そして道標のところは市境、恵那市から瑞浪市へと入りました。
PM1:40
後編です。
道は舗装されたゆるい坂道となり、道なりに上り、数分先の分かれ道は
右手の坂を上る。
右手の坂を上り切ると、大久後(おおくご)の立場の有ったところです。
左側に白い木柱の「大久後の向茶屋跡」標柱があり、付近を「茶屋が原」と
呼ばれたようで、左手木々の奥に少し草地や畑地が見えました。
向茶屋とは原の向こうにの意味かな?向かい合う2軒の茶屋があったのかな?
しばらく進むと左手が開け
先の道標などの建つY字を左側へ回り込み、街道は観音坂と呼ばれる急坂を
山の中へと登って行きます。右手に白い観音坂標柱がたってます。
Y字の右手への舗装された坂道は、観音坂の急坂を避けるため、
江戸時代後半に「新道坂」が造られたそうで、こちらも白い標柱がたってます。
カミさんが小さな可愛い花がいっぱい咲いてるわよ、と呼ぶので駆け上がって
左手を見ると、「おっ、ウメバチソウ?、いやセンブリかも」
バシャバシャ写しましたが、小さい花でちゃんと写っていたのは2枚だけ。
大湫のお休み所で「センブリ」と教えてもらいました。
咲いていたのは、この付近だけでしたね。
さらに砂利道を上ると、左手に大きな「大久後観音坂」石柱がありました。
その先の草道を行くと、大きな「歴史の道・観音坂と馬頭様」解説板があり、
右手林の中の大岩上に、一見お地蔵さんとも見える馬頭様(馬頭観音像)
が安置されていました。観音坂は馬頭観音からなんでしょうね。
馬頭観音から約50m歩くと、木立の中に東屋風の観音坂休憩所があり、
右手の段上に天保2年(1831)建立の観音坂の霊場巡拝碑がありました。
街道書に、霊場巡拝は、奉納 西国、四国、秩父、坂東供養塔と記して
ありますが、すべての霊場を巡礼したということでしょうか。
われわれも、各霊場のうちの何か所かずつは街道旅の合間に訪れてますね。
秩父は身近なので、何回かに分けて全札所巡りをしましたね。
それが街道旅を続けているきっかけの、一つにもなりました。
先で坂を下って観音坂は、先ほど分岐していた新道坂に突き当たります。
新道坂と合流し左手の東海自然歩道道標、青色歴史の道道標を見送り進むと
大久後の集落入って行きます。
下り坂を進むと街道書に「灰くべ餅の出茶屋跡」という標柱が建ち、
灰に直接くべて焼いた餅が名物と有りましたが、通過してしまったようです。
さらに右手に「大久後立場跡」も記されていましたが、こちらは何も示すものは
ありませんでしたね。
坂を下ると大久後村に入り東海自然歩道道標を見送り進むと、集落外れで、
右手の石段上に祠がありました。
街道書には観音堂があり、弘法石造座像も安置されている、と記されてます。
弘法像は屋根部分を新しくしたような祠に座してますが、観音堂が判りません。
(跡で調べたら、石段を上がって弘法大師像の右手にすこし離れて建っていた、
新しそうな小さな普通の小屋に見えたのが、観音堂だったようです)
ここから急な上りの権現坂で、一歩一歩ゆっくり足を進めます。
坂は鞍骨坂と呼び名が変わり、右手に標柱を見ながら上ります。
鞍骨坂を上り詰めると、右手に刈安神社への参道階段口があります。
社殿は石階段を300m以上上った、権現山の頂上に鎮座しているそうです。
東濃十八砦の権現山城跡で、戦国初期に小牧からこの地に移り住み、刈安城とも
萩之島城とも呼ばれる城の城主となった西尾式部道永を祀っている。
城主が合戦に敗れ自刃すると、明暦3年(1657)里人が城主を刈安権現と称し
創祀した、と資料に有りました。
「参道奥の脇に大きな石碑が二つ見える」てカミさんが指さした方に、
確かに石碑が二基有りました。
アップで映してみると「秀覚霊神 」「松覚霊神 」と刻まれ、一つには
