*ひょいと歩き出した東海道五十三次。
途中で、断念かの肝臓癌をなんとか乗り越えて、京の三条大橋へ到着。
勢いをかって「歩いて再び京の都へ」と乗り出した中山道六十九次。
またまた腹部大動脈瘤、心臓動脈硬化、そしておまけに腹部ヘルニア。
挫折しそうになりながらもカミさんの支えもあって、またまた乗り越え
旅の再開。
そんな、じじばば道中ブログです*
*角を右折し野尻駅にて、PM3:20、第27回の歩き旅は足を止めました
関東甲信越はすぐに早めの梅雨入りとなりました。*
早1ヵ月を過ぎ短い梅雨も明け後の夏日続き。
大変な災害を引き起こした豪雨。
被災地の皆様へ、心からお見舞い申し上げ声援を送る日が続いてます。
この間に1年経過、腎臓、心臓、腹部動脈、3年経過、肝臓と、経過診察が続き、
7月の10日にて、ありがたいことにすべて経過良好で決着。
天気予報はどうかな?
三連休は猛暑様相だが、「木曽路は山の中、足を進めてみましょうか」の
カミさんの決断?で急遽宿の手配。
当初は3泊4日で歩きは中2日、約30kmを計画したが、猛暑を考えて
2泊3日で足を進めてみて、歩く距離は当地で判断に切り替え、
急ぎ一部宿を手配しなおしをして、14日~16日へ ”行くぞ~”
ここまで和田峠越え以外は、早朝マイカーにて出発し日帰りの繰り返しで
足を進めてきましたが、さすがに300km越え往復10時間では、
日帰りは難しくなってきました。
7月14日(土)、いつものように早朝出立。
圏央、中央道と走り、伊奈から権兵衛峠越へをして前回足止めの野尻駅前へ
AM8:30到着。 う~ん、朝から猛烈な暑さです。
すでに国道19号の温度表示は27℃でしたね。
江戸から40番目、野尻宿を旅立ちし、足を進めるのは、
41番目、三留野宿(2里21町10.1Km)
42番目、妻籠宿(32町3.5Km)
43番目、馬籠宿(2里0町7.9Km)
44番目、落合宿(1里5町4.5Km)
45番目、中津川宿(1里0町3.9Km)
まで、約30km(約8里弱)だが、さて、どこまで足をすすめられるかな?。
AM9:00、野尻駅前にて恒例の旅立ちショット。
いざ、出立。
ガンガンに凍らせて持って来たペットボトル飲料と水を三本、腰とリックに。
天保14年(1843)の中山道宿村大概帳によればは家屋108軒。
うち本陣・1、脇本陣・1、旅籠19軒で、宿内人口は986人でした。
宿並は明治27年(1894)、昭和18年(1943)の大火で焼失し、
江戸の遺構はほとんど残ってはいませんが、防備上に設けられた「野尻の七曲り」
と言われる曲がりくねった道筋や道幅に街道らしさが残されています。
駅前から坂道を少し上ると、正面に「旧旅館庭田屋」があり中仙道に入ります。
大桑村の案内によると、昭和53年公開の第22作
「男はつらいよ、噂の寅次郎」のワンシーンに出ている旅館だそうです。
正面の風情ある庭田屋を見て、右手の西方向へ足を進めます。
14日、15日は野尻宿の西、山の手方向に鎮座する、須佐男神社例祭があり
赤い祭提灯が街並みを飾っていました。
須佐男神社の総本山は、京都市東区祇園町の八坂神社と言われてるようです。
宿の入口に東の「はずれ」がありましたが、宿の終りもやはり「はずれ」で、
七曲りの最後の左手に建つ西村家は、屋号を「はずれ」といいました。
(屋号札は掛かっていなかった)
宿場を出、道は橋を渡りY字路を右手、下在郷旧道へ入ります。
先を行ってたカミさんが、指さし呼んでいた玄関わきに
珍しい綺麗な変化咲き朝顔の鉢がありました。(変化朝顔だと思います)
変化朝顔の栽培は江戸時代にブームとなり、盛んに栽培が試みられていた
そうですが、今は絶種寸前で非常に貴重なもの、と何かで読んだ記憶がありました。
足を進めると、左手下在郷公民館の所に江戸日本橋より七十七里目、
「下在郷一里塚跡碑「」がありました。
渡った左側に野尻宿碑が建つ、下在郷橋を過ぎると、おや!前方からピピッピ
とワッツショイの楽しそうな子供の声が聞こえてきます。
いや~いいですね~、夏祭りです。
わっしょいワッツショイ・・しばし足を止めて掛け声を上げました。
神輿を見送ってすぐ左手に、奥に秋葉常夜燈が建つ小屋掛があり、
神輿はここから出たようでした。
正面に三角おむすび・飯盛山を見ながら足を進めます。
道なりにしばらく歩くと分岐があり、いったん国道に接近し右手は
<旧第3中仙道踏切>で、ここでは踏切を渡らないで山のへりに沿って、
国道と線路の間の道を100m程進みます。
線路左手沿いをしばらく行くと、<第13仲仙道踏切>があり、
ここで線路を木曽川側に渡ります。
(あら、さっきは第三仲仙道踏切だったわよ?てカミさん。なぜでしょう?)
