*ひょいと歩き出した東海道五十三次。
途中で、断念かの肝臓癌をなんとか乗り越えて、京の三条大橋へ到着。
勢いをかって「歩いて再び京の都へ」と乗り出した中山道六十九次。
またまた腹部大動脈瘤、心臓動脈硬化、そしておまけに腹部ヘルニア。
挫折しそうになりながらもカミさんの支えもあって、またまた乗り越え
旅の再開。
そんな、じじばば道中ブログです*
4月19日、奈良井宿から鳥居峠を越えて、藪原宿へ到着し足止め。
世の中GW。
後半は天気が崩れそうてんで、昭和の日・29日に再び街道旅へ。
藪原宿から宮ノ越宿へ、そして宮ノ越宿~木曽福島宿へと足を進めます。
29日早朝、今回もマイカーを走らせ。みどり湖PAで塩ラーメンの朝食。
AM7:40藪駅前着。
快晴の空、朝の風が爽やかで、絶好の旅日和。
AM8:00
「中山道69次夫婦歩き旅」、第24回目の旅立ち。
JR藪原駅はちょっと変わった構図ですね。
藪原の集落は線路の北側ですが、駅舎は南側にあり集落から直接改札を入ることは
出来ないんです。
駅舎の建つ側は、数軒の旅館や民家のみ裏手は段丘上に国道が通っています。
藪原駅から南西へ向かい国道19号へ足を進めると、藪原宿集落からの道が
JR中央線のガードを潜ってきてた道とその先で合流し、
木曽村 藪原信号で,国道19号へと合流します。
旧中山道は線路の向こう側を木曽川沿いに行き、その先で線路を横切って
山側へ続いていたそうですが、いまは分断され消滅してる由。
先で藪原集落からの道に合い、さらに木曽村 藪原信号で国道19号と合流、
右側につけられた歩道を歩みます。
さすがにGWとあって、トラックは少ないですが自家用車の交通は
半端ではありませんね。
鉄道は木曽川を対岸へ鉄橋で渡り、国道は木曽川左岸沿いに南下してゆきます。
競歩のような、すごいスピードで追い越しっていた方は
腰にウエストバック、右手にペットボトルの軽装。
旅というより、タイムを追いかけてるランナーでしょうか。
右下を木曽川が流れ、川の向こう側に中央本線が走り両側から山が迫る。
まさに木曽路は山の中。
木曽川沿いの、国道右手歩道を歩きます。
冷気を感じるくらいの川風は歩き旅には持って来い、いい旅日和です。
やがて前方に橋が見えてきてみます。
江戸方面からは、橋を渡らずに川沿いに左へむかう旧国道(中山道)を行く、
と街道書にありますが、信号も無しのうえ、ガードレールに阻まれて左側へ
渡ることが出来ません。
(旅人によっては、ガードレールの切れ間から、それ!と横断し左側の切れ間へ
駆け込むともありましたが、切れ間、見逃した?いや、無かった様な)
ここは結構、高スピードで行き交う車両が多いため、横断を断念。
このまま右側を進み、一旦獅子岩橋で木曽川を渡ります。
「コンニチワ」と声を残して女性ランナーが走り抜けて行きました。
渡った先の国道壁面に、「鳥居峠を行き交う旅人、馬子の大壁画」。
壁画を過ぎた先で、木曽川を再び鷲鳥橋で渡ると、木曽川左岸を通ってきた
旧国道(中山道)が左手から合流してきます。
(左、山裾のガードレール道が旧道)
橋を渡ったところで、旧道との合流地点でガードレールの切れ間があり左右の
見透しもいいので、やっぱり少しでも街道に忠実に歩きたい、と
それ!と左へ横断し、半分ほど旧道を戻ってみました。
写真、旧道中間くらいから、右は江戸方面で左は京方面。
山の斜面のピンクの花はツツジの様子、
おっ、アカヤシオ!! かな??
