中山道、夫婦歩き旅も11月初の旅でついに近江の国へ入り。
残すところも70kmを切り大詰めが近づいてきた。
年内にできるだけ京へ近づきましょう、のカミさんの意向あって、
11月22日(金)~25日(月)に再び旅の空へ。
天気は小雨模様も予報されていたため、雨具などを用意してそれなりの準備で
11月22日(金)カミさんの仕事終わりを待って職場から拾い直接旅立ちへ。
PM7:30 近江八幡のホテル着。
11月23日(土)
前日までは薄曇り小雨可能性有り、の予報だったが、有難たや!快晴の夜明。
ホテルで朝食をとり、JR近江八幡駅から乗車し、JR彦根駅で近江鉄道に乗り換え
前回足止めの鳥居本へ。
地図を見ると、中山道はJR線とは離れてしまうが、有難いことに近江鉄道が、
中山道とつかず離れず走っているので、わりと足の心配はしなくて済み、
大助かりです。
(缶コーヒーの看板を写したのではありません。新幹線を写したら頭が隠れちゃた)
そうそう、鳥居本駅にはトイレがありましたが、現在は閉鎖されてます。
晩秋の旅の空は日暮れも早い。
今回の予定、今日23日(土)は、
63番、鳥居本~64番高宮 1里18町 5.9Km 日本橋より 119里7町 468.0Km
64、番高宮~65番愛知川 2里0町 7.9Km 〃 121里7町 475.9Km
(13.8km)
24日(日)は、
65、番愛知川~66番武佐 2里18町 9.8Km 〃 123里25町 485.7Km
2日間で23.6km
今の老老旅ではこんなもんですね。
前回の旅、11月4日に足止めした江戸から64番目・鳥居本宿脇本陣前で
旅立ちショットをとり、
11月23日(土)AM9:20、無風快晴の空の下第37回目の夫婦歩き旅の再開。
前回歩いてきた鳥居本宿内には、枡形は残っているものの、本陣や脇本陣などの
遺構は残念ながら残っておりませんが、町並みに連なる切妻屋根の中二階建て、
漆喰塗籠めの虫籠窓、卯建、格子、出格子などをしつらえた伝統的な町家など、
宿場町の面影を伝えるべくの維持活動がなされていることが良くわかります。
鳥居本のあたりは、古今和歌集」や「百人一首」の編集で知られる藤原定家一族の
荘園だったようです
鳥居本駅入口からすぐに高橋家が勤めた脇本陣があり、問屋場も兼ねていたそうです。
街道書には、脇本陣の向かい側で鳥居本駅入口の右角に高札場、と記されてますが、
標板など何も表示されていませんでした。
虫篭窓の旧商店らしき建物軒下にはこんな札が下がってますが?
高札場跡から約90m歩くと、文政8(1825)年に創業した合羽所松屋跡があり、
軒先に行燈看板が掲げられていました。
合羽所「松屋」での案内板によると
「 江戸時代より雨具として重宝された渋紙や合羽も戦後のビニールやナイロンの
出現ですっかりその座を明け渡すこととなり、鳥居本での合羽の製造は
1970年代に終焉し、今では看板のみが産地の歴史を伝えています。
昔そのまま屋根の上に看板を掲げる松屋松本宇之輔店は、丸田屋から分家し、
戦後は合羽の製造から縄づくりに転業しています。
2001年には、かつて 家屋の構造を生かしながら改修されました。」
とあります
現在の行燈看板には「商号松宇 包紙紐荷造材料」と書いてあり、
扱い苞品は変わってきてるようですが、まだ現役の商店のようです。
合羽所松屋から約60m歩くと、十字路分岐があり、分岐の右角に礎石の上に唐破風の桧皮葺き屋根の常夜燈が建っています。
格子の扉が嵌められ、擬宝珠まで乗っている立派なお堂のような常夜燈です。
常夜燈のすぐ先右手に「鳥居本宿交流館・さんあか」があり、
駅にトイレが有りませんので、ここでトイレを拝借します。
街道歩き人にとっては、ゆっくり足休めもできる本当にありがたい施設です。
名産の、すいかの赤 合羽の赤 薬の赤玉の赤で「さんあか」なんだそうな。
常夜燈から歩くと、左右に白壁造虫籠窓の家、ベンガラ塗の家などが並び宿場時代を
彷彿とさせてくれる、歩いて楽しい街並みが続きます。
右側に聖徳太子開祖と伝わる専宗寺があり、山門右手の境内に聖徳太子廊が
ありました。
さすが近江の国、聖徳太子が出てきましたね~。
かつては、佐和山城下町本町筋にあり、泉山泉寺と号していましたが、
寛永17年(1640年)に洞泉山専宗寺と改め移ってきました。
本堂などの建立年代は18世紀後半のものといわれており、山門の右隣の二階建の
太鼓門の天井は佐和山城の遺構とのことです。
さあて、この屋号は、カミさんは(しひやく、ひゃくし)
なんて読むのかな??
