東京に桜咲いた、の宣言がでたら雪が降ったりの弥生三月。
彼岸の21日は遂に傘寿、80才到達。
マイカー無しで過ごしていたが、定年後に30年ぶりに運転再開。
高齢者講習、検査を受けながら免許更新をし、まだまだの気は十分
未練あれど、事故を起こしてからでは「後悔先に立たず」。
カミさんとの約束もあって、年初に春には免許返上、コロナ騒動の中ではあるが、
20日、夜明けとともに、思い出道へ最後の一走りへ,
と、出かけたドライブも、群馬県に入り埼玉の自宅へ向かって、
寄り道しながら帰ります。
(高崎市・慈眼寺)
高崎市東部の慈眼寺を後に、西へ走り市街地を横断し和田橋で烏川を渡って、
標高200m前後の観音山丘陵に立つ高崎市のシンボル、白衣大観音へ向かいます。
2016年9月に歩き始めた旧中山道の歩き旅。
12月3日に高崎宿を通った時に、高層ビルの高崎市役所展望所から西に見えていた
巨大な観音像。
幾たびか高崎は通っていたが、なかなか立ち寄る機会がなかった観音様でした。
2016年、高崎市役所よりの眺め。
(バックの雪山は、信州、甲州の国境に連なる百名山・八ヶ岳連山の硫黄岳2760m)
山道を上がり、標高190mほどの駐車場に車を止めて、緩い坂の参道を
上がってゆくと、ちょとユーモラスな仁王像が迎えてくれます。
曲がりくねった参道からは、観音様はなかなか姿を拝めません。
おや、山ツツジがもう咲いている。
シャガも咲きだしてる尾根下の道を何度か回り込むと、ようやくお姿を拝めます。
白衣大観音は、こちらも高野山真言宗のお寺、慈眼寺院の境内に祀られています。
寺記によると、慈眼院はもともと高野山金剛峯寺の塔頭寺院のひとつだったそうで、
昭和初期まで高野山にあったが、高崎白衣大観音建立後、昭和16(1941)年に
高野山より別格本山として高崎への移転した。
創建は、鎌倉中期で、執権北条義時の三男、相州極楽寺入道重時と伝えられ、
続紀伊風土記には、本尊の聖観世音菩薩は鎌倉坂下村の安左衛門という文人が
鎌倉の由比ヶ浜で漁をしたときに網にかかった尊像と、ありました。
海で網に、どかで聞いた話だと思ったら、鎌倉の古刹、長谷寺の観音様も神奈川の
三浦半島に流れ着き、鎌倉に安置されたとの逸話がありますね。
山頂に立つ観音様は、鉄筋コンクリート造り、高さ41.8m、重さ約6,000トンの
巨大な観音様で、建設当時は東洋一の大きさを誇ったといわれます。
1936年(昭和11年)に完成で、私より4年先輩の観音様です。
(慈眼院本堂)
本堂から眺める観音像、さすがに大きいですね~
胎内めぐりができるんですが、ここもコロナ騒動で中止になってました。
う~ん、失礼少し欠けてしまった・・
昨年、筑波実験植物園へ行った帰りに茨城県牛久の牛久大仏に寄ったことがあった。
牛久大仏は120m、観音様より一回り大きかったね。
高崎中心街の眺め。
左手の薄く浮かぶ山は赤城山、中央の高層ビルが高崎市役所です。
県庁が前橋にとられた?、よ~し、県内最高層はこっちだ!
と建てたとの噂話があるんだとか。ほんとかな~・・。
と、景色を堪能し山を下り、南へ埼玉へと向かいます。
続く。