歩いて再び京の都へ、の前に 日光道中二十一次 街道散歩、第一歩・後編。

2020年6月16日(火)日本橋を出立し、日光道中の旅が始まりました。

あちらこちらと寄り道しながら、亀足亀足で浅草雷門前へたどり着き、

時刻はお昼には少し早いが、雷門手前のレストランでマスク外して足休め昼食。

1時間ほどゆっくり足休めをして、さて浅草寺へ。
気温がかなり高くなってきたが、マスク着用は大丈夫かな・・。

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 雷門前の道を右手に折れて、すこし先で江戸通りに再び合流し、左折して北へ進む

道が日光街道

本当に久しぶり、30年ぶりくらいになる浅草寺雷門。

ゆっくりお参りをして行こう。
家族5人で品川のカミさんの実家へ行った帰りに、たしか長女の高校受験の時で、
お茶の水湯島聖堂へお参りし、北側の神田明神、地下鉄で浅草寺まで足を

延ばしたことがあった。

大きな提灯はそのままなれど、解除になったとはいえ周辺はまだまだ人影は少なく、

人力車の車夫の呼び込み声もなにかまだ元気がない。

浅草のシンボル、「雷門」の大きな文字が描かれた、赤い大ちょうちんには、

高さ3.9メートル、幅3.3メートル、重さ約700キロ。

雷門の前は、記念写真におさまる国内外の人びとでいつも賑わっていたが、

近年は新型コロナウイルスの影響で、浅草寺の観光客は激減、特に海外の観光客が

皆無になった様子は何度も報道されていた。

そんな中、ほぼ10年くらいごとに新調されていた大提灯が、コロナウイルス

感染拡大で遠のいた客足が戻るよう願いをかけて、2013年以来、7年ぶりの

3月10日に一旦取り外され、1か月余かけて4月17日に新調復活したばかり。

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 雷門は浅草寺の総門であり、提灯の底に龍の彫刻が施され、

正式名称は「風雷神門」という。

風雷神門の名は、風神と雷神を門の左右に奉安していることに由来する。

(江戸川柳に、
  「風の神、雷門に居候 」と読まれたのがあるんですね。

 雷門の正式名称は「風雷神門」ですが、一般的に「雷門」と呼ばれていることから、

 主人は雷神、風神は同居人ということですね)

総門が現在地に移ったのは鎌倉時代以降のことで、移築の際に風神、雷神を安置したとも考えられている。
その創建年代は詳らかではないが、平公雅が天慶5年(942)に堂塔伽藍を一新した際、総門として駒形に建立したと伝わる。
 雷門は創建以来、幾度も焼失と再建を繰り返したが、寛政7年(1795)に

再建された頃から提灯の奉納が行われるようになった。

寛政の雷門は、歌川広重、渓斎英泉、歌川豊国、魚屋北渓など浮世絵師の好画題となり、今に作品が伝えられている。

幕末の慶応元年(1865)の失火により雷門も延焼し、のち、95年間も雷門は再建されなかったが、昭和35年(1960)に松下電器産業(現パナソニック)社長・松下幸之助氏の寄進により、再建された。

江戸時代の様式を生かした造りであり、堂々たる風格を漂わせている。
風神、雷神像は慶応の火災の際、頭部のみ難を逃れ、明治7年(1874)に身体部分を

補った。昭和35年の雷門再建の際に、常盤堂雷おこし本舗社長・穂刈恒一氏の懇意に

より、補修・彩色されたのが現在の像である。
 また、雷門の北の間(風雷神像の背後)に安置されている天龍像と金龍像は、

昭和53年(1978)松下グループ有志の寄進で、水を司る龍神であり、浅草寺

護法善神である。

浅草寺解説案内文より)

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 門の境内内側。 

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門をくぐるとズラリと並ぶお店。

(以下浅草寺案内文より)

浅草寺の表参道で雷門から宝蔵門まで長さ約250m、参道の両側に朱塗りの

店舗が並ぶ仲見世は、日本で最も古い商店街のひとつである。
仲見世は平店と呼ばれる、玩具、菓子、土産品などを売る店舗が主だった。
 明治になり、浅草寺の土地が政府に没収されるとともに、仲見世東京府の管轄に置かれた。そして明治18年(1885)に煉瓦造りの洋風の建物に一新される。文明開化の香りに満ちたこの仲見世は、大正12年(1923)の関東大震災で壊滅したが、同14年に鉄筋コンクリート造り、朱塗りの商店街に生まれ変わる。そして、昭和20年(1945)の東京大空襲で外構えを残して焼け落ちたが、戦後に補修して現在の姿となる。
 平成6年(1994)には電柱を撤去して地中電線に切り替えてすっきりとした通りになり、電飾看板や季節に即した飾りつけなど、整然としたなかに華やかさと粋を感じる仲見世は、歴史を大切にしながら日々、成長している町並みといえるだろう。

