歩いて再び京の都へ 旧中山道69次夫婦歩き旅  第32回 大湫宿~御嵩宿 (四)

PM2:20、皇女和宮通行の際、御殿が造られたという物見峠の御殿場展望台

で、暫しの足休め。

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展望台には子供や、法要姿の方が数人いました。

あれ?どうしてこんな峠に礼服を着た方がいるんでしょう??

10分ほど足休めをして、街道へ戻ります。

トイレ脇で休息をしていた単独行の男性が、お先にと坂を下って行きました。

なんとこの方は、今朝大井宿(恵那)を立ち、これから御嵩、さらに足が動けば

その先伏見宿まで行くそうです。

えっ、35km!か、江戸時代の旅人も30~40kmくらい歩いたそうだけど、

なんともすごい健脚ですね。

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展望台に礼服の方がいた理由はすぐにわかりました。

すぐ先向かいは森のケーキ香房「ラ・プロヴァンス」だったのです。
朝早くから行列のできる人気のケーキ屋だそうで、駐車場にはたくさんの車が

停まってました。時間の余裕があったら寄りたいとチェックしていたのを忘れて

たんです。

目的地、御嵩まではまだ5,6kmあります。

カミさんに聞いたら、日のある内に目的地へ着きたい、というので、

横目に見ながら物見峠を下りました。

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坂を下ると街道は舗装路と交差し、道標に導かれて斜めに横切り「謡坂」に

進みます。f:id:hansui:20181117202824j:plain

5分ほど進むと、今は涸れているが昔は絶えることなく清水が湧き出したと

いわれる、唄清水と刻まれた石碑と句碑が建ち側には解説パネルが建って

いました。

石に囲まれた清水のそばには句碑があり、解説パネルによると、

「旧謡坂村が尾張藩千村氏の知行地で、千村平右衛門源征重(五歩)が
  「馬子唄の響きに波たつ清水かな」と
 唄ったことから「唄清水」と名付けられた」とあるそうです。 

今は残念ながら 「この水は生では飲まないでください」との注意看板が

建ってます。

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斜め向いには大正2(1913)年に建立された「禁裡御所巡拝記念碑」が建って

いましたが、巡拝したのは?いつ?なぜここなのか?

(今も調べ中)

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両側が竹林の謡坂行くと、カミさんが右手に石碑があるといいます。

街道書には記載のない石碑で、あとで調べましたが由来はわかりません。

竹林が先が明るくなり、唄清水から2,3分行くと建屋が見えてきます。

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街道書に記された「旧善知鳥(うとう)」村に入ったようで数軒の民家があり、

続いたあの竹林納得の、竹炭を扱う竹炭工房がありました。

「お休みどころ」との札も下がってました。

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*「善知鳥(うとう)」て鳥の名?とどんな鳥かなと調べてみると、

「チドリ目ウミスズメ科の海鳥。ハトほどの大きさで背面は黒褐色、くちばしは

 橙色。繁殖期にはくちばしの上部に角のような突起を生じ、砂地に穴を掘って

 産卵する。北海道・本州北部の離島に群生。アイヌ語起源の名、とする説もある 」

 を見つけました。海鳥のようですが、この山奥の村の名になったのはなぜ??

 また「能」に猟師を題材にした「善知鳥(うとう)」曲目があるようで、

 猟師の多かった村からか、なんて勝手に推測楽しんだ*

竹工房の先をひと下りすると、左手に「東海道標」「歴史の道道標」があり、

右手からの車道に合流し、左折します。

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舗装道路に合流したところに、屋根覆いされた「一呑み(ひとのみ)清水」跡が

あり、清水碑と地蔵尊が祀られてます。

側の解説版には、

皇女和宮はこの水を賞味し大変気に入り、後に和宮が江戸から京へ上る際、

多治見の永保寺で休息した時に、この清水を取り寄せ点茶をされた、とあります。

先ほどの唄清水もそうでしたが、昔は旅人にたいそう喜ばれ、岐阜県名水50選

にもなっていた両清水は、今ではそのままは飲めません。

「生のままは飲まないでください」の注意書き付きになってます。

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清水のところで道は二股になっていて、左手の道が街道らしい雰囲気でしたが、

