2020年6月16日(火)
今日も梅雨の中休みで、薄曇りの夜明にそよ風。
できるだけ朝のうちに旅立ちしようと、身支度をして朝の5時半、
自転車にて最寄りの駅へ。
いや~、懐かしい時間帯だ!20年前まで毎朝通勤した時間帯。
夏の朝のヒンヤリ感がいいんですね。(冬はつらいけど・・)
電車時刻は少し変わっていたが、ほぼ同じAM6:09の電車に乗れた。
この時間くらいから徐々に始まる通勤ラッシュも、まだその感はナシ。
さすがに乗客は全員マスク姿、窓は空いていたが、すでに冷房も入っていた。
電車に乗るのは半年ぶり、八重洲方面へ向かうのは・・中山道旅立ちいらい?
いつもは東京駅へ向かうときは、池袋駅からはメトロ利用だったが、
カミさんの意向で地上を走るJR山手線で向かいます。
東京駅へ降り立ち、八重洲口を出る前に地下商店街のカフェで朝食。
席は4人席に二人掛け、カウンター席は一人置きになっていた。
見上げる高層ビルはぼこぼこ建ってるし、初めて訪れたような感で、
きょろきょろ足を止めて見廻ししながら日本橋へ向かいます。
日本橋手前に行基作と伝う「日限延命地蔵菩薩像」を安置した西河岸地蔵寺が
三方を高いビルに囲まれてあるというが、見つけられぬまま通り過ぎ、
AM7:45、高架がなんとも鬱陶しい三度目の日本橋に立ちました。
この高架も地下化が決まったようだが、空の下の日本橋に立つことは、
・・・
日本国道路元標(レプリカ)を確認し、
2020年6月16日(火)AM8時00分 日光東照宮を目指して日光道中、
街道夫婦歩き旅をスタート。(80才、73才)
「江戸時代から関東大震災の時期まで、日本橋川岸に魚河岸があったが、
大震災後に築地に移転したんだ」、栄泉の日本橋にも描かれてるね・・
「その築地もなく、今は豊洲なのね~」なんておしゃべりしながら歩いてるうちに、
旅立ちショットを写しわすれて、「ながら旅立ち」をしてしまった!!
日光街道は江戸五街道の一つ、江戸日本橋から日光東照宮迄、21宿140Kmの旅。
歩き始めてすぐ左手は三越本店、その先は三井本館、並び向こう側には
近代高層ビルの三井東タワー手前が、高級果物老舗の千疋屋などの重厚な石造りの
建物が聳え、右手は最近オープンした「江戸」をコンセプトにしたグルメ&ショッピングの複合施設、コレド室町のビル群。
日本橋、室町周辺は近年に大変貌をしていた。
千疋屋前から東へ伸びる通りの、ビルの谷間に赤い鳥居が見えるのは、
日本橋再開発に伴い2014年復興再建された福徳神社と、併設して福徳の森。
貞観年間(859~876年)には既にこの地に鎮座していたという由緒ある神社で、
昔から村の鎮守として人々の崇敬を集めていた。
江戸時代には日本橋界隈の鎮守として栄え、徳川家康公も参詣したといわれる。
ビルの屋上や飲食店の社屋内などに祀られていたが、社殿再興が実現した。
(由来案内文より)
江戸時代の宝くじ・富くじの発行が幕府から許されていた神社でもあったので、
現代は宝くじ当選祈願で多くの人が訪れるんだとか。
通勤の途中と思えるが、参拝する方が結構いましたね。
2016年の中山道旅の頃には、すでに再建されていたわけだが、
当時使用していた街道案内マップには記載されてなかったので、
気づかなかったんようだ。
中央通り(中山道)に戻り、すぐ先の千疋屋角の室町3丁目南交差点で
右折して進んだすぐ先は、街道を寸断して首都高速上野線が走る昭和通り。
交差点、歩道帯はなく、地下道を潜ってゆきますが、ホームレスの方々の住処で
段ボールなどが並んでるという話もあり、カミさん苦手のため、少し遠回りして
信号機のある横断歩道帯を渡ります。
街道に復帰しての通りは大伝馬町通り。
徳川家康の江戸入府に際し、三河より随行した馬込勘解由が名主となり、
三伝馬取締役を務めた。
左手に承応2年創業(1653)約400年続く、和紙専門問屋小津和紙店。
館内には和紙の工芸展示室もあるそうです。
そして裏手北側には史跡・於竹大日如来井戸跡が」整備され縁起碑が掲げられていた。
寛永の頃、大伝馬町・佐久間家(馬込家の説も)で下働きをしていた誠実で慈悲心の強いお竹は、出羽の国の行者より「大日如来の化身」と告げられる。
その後、主人が作った持仏堂で念仏三昧の道に入ったお竹を、江戸市中の人々が
参拝に訪れたという。
小津和紙店の裏通りをそのまま50mほど東へ行くと、大伝馬町通りで開かれる
