歩いて再び京の都へ 旧中山道69次夫婦歩き旅  第32回 大湫宿~御嵩宿 (二)

弁財天の池で暫し小魚を探したりしながら足休めをし、丘陵上の県道65を

進みます。

街道書に、この先に「ハナノキ自生地」がある、と記されています。

9月の中津川~大井(恵那)の旅路に、マンホール蓋にハナノキを見つけ

中津川山中に国指定天然記念物になっている「坂本ハナノキ自生地」というのが

あるのを知りました。

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その時に「ハナノキは楓の一種」と教えていただきましたが、今回の街道筋に

自生地が有ることを街道書に見つけ、楽しみにしてました。

細久手、2.2kmの中山道道標を見送り、

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10分ほど進むと左手道端に、瑞浪市天然記念物「南垣外ハナノキ自生地」と

刻まれた石柱が立ってます。

おっ、ここだ、どの樹かな??

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瑞浪市の資料によれば、
「ハナノキはカエデ科の落葉高木で4月頃に赤い花を咲かせる日本の固有種で
国指定史跡名勝天然記念物で,主として湿地などに自生する落葉樹です。
春先(4月の初め頃)に紅色を咲かせることから「花の木」の意味でこの名が付けられ
ました。また、秋の紅葉が美しく、一段と鮮やかなことからハナカエデとも呼ばれ
ています。

長野県・岐阜県・愛知県の県境付近に分布し、希少種のひとつとして
「絶滅危惧2類」に指定されています。
瑞浪市では釜戸町、日吉町、稲津町、陶町で自生が確認されており、釜戸町
神徳地区の山林、標高約450m付近に大きな自生地が見られます。
現在約1600平方メートルの区域が国の天然記念物に指定されており、区域内には
高さ約15~20mの7本のハナノキが自生し、その保護が図られています」

とあります。

愛知の県の木でもあるんですね。

秋の紅葉が美しい、とありますが・・・・う~ん、紅葉にはまだ早いのか!!

あたりを見回しても紅葉してる樹が見当たらないね~・・・

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しばらく眺めてましたが、特定はできませんでした。

瑞浪市の資料では、こんな紅葉が見られ、春には赤い花が咲くそうです)

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自生地を過ぎて、道は下りとなり、左手に一本の根から二本の松が生え、

夫婦円満・子授けなどご利益の珍木で中山道の名物だったという「女男松の跡」

の標柱。下の溝状に「陽松女陰神」の石碑がありました。

松は残念ながら昭和初年に枯れてしまった由。

石碑が置かれていた道下が旧街道の風情があった・・

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その先はかるい上りとなり、ゆっくりと進んでゆくと

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県道の両側に、高さ4メートル、直径12メートルの両塚がしっかりと残された

江戸から92番目の「奥之田一里塚が」ありました。

瑞浪の一里塚」とも呼ばれるそうです。

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三基の電波塔の立つ秋の山道、

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7,8分行をくと右手に「三国見晴台と馬頭観音像」と書かれた標柱が立って

いて、元治元年(1864年)建立の馬頭観音が祀られています。

後ろ斜面の高台は「切山辻の見晴らし台」の跡だそうで、今は木々が覆い隠して

しまってますが、信濃、美濃、三河かな?尾張も近江もあるが?三国を

見渡せた景勝地だったようです。

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このあたりから細久手宿地域になってくるのか、街道沿いの旧跡には
「細久手長寿クラブ」の手による案内板が設置されていていました。
「~The Goddes of Mercy build in 1864 元治元甲子6月建立 小田井宰兵衛」と
英語交じりで記されてまね。(観音像の下の方に名が読み取れます)

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道は左にカーブし、細久手バス停脇に大きな中山道の案内板があり、

細久手宿はすぐ先」と記されています。

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その先左折して坂道を下ると、十字路手前右手にすっかりペンキがはがれてし

まってほとんど読み取れない「細久手長寿クラブ」作成の案内板と山の風景があり

案内板の「霊」の文字と風景画の山から、街道書に江戸時代の絶景地で茶屋があっ

たと記されている「霊峰御嶽拝観地」茶屋ヶ根と推測。

この付近から遠く、御嶽山が見えるんだそうですが、・・・

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先は十字路に突き当たり、右から道路が合流して細久手宿へ向かいます。

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広重画の細久手宿は、ここの東の高い所から宿場入口を望んで描かれたようです。

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細久手宿に入ると左側に「日吉第二小学校跡」の大きな石碑がある。
子供たちは瑞浪市の方へ山を下っての通学かな。
隣の赤い社は「天王様」で、長寿クラブ案内板には、京都八坂神社の牛頭天王信仰

に始まるもので、細久手宿では7月16日が御霊会(お祭り)であった、

と記されてます。

今は開催されてないのかな?

