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9月15日(日) 2日目が始まります。
宿で見たTVでは、西美濃は最高気温35℃で、やはり今日は酷暑日になる様子。
昨日、予定より足を伸ばせたので今回の旅の予定地・垂井宿までは約7km。
その先は、約6kmの関ヶ原宿でJR関ヶ原宿駅が利用できるが・・・
まあ、垂井へついたらどうするか決めよう、がのんびり旅の良いところ。
酷暑になりそうだから午前中に進めるだけ進もう!
と、ホテルでの朝食を済ませ、即車を走らせ最寄り駅の西岐阜駅へ。
駅前駐車場に車を置いて、AM8:00発の米原行きへ乗車し、大垣駅で
(アップいてる写真は、レンズの曇りを気づかず撮り続けたため、斑紋があります)
9月15日(日)AM8:50 快晴の真夏日空の下、岐阜県神戸町の東赤坂駅口
歩いて再び京の都へ、第34回 二日目の旅立ち。
天気予報は猛暑、酷暑の35℃。でも、まだ朝方は風は涼しい。
バックにはガンガンに凍らせたペットボトルがずっしり。
歩きだし踏切を渡るとすぐに大垣市に入り、先の菅野1交差点を直進し
踏切から約300m進むと中山道標識に従って、左手に分かれて行きます。
左手に入り約350m歩くと、南方排水路に架かる白山橋があり、
渡った先、左側に白山神社が祀られていました。(写真右端 本殿)
約290年前の宝永年間に、水害を避けて当地に移るとある。
脇社の諏訪社と琴平社は、それぞれ明治期、大正期に合祀されたとのこと。
建て替えられたようで「建設記念碑」がありました。
白山神社から少し進んだ左手に、家屋を取り壊したようでショベルカーや廃材を
積み上げた空き地があり、
道端にポツンと「史跡 中山道一里塚跡」の石碑が残されてました。
日本橋から110番目、池尻一里塚跡でした。
一里塚跡の先で右曲りしながら約100mほど歩き、交差する道を左斜めに渡って
進むと、左手に高い幟を立てた多賀神社があり、氏子の方々が秋祭りの準備を
してました。
約100m歩くと国 道417号と合流する左側に「交通安全」と彫られ、側面には
「左 なかせんどう、右 おおがきみち」とある現代美濃路追分道標燈籠が
建ってます。
合流して40mほどに杭瀬川が流れ、赤坂大橋が近づいてきました。
今朝、旅立ちの東赤坂駅からの歩き始めころに見えだした、大きく山肌を
えぐり取られ山が、まじかに見えてます。
一級河川・杭瀬川の大きな看板を見て、川を渡ります。
街道書には、
杭瀬川は「我が国最大のゲンジボタル)が生息している」あり、大垣市の資料にも
「今から400年ほど前、初代大垣藩主・戸田氏鉄(うじかね)が大垣城入城後、
「天の川蛍」と命名されたといわれ、市の天然記念物に指定されています」
と書かれてます。
川面を覗くと、蛍の幼虫の食餌となうカワニナ巻貝の姿が見え、シーズンには
幻想的な蛍の舞を見られるんですね。
しばらく蛍の乱舞を見に行ってないわね~、とカミさんが懐かしそうに・・
まだ街道旅を始めてなかった頃、長野県辰野町のホタルの里へよく行ってたんです。
橋を渡ると赤坂大橋西交差点となり、交差点を横断して約200m歩くと
元は本流だった旧杭瀬川に架かる赤い欄干の橋が掛かり、橋の手前が参勤交代の
大名や公家が通る時に宿役人や名主が送迎した、赤坂宿の江戸口(東口)で、
御使者場跡の標石が建っていました。
赤坂宿江戸口から赤坂宿へ入ります。
赤坂宿は、中山道六十九次の57番目の宿場町。
日本橋から110里1町(432.1Km)、京へ25里33町 (101.8Km)
天保14年(1843)で総家数292軒、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠屋17軒、
人口1,1129名、
東西に連なる町筋には、本陣・脇本陣をはじめ旅籠屋17軒と商家が軒を並べ、
美濃国の宿場町として繁盛していました。
現在もその古い建造物や数多くの史跡が多く残されています。
また、赤坂宿には谷汲 街道・養老街道が通っており、分岐点である四ツ辻には
道標が建てられています。
明治年間には杭瀬川の豊富な水量を利用した舟運交通が最盛期を迎え、赤坂宿の
東端にある赤坂港が重要な役割を果たしていました。
(本陣公園の案内板より)
旧杭瀬川に架かる赤い橋を渡った、左に建つ小豆色の高いのは?
