歩いて再び京の都への前に 日光道中二十一次 街道散歩(第三歩)

 2020年10月14日は、3か月振りに街道へ復帰。

南千住から竹の塚駅入り口まで歩いた。

はや1週間が過ぎ、カミさんの内職も手すきになった21日、

お天気はよさそうだから行ちゃおうかで、のんき夫婦はお散歩街道へ。

2020年10月21日(水) 街道散歩の第三歩。

前回と同じ時間のバス、電車を乗り継ぎ乗換駅の新越谷駅へ。

まずは駅中のカフェで朝のコーヒータイムを採り、東武線へ乗り換えて

AM10:20時竹ノ塚駅へ。

AM10:30 駅前で出立ショットを写して、街道へと向かいます。

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むかし55年ほど前に一度だけ来たことがあった竹ノ塚。

左右に都営住宅、旧公団住宅の5階建てアパート群が並ぶ通りを東へ進み、

「来た頃は大規模団地の走りっだった・・・」

「なんだか歩いてるのは我々と同じくらいの方が多いね~」

「団地はエレベーターがなさそうのが多い、年寄りはかえってか足腰が丈夫?」

なってキョロキョロおしゃべりして歩いてたら、あれ、国道4号へ出ちゃったぞ!

なんと400mも通り過ぎていたんだ・・・先が思いやられるね・・・

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ちょうど通りかかった自転車巡察中のおまわりさんにお聞きしたら、

次の交差点のすぐ先を斜め左へ行けばいいと教えてもらい、戻らずに先へ。

教えていただいた横道を行くと突き当たった道に左手に目的の神社があった。

ありがとうございました。

突き当たったこの道は保木間町で、街道書では日光街道から保木間小学校裏手側を

通り、千葉県流山市へ続いた、江戸の昔から流山道と呼ばれた古道だそうです。

先左手に保木間氷川神社があり、案内文は、

この神社は旧保木間村の鎮守で、淵江領を支配の千葉氏の陣屋跡。

守護神の天神社を祀り、祭神として、須佐之男命、豊受姫命菅原道真を祀る。

当社の創建は明らかではないが、中世この地は関東の豪族千葉氏の陣屋跡と伝えられ、

江戸時代、保木間・竹塚・伊興三村の鎮守は、もと伊興氷川社で、明治の初め当社も

そこに合祀されたが明治5年分離して、社名を氷川神社と改め保木間村の鎮守となった。
保木間の地名は、平安期末に西国の武士が木の柵を設け、田畑を起こしたことによる。

またこの地域では、古墳時代の土師器や鎌倉期以降の板碑などが多く出土している。
(平成元年1月 足立区教育委員会

 

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二の鳥居は大変古るそうでした。

造立年月日が彫られていたが風化して判別できず、〇徳年の文字がわずかに読み

取れました。

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拝殿、ご本殿。

本殿裏に祀られてる榛名神社富士塚ではないようです)

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ユニークな狛犬

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脇宮の疱瘡大神は天然痘に霊感あらたかという、と記されてます。

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脇宮の隣に天宇受売命 (あめのうずめのみこと)像が祀られてました。

天岩戸の前で踊りを踊った命ですね。

以来芸能 ・習い事及び水商売の神として広く信仰を集め、特に芸能関係や婦人病にも

御利益があるといわれ敬われていいるそうです。

像が建てられてるのは珍しいかな?

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神社前を通る細い道は「流山道」の説明版が立っていて、

「本説明版の前(保木間氷川神社前)を東西に走る小道は、江戸の昔から流山道と

 呼ばれた古道である。

 保木間日光道中からわかれ、南花畑、内匠橋、六木を経て流山に向かう。

 戦国時代の武士・千葉氏の陣屋があったと伝えられていることから、道の成立は

 戦国時代以前にさかのぼると考えられる。

 この道を東進すると花畑大鷲神社成田山と結んでおり、西に進むと

 西新井大師総持寺に通じる親交の道でもあり、ここから太子堂・成田道という

 別称もある。

 なお沿道には保木間の旧家の多くもこの道に沿って建っており、地域の歴史を

今に伝える。」(足立区教育委員会

と記されている。 

 神社を後に保木間小学校脇を通り約30分のロスをして、ようやく旧街道へ戻って

きました。

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街道の左手奥の正面に見えるお堂は十三仏堂で、街道書には

行基作と伝わる虚空蔵菩薩を安置している。

厨子内の飯綱権現像は、幕末-明治時代の仏師,彫刻家、高村東雲の

明治6年(1873年)の作、とある。

左手の小さなお堂については案内板にも記載なく不明。

お堂内が暗く仏像は全く見ることはできなかった。

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500mくらい先で一旦斜め右に入り弓なりに200mほどで都道に戻る。