「出雲大社教 」と読み取れます。
調べると、出雲大社教という団体があるようですが、刈安神社との謂れは
わかりませんでした。
カミさんが足止めして見ているのは、地面に這うように一輪咲いている、
ホホトギスの花。そして右手石垣の上にミセバヤが咲いてました。
その先に中山道解説板があり、炭焼き立場跡と記されてます。
眺望が良く、十三峠の中では特に旅人に親しまれた立場だったそうで、
蜀山人が享和2年(1802)に記した紀行文に「俗に炭焼きの五郎坂というを
くだれば、炭焼きの立場あり・・・」とあるそうです。
(遠くからも見えていた左手の樹が奇妙な伸び方をしてます。
4mくらいうえで5本ほどに枝分かれをして、真っすぐに伸びてます。
切ったところから、再び新梢が伸びたんでしょうね)
炭焼立場の西外れ、季節はづれのユリの花を見つけて進むと土道になり、
林の中の上り坂へと入って行きます。
東海自然遊歩道の標識の有る坂は、
吾郎坂とよばれる標柱があり、やがて左手が開け畑地に出てきました。
その先で再び山に分け入るように森の中へと道は続きます。
野アザミが一輪ぽっと咲いてます。
丸太の車止めの置かれた山道は樫ノ木坂と呼ばれ、やがて石畳の道になりました。
樫ノ木坂石畳道の上り坂は、「中仙道ゴルフ倶楽部」の敷地内を通り抜けるようで、
進むと道の両側にこんもりとした小山が見えてきます。
江戸日本橋より九十里目、権現山の一里塚の両塚が現存していました。
慶長八~九年(1603~4)十三峠の新道敷設にともなって築かれ、
樫ノ木坂の一里塚とも呼ばれてるそうです。(瑞浪市史跡資料にて)。
さらに続く急坂道は「巡礼水の坂」と呼ばれるそうで、中仙道ゴルフ倶楽部の
カート道(舗装路)を横断し、両側のゴルフコースに挟まれた道を進みます。
カート道を過ぎて少し上った右手に、歴史の道案内板が建ってます。
ここは「十三峠の助け清水」として旅人たちから大切にされてきた「巡礼水」
と呼ばれる水場がありました。
昔、旅の巡礼が丁度八月一日にこの地を通りかかりました。そして具合が悪く
なり倒れてしまいました。病気になった巡礼の母娘が
念仏を唱えると目の前の大岩から清水が湧き出し、その水を飲むと病が癒された、
というお助け水で、、八月一日には必ず湧き出たといいます。
段上には宝暦7年(1757)建立の馬頭観音像が祀られています。
巡礼水の傍らに自然石の中山道順礼水碑があります。
碑面には太田南畝の壬戌紀行「坂を下りゆくに 左の方の石より水流れ出るを
巡礼水という 常にはさのみ水も出ねど八月一日には必ず出するという むかし
巡礼の者此の日此所にてなやみ伏しけるが この水を飲みて命助かりしより 今も
かかることありといえり」が刻まれているそうです。
(赤丸 馬頭観音 黄枠 お助け水場)
石畳の一部残す巡礼水の坂を進み、2っ目のカート道を横断し自然道、歴史道、
びやいと坂の標柱を見送って坂は下りになます。
ゴルフ場内を縦断する街道ですから、ボールが所々に見られ、時々バッサ、
コンコンと飛弾の音が聞こえるので、音に注意しながら進みます。
「びやいと坂」と呼ばれる坂道をを下ると、自然石の中山道曽根松坂碑があります。
太田南畝の壬戌紀行
「少し下りて また芝生の松原を登りゆくこと四五町
あやしき石所々にそば立ちて赤土多し 曽根松の坂という」
が刻まれていたそうですが、写真写りが悪く割合いします。
ゴルフコースの間の曽根松の坂を注意しながら下ると、車止めの杭が立ち、
少し開けた一角に出て、「中山道十三峠阿波屋の茶屋跡碑」があります。
おつる婆さんが営んだ茶屋跡だそうで、先の木々の間にベンチなどが
置かれてます。
右手奥に、天保11年(1840)に建立された「三十三所観音石窟」があります。