100年以上も続く老舗も多く、日本国内からはもちろんのこと、海外からの観光客

も約953万人が訪れ、浅草寺(せんそうじ)と門前の仲見世を中心に毎日がお祭り騒ぎに近い賑わいだったが、新型コロナウイルスの影響で街中のお店が大打撃を受けて

います。 

仲見世通りから東西に延びる、伝法院から宝蔵門寄りの店は役店と呼ばれ、

水茶屋が並んでいた。
宝蔵門寄りの店は20軒の水茶屋があったことから俗に「二十軒茶屋」といい、美人の看板娘を置いて人気を集めた。

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(図書館から事前に借りた浅草寺の観光案内本の記載内容をお参り記録として、

 長~いが記載してます)

浅草寺は、1400年近い歴史をもつ観音霊場である。寺伝によると、ご本尊がお姿を現されたのは、飛鳥時代推古天皇36年(628)3月18日の早朝であった。
宮戸川(今の隅田川)のほとりに住む檜前浜成・竹成兄弟が漁をしている最中、投網の中に一躰の像を発見した。仏像のことをよく知らなかった浜成・竹成兄弟は、像を水中に投じ、場所を変えて何度か網を打った。しかしそのたびに尊像が網にかかるばかりで、魚は捕れなかったので兄弟はこの尊像を持ち帰った。
土師中知(名前には諸説あり)という土地の長に見てもらうと、聖観世音菩薩の尊像であるとわかった。そして翌19日の朝、里の童子たちが草でつくったお堂に、この観音さまをお祀りした。「御名を称えて一心に願い事をすれば、必ず功徳をお授けくださる仏さまである」と、浜成・竹成兄弟や近隣の人びとに語り聞かせた中知は、やがて私宅を寺に改め、観音さまの礼拝供養に生涯を捧げた。
浅草寺に伝わる縁起には、観音さま示現の日、一夜にして辺りに千株ほどの松が生じ、3日を過ぎると天から金の鱗をもつ龍が松林の中にくだったと記されている。この瑞祥が、後につけられた山号「金龍山」の由来となった。また現在、浅草寺寺舞として奉演されている「金龍の舞」も、これに因む。

雷門をくぐり、人通り賑やかな仲見世を歩いてゆくと、前方に堂々たる朱塗りの楼門が参拝者を迎える。浅草寺山門の宝蔵門である。門は初層が五間で、両端の二間には仁王像を奉安し、中央の三間が通行のために開口している。
仁王像が安置されていることからもわかるように、この門はもともと仁王門と呼ばれていた。『浅草寺縁起』によれば、平公雅が天慶5年(942)に武蔵守に補任され、その祈願成就の御礼として仁王門を建立したのが創建という。以来、数度の焼失と再建ののち、徳川家光の寄進により慶安2年(1649)に落慶した仁王門が、昭和20年まで諸人を迎えていた。今に伝わる錦絵の数々に描かれた仁王門は慶安の門である。

 江戸時代、浅草寺は庶民に開かれた寺院として多くの参拝者を集めたが、一般ご信徒への特別なはからいとして、数日に限って門の楼上に登ることが許された。元旦、2月15日(涅槃会)、4月8日(仏生会)、7月15、16日(盂蘭盆会)、春秋の彼岸中日の7日間で、当時は近辺に高層建築がなかったため、人びとは楼上からの眺望を大いに楽しんだ(現在は行っていない)。