すぐに、「法華寺」があり境内に「百度石」が置かれ、無縁塔が建ってる。

この寺院は、小塚原刑場の刑死者の菩提を弔っていた。

天保6年(1835)の起立。安政3年(1856)の暴風雨、大津波(?)で大破したが、

元治元年(1864)に中興15世玉真院日琢が小塚原法華庵として再建。

江戸時代に小塚原刑場の死刑囚の菩提を弔う寺であった。
 大正12年市電設置により赤羽岩淵に移転し、15年に陸軍砲兵工廠設立のため現在地に移転した。昭和22年に法華庵を現寺号に改称した。

(寺縁起より)

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本堂前に枝先の花黄色みを持った変わったモミジ(カエデ?)を見つけた。

まだ青々とした色合いだが紅葉、黄葉はするのかな?

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さらに進んで国道4号の高架下を過ぎたすぐ左手に、退治された蛇を祀ったという

水上宮があり、その先で国道4号から分岐してきた都道に合流し、

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左手すぐが毛長川で水上神橋が架かり、東京都から埼玉県へと入り県道49号となる。

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しばらく行くと東武鉄道谷塚駅入り口交差点で、富士(瀬崎)浅間神社があり、

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神社はこのあたり瀬崎村の総鎮守で天保13年(1842年)の再建である。

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本殿裏手に庭園と富士塚がった。

江戸時代に盛んになった霊山富士山に対する信仰の方便として、各地に造られたという富士塚が築かれている。

一般に地域における富士山信仰の集まりは「冨士講」と呼ばれるが、この辺りの

瀬崎村では「冨士行」といい、この富士塚は大正5年(1916年)竣工

と新しいものである。

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先隣りが真言宗・善福寺で山門前に元禄4年(1691年)と正徳3年(1713年)

建立という青面金剛庚申塔が建ち、

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境内には元禄4年(1691年)造立という大変古い六地蔵があり、

江戸時代やそれ以前と思われる年号が刻まれた、時代を感じさせる墓石などもあった。

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10分ばかり歩くと「火あぶり地蔵尊」がある。

奉公中の娘に母危篤の知らせが届き、主(あるじ)に暇を願い出たが許されなかった。娘は、家が火事になれば店が休みになり家に帰れると思い込み放火をしてしまう。

捕らえられた娘は、火あぶりの刑となった。哀れに思った村人たちは娘の供養のため

地蔵を祀ったとの言い伝えがある。

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 お堂脇の石塔は街道書では、弘化5年(1848年)建立の馬頭観音とある。 

f:id:hansui:20201022132358j:plain地蔵尊から10分ほど、「せんべい」の看板が増え始めた

写真左の草加煎餅のいけだ屋は、旧日光街道を挟んで反対側に 「おうめだんご」

という屋号で茶店を営み、煎餅屋としての創業は江戸末期の慶応元年(1865年)

からとのこと

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先に二股で、右手の角に「今様草加宿」の碑があり、街道は草加宿へと入った。

草加市では「住んでよく、来てみて楽しいまちづくり」をコンセプトとする

「今様・草加宿」事業推進計画を、平成17年度に策定し事業を進めたそうです。

 

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(ただ残念ながら日本橋からもですが、史跡、旧跡、名所への案内標識(矢印標識)

がほとんどないんですね。可能な限り詳しい街道書や現代IC機器などで確認が

必要です)

左手の埼玉屋旅館を過ぎて、草加市役所(工事中)があり入口に地蔵堂が祀られて

いる。  街道書によると、

市役所の広い敷地は幕末から明治にかけての豪商大和屋跡。主の浅古半兵衛は

江戸店をだし、全国二位の質屋を営んでいた。地蔵堂には大和屋敷地内にあった

もので、「子育て地蔵菩薩立像」を安置している、とある。

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古くて趣のある建物が残る通りを行き、右手に飯盛女の墓が有ると街道書にある、

元禄14年(1701年)創建の浄土宗・回光院を見ながら行くと

 

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先には、「草加神社社票」が立っている。

寄りませんでしたが、草加神社はここから西に進み東武スカイツリーラインを越えた

先にあり、旧称氷川神社

街道書には、

武蔵一の宮大宮氷川神社から分霊し南草加村の鎮守としたことに始まる。
1909年(明治42年草加の町にある11社を合祀したことに伴い草加神社と社号を

改称し、本殿は市指定文化財、だそうです。

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100mほど先の草加駅入り口の交差点角には、植え込みに隠されて、

