歩いて再び京の都へ 旧中山道69次夫婦歩き旅  第31回 大井宿~大湫宿 前編

*ひょいと歩き出した東海道五十三次
途中で、断念かの肝臓癌をなんとか乗り越えて、京の三条大橋へ到着。
勢いをかって「歩いて再び京の都へ」と乗り出した中山道六十九次
またまた腹部大動脈瘤、心臓動脈硬化、そしておまけに腹部ヘルニア。
挫折しそうになりながらもカミさんの支えもあって、またまた乗り越え
旅の再開。
そんな、じじばば道中ブログです*

 

9月23日

PM4:30 江戸より46番目、87里27町(約345Km)大井宿。
なんとも遠くへ来~たもんだ~・・・
「歩いて再び京の都へ」第30回目の旅は足止めとしました。

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10月に入り秋も本番なれど天候不順やお義母さんの入院などで、

街道旅を日延べしてきたが、お義母さんも退院出来て状況が良くなり、

天気を確認すると岐阜県は一日中お日様マーク。

宿も調べると、いつも利用するホテルに空きが一部屋見つけた!

さあ、それでは行くか~、と相変わらずの突発出立つ。

 

美濃路、大井宿(恵那市)からは、約30km先のの御嵩宿までは、鉄道との

接続が無く、一気に足を進める事は亀足のジジババ旅人には無理だ~・・で、

今回は江戸から47番目、大湫宿までの約13km。

大湫宿から鉄道接続駅までは時間的余裕が有れば1時間の山下り歩。

無理そうなら初めてタクシーを利用することに。

(実際にタクシー利用になりましたが、この際に大変温かい親切を頂き、

 なんとも嬉しいお終いでした)

 

19日(金)カミさんもAM3:00におきだして、今日の昼食準備。

それ、と飛び出しいつもの様にマイカーを走らせ、

AM9:00、岐阜県恵那市のホテル着。

ホテルに駐車させてもらい、前回足止めの恵那中央通り1丁目交差点へ。 

恵那市の市章と周囲に合併前の旧恵那市の花・ベニドウダンを配したデザインした

マンホール蓋。

現在の市の花は、 ササユリだそうです。

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AM9:15、「第31回中山道夫婦歩き旅」の旅立ち、

冷え込みはあるが、青空がひろがり日差しは暖かい。

歩き旅にが絶好旅日和。

右手に行くと恵那の駅で、中山道は横断して一方通行を直進し、さあ大湫宿へ。

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老舗の和菓子店や呉服屋などが点在し、昔からの道であることを感じさせる

座商店街(旧中野村)へ進みます。 

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  交差点を渡った左手に、大正時代創業の銘菓栗きんとんの老舗菊水堂。

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過ぎて

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そしてこんなポスターが、

「11月3日から23日まで開催されます。
歴史と文化の豊なまち 恵那。
江戸日本橋から四十六番目、日本一の「枡形」を残す中山道大井宿。
今年も素晴らしい300点以上の「のれん」で中山道が彩られます。
市内外から、そして学校関連のお子様の力作も多く寄せられています」

11月に再び旅へ出れたら、寄り道しようかな。

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左右にうねる街道をしばらく行くと、

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昭和レトロの酒屋さん

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その先左手に蔵造りの中野村庄屋の家があります。

屋号を本酒屋といいました。

黒漆喰塗の虫籠窓や千本格子に犬矢来をしつらえた重厚な建物です。

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案内文によると、開き戸、庭園、十畳二間続きの奥座敷のある立派な旧家で、