 昭和20年(1945)、仁王門は東京大空襲により観音堂五重塔・経蔵などとともに焼失する。昭和39年(1964)に大谷重工業社長・大谷米太郎ご夫妻の寄進により、鉄筋コンクリート造り、本瓦葺きで再建された。経蔵を兼ねて伝来の経典や寺宝を収蔵することから、仁王門から宝蔵門と改称された。
 宝蔵門に収蔵されている「元版一切経(国の重要文化財)」は、もとは鎌倉の鶴岡八幡宮に収蔵されていたものであるが、明治の神仏分離の際にあわや焼却処分されるところを、尼僧の貞運尼が買い取り、浅草寺に奉納したという由緒をもつ。鎌倉から浅草まで運ぶ際に助力したのが、町火消し十番組の組頭・新門辰五郎である。境内にあった新門の門番を務めたことから新門と名乗り、安政年間(1854~60)に浅草寺の経蔵を寄進している。戦災で経蔵は焼失したが「元版一切経」は疎開しており無事だった。

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朱も鮮やかな五重塔は、昭和48年(1973)に再建された、鉄骨・鉄筋コンクリート造りの塔である。外から見ると、五重塔は地上面から建っているように見えるが、実際は基壇状の建物(塔院)の上に建っている。
浅草寺五重塔の最上層には、スリランカのイスルムニヤ寺院から昭和41年(1966)に奉戴した仏舎利が納められている。
 浅草寺に塔がはじめて建立されたのは、天慶5年(942)、平公雅によるとされる。当時の塔は三重塔であり、本堂に向かって二つの塔が左右に配された、「薬師寺式伽藍」ではなかったかという見解もある。というのも、江戸時代・寛永年間の浅草寺境内図を見ると、当時は、本堂の東側に五重塔、西側に三重塔が建ち、境内に二つの塔が並存していたからである。焼失後、慶安元年(1648)に徳川家光五重塔を再建するものの三重塔は復興されなかった。
 この慶安の五重塔は本堂の東側に位置し、現在も礎石が残る。江戸時代は、上野寛永寺五重塔、芝増上寺五重塔、谷中天王寺五重塔とともに「江戸四塔」として親しまれた。特に浅草寺五重塔は、浅草や浅草寺を描いた絵画における必須のモチーフであり、浅草のランドマークであった。
 明治19年(1886)、各所傷んでいた塔を修復することになり、塔のまわりに足場が組まれた。このとき修復の費用を捻出するために、一般の参拝者に足場を登らせた。足場に設けられたスロープ沿いに最上層の屋根部分にまで登れたため、人びとは遥か遠くまでの眺望を楽しんだことだろう。

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浅草寺の本堂はご本尊の聖観世音菩薩を奉安することにちなみ、観音堂とも呼ばれる堂宇である。
 国宝に指定されていた旧本堂は昭和20年(1945)3月10日の東京大空襲により焼失したが、その後全国のご信徒からのご浄財により、昭和33年(1958)に今日の本堂が再建された。
 本堂の創建は、ご本尊が示現された推古天皇36年(628)にさかのぼる。檜前浜成・竹成の兄弟が隅田川宮戸川)で観世音菩薩のご尊像を感得したのち、10人の草刈り童子によって藜で屋根を葺いた堂に一時安置された。その後、土師中知が私邸を寺として、この聖観世音菩薩のお像を奉安したのが、本堂の起源である。
 本堂はその長い歴史において、幾度も被災し、そして再建されてきた。縁起や記録類によると、現在まで20回近い再建を数える。そのほとんどが失火や落雷、延焼による焼失であり、地震では長久2年(1041)に一度倒壊している。
もっとも長い期間ご本尊を守ってきた本堂は、慶安2年(1649)に徳川家光が願主となって再建された旧本堂である。じつはこれ以前の寛永12年(1635)に、同じく家光を願主として本堂が再建されたのだが、寛永19年(1642)、わずか7年で門前町の失火により延焼してしまった。このように焼失後間もなく再建されたのは、家光をはじめとする幕府が浅草寺をいかに厚く庇護していたかを物語る。
慶安の本堂は昭和20年の焼失まで約300年にわたり観音信仰の中心を担い、絵画や写真などに多数記録されている。明治40年(1907)に本堂は国宝に指定され、大正12年(1923)の関東大震災でも倒壊しなかった。ただし破損した箇所があったため、昭和8年(1933)に大営繕が施された。昭和20年に東京大空襲で焼失したのちは、本堂の焼け跡に仮本堂(現在の淡島堂)が設けられ、難を逃れたご本尊をお迎えした。
 今日の本堂は慶安の旧本堂の姿を基本に、鉄筋コンクリート造りで再建されたお堂である。入母屋造りの大屋根は急勾配かつ棟高で遠方からも望見できる。かつては3倍の重さの本瓦で葺かれていたが、安全強化のために軽量のチタン瓦に葺きかえられ、平成22年(2010)に営繕が円成した。 