石柱道標に示す「中山道石畳み」の右手車道へ進みます。

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うっかり、左手にあるとされる「馬頭観音」を見過ごし、西に少し傾いた陽を

受けた街道を下ると右手に「十本木立場跡」を示す石柱と解説パネルがあり

「宝暦五年(1756)刊の岐蘇路安見絵図(やすみえず)にも記載されており、

 元々は人夫が荷運びの途中に休憩を取っていた場所に、次第に茶屋が建ち旅人

 の休憩地となった。

 古老の話しでは、参勤交代の諸大名が通行する際にはここに警護の武士が駐屯

 し、一般の通行人の行動に注意が払われた」とありました。

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すぐ先に道標があり街道は左に分岐し、またすぐ二つの道標が現れ右に曲がって、

西日に綺麗な紅葉を見ながら足を進めると、

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分岐から2,3分の左手に、石置き屋根を乗せた井戸があり、脇に地蔵が安置され

ている、「地蔵の清水」がありました。

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地蔵の清水から約50m歩くと、右手に一里塚跡があり、塚が復元され解説パネル

が建っていました。
江戸から94番目の「謡坂(うとうざか)十本木一里塚」です。

瑞浪市にあった4つの一里塚は往時の姿のまま現存しているが、

この塚は明治になり不要となって2円50銭で払い下げられ、取り壊されていた

ものを、昭和48年(1963年)に地元有志によって復元されたもの」と記され

てます。
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一里塚跡から約40m先き右側に、ほとんど読み取れない標板が建っていましたが、

街道書にある立場の共同洗い場、「十本木洗場」跡のようです。

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右手一角は広めの草原になっていて、中山道歴史の道パネルがあり、
「広重が描いた木曽街道六十九次の「御嵩宿の木賃宿の様子」はこの建物が

 モデルになっている。絵の中に、野菜でも洗っているような人物が描かれてい

 ますが、ここが洗い場だったことからも推察できる」

 と記され、浮世絵が貼ってあります。

パネル向かいに家屋があり、家前に「十本木茶屋跡」の案内がありました。

十本木は、10本の松の木があった由来の由。

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広重画・御嵩宿、画の解説には、

「広重は御嶽として謡坂村の十本木立場の夕景を描いています。

そして宿場の外れにあるのが常であった、木賃宿(きちんやど)を描いています。

木賃宿は薪代を支払って宿泊し、自炊が原則でした。

前の小川では老婆が米を砥いでいます。

軒下の柱行燈には御嶽山御神燈が描かれいます、尾張は御嶽講が盛んで、多くの

講中がここに泊り、登拝に向いました。画面左は謡坂の下り坂です。」

とあります。

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茶屋跡から5,60m行くと分岐があり、石畳みの敷かれた左手の急な下り道へ

入ります。

そこには謡坂石畳と刻まれた石柱が立ち、ベンチがありました。

ここで下る旅人は足元の見直し、登ってきた旅人は一息つく、だね。

謡坂の石畳は平成9(1997)年から12(2000)年にかけて修復整備

されたそうです。 

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木立が生い茂り、西に傾いた日差しがさえぎられる石畳みを下ると、

右手に歴史の道中山道のパネルが建っています。

説明板によると、

「西からの旅人は謡坂の急な上り坂の苦しさを紛らわすために、歌を唄いながら上ってきたことから「謡坂(うたうさか)」と呼ばれるようになり、更に転じて「うとうざか」になった」という。

そういえば街道書には謡坂の付近は、善知鳥村(うとうむら)と記してあったのですが、謡坂の読み方と関係はないのであろうか??

