歩いて再び京の都へ 旧中山道69次夫婦歩き旅  第31回 大井宿~大湫宿 中編

10月19日(金)中山道旅の続きに入ります

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PM12:30、四ツ谷集会所にてのお昼タイムを終えて、再び街道へ。

蘖(ひこばえ)が秋の田植えをしたように、瑞々しい緑の棚田を眺め、

道端の秋の花を楽しみながら、長閑な旧竹折村四ツ谷集落の

お継原坂(うつ木原坂)を上ります。

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あら、らっきょうの花? 草むらの中に一茎だけ赤紫の花。

ラッキョウかも?

「庭のは咲くまでもう少しかかりそうね」

庭にカミさんがラッキョウを漬けたとき、二粒植えたのがいま蕾をつけてるんです。

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 東海自然歩道道標を見送って少し先の左手に竹折村高札場跡(標柱)があります。 

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うつ木原坂を更に上ると、左側に殿様街道跡の標識が建っていました。
街道は民家と民家の間の細い路地になってますが、南に約20km近くの

岩村藩が参勤交代で利用した道で殿様街道と呼ばれたそうです。

ここで中山道に合流し、中山道を江戸に向かったのですね。

わざわざ山登り道の遠回りのような道を利用したのは、幕府の参勤交代の道筋が

指定されていたんでしょうか。

岩村は終わった朝ドラ、半分青いの架空の街モデルで、ロケが行われたことでも

全国に知られてます。先々の旅の時、帰りの寄り道をしました)

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殿様街道跡のすぐ右手が、四ツ谷立場跡と街道書に記されていましたが、

示すものは見当たりませんでした。

この付近がそうだったのかな?

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さらに200mくらいで集落の外れでY字路分岐となり、

中山道石柱、東海自然歩道道標、青色歴史の道道標があります。

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ここからしばらくは、山に分け入る森の中の街道が続き、右手に

かくれ神坂標柱が建ってました。

十三峠道へ入る手前で渡った踏切傍の「歴史の道、中山道」案内図と街道書を
見比べでた折り、案内図の方は「塞の神坂」と記されてました。

次いで右手に妻(さい)の神標柱があり、奥に小さな祠が祀られてます。

街道書では 道祖神の一種で妻は塞(サエ)で、ここは久須見村と竹折村の境で

悪霊のが入り込むのを防いでいる、と記されてます。 

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「サエノカミ」については以前に調べたことがあり、

「塞神・幸神・障神・妻神・才神・性神など、用いられている漢字の違いがあり、

 漢字の表記によって、その性格も少しづつ違うのだが、どれも「サエノカミ」

 ということになり、道祖神の一種となる。

 塞神、障神と表記された「サエノカミ」は、村や地域の境界、道の辻にあり、

 文字通り、禍の侵入を防ぐ神である。
 幸神・妻神・性神と表記された「サエノカミ」は、性病治癒、夫婦和合、

 子宝の神とされている。また、歳神、才神となると、年々の収穫を祈念する

 神である」との資料が有りましたね。


なんて、うんちくを傾けながら、かくれ神坂を少し下り、さらに上り返すと、

明るい雑木林の道となって、「中山道宿場めぐりのみち」丸太道標や

平六坂標柱があり、さらに先に進み左手からの路と合流地点に東海自然歩道道標が

建ってます。

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坂道は平六坂になり、自然歩道道標からすぐ先左手に自然石の平六坂碑があり、

4,50mほど先に平六茶屋跡(標柱)が建ってました。

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茶屋跡の先は一軒の建屋があり、田畑が広がる明るい台地が大きく開け、

右手に動物駆除でしょうか、低い位置に電線が張り巡らせていました。

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下に見えた棚は自然薯の様です。

2,300mも行くと街道は再び木々の中へ続いてゆきます。

左手の風景に気をとられ、右手に有ったらしい「びやいと茶屋跡」標柱は通り

過ぎてしまったようです。

びやいとは「枇杷湯糖」ということで、枇杷の葉に薬草を加えて煎じたもので

名物であったようです。

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しばらく足を進めると、林の中への入口に「紅坂の一里塚」の両塚(岐阜県史跡)