 

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 浅草寺のご本尊は、聖観世音菩薩である。世間の生きとし生けるものの音声を観じ、その苦しみを除かれ、また願いを聴いて安楽を与えてくださる仏さまである。神変自在のお働きを主として「観自在菩薩」とも称されるが、一般的には略して「観音さま」と呼ばれる。観音さまは、十一面、千手、如意輪など、いろいろなお姿に変化するが、聖観音はその基本とされる。
 ご本尊は、推古天皇36年(628)にご示現されたと伝わる。その後、大化元年(645)に勝海上人が定めた秘仏の制が掟として守られてきた。数重に及ぶ厨子に固く錠をかけ、絶対秘仏として寺の住職でさえも尊容拝見を慎んでいる。なお、ご本尊の大きさを「一寸八分」(約5センチ)と伝える書もあるが、これは江戸時代以来の俗説の一つである。

(本尊は絶対秘仏で公開されないため真実はわからないんだそうな。

 江戸川柳にも、

 小兵でも坂東一の菩薩なり、
 小粒でもこれ見てくれの大伽藍、
 浅草寺のご本尊は一寸八分(約5.5センチ)、

 そんな小さなご本尊様だが 伽藍は大きい)

観音堂が焼けた承暦の火災から70年ほどのち、この折の霊験を聞いた源頼朝の父義朝が、浅草寺に観音像を奉納した。その像は、ご本尊が難を避けるために飛び移った大榎でつくられたものと伝わる。現在も「榎観音」として伝来し、毎年1月に執り行なわれる「温座秘法陀羅尼会」のご本尊として拝まれている。

東京大空襲のとき、ご本尊は前もって本堂の真下、地中約3mのところに埋めた青銅製天水鉢(淡島堂境内に現存)の中に安置されていた。これにより本堂焼失にもかかわらずご本尊はご安泰であった。

(中央に秘仏本尊を安置する宮殿(くうでん))

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寛永2年(1625)、江戸上野に寛永寺が建立された。徳川幕府の安泰と万民の平安を祈願するための寺で、第3代以降、歴代山主(住職)に皇室から法親王輪王寺宮と称される)を迎え、仏教界に君臨した。
貞享2年(1685)、時の浅草寺別当忠運上人が、5代将軍綱吉の不興をこうむったという理由で退寺の悲運に遭う。以来、浅草寺寛永寺支配下に組み込まれた。元文5年(1740)からは輪王寺宮自身が別当職を兼ね、その代理人である別当代(副住職)が実質上の総責任者として浅草寺を統括した。寛永寺による支配は幕末まで続いた。

寛永寺支配下だったとは、初めてしりましたね)

本堂の北西に建つ、寄棟造りの堂宇が影向堂である。現在の影向堂は、平成6年(1994)に浅草寺中興開山慈覚大師円仁さまのご生誕1200年を記念して建立された。
 堂内は内陣と外陣に分かれ、内陣の須弥壇中央には聖観世音菩薩を祀り、その左右に千手観音、虚空蔵菩薩文殊菩薩普賢菩薩勢至菩薩大日如来不動明王阿弥陀如来を祀る。
 また、外陣には浅草名所七福神の大黒天を祀っている。影向堂は当山の朱印所であり、参拝証としてご本尊の聖観世音菩薩と大黒天のご朱印をお授けしている。

影向堂の南に建つ、三間四方の堂宇で「橋本薬師堂」と呼ばれている。当初の薬師堂は本堂の北側にあったので、「北薬師」と呼ばれていたが、慶安2年(1649)、三代将軍徳川家光が本堂の北西に再建。

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浅草は時代とともに拡大していく江戸市街地として吸収され、参詣・行楽・歓楽を目的とした人びとがあふれる江戸有数の盛り場になった。水茶屋の看板娘たちは、しばしば浮世絵の主人公にもなった。また、見世物小屋が立ち並ぶ観音堂の北西は「奥山」と呼ばれ、松井源水の曲独楽、深井志道軒の辻講釈、長井兵助の居合抜、柳川一蝶斎の手妻(奇術)など数々の興行が参詣人を喜ばせた。
こうした名人芸は江戸中の評判となり、将軍だけでなく、その家族、大名、さらには輪王寺宮も折にふれて参詣し、奥山の妙技見物を楽しむこともあった。