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パネル左手に林の中へ続く細道があり、聖母マリアの案内板がありました。
細道に入り300m程道なりに行くと、キリシタン信仰の弾圧から逃れるために、

仏教の墓地を利用したキリシタン遺跡見つかり、後に聖母マリア像が建立された

そうです。

道を急ぐため、立ち寄りはしませんでした。

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午後の日差しに映える紅葉を眺めながら、5分ほど石畳の下り坂を行くと、

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道標や謡坂石畳の石柱があって謡坂石畳みは終わり、突き当りの舗装道路を左

に曲がり、とどめき橋を渡ってり広めの車道へと出て、旧斎藤村へ入ります。

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左手に道標があり、街道であることを確認しながら車道を200m下ると、

右手に石段があり、段上に耳の病にご利益があり、平癒したら錐(キリ)を奉納

する耳神社があり、入口に標石と解説パネルが建っていました。

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我が年齢からお参りと思いましたが、かなりの狭い急石段、あたりは暗さがある

ので石段下でお参り。縦型解説パネルには英文でも詳しく書かれてましたね。

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そういえば、昨年の11月に塩尻過ぎ木曽路へ向かう途中に「耳塚」があったのを

思い出しました。形の似た椀がたくさん奉納されてました。

「耳塚」

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時刻はPM3:20、

事前調べでは、向かう御嵩の到着駅まで約4km強。

4時を過ぎていたら懐中電灯明かりでも歩ける歩道のある国道へ、道なりに

約1.2kmを直接下る計画でしたが、何とか明るさが残るうちにたどり着け

そう。

少しゆっくり歩きになって足を進めます。

神社付近の崖が崩れそうな下に馬頭観音像があり、少し進んだところに

御嵩宿まで4100m、細久手7700mの道標があり、道路は右に曲がります。

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曲がった先は道標が立つ分岐となり、街道は右手へ行き、先で再び道標に導か

れて、さらに右手の登坂に入って行きます。

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坂道の上り口左手に、大きな百八十八ケ所順拝納経塚碑が建っていました。

西国、四国、坂東、秩父霊場巡拝記念だそうですが、どなたの記念碑なのかは

読み取れず不明。

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記念碑を過ぎ竹囲いの付近から、道は西洞坂(さいとさか)と呼ばれる土道の

急坂が続きます、

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急坂を3分ほど登ると、右て斜面石積みの祠の中に、三面六臂のの馬頭観音

安置されている石室があり、街道書には明和二年(1765年)の建立の

「寒念仏供養塔」と記されてますが、周りには標識らしきものがなく、

急坂を俯いて登ったら気が付かないかもしれません。

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供養塔を過ぎると、牛の鼻が地面にこすれ、欠けてしまうくらいな急坂なので、

「牛の鼻欠け坂」と呼ばれている、と記された歴史の道中山道の案内があり、

 「つづら折れの道となり、下り終えると京までは比較的平坦地になる」、

とも 記されてました。確かに懐中電灯では不安を覚える坂道です。

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パネルのまえで、御嵩のボランティアガイドさんに出会いました。

来週、11月17日に行われる「中山道ぎふ17宿踏破ウォーキング」の一部、

御嵩から御殿場(物見峠)へ解説案内人としてグループ20人ほどの道案内を務

めるそうで、道筋状況確認をしていたそうです。

道の曲がりなどに書かれた矢印は、そのイベントや、別の企画スタンプラリー

のためだったんです。

(イベントのことは、大湫や細久手への接続交通手だてを調べて知りましたが、

 日が合わず利用しませんでした。尚参加には有料で予約が必要でした)

 急坂も5分ほどで下り終え、道標や石碑を右手に見てY字分岐を右手に進み、

旧西洞村へ入って行きます。

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あら、トンボよ!のカミさんのひっそり声、そ~と脇を通り抜けます。

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坂を下ると、田園風景が広がります。

まっすぐ進み突き当り(車が見える)を右手に曲がって、さらに車道に出た

突き当りを路面に矢印に従って左手へ曲がります。

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越えて来た山方面を振り返り、

先ほどのパネルにありましたが、この先京へはわりと平坦な道のりとなるようです。

この牛の鼻欠け坂辺りを境にして、江戸へと向かう東は山間地域になります、

京へと続く西は比較的平坦地になり、ちょうどこのあたりが中部山岳地帯と平坦地

の境界線になっていようです。 幕府は要害の地として西洞村を天領とした、と

別資料にありました。

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道標を右手に見て5分ほど進むと、右手の小高い丘の上には、摩利支天の石塔や、