正面に日光街道、側面に葛西道と刻れた道標があり、

 右手に入って左手小路奥に、火伏盗賊除け守護神という三峰神社が祀られていた。

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交差点向こう角には、大正8年に公布された道路法施行令で設置が義務づけられ、

埼玉県が設置したと思われる「草加町道路元票」「埼玉県」と刻まれた

「道路元票」が置かれている。

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日光街道・第2宿 草加宿中心街へ入る。

天保14年(1843年)日光道中宿村大概帳によ 

千住宿より二里八町、約8.8km 本陣1、脇本陣1、旅籠六十七軒、

宿内家数二千三百七十軒、宿内人口三千六百十九人

旅籠数からみても、にぎわった宿場町だったようです。

 

近世初頭、江戸と奥州各地とをつなぐ街道は、千住から越ヶ谷まで河川に沿って大きく迂回をしていましたが、交通量の増加によって幕府は千住・越ヶ谷間を最短で結ぶ新道を整備し、その中間に近隣の村々からなる新しい宿の設置を命じたのが草加宿の

はじまりです。また、このとき整備された街道が日光道中です。

一説には慶長11年(1606年)、宿篠葉村(しゅくしのはむら)の大川図書という

人物が刈り束ねた草を土につき固めて街道を造ったのが、日光道中草加宿の始まりともいわれてもいます。

寛永7年(1630年)、幕府の公認を受け正式に伝馬宿(てんましゅく)と認められた草加宿は、その後参勤交代(さんきんこうたい)や日光社参、さらには一般旅人の往来もあって大きな賑わいをみせるようになりました。
元禄2年(1689年)には松尾芭蕉が「おくのほそ道」の旅で草加宿に歩みを残したのをはじめ、伊能忠敬渡辺崋山など多くの文人らの通行によって、「街道文化」ともいえる独特な文化を創り出していきました。
また、綾瀬川・中川などの河川は、周辺の村々で生産された農産物を江戸に運ぶことにも活用され、荷積み・荷揚げに用いられた河岸(かし)もにぎわうようになっていきました。
その後宿場北端の街道沿いには松が植樹され、それはやがて街道を行き交う旅人に草加松原として知られるようになりました。

草加市HPより)

 

天明4年(1784年)と明治3年(1870年)の二度にわたる大火で宿場の

家並みは焼失してしまったため、往時の草加宿を偲ぶ建物などその面影は

残されていないです。

先に進むと右手に八幡神社がある。

草加宿下三町の鎮守え、獅子頭一対は市の有形文化財に指定されている。

この雌雄一対の獅子頭は、高さ83cm、幅80cm、奥行87cmもあり、

大型で重量もあり、獅子の胴衣をつける穴もなく、獅子頭として山車に乗せて曳き

神幸に供奉したといわれる(獅子頭フォットは借用です)

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大きな獅子頭といえば、何回か祭りに行った茨城県石岡市の荷車幌付き獅子頭

思いだしますね。これより大きな獅子頭も舞っていたな・・

(石岡の獅子頭

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八幡神社のすぐ隣に藤代家住宅がある。

草加宿の典型的な町屋景観を今に伝え、街道に面して木造二階建ての住宅店舗で、

建物は昭和初期の商家造りの建物で、1階を店舗とした2階建てで、間口は狭く、

奥行の深い町屋造りの面影を残している。奥には、土蔵造りの内蔵、

明治初期に建築された外蔵が残っていて、国登録の有形文化財に指定されている。 

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その先が問屋場跡で明治44年建立の道路元票が立っている(写真右)。

元票の表には「千住町へ貮里拾七町五三間三尺・越谷町へ壱里三拾三町三拾間三尺」、左側面には「距 浦和町元帳四里貮拾町拾三間三尺・距 栗橋官かつ境拾里拾三間五尺」、右側面には「谷塚村官かつ境貮拾四町貮間三尺」と彫られている。

道路を挟んだ向かいには「三丁目橋」と刻まれた石は、街道書によれば、

草加宿の日光街道には3つの橋が架かっていて、三丁目橋はその内の一つで、

その残ってる親柱石だそうな。

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先へ行くと、左手マンション前に「大川本陣跡」、右手に「清水本陣跡」の碑が

立っている。

説明板によると、

大川本陣は宝暦年間(1751-63)まで本陣を務め、

清水本陣がその後本陣職を譲り受け、明治初期まで本陣を務めた。

清水本陣には、会津藩の松平容頌、仙台藩伊達綱村盛岡藩の南部利視、

米沢藩の上杉治憲(鷹山)らが休泊した記録があります。
近くに脇本陣も置かれ、参勤交代の往復にその役割を発揮しました。
本陣は、門、玄関、上段の間がある所が一般の旅籠と異なり、昭和初期には

