歩いて再び京の都へ 旧中山道69次夫婦歩き旅  第34回 1日目 太田宿~ 前編

 

 長梅雨や猛暑の8月など、4ヶ月をなんとか乗り切り、

9月は3連休が2回あって、カミさんの仕事も休み。

「3泊4日で2回歩けるわよ、そろそろ旅はいかが」のカミさんの声に押されて

「よ~し、行くか」で4か月まえに到着の美濃太田宿からの旅立ちを予定したが。

岐阜の3連休は適当な宿確保に四苦八苦。

これもカミさん案で、太田宿からは次回に回して先に加納宿岐阜市)から

足を進め、垂井宿まで歩きの変則旅へ変更し再開へ。

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 (先行旅 9月14日、第33回 旅の記録 記事)

hansui.hatenadiary.jp

 変則旅を終えて、さあ次は太田宿~・・が、

台風やら、所用で延び延びになっていましたが、

ようやく予定が立ち、神無月10月に入ってのから旅の再開。

 

令和元年10月4日(金)

直前の台風18号接近で危ぶまれましたが、歩き予定の5日、6日は大丈夫と、

カミさんの仕事終わりを待って、マイカーを走らせ、圏央、中央高速を走り

岐阜県入りし、日も暮れた午後7時、美濃加茂市美濃太田駅前の宿へ到着。

 

明けて5日(土)快晴の夜明を迎え、

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朝食を済ませ、いつものように朝ドラを見てから、宿から15分ほどの

旅立ち地、前々回、5月に足止めした太田宿中山道会館へ向かいます。

(街の星座モニュメント、太田宿街並み)

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(令和元年5月足止め、太田宿中山道会館前)

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令和元年10月5日(土)AM9:00  快晴 夏日 さあ、行こうか!

江戸から51番目、太田宿を旅立ちし、飛ばしていた加納宿へ向けて2日間で

約27km継なぎ旅の再開。 

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中山道会館の向いが太田宿・福田本陣跡で、 現在は門が残されてるのみ。

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福田本陣から約110m、古い街並みが続く道を行くと右側に亀屋酒店があり、

 

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その少し先の十字路が西枡形跡で、街道は左手に曲がります。

十字路の手前空き地の右角に「高札場跡」の解説パネル、

向い角に明治26年1893年)、名古屋の塩問屋、伊藤萬蔵が建立した石碑道標に」

「左 西京伊勢 右 関上有知 道」とあり、右に曲がると関や上有知を経て郡上に

至る郡上街道の起点でした。
今も、美濃太田駅からは長良川鉄道が分岐しています。 

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高札場の右奥に西福寺が見えたが、一説には、福田本陣に宿泊する大名がいざっと

いう時に避難する寺ではないか、と言われてるようだ。

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中山道は桝形を左手へ曲がるとすぐ右手、 手前に小さな「秋葉神社」が、

奥の建物は、左が「下町自警隊器具庫」、右に「庚申堂」。

カーテンが掛かったお堂も珍しい?

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庚申堂から約50m歩くと街道は枡形道になり、左手にその名もマンション・カーザー桝形、が建って道は右手へ曲がります。

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右手に曲がらず、桝形のマンション駐車場内を通り抜けると、すぐ木曽川

堤防へ出、すこし左手へ行くと、尾張藩太田川番所跡があり、

本陣の福田三右衛門が船積荷物改め、筏川下げの管理、流木の取り締まりなどの

役目を勤めたという。

パネルには、ここの木曽川には、明冶以降から昭和34年代まで此処に

渡し場があり、ワイヤーが対岸の岩まで張られた岡田式渡船があったとも、

記されてました。 

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桝形へ戻り右折して約60m歩き、木曽川を横断するR41号の高架下を潜って

先を左折しすると、「大井戸の渡し跡」といわれた太田宿の京口となり、

虚空蔵菩薩堂が建ち、「虚空蔵堂と承久の乱 古戦場跡」の説明版が立っている。

(船は岡田式渡船の名残りかな) 

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虚空堂は旅人の休憩所であり、巡礼の宿泊場ともなったという。