が丸い原型をとどめて現存しています。

江戸日本橋より数えて89番目で、往時は両塚にはエノキが植えられていたそうです。

(街道書では一里塚手前に夫婦岩跡と記されてますが、見つけられなかった)

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一里塚からは、「紅坂」とか「でん坂」と呼ばれる石畳の道になり、

270mほど続く、と街道書には記されてます。

カミさんが、井戸があるけど水場があった?と言いますが、

街道書には有りませんね。

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100mほど行くとカミさんが、「うばケ出茶屋跡」があるけど街道書には

ないわ、「うばが茶屋跡」が載ってるけど、て。

確かに「うばヶ出」になってますね。 ???

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この先から石畳道は急下りになってきます。
50mほど下ると右手に案内板が立ち、石畳の中に「ぼたん岩」があります。

花崗岩が牡丹の花びら状になっていて、

学術的にはオニオンクラック(玉葱状剥離)と呼ばれるそうです。

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石畳の急坂をさらに下ると、右手に自然石の中山道紅坂碑があります。

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紅坂を下ると右手に東海自然歩道道標があり、並びに「うばが茶屋跡」標杭、
紅坂橋を渡って藤の集落へ入って行きます。

紅坂の石畳はここ迄で、うばヶ出、うばが、二つの茶屋があったということ

なんでしょうね。

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左手の民家前に馬茶屋跡標柱があり、右手民家脇に中山道ふじ道碑があります。

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集落を抜けてアップダウン道を進むと、右手に黒すくも坂標柱と自然石の

中山道黒すくも坂碑があります。

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黒すくも坂下ると人家が現れ、

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右手に嘉永7年(1854)、深萱立場茶屋本陣当主の加納三右衛門が奉納した

といわれる、三社燈籠が建っています。

カミさんが、「三社というと浅草の三社祭りが有名だけど、ここの三社は

どこを指すのかしら」、そうだね・・・

燈篭を見ると、三文字が彫られていて、金、秋、そして?が確認できます。

(調べてみると、武並町の散策マップが見つかり、

伊勢の大神宮、遠州秋葉山神社、讃岐の金毘羅宮を指すとありました。

さらにマップには、写真左上に見えてる山は、権現山というらしく、

麓に寛永4年(1782年)建立の金毘羅大権現や、文政2年(1819年)建立

秋葉神社が祀られてるようで、峠道に伊勢神宮遥拝所も有ったので、

そこへの道筋ということ、独断)

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三社燈籠を右手に100m入って行くと神明神社があり、鳥居脇に

芭蕉句碑「山路来てなにやらゆかしすみれ草」などがある、と街道書に記載されて

ますが、寄らずに先へ足を進めます。

三社灯籠向いの左手高台に、佐倉宗五郎大明神と二十二夜塔、稲荷神社があります。

元禄年間、岩村藩竹折村の庄屋田中氏は、将軍に直訴して農民たちを救ったが、

首を刎ねられてしまった。

村では庄屋田中氏をそのまま祀ると咎めを 受ける恐れから、同じような運命を

になった下総(現千葉県)で、義民として祀られた佐倉惣五郎の名を使って

祀ったといわれてるそうです。

遠く離れた下総(現千葉県)の伝説などは、芝居に取り入れられたり、

読み本や旅人によって広く各地に伝わっているんですね。

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すぐ右手に謎の名の「よごれ茶屋」標杭が建ってます。

不潔そうな茶屋?薄汚れた感じのジジババ茶屋?なんて、言い合いながら

東海自然歩道道標と青色歴史の道道標が建つ藤川沿いに先へ進み、突当り丁字路を

右折して藤大橋を渡ると国道418号線へでるようです。

私達にはあまり馴染みがない国道418号は、はる か福井県大野市から、いくつもの

峠を越えて長野県飯田市に至る国道なんだそうです。

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国道418号線を左折し進むと、右手に、当時の大きさで尾張藩用のものを

