歩いて再び京の都へ 旧中山道69次夫婦歩き旅  第36回    1日目・ 垂井宿~関ヶ原宿~今須宿~柏原宿 後編

11月3日(日)PM2:15 江戸から番目今須宿へ入ります。

江戸から59番目、日本橋より112里24町 442.55Km 

美濃16宿 最後の宿場町。

人口1784人、家数464軒、本陣1軒、脇本陣2軒、旅籠13軒

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今須橋から100mほど行くと、左側の生活改善センターの前に今須宿石柱、

本陣跡・脇本陣跡の解説標板が建っていました。

「~215坪の本陣が一軒で、現在の小学校・支所付近一帯に位置していました。

又、脇本陣は美濃16宿の中でも当宿のみ2軒あり、各々現在の小学校駐車場付近

あたりに有ったのです~」と記され、関ヶ原合戦に勝利した家康は本陣(伊藤家)で

休息し、腰掛た石は青坂神社に置かれている、とも記されています。

(小学校はこの先左手に見えるようです)

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本陣跡の斜め向かいは妙応寺参道入口で、国道21号とJRのガードと二重の城壁

に守られたかのように妙応寺があります。

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関が原町の説明によれば、
妙応寺は正平15年(1360年)に、今須領主長江重景が母妙応の菩提のため

曹洞宗の大徳峨山禅師(道元の弟子)を開山として創建し菩提寺にした、

県下で最も古い曹洞宗寺院です。

薬草の枸杞(クコ)を用いた精進料理でも知られ枸杞寺ともいうそうです。

(一説には、妙応は年貢の取り立てを大枡、米の貸付を小枡と、異枡(います)を

用いたことが「今須」の地名由来になっている、とありましたね) 

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わらないのは家康腰掛石の所在で、先の本陣、脇本陣の説明板では、青坂神社へ移した

と記されてますが、ここの説明では当寺に移設と記されてます。どっち?

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妙応寺参道入口から約30m歩くと、左側に小中学校が一緒の今須小中学校があり、

小学校と中学校それぞれの校門が建っていました。

(写真は中学の校門)

この付近に本陣伊藤家や脇本陣の1軒が有ったということです。

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少し先の右手にJAにしみ支所が有りますが、街道書では河内脇本陣跡となってます。

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交番も街並み合わせて木造だね、と学校から150mくらい歩くと交番(写真左下)の

向い右手に見えるのは、

 

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文政3(1820)年築の建物といわれ、山崎家が勤めた問屋場跡があり、

家屋の前に解説標板が建っていました。

「美濃十六宿のうち、当時のまま現存し、その威容を今に伝えるのは

 ここ山崎家のみです」と案内板には記されてます。

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問屋場跡から約50m進んだ左側に、ベンガラ塗りの家があり、この先数多くのベンガラ塗りの家が建っていました。
ベンガラ塗は西日本全域に分布してるようですが、この先、滋賀県に入ると湖北地方に多く見られ、次の宿場、柏原から県境の長久寺までが圧倒的に多いとあり、

楽しみのしています。

ベンガラは土から取れる成分で紅殻、弁柄とも呼ばれ
語源はインドのベンガル地方より伝来したことからそう呼ばれるそうです。
防虫、防腐の機能性から、木造建築の柱など木造部分を朱色に塗る顔料として使われ、陶器や漆器、としても使用されてきました。
洞窟壁画にもみられ旧石器時代から使われた最古の顔料であり古代色です。
経年変化に強く、日光による褪色がないことも特徴で昨今では無害であることから

天然素材として見直され繊維製品への染色、オーガニック製品にも使用されるように

なりました。
ベンガラと聞くと「赤」や「朱色」をイメージする人が多いと思いますが。
燃焼温度と調合により黄、黒、緑、 紫といった色合いをつくりだし、24色の染料が

現在出来上がっています。(ベンガラ解説文より)

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ベンガラ塗りの家の先隣りに金毘羅大権現永代常夜燈が建ち、常夜燈のいわれ

を記したパネルが有りました。

「京都の問屋河内屋が建立したもの。大名の荷物が行方不明になったとき金毘羅様に

願かけしたところ発見されたので、そのお礼に建立した」

正面には「金毘羅大権現永代常夜灯」と刻まれてます。

「当時は灯篭を寄付することは、それにかかる毎日の油代も併せて寄付することを

意味し、一般的には使用する菜種油が必要な量だけ採れる畑を寄付しました。

並々ならぬ感謝の表れであったことがうかがえます」

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常夜燈からすこし歩くと、右側に愛宕神社の参道口があり、参道の途中に年代物の