べったら市で知られる宝田恵比寿神社。
江戸城外の宝田村の鎮守だったが、村人は江戸城築城の際に家康から移転を命ぜられこの地に移り住んだという。
日本橋七福神巡りで知られる宝田恵比寿神社は、もともと江戸城外の宝田村の鎮守で現在の皇居前にあったという。それが慶長11年(1606年)、徳川家康による江戸城拡張のため、現在の場所に村ごと移転。その際に徳川家から贈られた恵比寿像がご神体として、今でも祭壇中央に祀られている。
べったら市は、江戸後期にはすでに開催されていた伝統行事。明治・大正時代には1000軒ほどの店が出て、それは賑やかだった。
(たしか学生時代に一度だけ友と来たことがあるね)
下宿で初めて食べた時は甘いたくあんだ!とびっくりしたことがあった。
べったら市という名前の由来は「その昔、恵比寿講で購入した浅漬け大根を振り回しながら、『べったりつくぞ、べったらだー』と恵比寿様に参拝するご婦人を若者たちがからかったことから『べったら市』の名がついた由。(由来書き板)
大伝馬町に戻り少し行くと「旧日光街道本通」の道標が立っている。
碑の側面には「徳川家康公江戸開府の際し御傳馬支配であった馬込勘解由が
名主としてこの地に住し、以後大傳馬町と称された。」と彫られている。
この道標が日光道中を示す初めての標識ということになるのね、てカミさん。
たしかに、都内の街道や史跡の場所を示す方向指示標識的なものは皆無ですから、
案内書がなければ歩くだけになってしまうね。
(先ほどの於竹大日如来井戸跡の記されていた、馬込家とは御伝馬支配の家でした)
すぐ先左手に江戸屋と木板看板を掲げたレトロな建物には、文化庁の登録有形文化財のプレートがあった。
調べると、七代将軍家継の時代、初代利兵衛は将軍家お抱えの「刷毛師」に任じられ、
その後、享保三年(1718年)に将軍家より「江戸屋」の屋号を与えられ、
江戸刷毛の専門店として開業したという伝統ある老舗でした。
(現在も刷毛、ブラシで盛業中のようです)
進んで 人形町通りを左折し小伝馬町へ入り、総武本線が地下を通る
水戸街道(江戸通り)で、小伝馬町交差点で左側、北側にわたって寄り道。
人形町通りを南に行くと、安産まどの神様、水天宮が祀られてますね。
長女のとき、義母に連れられて三人でお守りや帯を授かりに来たことがあったな。
進んだ左手、十思公園などのある一帯がいまは面影はないが、明治初期に
市ヶ谷監獄が設置されるまで270年間つづいた、江戸幕府最大の伝馬町牢屋敷。
敷地面積(2618坪)で、牢、処刑場などがあった場所です。
伝馬町牢屋敷は現代における刑務所というより、未決囚を収監し死刑囚を処断する
拘置所に近い性質を持った施設である。
牢屋奉行は代々世襲で、大番衆の石出帯刀が勤め、その配下として40人~80人程度の
牢屋役人、獄丁50人程度で管理をしていた。
講談、芝居、小説時代物などで出てくる、首切り浅右衛門こと山田浅右衛門は、
浪人であたそうだが、御様御用(おためしごよう)という刀剣の試し斬り役を務めて
いた人物なんですね。
代々浅右衛門を名乗り、幕府瓦解後には山田家は「東京府囚獄掛斬役」として
明治政府に出仕し、引き続き処刑執行の役割を担ったが、1870年(明治3年)には
弁官達により、刑死者の試し斬りと人胆等の取り扱いが禁止され、山田浅右衛門家の
役目は終わった。
1880年(明治13年)死刑は絞首刑となることが決定、1882年(明治15年)には、
斬首刑は廃止された。山田家では1881年(明治14年)に斬役から市ヶ谷監獄の書記と
なった。こうして「人斬り浅右衛門」としての山田浅右衛門家はその役目を終え、
消滅した。
付け焼刃で得た知識を、カミさんとおしゃべりしながら向かう十思公園内には、
吉田松陰が処刑された終焉之地碑があり、死刑執行の合図に使われた時の鐘が
移設されてました。
「江戸時代、罪人の処刑は「石町時の鐘」を合図に行われ、刑の執行を控えた日は
刻限を意図的に遅らせたところから「情けの鐘」と呼ばれた、との説が伝わってる
そうです。
第7代の山田浅右衛門吉利は、安政の大獄のとき、吉田松陰や橋本左内を斬首した
人物として知られ、墓が新宿区の勝興寺にある」(伝馬牢、解説文より)
隣接する大安楽寺は、境内が処刑場だった跡地で、境内に「江戸伝馬町処刑場跡」碑があります。
中央に刑死者供養の延命地蔵が建ってるが、命を絶つ処刑場跡に延命というのは?