石窟内には道中安全を祈る、三十三体の馬頭観音が安置されています。
これらの観音は十三峠を往来する大湫宿の馬持ち連中と助郷に関わる近隣の
村々から寄進されたものです。
石窟前の石碑には定飛脚嶋屋、京屋、甲州屋を始め奥州、越後の飛脚才領、
松本や伊那の中馬(ちゅうま)連中が、出資者として名を連ねています。
坂道は地蔵坂と名が変わり、少し砂利道を下ると左手に十三峠尻冷やし地蔵の
案内板と、太田南畝の壬戌紀行「地蔵坂という坂を上れば右に大きな杉の木あり
て地蔵菩薩たたえ給う」が刻まれた自然石の中山道尻冷やしの地蔵尊碑があり
ます。
案内板は擦れて読みずらいですが、街道書によれば、
「宝永八年(1711)伊勢の豪商熊野屋の夫人が十三峠で急病になった時
この湧き水で助かり、それに感謝して地蔵を建立しました。
以来お助け清水と呼ばれ、旅人はもちろん、参勤大名も愛飲したといいます。
お地蔵さんの後ろから清水が湧き、まるで尻を冷やしているように見える
ところから、尻冷やし地蔵と呼ばれました」と有ります。
地蔵坂を下り切った所で車道を横断し、向いの旧道に入ります。
この横断点には東海自然歩道道標や青色歴史の道道標がありました。
荒れた舗装の坂を上ると砂利道になり、
左手に自然石の太田南畝の壬戌紀行
「曲りまがりて登り下り 猶(なお)三四町も下る坂名を問えばしゃれこ坂という
右の方に 南無観世音菩薩という石を建つ 向こうに遠く見ゆる山はかの
横長岳(恵那山)なり」が刻まれた、中山道しゃれこ坂(八町坂)碑があります。
ここから恵那山が見えるんですね。
碑の横に「十三峠八丁坂の観音碑」の石柱があり、後方に南無観世音菩薩が
建っていました。
しゃれこ、てなんでしょうね?しゃれこうべ、という説もあるようですが・・
鬱蒼とした木立の中を進むうち、明るく開けた道になり、左手の斜面には茶畑が
広がります。
再び木立の中に入り坂を上ると、ここが山之神坂です。
往時は右手の段上に、里に実りをもたらす山之神の小祠があったそうですが、
現在は自然石碑が建ってます。
山之神坂碑の先から赤土の坂を進むと、右手に自然石の中山道十三峠童子ケ坂碑が
あり、十三峠最後の上り坂童子ケ根坂の暗い林の中を行くと、東海自然歩道道標があり、標高は約540mで十三峠の中で最も高い地点に到着です。
しばらく前から、かなり遠くの様ですが雷鳴が聞こえ、周りは薄暗くなってき、
青空は見えていましたが、ぽつんぽっつんと雫雨が降り出してきました。
ここからは下りになり、大湫の宗昌寺にちなむ「寺坂」で、この寺坂から
西行坂までが十三峠になりました。
私達も十三峠をクリアーして、大湫宿の宿場の手前に辿り着いたようです。
急な寺坂を下ると大湫の宿並が望め、右手の段上に馬頭観音像や
南無阿弥陀佛名号碑が並んでいます。
石仏石塔の急坂を下った左手に「大湫宿碑」が建ってます。
正面「中山道大湫宿 右 京へ四十三里半 左 江戸へ九十里半」、
左面「西方 細久手宿へ一里半 宿中安全 東方 大井宿へ三里半」、
右面「是より東 十三峠 道中安全」と刻まれています。
十三峠におまけが七つといわれた美濃路の難所もここ迄です、
PM3:30、大湫宿に到着です!。
右手には太田南畝の壬戌紀行「十三峠碑」が有ったのですが、
なぜか写してませんでした・・・・。
碑面には新撰美濃誌の「中山道の宿駅にて京の方細久手宿より一里半余江戸の方
大井宿より三里半の馬継ぎなり 尾州御領 名古屋まで十六里あり 十三嶺は宿の
東方大井宿との間 琵琶坂は細久手に至る大道の坂を云う 西に伊吹山も見えて
好景なり」が刻まれているそうです。
江戸から47番目、91里9町(358.3Km)大井から3里18町(13.7Km)
大湫宿は慶長九年(1604)十三峠に新道が開設された際に、海抜510mの