山燈籠が建てられていました。

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ベンガラの家や地蔵堂?、立派な鐘撞堂の寺は真宗大谷派真宗寺。

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今日は文化の日、祝日だった。何軒かの家で日の丸の旗を掲げていたが、

交番やJAでは掲げてなかった。

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旅人一人、コンチワと声をかけてスタスタ足早に去って行った。

真宗寺から300mほどの右手に、こちらのお寺も真宗大谷派の法善寺。

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法善寺から50mほどの左側に、村の鎮守・今須八幡神社の鳥居が建っていました。

車は鳥居の下を通らづに道がつけられ、鳥居奥には大きな山灯篭が置かれてます。

神社は南へ約300m、名神高速ガードを潜った先に鎮座してるようです。

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鳥居から約100mほど歩くと十字路があり、その手前の左側に山燈籠が建って

いました。

そのすぐ先の十字路が、印はありませんが今須宿の西口(京方)と言われてる

ようで、今須宿とはお別れです。

(PM2:45)

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西口から緩やかな上り坂を約160m歩くと、今須交差点手前の左手に土道の

「車返しの坂」と呼ばれる旧道痕跡の上り草道坂があり、坂を上ると正面に

車返地蔵が祀られているそうです。(下から眺めただけ)

案内プレートには、

南北朝の頃(1336~92)摂政の二条良基が「荒れ果てた不破関屋の板庇から、

漏れる月の光が面白いと聞き」わざわざ都から牛車に乗ってやって来ました。

ところが不破の関では高貴な方が来ると聞き、見苦しい所は見せられないと急遽屋根を修理してしまった、良基はこの坂の途中でこの話を聞いて嘆き「葺きかえて 月こそもらぬ 板庇 とく住みあらせ 不破の関守」と詠み、車を引き返したところからこの坂を車返しの坂と呼ぶようになりました。」

せっかく「ソンタク」だけど失敗ね、とカミさんが言ったので大笑い。 

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地蔵尊入口をすぎて下り坂を進むと、R21の今須交差点となり、斜めに横断して

進み、その先でJR東海道本線の車返踏切、電車の通過を待って越え、緩く坂を上り

長久寺集落へ入って行きます。

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坂道の右側石柱や石碑。

右手に「おくのほそ道 芭蕉道」という標柱と「奥の細道」の一文を彫った碑が

建ち、左手には、松尾芭蕉の「野ざらし紀行」石柱、野ざらし紀行に一文の碑、

そして芭蕉が、貞享元年十二月、芭蕉が郷里越年のため熱田からの帰り

ここで詠んだ句碑が建っていました。
    「正月や 美濃と近江や 閏月」

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さらにすぐ先は・・・・

「寝物語・美濃国不破郡今須村」の碑が立っていて、その横には50cmほどの

細い水路があり、来ました着きました!!、ここが「岐阜県」と「滋賀県」の県境。

水路の隣に美濃国近江国の「国境碑」が立っていて、ここで美濃路に別れを告げ、

近江路へと入っていくことになる。

2018年9月、江戸期旧中山道美濃16宿の落合宿入りし、平成最後の年4月の

手術も有りましたが、なんとか14か月目の近江の国入り。

TVの旅番組をまねて、手をつないでピヨンと飛び越えて国境を一っ跳び。

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国境からすぐの右手に、「寝物語の里」の自然石碑と由来石碑があります。

「近江と美濃の国境は、この碑の東十メートル余にある細い溝でした。この溝を挟んで両国の番所や旅篭があり、壁越しに「寝ながら他国の人と話し合えた」ので寝物語の名が生まれたと言われています。また、平治の乱(1159)後、源義朝を追って来た常盤御前が「夜ふけに隣り宿の話声から家来の江田行義と気付き奇遇を喜んだ」所とも、「源義経を追って来た静御前が江田源蔵と巡り会った」所とも伝えられています。
寝物語は中山道の古跡として名高く、古歌等にもこの名が出ていますし、

広重の浮世絵にもここが描かれています。
- ひとり行く 旅ならなくに 秋の夜の 寝物語も しのぶばかりに - 太田道潅

平成四年一月 滋賀県米原市

おや、太田道灌もここを通ったんだ。

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広重画 今須宿 (国境木柱が描かれてます)

