歩いて再び京の都へ 旧中山道69次夫婦歩き旅  第34回  1日目   中編 河渡宿~ 美江寺宿へ 

59月14日(土)AM9:00、江戸から53番目の加納宿を旅立ち約6kmm。

正午12時、54番目河度宿。

 天王川をゆるく右カーブしてる慶応橋で渡り、河度宿を後にします。

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橋を渡る少し前に工場などでサイレンが鳴り、正午に。

橋を渡って食事処が有ったらお昼にしよう、と話していたすぐ先に牛丼店。

朝飯が早かったのでお腹も空いた、でお昼を兼ねて一休み。

さあ、スタミナも付いたぞ!といても当然並盛ですが・・旅の再開。

店の前付近から直線道路が続く生津縄手呼ばれる地域で、

生津縄手は、慶応橋を渡った処から県道23号が交差する生津交差点の先きまで

700m強続いています。平安時代には荘園があったといわれるそうです。

慶応橋から縄手の中間くらいまでは、道路の北側が岐阜市、南側が瑞穂市で、

縄手の中間くらいから瑞穂市へ入ります。

 右手にカーブして縄手は終わり、

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工場や民家が続く歩道のない路は、生活道路のようで結構車の往来が多く、

注意しながらたんたんと足を進めます。

右手に生津小学校を見て縄手の曲がりからさらに700m強足を進めると

突き当たるようなY字路分岐で石碑と現代の道標があり、小さな祠の馬場地蔵堂

あり、持参街道書には「墨俣街道との馬場追分と呼ばれていた」とありました。

 

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馬場地蔵堂からしばらく行き、糸貫川を渡ると本田の集落に入る。
街道書には「糸貫川は流末で天王川に落ち合って長良川に注ぎ、

 かつては「鶴の名所」で和歌の歌枕として詠まれていた」とあります。
糸貫橋を渡った左に、南無延命地蔵尊が安置されている文化6(1809)年に

建立され本田地蔵堂があります。

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本田の集落へ入ると右手民家の庭の一角に、現代風門扉の本田仲町秋葉神社

祀られてます。

旧本田村は東町、仲町、西町で構成された立場があったそうです。

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左手に緑の中山道道標と「中山道街並み」と記した木柱標識が立てられ、旧家らし

家屋が残されてます。

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路の右側には、これも立派な門扉の本田西町秋葉神社が祀られていました。

秋葉神社の立派な鉄製門扉は加納宿から良く見かけたわね、この辺の風習かしら?

て、カミさん。

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本田バス停の脇は本田代官所跡で、

「本田は初期江戸幕府天領で、寛文10年(1670年)野田三郎左衛門が

初代幕府直轄地代官に任ぜられ、この地に代官所(陣屋)が設けらた」

との解説パネルが建つています。

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代官所跡から約100m歩いた先の水路を越えた右側に、 

なぜかな?京方面向きに高札場跡の解説パネル(赤丸)が建てられていました。

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約100mほど歩くと本田松原交差点で、街道書には「右側に大エノキ」とあるが、、

伐採された切り株が残る(歩道信号機右下)だけで、一角はつい最近整地された

ようです。

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本田松原交差点を過ぎて左手は田畑と民家、右手は用水路に沿って大きな工場や

研究所が続き、左手ては従業員用の広大な駐車場。

そして道は相変わらづ歩道帯の無い道が続き、車の往来が激しく路肩ぎりぎりを

歩き約400m、工場の終わったところに流れる川が五六川。

橋の手前左手川沿いに少し入ると、造園されたばかりのような小公園で、

こぎれいなトイレがあり、利用させていただきました。

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街道に戻り五六川を五六橋で渡ります。

街道書には、「この先の美江寺宿が、江戸日本橋から56番目の宿場であることに

由来して名付けられた」と書かれてる。

本田の集落はここまで、川を渡ると農村地帯になる。

とカミさんが、美江寺宿が56番目、55番目では??

はい、ごもっとも。これはお江戸日本橋を1番目と数えたから、なんだそううな。

 右手の用水路はルコウソウに覆われ、左手に「富有柿と花の街 瑞穂市」の大きな

丸看板があり、美江寺観音 1km、本陣跡 1.3kmなどと記され、

少し先左手に「この道は中山道」の縦看板が見えてきます。

富有柿は良く知られる柿ですが、この地が発祥の地だったのですね。

市の案内 によれば、「富有柿は、1857年(安政4年)に美江寺宿の北西・瑞穂市

居倉で栽培されていた柿の木を、接ぎ木栽培が成功したことから、

1898年(明治31年)に「富有」と命名され、全国に普及した」とされてます。

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美江寺五六町交差点を渡ると左手に並ぶ巨大なビニールハウス群があり、

