歩いて再び京の都へ 旧中山道69次夫婦歩き旅  第37回    1日目・後編 高宮宿 ~愛知川宿入口

 彦根市モニュメントが見送りです、

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続きです。


彦根市モニュメントを過ぎ少し先には、左側に葛籠町標石が埋設されていました。

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その先には出町交差点があり、交差点から約10m先の左側に出町と刻まれた標石が

埋設されていました。

付近は行政区域が複雑で、彦根市豊郷町甲良町が入り組んでるようです。

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出町標石から5分ほどで旧尼子出村に入ると、左手に日枝神社が鎮座し、

対の常夜燈の奥に鳥居があり、本殿は小さな造りで村の鎮守と街道書にあります。

 

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日枝神社の先で、彦根市から犬上郡豊郷町安食(あじき)地区へ入り、

10分ほど行くと四十九院交差点で、右側に阿自岐神社社標と常夜燈が建っていて、
ここから右(西)に約800m進むと阿自岐神社が鎮座しています。
応神天皇の時代にこの地を開発した百済の渡来人阿自岐(あじき)氏が、

祖神を祀ったもので、三間社流造りの本殿は文政二年(1819)の建立で,

庭園は日本最古の名園といわれるようです。
この辺りの地名の安食(あじき)は神社名の阿自岐に由来していて、

安食とは食物に恵まれ安住できる地を意味している、と街道書に有ります。

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 右手は豊郷安食西、左手は豊郷四十九院
 四十九院公民館先に「先人を偲ぶ館」への案内板がありました。 
 豊郷に生まれ全国で活躍した、八人の傑人の業績などを紹介してるそうです。

 「偲ぶ館」には寄りませんが左手へ入り、 

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先人を偲ぶ館の向いの左手にある、真宗大谷派兜率山・四十九院照光坊唯念寺に

立ち寄りです。
四十九院とは行基天平三年(731)この地に四十九の寺院を建てたことに
由来し、唯念寺はその四十九番目の寺で、行基作の阿弥陀如来像と弥勒菩薩像が

本尊として安置されており、書院前の枯山水庭園は行基作と伝わるそうです。
向いには真宗大谷派瑞光山恵林寺がありました。(写真下右端)。

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街道に戻って約300m進むと左手に鳥居が立ち、参道奥を左に曲がると

春日神社が鎮座しているそうで、行基四十九院の創建時に伽藍鎮護の守護神として

祀ったものと言われます。

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春日神社入口を過ぎると、旧石畑村で左手に豊郷小学校旧校舎群があり、

現在は町立図書館やカフェなどを運用してる、と街道書に有ります。

旧校舎がアニメの舞台に設定されTV放送されたことから、知る人ぞ知る

旧校舎群のようです。
「昭和12年(1937年)丸紅専務古川鉄次郎の寄付よって建てられた、
 鉄筋造りの小学校で、東洋一といわれました。
 鉄次郎は伊藤忠兵衛の元で丁稚奉公からの叩き上げで、忠兵衛の右腕となって
 活躍しました、身の回りは質素で通し、公共の福祉には大金を惜しまなかった
 ところから、近江商人の鑑といわれました。

 設計は各地に建造物が残る、ウイリアム メレルヴォーリズ設計。

  今は複合施設となって保存されています。」
(豊郷観光案内より)

平成25年、耐震改修が施された後、国登録有形文化財となっている。

まるで大学のような小学校(跡)でしたね。

校舎保存には賛成、反対など大きな紆余屈折があり、裁判騒動にまで発展し

新聞報道もあったようです。

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向かいに 弓矢が添えられている「やりこの郷」 碑が建っている。

 豊郷安食南地区には古くから「矢り木」(やりこ)という地名があり、

「やりこ」とは矢り木のことでその昔、神様のお告げで木の上から矢を射った先から

 水が湧きだしたことからそれが地名になったとされています。

(写真には弓矢が写ってなかった)

f:id:hansui:20191206142650j:plain先左手にある八幡神社の脇に「中山道一里塚の郷石畑」碑があり、江戸日本橋から

数えて121里目の、小さな一里塚が復元されている。

往時、石畑一里塚は豊郷町役場前の南に位置しており、松が植えられていました。

と側の案内板にありました。

(写真右)

石畑は高宮宿と愛知川宿の間の宿で、立場茶屋が設けられ旅人や馬の休息の場として

栄えた。

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石畑の解説板

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間の宿碑の直ぐ先を左に入ると、奥の左手に称名寺、手前左側に八幡神社が祀られて

いました。

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八幡神社から約240m歩くと、豊郷町役場前交差点があり、左側に町役場の庁舎が建っていました。八幡神社前の復元された一里塚は、元はここに有ったということです。

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豊郷町役場の交差点を越えた先には「伊藤長兵衛屋敷跡」の大きな碑があり、