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ここは「寝物語の里」旧長久寺集落。

村名は昔この辺りにあった両国山長久寺に由来しているそうです。

街道書には、

「美濃側5軒、近江側25軒の集落で、美濃側は美濃なまりで金が流通し、近江側は

近江なまりで銀が流通した」と記されてます。

緩い坂道が続いています。車もしっかり「滋賀」ナンバーですね。

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 長久寺集会所先の右手水路沿い奥に春日神社があります。

祭神は天児屋根命で、応永十三年(1406)の創祀だそうです。

汚水マンホール蓋に「さんとう」とあるので地図を調べたら、山東町というのが有って、2005年に米原町伊吹町と合併して米原市(まいばらし)となっていました。

「寝物語の里」も現在は米原市でしたね。

 

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ベンガラ塗りの家々を眺めながら集落を進みます。

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集落がまばらになり緩やかな上り坂の野瀬坂です。

右側の斜面に弘法大師御佗水碑が建っています。

師御陀仏(おだぶつ)とは阿弥陀仏を唱えて往生する意だそうです。

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弘法大師碑から山の縁に沿って進むと楓の木が多くなってきました。

かっては松並木だったそうですが、枯れてしまい楓を明治期に植栽したそうです。

山添道を行くと立派な石碑が現れ、

歴史街道中山道 ←江戸後期大和郡山領 柏原宿  寝物語の里 長久寺→」と

あり柏原地区に入ります。

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石碑の左手は長比城跡への登り口で、道に沿って左上に明神社の鳥居と参道口が

有りました。

(この参道が本来の登り口で、神社を越えた美濃との国境の山頂に城があった)

長比城跡(たけくらべ)は浅井方の築城した城でしたが、姉川合戦の時に織田信長

調略によって、長比城を守備していた堀秀村、樋口直房が内応しては戦わずに

落城した城だそうです。

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神明神社」の横に「旧東山道」の道標が立っていて入ってみましたが、

先は閉鎖されており進めませんでした。道が僅かに残っているようですが雑草の

中に消えてしまってます。

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長比城跡登り口分岐から2分ほど先に右手に方向道標が有り、分岐を左折して

JR東海道本線の野瀬踏切を渡り、渡った直ぐに右折し線路に沿って進みました。

方向道標には踏切を渡らず道なりの進む方向に「白清水200m」とありますが、

岐阜県との県境に近い野瀬山の麓に湧き出ている湧水で、古事記に記されている

事によると、ヤマトタケルノミコト伊吹山の神に惑わされたが、この水で正気を

取り戻したと伝わる清水である。

また、中世の仏教説話には相模国の古代豪族「横山将監」の娘である照手姫の

白粉により泉が白く濁ったので、白清水と呼ばれるようになりました」

米原市地域情報観光案内文)

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踏切を渡り線路沿いに約80m歩くと、

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柏原宿の時代順略史、柏原東部分間絵図がありました。

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このような箇条書きの掲示は少なく、宿の概要が分かりやすいですね。

 

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柏原宿碑から約100mほど右側に、照手姫笠掛地蔵が祀られていました。

左の大きな地蔵が照手姫地蔵。

(右の二地蔵は、昭和十年廃寺となったお寺の地蔵を預かったものだそうです)

 現在はここに祀られているが、元はこれより東の野瀬坂、神明神社鳥居東側に

在った蘇生寺の本尊だったそうで、「蘇生寺笠地蔵」ともいようです。

中世の仏教説話「小栗判官・照手姫」にまつわる伝承で、「小栗判官」と銘打って

浄瑠璃、説教節などで広まったようです。

先ほどの白清水、ここに祀られた笠掛地蔵。照手姫の遠く相模の国から近江、美濃へ

の逃避行の伝説がつながってるんですね。

歩いてきた美濃国青墓村には照手姫にまつわる古井戸が残され、旧街道路傍には

五輪塔姫の墓として伝承されている。

(関東では神奈川県の藤沢市遊行寺境内に、小栗判官・照手姫の墓があり

 東海道五十三次旅で立ち寄りました)

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江戸からくる近江側最初の宿場である「柏原宿」、(現在は滋賀県米原市)に入った。

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照手姫笠掛地蔵から約300m歩くと、柏原宿の江戸(東)口の東見附跡があり、

右側に解説標板が建っていました。

柏原は東西の今須宿・醒ヶ井宿までの距離が1里程度と近いにもかかわらず、

長さ1400m(も13町)にも及ぶ比較的大きな宿場だそうで、 
天保14年(1843)の「中山道宿村大概帳」によると、
宿駅の町並み 家数344軒、人口1468人、旅篭22軒、
本陣1軒 脇本陣1軒、人馬継立問屋場5ヶ所(脇本陣兼で6か所)あった。

