に形成されてます。

 一般的に伝統的街並みが失われる原因として、

 1)、火災、

 2)鉄道整備(街の空洞化により消失) 

 3)道路の整備(拡張により   消失) 

 4)建物の老巧化(建て替えにより消失) 

 5)人口r流失による過疎化

   などがあげられる。

 奈良井の場合は

1)定住率が高い(人口の7割以上が、明治前より定住し、地域への愛着が強い)

2)鉄道、国道が旧街道を迂回、

3)町を愛する住民の存在

4)外部の人たちや組織にプロデュースを任せず、日常生活をしながら身の丈に

  合った街づくりをしてきた。

というような幸運な条件が重なって保存されてきた。

昭和53年度から平成9年度に渡り、国庫、県、補助事業により210軒の

修理(建物全体)、138軒の修景(表層のみ)を行っている。

電柱は昭和63年に建物の裏側に移設させ、あたかも無電柱化を図ったような

景観を実現している。

自動販売機のクロス貼り、郵便ポスト自作など、手作りの街造りも行われている。

 と、記述されてます。

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江戸へ64里22町14間。宿場町並8町5間(885m)。
木曽路で最も標高の高い位置(940m)にある。
鎌倉時代から宿駅の体裁が整い,慶長7年(1602)徳川家康により
中山道の宿駅と定められ,街道にそって南側から上町・中町・下町に分かれ,
中町に本陣・脇本陣・問屋などが置かれていた。

近世,奈良井は檜物細工,塗り物,塗櫛などの木工業などが盛んとなり
「奈良井千軒」と云われたほど賑わった宿場である。 

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連子格子や二階正面に「袖うだつ」をもつものも多く、特徴のある町並みを作って
いる。
 

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天保14年(1843年)中山道宿村大概帳によれば、
 家数:409軒,本陣:1,脇本陣:1,旅籠:5軒、人口:2155人,
であった。

奈良井宿は他の宿場とは大きく異なり旅館業よりも曲げ物、櫛、漆の器など

木工細工を主な産業とした職人の町でした。
 (旅籠の数は天保14年の記録でも5軒と少ないが、商人の家が旅籠の役割を

 果していたといわれる)

 電柱や電線が無く、街並みをかくもすっきりさせ、軒の低い格子戸がはめ込まれた

町家がどこまでも続いてます。

f:id:hansui:20171130170256j:plain街道書では、右手山側、専念寺への参道分岐付近に、桝型という桝のように

四方形に石垣や土塁を築いた場所が設けられている、とあります。 f:id:hansui:20171130172907j:plain

桝形のすぐ先右手、奈良井宿にも水場があります。

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1条の水が枡に流れ込みそ、こからは2条で流れ出る奈良井宿の標準的タイプの

水場。柄杓もあり水を飲むことが出来ます。

奈良井宿には6か所の水場が設けられ、それぞれの水場に水場組合が作られ、

維持・管理を行っているそうです。 f:id:hansui:20171130173352j:plain

街道時代は油屋を営んでいて、昭和40年代から旅館「あぶらや」として営業。

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この奈良井宿には、十数年前に初めてマイカーで長距離ドライブをし、

上高地や、当時マイカー乗り入れが出来た標高2700mの乗鞍岳畳平などへ

行き、林道走りなどで遠回りしての帰り道で、道の駅利用の際に立ち寄った

ことがありました。

一部だけ歩いたような気がしますが、まだ街道や宿場などに感心もなく、

古色蒼然とした街並み、とだけの印象が残ってました。

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ゆっくりとした坂道の奈良井宿

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 個々の家でも独自のディスプレーを施して見る目を楽しませてくれます。

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 漆店の看板ですが・・山型積みは薬草?

