歩いて再び京の都へ 旧中山道69次夫婦歩き旅  第32回 御嵩宿~太田宿 後編

 5月25日(土)中山道歩き旅の後編へ入ります。

 

遊歩道の土手道中山道を降りて左り弓なりが、街道書には記されてませんが、

江戸時代後期に渡し場が移動してからの、太田宿江戸口の桝形という説もあります。

f:id:hansui:20190602040748j:plain

神明堂交差点は変則的六差路になっていて、真ん中を通るのが県道207。

(県道207は旧国道21で、2018年県に移管され県道に変更)

左手で県道と分岐した左の道が中山道、太田宿の街並みが西に向かって伸び

てゆきます。

令和元年(2019年)5月25日 PM2:20

江戸から51番目の宿、太田宿へ到着です。

f:id:hansui:20191111043945j:plain

f:id:hansui:20190602042037j:plain

街道書によれば、太田宿の宿長は6町14間(約680メートル)。

  家数   118軒 (うち、本陣1、脇本陣1、旅籠20)
  人口   505人 (うち 男259人、女246人)

飛騨高山道と郡上街道が分岐する交通の要衝にあたり、近くには太田の渡しもあり

木曽川の舟運も盛んな宿場であったとあります。

江戸初期には徳川家康に重用された大久保長安が奉行として統治していたが、

長安が没した後、大湫宿御嶽宿と同じように尾張藩領となった。
太田代官所天明2年(1782年)に設置され、恵那から鵜沼まで約五万四千石の

村々を統括し、政寺・経済・文化の中心地であったそうです。
(広重画 太田宿 太田の渡し)

f:id:hansui:20190602042945j:plain

(参照資料より)

当初の御嵩宿から鵜沼宿までの中山道道筋は、御嵩宿ー伏見宿ー土田(どた)宿ー

木曽川内田の渡し(愛知県犬山市内田町=犬山城付近)ー鵜沼宿であった。
 記録的には伏見宿は、元禄七年(1694)土田宿の廃止により新しく宿場と

して設けられたとあるが、慶長七年(1602)の「御嶽宿駄賃定」には、

御嶽より伏見までとあり、明暦二年(1656)の文書にも「此宿中山道御伝馬所・・・・大通之時ハ御嶽宿と一所に成、伏見宿御伝馬役仕候、・・・」とあり、

当初より伏見は宿場であったと見ることが出来る。
 しかし、太田宿の創設がはっきりしない。

 寛永十七年(1640)には、土田宿と太田宿が合宿で可児郡内二十五カ村

木曽川南)、加茂郡内二十七カ村(木曽川北)の助郷が付けられていることから、

この頃が太田宿が創立された時期と考えられる。
 またそれと同時に太田の渡しが開設され、観音坂・うとう峠の改修が行われ、

新しい中仙道が成立した推測できます。

(写真左下、水車の回る米問屋小島屋)

f:id:hansui:20190602045154j:plain

神明堂交差点から少し先の民家の前に、写真は写し忘れましたが、中山道太田宿と

刻まれた石碑が立ってました。

さらに先左手に休憩所やトイレがある神明水神公園があり、暫し足休め。

f:id:hansui:20190602065830j:plain

公園から100m弱先、右手塀に太田宿碑が建っていました。

中山道太田宿 右御嵩伏見宿三里 左太田脇本陣宿三丁」と記されてます。

f:id:hansui:20190602070226j:plain

その左手向かい側すぐ先に、独特の字体で「南無妙法蓮華経」と彫られた法華経塚。

案内板には、飛騨街道への追分があるとのこと。
先ほどの少し東の神明堂交差点にあった、道標のことが記されてます。

f:id:hansui:20190602070459j:plain

 f:id:hansui:20190602090539j:plain

法華経塚から100m強ほど左に太田宿の江戸(東)口、木戸番が詰めていた

新町木戸門跡で、標柱が建っていました。

標柱の後ろには木曽川の土手が見え、太田宿が木曽川の河畔に立地していることが

わかります。

f:id:hansui:20190602091554j:plain

木戸門からレトロな街並みを200mほど行くと、十字路になり右手へ道は

美濃加茂駅へ通づる道になり、左手に太田宿の案内標柱が照ってます。

f:id:hansui:20190602151827j:plain

f:id:hansui:20190602153413j:plain

(標柱にライン街道とあるのは堤防の遊歩道?)