本来の中山道は踏切を渡らずまっすぐ(しらなみ坂)を行くのだが,
いまは消滅してる由。
JR中央線の特急が猛スピードで通過し、ひと時の涼風が吹き抜けます。
右手は木曽川の「読書ダム」ですが木々に遮られ見れません。
「どくしょ」ダムではないのね?「よみかき」ダムというのね。てカミさん。
そうなんです、学問の謂れというのではなく、なんと
「よ」かわ(与川)「み」どの(三留野)「かき」ぞれ(柿其)が合併し、
地名を併せて「よ・み・かき」と称し漢字を当てはめた、街道書に在りました。
対岸に今回満室で泊まれなかった、阿寺温泉フォレスパ木曽が望めます。
先でJR中央本線を第14仲仙道踏切で横断します。
踏切を渡り勝井坂を国道19号へ向かって上っていく。
この時間帯、1時間に1本くらいしかない普通電車がカタコト過ぎて行きました。
先は「新茶屋」と呼ばれていた集落があったと街道書にはありますが、
古い集落は残っておらず、大きな家が一軒建っていた。
しばらくすると旧道は国道19号線に突当ります。
ここを右折し、街道は国道の向こう側に見える白いフェンス沿いの坂道へと
続いてゆきます。
この分岐点には中山道道標「左 野尻宿/右 三留野宿」があります。
この少し手前で失われた中山道と合流していたようですが、
痕跡を感じることは無かったですね。
八人岩沢を下横橋手前で南木曾町(標高489m)へ入り、
ガードレールの切れ目から国道を渡り、
十二兼の上り坂を進みます。国道との出会いが右下に見えてます。
本来の旧道は江戸方面から出会を直進し、八人石沢の左岸を進み先で沢を高巻し、
このヘアピンカーブに戻ってきていたそうです。
沢からの風の通り道かな、さ~と涼しさを運んでくれますね
坂を上り切って左に回り込むと、かつて立場であった十二兼集落へと入っていく。
左手の石垣段上に「八人石の二十三夜様」と呼ばれる、石仏石塔が祀られています。
文政2年(1819))建立の馬頭観音、宝暦10年(1760)建立の観音像、
弘化3年(1846)建立の廿三夜塔等の石仏石塔などがあります。
かっては何らかの祠もあったかな?
十二兼村は立場で、牛方の往来で大いに賑わいていたといわれます。
こんな小さな流れ落ちでも回るのね~・・てカミさんがしばし見入ってます。
そうそう、木曽路でよく家の出入り口の軒下に掲げてる札「立春大吉」て
なんでしょう?と、ちょと調べてみると
*立春は節分の翌日、かっては新たな年の始まりとして、禅寺で曹洞宗のお寺で
立春の日に「立春大吉」と書いた御札を門に貼り、厄除けにすることがあります。
そのお寺の檀家となっている家にも『立春大吉』の札が配られます。
厄除けの習慣なのですが、なぜ「立春大吉」が厄除けになるのか?