境内には、太田代官所の役人の子として生まれた明治時代の小説家坪内逍遥夫妻が

その前で記念撮影したムクノキが、今も葉を繁らせている。

街道書によると、この辺りは鎌倉時代に起きた承久の乱(1221年)のときに、

後鳥羽上皇の朝廷軍と鎌倉幕府軍が木曽川を挟んで戦った、

承久の乱古戦場(大井戸の戦い)跡とあります。 

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虚空蔵菩薩堂の右手先の太田小学校が、太田代官所のあった処で、尾張藩代官所

置かれ、中津川から鵜沼までの中山道木曽川沿った尾張領約5万4千石の村々を

統括していました。
 代官所の役宅も此処にあり、坪内逍遥は此処の役宅が生家でした。

太田小学校の生垣の一角に説明板があります。
 逍遥の父は代官所手代で、
尾張藩天明年間になると藩政改革として領内の要所地を一括支配する所付代官を

 配置しました。太田代官所天明2年(1782)に設置され、当初の代官は

 井田忠右門でした。慶応4年(1868)、太田代官所は北地総管所と改名され、

 田宮如雲が総管に任命されました。このとき一緒に勤めていたのが坪内逍遥の父

 平右衛門です。美濃加茂市商工観光課」

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太田小学校の隣日蓮宗太田教会の場所に、坪内逍遥ゆかりの妙見堂がある。 

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虚空蔵菩薩堂前を枡形にまわり木曽川の堤防上へを西へ進みます。

(江戸時代は今のような堤防は無く、木曽川沿いの道が続いてたのでしょうね)

右手の保育園では秋の大運動会の真っ最中。

赤ガンバレ!白負けるな!スピカーから流れる大音量にも負けじと、

ワウショイ、ワッショイの子供たちの大歓声。

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 日差しは強いが川面を流れてくる風は心地よく、快適な歩きが出来てます。

この付近の木曽川はかっては弱小堤防が造られていましたが、

昭和58(1983)年、台風10号による豪雨によって木曽川は記録的な大出水となり、

美濃加茂市坂祝町などで氾濫し大災害に見舞われた。

このため、この災害を契機として、緊急的かつ抜本的な改修工事が必要となり、

激甚災害対策特別緊急事業(激特事業)として採択され、築堤及び護岸工事が

実施されました。

美濃加茂市の資料より)

木曽川は「太田の渡し」から鵜沼。犬山までの木曽川が、ドイツのライン川の景観に

似ているとして「日本ライン」と名付けられてるようです。

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おっ柿だ、

街道書にある、太田宿の名物なそうな「美濃つるし」と言われる「蜂屋柿」かな?

平安の後期、蜂屋なる者が後鳥羽上皇に献上し評判になった。

その後徳川歴代将軍家にも献上された、という。

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木曽川日本ライン下りは2012年に廃止されたが、当時の使われた船かな?

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心地よい川風を受けながら、とっとことっとこいい調子。

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 土手道に合流してしばらく歩くと、右側に深田スポット公園があり、

公園の手前右側に承応三年・1654に深田村で生まれ、美濃を代表する

俳人、兼松しょう風句碑有りました。

この付近からの木曽川堤防道は「日本ラインロマンチィック街道」と名付けられてる

ようです。

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公園から約600m歩くと、木曽川の中州のような地域に渡る一色大橋に通じる

十字路があり、右側に目印となるホテルチョコレを確認ながら土手道を右折して

下ると、左下に木立の陰に石碑、石仏などが並んでるのが見えてます。

かっては加茂川の流れがあり、木曽川に通じていたところで、「大まや湊口」と

書かれた白い杭がたってました。

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さらに下って国道21号に合流し、太田宿(美濃加茂市)を抜け

木曽川右岸に沿った町、坂祝町へ入ります。

さあ~て「坂祝」、さかしゅく?なんて読むんでしょうか??

難読町名として有名なようですね、「さかほぎ」と読むんだそうです。
ほぐ(祝ぐ)とは、元来は祝詞を述べ神意を伺うの意で、

坂祝は古くからある集落で、平安時代の記録「延喜式神名帳」にはすでに

「坂祝神社」の名が残されている

(参考資料より)

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21号に合流して約700m進むと、右手は三菱パジェロ製造のパジェロ製造(株)

工場が続きますが、パジェロは確か今年8月で国内向けは販売中止、海外向けは

継続してるから工場は稼働してるのかな?