まだ塀の一部が残っていたと伝えられています。

当主は、名主や宿役人などを兼帯していました。

(「今様・草加宿」市民推進会議)とある。

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しばらく行くと道路の左奥に、慶長11年(1606年)草加宿の開祖・大川図書

の創建という、主祭神は素盞嗚尊の氷川神社がある。

旧南草加村渋沼の鎮守であったが、明治42年(1909)頃、小学校敷地の拡張に伴い

此の地に遷宮された由。

f:id:hansui:20201022162503j:plain右道路向かいに「おせん茶屋」と名付けられた公園があり、茶屋を模した東屋前に

日光街道碑が建っている。公園の名前は、草加せんべいの伝説上の創始者 「おせんさん」 に因むという。

おせんさんは、草加せんべいの生みの親で、茶屋を営むおせんさんが売れ残った

団子をつぶして天日に干し、焼くといいと教えたのが「草加せんべい」の由来だ

そうだ。 

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草加煎餅を知ったのは高学年なってからだったですね。

故郷北海道で煎餅と言えば小麦粉の「南部センベイ」だった。

お米を原料とした硬い系の煎餅は、しばらく馴染まなかったような気がする。

f:id:hansui:20201022162719j:plainおせん茶屋公園から4~5軒先左手に、元祖源兵衛せんべいがある。
明治3年(1870年)に初代の源兵衛氏が新潟から草加に移り住み、

日光街道を往来する旅人に茶店を開いて日用品を売り始め、副業として

せんべいを焼き始めたのが始まりという。

店先に鮮やかな色合いで咲いていた、黄色のハイビスカス。 

カミさんが、いい色あい、家にもほしい・・・

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左手50mほど奥に、慶長11年(1606年)、草加宿開祖大川図書の創建し、

墓のある東福寺を見送り、

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安政年間(1854~1860)の建築とされ、安政2年の江戸大地震や明治3年の

大火も免れ、草加宿内では古い形式を伝える町屋建築旧久野家。

現在は旧久野家の店舗を再利用した無料の「休憩所草加宿神明庵」。

 

f:id:hansui:20201022170105j:plainそして神明庵の先の道が右カーブしたところに、神明宮がある。

与左衛門新田の名主吉十郎の祖先が、元和元年(1615年)に、宅地内に

屋敷神として創建されたご神体を、正徳3年(1713年)に現在地へ遷され、

草加宿の総鎮守となったといい、現在の社殿は弘化4年(1847)に再建されたもの。

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その先の県道49号との合流交差点、左手の小公園はおせん公園で、

草加せんべい発祥の地」と刻まれた大きな石碑が立ち、おせん茶屋公園と同じく、

草加せんべいの伝説上の創始者 「おせんさん」 からきている。

おせんは草加宿で茶屋を営む女店主で、「売れ残った団子はつぶして天日に干して

焼くといい」と教えられ、焼き餅として売り出すと大評判となり、草加宿の名物に

なったという。

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  交差点右手には芭蕉の門人で

奥の細道随行し「曽良旅日記」の著者である河合曽良の像が建っている。

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 交差点を左折してすぐに伝右川に架かる橋を渡って右側は、綾瀬川沿いの

札場河岸公園で、草加松原遊歩道の入口でもある。

 札場河岸公園には、木造五画形の望楼が復元されている。
望楼の上に見張りを置いて、火事の発見に努めていたそうだ。

望楼のすぐ横に、奥の細道に旅立ち、同行の河合曽良を気遣って振り返るとの

説がある、芭蕉の像が立つ。

 

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奥の細道」は草加から日光、白河の関から松島、平泉、象潟、出雲崎、金沢、敦賀と東北・北陸の名所旧跡をめぐり、美濃大垣に至る600里(2400Km)、150日間の壮大なものでした。
その奥の細道によると、芭蕉は荷物の重さに苦しみながら草加宿にたどり着いたらしいです。

そこには「札場河岸跡」も復元されている。

札場屋・野口甚左衛門の個人所有の河岸で江戸との舟便が盛んであった

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公園は草加松原遊歩道の起点になっている。

綾瀬川に沿った遊歩道は江戸の昔は「千本松原」とも呼ばれ、

日光街道の名所だったそうで、 昭和40年代に200本まで減少したものを

市民の力で再生し、現在は綾瀬川沿いの約1.5Kmに600本の松が植えられ、遊歩道と

して整備されている。

 

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 日本の道百選・日光街道と彫られた大きな石碑も置かれている。