「立春大吉」の文字を、縦書きにしてよく見ると左右対称になっています。
表から見ても裏から見ても、同じように読めます*
*昔、鬼が玄関から入ろうとした時、立春大吉の御札を見かけました。
門をくぐって振り返ると、同様に立春大吉の文字。
鬼は「まだ門をくぐっていなかったのか」と勘違いして、外へ出てしまいました。
この言い伝えから、立春大吉の御札を貼っていると、一年を無事に過ごすことが
できるという意味を持つようになったと言われています*
とあって、1年の厄除けお札だったのです。
なるほど、木曽路は禅寺が多かったですね。
ちなみに、伊勢の赤福では「立春大吉餅」というお餅を販売してるそうです。
先に進むとスグ先の左手に天保13年(1842)建立の天照皇大神宮常夜燈が
あり、村内を先に進むとY字路になり右の下り坂に入り、この分岐点には手造りの
案内標識「木曽路→」がありました。
下り坂を進むと左脇に鳥居が見え神社の脇に出、「八釼神社」「熊野神社」の
石碑が立ち、石段段上に熊野神社が鎮座しています。
集落は牛方の崇敬が篤く、社殿には牛方が奉納した牛の絵馬を残しています。
さらに十二兼旧道の急坂を降りると、先ほどの神社の石階段参道があるが、
危険なのか通れないようにとしてあり、その先で国道19号線の十二兼北交差点に
出ます。
ここで旧中仙道は国道と鉄道を越えて、木曽川沿いへと続く十二兼集落へ
でるのですが、国道は信号があり渡れても、鉄道は厳重に封鎖されていて
越えることが出来ません。
持参街道書には、左側に見えるトタン屋根の所から水路のトンネルに仮設された
歩道を通るとあります。
沢の水を国道、と線路下に逃がすためのもので、その中に仮設通路を作ったものです。
(増水時などは潜るのが難しい時には、国道を右折して100m位戻る方向へ
歩いた所に踏切があり、迂回しても街道へ合流できるようです)
水路のトンネルを出て国道、線路を潜った先は、立場で賑わったという十二兼で、
近くにはバス停や公民館も見られ、そのまま鉄道に沿って左に進むと、
左手にはJR「十二兼駅」がありました。
丁度松本方面行きの電車が到着し、数人のハイカー姿の方々が降り立ちました。
付近には十二兼の一里塚があったそうですが、国道及び中央線の敷設に伴い
消滅してしまい、街道書では駅の向こう側の国道19号線側に一里塚の跡碑が
あると記されています。
駅構内の跨線橋でJR中央本線を跨ぎ、国道19号線に出、京方面に進むと
十二兼南交差点手前の左手に一里塚の跡碑がありました。
かっては南塚の塚木は榎二本、北塚は松一本の江戸日本橋より七十八里目です。
気温は30℃を越えました。
こまめに水分補給と塩飴を口にします。
そして少しでも日陰を選んで足を進めます。
熱風の中にもす~と、涼風が吹き抜けます。
川の近く水の有るところはやはり、涼しさがありますね
(つかの間ですが有りがたい)
右下の旧中仙道を先ほどの電車で着いた親子3人の旅人が、西へ向かって行くのが
見えました。
駅での会話で、親子たちはこの先は妻籠宿までむかうそうです。
一里塚の先のフェンス切れ目から、線路沿いを戻り再び旧中山道を西へ向かいます。
JR中央本線に沿って木曽川沿いをしばらく進むと、右手に柿其(かきぞれ)橋が
見えてきました。
右に木曽川に架かる柿共橋からは、「名勝南寝覚」と呼ばれる景観が広がっています。
すぐ近くは中川原立場跡で、秋葉神社碑があり、明治天皇が巡行の折り休んだ、
「明治天皇御小休所跡」や「中川原御膳水碑」碑が建てられている。
旧道は道なりに進むと柿其交差点にて、国道19号線に合流し、
国道に合流した街道は、左手山裾の鉄道、右手は木曽川沿いとなり、
日は頭上高く熱射を遮るものがありません。
時おりに木曽川を渡る川風はありますが、舗装の輻射熱もあって、かなりの暑さです。