山道や渓流沿いの道などで、よくパジェロよくに出会ったな~。f:id:hansui:20191009140418j:plain

工場が途切れたところで流れる四谷川を渡ると坂祝町取組地区へ入り、

左手に日本橋から99番目の一里塚跡があり、跡地に標柱が建っていました。

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町の資料によると、「取組」という地名は木曽川の対岸にある桃太郎神社に由来して

桃太郎が鬼と「取組んで」退治した所だそうです。

桃太郎伝説は、ここにもあるんですね。

一里塚跡から約250m歩き、坂祝町役場前坂祝(さかほぎ)交差点で左折して
木曽川の堤防上へ上がると、堤防道は「日本ラインロマンチック街道」と

名付けられ、国道21号と並行して西へと続きます。

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木曽川の「日本ライン」に沿っての4kmに及ぶ土手道路を

日本ラインロマンチック街道」と命名され、飛騨木曽川国定公園景勝地

いわれ木曽川の流れや奇岩が楽しめる堤防道路です。
この堤防の場所は、かっては道路沿いで、民家やガソリンスタンドが有りました。
昭和58年に台風と秋雨前線の影響を受けて水害が発生し、多くの家屋が浸水し、

その後年数を掛け、美濃加茂市から坂祝町に堤防の築造工事が行われて今日の姿と

なったそうです。

(長野県上田市より群馬県草津町沼田市を経て 栃木県日光市を結ぶ3県に

 またる 全長約320kmの街道を「日本ロマンチック街道」呼ばれてますね)

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行幸巌記念碑が建っている。
これは昭和2年昭和天皇が巡幸されたのを記念して建てられたもので、

日本ラインの岩を砕けて流れる清流や連なる奇岩怪石を展望されたという。

巌に上られて眺めたのでしょうね。

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前方に望む山は標高275mの勝山(城山)で。山頂付近に何か建造物らしきものが

見えてるのは猿啄城跡、坂祝町指定史跡と街道書に有り、

1997年12月に坂祝誕生100周年を記念して展望台の櫓が組まれたそうです。

応永14年(1407年)の頃は西村豊前守善政の城であったが、

その後の変遷を経て 土岐氏流の多治見修理が城主となり、斎藤道三の配下となる。 
 永禄8年(1565年)8月信長は稲葉山城の外郭諸城を攻略のため美濃に

 侵攻し攻め落とし 信長は幸先のよい戦勝を喜び以来この地を「勝山」と称する

 ことにし 、河尻鎮吉が信長より猿啄城を与えられ周辺13ヶ村の領主となった が、
 天正3年(1575年)岩村城へ移り、猿啄城は廃城となった

 (坂祝町 資料より)

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堤防道を西へ1kmほど行くと、並行する国道沿い北側に「寶積禅寺」の大きな

伽藍が見えてます。

この寺名も桃太郎伝説から付けられた(桃太郎が宝物を積んで帰ってきた場所)

と言われてるようです。

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右下に国道21号を見ながら堤防上を進むと、右手に水神・庚申塔が祀られている。

街道書には、かってこの付近の木曽川には勝山湊があり、尾張の桑名方面へ向かう

年貢米の積み出し港として、また水上交通の要所として栄えたといわれます。

とあり、水神碑は明治18年(1885)4月建立、台座は大正11年(1922)5月

修繕と刻まれている。

さらに街道書には道標とあるが、どこかな?と見渡せば、後ろ下の国道21号の

勝山交差点手前の右手に、自然石の小さく道標らしき石が見えてます。 

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カメラをズームしてみると確かに文字が刻まれ道標のようです。

街道書には、

「左江戸善光寺、左せきかじ」と刻まれているとあります。
せきかじとは、刀匠関孫六で有名な刀鍛冶の関に至る道ですね。

案内板も何もなく、堤防道を歩いていたら見落としてしまいますね。

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50mほど先で右手国道21の勝山交差点へ下り、再び車の多い街道を西へと

足を進めます。

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国道21号を約150m歩くと、左側に勝山神明神社御跡地之碑が建っていて、

日本ロマンチック街道の終点です。

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日本ロマンチック街道の終点から約160m歩くと勝山西交差点があり、

街道書では、交差点の先で国道21号線から岩山の上へと道は延び、

岩屋観音堂へ向かています。

国道右側に観音堂駐車場あり、山道へ入る中山道道標が建っています。

「岩屋観音」上り口に立場があり、赤飯を三角の形に入れて、抜いた「三角強飯」が

 此処の茶屋の名物だったそうです。

 