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「 柏原宿は江戸から近江路へ入って最初の宿場で、江戸より約百十四里、京までは約二十一里のところにある。 江戸時代には艾(もぐさ) の産地として有名で「伊吹もぐさ」の老舗、伊吹堂の建物は今でもそのまま残っている。
江戸時代、吉原の遊女に「江州柏原伊吹山の麓の亀屋佐京の切りもぐさ」という唄を教えこんで毎夜宴席でうたわせ、伊吹もぐさの名を広めた亀屋の七兵衛。 
宿場の規模は大きく、宿場の長さ十三丁(1420メートル)、戸数人口もこの辺りでは東の加納(岐阜市)、西の高宮(彦根市)に次ぐものである。 旅籠屋は、隣宿との距離が近かったにもかかわらず二十二軒もあった。 本陣、脇本陣は、それぞれ一軒、問屋は、六軒、問屋を補佐する年寄(村役人)は八軒あり、造り酒屋も一時は四軒もあった。
木曾路名所図会には、「柏原宿・今須まで一里。駅は伊吹山の麓にして、名産には伊吹艾(もぐさ)の店多し。」と紹介されている。
織田信長豊臣秀吉等そして徳川家康もこの柏原宿に泊まり、二代将軍秀忠によって御茶屋御殿(柏原御殿)が建てられました。
しかし、徳川幕府の政権安定につれて将軍上洛は減少、元禄2年(1689)ついに御茶屋御殿は廃止されます」 (柏原宿解説文より)

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宿場情緒を感じさせる数件の古い家屋が当時のまま残っている。  

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東見附跡から約80m歩くと、右側に竜宝院跡があり、標石が建っていました。

秘仏安置との石柱もあるが?

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竜宝院跡から約30m歩くと、右側に八幡神社が祀られてます。

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ご神殿は覆屋に収められてます。

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八幡神社境内から伊吹山が良く見える、と残念ながら後で知った)

境内の松の木の手前に、芭蕉句碑が建っていました。

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詳しく距離など書かれた案内標柱が所々にあり、歩き易い町並みです。

右側に旅籠の看板が立ててあり、隣が街道書では東薬師とありますが、案内板は

ありません。

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八幡神社から先は古い町並みで昔の面影を残している。

建物は建て替えられていると思いますが、家々には屋号書いた看板が掲げられ、

旧街道宿場町の面影、雰囲気を今も感じ取ることができます。

 東薬師の先、右手奥のJR柏原駅を見送り、ベンガラ家々を見ながら手入れされた

街並みを歩きます。

写真右の家は、「旅籠屋 大和郡山坂田郡内取締大工 惣左衛門」の看板を

掲げていて、柏原宿は、江戸時代初期は天領でしたが、享保9(1724)年に

大和郡山藩領になっていたことがわかります。

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左手奥のJR柏原駅入り口を過ぎると、市場町で柏原宿中心部へ入ります。

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しばらく「旅籠屋 井筒」(写真上中)「煮売屋 源藤」(写真下中)、

「蝋燭屋 助三郎」(写真下右)などの看板を掲げた家、ベンガラ塗の家などを

楽しみながら歩きます。

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柏原駅入口から約90m歩くと、左側に問屋場跡がありました。
柏原宿には6軒の問屋場があり、東西3軒ずつに分かれ、10日交代で勤めていた

ようです。

問屋場跡の隣が、当日中に処理できない荷を蔵に保管した東の荷蔵があったそうで

、パネルが立ってます。

荷蔵は、藩の年貢米集荷の郷蔵でもありました。

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道を挟んだ向かいには柏原宿脇本陣跡で、南部本陣の別家、南部源右衛門が本陣同様

江戸時代を通して務めた。
間口は、この家と隣の郵便局を合わせた広さで、屋敷は228坪、建坪は73坪あり、

問屋も兼ねていたと案内板に記されてます。

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脇本陣の左先は、問屋場と庄屋を兼ねた吉村家で、映画監督の吉村公三郎の実家が

ありました。祖父は柏原宿の最後の庄屋であったそうです。

問屋場跡の門前脇に、柏原宿解説文と宿場絵図の大きな掲示板が建てられています。

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柏原宿解説文(長いが引用)