岩村藩姫君が芝居見物のときに利用し、明治天皇行幸の際の非常立退所にも

指定されたそうです。
和宮降嫁の際の「熊崎新三郎事件」の舞台になった家だそうで、

「熊崎新三郎事件」とは、

「皇女和宮通行に際し、大湫宿助郷村であった野井村が、岩村藩代官より

強制的に賄役(まかないやく)を命ぜられました。のことを不満に思った

野井村百姓代表熊崎新三郎は、和宮通行が終わったあと、中野村庄屋宅に滞在して

いた岩村藩代官吉田泰蔵に斬りつけました。

野井村は岩村藩に代官の強要を訴え出たところ、代官は罷免され、野井村に

金二十五両が下付されました」 

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犬矢来

(竹が並べて、丸く曲げて ある・・「駒寄せ・犬矢来」と呼ばれます。

元来は、馬が家の塀を蹴ったり、犬のオシッコで汚れるのを防ぐ、

という 目的があったようです。木で格子を組んだ型・丸竹を数本並べた

型・割竹を並べた型など、様々な様式があります。また、竹が曲げてある型では、

その上には登 れにくくなるため、泥棒の侵入を防ぐ、という効果もあったようです)

 

 建物脇にある大きな溝が刻まれた石柱がありました。

先を流れる田違川は江戸時代によく氾濫したため、道の両側に石柱を建て、

洪水の際に溝に板をはめて浸水を防いだという。
かつて、近くを流れる永田川に直角に田違川が合流していたため、

田違川の流れが永田川をせき止め浸水したという。
(長島町はこの水害防止のため、昭和10年、田違川を中央線沿いに付け替えた) 

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そのすぐ先の永田川を渡る長島橋(おさしまはし)手前を、左に回り込むと

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入母屋造り回り縁の中野観音堂があり、堂の前に寛政八年(1796)建立、

高さ3.7mの秋葉常夜燈と脇には中野村高札場跡標柱があります。

中野観音堂阿弥陀如来立像を本尊とし、江戸時代から灯明が消えたことがないと

いわれてるそうで、弘法大師像、三十三観音像等も安置されています。
観音堂前に「橋場の茶屋」があって賑わっていたそうです。 

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街道にもどり、長島(おさしま)橋を渡って100mほど進むとJR恵那駅からの

本通りへ合流の交差点になり、

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左に150m程行くと「野井みちの分かれ」という、坂の上交差点の五差路に出、

中野歩道橋を渡り、国道19号線多治見方面の標識に従って進みます。

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歩道橋から景色、左上の写真中は、今までたどってきた駅からの道。
遠く恵那山や中央アルプスが見えるそうだが、今日は霞の中。

右下の写真の道は、国道19号・多治見方面への道で、これから進んでゆきます。
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 歩道橋を渡った左手に急石段の参道が丘上に伸び、かなり階段を上った先に

豊玉稲荷大明神が祀られているそうですが、足を伸ばしませんでした。

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参道脇に大量の銀杏が水につけてあります。

上の境内に樹が沢山あるのかな。

商売用でしょうね、まったく臭いはなかったです。

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多治見方面に少し右にゆるやかに上りを進むと、

カミさんが、あら、Caféだわ、

江戸屋と読めました。

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 左手に上町観音堂標石があり、路地を進むと正面に観音堂がありますが、

案内板が無く由緒は不明。

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観音堂から中山道燈籠モニュメントを見送って100m程行くと、

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左側に西行硯水公園の案内板が建ってます。

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西行北面の武士でしたが、壇ノ浦で平家が滅亡した翌年の

 文治2年(1186年)に、平重衡によって焼かれた東大寺再建の沙金勧進

 ために奥州への旅をし、奥州平泉に行脚し、信州善光寺に詣でた後、木曽路

 経て美濃に入り、この地に竹林庵を結び三年間居住し、歌人でもある西行

 ここの泉水を汲んで墨をすったと伝えられている」

  と解説文が建てます。

池は古くから所在が知られてるそうで、昭和61年に公園として整備された

そうですが、石組みの中の手入れのされてない濁った池が、硯の水を汲んだ

泉なのかな?

園内には西行歌碑

「道の辺に 清水流るる 柳かげ しばしとてこそ 立ち留りつれ」

や美濃の俳人の句碑などがあるようですが・・石碑はあるが判読は??