左側に「くれない園」があり「伊藤忠兵衛翁碑」が建てられてます。

資料などによると、

伊藤忠兵衛は「近江麻布」を売り歩いていた近江商人から身を起し、

伊藤忠商事と丸紅の創業者である。

くれない園から約30m先に、伊藤長兵衛商店の丁稚から、7代目伊藤長兵衛を

襲名した若林長次郎家が住んでいた屋敷跡があり、石碑が建っています。

7代目伊藤長兵衛は、伊藤忠商店と合併し株式会社丸紅商店を設立し

初代社長となっている人物である。

(その後、合併、分離、合併を繰り返したが、終戦後は財閥解体伊藤忠、丸紅と

 分割された)

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伊藤長兵衛家屋敷跡から約80m歩くと、左側に伊藤忠商事の始祖である

伊藤忠兵衛生家」があり、記念館として開放している。

旧宅は初代忠兵衛が生活していた当時そのままの形で保存され、家具調度品、

仏間など近江商人の豪邸の有様を今に伝えているそうですが、立ち寄らずに先へ

急ぎます。故郷に錦を飾る近江商人の気質が良くわかります。

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豊郷の近江商人資料の要約。

「初代忠兵衛は、幕末の17歳の頃に九州や中国地方に出向き、

 高宮上布を売り歩いた、近江商人を代表する人物で、この時に作った地盤を元に

 明治時代に大阪で呉服店「紅忠」を開業する。これが後の「丸紅」の基礎となり、

 その後神戸で開業した海外貿易会社が今の「伊藤忠商事」に発展していく。

 さらに、貿易会社を総合商社に発展させたのは二代目忠兵衛の力に負うところが

 大きいといわれている。因みに、初代忠兵衛の兄で本家の六代目伊藤長兵衛の

 婿養子となったのが七代目長兵衛である」なるほど・・・

 

記念館の南側を左手へ入ると、豊郷駅近くに、平安時代犬上郡を収めた

犬上の君遺跡公園があり、隣接して遣隋使や遣唐使を務めた、犬上朝臣を祀った

犬上神社が有りました。

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街道に戻り、これなんだ?の石像を見送り約400m歩くと、右側に天稚彦神社の

社標が建っていました。

街道書によれば、

戦国時代、佐々木京極氏の家臣、高瀬氏がこの地に城を築き、その守護神とした。

とあり、光仁天皇時代(770-781)の鎮座とされる古社で、式内社軽野神社ともされる。しばしば戦火にあい、現在の本殿は延宝7年(1679)のもので ある。

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神社参道口から約30m歩くと、左側に煙突が立つ「出世誉」蔵元の西沢藤平商店が

あり、西沢藤平商店の前に今は涸れてしまったが、その名水を偲んで再現した

井桁状に組んだ井戸があり、「西沢新平家邸跡」「金田池/水の香る郷 四ツ谷」の

碑があります。

道の向いには、江州音頭で踊る人々の姿が描かれた「柳池分水工」があった。
「円 筒分水工」は農業用水などを一定の割合で分配する利水施設で、円筒の下から

 湧き出させた水を外周部で一定割合に分割する施設だそうです。

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金田池から庭の紅葉を眺めながら約300m歩くと、右側の道路沿いに日本橋から

121番目の「中山道一里塚址」があり、跡地に標石と標板が建っていました。

字が擦れて読み難い脇の看板には、「当地より800mほど北」とあるようなので、

町役場附近にあった一里塚の石碑をこちらに移築したのではないかな?

八幡神社の「中山道一里塚の郷」の碑は、なぜあそこに復元したんでしょうね。
一里塚碑の後ろの立派な建物は、

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蝦夷地・北海道の漁場開拓から廻船業にまで手を広げた藤野喜兵衛喜昌の

旧宅「豊会館」で、

案内板には、
「当館は、江戸末期より蝦夷と内地とを北前を用いた交易で財をなした近江商人藤野家本宅跡である。

明治初期に入ると、我国初めての鮭缶の製造を始め五稜北辰の商標「星印」で販売した所、人気を博しました。
今日では「アケボノ缶詰」として受け継がれています。亦天保の大飢饉には住民救済の為に行われた又十の飢饉普請は有名で、江州音頭発祥の地千樹寺の再建と、当家の建造物及び湖国百選に紹介されている名庭園「松前の庭」、勝本宗益作等何れも当時の原形を今日までほどよくほぞんされています。

また、館内には千数点に及ぶ美術・工芸品等が展示されています」

別資料によると。あけぼの印缶詰は、4代目辰四郎の創業だそうです。

(内地との言い回しは懐かしい、ず~と、本州のことは内地と言っていた、)

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 蝦夷地漁場開拓と言えば、司馬遼太郎の作品にもある、高田屋嘉平が良く知られていて、函館に銅像が有ります。藤野家は松前藩に重要されたようです。