街道にもどり人形町通りを越えると馬喰町、横山町の問屋街が続いている。
馬喰町は馬市が立ち傳馬用の馬が売り買いされていたところで、
横山町は、広重が名所江戸百景「大てんま町木綿店」でこの界隈を描いている
そうです。
ここは江戸時代から各種問屋が軒を並べて、現在も衣類、インテリア、バッグなど
多くの問屋がある。
(店には「卸の店で個人販売はいたしておりません」の表示があるが・・
そう厳格でもなさそう)
(問屋街のマップを眺めながら、ああ、この辺だったと実に懐かしいんですね。
もう60年弱昔しに、サラリーマン生活をスタートさせた会社の本社社屋が
一本隔てた通りにあったんです。
新入社員研修で1ヶ月、6年後に札幌勤務から戻った折り本社が東銀座へ
移転するまで1ヶ月の2か月間ほどはこの界隈が馴染みの地だったんです)
カミさんに、そんな思い出お喋りしながら問屋街の街並みを過ぎると、西からの
靖国通りと交差の浅草橋交差点があり、右手に靖国通りを行くとすぐ先は隅田川で
両国橋。
先で江戸通りに合流し、屋形船が沢山舫ってる神田川に架かる浅草橋を渡ります。
渡った浅草橋の東側右手の小路を入ると 明治7年に創設された官立の図書館跡で、
浅草文庫碑(榊神社内)があり、左は繁昌稲荷社と街道書にありますが、
寄らずに横断歩道で西側にわたると、橋の北側左手小公園に「浅草見附跡」碑が
あります。
江戸幕府は、主要交通路の重要な地点に櫓・門・橋などを築き江戸城の警護をし、
日光、奥州街道が通るこの地は、浅草観音への道筋にあたることから門が築かれ
浅草御門と呼ばれ、警護の人を配置したことから浅草見附ともいわれた。
ここにはじめて橋がかけられたのは寛永13年(1636)のことで、浅草御門前にあった
ことから浅草御門橋と呼ばれたが、いつしか「浅草橋」になったそうだ。
寄りませんでしたが、神田川を挟んだ南側の樹の茂る小さな公園は、関東の
幕府直轄領の年貢の徴収、治水、領民紛争の処理などを行った郡代屋敷跡で
碑があるそうです。
(橋の向こう側で江戸通りと合流してます)
この橋も、かっては2か月間ほど毎日渡ったが、郡代屋敷跡も浅草見附跡も
当時は気にも留めず通り過ぎていたんだな・・。
浅草橋から江戸通りを200m弱でJR総武線のガードを過ぎてのすぐ左手が
浅草橋駅。(昔と少し変わってるかな?)