瑞浪市の資料では、今年は台風で中止になったが、細久手津島神社灯籠祭が

開催されるようです。

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細久手には桝形が設けられて無く、緩い弓形の坂道になってます。

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坂道を5.6分行くと右手に道標や「長寿クラブ」の手による細久手宿の案内板が

建ち、おっ!「処刑場」があったらしい。

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道標の左手は庚申堂への参道で、脇に「細久手高札場跡」を示す標柱が建ち、

細久手宿の江戸口(東口)になるようです。

AM11:20、江戸から48番目、細久手宿到着です。
右手の街道より一段と高い場所に細久手の庚申堂があり、もともと小堂宇だった

ものが、寛政10年(1798年)の宿中大火のあと、宿の鬼門除けとして

享和2年(1802年)に再建されたもので、境内には江戸時代の石仏石塔が並んでます。
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いや~、懐かしいタバコ売り場ですね。昔、町のタバコ屋さんにありましたね。

右側の家にレトロのタバコ売り場と、現代のタバコ自販機が並んでました。

「TABACCO」の文字が彫り残された飾り窓、「たばこ」のホーロー看板。

細久手で1軒だけの商店かな。

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タバコ売り場の軒下に、これぞ「生え抜き」

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同じ種類だよね?? と見たら花札がありました。

左はモミジバゼラニュウム、右はモミジバゼラニュウム「サクラサクラ」

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隣の空き地に顔出し記念写真パネルがあり、そばにある「長寿クラブ」の案内板に

よると、儒学者、佐藤梅波が1830年に開塾した「細久手塾」跡地だそうです。

f:id:hansui:20181114211438j:plain向かい、左手の広場は細久手公民館で宿の中心街になりますね。

「星あかり夢街道」のリーフレットに皇女和宮の江戸降嫁の行列と星空が描かれて

ます。

もうすぐお昼です。少し早いですが家から持参し、朝ホテルでセットしたパンで、

ランチタイムにし足休め。

(後でわかりましたが、公民館の場所は、郷蔵二棟があったところだったようです)

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瑞浪市細久手宿解説文によれば、

細久手宿は標高420m、江戸から48番目の宿で、江戸へ92里、京都へ

 42里の位置にあり、東隣りの大湫宿と西隣りの御嶽宿の両宿間は4里半

 (約18km)も離れており、両宿で人馬が難渋したため、元々は7軒屋と

 呼ばれる小さな仮宿であったものを、慶長15年(1610年)に尾張藩

 よって新しい宿場として整備されたという。

 家々の地割は、5間から10間と統一されていませんが、家々の境は石積みで

 区画整地されており、いまも新宿設置のころの施工の様子がうかがわれます。

 宿内の町並みは東高西低で、東の茶屋ヶ根から西の日吉・愛宕神社入口迄が

 上町・中町・下町に三分され、宿長は3町45間(410m)ありました。
 枡形はつくられず弓なりに緩くカーブし、上町と下町に弓形が施され、

 高札場は上町入り口の庚申堂前に、本陣・問屋場は中町に、脇本陣は下町に

 あり、往還に沿って東西に細長い町並みでした。

 家数 65軒 (うち、本陣1、脇本陣1、旅籠24)人口 256人 

 中山道の宿場で2番目に少なく、規模の小さな宿場でした。
 3回にわたって大火に見舞われ、宿場の建物を焼失してしいましたが、

  大湫宿の場合と同様主要交通路や鉄道が南の土岐川沿いに移ったため、
 主要地方道65号恵那御嵩線のみとなり、宿は過疎化の中でわずかに往時の姿を
 とどめています。」とあります。 

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12:00、旅人にも開放してる公民館脇のトイレをお借りし(志し寄付制)

街道へ戻ります。

公民館の向かい側に、卯建(うだつ)を上げた旅籠「大黒屋」、があります。

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細久手宿大火のため安政6年(1859年)に再建され、昔の古い建物のままで今も