「木曽路はすべて山の中である。あるところは岨づたひに行く崖の道であり、
あるところは数十間の深さに臨む木曽川の岸であり・・・」
というのはこのあたりを描いているといわれる。
羅天から与川渡間は、山間も狭い断崖が木曽川に垂直に落ち込んだ、
木曽路最大の難所といわれた「羅天の桟道跡」で、慶安元年(1648)に
開通しましたそうです。
木曽路名所図会には
「野尻より三留野までおよそ二里半、道は深き木曽川に沿い、せまき所は木を切り
渡したかずらにてからめて、その巾をおぎない馬にも乗りがたき はなはだ危うき
ところあり」
と記されています。
現在ではそんな険しい道だったとは想像もできないような、整備された国道を
木曽川を見ながら歩いて行きます。
後で三留野で休んた時に聞いたのですが、先日の超豪雨の際は、
木曽川は水嵩が道路ぎりぎりまでになり、注意報が出されていたそうです。
(来し道を振り返り)
この難所は大雨が降ると水害で度々通行が出来なくなったので、野尻から山中を通り三留野に至る「与川道」が迂回路として造られてます。
街道を進むと木曽川に注ぐ与川があり、この与川の上流で高巻きした与川道が
三留野に通じていました。
国道を横断しJR中央本線ガードをくぐると、左手の段上に
与川度(よかわど)の石地蔵が祀られています。
天保15年(1844)に発生した蛇抜け(土石流)で犠牲になった人々の霊を弔う為に尾張藩が弘化二年(1845)に造立したものです。
国道に戻り先に進むと、右手に牛方の集落だった金知屋(かなちや)村があり、
短い砂利道の旧道に入ります。
村内には江戸日本橋より数えて79里目、金知屋の一里塚が有ったそうですが、
今は位置が不明になってるようです。
国道19号線の歩道を進むと、妻籠5.5kmと書かれた標識があり、
さらに先で国道を左手に横断し、30分ほど歩いた国道から、
県道264号南木曽(停)線の三味坂に入ります。
(国道の気温計は32℃を示してました)
三味坂右手の眼下には木曽川の景が広がります、これにて木曽川とはしばらくの
お別れです。
坂を上って左手に馬頭観音を見て、JR中央本線ガードをくぐり、道なりに左に曲がると三留野宿にの入口です。
宿場と反対方向左手から下ってくる「与川道」が合流した与川道追分で、
馬頭観世音文字塔があり、左の上に神社があります。
神社の日陰で一休みし、下って江戸から41番目、三留野宿に入っていきます。
(12時12分、宿内の街道筋は食事処が無いようなので、神社の木陰石段を
お借りして、いつも持参の健康補助食品にてお昼タイムに。
吹き下ろす風が意外に爽やかで、涼しい)
この地には木曽氏の館があり御殿(みどの)と呼ばれ、「三留野」の地名由来と
しています。
天保14年(1843)の中山道宿村大概帳によると、
三留野宿の宿内家数は77軒、本陣、1、脇本陣、1、旅籠32軒で、
宿内人口は594人でした。
街道書には、
*木曽路屈指の難所羅天の桟道を控えて旅籠は多かったものの、宿場の規模は
それほど大きくなく、「宿悪しく、わびしき所」といわれました。
宿並は度々火災に見舞われ宿長は当初より25間も短くなり、
明治14年(1881)にも火災に見舞われましたが、国道から外れている
ために 古い家屋を今に残しています。*
とあります。
宿並には出桁造りや卯建をあげた旧家を残し、家屋には旧屋号札を掲げています。
祭礼の幟が立ち、道筋には祭り提灯が飾られ、三留野も東山神社の祭礼日でした。
宿並を進むと左側に宮川家が勤めた脇本陣跡があります。
宮川家は本陣の鮎沢家、問屋の藤野家と宿の指導的役割を担い、
三留野村の庄屋を兼ねました。
(現在も宮川家の方がお住まいのようです)
次いで右手は鮎沢家が勤めた本陣跡です。
皇女和宮は十三日目の夜を鮎沢本陣で過しました。
明治天皇は明治13年(1880)巡行の際、中川原で休息した後、