(駐車案内板に「どどもも」とフリガナされていた。
帰宅後調べてみると、百百(どど)家という旧家で、2010年に登録有形文化財
に指定された建屋での蕎麦店でした。もも、は名なのかな)
専宗寺から約200m、鳥居本宿の南のはずれに近い四つ角に、
文政10年(1827)に建立された「右 彦根道 左 中山道 京いせ道」と
刻まれた古い道しるべが建っている。
右折した道が彦根に通じる彦根道であり、朝鮮人街道とも呼ばれるそうです。
朝鮮人街道(彦根路)は中山道と彦根城下を結ぶ脇街道的な存在で彦根藩2代藩主
井伊直孝が整備した、との説明板が有ります。
ここから彦根城下までは約一里だった。
彦根道は、徳川家康が関ヶ原合戦後の上洛に使用した道であるが、朝鮮通信使が通ったことから、 朝鮮人街道 とも呼ばれている。
朝鮮人街道とは、先に雨森芳洲の章で触れた朝鮮通信使が朝鮮と江戸との往復の際に通った道で、鳥居本宿から分岐して中山道よりも北側の琵琶湖沿いの道を通り守山宿の手前の行畑で元の中山道に戻る全長40㎞あまりの道のことである。
比較的まっすぐな道として整備されている中山道とは異なり、道が複雑に右折左折を繰り返す道をわざわざ朝鮮通信使一行に歩かせた幕府の意図はよくわからない。
この道は関ヶ原の戦いで勝利した徳川家康が京に上る際に通った吉例の道とされている。その後も将軍上洛の際に使用された道であるが、大名の参勤交代には通行を許されなかった特別な道でもある。
朝鮮通信使はここで進路を右に取り、彦根城下の宗安寺で宿泊するのが通例となっていた。朝鮮通信使は徳川時代を通じて12回しか派遣されなかったのにこの道が朝鮮人街道と呼ばれるようになったのは、沿線の住民たちにとって朝鮮通信使の一行がいかに印象強いものであったかを物語っている。(彦根市解説文)
道標から約230m歩くと、左側に鳥居本宿標柱が建っていました。
鳥居本宿標柱をあとに。街道は東西を200~300mの山に挟まれた幅200mほどの
谷間に、東側を名神高速が走り、西側を東海道新幹線が通り都内のラッシュ時の様に
次から次と行き交っています。
左手に「古宿」の標識があり、さらに進むと左手小野川用水沿い彦根市小野町の標識があり、小野小町の出生地と云われる旧小野村へ入って行きます。
街並みの入ると左側に小野こまち会館が建っていました。
江戸以前はこの集落が宿場であったことを「古宿」の標識が物語ってます。
右手に地蔵堂、左手にも地蔵堂、といくつかの祀られた地蔵堂を見ながら、
静かな佇まいの小野町集落を歩き、
間もなく集落を抜けると高速道(写真右アーチ)、新幹線(写真左下)が
ますます近よってきて、挟まれた中を街道は通じてゆきます。
先ほど新幹線が通過したこの建造物は何でしょう??
