歩いて再び京の都へ 旧中山道69次夫婦歩き旅  第29回 馬籠~落合宿~中津川宿 前編

*ひょいと歩き出した東海道五十三次
途中で、断念かの肝臓癌をなんとか乗り越えて、京の三条大橋へ到着。
勢いをかって「歩いて再び京の都へ」と乗り出した中山道六十九次
またまた腹部大動脈瘤、心臓動脈硬化、そしておまけに腹部ヘルニア。
挫折しそうになりながらもカミさんの支えもあって、またまた乗り越え
旅の再開。
そんな、じじばば道中ブログです*

 

2017年9月10日から始まった信濃の国(長野県)の歩きも、

11月19日木曽路へ入り、10か月を掛けて2018年7月15日に、

岐阜県・馬籠宿へ着き、そしてもうすぐで木曽路の旅も終わりです。

猛暑の中の街道旅でしたが、しっかりと足を進め、信濃の国から美濃の国へ。
一歩一歩、京の都が近づいてきます。
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猛暑、異常気象の8月が過ぎ、9月になっても大きな災害続き。

長期予報では敬老の日を絡んだ3連休も、あまり良くない天気予報でした。

 

町会の「敬老の祝い会「」は所用が有って欠席にしていたが、都合で所用は中止

になりました。

TVを見ていたカミさんが、

敬老の日は岐阜は晴れ予報だって、火曜は仕事は休みだから」で、

わが家のいつものパターン、「よし、行くか!」敬老祝いは旅の空の下で!!

 

急ぎ中津市内に宿をとって、

17日(月祝日)、AM4:00自宅をマイカーで立ち、岐阜県中津川市へ。

ホテルへ車を置かせてもらい、中津川駅AM9:10発の馬籠宿行のバスへ乗車。

ほぼ満席で半分は外国の方々でしたね。

AM9:35、馬籠着。

前回足止めの、巨大な土産物店や駐車場のある馬籠宿西端(京方)、

江戸八十里半、京五十二里半と彫られた、中山道馬篭宿の大きな道標前から、

第29回歩き旅の再開。

(カメラを2台も抱えた方にシャター押をお願いしましたが、

 中國の方だったようで、イイデスヨ、と片言でした)

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 今日の旅は、馬籠宿から山を下り、約4.7km(約1里5町)の

江戸から44番目、落合宿へ。

そして4km(1里)の45番目、中津川宿の京方まで足を伸ばす約9km。

気温は高めだが、吹く風が涼しくまさに秋の気配です。

距離は短い、のんびりと山を下ります。 

 賑わいのあるエリアを過ぎると、すぐに田園風景のなかの静かな田舎道になり、
吹き上げてくる涼やかな風を受けながら、石屋坂を下って行きます。

(振り返り写真)

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石屋坂の左手には、中央アルプスの南端に位置する 信仰の山、古くからこの地域の

象徴である。恵那山(2191m)が悠然と姿を見せてます。

日本百名山、登りたかったな~です)

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勢いよく流れる水路脇にはシュウカイドウ(秋海棠)のピンクの花が揺れてます。

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中津川道標と中北道標、横屋バス停を見送り、実りの棚田を左手に草花の咲く

丸山の坂を上ると、右手に丸山の坂標石、馬籠城跡解説板が建っていてます。

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城址案内によると、

「500年ほど前の室町時代から馬籠城(砦)があり、戦国動乱の時代,馬籠は

 武田信玄の領地となるが武田滅亡後,織田信長の時代を経て豊臣秀吉傘下の

 木曽義昌の治めるところとなる。
 天正12年(1584)3月豊臣秀吉徳川家康両軍が小牧山に対峙した。

 秀吉は木曽義昌に木曾路の守りを命じ,義昌は兵山村良勝に妻籠城を、

 島崎重通(馬籠本陣の島崎家の祖,後に野に下り馬籠宿本陣を勤めた)に

 馬籠城の 警備をさせた。

 同年9月,家康は飯田の菅沼定利・高遠の保科正直・諏訪の諏訪頼忠らに木曽

 攻撃を命じ三軍は妻籠城を攻め,その一部は馬籠の北に陣を張った(陣馬)。

 馬籠城を守っていた島崎重通は、夜陰に紛れて木曽川沿いに妻籠城に逃れた。

 このため馬籠の集落は戦火から免れる事が出来た。
 その後慶長5年(1600)関ケ原の戦いで天下を制した家康は木曽を

 直轄領としていたが元和元年(1615)尾張徳川義直の領地となり,

 馬籠城は廃城となり この地は丸山とも城山とも呼ばれるようになった、

 今は城跡は畑地,竹林の奥に小さな祠があるのみにて、城口には庚申塔

 馬頭観音等が祀られています」とあります。

城址から馬籠宿を望む)

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 丸山の坂の荒町集落を行くと、左手に鳥居が建ち馬籠村の鎮守馬籠諏訪神社

長い参道の奥に鎮座しています。

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参道口の右手に島崎藤村の父、島崎正樹翁を記念する「島崎正樹翁顕彰碑」