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水場

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典型的な町屋造りは、創業寛政5年(1793年)銘酒「杉の森」蔵元

「杉の森酒造」です。

切妻、平入り、外壁は正面が真壁造り白漆喰仕上げ、腰壁と両面は

下見板張縦押縁押え、2階外壁は1階外壁より前に張り出し、伸びた椀木に桁を

流し、そこで外壁を支える出桁造。

中2階の建物で通常の2階建てよりは軒が低くいのが特徴です。

この宿場は雪国の為か軒の出は非常に深く、窓には千本格子を設え、隣家との

間には延焼対策と思われる袖壁があります。

袖壁は他の地域で見られるような土蔵で屋根上部まで伸びている形式と異なり、

簡易的なものですが、火事の延焼やプライバシーの確保などに一定な効果はあった

と言われます。

今は仕込みの時期かな、軒の下酒林(杉玉)はまだ提げられていませんね。

(残念ながら2012年頃から、酒造りはしていない(廃業?)、

  とのお話を頂きまし)

 

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杉の森酒造の向かい、右手に大きな 「楢川村奈良伝統的建造物群保存地区」の

標柱が建ち、樹齢400年と言われる松の根元に、津嶋神社庚申塔が立ってます。

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右手木枠門から細い参道を入ると、天正10年(1582)、当時の領主奈良井義高が自らの菩提寺として創建した「臨済宗妙心寺派 広伝山・大宝寺」があります。

裏山には開基となった奈良井義高の墓があります。

このお寺には十数年前に、寄った記憶がありました。

七福神めぐりの寿老人、隠れキリシタン信仰にまつわる、子供を抱き膝も頭部も

破壊され、わずかに胸の十字架だけが残っている、マリア地蔵尊や、

享保年間(1716~35)に作庭されたと言われる庭園、などを拝観した記憶がありました。

(カミさんも記憶を辿った様で、マリヤ地蔵尊を見たわね、て)

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大宝寺は覗いただけで後にし、宿内へ戻ります。

延宝3年(1675年)創業と言われる、脇本陣も勤めた旧旅籠「徳利屋」

島崎藤村正岡子規など文人・文豪が泊まったこともあるそうです。

現在は郷土館を開いてます。

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山駕籠かな?

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街道書によれば、この付近から右手に入ると、本陣跡とあります。

 

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奥が本陣跡で標柱と嘉永2年(1849年)建立の常夜燈がありますが、

現在は公民館、郵便局、駐車場などで、本陣としての遺構は何もありません。

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ある説では、規模も小さな本陣だったようで、行列は街道へ出て整えたそうで、

道が広くなってるそうです。確かに付近の道は広がってますね。

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 文政元年(1818年)創業、脇本陣を勤め下問屋も兼ねた「伊勢屋」

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寛政年間(1789~1801年)創業と言われる旅籠・越後屋(今も旅館盛業)

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手塚家が勤め庄屋を兼ねた「上問屋」、現在は資料館となってます。

建物は切妻平入りの中2階の建物で、典型的な町屋形式となっており、
平成19年(2007)に国指定重要文化財に指定されています。

奈良井宿の案内板によると、

「この家は慶長7年(1602年)から明治維新に宿場制度が廃止されるまで、

270年間、奈良井宿の問屋(伝馬と人足を管理運営)をつとめ、天保年間からは

庄屋も兼務して明治維新に至りました。

現在の建物は天保11年の建築で、その当時の記録が残されています。

明治13年6月26日明治天皇が御巡幸の際御在所となった、・・・(後略)」

とあります。

(手塚名は平沢でもありましたよね)

 

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上問屋のすぐ先右に入ると、創建は南北朝時代の貞治5年(1366年)との言い伝えがある、曹洞宗・長泉寺があります。
徳川家光の時代、茶壺道中の本陣で、拝領の茶壺の一つが残されているようです。
本堂入口の天井に描かれた「龍の大天井絵」は一見の価値があります。

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外国の男女三人が盛んにカメラを向けてましたね。

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街道へ戻ると先は桝形です。

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中町から上町への桝形は「鍵の手」と呼ばれ、碑が立ってます。

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そして、桝形に水場が設けられ旅人の喉を潤すとともに、防火にも活用され、f:id:hansui:20171201141303j:plain