六字名号が置かれている、と街道書にあります。

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さらに5分ほど行くと、田園地帯が大きく開け道標の先で二車線道に合流し井尻の

集落へと入ります。

ここにも大井宿から十三峠へ向かうところに建てられていた、飲食関連の

注意看板がありました。

(でも、いずれも注意看板の付近は、準備しようにも何も無し、ちっと手遅れ気味)

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4,50m先の道標や路面の矢印にしたがって右折し、

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右に左にと道標を確認しながら何度か曲がり、10分ほど進むと、

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PM4:06、ようやく国道21号に出てきました。

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国道に出で右折しすぐの民家の裏手に回ると、古代の東山道をたどる途中の御嶽で

病気になり鬼岩温泉で湯治したものの、寛仁3年(1019年)にこの地で没した

と伝わる、平安時代を代表する女流作家和泉式部廟所があり、石碑が建てられ

解説碑があります。

和泉式部の墓と言われるものは他県にもあるそうですが、
廟所に立てられた石碑は

「天文五年(1563年)に建立されたと言われ、式部の歌
「ひとりさえ 渡れば沈む浮橋に あとなる人は しばしとどまる」の歌のほかに
「いずみ式部廟所 寛仁三巳未天」と記されているそうです。

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国道に戻った直ぐ脇に中山道ではなく「右・中街道」と刻まれた大きな道標

があり、大井・御嵩ともあります。

古街道の解説の中に、

「江戸時代に中山道として道が整備される以前は、「東山道」という名称でした。

この大井~御嵩間も、東山道時代は十三峠とは別のルートでした。

中街道と呼ばれているその道は、大井から下街道で土岐郡釜戸へ南下し、

日吉村の宿・本郷へ入り、可児郡上之郷村のうち次月・美佐野・宿・中切をへて

御嵩宿へ達していた・・・これらによって、東山道のこのあたりが平安時代

「木曾街道」と呼ばれ、江戸幕府によって中山道が整備されたときに「中街道」

という名前で残った。

中山道は、慶長七年(1602)大久保長安によって大井~大湫~細久手~

御嶽間の道筋が新たに開削されましたが、これは江戸防衛上の観点から難路を

選択した結果といえます」と記されてました。

ということは、この国道21が平安時代の古街道ということですか!?

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低くなった西日を受けて、右手に大きな八幡神社の社標石柱が立ってます。

500mほど奥に鎮座しれてるそうですので、立ち寄らずに御嵩宿へ進みます。

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左手に丸山稲荷神社の鳥居と小山を見送り5分ほど進むと、国道は井尻交差点で

左手に大きく曲がり可児御嵩バイパスとなって去り、街道は直進して

栢森(かやもり)地区に入り御嵩へむかいます。

街道書には、分岐する付近に日本橋から95番目の「栢森一里塚「」があったが、

位置不明と記され、確かにそれらしき遺構の姿は全くありません。

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分岐の井尻交差点から100mほど先の長岡交差点の道標に、横断して左手へ渡る

表示と路面の矢印があり、信号で左手にわたって右手に進みます。

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渡て7,8分ほど行くと、左手に道標、右御嵩、左細久手があり桝形道なって、

街道は左に分岐し、

11月10日、PM4:30、江戸から49番目、御嵩宿に入ります。

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御嶽宿は江戸から95里27町(376.Km)、美濃国になりますが、

宿は大湫宿細久手宿と同じく尾張藩領です。

  家数66軒 (うち、本陣1、脇本陣1、旅籠28)
  人口600人 (うち 男323人、女277人)
 弘仁6年(815年)に伝教大師によって創建された、願興寺の門前町として

 古くから栄えたといわれます。

中津川宿から続く5宿は山間の宿場ということで、宿場の規模が小さいにもかか

わらず、旅籠数は平均的な軒数(28軒)を有している。

宿長は4町56間(約540メートル)あり、と案内文などに記されています。

 先ほど横断した道の右手に鳥居があり、山側段上に津島神社が祀られてました。

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御嵩の地名は御嵩町に平行して流れている、可児(かに)川の対岸にある
金峰神社からきているそうで、御嶽と呼ばれた吉野の蔵王権現を勧請したため
この地を、御嶽、御嵩と呼ぶようになった、との資料がありました。