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明治維新後、時代の激しい波は浅草寺にも押し寄せて来た。浅草寺の寺領は太政官布告によって公収され、東京府の管轄となった。
江戸期に奥山で興行していた見世物小屋は、旧火除地を埋めて新たに造成された6区へ移転した。

盛り場の流れを継いだ6区には、明治の終わり頃から映画館が林立し、東京屈指の歓楽街が形成されてゆく。また、明治23年(1890)には、浅草寺の西側に、日本初のエレベーターを備えた凌雲閣(通称「十二階」)という展望塔がつくられて、世間の注目を集めた。
浅草寺を中核とする浅草は、明治・大正・昭和にかけ、時代を先取りする街として大いに活気を呈していった。

大正時代の関東大震災でも仲見世は全焼しながらも、主要堂宇は奇跡的に火難から逃れ、境内に5万人もの人が避難して救われたという。しかし、昭和20年(1945)3月10日未明の東京大空襲では、諸堂伽藍もろとも本堂が烏有に帰した。

 

持参の案内本を読みながら、ゆっくりと境内内を歩き回りました。

まだまだ歩き足りない気持ちだが、途中で右手に折れて伝法院通りを回って、

街道へもどります。

 

伝法院は浅草寺の本坊であり、江戸時代初期の庭園からなる一画である。
 庭園は「廻遊式庭園」であり、歩むごとに景観の変化を楽しめる。寛永年間(1624~44)に、作庭家として著名な小堀遠州により築庭されたと伝わる
 平成23年(2011)に伝法院の庭園が国の名勝に、平成27年(2015)には「客殿、玄関、大書院、小書院、新書院、台所」の6棟が国の重要文化財に指定された。一般公開はしていないが、不定期で特別公開されることがある。(案内本より)

 

60年以上前の高校の修学旅行で東京へは来ているが、学校としては来た記憶がないのは、まだ本堂が再建中だったからかな。

でも、宿が上野付近だったからか、先輩に連れられて自由時間の日に仲間のグループ

6人と来た記憶がある。
浅草寺には寄った記憶はないが、浅草寺の周辺にあった遊園地「はな屋敷」へ行き

子供のように遊んだ写真が残っていて、そして近くの国際劇場で松竹歌劇団のレビューを見た記憶があるのはグループに女生徒がいたからな。
松竹歌劇団といえば当時はすでに引退し、映画プデューサーやTV界で活躍をし、

あの石原裕次郎を世に出した水の江 瀧子、下町の太陽・賠償千恵子

一時はあの美空ひばりも研究生とかで在籍していたはず。

そうそう、今も現役の草笛美津子も松竹歌劇団の出身だたったのでは。

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 プリントしてきたマップで花やしきや、元国際劇場だった場所(浅草ビューホテル

を確認、国際劇場(赤丸)のあった通りはその名は今も国際通りで、首都圏新都市鉄道の「つくばエクスプレス浅草駅」がマップに記されてる。

建て替えてすっかり立派になった浅草公会堂の横を回り道しながら
ぶらぶら歩き、雷門前から街道へ復帰。

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カミさんも子供のころ一度は来た記憶はあるそうだが、子供たちと来た時のことしか

覚えていないだって。

そうそう、浅草と言えば祭りは「三社祭

今年の祭りは、コロナ騒動で、令和2年 10月16日・17日・18日に延期予定」と

報道されていた。

浅草神社の氏子四十四ヶ町を中心に5月の3三日間行われ、江戸風情を残しつつ、

約180万人以上の人出を数える日本を代表する祭礼の一つ。
江戸風情の残る下町浅草が1年でもっとも活気付くと云われ、東京の初夏を代表する

風物詩の一つになっている。

延期とはいえ祭りが催されたら秋には是非に、来たいもんです。

そんなお喋りしながら、小一時間も散策を楽しんで雷門前の100mほど先で左へ折れて街道は続いてゆきます。

正面、隅田川吾妻橋の先には、ビール会社の百周年記念で建てられたビル屋上に、

よく言われる「う〇こオブジェ」(何故か横飾りだが、炎なんですね)。

スカイツリーも良く見える。 

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正面に浅草松屋百貨店で、東武鉄道浅草駅。日光へ向かう伊勢崎線の始発駅。