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 公園のすぐ先左手に神明神社の鳥居と常夜燈があり、奥の丘上に社殿が鎮座して

います。

寛保四年(1744)の創建のこの地の産土神で、境内には夫婦杉の大樹あり、

と街道書に記されていたのでちょっと立ち寄り。f:id:hansui:20181022161728j:plain

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街道へ戻り、中山道燈籠モニュメント建つ道を行くと、斜め右の上り坂に入る

分岐点が有り、西行塚西三丁と刻まれた大きな道標が建ってます。  

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 坂を上ると右手に立派な御影石製の中山道大井宿解説、歴史の道中山道図が

 あります。 

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JR中央本線を仲仙道踏切で横断し、中山道道標に従って左に進みます。

ここからは一気に長閑な田畑の中の道になり、山に向かって伸びてゆきます。

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 道なりに進み田違川を西行橋で渡り、中北道標を見て中央自動車道をくぐり、

道なりに左に進みます。

西行橋からの道筋は中央自動車道の敷設により消滅した旧道の迂回路です。

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  上り坂を進むと消滅した旧道が復活し、美濃路の難所「是より十三峠」碑が立ち

 石畳が始まります。

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ここから大湫宿までの約三里(13km)の峰づたいの道。
「十三峠におまけが七ツ」といわれる起伏に富んだアップダウンの続く二十余の

山坂道があり、中山道の難所の1つであったそうな。

AM10:20 

十三峠は西行坂の石畳道から始まり、右手に寛政十年(1798)建立という

馬頭観音像と石仏が有りました。

カミさんが「ゆっくりね」て・・・ははは、ありがとさん。

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すぐ左側の「伝西行塚」案内板が立つ石段を上った周りは、

西行苑と名付けた公園で、上りつめたところに、西行を供養するために

つくられたという五輪塔の立つ小いさな伝西行塚があります。

西行は諸国行脚の途中、この地に竹林庵を結び暮らしました。 

自分の死期を悟ると村人を呼び「私はこの夜半、土に還る、遺体は

中野坂(現西行坂)に葬ってほしい」と頼み、その夜西に向って合掌し、

立ったままで入寂しました。
長国寺にて葬儀を行い、丁重に中野坂の頂に埋葬されました、塚に立つ五輪塔

高さ1.44mで県文化財です。

との案内板が建ってます。

「伝」となに?

また、西行は建久元年(1190年)に河内・広川寺で円寂したというのが定説の

様ですが、この西行塚のことは、江戸時代初期からその存在が伝えられている。

『太田南圃蜀山人紀行』、『木曽川名所図会』『濃陽徇行記』等にも見られ、

この塚は大井町長国寺縁起の記載等を根拠として西行の墓と信じられているが、

五輪塔の年代から、西行の墓とは考えられない。

室町末から江戸時代初期の頃に、西行を慕う人々によって建立されたと考えられる。

従って「伝」の一文字を加えて指定された。

とも解説文が記載された板もありました。

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次いで西行五輪塔から街道への側に西行歌碑、芭蕉句碑があります。

西行歌碑「待たれつる 入相のかねの 音す也 あすもやあらば きかむとす覧」
芭蕉句碑「西行の わらじもかかれ 松の露」

と刻まれてるそうです。

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街道へ下ると西行苑解説があり、トイレが設置されています。

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トイレは水洗でとても綺麗に清掃がされてましたね。

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  石畳から砂利道に変わった西行坂をグングン上ると右手に

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工場を建設のために取得した土地の未使用地を、50年近くの生産活動でこの地から

恩恵を受けてきた感謝と、これからも共存していく思いを込めて、林保全活動を

スタートしました、との趣旨のパネルが建ってます。

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しばらく行くと石畳が砂利道に変わったところに、槙ケ根の一里塚があります。

「木の榎は消滅していますが、両塚とも存在し、江戸日本橋より数えて

八十八里目になり、近年の土地開発が進む中で、この附近の中山道は開発から

免れており、この槙ケ根一里塚のほかに西行塚や西行坂なども原形をとどめ

往時の中山道を偲ぶことができる。」(恵那市教育委員会説明版)

 

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一里塚の並びには東屋(休憩小屋)やトイレがあり、先の左手に桜百選の園碑が

あります。

この辺りは西行の森と呼ばれ桜の名所で、ここからは恵那山、そして恵那市市街が

一望できるようですが、今日は霞の中。

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気持ちのいい明るい尾根道も森の中へと吸い込まれてゆきます。