マンホール蓋デザインは、渡し? or ライン下り? 

(正解は、かって人気の木曽川日本ライン 船下りでした)

f:id:hansui:20190602171933j:plain

標識から先白壁が続き、左手に太田稲荷がありました。 

f:id:hansui:20190602163625j:plain

稲荷の先50mほどに太田宿の上町桝形(跡)があり、白い塀は祐泉寺の

中山道側で、曲がると秋葉神社が祀られてました。

f:id:hansui:20190602165422j:plain

f:id:hansui:20190602172711j:plain

祐泉寺は500年を超える歴史をもつ臨済宗妙心守派の寺で、寺伝によれば

文明6年(1474年)に大道真源が湧泉庵という寺を建立したことに始まるといわれて

います。

松尾芭蕉北原白秋坪内逍遥などの歌碑や数多くの石仏 槍ヶ岳の開祖として

知られる「播隆上人墓碑」と、美濃加茂から犬山までの木曽川の景観を

日本ライン」と命名した「志賀重昴(しげたか)墓碑」があると街道書には

あります。

祐泉寺は木曽川に面して山門があり、今度の渡し、太田の渡し、中山道と来た道は

境内のお裏手を見せてますが、木曽川の流れの変化に伴い、太田の渡しに変更に

なったということから、元々木曽川のこの辺りに渡し場があったため、

と思われますね。

f:id:hansui:20190602173037j:plain

祐泉寺から街道へ戻ると右側に明治40年(1907年)に建築されたという

十七銀行旧太田支店跡がありました。

f:id:hansui:20190602173914j:plain

向いには、国の有形文化財に登録されている旧旅籠の小松屋(吉田家住宅)が

あります。お休み処になっていて無料で入場でき、ちょいと覗かせて頂きました。

この建物は江戸末期の建築と言われ、一階と二階の窓には格子戸がはめられており、

町屋建築の面影を今に伝えています。

f:id:hansui:20190602175421j:plain

桝形から先が太田宿の中心になってきます。

永楽屋、辰巳屋などや卯建(うだつ)を上げた家屋など、街道宿場であったことを

伝える風情のある街並みが続いてます。

f:id:hansui:20190602180503j:plain

f:id:hansui:20190602180707j:plain

f:id:hansui:20190602182221j:plain

明治時代に本陣「福田家」から酒造権を譲受け醸造をはじた「御代桜」酒造が

あります

江戸時代は茶屋と酒の販売を営んでいたそうです。

f:id:hansui:20190602182919j:plain

対面に、江戸時代の脇本陣建物を残す林脇本陣が建ってます。

明和6年(1769年)に建てられた主屋は卯建が設けられ、格子戸と連子窓が

美しい建物で、国の重要文化財に指定されている。

天保2年(1831年)に建築された表門とそれに連なる袖塀も含めて、

間口25間(約45m)の屋敷構え。

脇本陣のほかに太田村の庄屋、尾張藩勘定所の御用達を勤め、さらに味噌の醸造

質屋などを営んでいたそうです。

因みに、祐泉寺にお墓のある江戸時代に槍ヶ岳を開山した播隆上人は、

天保11年(1840年)にこの脇本陣で病に倒れ、この地で生涯を終えている。

明治時代には、板垣退助が岐阜で暴漢に襲われる前日に宿泊しているそうです。

f:id:hansui:20190602183202j:plain

写真、脇本陣門の右手の家屋は、脇本陣林家隠居家で脇本陣は公開されてませんが

こちらは公開され見ることができます。(覗いてません)

f:id:hansui:20190602183228j:plain

脇本陣の対面の斜め左に、福田本陣跡がある。

現在は本陣の面影を偲ぶ建物は残っていないが、文久元年(1861年)