総武線が東へ隅田川を渡ると両国駅があり、左手にご存知、両国国技館。
その東隣には東京江戸博物館だある。
(近くの支店勤めもあって、界隈は勤め人最後の5年ほど毎日通勤であるいていた)
駅前の江戸通り東側一帯は、かっては柳橋芸者で知られた江戸中期からある
古い花街、柳橋です。
1859年(安政6年)には、芸妓140名から150名ほど芸妓の記録があるそうで、
新入社員研修時代、同期と見学で料亭街をぶらぶらしたことがあった。
前の東京オリンピック後急激に衰退していき、平成11年に最後の料亭が廃業、
200年近くの歴史に終止符を打った、と街案内にありますね。
駅のすぐ先を左手へ入ると「銀杏岡八幡神社」がある。
「源義家が永承六年に奥州出征の際、隅田川の川上から流れ着いた銀杏の枝を地面に刺し勝利を祈願した。奥州平定後、戻ってみると銀杏が大きく繁茂していた。この神恩に感謝し八幡宮を勧請した」の由緒書が掲示されている。
(銀杏の樹は江戸時代の大火で焼失したそうです)
戻る小路の正面に見えたのは、TVCMでお馴染みの人形の久月・本社ビル。
10階建て?変貌にびっくりです。
一帯は人形の街と言われ多くの店が並んでます。
「長男の五月節句人形も、この街で買ったわ~」てカミさんが思い出していた。
江戸通り手前の小路へ入った角に、幕末文久2年(1862年)創業と
看板を掲げた江戸前佃煮の老舗、「佃煮の鮒佐」本店がありました。
この店の若鮎の佃煮が絶品だそうですね。
日本橋室町にも有名店の日本橋鮒佐がありますが、分家だったとは初めて知りました。
江戸通りに出ずに北に向かうとすぐに、ご祭神は素盞鳴尊(すさのおのみこと)の
須賀神社がありました。
縁起によれば、御創建は推古天皇九年(600年)。江戸時代には牛頭天王社、祇園社、蔵前天王社、団子天王社と呼ばれていたが明治元年、須賀神社と改称。
江戸通りに戻り須賀交番前交差点(黒い三角屋根が交番)を渡って右手に入った左手に第六天榊神社が鎮座してます。
境内内はかって、明治7年創立の官立図書館跡であり、
コンクリート造りの神楽殿右手赤い鳥居の後ろ側に高さ4mの記念石碑が建ってます。
江戸通りに戻り、浅草橋駅から約500m蔵前橋通と交差の蔵前1丁目交差点左手、
木立のある所に、寄っていませんが街道書には、「江戸時代浅草天文台があった。
「旧町名由来案内・浅草蔵前」の説明版と、天文台跡の説明版が並んでいる」
と記されてます。
旧町名由来案内には、「本町は、付近の九ヵ町を整理統合して昭和九年(1934)にできた。蔵前と言う町名が初めて付けられたのは元和七年(1621)の浅草御蔵前片町である。この付近に徳川幕府の米蔵があったことから付けられた。」と記され、
天文台跡は、足掛け17年をかけて日本全土を測量し「大日本沿海輿地全図」を完成させた伊能忠敬の師匠・天文方高橋至時(たかはしよしとき)が天文観測を行ったところ、と記されています。
葛飾北斎画 「富嶽百景・浅草鳥越の図 」のもこの天文台が描かれている。
(資料写真)
さらに交差点を左手西に5分ほど向かえば、江戸随一の重さと謡われた
千貫御輿(重量4トン)の鳥越祭りで名高い鳥越神社があるんですね。
平将門の首が飛び越していったので「鳥越(=飛び越え)」という地名になり、
この社名となった。あるいは、将門の身体はバラバラにされて江戸各地に埋められたが、この鳥越神社には手が埋められているという伝説があるんだとか。
日光街道(江戸通り)は交差点を渡りまっつぐ北へ向かいますが、
交差点を右手に蔵前橋通りに入りすぐ左手の小路を入ると、説明板に
「御蔵造営用の石を運ぶ船が遭難しかかった時に現れ、船を安全に導いた楫取という
稲荷を祀っている」と書かれた楫取(かじとり)神社が鎮座してます。
もどり蔵前橋通りを東に蔵前橋の手前左手一帯は江戸時代は天領からの年貢米を
貯蔵し主に旗本、御家人の給米に供され、蔵前の地名由来となった浅草御蔵跡です。