この碑は、埼玉県の県土を縮尺37,000分の1で形どり表現してる由。

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すぐ先には「矢立橋」とかかれた太鼓橋がある。これは「奥の細道」の一説

「-行く春や鳥啼き魚の目は泪―是を矢立の初めとして、行く道なをすすまず」に

因んで命名された。

矢立(やたて)とは江戸時代の筆記用具で、筆と墨壺を組み合わせているので、

旅行中でも即座に筆が使える携帯筆記用具。

子供の頃に家にはあった記憶がある。

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歩道に沿って流れる綾瀬川は大雨のたびに川筋を変える所から「あやし川」と呼ばれていたが伊能忠次によって堤が整備され川筋が安定した。

綾瀬川は、やがて隅田川に出会い江戸に通じる重要な水路であった。

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遊歩道の松並木は天和三年(1683)関東郡代・伊部半右衛門が植栽したもので当時は「千本松原」と呼ばれた名所であった。

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 綾瀬川を渡るハープ橋、

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過ぎてすぐに名勝碑が置かれている。

この碑は、「名勝 おくのほそ道の風景地 草加松原」 と刻まれており、草加市

ゆかりの深い日本文学研究者で文化勲章受章者のドナルド・キーン氏の揮毫による

もので、碑の手前には、おくのほそ道行程図が刻まれたプレートもある。

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その先、「百代橋」と名付けられた「矢立橋」と同じような太鼓橋がある。

その手前に「橋名由来・月日は百代の過客にして行きかふ年も又旅人也」と芭蕉奥の細道碑が置かれている。

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太鼓橋の上から西を望めば、東武スカイツリー線・獨協大学前駅

かっては草加松原駅と言っていた。

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 続いて「松尾芭蕉文学碑・ことし元禄二とせにや・・・・其日漸(その日ようよう早加(草加)と云う宿にたどり着きにけり」と奥の細道の一説の碑が置かれている。

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 子供も水遊び出来そうな浅い小川の流れがあり、先に綾瀬川を渡る

東京外環自動車道の高架が見えてくる。

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少し歩むと草加松原北端の標識が現れる。

つい最近新たに建て直されたようで、かっては草加宿入口に建っていたものと同じ

「今様草加宿碑」が建っていた由。

札場河岸から1.5kmの標識も立てられ、風情ある街道松並木を後にする。

f:id:hansui:20201023052958j:plain名残惜し気に振り返りの草加松原

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やがて東京外環道に突き当り外環道の下をくぐり、そのまま綾瀬川沿いに日光街道

直進する。

外環道手前左手の祠に、水神、青面金剛庚申塔、寛政7年(1795年)建立と

伝わる、馬頭観世音像(右)が安置されていた。

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そこで気が付いた。

草加松並木が終わって続いていたのは桜並木だった。

帰宅後調べると平成6年に植栽されたまだ若い桜並木でした。

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ガードを抜けると左手壁面に、「やっとの思いで草加宿にたどり着いた芭蕉

曽良の旅姿」というタイル絵が描かれていた。

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そのままかっては茶店などが立ち並んでいたといわれる」綾瀬川沿い茶屋通りを

槐土橋(さいかちどはし)を過ぎて日光街道は直進する。 

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 その先左手に「金明愛宕神社」があり、さらに先へ行くと江戸時代には土橋であった

綾瀬川に架かる蒲生大橋を渡る。 

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草加と蒲生との境橋

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 蒲生大橋の渡り詰め右手に「蒲生の一里塚跡」がある。
往時は街道の東西に一基づつ設けられていたと云われるが、現在は東側の一基だけが

残っている。

埼玉県内日光街道筋に現存する唯一の一里塚であるという。

ここには文化年間(1804-18)幕府が編さんした 「五街道分間延絵図」 に記されていた愛宕社、六地蔵尊(地蔵は8体あったが)などがある。

木立の低地で一里塚の盛り上がったイメージではなく、表示がなければ・・・・

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橋を渡って道なりに交通量の多い道を少し進んだが、カミさんが

「街道書ではこの道ではなさそう、橋を渡ってすぐは川沿いに少し進むようだわ」

といいだし、確かに間違っていたようだ。

日光道中は方向指示や案内標識が全く無い、と多くの旅文にもあるが、

本当にないんですよね。

一里塚から先はこれということもなく綾瀬川に沿って進み、先のY字路で川沿いの

道を離れて直進していく。  

札場河岸公園から続いていた綾瀬川とお別れし、かつては日光街道を往来する旅人や、藤助河岸から船頭達が集まり賑わった茶屋が、軒を連ねる立場があった、

という蒲生茶屋通りをたんたんと歩きます。

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しばらく行くと享保十三年(1728)建立の不動明王が祀られている。