皇女和宮の下向の折に建てられたといわれ、幅1間、両側に半間の脇袖塀を持つ

表門が往時の本陣を伝える遺構として保存され、美濃加茂市有形文化財

指定されている。

本陣には大老井伊直弼、水戸天狗党武田耕雲斎などが宿泊しているそうです。

明治時代には太田町役場が置かれていた。

建築以来、長い年月を経て痛みが激しくなったため、平成14年10月に解体修理を

行いました。    (現地説明板より)

f:id:hansui:20190602183631j:plain

本陣跡の向い、脇本陣の西隣に、2006年に開館した、太田宿中山道会館が

あります。そして、

f:id:hansui:20190603052056j:plain

 歩いて再び京の都へ 旧中山道69次夫婦歩き旅  第32回 御嵩宿~太田宿

令和元年5月25日(土)は、 PM3:05 ここで足止めとしました。

f:id:hansui:20190603052151j:plain

太田宿中山道会館には、江戸時代の中仙道や宿場町の様子や「太田の渡し」、

御降嫁で太田宿に宿泊した皇女和宮等の資料が展示などがあり、1946年から

亡くなるまでの2年間を美濃加茂市下古井に住み、文芸活動や芸術活動を展開した

岡本一平の居宅の部材の一部を使用し再現した、ゆかりの家「糸遊庵」も同じ

敷地内にあります。

( 会館のHPです)

館内をさっと見学し、日陰のベンチで缶コーヒーを飲みながら一休み。

私しより大先輩、八十代後半のご夫婦のご主人が、話しかけてきました。

「どちらから、遠くからですか」

リックを背負ったすこし疲れたような私たちの姿を見かけ(?)気になったようです。

街道旅の話をすると、大変興味を持たれ

「ご夫婦で元気に歩かれてるとは、幸せですな、うらやましいですよ」

とおっしゃってました。

老境に入ってから、ご夫婦で方々へ観光されていたそうですが、

奥様が二度の脳梗塞を患い、二度ともなんとか回復されたが、

やはり無理はできず、それでも一緒に出掛けたいと今はマイカーで

近場へ出かけられるそうです。

街道旅や、観光旅のいろいろの話で、話が弾み、

「お互い、元気で、またどこかでお会いできることを願って、」

とご婦人をいたわりながら、去って行きました。

本当に、またどこかで!ですね。

f:id:hansui:20190603052125j:plain

 会館の中央にドンと構える榎の大木があり、その枝に大きな丸いボンボンの様な

ものが沢山ついているのは、ヤドリギ(宿木)ですね。

この榎に冬場ヒレンジャク(緋連雀)がやってくると、案内板にありました。

f:id:hansui:20190603060056j:plain

 ヒレンジャク(緋連雀)は、シベリアから冬を逃れて渡ってくる、体長約18㎝の

渡り鳥です。木の実を食べに飛んで来るヒレンジャクは、宿木の実を食べますが、

宿木の実には粘り気のある物質が含まれており、消化されずに種のまわりに

残っているため、硬い種はそのまま糞と一緒に出されます。その種は、地面に

落ちる途中で枝や幹にくっつき、根を食い込ませることで成長します。

寄生植物である宿木は、鳥のおかげで高い梢に根を下ろすことができ、

ヒレンジャクは、種をまくという大切な役割を担っているのです。

美濃加茂市広報より)

昨年、2年ぶりにこの木にやってきたそうです。

大変希少な渡り鳥だそうで、野鳥マニアの追っかけ鳥なんだそうですね。

数年前、自宅近くの公園へ飛来したとの情報が流れ、大勢のマニアが

カメラの砲列を敷いていたことがあり、私もデジカメ持って待機しました・・が、

 残念でした、の思い出がありました。

(広報の写真拝借 ヒレンジャク

f:id:hansui:20190603062305j:plain

太田宿を後に、JR美濃加茂駅へさらに1kmほど、重い足をいたわりながら歩き、

JRへ乗り継ぎ、PM4:30、可児市の宿へ。

宿近くで「あら、八重のドクダミよ!」とカミさんが見つけた。

f:id:hansui:20190603092226j:plain

明けて5月26日(日)、恒例の帰り寄り道は、当初はわりと近い【国宝犬山城

でしたが、旅の直前に可児市に素晴らしい広大なフラワーガーデンがあることを

知り、さらに宿で見たTV報道でも、バラの見ごろとあって、最終決定。

「天気良し!バラへ」と立ち寄り。

いや~広かった!綺麗だった!暑かった!で、寄れてよかったね。

f:id:hansui:20190603052529j:plain

 ほんの一部だけど、デジブックアルバムに、


街道歩きの旅としては、昔の旅人に笑われそうな距離しか歩けませんが、
「それもまた良し、物見遊山のんびり旅」

帰りの高速道SA、で中央アルプスが見送りだ・・・・

f:id:hansui:20190603052743j:plain

またいつの日か旅へ、

    おわり。