旧中山道は国道を横断して右手へと進んだようですが、今は消滅。
再び国道沿いを歩きます。
菅の信号で歩道帯のある右側へ渡って、先へと進みます。
ここの信号は「自転車横断帯」はありますが、徒歩横断歩道帯」は設けられていない
へんな交差点ですね~・・右手に集落もあるのにね。
旧中山道は信号の少し先で、右手から来て国道を横断し左手の山の道へ繋がって、
この先にある吉田洞門の上を越える、高巻きの山道となっていたようです。
高巻山道を越える幕末の皇女和宮の、何日も続く行列の様子を、
右手木曽川、川向こうの村人が語り伝えていたそうです。
菅の交差点から5、6分歩くと木曽川が山裾に迫り、崖に落石や雪崩を防止する
ために造られた吉田洞門があり、洞門右手木曽川沿いに歩道が設けられています。
遠くの雪山は!中央アルプスだね。
歩道は木曽川ぎりぎりの崖の上。
花桃が咲き、木曽川右岸の長閑な集落を眺めながら足を進めます。
街道書の道筋通り、洞門を過ぎて先の吉田交差点で左手の山裾側へ渡ります。
渡るところで地元の方から教えていただき、信号を渡って少し国道を戻った
山斜面の住宅脇のニリンソウ大群落へ。
やまの斜面に一面に広がるニリンソウ大群落。
まだ朝の山陰だったようで、花は閉じましたが午後からは見事でしょうね。
ありがとうございました。
信号へ戻り先へ行くと、左山側に庚申塔や供養塔など十数基が石段上に祀られてます。
少し先の山裾にも石段の上に石仏石塔群が見えました。
中に墓石らしきものもあったので、墓地にもなってるかな?
山裾側は日差しが差し込みはじめ、今春爛漫
もう少し歩くと 木曽川に架かる吉田橋を渡ります。
橋を渡った右手に下吉田一里塚があったようですが、いまは消滅。
街道は渡ってすぐ、左手の整備された川沿い道へと進みます。
花桃咲く川沿いを5分程歩くと国道へ出、国道は木曽川を再び橋で渡り
山吹トンネルをへと入ってゆきます。
持参の街道書では国道を右手に横断、橋を渡らずに木曽川沿い右手に設けられていた
旧国道が中山道街道になるようです。
左手は木曽川右手は鉄路もトンネルに入り、狭い山の谷間道を真っ盛りの
山吹の花が彩り、時折鶯の鳴き声が川音に合いし、これぞ木曽路の風情たっぷり。
旧中山道は少し進んだところから、高巻に山道へと登って行き、 先の巴淵の集落へ
と続いていたそうですが、ここも山道は消滅してしまい歩く事が出来ない。
木曽街道のパンフレットでは
「木曽街道の中で、一番谷が狭い所で、山の姿川の流れが美しい。
この旧道沿いを山吹横手と呼び、山吹の花が一面にさく。
ここに咲く山吹は実を結ぶと伝えられ、この枝で作った箸をを使うと
子宝に恵まれる」と記されています。
谷間の道も大きく開けると山吹トンネルを抜けてきた国道に当たり、
中央アルプス側を越えて伊奈方面へ向かう権兵衛峠への分岐、神谷交差点。
交差点を左手に渡り、振り返りショット。AM9:50
緩い上り坂を行きます。
消滅してる旧中山道は、右手の山の中通っていたそうで、木曽川を回り込むことから
「山吹山回廊道」と呼ばれていたとか。
この付近からは木曽義仲の生い立ちの地など、縁の里が続くんですね。
しばらくの登り坂を行き、山吹橋を渡った先で巴渕交差点を右折し木曽川沿いの
右手の道へと入ります。
巴淵の交差点、その角には「宮ノ越宿」と書かれた大きな看板があり、
中山道薮原宿5.3㎞ 巴淵300m・中山道宮ノ越宿1.8㎞ と道標が建ってます。
道端にはニリンソウが咲き続き、句碑を見送って、鉄橋を潜ると右手に曲がり、
巴橋を渡って先へ続いてゆきます。
橋の手前右手が巴淵で、巴淵と刻まれた石碑が建っている。