台座には「是よりさがミ道」と刻まれた大聖寺(大相模不動)への道標を兼ねている。

並んで正徳三年(1713)建立の笠付青面金剛庚申塔が祀られている。

ここから日光街道を右に分岐する道は、越谷市相模町にある大聖寺大相模不動尊)への道で、大聖寺は不動坊が天平勝宝2年(750)に開基したと云われる古刹という。

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次の角に自販機があり、水分補給で一休み。

過ぎて気が付いたが、街道書には先左手に覆屋に安置された「ぎょうだい様」がある

と記されてたが、通り過ぎてしまったようだ。
鳥のようなかっぱのような、なんとも不思議な形をしているという。

「砂利道供養」 と刻まれていて、宝暦7年(1757)に日光街道の大きな修理があり、

修理の完成を記念して蒲生の人びとが建てたものだという。

道中の安全を願って草鞋を供えて祈ったという。

不動明王道標から15分ばかり行くと立派な冠木門を持つ清蔵院がある。

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越谷市有形文化財に指定されている山門は屋根など一部は改修されているが、

案内板には、

寛永15年(1638年)に関西の工匠によって建てられたものである。

山門の欄間に掲げられた龍の彫刻は江戸時代初期のもので、一説には日光東照宮

眠り猫で有名な左甚五郎作との伝説があり、龍が夜な夜な山門を抜け出して周辺の畑を荒らしたことから、これを金網で囲んでしまった。とあり、

山門を見上げると、確かに龍の彫刻は今も金網で覆われている。

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 やがて街道の蒲生茶屋通りは県道49号(旧国道)に合流し、車の流れも多い通りを

北へ進みます・

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蒲生駅入り口交差点手前左手に、街道書に「明治天皇田植御覧處碑」とある一角があった。明治9年奥州巡行の折り田植えをご覧になったところだそうです。

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蒲生駅入り口を過ぎて、たんたんと歩くこと約1km、20分ほどで、

今朝、JR武蔵野線から東武スカイツリー線へ乗り換えた新越谷、南越谷駅入り口。

時刻も夕暮れ近しの4:20.

竹ノ塚から約11km約4里弱、今日の街道散歩は足止めとし、家路へ。

綺麗な三日月を見上げながらPM5:30帰宅。

今日もまずは元気に歩けたこと、ありがたし。

さあて、この後のお天気はどうかな・・・第3回終わります。

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歩いて再び京の都への前に 日光道中二十一次 街道散歩(第二歩) 

ブログ表題は変更。

日光道中二十一次 街道散歩。

 

コロナで中山道の旅は完歩寸前で足止め。

それじゃ老い先は短い、動けるうちに歩けるうちに、と2020年6月16日

日本橋を出立し、日光道中の旅が始まりました。
あちらこちらと寄り道しながら、亀足亀足で日本橋から約8km、

南千住駅前へたどり着き足止め。

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その後は残念ながらコロナは再炎上状態が続き、マスク無しでは外歩きもまま

ならなが、なにせ今年の猛暑がすごくマスク装着歩きはお手上げ。

秋風が吹き、コロナも少しは状況もよし、とは言え、まだまだ遠出までは・・

 その後台風や悪天候で、今年の秋は不安定な日々続き。

GOtoも始まり、まちかねた方が多く利用してる様子にわれわれも、

と思ったが、まずは手始めに街道の歩き旅だ。

コロナもまだまだ不安定ではあるが、三密は避けられると、

お天気の様子を伺い、思い切って10月14日、歩き旅の再開へ。

 環状線であるJR武蔵野線を利用し2回の乗り換えで、前回足止めの南千住駅へ。

家から最寄り駅までのバスも入れて約2時間弱で到着。

都心周りとほぼ同じ時間かかってる。

AM10:30、南千住着。

三か月振りの街道旅、いな散歩旅、記念ショットを写して、さあ行こう!