高地に新設された宿場です。
東に十三峠、西に琵琶峠を控え大いに賑わいました。
天保14年(1843)の中山道宿村大概帳によれば、大湫宿の宿内家数は
66軒、うち本陣1、脇本陣1、旅籠30軒、宿内人口は338人で尾張藩領
でした。
だいぶく雲が広がって薄暗くなりく、雷鳴も大きく聞こえるようになってきました。
時折、お天気雨が降りそそぎ、雨具を身に付けます。
左手に臨済宗妙心寺派金城山宗昌寺(そうしょうじ)があります。
本尊は釈迦如来で美濃瑞浪三十三霊場第五番札所です。
天正年間(1573~91)に大湫村を開村した保々宗昌が慶長五年(1600)
に開基した寺で、本陣、脇本陣に次ぐ控え本陣でした。
寺坂を下り切り、左折(白色矢印)すると大湫の宿並に入る枡形です。
この枡形を直進し先を右折すると、街道書では尾州藩大湫白木番所跡の標石があり
と記されてますが、寄らないことにし桝形を左折。
左手に宿場の雰囲気に溶け込んだ「大湫簡易郵便局」で「陶都信用農業協同組合
「 こどもみまもり隊JA110番」でもある家屋が建ってます。
その先隣は、国登録有形文化財の指定を受けている旧旅籠三浦屋跡があり、
連なって、江戸末期の建築で国登録有形文化財で問屋丸森跡(森川訓行家住宅)
案内資料によると
「旅屋の他に尾州藩の許可を得て塩の専売も行い、繁盛を極めたとされています。
建物は江戸時代末期の建築と推察され、江戸の町屋形式をそのまま有し、
当時の旅籠商家の雰囲気をよく残しています
昭和20年代まで住居として使用され、一部は現代様に改修されているものの、
建物は建具類を含めてよく保存されています。
平成18年には国登録有形文化財に登録されました。平成26年に所有者から寄贈を
受けたことから、大湫宿の観光の拠点となる施設へ整備しました」とあり、
つい最近 に中山道観光案内所「丸森」となり無料休憩所ともなったんですね。
通りかかると声を掛けていただき、おいしい昆布茶を頂きながら、
いろいろと大湫の話や街道の話をお聞きしました。
天気の急変もようなので短い時間の滞在でしたが、お世話になりました。
ありがとうございました。
天気予報が当初より急激に変わってきて、雷雨の予報になって来たそうです。
まだ青空も有り日差しが注いだりしてますが、遠く頻繁に雷鳴が聞こえ
時折天気雨がある状況になってきました。
予定では大湫宿の西外れ高札場まで行き、そこで足止めとして約4kmの山道を
下って中央線の釜戸駅へ向い電車で恵那へ戻る予定でしたが、
くだり途中で降られる可能性大の為、タクシー利用で下ることして高札場まで
とりあえず足を進める事に。
向いには注連縄をさげた大湫公民館があり、公民館横から裏手に回ると
廃校にった大湫小学校校庭後が保々本陣跡だそうで、案内板によれば、
大湫の開村に尽力した保々家は慶長九年(1604)に開宿されると本陣を勤め
庄屋、問屋を兼ねました、代々保々市左衛門を襲名し、明治まで続きました。
本陣は間口二十二間(約40m)、奥行十五間(約27m)、部屋数二十三、
畳数二百十二畳、別棟添屋六という広大な規模だったようです。
跡地までは行くかずに足を進めます。
駐車場奥の本陣石垣の上に皇女和宮(中央)の陶製人形が飾られています。
(さきほどからデジカメの調子が悪く、不鮮明が多くなってしまいました
写真はパンフレットからのスキャンです)
大湫の「くて」とは低湿地を意味し、良質な飲料水の確保に難渋しました。皇女和宮の大通行に際しては、今にも残る筧水が掘られました、 皇女和宮の大通行は二十七日からの四日間で大湫宿の継立ては人足延べ二万八千人、馬延べ八百十九疋であったといいます。 水戸天狗勢一行は大井宿を出立し、十三峠を越して大湫宿で昼食を摂りました。