新幹線の右方向に有ったセメント工場と、左手方向に有った石灰岩採掘場とを結び、
原料を運搬していた索道(ロープウェイ)が通っていた、との説がありました。
工場は1996年(平成8年)に閉鎖され、索道も取り外されたということですか。
すぐ先右側に八幡神社参道入口の社標と常夜燈が建ち、新幹線高架越に鳥居が
見えていて、社殿は奥の森の中に鎮座している様子です。
設置された案内説明板には、創立年代は不詳だが社殿は天保8年(1837)の改築、
とありました。
参道入口から約240m歩くと、左側に「聖谷」の看板が立ち、
「聖徳太子が合戦の折、一時隠れた陣地」と記されてますが説明板もなく
詳細は不明です。
その先には小さな建屋の中に六地蔵が祀られ、そのさき約30mほど左手に、
小さなお堂があり、絶世の美女と讃えられた六歌仙の一人・小野小町は、
ここ小野村が出生の地とされ小町地蔵堂が祀られていました。
出羽郡司小野美実(好美)は奥州に下る時、小野宿に泊まり、ここで生後間もない
女児を養女に貰い受け、出羽国へ連れ帰りました。この女児が小野小町と云われて
います。(案内板)
「小野小町」の生まれた場所や墓は全国各地に見られるそうですが、ここで生れた
という説はかなり有力といわれているだそうです。
「小野地蔵は自然石を利用して、阿弥陀如来座像が浮彫りにされている。
正面だけでなく、両側面にも彫り込まれており、類例が少なく貴重なものである。
太鼓を抱えた猿と兎が描かれた鳥獣戯画風の石板は、「郷土芸能「小野町太鼓踊り」
を表し、「小野小町にはたおりさせば あややにしきの姫ばたを」
と記されてる。 (説明版より)
小町地蔵堂の隣に中山道標柱があり、小町前茶屋跡の標識が建っていました。
小野前茶屋は明治の中期まで茶屋があり、お多賀さん(多賀大社)参りの人で
賑わったそうです。
小町前茶屋跡から約75m歩くと、東海道新幹線の高架橋があり、
高架橋を潜り謎の大狸を見つけながら行くと、やがて左手に用水が流れている
「原」の集落に入ってきます。
約350m歩くと、 左側に原八幡神社地蔵尊入口の標柱が建っており、新幹線下を潜った先に地蔵尊が祀られていました。
原の集落
右側に聖徳太子を祀る原八幡神社の鳥居が建っており、鳥居の脇に、
「芭蕉 昼寝塚/祇川 白髪塚」の石碑があり、右折して神社に立ち寄りました。
神社の境内に入ると、白髪塚、芭蕉ひるね塚があり、解説標板が建っていました。
解説文によると、
「昼寝塚」に彫られている方は芭蕉の句は「ひるかほに 昼寝せうもの 床の山 」
というもので、この句はこの付近で詠まれたものだという。
「白髪塚」の方は「恥じながら 残す白髪や 秋の風」というもので、聖徳太子と
守屋との戦い等、幾多の戦いの将士達をあわれみ、蕉風四世・祇川居士(陸奥の人で、芭蕉の門人)が師の芭蕉の夏の句に対し、 秋を詠んだ句ではと言われている。」
街道に戻り、約80m歩くと右側に、中山道・原町の道標が立ち、
右奥植え込みの中に天保15(1844)年に建立された「五百らかん」への
道標石碑があり、道標の先は名神高速道路彦根ICの高架道路が2つ続いてiいます。
五百羅漢を祀る天寧寺は、井伊直弼の父である直中公が、自分の過失で手打ちにした
腰元と初孫の菩提を弔うため建立したそうで、後に桜田門外の変で暗殺された
井伊直弼の墓もある、と街道書に記されてます。
(往復で3,40分ほどかかるようなので寄らづに先へ進みました)
2本目の高架道路を潜った所から約150m歩くと、正法寺前交差点の手前左側に
慶応3年(1867年)建立の多賀大社常夜燈が建ち、周りには、
道標「是より多賀みち」、安産観世音是より四丁慶光院、
