11月23、24日の中山道歩き旅の2日間を無事に歩き、帰りの寄り道は
素晴らしい錦秋の2寺を後に、お天気も持ちそうなのでもうひつ寄り道へ。
国道307を北へ走り、途中の道の駅「かがやきの里こうら」で早めの昼食。
さらに10分ほど走ると国道わきに観光協会の駐車場があり、
車を停めて「近道」の案内板に従って5分
行くとポンと近江鉄道の多賀大社駅から通じる門前商店街に出ました。
寄り道は近江の国、多賀大社です。
正面にどしりとした大鳥居、両脇には威厳をもった大狛犬が控えてます。
社伝によると、
多賀大社は「古事記」に記された記述があり、創建は古事記成立より以前だとされて
いるようです。
日本最古の書物「古事記」によると、国造りの神である伊邪那岐命(イザナギ)・
伊邪那美命(イザナミ)の二柱をご祭神として祀っており、八百万の神々を生み出した
ことから、古くより延命長寿の神として信仰を集め「お多賀さん」の名で親しまれて
いました。
伊勢神宮の祭神である天照大神はその子であることから、
「お伊勢参らばお多賀へ参れ お伊勢お多賀の子でござる」
「お伊勢七度熊野へ三度 お多賀さまへは月参り」と
俗謡に詠われ親しまれ、年間約170万人の参拝者を 迎えているそうです。
神社を清流が囲み、石の反り橋を渡ります。
豊臣秀吉が母の延命を祈願し寄進したことから、寛永15年〈1638年〉造営の
太鼓橋は「太閤橋」の雅名でも呼ばれる。
渡れるようでしたが、かなりの反りですのでカミさんSTOPで、脇の石橋を渡って
境内へ入ります。
天災や火災による喪失が何度か繰り返され、その度に彦根藩や幕府からの手厚い保護を受けて再建されて今日に至っています。
太閤橋を渡ると正面に築地塀を広げた表門が建ち、入ると奥は玉砂利を敷いた
ご神域となります。
正面に社殿群から突出した形で拝殿(切妻造妻入り・桧皮葺)
すぐ後に神楽殿(入母屋造・桧皮葺)が建ち、その左右に廻廊が延びる。
その後ろには幣殿、祝詞舎と続き、一番奥に一段と大きな屋根はご本殿が祀られてる
ようです。
厳かな雰囲気が漂う境内には、右に能舞殿、
左に絵馬殿が立っています。
社殿の造営案内の概略、
「江戸時代には、寛永の大造営(1633--38)がおこなわれたが、
安永2年(1773)の大火災によって諸堂社のすべてが焼失。
文化5年(1801)には三間社流造の本格的な本殿が造られ再建された。
(この本殿は、昭和の造営に際して豊郷町の白山神社に移築され現存している由)。
明治に入ると神仏分離令を経て、大正8年(1919)から再建がなされ、
社殿は昭和7年(1932)に再建され、昭和の大造営事業として昭和8年(1933)
に完成した。
さらに、平成19年に20億円を投じ,「平成の大造営」がなされました」
(境内図)
拝殿、奥の屋根は神楽殿
堂々とした風格を持つ本殿が建つご神域。
一段と大きく高い屋根のご本殿。
ご本殿のこの大きさは少ないのではないでしょうか。
東廻廊の横に石碑が建ち、61歳の重源(ちょうげん)が東大寺を再建するために
延命を祈願し、無事願いが叶ったたことを記念した延命石が石囲いの中に置かれ、
祈願の際は、授与所にて祈願の白石を授かり、住所・氏名を書き、寿命石の上に
置いて願うそうです。
(写真はピンボケだったため拝借したものです)
境内の右手奥には、金咲稲荷神社が祀られてます。
拝殿前へもどり参拝。
史跡・名勝、多賀神社奥書院庭園には、残念ながら時間が無く拝観しないで帰途へ。
再び太鼓橋の左手に回りながら戻ります。
境内の紅葉が鮮やかなアクセントを添えていました。
伊勢神宮へは東海道の歩き旅で、三重県内を通ったっ折に参拝してましたので、
これで両参りを済ませることができました。
国道側駐車場から入るゲート。
(近道を来たので通てはいません)
道沿いに見つけた「ミセバヤ」が面白い色合いでした。
雨の予報でしたが晴れ間の中山道歩き旅、4日間を終えて帰途へ。
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