跡地は大戦後に、両国の国技館がGHQに接収されたため、新に蔵前国技館が
建ていたが、国技館はもとの両国へ新国技館が建ち、現在は都水道局の施設となって
ます。
蔵前国技館には義父の生前、2度ほど大相撲を見に連れてきていただき、
升席でいっぱい飲みながら初めての大相撲の観戦、
たしか郷土の大横綱、大鵬時代が終わりをつげ、輪島、北の富士が横綱。
勢いよく北の湖が台頭してきたころだった。
あやふやだけど、なつかしい思い出だったな~。
(カミさんが長女の出産で実家へ里帰りで、一緒に実家へきていたんです)
(資料から蔵前国技館)
右手、蔵前橋の手前に見えるのは「首尾の松跡」で、吉原帰りの遊客が昨夜の首尾を
語りあった由で今の松は7代目と街道書に書かれてる。
もとは少し川下の川岸にあったようで移植されたんだとか。
蔵前橋へ出てみると川の向こう北東には東京スカイツリーが見渡せ、
南東には新両国国技館の丸い緑の屋根が見えている。
蔵前1丁目1交差点へ戻り江戸通を浅草方面へ向かい、400mほどの小路を左手へ
行くと、由来書に「当社は、五代将軍綱吉が元禄六年(1693年)、山城国(京都)
男山の石清水八幡宮を勧請したのが始まりです。以来、江戸城鬼門除けの守護神として篤く尊崇された。」と記される「蔵前神社」が鎮座してます。
境内には「阿武松という江戸時代勧進大相撲で名横綱に出世した相撲取りの古典落語
ゆかりの神社」札書き、説明版に「この錦絵は文政七年(1824年)の春に、御蔵前八幡宮で行われた「力持」の技芸の奉納を描いたものです。」と書かれている
浮世絵師・歌川國安の奉納力持ちの錦絵碑や、「蔵前の八幡様の境内で満願叶って
人間になった真っ白い犬が奉公先で珍騒動を巻き起こす話の犬の像」など盛り沢山。
境内を囲むのは、懐かしい四股名が彫られた大相撲協会の奉納石柱がずらり。
千代の山、鏡里、吉葉山、そして三根山やあの業師名横綱となった栃錦はまだ大関。
みんな子供のころラジオにしがみ付いてい聞いていたのを思い出したね。
北海道巡業に来た時も千代の山、吉葉山のわが町での巡業興行があって、
朝早くから宿泊先まで押しかけて、夕刻まで握り飯を持ったて、まじかに両横綱を
追いかけまわし、一日中街は大賑わいだった、大感激したけな~・
なんておしゃべりしながら境内内でマスクを外して一休憩。
隣には落語『蔵前駕篭』に登場と街道書に記された榧寺(かやでら)。
慶長4年(1599)に普光観智国師が正覚寺として開山ともあり、
家の宗派、浄土宗なのでお参りに足を向けると、門前横に掲げられた説明板には、
「本観音菩薩坐像は銅製、鋳造で、総高が208.4センチメートル、像高は100.2センチメートルあります。
本像は銘文によると、宝暦年中(1751から1764)に室生寺の僧、快心が発願し、江戸の鋳物師、粉川市正が制作して榧寺の本堂前に安置したものです。
江戸を代表する鋳物師の作風を伝えるものとして貴重な遺品であり、江戸時代の鋳物師を考える上で基準となる作例のひとつです・・・・などなど」記されてますが、
なぜか見つけられなかったんです。
(区資料の写真)
厄除け地蔵や飴舐め地蔵、お初地蔵など変わったな名のお地蔵さんがあったが・・
境内のさいていた丸味をもった青色ガクアジサイ。
カミさんが気に入って
東に隅田川に架かる厩橋の青いアーチが見へ、交差点を渡って北へ進んで
駒形1丁目交差点を渡ると左手に諏訪神社。
北隣りには、TVでお馴染みキャラクターがずらいと並ぶバンダイ本社ビル。
バンダイ本社と向かいあわっせの北側角には、江戸時代享和元年(1801)創業の
老舗・駒形どぜう
(お店も再開できたようですね)
50年ほど前にお客様接待で一度だけ上がった記憶があるんです。
当時は広いご座敷きの板の間にテーブル、座布団が並べられ、丸いガスコンロの
ガスは、ホースで引かれていたな。
カミさんに昼はここにと聞いたら「泥鰌」は・・て食わず嫌いの返事で見送り。