街道書では「さ ぼてん村」とあり、すべてサボテン栽培のハウスだそうで、
また、交差点の先には松並木が続いてたそうですが、戦争で松根油を採取するため

全て伐採された、と記されてます。

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美江寺五六町交差点から少し歩くと美江寺宮前町交差点で、

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すぐ先は大垣から谷汲口を経て樽見に向かう、樽見鉄道美江寺駅の踏切があり

宿街へ入ります。右手に美江寺駅ホームが小さく見えました。

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踏切を渡って30mほどのところが、北方向にある華厳寺に向かう谷汲街道の追分と

なっていて、丁字路右角に、「左北方谷汲ニ至ル」「右岐阜加納ニ至ル」の道標。

(写真はなぜかボケボケでなし)。

左角に美江寺宿名所・遺跡の案内板があり美江寺宿の東(江戸)口になるようです。

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瑞穂市の案内板によると、「美江寺宿は江戸から55番目。

東の長良川「河渡の渡し」と、西の揖斐川「呂久の渡し」の中間にあり、
徳川幕府中山道整備される前から、豊臣秀吉の命で宿場として重要視され

問屋場」が設けられ、往還(5街道以外の脇街道のこと)の荷駄中継ぎの業務に

当たっていた。
江戸時代になって中山道が整備され、1637年(寛政14)に昇格し公式に

宿場として開設した。
美江寺の地名は、奈良時代(719年)建立の美江寺観音から由来している。
間の宿的な立地のため、本陣が建てられたのは1699年(寛文9)と遅く、

脇本陣は置かれることはなかった。

宿場は、濃尾大地震(明治24年)で全壊してしまった」とあります。

天保14年(184年)の宿村大概帳では、家数136軒、582人。
本陣 1、脇本陣無し、旅籠11軒で天領大垣藩預かり)。

広重画 みえじ(美江寺)

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宿場内の道幅は狭く人影はほとんど見かけませんが、結構車の往来が多く
路肩ぎりぎりを注意しながら歩きます。

少し進むと美江寺大門交差点があり、すぐ先右側に石碑だけが残る、

日本橋から108番目の「瑞穂市指定史跡 美江寺一里塚跡」(写真下左)と、

鎌倉時代後期の禅僧で美江寺で亡くなった自然居士(じねんこじ)の墓所

示す石碑(写真下右)が立っている。

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碑の先左手には、うだつの上がった「酒の布屋」と看板にあるこの店は、

元禄9年(1696年)創業の造り酒屋で、明治24年(1891年)の

濃尾地震ときに宿場内で唯一被害を免れた建物だそうです。

(現在は酒の小売店かな)

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ちょっぴり昭和レトロの風情を残す町並みを行くと、美江寺交差点で右手に

美江神社があり、手前に右折の道角に美江寺観世音道の道標が建っています。

市案内によれば、

この地には、もともと719年(養老3年)から「美江寺」「美 江明神」があり、

1549年(天文8年)に斎藤道三により岐阜市内に移築された後、
1566年(永禄9年)からは新たに熊野権現社となっていたものが、明治以降に

美江神社と改称されている。
神社の奥には、1567年(永禄10年)に織田信長の命により再建された

「美江寺観世音菩薩」が今も美江神社奥に祀られている。

(そういえば、宿で見た岐阜城のパンフに金華山山麓に美江寺がありましたね)

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美江寺交差点を街道は左折して進みますが、交差点の少し手前右側が美 江神社。
鳥居の脇の案内板には、「ここに高札場がありました」とあり、

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右側奥に復元高札場、手前右側に宿碑が建てられていました。

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神社の奥には、1567年(永禄10年)に織田信長の命により再建された

「美江寺観世音菩薩」が祀られています。 

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 美江寺神社を後に、交差点を街道は桝形で左折して進みます
直ぐ右側に虫篭窓を備えた、旧美江寺城主の和田氏の末裔が庄屋を勤めた

和田家があり、左手にうだつを上げたちょと旅籠風の家?

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和田家から約160m歩くと左側に幟を立てた、山本金兵衛が勤め問屋を兼ねた

本陣跡があり標石が建っていました。

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本陣跡の道路隔てた斜め向かい側に、明治6年に当時の美江寺村が創立した

小学校・開蒙学校跡碑が建っていました

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学校跡碑からしばらく行き、商人宿の看板を見ながら進むと農家風の家の前の

分岐を右に曲がりると道標石碑が建っていて、後ろに屋根付きのベンチが

置かれてました。石碑はここも墨俣道の道標で、

「左 大垣墨俣ニ至ル 右 大垣赤坂ニ至ル」と彫られてます。

あの秀吉の(当時は藤吉郎かな)の一夜城のあった墨俣へ向かう道なんですね。
そして、ここは美江寺宿の京(西)口でもあるんだそうです。

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PM2:20、

江戸から55番目美江寺宿を後に、56番目垂井宿を目指しますが・・・

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続きます