荒沢不動尊は水、火とのかかわりから水場の守りと、火防の守護神として、

また男女双体道祖神が道の守りとして旅の安全を長い安置されているそうです。

f:id:hansui:20171201144730j:plain三つ目の上町へ入りました。

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古い様式の猿頭(屋根板を押さえたもの)をつけた家が3軒並んでます。

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上町の真ん中付近、街並みに溶け込んで、唯一の洋館が立ってます。

(カミさん曰く、きっと医院だったのよ)

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*帰りの道すがら地元の方に聞くと、つい最近まで奈良井診療所だったそうです*

上町外れ近く、中村利兵衛家。

木櫛の上に上質の漆を塗った漆櫛の創始者・中村恵吉家の分家で、

代々奈良井宿で塗櫛の製造販売を手掛けた櫛問屋を生業としてきました。

現在の中村家住宅は、天保8年(1837)の奈良井宿大火で類焼後の

天保10年(1839)頃に再建されたもので、現在は資料館として公開されます。 

奈良井の町並みを残そうと、住民が考えるきっかけになった家ですね。

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奈良井宿瓦版の記事を紹介。

奈良井宿の木櫛の歴史は大変古く、江戸時代初期に始まり、木曽の「お六 櫛 」

は全国的に有名です。

寛政年間、中村屋恵吉 けいき ちがこの木櫛に漆を塗り、中山道を通る旅人 に

大変もてはやされ、その後、吉野屋治兵衛  が苦心して蒔絵 ま き え を付け

奈良井宿の産業 として成立させました。

塗櫛は、江戸や京の都へ出荷され今も「江戸ぬり櫛問屋○ ○○」という立派な

金看板が残っています。 大正時代にはいると、奈良井で木地、塗りを 施し、

東京でつまみ細工をして仕上げました。 これが、島崎藤村の「初恋」で知られる

「花 はな 櫛 ぐ し 」 ですが、大正末期にはすっかり姿を消してしまい ました。

その後、昭和42年ころから塗櫛を復活させ、 現在でもつくり続けられています。

江戸時代初期から今まで350年余りも続いた、 木曽のお六櫛は、その永きに渡る

歴史において 数々の工夫技法が凝らされ、今日の美しい姿へ 変化してきました。* 
(お六櫛は<ミネバリ> というとても硬い木が素材だそうです)
(栄泉画 奈良井)
峠へと坂道を上ってきてます。栄泉の画はこの中村屋を描いたものでしょうか。

看板に「お六櫛」の文字があり、商い中の人々が描かれています。
旧東海道を旅していた時に、鈴鹿峠を越えた土山宿で「お六櫛」の商い看板を掛け

た店がありました。遠く木曽方面から仕入れしていた、と解説されてましたね。

はるか近江の国へ中山道を運ばれてきてたんですね。

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少し上り坂の傾斜がきつくなり、集落の西端が近いようです。

昭和48年(1973年)に復元された、奈良井宿高札場があり、

側に木曾谷の伝統的な板葺石置屋根の、宮の沢水場があります。

 

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高札場の先に、

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 PM3:00

奈良井宿の鎮守、12世紀後期創建と言われる「鎮神社」前に着きました。

町並みの西端の鳥居峠の上り口にあります。
今日の歩き旅は、いや、今年の旧中山道夫婦歩き旅はここで足止めし、

来春の雪解けまで休眠します。

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再び訪れ歩き旅を再開することが出来たときに、新ためて神前に参拝することとし、

鳥居前で黙礼して、すぐ先の鳥居峠口を確認し旅を締めくくりました。

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 木曽路は山に日が遮られ、夕暮れは足早に訪れます。

再び1kmほどの戻り道を歩き、駐車場へ、

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9月17日に,、再び歩き始めることができた旧中山道69次夫婦歩き旅も、

来春の雪解けまでの足止めです。

PM4:00、帰路へ。

途中で寄った諏訪PAから、夕暮れの八ヶ岳が綺麗に見ることが出来ました。

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中央高速は相変わらずの渋滞時間帯、PM8:00帰宅。

第22回旅、終わりです。