街道書では、大灯台のモニュメントとありました。
火の見櫓モニュメント、時の鐘のモニュメントとの説はいろいろあるようですが、
地元の方にお聞きするのをわすれてしまった。
モニュメントの真向かいの右手に「赤坂湊跡」があり、埋め立てられた旧川湊附近は、
四阿、遊歩道、噴水、などを設けた赤坂港跡として整備され公園になっていて、
当時の大きな常夜燈が残り、洋館造りの赤坂湊会館が建っていました。
「赤坂湊跡」街道書には、
赤坂港江戸時代に設けられ、諸藩の廻米が集積され、明治期に整備されて1900年ごろ
には、500艘を超える船が往来したとされ、杭瀬川の豊富で安定した水流を利用し、
石灰や大理石産業で栄え、舟運が大正時代まで続いていた。
後に鉄道により衰退し、現在では公園にその姿を残している。とあります。
会館は明治8年に中山道と谷汲街道の分岐点に建てられた警察屯所だったそうで、
赤坂港会館として外観を復元、往時の赤坂港の繁栄ぶりを示す資料が残されている
そうです。
会館前のバス停には「芭蕉元禄の街」とあります。
街道歩きを始めたころ、松尾芭蕉の「奥に細道」に触れたことがありましたが、
奥の細道の旅は大垣を「むすびの地」にしている、とあったのを思い出しました。
会館の方にお聞きしたら、赤坂宿近くに芭蕉がよく訪れたお寺があるんだそうです。
左手に建つ、広重画・赤坂宿は、杭瀬川付近だそうですが、赤坂湊は??
隣に明治以前は「浅間権現社、俗に「富士の宮」と呼ばれていたという
浅 間神社がありました。
赤坂湊から足を進めると踏切があり、 西濃鉄道市橋線で「赤坂本町駅跡」の碑が
建ってます。
この線はJR東海道線の支線(地図などでは東海道線)になる終点の美濃赤坂駅から
出て、赤坂湊の舟運に代わるものとして昭和3年に開業した、金生山の石灰石を積み
出す、営業距離2.6kmしかない貨物線で、戦前の一時期には旅客列車も運行されていて、ここに旅客専用駅があった、と街道書にあり、往時の踏切番や線路跡が残されて
いました。
(蛍の杭瀬川の橋付近で見えた、削り取られた山が金生山でした)
赤坂本町駅跡の踏切から約50mほど歩くと、左側に本陣跡があり公園になって
いる。
本陣の敷地は間口二十四間四尺、二反六畝ニ十九歩、建物の坪数は、
およそニ百三十九坪あり、玄関・門構えの豪勢なものであった。
本陣役は馬渕家、平田家、谷家と続き、以降は矢橋家が明治初年まで務めている。
との案内板が建ち、 公園の一角に据えられている銅像は、高杉晋作らと行動を
共にした幕末の志士「所郁太郎像」。 刺客に襲われ重傷を負った井上聞多を
畳針で縫合手術し一命を救ったことが知られている。
(本陣案内板)
一角に「散策マップ」がある。
左右に横断する赤い線が中山道、上に向かう橙色が谷汲巡礼街道、下に向かう緑が
養老街道で、赤坂宿は、東西南北に街道が分岐する交通の要所であったと示してます。
宿内は、旧街道らしい道幅で歩道区分が狭く、道端ぎりぎりによって歩きます。
左手の家屋は銀行で、宿場町並み景観に合わせた作りでしたね。
銀行の右向いは旧清水家住宅(市重要文化財)で、大垣市の案内には
「8世紀半ばに建てられた宿内最古級の町屋建築です」とあります。
平成24年度に大垣市へ寄附をされた建物で、平成26年度から修復工事を行い。
現在は、歴史的建造物として保存公開し、まちづくり活動の拠点としても利用して
いる、とありました。
清水家は江戸時代には町役人を務めていた米屋で、近代には医者に転じて
屋敷地内で診療を行っていたとある。
日・祝は見学もできる。
Caféがひらかれ、日曜には100円コーヒがサービスになるようで、
老夫婦の方が、向いの銀行前のベンチで時間が来るのを待ってました。
旧清水家のすぐ先の路は「四ツ辻」と呼ばれ、