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南千住駅を降りて、南千住駅の脇の歩道橋を越えると、常磐線日比谷線に挟まれた

敷地には、江戸の三大刑場の一つ「小塚原刑場跡」で、まずは千住回向院から分院し、処刑人供養で建てられた「首切り地蔵尊」が祀られてる延命寺に。 

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東北大地震首切り地蔵はかなり損壊したが、修復したことが書かれていた。 

ネーミングがちょっと可哀そう。

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JR常磐線の高架に分断され、北側に歴史的有名人が眠る千住回向院があり、

墨田区の回向院と区別するため『小塚原回向院』と呼ばれています。

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この鉄道で分断された二つの地域が小塚原刑場跡で、1651年に創設され、

明治初年に廃止されるまで、ここで処刑された人は約20万人と云われています。

小塚原刑場での刑死者は丁寧に埋葬されなかったため、夏になると周囲に臭気が充満し、野犬やイタチの類が食い散らかして地獄のような様相だったといわれ、この有様を

見た墨田区の回向院住職が、刑死者を供養するため創建したのが常行堂で、

その後、小塚原回向院となり処刑された罪人を葬りました。
回向院の墓地は、荒川区指定記念物(史跡)小塚原刑場跡として文化財となって

区画され、完全に一般の方の墓地と分けられています。

(区案内文より)

 回向院には、幕末の安政の大獄によって処刑された吉田松陰、橋本佐内、頼三樹三郎政治犯であった彼らの処刑は、小塚原刑場ではなく伝馬町牢屋敷でしたが、

罪人として回向院に葬られました。

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 史跡の一番奥に鎮座しているのが「吉田松陰」で、1863年高杉晋作らによって

世田谷区若林に改葬され、その地に松陰神社が建立されたので、ここには当時の

墓石だけが文化財として保存されています。

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万延元年(1860年江戸城桜田門外で、井伊直弼を襲撃した18名の墓も

同じ千住回向院にある。  

現在の墓石には〇〇先生、とありますので維新後に改めて建て直しなのでしょう。

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そしてここで処刑や埋葬された、鼠小僧次郎吉墓(ちょこっとだけ写ってる)

 片岡直次郎墓 高橋お伝墓 腕の喜三郎墓(左から)もありました。

鼠小僧墓は 両国の回向院にあるものが本来のものだそうです。

高橋お伝明治12年1月に斬首刑となり、その後斬首刑が廃止された為、

お伝は最後の斬首刑囚となった。 

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1936年の年の軍若手将校による「二・二六事件」の銃殺刑も行われたそうです。

 

そして小塚原回向院の壁には、歴史の教科書でも学んだ、あの前野良沢杉田玄白の『解体新書』の扉絵がついた記念碑があり、日本初の腑分け(解剖)の地でもあった。

日本近代医学の黎明期の出発点となった歴史的な刑場です。

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また、ここには60年弱ほど前の昭和の大事件“吉展ちゃん誘拐殺人事件”の

村越家菩提寺で、寺院入り口には吉展地蔵尊が建立されていました。

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刑場を後に進む街道は刑場にちなみ、コツ(骨)通りと呼ばれたとか。

(小塚原・こずがぱらの地名が由来おもいわれそうです)

すぐ先で街道から左折し、現日光街道の国道4号に向かい円通寺へ寄り道。

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曹洞宗円通寺坂上田村麻呂の開創といわれる古い寺で、幕末には上野の山で官軍と

戦った彰義隊士の遺体を埋葬したことから、明治40年(1907年)に上野寛永寺の黒門(写真8)が移築されいます。

今も黒門の柱や梁に激しい官軍の攻撃弾痕が残されてます。 

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後で知りましたが、あの誘拐された吉展ちゃんの遺体が見つかったところで、
地蔵尊が祀られているそうです。

円通寺から国道4号を南千住交差点に向かい、本尊が笹団子如来と呼ばれ、

団子を笹に枝に刺して供えると病に霊験あらたかという西光寺をのぞき見して、

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南千住の交差点で国道4号線は旧道にに合流し、

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渡った所に「素戔嗚神社」があり、時期ですね、早くも七五三詣り姿が見られました。 

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 戦後再建された大優美な拝殿、ご本殿 。

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拝殿前の獅子座の珍しい狛犬

躍動感姿も素敵ですが尻尾に特徴がありますね。f:id:hansui:20201016104206j:plain

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子供の無事成長を祈願した「子育て大銀杏」と呼ばれる銀杏は樹齢600年とか。

右手隅田川千住大橋を模した石橋ああり、文政2年(1820年)、

松尾芭蕉の「奥の細道旅立ち記念碑」が置かれてる。

「千住という所で船を上がれば・・・・」の奥の細道の一説が彫られている。

また「これを矢立の初めとして・・・・」と書かれた句札が立てられている。

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境内には、小塚原の地名由来となる小塚(瑞光石)が祀られ、

元治元年(1864)に富士塚が築かれ浅間神社が祀られてます。  

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素戔嗚神社を後に150mほど先左手に、徳川家康が巡覧した折り腰かけた、

といわれる榎がある誓願寺は入りずらそうで寄らずに見送り、 

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先の隅田川には、最初に架けられた「千住大橋」が架かっている。

 