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 峠道には中北道標、中山道石柱、青色歴史の道道標等が建てられています。

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先で車道に出会い中北道標に従って横断し上ると、突当りのT字路を左し

槙ケ根坂旧道に入ります、

この分岐点には青色歴史の道道標「←中山道→」があります。

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茶屋水戸屋敷跡の小さな棒杭標識があったが、またその先の空き地脇にも

茶屋水戸屋敷跡の標識がある、なぜ?て、カミさん。わかりませ~ん・・

(そういえば、峠へはいる手前にCafé・水戸屋が有ったわよ、てカミさんが
 思い出してました。茶屋風情の名付けかな)

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少し先、左手に伝西行塚や長距離自然遊歩道の案内板(長距離と付いた案内板は

初めてかな)があり、槙ケ根設石仏群の棒杭標識が立ってるが、どこなんだろう?

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ここは中部北陸自然歩道(中山道)と東海自然歩道との交差分岐地点の様で、

中山道は南から上って来て西に向かう東海自然歩道内となり、

中北(中部北陸自然歩道)道標とはお別れとなるようです。

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長距離自然歩道とは?
 四季を通じて手軽に、楽しく、安全に自らの足で歩くことを通じて、豊かな自然や歴史・文化とふれあい、心身ともにリフレッシュし、自然保護に対する理解を深めることを目的とした歩道です。環境省が計画し、国及び各都道府県で整備を進めています。 昭和45年(1970年)の東海自然歩道の整備に始まり、九州・中国・四国・首都圏・東北・中部北陸・近畿と8つの自然歩道がこれまでに整備され、現在、北海道自然歩道と東北太平洋岸自然歩道の整備が進められています。整備が完了すれば、全国の自然歩道の総延長は約27,000kmとなります。
 家族向けのコースから本格的な健脚コースまで、各地の見どころを楽しく歩けるようになっています。

環境省自然環境局国立公園課)

左手の2車線道は上って来た東海自然道で、右手の工場門脇の道標に従って、

南へ向かう東海自然道(中山道)の山道へ進みます。

樹林帯に入ってすぐに茶屋松本屋跡の杭標識。

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中山道道標が建つ槙ケ根坂を進むと、

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江戸時代末期になると、この辺りの旧道沿いに点々と、槙本屋、水戸屋、東国屋、

松本屋、中野屋、伊勢屋など9軒の茶屋があったようで、槇ケ根立場跡を示す

説明板が立っている。

明治時代になり鉄道が開通すると、これらの茶屋は山麓の町や村に移っていったと

いわれ、現在は木々が生い茂り、痕跡も見られないですね。

 

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往時は中山道の旅人に加えて、木曽や尾張方面の商人荷、それに善光寺

伊勢神宮等の参拝者が行き交い大いに賑わいました。

 立場の並びに伊勢神宮遥拝所があり、注連縄を張った小社が鎮座していました。

伊勢神宮参拝の人はここで中山道と別れて下街道を西へ向いましたが、

一般の旅人はここで手を合わせ遠く伊勢神宮を遥拝しました。

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 先に進むと左手に明治八年(1875)建立の下街道追分道標があります。

道標の上部に伊勢神宮の鳥居が彫られ、その下に

「右西京大坂 左伊勢名古屋 道」と刻まれています。

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道標の先に下街道追分があります。

「左の下り坂が下街道です、これに対して中山道は上街道と呼ばれました。

下街道は、竹折、釜戸から高山(現土岐市)、池田(現多治見市)を経て

名古屋へ至ります、この道は途中に内津(うつつ)峠の山道がありますが、

土岐川沿いの平坦地を進み、付近には人家も多く、そのうえ名古屋までの距離は

上街道より四里半(約十八キロ)も、近かっため下街道は一般旅行者に加えて

商人や伊勢神宮の参拝者で大変賑わいました。

しかし幕府は中山道の宿場保護のため下街道の商人の通行を禁止し、尾張藩

厳しく取り締まったが徹底することができず、幾度も訴訟裁定を繰り返しました」

とパネルに記されてます。  

ロープが張られていますが、左手へ下って行く草道が見えてます。

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槙ケ根坂を進むと
中山道(東海自然遊歩道)道標に従って足を進めます。