右手に弘法堂があったはずですが、なぜか左手を見ていて見過ごしてしっまた。

御嵩宿の石柱から300mほどで右手に曲がり、左手に「正一位秋葉神社上町組」

の石柱が立つ井戸があり、上屋にはしめ縄があり水神が祀られ宿場の防火の目的

もあり「用心井戸」と呼ばれたそうです。

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夕暮れ迫る御嵩宿を進みます。

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街道書には、用心井戸から約300mほど先の御嵩郵便局角に、高札場跡が

あった、と記されてますが、標識やそれしき遺構は何もなく、これが

「高札場跡」と勝手に決めてパチリ。

マンホール蓋、「郵」の字は、専用マンホール?

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と思いましたが、御嵩宿街並み絵図によると、高札場はこちらの家の角の

ようでした。

小さな犬矢来のある家には「御嵩、可児、散策切符」などの暖簾がさがり、

スタンプラリーのポスターが貼られてます。

スタンプラリーは岐阜17宿に、長短三種類のコースが設定され、参加コース内で

のすべてのスタンプを取得で賞品がもらえるそうです。

岐阜17宿内に二つのイベントが企画されてるんですね。

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陽が傾き街並みはそろそろ夕闇が迫ってきてます。

街道書では、元旅籠の吉野家

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立派な家屋ですが非公開、

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先となりは、御嵩町指定有形文化財に指定されている、犬矢来のある豪商「竹屋」

本陣野呂家から分家し、材木や木綿、絹織物などを手広く商っていた商家です。
主屋は大火後の明治10年再建され、約130年を経た建物です。

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現竹屋資料館となって公開、隣に駐車スペース、塀に御嵩街並み絵図があります。

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その隣は代々野呂家本家が勤めた本陣跡で、建坪は181坪、前棟、奥棟合わせて

室数24、畳数172畳あった。

非常の場合は北側の藪を抜けて5町離れた「宝積寺」へ避難できたという。

母屋は明治10年頃建替えられたが、本陣門は往時のものと、資料に記されてます。

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隣は「脇本陣跡」で、現在は町立の図書館と郷土館の複合施設の

中山道みたけ館」で、御嶽宿伏見宿に関する資料が豊富で、宿場の模型を

通してみる御嶽宿の様子、大名食の復元。皇女和宮通行の折の下賜品など紹介して

いるそうです。閉館時間まじかなので、次回に立ち寄ることにして先へ進みます。

町では「みたまち 中山道御嶽宿復興プロジェクト委員会」を立ち上げ活動してる

そうです。

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中山道みたけ館から約50m歩くと、唐沢川の唐沢橋をわたります。

みぎて前方に足場を組んだ大きな建物が見えました。

あっ、あれは国の重要文化財に指定されている「願興寺」では!

なんと本堂修復工事が始まってるようです。

立ち寄りは次回ゆっくりすることにして、先へ進みます。

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左手に無料の観光休憩施設で軽食もとれる「御嶽宿わいわい館」がありますが、

今日は閉館です。

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願興寺前が桝形となって街道は続きますが、正面が名鉄広見線御嵩駅。

11月10日、PM4:55 第32回の旅はここで足止めとしました。

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名鉄広見線、JR太多線、中央線と小一時間乗り継ぎ土岐市のホテルへ

PM6:20戻りました。

空にはきれいな眉月が・・

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  大湫宿から御嵩宿、約18kmの旅、歩けたね~・・乾杯の旨味倍増!!

昨年11月江戸から30番目塩尻宿から木曽路へ入り、木曽川沿いに、木曽谷の

山道、いくつもの峠を越えて東美濃へ。

宿場間には現代の水場(自販機)や食事処も少なく、水、食料携帯は必需品。

そして中山道最後の山中に続く街道を歩き、江戸から49番目御嵩宿へ。

中部山岳地帯の中山道を、塩尻宿から約149km(約38里)、

1年かけて乗り切りれました。

歩いたのね~、歩けたんだ~・・さらに美酒乾~杯い!!

 

またいつの日か西美濃をへて京への旅を・・

 

「第32回、旅の完」