木曾義仲に恋慕した女丈夫の巴御前は、この淵に住む竜神の化身との伝説や、
この淵で水練したとの由来の解説板が建てられてます。
巴橋を渡ると道は左手木曽川沿いへ曲がります。
曲がり角の右側に、木曽義仲が南宮神社を拝する時に使った手洗水がありました。
南宮神社は木曽川左岸の山裾に鎮座し、木曽義仲の戦勝祈願所であった由。
山裾の木曽川右岸沿いの街道らしい細い道の徳音寺集落となり、春の花咲く道を
約300mほど歩くと、右側民家の土手に道祖神が祀られていました。
尚、この辺りは木曾義仲が育った土地で、川向こうの線路のさらに向こうには
元服後義仲が住んだ館跡や、治承4年(1180年)に平家打倒の旗揚げを行った
旗挙八幡宮があると街道書に記されてます。
足を進め、皇女和宮の元婚約者であった有栖川熾仁親王夫妻が、中山道旅行の途次に
休息した手塚家の前に跡碑が建っていました。
道は左折,右折を繰返しながら進み県道259号に出て,旧中山道は向小路集落で
左にカーブを切って,木曽川を「葵橋」で渡り宮の越宿へと入って行きますが、
そちらの途をとらずに持参の街道書に記載されてる道筋を取り、
直進して「義仲館」と「徳音寺」方向へとへ向かいます。
その先で緩く右へ曲り進んでY字路を左へと歩みます。
一時誤って山吹山方向への道へ入ってしましましたが、地元の方に教えていただき
街道復帰、やれやれ・・
復帰道で藪原方面へ向かう二人連れの多旅人と挨拶。
田畑の広がる里道をのんびりと進みます。
左手遠くには雪の頂が姿を見せてます。
木曽駒かな?
里風景を楽しみながら10分ほどで広場に出、右手に徳音寺入口。
左手が義仲館の場所に到着。
徳音寺は、仁安3年(1168)、木曽義仲が母親の追善供養の為に創建。
伝承によると、義仲が粟津の戦いで敗れ自刃すると、遺骸は密かに当寺に運ばれ
葬られたとされ、義仲の戒名に因み寺号を「徳音寺」に改め、菩提寺になったと
伝えられてる古刹です。
元は徳音寺集落にあったが水害で現在地に移転。
山門は江戸時代中期の享保8年(1723)に、尾張藩犬山城主から寄進された
もので、山門上部の梵鐘は「徳音寺の晩鐘」として木曽八景の1つと言われます。
木曽における江戸時代中期の楼門建築をを代表するものとして、旧日義村文化財に指定されている
境内には木曽義仲や巴御前、今井兼平、樋口兼光などの供養塔がありました。
ちなみに義仲の墓は,大津「義仲寺」にも木曽福島「興禅寺」にもあり、
いずれも立ち寄ったことがあります。
参道を下るとすぐ左手が、正面に長刀を持って立つ巴御前と、腰をおろした
義仲の像が立つ。義仲館。
木曽義仲の生涯を武者人形や日本画で,関係文献やゆかりの品を展示している。
ふるさと創世一億円で建てられたそうです。
(しばし足休めはしましたが、館内には入りませんでした)
義仲記
「木曽義仲は久寿元年(1154)源義賢の二男として武蔵国大蔵館で
生まれ,幼名を駒王丸と呼ばれた。久寿2年(1155)伯父義朝の長子義平に
父義賢が攻め滅ぼされた時は2歳であった。駒王丸は畠山重能と斎藤実盛の温情に
より信濃国木曽に逃れ,木曽中三権守 中原兼遠にかくまわれ養育を受けた。
仁安元年(1166)元服し木曽次郎義仲と名乗った。
治承4年(1180)後白河法皇第二皇子以仁王の平家討伐の令旨を奉じ旗揚げをし,寿永2年(1183)北陸に進撃した。この時,倶利伽羅峠で牛の角に松明をつけて平家の大軍に追い込み撃滅させたことは有名である。この年入京した義仲は征夷大将軍に任ぜられたが,元歴元年(1184)後白河法皇の策略によって鎌倉軍に敗れ
近江の粟津ケ原で討死した。31歳の短い生涯であった」