(大湫資料)
振り返った街並み。左手公民館、右手休憩所
雷鳴が絶え間なく聞こえるようになり、すこしずつ近くで鳴り響くようになって
きました。雨がパラパラ降ったり止んだりです。
次いで右手の丘上に白山神社が鎮座しています、大湫宿の産土神です。
参道の左手が宿役人が毎日詰め、宿の業務全般についての指図や業務を行っていた
問屋場跡で、案内板があります。
すぐ先右手の板塀を回した立派なお屋敷は、「面高屋(おも だかや)」。
閉まってましたが現在も無料休憩所として旅人に開放されていそうです。
先の右手奥、階段をあがると、本陣の分家の保々脇本陣跡があり、
門が見えてます。
部屋数十九、畳数百五十三畳、別棟六という広大な建物でした、今は半分程度の
規模になっています、母屋は江戸中期の建築で国登録有形文化財です。
雷鳴大きくなってきたので 先を急ぎます。
進む右手に、慶長十三年(1608)の再建で、白山神社と共に大湫宿の産土神、
「神明神社」が鎮座し、県指定天然記念物「大湫神明神社の大杉」が聳えてます。
案内板によれば、
「御神木の大杉は樹齢千三百年で、樹高60m、幹回り11m、直径3.2mの
大樹で岐阜県天然記念物指定です。
3度の雷にあい推定60mの樹高は40mとなったそうで、平成24年度に本格的な
維持保存工事をして いるそうです。
太田南畝は壬戌紀行に
「駅の中なる左の方に大きい杉の木あり、木の元に神明の宮たつ」と著し、
大杉の前に神明元泉と呼ばれる清水が湧き出ています、貴重な飲料水でした。
道中安全、病気全快の観音として知られ、宿内、近郷はもとより旅人からも
篤く信仰されました」
一瞬明るさが見えたが・・
大杉に感嘆してるうちに、突然に猛烈な雷鳴がとどろき渡り、周りは闇に包まれ
滝の様な豪雨になってきました。
この先少し下ると、大湫宿西方(京方)の宿高札場ですが、神社を足止め地とし
タクシー会社へ連絡。
神社前の道路をへだてたところに、屋根付きの駐車スペースがあり、お借りして
雨宿り。
激しい雷雨の中、タクシー待ちをしていると、道を隔てた神社隣の駐車場持ち主
らしい家から、ご婦人が傘をさして出てこられ、声を掛けてきました。
「この後はどうなされるんですか、駅へ行かれるんでしたら車を出してあげますよ」
窓からでも私達を見られたんですね。
この激しい雷、雨の中、わざわざ家から出てこられて、声を掛けてくれたのです。
「有難うございます」、駅までのタクシー呼んだ話をし、車庫の軒下を
お借りしたい旨お願いすると、「傘はお持ちですか、ここにある傘、
お使いになっていいですよ」とまでいっていただきました。
折り畳み傘を持参しことをお話すると、ご婦人は一旦家へ戻られました。
なんともご親切で温かい思いやりを頂き、「嬉しいね、有りがたいわね」と
感謝いっぱいでタクシー待ちをさせていただいてました。
ところが、しばらくするとご婦人が再び傘をさし、お盆の上に茶碗を載せて
車庫へきてくれたのです。
「雨で冷えてきましたね、熱いお茶を一杯飲んでください。
家に来てもらうとタクシーが来た時にわかりませんからね」
いや~、本当に驚きました。
一瞬、眼がしらが熱くなるほどの感動でした。
ご婦人は話しながらタクシーがくるまで付き合ってくださり、
手を振って見送っていただき、大湫を後にしました。
旅の最後に思いがけない激しい雷雨。
アンハッピーの〆になるところでしたが、温かな人情に触れ合った、
なんとも心がほわ~とした、いい旅路の終わりになりました。
重ね重ね、ありがとうございました、嬉しかったです!!
第31回、歩いて再び京の都へ・・
アンハッピーがベストハッピーで終わりました。
また、いつの日か旅の続きは大湫から、訪れるのが楽しみです。
おわります。