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今では木曽川沿いに国道21号線が走っていますが、昔は大きな岩が木曽川

迫り道は阻まれて街道が出来ないので、川から岩山の上を通り道が作られました。

左側に中山道道標が建っている岩屋坂の入口があり、

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 木曽川を見下ろすと、奇岩渓流の景観が広がってます。

遠くの岩陰に何やら黄色く見えるものが動くのが見え、デジカメのズームを目いっぱいにして覗くと、ゴムボートが二艘浮かんでます。

ラフティングといわれる渓流下りを楽しんでるようです。

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土道を進むと左側に木曽川を眺める落石防護ネットの間の道になり、

坂道を上ると左側に「巌屋坂の碑」が立っている。

この碑は文化十三年(1816)に建立されたもので

「何地無山秀、何処無水流、借間東西客、有此山水不」とあるそうで、

「いずれの地にか山の秀でたるなからん、いずれの処にか水の流るるなからん、

 借間す、東西の客この山水有り無しや」と読むのだそうだそうです。

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巌屋坂之碑の先でやや下ったところに、岩屋観音堂が建っていました。
観音堂推古天皇の時に勧請されたものと伝えられ、

奥の岩窟に石造り岩屋観世音菩薩像が安置され、馬頭観音などが祀られてます。

皇女和宮も下向の際に参拝されたようです。

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岩屋観音堂から下ると落石防護ネットで仕切られた道となり、

細い道は、皇女和宮下向のときに1尺5寸(約45cm)拡幅されたそうですが、

輿を担いで通行するのにはそうとう難儀したことでしょうね。

階段を下った処を折り返す形で曲がり、ガードレールのある処で、

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斜め右方向の遊歩道に進み、約130m歩くと再びR21号に合流します。

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右手に彼岸花咲くJR高山線、ガードレールを挟んで国道21号線。

さらに左手には木曽川が流れ、鵜沼方面からの旅人ひとりとご挨拶。

街道は向うに見える山裾へと向かってます。

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江戸時代は木曽川まで岩山が迫り道が切り開けないので、中山道は山を越えて

鵜沼宿」へ抜ける道「うとう坂」を開きました。

今でも落石防止のシェルター内を走る国道21号線、そして平行して走るJR高山線

トンネルで抜けます。
中山道は右の山の一番低いところを鵜沼へ抜けます。

しばらく行くと今は営業していないドライブインやレストランの入口に、

小さな「中山道左へ」看板があり、駐車場の南端に「中山道 下りる」の道標、

下り階段があり、水路を兼ねたトンネルで国道をくぐり抜けてゆきます。

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細久手~御嵩の間にあった「謡(うとう)峠」いらい、久しぶりの峠越え、

標高140m「うとう峠の上り坂」となります。

 

御嵩宿へ向かう途中の「旧善知鳥(うとう)村」と記されたところを通たり、

その先には馬子が歌って通ることから謡坂、転じて「うとうさか」というの

がありました。

同じ呼び名なので紛らわしいですが、「謡峠」が”謡う(うたう)”の意味なのに

対して、ここでは『うとう』とは、「不案内・よそよそしい・気味の悪い」などの

山と山との間を意味する言葉、”疎い”からきているそうです

余談ですが、

善知鳥峠(うとうとうげ)には、長野県塩尻市にある峠もあり、かつて三州街道が

通り、現在は国道153号が通る峠もあるんです。

TV、「まんが日本むかし話」しのも「うとう峠」というお話があったそうです。

昔ある所に猟師が住んでいた。この猟師女房に死なれてから生活が荒れ、村の掟をも破りついに子供と共に村を追い出されてしまった。
それで都へ向かおうと思いある所で休んでいると、岩の穴から「うとう」という珍しい鳥が顔を出したので、こいつを都で売れば儲かると思い鳴き真似をしてヒナを捕まえた。そしてヒナを持って都へ出掛けたがうとうの親鳥が追ってきた。
男は都を目指して昼も夜も歩き続けたが、うとうの親鳥はどこまでも追って来た。そのうち吹雪になってしまった。男は子供を背負って必死に歩いていたが、その時うとうの声が聞こえた。男は「どんなことがあってもこのヒナは都へ持って行くぞ」と叫んだ。
次の朝近くの村人が歩いていると、人が倒れているのが見えた。駆け寄って起こしてみると父親は子供をかばうように倒れており、父親の息はもう無く、子供は生きていた。 その近くに鳥が死んでおり、その下にはもう一羽の鳥がうずくまっていた。村人が拾い上げてみると鳥ははばたき出した。
猟師の男もうとうの親鳥も、わが子を守ったのだった。