慶応2年(1866年)建立の金比羅大権現石碑などが建っている。
常夜灯は多賀大社の東参道への近道を知らせるために建てられたそうで、途中も
お参りするところがあることを示してるそうです。
多賀大社常夜燈の先の正法寺前交差点を横断し、森に沿って急に狭くなった道を
約350m歩くと、右側に春日神社の参道入口があり鳥居が建ってます。
春日神社を後に先へ進むと、食品スパーが有り、トイレとイートインコーナーで
足休めCaféタイム。
スーパーを後に歩道帯の無くなった道を車に注意しながら約200mほど行くと、
右手に浄土真宗勝満寺があり、鐘楼堂前に、矢除地蔵堂が祀られていました。
この地に隠れていた聖徳太子が守屋の軍勢に発見され、矢を射かけられたが、
突如金色の地蔵菩薩が立たれた。後になって松の根方に小さな地蔵尊が右肩に矢を射込まれて血が流れていたという伝説があるそうで、このあたりには聖徳太子伝説が
多いそうです。(解説文概要)
矢除地蔵堂から、結構交通量の多い歩道帯のない道を約500mほど行くと、
鈴鹿山脈に源を発し琵琶湖へそそぐ芹川が流れ、大堀橋で渡ります。
芹川は不知哉川「いさや川」と呼ばれ、万葉集の歌枕になったそうで、橋を渡る手前、
左手に橋下へ下ると万葉歌碑があるそうです。
(道の右手を歩いていたので立ち寄りはしませんでした)
大堀橋を渡ると大堀町交差点があり、右側に「床の山碑」が建っていました。
標柱に「ひるがおに 昼寝せうもの 床の山」と刻まれている。
街道書には、川の手前左手の山、大堀山は鳥籠山(床の山)といわれ、
歌枕になり、672年の壬申の乱の古戦場でもあった、と記されてます。
床の山碑の後ろは綺麗な紅葉にいろどられた旭森公園があり、公園の外れ斜面には
地蔵堂があり、脇にはたくさんの石仏が置かれてます。
地蔵堂の道を隔てた向こう角に多賀道道標が有り、道標の右手岩清水神社駐車場は
お休み処「かどや」跡で、お休み井戸を残していて案内板が立ってます。
地蔵堂の隣は亀甲山と呼ばれる小山で、石清水神社の参道入口の石段があり、
能楽家元が彦根藩を訪れたとき、記念に面と扇を置いて行き、当地の弟子たちが
記念の「扇塚」「面塚」を建てたといわれ、現在は「扇塚」が残されてます。
境内のモミジが素敵な彩を添えてますね。
大堀町の解説によると、古く飛鳥時代からこの地にお祀りしている神社だそうで、
武勲守護の神、また安産の神として参拝、祈願する人が絶えなかったそうです。
本殿(写真右)の建築時代は不詳、拝殿は明治9年5月改築さたとも記されてます。
石清水神社から先は次第に住宅が立て込み始め、道幅もかなり狭くなってきますが、
歩道帯は区分されてはいません。
車の往来はかなり多く、お互い待ち合わせをしながらの行き交いになり、歩く方も
暫し足止めをしながら進む街道になってきました。
歩道帯のない道は、車と対面する右手を歩くようにしています。左手を歩くと
後ろから来る車に対応ができないからです。
右手に堂々たる山門、鐘楼堂をもった、天台宗から改宗した浄土真宗本願寺派の
鳥籠山(ちょうろうさん)唯称寺を見送り
唯称寺から10分ほど行くと、右側に大堀家地蔵堂が祀られていました。
建久元(1190)年、源頼朝はここで体調を崩し、地蔵菩薩に平癒を祈願したという
いわれがある地蔵堂、と街道書に有ります。
地蔵堂から約350m歩くと、近江鉄道の踏切があり、手前右側に大きな常夜燈が
建ち、高宮宿碑が建てられているのですが、写ってない!
街道書では、ここが高宮宿の見附跡で江戸(東)口だった、と記されてます。
江戸より第64番目。119里7町 468Km
京へ16里6町(約64km)、鳥居本宿から約6キロメートル。
高宮宿場街へ入ります。 続く。