最近はスカイツリーの最寄り駅があることから「東武スカイツリーライン」とも。

一度だけこの駅から日光へ行ったことを思い出した。

カミさんは3度ほど利用したことがあるそうだ、

建物を挟んで二股に分かれた道は、浅草駅の右手が日光街道江戸通り

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東武伊勢崎線、右手ビルの谷間越しにスカイツリー

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ガードをくぐり100mほど先を左手へ入ると、「姥ヶ池之旧跡」「履物問屋発祥碑」などが置かれている「花川戸公園」で、説明板には、
「姥ヶ池は、昔、隅田川に通じていた大池で、明治二十四年に埋め立てられた。

 浅草寺の子院妙音院所蔵の石枕にまつわる伝説に次のようなものがある。
 昔、浅茅ヶ原の一軒屋で、娘が連れ込む旅人の頭を石枕で叩き殺す老婆がおり、

 ある 夜、娘が旅人の身代わりになって、天井から吊した大石の下敷きになって

 死ぬ。それを悲しんで悪行を悔やみ、老婆は池に身を投げて果てたので、里人は

 これを姥ヶ池と呼んだ」とあった。

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街道に戻り、次の信号が言問橋西で五差路二股となり、街道は隅田川沿いから離れ、

左手に吉野通りと名を変えて続きを千住宿へ向かって北上します。

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言問橋越し正面にスラリとスカイツリー

(青空が広がってきた、寄り道して上ってもよかったかな)

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浅草七丁目を過ぎ、言問橋交差点から500mほど歩むと、 

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かつては北区王子の音無川を通り、隅田川に流れる水路だったが、
現在は公園として東西にきれいに整備されている、山谷堀(さんやぼり)。

左てへ行くと大遊郭だった新吉原。

江戸の人々にとって、この山谷堀を猪牙舟(ちょきぶね)に乗って新吉原へ向かうのが大変贅沢だったそうな。

(かっての吉原は人形町にあった) 

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堀跡の公園内を東、隅田川方面へ入り、さらに左手に行くと今戸神社がある。 

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今戸神社は、源頼義と義家が奥州安倍氏征討の折に、戦勝を祈願して京都の
石清水八幡宮を勧請。「下町八福神」の縁結びの神で、

観光人力車で来た、若いカップルがお参りをしていた。
境内には、新選組一番隊隊長「沖田総司終焉之地」と刻まれた石碑がった。

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街道に戻り吉野通り(日光街道)を北へ5分ほど歩いたころ、ふと上を見上げた

カミさんが「靴の専門学校のようね」と看板をみつけた。

そういえば、何故か通りには革製品を扱う店や仕事場らしい家が多かったし、

浅草は日本での靴製造の発祥の地、とも言われてたね。

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(旅から帰った後、図書館で見つけた本があった。またまた長いが引用)

「士・農工商・穢多非人(しのうこうしょうえたひにん)」と言われる、江戸時代の封建社会身分制度である。階級社会の社会的秩序を維持・強化するために作られ、江戸時代に入り、よりいっそう徹底された差別的身分制度とされる。そのなかの封建的身分のなかに、穢多・非人(えたひにん)を主とする賤民身分が存在したのである。

穢多非人(えたひにん)の人々の仕事としては、農民が捨てた病死した牛馬を回収して処理をし、その肉を食べて生活し、その牛馬の獣皮の加工などを行い革製品の仕事を営む。また刑吏、捕吏などの下級警察のような仕事や、草履づくり、販売などをしていたとされる。

では穢多(えた)と非人(ひにん)の違いとは何か。
「非人」は元来「人非人」つまり「世捨て人」のことを指し、そしてやがて「賤民」(貧しいひと)を指すようになり「穢多」と混称されるようになるが、江戸時代に入り「非人」と「穢多」は厳しく分けられると、「非人」は「良民・平民」のなりさがりの位置づけとなり、「銭」を少し支払うことで良民・平民への復帰路が用意されていた。

穢多が最下位身分の意味とは、牛馬(動物)を解体加工処理するという、仏教の教えに背いた行為で生活をする民なので差別の対象、そして、最下位の身分となったとされる。これが穢多(えた)と非人(ひにん)の違いなのだ。

「非人」には二種類あり、「抱非人(かかえひにん)」と「野非人(のひにん)」とに分けられ、「野非人(のひにん)」とは、現代で言われるいわば「路上生活者」「ホームレス」のことである。これは農村部で病などにより年貢を納めることが不可能となった者が江戸へと流れ入った、「無宿者」であった。この者たちを特定の区域で生活させた、