(明治45年建立)があります。

江戸時代、木曽五木は尾張藩により厳しく監視され、さらに明治政府は木曽谷の

ほとんどを官有林に組み入れ、島崎正樹は木曽三十三ケ村の総代になり木曽山林の

解放運動に奔走するも、弾劾に遭い、失意の内に生涯を閉じています。

碑はこの島崎正樹の徳を顕彰したもので、明治四十五年(1912)正樹の

二男広助が建碑したものです。

広助は妻籠宿本陣の養子となり最後の当主を勤めえいます。

正樹翁は「夜明け前」の主人公、青山半蔵のモデルですね。

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 民宿も見かける静かな山村の集落が続きます。

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鋭い棘はカラタチですね。

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カミさんは

「からたちの花が咲いたよ~・・」の北原白秋の「カラタチの花」を口ずさみ、

わしは、「心で好きと叫んでも、口では言えぬ~・・・

島倉千代子の「カラタチ日記」を口遊む・・青春時代の思い出の歌・・・。

そしてつい最近、藁でも掴むの思いで調べまくっていて、こんな「果樹研究所」の

記事を見つけたことがありました。

「カラタチはミカンの仲間で、原産地の中国長江上流域から8世紀ごろには日本に

 伝わっていたと言われています。病気に強い、早く実がなる、樹の高さが低い、

 接ぎ木品種の味が良いなどの利点からミカンの台木として使われています。
 果実は生では食べられませんが、果実酒の材料として使われています。未成熟の

 果実を乾燥させたものは枳実(きじつ)と呼ばれる生薬となっています。健胃、

 利尿、去痰作用があるとされています。

 *カラタチはガンなどの抑制に効果があるとされる機能性成分(オーラプテン)

 などを沢山含んでいますが*、臭い、苦い、酸っぱいなどで食べられませんが、

 カラタチに 食用のカンキツを交配し、生で食べられる品種を作りました。

 「オーラスター」で、平成23年に登録されました。できたばかりの品種で、

 まだ皆様のお目に 留まるのは先のことと思いますが、記憶に残していただけれ

 ば幸いです。 愛称は「俺たち・オレタチ」です」

    もう市場には出回ってるのかな?

柑橘類の台木にカラタチが多く使われてるととも、初めて知りましたね。

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のどかな里山道を進むと右手に中北道標が立ち、向かい左手に男女双体道祖神

祀られていて、スイレンの咲く池や秋の花々を楽しみながら、

のんびりと足を進めます。

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やがて山道もピークで、なかのかやバス停を過ぎると神坂の下りになり、

西方が開け美濃の風景は広がってきます。

おっ、クロユリ

いや、ツルニンジンのようですね。

植物園で見たことは有りましたが、野に咲くのは初めてでした。
キキョウ科・ツルニンジン

ニンジンとは、何ぞや?と思ったら、塊根がチョウセンニンジンに似ている由。

別名「ジイソブ」。
似た花で「バアソブ」という花もあるそうです。
「ソブ」とは長野県木曽地方の方言で「そばかす」とか。
となると「そばかす顔のお爺さん」

敬老の日に、中山道の旅に出て木曽路で出会った花でした。

岐阜県に入ってますが、まだ木曽路なんです)

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集落を過ぎて下り坂となり美濃の展望が広がるところに、四阿屋の設けられた

小さな公園があり、ここは信州サンセットポイント百選の一つだそうです。

公園には正岡子規句碑

 「桑の実の 木曾路出づれば 麦穂かな」があります。

明治22年、正岡子規は松山に帰郷の折り木曽路を越え、その時に詠んだ句で、

馬籠観光協会によって建立。

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 小公園から花々や風景を楽しみながら、ゆっくりと坂を美濃へと下って行きます。

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コンバインが入り、稲刈りも始まってる様子ですね。

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坂をさらに下って行くと、

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新茶屋集落に入ります。

江戸初期にはもう少し下の美濃(岐阜県)側に立場茶屋があったが、後にここに

移って「新茶屋」と呼ばれ、名物のわらび餅を売っていたと伝えられ、今は

民宿新茶屋が建っています。

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湧水の池に黒いゆっくり動く生き物。

イモリかな?、バシャバシャと何枚か写したが、光が反射して残念ながらピンボケ。

頭部の丸味から、クロサンショウウオではないかな・・・やっぱりイモリ??

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民宿新茶屋の向いに天保13年(1842年))建立の翁塚と呼ぶ芭蕉句碑

  「送られつ 送りつ果ては 木曽の穐(あき)」があります。
貞享5年(1688年)芭蕉中山道を旅し、更級紀行の中に納めた句だそうです。
藤村の「夜明け前」の中で、この句碑の建立に尽力した馬籠宿本陣の当主吉左衛門

(島崎正樹の父)と年寄役の金兵衛の二人が出来上がった碑を見て

「この穐(あき)という字が私は少し気に入らん、禾(のぎ)へんが崩して書いて

 あって、それにつくりが亀でしょう」

 「どうもこれでは木曽の蠅(はえ)としか読めない」とぼやいている場面が

 書かれているそうですが・・(読んだはずだが、思い出せません) 

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句碑の先に東屋(休憩所)があり、その脇に

  「是より北 木曽路」と刻まれた碑があります。
碑文は昭和15年(1940年)当時六十八歳だった島崎藤村が、地元の要請に

より揮毫したものです。

馬籠宿の越境中津川市編入までは、ここが信濃(長野県)美濃(岐阜県)の国境で

ここから西、落合宿から今須宿まで十六宿の中山道を「美濃路」と呼ばれてました。

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 そして両側に新茶屋の一里塚跡が両塚とも残されており、江戸日本橋より

83番目、83里の一里塚。

西塚には昭和六年(1931)建立の国境碑「信濃/美濃」もあります(写真右)。

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 長かったけど、旧街道の面影を色濃く残す木曽路はここで終点です。

そしてここからはいよいよ美濃路に入ります!

美濃路は十六宿です。

落合、中津川、大井、大湫、細久手、御嵩、伏見、太田、鵜沼が東美濃と呼ばれ

尾張藩領でした。

加納、河渡、美江寺、赤坂、垂井、関ケ原、今須は西美濃と呼ばれ、

鵜沼から美江寺にかけては木曽三川木曽川長良川揖斐川)が横たわっています。

 

 

続きます。