街道書には、谷汲の道標をはじめ、矢橋家や脇本陣など歴史的な建物や史跡が集積し、
宿場風情が最も色濃く残っているところ、とあります。
四つ辻の右角には常夜燈の「たにくみ道道標」、天和2年(1682)に設置された
もので、 谷汲巡礼街道と伊勢に向う養老街道、そして中山道が直進して交差して
います。
左へ行く養老街道をたどれば、400mほど先に、東京、大阪を結ぶ東海道本線の
支線JR美濃赤坂駅があります。
四ツ辻を向こう左側に見える長大な町家群は、天保4年(1833)に建てられ
最後に本陣を務めた、国登録有形文化財の「矢橋家住宅」です。
左奥や右側にも延々と家が続く広大な屋敷で、東西南北100m四方あるとのこと。
(矢橋家は現代も企業群を持った家で、グループ本社の看板が掲げてありましたね)
矢橋家住宅の隣が「脇本陣跡」の飯沼家で、宝暦年間(1751年~)以後脇本陣を
勤め、明治まで問屋と年寄役を兼ねていたとのこと。
近年まで榎屋の屋号で旅館を営んでいたため、営業中として紹介されている旅行記も
見かけます。
すぐ隣が大きなかんばんを掲げ、た「宿場の駅五七処」が建ってます。
(屋号の五七は日本橋から数えて赤坂宿は57番目に由来しているそうです)
先隣りはに、皇女和宮来た時に見栄えだけでもと表側だけを二階建てにした
お嫁入り普請探訪館(旧増田家住宅)があったようですが見逃したようです、
道路挟んだ反対側(進行右側)に妙法寺があり、門前に所郁太郎墓(左側)と
戸田三弥墓(右側)と刻まれた石碑が建っていました。
妙法寺から約90m歩くと右側に、所郁太郎生誕地碑が建っていました。
所郁太郎は天保9(1838)年に赤坂宿の矢橋家一族、酒造家の矢橋亦一の四男とし
て生まれてるんですね。
生誕地碑から約350mほど歩くと、赤坂宿御使者場跡で石碑が建ち、
このあたりが、赤坂宿案内板にあった赤坂宿の京(西)口になります。
後ろは小さな小山で石碑があります。手前の小さな案内板には「関ヶ原の戦」の
前日、杭瀬川の戦で亡くなった東軍・中村隊の武将・野 一色頼母を葬ったことから
「兜塚」と呼ばれるようになった、とある。
そのすぐ先に封鎖された路のようなものが?
覗くと線路跡で、調べてみると美濃赤坂駅から、わずか1.9kmの営業だった
左の小屋は、遮断機の開閉を人が操作していた踏切詰所のようでした。
地域の資料によると、
そもそも、東海道本線の美濃赤坂駅自体が、大垣駅の先から分岐している5.0kmほど
の支線の終点で、赤坂近くの金生山は石灰岩の産地で、貨物輸送のために、
杭瀬川や揖斐川の舟運にかわって細かい鉄道網が敷かれて、今はトラック輸送に
とって代わった。
輸送力の増強を図るために、独自の鉄道を敷くことができるだけの財力が有った、
ということだそうです。
踏切跡を過ぎると、変わった町名の昼飯町((ひるいまち)に入り左右は石灰工場が
続き、十字路のカーブミラーで、お遊びショットしたりして300mほど行き、
「昼飯大塚古墳←」の案内板の所で左手へ入り先を右折して古墳へ立ち寄りです。
「昼飯大塚古墳は今から約1600年前に築かれた岐阜県最大の前方後円墳です。
全長約150m、後円部径96m高さ約13mの前方後円墳。県内第一の規模の古墳。
4世紀後半頃に築造され、その特徴は墳丘の長さが150mにもなることやその構造が
三段築成となる点、さらには後円部の頂上に竪穴式石室、粘土槨、木棺直葬という
3つの埋葬形態が存在する点にあります。
保存整備では現況の墳丘を修復しながら、後円部の一部に復元ゾーンを設けて葺石や埴輪、周濠を復元しています」
ちなみに、近くには小ぶりの「大塚古墳1号」「大塚古墳2号」がある、と案内板が
あります。
古墳の頂上で期待の山並みは・・・見えた!!