「 ここ柏原宿は,お江戸日本橋より中山道六十九宿(草津東海道と合流)の内

 六十一番目になり,約百十二里(一里は約3.9キロメートル),京までは

 約二十一里のところにある.
 江戸示談は,随分栄えたもので,宿場としての業務も,かなり苦労が多かった様で

 ある.
 幕末広重画く柏原宿の看板は,何と言っても「伊吹もぐさ」の老舗伊吹堂で,

 現在の建物そのままである.当時「伊吹もぐさ」を商う店は十指に余り,

 中山道有数の宿場名物となっていた.現在は一軒だけとなっている.
 柏原宿は,規模が大きく,六十九宿中宿高で四番目,宿場の長さ十三丁

(一四二〇 ートル)は十番目,戸数人口もこの辺りでは東の加納(岐阜市),

 西の高宮(彦根市)に次ぐ宿場である.
 しかも旅籠屋(旅人たちの宿場)は,隣宿との距離が近かったにもかかわらず

 二十二軒もあった.
 現在,一軒も残っていないのは残念である.
 本陣,脇本陣は,それそれ一軒,問屋(人馬,荷物の継ぎ立て一切を行う)は,

 当宿には六軒(開宿当時は二十軒を数え,幕末になると,普通各宿多くて三軒まで

 なのに,関ヶ原から番場までの五宿は,それぞれ六,七軒であった),その問屋を

 補佐する年寄り(村役人)は八軒あり,造り酒屋も一時は四軒もある盛況であった.
 この宿は,古くより東町・市場町・今川町(箕浦と言ったこともある)及び西町の

 四町からなり,宿場機能の中枢は,市場町でした.一つの宿場に四社も氏神がある

 のはそのためである.
 柏原の総社は,野瀬の神明神社である.
 又お寺の多いことでも有名で,ひと頃は三十ヶ寺を越え,現在も十五寺と三堂が

 ある.
 中世京極道誉の随臣,箕浦氏が四百年柏原を守った館跡(柏原箕浦城趾),

 近世徳川家光により創建された柏原御茶席御殿跡(地名として残る)等がある.
 宿場から外れるが,織田信長が宿泊した成菩提院は,天台談林三箇随一と言われた

 名刹で,盛時は,六十坊を数えたという.国指定重要文化財等豊富である.
 また,宿場の東約十三丁の地に江濃国境があり,有名な寝物語の里(長久寺)が

 ある.
 _このような柏原宿であるが,しだいに昔の面影が消え,今にも忘れ去られようと

  している。 せめてもの思いに,下図の様な復元図(山東町史付図)を掲げた」

 

 *今にも忘れ去られようとしている。 せめてもの思いに,下図の様な復元図

 (山東町史付図)を掲げた*・・・・・

う~ん、いい街なれど、町興し、観光客誘致にはなかなか難しいんでしょうね。

 (文冒頭、61番目とありますが、江戸を1番としたからかな?)

向いには「旅籠屋 京丸屋五兵衛」掲げた風格ある家屋、

宿場内の職業内訳などが記されたパネルが立っています。

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吉村家問屋場の隣は、南部辰右衛門が勤めた本陣跡があり、標石と解説標板が

建っています。

柏原宿は江戸時代を通し南部家が本陣を務め、間口はこの家の両隣りを合わせた

広さで、屋敷は526坪、建坪は138坪あった。

建物は皇女和宮宿泊の時、新築されたとも云われる。
明治になり、柏原小学校前身の開文学校はここに創設された。

その後、建物は明治中期に岐阜県垂井の南宮神社宮司宅へ移築された。

宮司宅には今も残されてるのでしょうか?)

和宮の夫の第14代将軍家茂も第二次長州征伐の途上、当本陣に宿泊した、

とのパネルが掛けてあります。

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向いは「医師 年寄 堤 覚之丞」の邸宅跡、現在も医療に携わる醫院でした。

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その斜め向かい、2階の格子戸に「渋谷酒店」と書いた看板を掲げ、右軒下には

袖看板が取り付けられていて、今様で 1階には自動販売機が並んでいる。

 自販機隣に掲げられた板には 「南部家風雅の道」とあり、句が何編か書かれて

 いる。 この酒屋も南部家一族で句会などが催されたのかな。

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本陣の先の路地の角に、戎の宮市場寺跡の標板が掲げられ、
市場寺跡から約15m進むと市場橋の手前右角に秋葉山常夜燈が建っており、

常夜燈の右脇に高札場跡の解説標板が建っていました。

高札場は、道沿いの長さ4.86m、高さ0.91mの石垣を築き、その上に高さ3.33mの

高札懸けの建物があった由。 

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時刻はPM4:00、秋の日暮れは足早にやってきます。

宿のある大垣への電車時刻もちょうどよく、第35回の旅、一日目は足止めとします。

電車の車窓からは夕暮れ迫る伊吹山が大きく姿を見せていました。

いい歩き旅の一日でした。さあ、明日も・・・

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