「抱非人(かかえひにん)」とは、
(1)姉妹、叔母、姪と密通(不倫)をした者
(2)相対死(男女の心中)で生き残った者
(3)主人と下女の心中で生き残った主人
(4)15歳未満、無宿の子供で盗みをした者

このような罪を犯した「抱非人(かかえひにん)」ならば、家族などの親類縁者が「銭」を支払うことで「平民」に戻ることができた。現代の「釈放金」と同じようなものである。
そして非人(ひにん)は、生計をたてるための「物貰い」「物乞い」や遊芸をするなどの独占権利を持つことや、復帰路の用意などと優遇されることで「穢多」との違いを設けられ、「穢多」よりも上の位に置かれていた。これも穢多(えた)と非人(ひにん)との違いである。また江戸時代には、非人(ひにん)以外の身分の者が「物乞い」を行うとそれが罪とされた。

東京・浅草には革靴製造をはじめとする皮革産業に携わる企業が多数あります。浅草は「靴の町」として繁盛を極めた時代があり、今でも地場産業として活躍しています。

その大きな理由の一つに弾左衛門(1823~1889)の功績が上げられます。
弾の家は、鎌倉時代から続く名家で、代々時の権力者から皮革取締りの特権を与えられていました。徳川幕府関八州(武蔵、上野、下野、常陸、上総、下総、安房、相模)をはじめ甲斐、伊豆、駿河陸奥を加えた十二カ国の皮革取締りの特権を許可しました。明治維新後も、その特権は従来どおり維持され、大きな勢力を誇っていました。弾は浅草亀岡町(現在の台東区今戸)に千坪以上の広大な邸宅を構え「直樹役所」と称していました。事実、その職権は町奉行に隷属し、その職を助け、関八州の町里を司り、自ら牢獄を備えて悪徒を収監する権がありました。屋敷の広大さは大名屋敷並といわれ、加えて三千石の収穫が上がる田地を所有していたのです。
江戸時代の履物といえば草履や下駄。皮で作られた靴が一般化したのは、明治以降の話です。
とはいっても、それまでも日本では、馬具やステイタスを醸し出す服飾品など、特別な用途に使われるべく、高い技術が培われてきました、
皮取締の特権を持った弾左衛門(後の弾直樹)は、明治を迎えたあとは、軍靴の需要が伸びると見込んで、靴製造の修伝所を作りました。
精力的に、皮・靴加工技術者の養成を行い、数百人の靴職人が浅草から巣立って行きました。
(この名残から、浅草は靴屋が多く、靴の町と呼ばれてもいたんですね。)

 日本の靴に歴史あり、か。

 さらにすぐ先の街角に建つ白いビルの屋上に、ドーム型の屋根が乗っかている。

壁に描かれた絵から、イスラム教のモスクのようでした。

今は日本にも多くの回教徒が住んでるそうで、お祈りのモスクはTVでも

時折報道がありますね。

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過ぎて一本先の小路を左手に入ると、門は閉まっているが浄土宗・広徳寺。

さらに左奥には寛永5年創建ともいわれる、同じく浄土宗の春慶院で、

奥には福徳子育て地蔵尊

境内墓地に吉原の花魁2代目高尾の墓がある。

街道書では、「高尾」は吉原の代表的名妓が襲名した源氏名で、この2代目は

仙台藩主・伊達綱宗が贔屓し、仙台高尾とも呼ばれた。

 芝居や落語では伊達綱宗に斬殺されたと演じられてるが、結核でとの説もある、

とある。

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向かいにはやはり浄土宗の道林寺が建ち、春慶院の左の小路を北へ入ると、

永元年(1624年)に、哲州和尚を祖として創建した曹洞宗東禅寺

正面には、東京都の指定有形文化財、宝永7年(1710年)造立の江戸六地蔵

1つ、「銅造地蔵菩薩坐像」が鎮座しています。

地蔵尊は街道を向いて祀られていて、現在は家屋やビルが建ちならんでるが、

江戸時代は奥州街道日光街道沿いにあり、1928年(昭和3年)に現在地に移転し、

本堂はお寺とは思えない鉄筋コンクリート製に作り替えられた。

江戸六地蔵の内、品川寺東海道)、真性寺(中山道)は拝観したので

残り3地蔵もいつの日かに。

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そして、正面左側には製パン会社(株)木村屋總本店の、日本初の「あんパン」を

創作した木村安兵衛・妻ブナの夫婦像が立っています。

良く知られる、銀座四丁目にて現在も盛業の(株)銀座木村屋は、

同じルーツの分社化された会社で、木村家としての運営だそうな。

 我が家の隣町に大きな工場があるので、馴染みのパンメーカーなんです。

檀家だったのかな?