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右手斜面に馬頭観音像が祀られていました。

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次いで右手の木製階段を上ると姫御殿跡があります。

ここは祝峠と呼ばれ、近くに松の大木があり、松かさ(松の子)が多くつき、

子持松といい、この子持松の枝越しに馬籠(孫目)が見えるため、子と孫が続いて

縁起が良い場所といわれましたそうで、皇女和宮通行の際、岩村藩の御用蔵から

運んだ無節のヒノキの柱や板と白綾の畳を敷いた御殿を建て休憩所としました。 

と街道書に記されてる所でした。

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先に進むと、あれ?下座切場跡(標柱)が・・持参街道書では坂の途中と

記してあるが??

最近標識を移したようですね。

村役人が裃を着用して土下座し、幕府や藩の役人を出迎えた所だそうです。

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左手の階段を上ると首なし地蔵が祠内に安置されています。

「この地蔵は宝暦六年(1756)地元(武並町美濃)の人達が、旅人の道中安全

 を祈って造立したものです。

 昔、二人の中間(ちゅうげん)が、ここを通りかかり、夏のことで汗だくでした、「少し休もうか」と松の木陰で休んでいるうちにいつの間にか二人は眠ってしまった、  しばらくして一人が目覚めてみると、もう一人は首を切られて死んでいました。

びっくりして辺りを見回したがそれらしき犯人は見あたらなかった。

怒った中間は「黙って見ているとはなにごとだ!」と腰の刀で地蔵の首を

切り落としてしまった。

それ以来何人かの人が、首をつけようとしたが、どうしてもつかなかったと

いいます」

と案内パネルに記されてました。

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首なし地蔵からは急な下り坂になり、右手にかすかに読み取れる自然石の

乱れ坂碑があります。

乱れ坂は急坂で、大名行列が乱れ、旅人の息が乱れ、女の人の裾も乱れる程の

急坂であったところに由来しているようですが・・

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左右に曲がる乱れ坂を下ると、右手に中山道石柱と青色歴史の道道標があり、

ここから石畳道になります。

昔はもっと傾斜が強かったのかな??京方面からの登りは強つそうですが・・

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乱れ坂を下り、乱れ川を乱れ橋で渡ります。

乱れ川(現四ツ谷川)は石も流れるほどの急流であったといいます。

乱れ橋は飛脚達が出資して宝暦年間(1751~63)に架橋しました。

橋は土橋で長さ7.2m、幅2.2mでした、荷を積んだ馬(荷駄)一頭につき

二文ずつを徴収する有料橋の時もあったそうです。f:id:hansui:20181023050719j:plain

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 みだれ橋を渡ると旧道は右からの舗装路に合さり、分岐点には中山道石柱と

東海自然歩道道標があり、緩やかな上り坂を進むと民家が現れます、

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「四つ谷立場」が有ったといわれる田園風景のうつ木原坂を上って行きます。

十字路手前の右手に東海道自然歩道道標と石州さま標柱があります。 

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うつ木原坂標識の先に旧竹折村の四ツ谷集会所が見えてきた

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 AM11:50、片隅をお借りして昼食に。

恵那市内を離れると、食事処や自販機さえもまったくないんですね。

今回はいつもの健康補助食品とカミさんがちょいと手作りしたパンを持参です。 

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けっこう汗ばむくらいの陽気。
中山道を終えたら、長距離自然道も面白そう」なんて、

カミさんは歩き旅にはまったようです。

昔歩いた、長野県白馬山麓の塩の道街道の思い出話も飛び出して、

ひと時の寛ぎ。

今旅人にとっても、こういうもてなしは有りがたいですね。

爽やかな秋空の下、ゆっくり足休めをし、トイレもお借りしました。

ありがとうございました。

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思いがけない激変お天気と、温かいご親切を頂き旅を終える後半へ・・・

 

旅は続きます。