歩き中、遠くに霞むように見えていた、花の山・伊吹山。
もう目の前にど~ん、と優美な姿を見せてました。
(だいぶズームしてますが、思っていたよりくっきりと)
右手には砕石で頂上を亡くした金生山が、後ろ姿を見せてました。
(写真下左)
古墳の前方へ下り、回り道して街道へ戻ります。
風情ある門構えのお屋敷、竹細工の工房などを見ながら、いい雰囲気の街道らしい
道を歩きます。
右手奥に、明秀寺を見送り少し先に浄土宗如来寺があり、
参道右手に、なんで?と気になっていた「昼飯」の由来か書かれた
説明板がありました。
(むかし、善光寺如来という仏像が、大阪の海から拾い上げられ、
長野の善光寺に納められることになりました。
その仏像を運ぶ人が、青墓の近くまで来た時は五月の中ごろでした。
近くの山々は新緑におおわれ、つつじの花咲き乱れる素晴らしい光景です。
善光寺如来を運ぶ一行は、小さな池のそばでゆっくり休み、
美しい景色に見とれました。ここで一行は昼飯(ひるめし)をとりました。
そこから、この辺りを昼飯(ひるめし)というようになりました。
しかし、その呼び名が下品であるというので、
その後、飯の字を「いい」と音読みにして「ひるいい」と
呼ばれるようになりました。でも、「いい」は発音し難いため、
「い」の一字を略して「ひるい」と呼ばれるようになりました。
また、この池は一行が手を洗ったので、「善光寺井戸」といわれ、
記念に植えた三尊杉の木も最近まで残っていたということです。)
(大垣市立青墓小学校・大垣市史青墓編より)とあります。
さすがに小学校での由来の教えですね。
非常に解りやすくやさしく書かれている。
「ひるめし」と書くのにどうして「ひるい」というのかと、質問があったのかな。
浄土宗は家の宗派なので、ここで手を合わせて足を進めます。
如来寺をすぎて少し先は昼飯交差点で、交差点を横断するとすぐ大垣駅で分岐した
これも東海道本線の下り線で、ガードをくぐります。
もともと大垣から関ヶ原に向けての急勾配を迂回するための路線で、
一時は上り線の垂井駅とは別に、新 垂井駅も設置されていた。
その後、下りの特急や貨物は、こちらを通るらしいです。
東海道本線のガードを潜り約100m歩くと、史跡の里青墓町標柱が建っていました。
赤坂が中山道宿場の指定以前は、青墓宿は鎌倉時代東山道の宿駅として栄え、
遊女の里として知られたそうですが、赤坂湊の繁栄と共に青墓宿は衰退。
青墓を地元では「あおはか」ではなく「おおはか」と呼ぶとのこと。
この地方の王様の大きいお墓という意味の「王墓」「大墓」から「おおはか」、
「青墓」という地名になったとのこと。
史跡標柱から約30m歩くと、右側に粉糖山古墳があるので、街道から見ると
墓石が立ち並び町営の墓地になっていたので、立ち寄らずに進みます。
約300m弱歩くと右手道脇に「国宝・観世音菩薩円興寺」の石柱が建ってます。
街道書などによれば、
円興寺は最澄が創建し、1574年(天正2年)織田信長により焼き討ちにあい
全てを焼失。この際本尊が勝手に動き、石の上へ難を逃れたというこのことから、
本尊を石上観音と呼ぶ。
1658年(万治元年)に再興され、現在地へ移転し
本尊は木造聖観音菩薩立像【石上観音】として国の重要文化財です。
と記されてますが、この先の山の中腹にあ るそうで立ち寄は・・止めときます。
石柱の立つ奥正面は白 鬚神社で、隣に山門が青野城表門を移築したという延長寺が
あり、と街道書に有るの寄ってみることに、
白鬚神社は、滋賀県西部の高島市に本社があり、国つ神のサルタヒコを祀っている。
岐阜県に分社が多く、最澄が白鬚神社の霊験を受けて、円興寺を起こした。
隣の延長寺の移築した青野城表門は、と向かいましたが、
あれ、この門が?? 新しく建替られてしまい表門は消滅したようです。
(青葉城は別資料によると、「天和2年(1682)稲葉正次の子・正休は1万2千石の