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街道に戻る途中のに路地奥に、赤いのぼりをカミさんが気が付きました。

幟には南無馬頭観世音菩薩と書かれていて、街道書を見ると駿馬塚でした。

康平年間(1058~65年)頃、源義家陸奥へ向かう際、この地で愛馬が絶命し、この地に葬ったという。 江戸名所図会にも描かれていた、とも記されてます。

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気温がジリジリ上り、マスク着用なので日陰を選んで歩きますが、またく風が

無くなり、ムシムシ感がかなり強まってきました。

旧街道の吉野通りへ戻り、北へと向かいます。

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途中自販機のあった日陰で、マスクを外して小休憩とゆっくり足を進めると、

明治通りとの交差点が泪橋の交差点。

川が流れていた面影は全くなしの明治通りだが、かっては石神井川用水の支流の

思川が流れていて、先にある小塚原の刑場に護送される罪人と身内とが別れの涙を

ながしたとの由来で、東海道の鈴ヶ森刑場手前の品川宿にも同じ呼び名の橋があった。

よく街道筋ではかって川が流れて橋があったとこには、石などで欄干のモチーフが置かれてるが、まったく見当たらない。

街道書に記載がなければあっさり通り過ぎてるでしょう。

今の60~70代には、山谷と言えば少年雑誌に記載され大人気となった

漫画「あしたのジョー」を思い出し方も多いようで旅日記などでもよく書かれてる。

東京の下町にあるドヤ街を舞台にし、主人公である矢吹ジョーがボクシングのトレーニングをするのが丹下ジムで、泪橋の下にあるという設定になっています。泪橋は漫画の世界の中の架空の存在はないでね。東京都荒川区台東区の区境にある交差点に現在でも「泪橋」は実在しています。

TVアニメでは木造橋を、ジョーが渡って山谷へやってくる場面があった、

と覚えてるかもしれませんね。その木造橋が泪橋なんだとか。

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泪橋交差点に立ち、思い出しました。

札幌勤務から戻ってきた昭和40年代前半頃でしたが、一帯は当時「山谷」と

呼ばれていた簡易宿所の密集地域で、大阪の釜ヶ崎と並んで、よく騒動などが

報道されていた。

かって一度だけ社用で来たことがあったが、怖い街の知識で早々に済ませて退散した

記憶がある。確かに昼間から酔っぱらた労務者たちがたむろしていたね。

さっき通って来たのは山谷堀で、あの付近一帯から昔は山谷で呼ばれていたんだ。

現在は町名としての山谷表記は消滅したようで、通りには外国人バックパッカー向けの宿泊施設が多くみられ、コロナ騒動前は多くの海外の人々でにぎわっていたようです。

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コロナで人影もないが、またにぎやかな街並みを取り戻してほしいもんです。 

なんて、あれやこれやお喋りしながら進むと街道は二本の鉄道線路で寸断。

車は地下へもぐって鉄道を越え、人や自転車は渡架橋で越えてゆきます。

高架はふたつ並び、手前が東京メトロ日比谷線で、つながって高架でJR常磐線

高架を降りると右手が南千住駅でした。

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街道は直進で続き、予定は先の千住宿でしたが、カミさんの足取りがいつもと違って

重たそう。

時刻も午後の3時を回っているし気温湿度も高い、と、まだ8kmくらい、寄り道勘定でも11kmくらいしか歩いてないが、今日の旅はここで足止めに。

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 大震災、大戦の空襲と焼き尽くされた地域のため、歴史ある建物、史跡物などは

全く残っていない街道ですが、再建や案内板でしめされた街道筋。

のんびり、時代を振り返りながらの旅、いいもんです。

さ~て、先へ歩ける日ころにには県外お出かけも解禁になる日だろうが・・・

  またの日を楽しみに。 PM3:30 電車に乗った。

コロナ、完全に治まってくれ!! 旅立ち編、おわり。