書写復元した藤村高札場と、傍らには庚申塔等の石塔が並んでいます。

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70mくらい先、右手に深萱(ふかがや)立場解説碑があります。

立場には、あの三社燈篭を献納した茶屋本陣(加納家)や茶屋、馬茶屋など

十余軒の人家があったそうです。
馬茶屋は馬を休ませる茶屋で、軒を深くして、雨や陽射しが当たらないような

工夫がされていたとか。

 街道は深萱立場解説碑先をすぐに右折して続きます。

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右折すると右手に東海自然歩道道標があります。

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 街道書には右手に山形屋跡(渡邊家)の碑がある、と記されてるが、

お花に注意が行ってて通り過ぎたようです。

山形屋て、何をしていた家なのかな? 調べても??です。

写真、右の花はハクチョウゲだと思いますが、今咲いてるのって狂い咲き??

(花が大きく写っていますが、小さな花です)

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右手に「ここは中山道の深萱立場」と記された、東海自然歩道の大きな案内板が

ありました。

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左手にまるで畑に栽培してるかのように、セイタカアワダチソウが群生してます。

ここまでもいまが盛りに黄色い絨毯状に方々で咲いてましたね。

そういえば家周りでも、一時少なくなったセイタカアワダチソウが、

復活し始めた様な気がしてました。

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東海自然道標の先で、Y字分岐を右手に進むときつい上り坂となり、

右手の土手上に自然石の中山道・西坂碑が有りました。

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街道書には付近にチンチン石標識があり、左に入ると墓地があり、奥の墓石の前に

叩くと鳴る石の「ちんちん石」があると記されてますが、周りはヤブ状態で

標識や道筋が判りませんでした。

カミさんが「叩くと鳴る石は、前に有ったわね」といってましたが、

すぐには思い出せず、帰ってから当ブログをめくってみると、

上野の国(群馬県)の坂本宿へ向かってる峠道に「茶釜石」というのが有り、

カミさんが小石で叩くと確かに金属音の音がした、と記してました。

急勾配の西坂を上ると左手に、中山道道標と側に小さな馬茶屋跡の棒杭が有りました。

ここで細久手から来たという今日初めての単独行旅人と出会いましたね。

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道は砂利道になり、急坂を行くと、台風の影響か、杉が根こそぎ倒れ掛かってます。

なんらかの理由で根の張りが浅かったんですね。

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さらに砂利道を上ると、右手に西坂の標杭があり、標識から約10m先の左側に、

石組みの上に竹組の蓋になっている水源があり、水の流れる音が聞こえてました。

昔は峠越えの為の水場があったのかな?

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少し先から草道みたいですが、石畳道の茶屋坂となり、

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その先で東海自然歩道の道標の建つ石段を上り、さらに車道を横断して

また石段を上ります。

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さらに石段を上り針葉樹林に入ると「みちじろ坂」の標杭、そして傾斜がきつい

上り坂となってきました。

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急坂をふいふい上ると、平らな場所は峠の頂のようで、右手に

みちじろ(三城)峠標柱があり向いに、ばばが茶屋跡標柱と自然石の

中山道茶屋坂碑があります。

みちじろ(三城)峠は、昔、藤、権現、奥の三城が眺められたので名付けられた、

と街道書に有りますが、木々が生い茂り周囲の展望はまったくありません。

峠の高所はもう少し上にあるようですね。

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石垣が積まれた茶屋坂の急坂を下ると、車道に突き当たります。

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右手には、ここにも下座切場跡(標杭)、中山道石柱、青色歴史の道道標。
向いに中山道歴史の道解説板があります。

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 そして車道の右手に、京方面に向いて中山道碑があります。

 是より藤と刻まれています。

 そして道標のところは市境、恵那市から瑞浪市へと入りました。

 PM1:40

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後編へ続きます。