鮎沢家(旧本陣)を宿泊所(行在所)としました、明治天皇行在所記念碑が
あります。
旧本陣建物は三留野大火災で焼失してしまい、今は南木曽町森林組合の
事務所となっていて、庭木であった枝垂梅(町の天然記念物)を残すのみです。
(白い建物の左)、
本陣、脇本陣などがあった宿町中心を過ぎると、道路わきに唐突に現れる
右手ガードレール切れ目の細い階段を旧中山道は降りていきますが、
寄り道の為階段は下りないですこし先へ進みます。
先に進むと左手に曹洞宗日星山等覚寺への道標があり、坂道を上って立ち寄りします。
風格ある仁王門をくぐると
境内の左手に円空堂があり、円空作の韋駄天像、弁財天座像、天神像の三体が
安置されていると資料に在り、自由に拝観できるとありましたが、
、残念ながら堂内は見ることが出来ませんでした。
円空は美濃の生まれの江戸初期の行脚僧で、一生に十二万体の仏像を造ることを
発願し、貞享の頃三留野に滞在し造像に励んだと言い伝えられてるそうです。
(右仏像はパンフより)
等覚寺の側を山側に上る参道があり、奥に祭礼の三留野鎮守・東山神社がありました。
一説では、三渡野(三留野)として広重が描いたのはこの付近からといわれ、
左手に宿並、右手の小山の上に東山神社の鳥居、そして手前に麦畑を描いています。
等覚寺への坂道を下り、街道へは戻らず左手に祭りの太鼓台?が置かれた
路を進むと、細い階段を下っての街道と合流しました。
街道へ戻って50mほど行くと梨子沢を渡りますが、ここは平成26年7月、
記録的な大雨により梨子沢川で蛇抜け(土石流)が発生し、大きな被害が出で、
2年前に復興竣工したところです。
先日来西日本を中心に、記録的豪雨による災害が各地で発生していますね。
一日も早い復興を心から念じるばかりです。
新しく架け替えられた梨子沢川に架かる梨沢橋を渡り、斜め左方向に進むと、
左手に南木曽小学校入り口の石段で、4段ほど上ったところに中仙道⇒の案内板
があり、街道は右手に民家と蔵の間を通って行きます。
長閑な旧道は大沢田川のT字路に突き当たり右折し、さらに先を左折して
大沢田川を渡り、先に進み北沢を北沢橋で渡ったY字路を左に進みます。
しばらく街道を進むと右方向に入る道がありますが、左手に路を取り、
右手の眼下に三殿貯木場の遠景を見ながら行くと、左側に園原先生碑が
建っていました。
側に建つ解説板によると、
*園原旧富(ふるとみ)は三留野村和合の東山神社の
神官の家に生まれ、 長じて京に遊学し、吉田兼敬(かねゆき、神祗管領長)
に師事して神学を学び神学則を著し、尾張、美濃、信濃に門人多数を擁する
大学者に なりました。
この碑は師の死後五年目の天明元年(1781)に、学徳を慕う門人たちに
よって建立された*
とありました。
園原先生碑前の変則Y字路を右に進むと、右下に南木曾駅が見え、右へ下り
跨架橋を渡るって行くと南木曾駅になります。
中山道道標は「左 妻籠宿」「右 三留野宿・与川経由野尻宿」とあります。
道標は中山道の文字はありますが、「歴史の路」案内になってます。
街道書では三留野宿の出入り口と書かれてますが、道標では確認できませんでした。
現在PM1:30です。
野尻宿から約11km、4時間30分を掛けて歩いてきました。
さて、足を進めるか、足止めして野尻へ電車で戻り車で宿の中津川へ向かうか。
電車は1時間後、2:44があるが。
気温は33℃くらいの様です。
お互いに「足は大丈夫かな?」 「体長はいかがかな?」
所持してきたガンガンに凍らせた水は1本、ほぼ氷のままに残ってます。
途中補給もOK。
この先は山道に入り妻籠宿まで約3.5km。
2時間30分を見ればいいだろう。
妻籠からの戻りのバスも大丈夫。
「進みましょう!」「よ~し、行こうか!」
気力体力、まだOK、
旅は続きます・・・・・