とは前に「謡峠」を調べたときにあった話です。

 

山の中の道は約1.2㌔あり、20分かかるそうですが・・・
上り口には「中山道の説明版」が立っている。
中山道は、太田宿から現在の国道21号線の坂祝・各務原(かがみがはら)境までは木曽川に沿ってありました。しかし、この先鵜沼までが大変急斜面の危険な場所であったため、ここから山合いに入りこみ、うとう峠を越えて鵜沼宿に慶安四年(1651)
に付け替えられました」(案内板)トンネルを出ると急に旧中山道の時代に戻った

ような山道になります。

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 噂さの看板、ハイ、有りました!「マムシ注意!」の赤い看板。

「蛇はまだ冬眠してないよ、用心用心」とすこし歩くのを早めます。 

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小さな小川の流れがあって、右手に丸太木橋がありますが、みなさん飛び石で渡る

ようで踏み跡は丸太橋横の飛び石へ続いてます。

渡ると先には、歩き易い平らな石畳道となっていますが、昔もあったのかな?

すこし登るとベンチが置かれ一休み処ですが、うん、危険注意看板が!

イノシシじゃ今は秋、活発な活動時期だ、これも用心用心、と通り抜け。

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先が明るさを増し、峠はそろそろ終わりかなの坂の左手に石碑があり、

街道書によれば、

峠で山賊に襲われた、田原宿の喜右衛門の菩提を弔うための石碑で、

年代は不明ですが、石碑の裏に刻まれた村役人の名前から、

おそらく江戸時代後半に建立されたものと考えられます。

この石碑の右側に「うぬまへ拾六丁」、左側には「太田へ壱里廿丁」と

刻まれており、道標の役割も担っていましたとありました。

峠道に山賊はつきものなのね、なんて変に感心したカミさんがおかしかった。

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さらに石畳道を登って行くと峠の頂上のようなところへ出て、石畳道は下りとなって

ゆきます。

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下り石畳を10分程行くと、江戸からちょうど百番目の「うとう峠の一里塚」の

北塚があります。

直径10メートル、高さ2メートルの大きさがあるそうで、対になる南塚は

戦時中陸軍の兵舎が建てられたことにより、崩れてしまったようです。

日本橋から約400キロを歩いたことになるんだけれど、 実距離の400kmは

  もう少し先だけどな・・) 

 

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うとう峠を出ると石畳の左手に森の交流館 「森の本屋さん」 が建っている。
中山道はこの先で右手の車道に出て峠越えはお終いです。

30分強で歩けましたね。

旅人がひとり、峠越えの森へ入って行きました。

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車道を下って行くと右手に江戸時代から農業用水として利用されていた、

合戸(かっこ)池が広がっている。

池の左手に街道書には記されてない、石塔石仏があるが?

周辺は整備されたばかりの様子で、街道書でもっと下ったところになってる

石塔石仏群を移設したのでは?

(実際に移設したようで、下った坂にはありませんでした)

資料では、文化6年(1809)の大乗妙典六十六部日本廻國供養塔、

明和3年(1766)の三面の馬頭観音、元禄11年(1698)の南無観世音菩薩、

宝暦11年(1761)の馬頭観音などと記されてる

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合戸池沿いに右手に回り込んだ街道は、先の分岐で左方向に進み、天王坂と呼ばれる

坂を下ってゆきます。
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坂道を下って来ると右手に鵜沼の街並みが一望できる展望の良いところに、

鵜沼宿の街並みパネルが建っていました。

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そして坂上から眺めたはるか前方のお城は、街道書には国宝・犬山城の遠望と

ありました。

現在は修復作業中で櫓が組まれ全容は見えなかったようですが、10月からは

修復の終わった天守の櫓が外されが姿を見せているようです。

うん、この姿なら旅の帰りの寄り道しよう、と決めて坂を下ります。

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 後編へ続きます。