(お店の案内文、ながいが転載)
駒形どぜう」の創業は1801年。徳川11代将軍、家斉公の時代です。初代越後屋助七は武蔵国(現埼玉県北葛飾郡)の出身で、18歳の時に江戸に出て奉公した後、浅草駒形にめし屋を開きました。当時から駒形は浅草寺にお参りする参詣ルートのメインストリートであり、また翌年の3月18日から浅草寺のご開帳が行われたこともあって、店は大勢のお客様で繁盛したと言います。
初代が始めたどぜうなべ・どぜう汁に加え、二代目助七がくじらなべを売り出すなど、商売はその後も順調に続きました。嘉永元年(1848年)に出された当時のグルメガイド『江戸名物酒飯手引草』には、当店の名が記されております。
やがて時代は明治・大正・昭和と移り変わり、関東大震災、第二次世界大戦では店の全焼という被害を受けます。しかし多くのお客様のご支援と先代の努力もあって、江戸の味と建物は現在の七代目へと引き継がれております。
仮名遣いでは「どじょう」。もともとは「どぢやう」もしくは「どじやう」と書くのが正しい表記です。 それを「どぜう」としたのは初代越後屋助七の発案です。 文化3年(1806年)の江戸の大火によって店が類焼した際に、「どぢやう」の四文字では縁起が悪いと当時の有名な看板書き「撞木屋仙吉」に頼み込み、奇数文字の「どぜう」と書いてもらったのです。これが評判を呼んで店は繁盛。江戸末期には他の店も真似て、看板を「どぜう」に書き換えたといいます。 200余年の歴史を刻む、当店の大事なのれんです。
確かに200余年と聞いて「敷居が高いのでは」という声も耳にいたします。そんなふうにおっしゃられていた方も、のれんをくぐるとお出迎えするスタッフたちの若さに驚いたという方もいらっしゃるようです。もちろん実際は従業員たちの年齢も様々で、熟練のものも多数おります。そしてこの彼ら彼女ら従業員たちこそが、この先の300年、400年と味とおもてなしを守り続ける者たちでございます。
是非とも「老舗」や「泥臭い?」という先入観をちょいと脇において、さっとのれんをくぐってみてください。200余年間お待ちし続けた従業員たちが、心を込めて皆さんをおもてなしいたします。
江戸時代から庶民に親しまれてきたどぜう。
味とおもてなしに江戸情緒を残し、皆様より格別のお引き立てをいただいております。
ぜひ伝統の味をご賞味ください。
100mほど行くと左手に1940年創業のカバンメーカーが運営する
珍しい「世界のカバン博物館」の案内板のある大きなビルがあった。
立寄って・・・う~ん、またの機会に、
さらに100mほど進むと大きく開けた駒形西詰交差点にで、右手東へすぐに隅田川に架かる青いアーチの駒形橋。川向うに空に向かって旅立つように東京スカイツリー。
(交差点を西へ2kmほど行けばmあの懐かしき故郷への玄関口、上野駅に行ける)
駒形橋西詰交差点の駒形橋よりの一角に、浅草寺駒形堂が見えている。
(交差点西門よりパチリ)
「東京でもっとも歴史を誇る寺は、浅草寺(せんそうじ)といわれていますが、
そのルーツとなるお堂が駒形橋のたもと近くにある駒形堂。
『浅草寺縁起』によれば、浅草寺は兄弟が隅田川で漁をしていた際に1躰の仏像が
網にかかったので自ら出家、屋敷を寺に改めたのが始まりと伝えますが、その
仏像が陸に上げられた 地が駒形堂です。
本尊は馬頭観世音菩薩(木彫立像28.8cm)で、古代、この地が牧だったことに
関連があり、毎月19日、馬頭観音の縁日に御開扉されている」
(駒形堂解説文)
駒形西詰交差点で日光街道は江戸通をから左斜め別れて北へ向かう。
もう一度東京スカイツリーを眺めて進むと、正面に「浅草観音の雷門」
この門もまた懐かしいな~・・懐かしい思い出が次々と・・・
時刻はお昼には少し早いが、浅草寺参拝拝観は後でゆっくりとと、手前のレストランで休憩を兼ねってパスタでランチ。
レストラン前は江東区内を循環する「みんなのめぐりん」バスの停留所があった。