右折して江戸から67里32町14間,36番目の宿場、宮ノ越宿へ入ります。
(宮ノ越宿画、画は広重ですね。橋を渡ってる様子ですね)
急峻な木曽谷の中にあって,比較的緩斜面が多い地で、
宮ノ越宿は 1843年(天宝14年)
人口585人 家数:137軒 本陣:1 脇本陣:1 旅籠:21
中山道69次のちょうど中間に位置し,脇街道の伊那へ抜ける権兵衛街道の追分と
もなっている。
木曽義仲が挙兵した地として知られており、挙兵の地「旗挙八幡宮」が鎮座します。
明治16年(1883)の大火や道路の拡張で往時の面影はほとんど失われている。
宿場へ入り200mほど進むと左手に、宮ノ越宿村上本陣跡があります。
天保14年(1843)の本陣絵図では,往還に沿って間口9間奥行き18間,
16坪の中庭と裏に庭園と土蔵1棟があり,敷地面積194坪という堂々たる
規模であった。
宿場は幕末の元治2年(1865年)に大火の災禍に見舞われ、
その後に再建された客殿が明治16年の大火では母屋は焼失したが、
母屋とは別棟の客殿は火災を免れ、村上家の生活の場として使われ続けたため、
一部が改造されたものの、今にその姿を伝えることができてるそうです。
客殿。
その先に都築家がつとめ,問屋・名主を兼帯していた「脇本陣跡,問屋場跡」は
空き地に立て札のみが建ってます。
さらに数分先に、宮の越宿の旅籠であった出し梁造りの旧家「田中家」
明治16年の大火後に、隣村から運んだ建物部材を用いて再建された建物で、
間口3間、奥行き8間の間口が狭く、奥行きの深い典型的な町屋建築で、
2階に3尺張り出した出梁造りの建物である。
田中家の少し先の宿場の外れに「明治天皇御膳水」で 幕末に掘られた井戸が
復元されている。
近郷随一の名水と云われ明治天皇巡幸の際,この水でお茶を差し上げたと云う。
街道は緩い上り坂となり、左手の下町会館の敷地内に元禄時代に建立された、
観世音菩薩、廿三塔、道祖神などの石仏石塔群がまとめて祀られている。
坂を登りきると橋があり右手に道標が建ち、宮ノ越宿を後にします。
次の福島宿へは約7.0km
宮ノ越宿を後に、JR線路と並行の土手下の道を10分ほど歩くと、
左手道脇に江戸から68番目「宮ノ越一里塚跡」がありました。
土手の草むらにはニリンソウ、福寿草、スミレなどが咲き、嬉しい草花散策です。
一里塚より15分ほど線路下の県道を行き、JR中央線第五仲仙道踏切を渡り
原野・間の宿集落へと入って行きます。
原野駅バス停の丁字路で、右折するとJR原野駅と原野八幡宮や明星岩へ登る
道の入口になってます。
寄ってはいませんが、原野八幡宮。慶長3年に木曽家の旧臣が建立したという、
ここの地域の鎮守だそうです。
原野駅前バス停を過ぎて無佐沢橋の手前に庚申塔など石仏石塔群。
橋を渡り約30m歩くと、左側に原野の石仏群として史跡になっている
石仏石塔群が祀られていますが、残念ながら工事車両などは停めてあり、
よく見ることが出来ませんでした。
過ぎて左側が開け中央アルプスの山並みが綺麗に姿を見せてます。
右端のの三角雪山が木曽駒ヶ岳の様です。
山の向こう側に千畳敷がありますね。
右側に明星岩公園を過ぎてすぐの左手に、
来たぞ~来れたわ~の感激「中山道中間地点」。
江戸からも京都からも六十七里三十八町(268km)と書いてあるが、
ちょと差があるかな?
平成30年4月29日(昭和の日)12時10分
平成28年 (2016年)9月17日(土) 、
お江戸日本橋を旅立ってから1年7ヶ月。
旅断念かの事態もあったが、なんとか乗り越えてここまで来ることが出来た。
24回目の旅は後半へ続きます。