大名となり青野城を築城したが、2年後の貞亨元年(1684)8月28日江戸城本丸
内で従兄弟でもある大老堀田正俊を刺殺し、自らも斬殺され青野藩は廃藩となって
いる」とある)
街道に戻り、豪壮なお屋敷を目にしながら、
白鬚神社参道口から足を進めると、右手に照手姫水汲井戸入口看板が建ち、
左手へ入ると井戸がある、と書かれてます。
照手姫といえば、説教節や浄瑠璃のなどの芝居で知られる伝説の人、小栗判官の妻。
「青墓宿に売られてきて、主人から無理難題の苦役を強いられ、かごで水汲みをしたと
伝えられる井戸の跡」ともあります。
帰ってか調べた大垣市の資料には、「平成3年に小栗判官ゆかりの地が大垣に集り
小栗サミットが行われました」ともありました。
そういえば、歩いた東海道の藤沢宿入口の遊行寺境内に判官と照姫のお墓があり
ましたね。
井戸へは立ち寄らずにさきへ進みます。
看板のすぐには、旧圓願寺跡・芦竹庵の標石が建っており、芦竹庵は奥州に向かう
義経が源氏再興を祈願し、杖代わりの芦を地面に突き刺すと芦竹になったそうです。
(ここにも照姫の墓といわれる塔があるそうですね)
芦竹庵跡しばらく歩くと、右側に青墓宿碑が建ち、右奥にますます近くなった
伊吹山が望まれます。
青墓宿碑から大谷川を渡ると青野地区へ入り、少し先で県道216号に突き当たり、
街道は斜めに交差した先に進むのですが、直進の横断歩道はなく、県道を右折し
約50m進み横断歩道で渡ります。
渡ったところのコンビニがあり、イートインコーナーが有ったので、
時間は早いが朝食も早かったからと、いつものコンビニサンドで質素に昼食。
(AM11:00)
冷房の効いた店内でゆっくり40分ほど昼食休憩を取り、コンビニの敷地内を横手に
出て、街道の県道228号に合流です。
天気予報どおり日差しを遮るもののない街道は、猛烈な暑さの夏街道となってました。
約550m歩くと、右側に灯篭国分寺道標が建っていました。
道標を右折して約300m歩くと美濃国国分寺跡があり、国史跡として「歴史公園」
として整備されていそうですが、東海道の旅でも国分寺跡には寄ったことがある
ので立ち寄らず、道を入った約40mほどの左側、教覚寺へ寄りました。
教覚寺入口右手には、青野城城主であった、稲葉石見守正休公碑が建っていました。
鐘楼の石垣に、約2億5千年前金生山が海底だった時に繁茂した貝「フズリナ化石」
が露出している。とありますが、どれからな~???
フズリナは古生代に全盛期を迎えた有孔虫で、化石は石灰岩の中に多く存在する
そうです。
街道に戻り熱気を帯び始めた県道228号を歩くと、ここにも右側に
地蔵堂が祀られ、すぐ先右側に日本橋から111番目の「史跡 中山道一里塚跡」。
標石の後ろに大正5(1916)年に建立された大神宮常夜燈が建っていました。
一里塚跡から約500mくらいでしょうか、右側に駒引稲荷神社が祀られており、
参道口左側にここにも地蔵堂がありました。
数分進むと駒引交差点で、大垣市から不破郡の垂井町に入ります。
交差点を横断し約100mほど、右側に平尾御坊道道標が建ち2体の地蔵がある。
平尾は、街道の北側に広がる垂井町の地名で、「平尾御坊」とは、道標から右に
入ったところにある願證 寺を指すようです。
前方に、どんどん近づく伊吹山、
道標から約600m歩くと追分交差点があり、真っ直ぐに渡り進みました。
交差点を渡り歩くと、右手に喜久一九稲荷神社が祀られ、すぐ先の広場の一角に
地蔵堂が祀られていました。
隣のごみ籠、何とかならんもんでしょか・・・
それにしても地蔵堂の多い西美濃街道ですね。
木曽路を抜けた中津川宿くらいまでは、圧倒的に馬頭観音、庚申塔(塚)が祀られて
ましたが、西美濃街道でほとんど見かけることはありませんでした。
登り下りのほとんどない西美濃路だから、牛馬による荷役などは無かったのかな?