 

又十屋敷の左手向いには浄土真宗本願寺派西還寺があり、しばらく行くと右側は

近江湖東二十七名刹霊場第十四番「千樹寺」の参道口で、行基が創立した四十九院

一つで観音堂と呼ばれています。

資料によると、

永禄11年(1568)信長の兵火で焼失、天正14年(1586)近江商人藤野喜兵衛の

先祖・太郎右エ門常美が基金して再建し、その後、再び大火で焼失、この時も

喜兵衛二代目藤野四郎兵衛が再建している。

その左角に「江州音頭發祥地」とあり、「観音堂(千樹寺)と盆踊り/江州音頭発祥の

起源」を記した石板があります。
 解説によると、天正14年(1586)、藤野太郎衛門常実が観音堂を再建し、

 遷仏式の余興として経文の句に節をつけて歌い、円陣で踊らせた。
 その後も盆踊りが催されていたが、弘化3年(1846)藤野四郎兵衛良久が花笠や

 華美な扇子を持って踊らせ、好評を博し、他村へも広まった、とある。

関西地方の芸能、三河万歳や河内音頭や上方漫才に大きな影響を与えた、

といわれるようです。

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江州音頭発祥地碑から約350m歩き、宇曽川お歌詰橋で渡ります。

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橋を渡ると愛知郡愛荘町に入ります。

この川は、水量か豊富なために舟運が盛んで、人や物資、石や丸太も運んだという。
この歌詰橋は、東国で殺された平将門の首が追いかけてきたが、将門の首に対し

「歌を一首」と問いかけ、将門の首が歌に詰まったために橋上に落ちたことから

「歌詰橋」と呼ばれるようになったとされる。(案内板)

平将門伝説がしばしば出てきますね)

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 これは?  花は無いけど、歌詰橋花壇。

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橋を渡り石部の集落へ入りると、普門寺の裏手、山塚古墳上にに飛んできた

平将門首塚があるそうで、後ろの小山の祠が「首塚お堂」かな?

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左側に広場、奥に祀られた薬師堂を見送り、正光寺を過ぎるなど約200m行くと、

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左側に平安時代延喜式に記載されてる古社、石部神社の参道口があり、

大きな鳥居が建っていました。

崇神天皇7年の創祀と伝わり、垂仁天皇の代に元伊勢之石部之宮と称し、

天照大神を主神として祀ったと伝わり、本殿は二間社神明造、と街道書に有ります。

 

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過ぎると沓掛の地名になり、次の宿場、愛知川宿が近くなります。

約500m先沓掛交差点を過ぎたところで三差路で、沓掛住宅案内の大きな看板が

有り、左下に「旗神豊満大社」の石 道標があります。

(写真は分かりづらい)

近江線の愛知川駅に向かうのは左だが、街道は右に進みます。
旗神豊満神社は、左の道を2kmほど愛知川駅を越えて南に進んだ先にあるという。


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右方向に約350m歩くと、河脇神社の参道口があり鳥居が建っていました。

河脇神社も延喜式に記載されてる古社で、白山大権現といわれた、と街道書にある。

傾いた陽に、紅葉が漉かされ良いい色合い、寄らずに進みます。

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これは何用の蓋かな?

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左手、小川沿いに入る道が有り、井上神社とあったので寄り道。

豊かな清水があり、この「井」の「上」に一社を創建し菅原道真公を観請して

産土神とした、と街道書にあります。 

小川をたどって行くと神社が有り、ご本殿が石垣上に一段高く祀られてます。

石垣に中に「井」があったのかな。

案内板らしきもの、無かった?見落とした?

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街道へ戻りすぐ先に十字路があり、「中山道愛知川宿」ゲートが有りました。
左折してゆくと近江鉄道愛知川駅です。

鳥居本宿から、高宮宿を経て約14km弱。

日暮れ前につきました、

11月23日(土)PM4:00 旅の一日目はここで足止めにします。

 

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ゲートを左手に道を取り、近江鉄道愛知川駅へ出て、近江八幡の宿へ戻ります。

帰り方は二通り。近江鉄道を使って南下し八日市駅経由で近江八幡へ行くか、

北上し彦根へ出てJRで行くか。

時刻表を見ると、彦根経由が早そうなので、彦根行き側ホームで待ちました。

あれ、時刻表にない彦根方面から電車が来た! 今日は日曜日、増発電車か??

と到着電車を見ると、「ワイン電車」のプレートのイベント特別電車でした。

車内ではテーブルが置かれ、乗客がグラスを傾けていた!!

戻った近江八幡駅にはこんなポスターを見つけた。

ボージョレ・ヌーボー」解禁日の 11/21(木)から運行が始まります。

6 種類の ワインが飲み放題!

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誘われたように、道すがらワインを買ってホテルへ。

乾杯!、2日目へ、旅は続きます。