大井御嵩間で唯一の旅館として営業し、現代の街道旅人に重宝されています。

市資料によれば、

安政の大火の翌年に再建された建物で、切妻屋根の両端に本卯建を上げ、2階が

1階に比べてかなり低い構造となって、江戸時代の面影を色濃く伝えています。

尾張藩が手狭になった宿の本陣、脇本陣での宿泊を嫌い、問屋役酒井吉右衛門宅を

尾州家本陣」として定めたのが、『尾州家定本陣大黒屋』のはじまり」

 と記されてます。

 宿場・観光案内所も兼ねており、近年は海外のガイド本にも紹介されてる

 そうで、美濃路木曽路を歩き旅をする海外ハイカーにも人気の宿になって

 いるそうです。 

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 先の琵琶峠で出会った外国のウォーカーも、一夜を過ごしたんだね。

私たちは、残念ながら日程が合わずに写真収めるだけにしました。

代々小栗八郎左衛門が務めた本陣は、大黒屋から少し先の右側にその跡を示す

石柱だけが建っていて、例の案内板もありました。

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持参街道書では本陣跡の向かいのバス停裏手の空地が、代々小栗八左衛門が勤めた

細久手宿脇本陣跡と記されてますが、標識も遺構もなく、たぶんこの空き地?

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 おや、左手の家の軒下に下がってるのは?

デジカメをアップで覗くと、なにやら動物の骨のようです。

「大般若祈祷・・」の札が下がってるので、行者の祈祷所のようでした。

謎のままに通り過ぎ・・

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右手向かい側の大きなお屋敷裏に和宮使用の井戸があるようです。

和宮細久手宿で昼食を摂っていますが、その際に使った井戸と言われています。

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お屋敷の塀に文化10年(1813年)頃の宿場内の家並みを表した細久手宿絵図

が張ってありました。

緑星印が当家輪島屋与衛門(本田屋)でパネルに黄矢印がつけてありました。

右端下の赤枠が郷蔵で、休息をした公民館、向いが「尾州家本陣 問屋場 

大黒屋吉右エ門」の表示がありました。

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 宿場の道は下り坂となり、先で左手へ下ってゆきます。

絵図のところで追いついて来た日本人の旅人としては、今日、3人目の行き交った

方がとっとと去って行きました。

 

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右手石積土手の上に、長寿クラブのほぼ擦れてしまった案内板。

街道書に記されてる、南蔵院跡の案内のようです。

不動明王を祀り、加持祈祷を行った」とあります。

ということは、先ほどの骨を飾った家(祈祷所)と関係ありそうですね。

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その先に分岐があり、道標の立つ山側へ行く右手奥に、細久手宿産土神

日吉・愛宕神社がありました。

天正年間(1573~92年)に細久手村を開いた国枝重円が文禄四年(1595年)に

創建した神社で、宿の守護神して多くの人々に崇敬を受け、旅人も道中の安全を

祈願したと、案内書にあります。

鳥居の右手の灯篭は、嘉永年間(1848~54)の山灯篭だそうです。

ここが細久手宿の西の出入り口(京方)に当たり、

PM12:10、

次の宿場は約12km先、江戸から49番目の御嵩宿。

空は青空、さあ、がんばんべ~・・・

(神社には立ち寄らづに足を進めました)

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街道書には、道標の右手斜面に「大塚由来」と記してあり、「皇女和宮の用便を

埋葬し「おくそ塚」として敬拝した等を地名由来としている」とだけ記され

てます。

他の案内書では、長寿クラブの案内板も立ってる由ですが、見当たりません。

それにしても変な地名由来ですね。

 (写真を整理していたら、この場所に建てられていた、顔出し写真パネルの

 後ろに倒れてるのが、長寿クラブの案内板だったようです。

調べた細久手資料に、

「宿並の少し先に大塚という地名があります。昔、高貴な方が旅の途中で亡くなりここに埋葬されたことから王塚と呼ばれ、後に、大塚になりました。和宮降嫁の際細久手宿で休憩し、用便を重箱に入れてここに埋めたことで「おくそ塚」とも呼ばれています」

とありました。

やっぱり、変な塚史跡ではありますね。

不動明王パネルは右手道を挟んだ南蔵院のところに有ってしかるべし、とお思いましたが、こっちの方が傾斜が緩やかだから?案内板が倒してあるのは??

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細久手宿を抜けると、中山道は広い舗装道路の下り坂道になります。

さよなら、細久手宿。今一度振り返り。

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続きます。