地蔵堂から約90m歩くと、中山道は梅谷川にぶつかり、川沿いに少し進んだ
ところで、左から来た道に合流するT字路になり、右に曲がってゆきます。
合流手前左の一角に、道標と右に白い案内板が建ち、垂井町 指定史跡とあり、
石の道標は1709年に建てられ、「是より 右東海道大垣みち 左木曽海道たにぐみ
みち」とあり、裏に「宝永六年己丑十月 願主奥山氏末平」とある。
中山道の道標中7番の古さである。とも記されています。
東海道の宮宿に通じる美濃路で、幕府道中奉行の管轄下に置かれ、大垣、墨俣、
起、萩原、稲葉、清洲、名古屋を経て宮宿へ至っているんですね。
追分を右に取り、直ぐに梅谷川に架かる追分橋となり、橋を渡って約50m進むと
相川橋北交差点、左折して横断歩道を行き相川橋を渡りました。
「相川橋」を渡らずに直進すると約3.6kmほどで豊臣時代の戦略家
「竹中半兵衛」の陣屋跡へ出ます。
渡る橋からも大きく伊吹山が、
相川は昔からの暴れ川でたびたび洪水があり、江戸時代の初期の渡川は
人足渡しだったそうで、渡った橋のたもとの左側に、人足渡し跡標板(白)が
建っていました。
人足渡し跡から、道路を渡ったところに垂井宿江戸(東)口の東見附跡があり、
9月15日 PM1:00、江戸から437Km(111里10町)、
なんとも遠くへ来たもんだ~♬、で57番目、垂井宿へ到着です。
中山道の旅も残すところ100km弱になりました。
宿内を通り、次の58番目、関ヶ原宿へはここから約6:00km(1里12町)。
東海道関ヶ原駅を利用できるので、時間的にも十分歩けそうですが、
気温がぐんぐん上がり、猛暑の35℃越え。
酷暑だった昨年夏の妻籠、馬籠、中津川でのバテバテ歩きを思い出し、
腎臓機能要注意の医者の指導を心配したか、ドクターストップならぬ、
カミさんSTOPで、まあ、急ぎ旅じゃないよね、と
歩いて再び京の都へ、第33回を足止め。
東見附跡から約70mの垂井駅入口で。足止めのスナップショットを。
先には天下分け目の関ヶ原、そしって最後の難所?琵琶峠が待ち受ける。
あ。いやいやその前に、飛ばしてしまった、美濃太田~加納宿を歩かなくちゃ、
なんてお喋りしながら 左に折れて300mほどの東海道本線垂井駅へ。
すぐに入って来た電車で大垣乗り換え愛知県・豊橋行きに乗り換えて、
車を置いた西岐阜駅へ向かいました。
(旅の後書き)
PM2:00に車を回収しましたが、宿へ戻るのはまだ早い。
明日の寄り道予定だったが行ってみよう、と向かったのが岐阜城。
「お城は山の上だし、ロープウェイも有ってスイート登れそうだから」
と車を走らせましたが、なんと駐車場は臨時も含めてすべて満車で長蛇の列。
さすが3連休の中日。
少し待てば止められるだろうと並んび、案内係の方にお聞きしたら、
ロープウェイも小一時間待ちで、ずらりと並んでる由。
あっさり、予定通り明日にしよう、近くの鵜飼いの街並みや、長良川沿いを
回り道したり、途中食品スーパーで買い物したりで早めに宿入り。
明けて16日月曜(敬老の日でしたね)、いつものTV朝ドラを見てから再び
岐阜城へ。
ロープウェイ側の駐車場へ車を停めて、いざ、いざとロープウェイでの城攻め。
(岐阜観光パンフレットから抜粋)
「岐阜城は金華山(きんかざん)山頂に位置し、岩山の上にそびえる岐阜城は、
難攻不落の城としても知られ『美濃を制すものは天下を制す』と言われるほどでした。
戦国時代には小説「国盗り物語」の主人公である斎藤道三の金華山稲葉山城と称した
居城でもありました。その後、織田信長がこの城を攻略、城主となり、地名を「岐阜」に、「稲葉山城」を「岐阜城」に改めたといわれています。現在の城は、昭和31年に
復興され、金華山一帯は平成23年(2011年)に「岐阜城跡」として国史跡に指定されています。」
ふむふむ、司馬遼太郎の「国盗り物語」、大河ドラマは平幹二郎たったね。
(予備バッテリーを車に置き忘れて、写真はこれだけ)
お城の天守閣へ登り、眼下に鵜飼で有名な清流長良川や、街並みを取り囲むように
並ぶ山々。恵那山は判別出来ましたが木曽御岳山は?北つらなるといわれる乗鞍岳や
アルプスはあれかな? 西には伊吹山などの山並み、南には濃尾の大平野が豊かに
開け、木曽の流れが悠然と伊勢湾へ向かっている。
そんな景観をゆっくり楽しみ岐阜を後に、帰りは高野山以来の名神高速、新東名
などを走り家路へ。
4か月ぶりの街道歩き旅を終えました。
完