 徳川家康が江戸入りした文禄3年(1594年)、伊奈忠次に作事奉行を命じて

隅田川に最初に架けた橋で、当初はここより200メートルほど上流に架橋され、

「大橋」と呼ばれていた。

その後下流にも橋が架けられたため、「千住大橋」と呼ばれるようになったという。

現在の昭和2年(1927年)に架橋された千住大橋の鋼鉄製アーチの桁には

「大橋」と書かれたプレートが貼られていている。

(現在は国道4号下り(北行き)の橋で、隣に上り橋が架橋されてます)

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墨田川は上流は武州埼玉の秩父山地で埼玉の流れは「荒川」です。

「すみだ川」の名が登場したのは、西暦835年のこと。当時の政府の公文書に「住田河」と記されています。この「住田」が、どのように読まれていたのかは定かではありませんが、川の三角州に田を作ったという意味で「すだ」と呼ばれていたと考えられています。その後、平安時代伊勢物語では、「すみだ川」という歌が詠まれ、すみだ川の名が全国に広まっていきました。このほかの記録には、「隅田」をはじめ「墨多」「住田」「澄田」など、いくつかの字を当てていますが、読み方は語感のよい「すみだ」に定着したようです。江戸時代以降、川の周辺は、桜の名所としてはもちろん、両国の川開きや向島百花園七福神めぐりなど、多くの人に親しまれ、その当時から、この川の堤を「墨堤」と呼ぶようになり、漢詩などに好んで使われるようになりました。しかし、川の名称は定まらず、「大川」や「浅草川」と愛称で呼ばれ、また公的な文書では「荒川」とされていました。明治29年に制定された旧河川法でも、荒川の一部ということで一括して荒川と呼ばれています。その後、河川法が見直され、法的にも正式に「隅田川」となったのは、昭和40年になってからです。(墨田区広報より)

 

千住大橋を渡ると荒川区から足立区に変わる。

東海道多摩川が江戸の西の出入り口とすれば、隅田川は江戸の北の出入り口。

橋の北詰はトイレもある大橋公園で、松尾芭蕉が弟子の曾良とともに深川の住居から

舟に乗り、奥の細道の旅路につき、ここ隅田川の千住に上陸して日光街道

足を踏み入れたことで、奥の細道矢立初めの句を詠んだことを記念して、

奥の細道 矢立初めの地」と刻まれた石碑や句碑が建てます。

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芭蕉の旅立ちは元禄2年(1689年)3月27日(陽暦の5月16日)で、

千住まで多くの門人、知人らも舟に乗り、二人の旅立ちを見送りに来たという。

旧道は、千住大橋北詰からこんな標識の立つ足立市場前交差点で国道4号から

右に分岐し交差点を渡ります。

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渡ったところは広大な中央卸売市場・足立市場の前で、芭蕉生誕360年にあたり、

平成16年(2004年)に建立された、「奥の細道プチテラス」がありました。 

松尾芭蕉の像、右横下には「奥の細道・矢立初芭蕉像」と彫られた碑が建っている。 

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横に「日光道中千住宿」左側面に「ひだり・草加」右側面に「みぎ・日本橋」と彫られている道標も建ってます。

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向かいには「此処はやっちゃ場南詰」の木札が立っている。

かって日光街道両側には、千住宿に向かって30数軒の青果問屋が軒を連ね、

「やっちゃい」のセリ声が響いていたことに由来の「やっちゃ場」と呼ばれ、

現在の足立区千住河原町

神田、駒込、京橋、本所の青果市場もやっちゃ場と呼ばれ、千住と併せ

江戸の五大やっちゃ場といわれるている。

千住のやっちゃ場は戦国時代に市が開かれたことに始まるといわれ、

昭和まで続いた長い歴史をもつ青果市場で、隅田川の水運に恵まれた好立地によると

いわれている。

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やっちゃ場通りだった街道を進むと、家屋に谷塚屋、柏屋などの屋号を掲げ

往時を伺がわせる。

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京成線の高架下を潜ると左手に白壁の蔵を転用した「千住宿歴史プチテラス」がある。この蔵は千住に数多く現存する蔵の1つ、江戸時代後期に建造の紙問屋横山家の蔵を

平成五年(1993)に解体移築したもので、やっちゃ場時代の問屋街の面影を残す道具などが、保存・展示されているそうです。
その先に、「昭和五年・千住市場・問屋配置図」が立っている。 

f:id:hansui:20201016175503j:plainすぐ先に西新井大師道標があり、旧日光道中、是より西へ大師道、と刻まれている。問屋街はこのあたりまでのようです。

f:id:hansui:20201016175818j:plain左手に100mほど小路を入ると、やっちゃばの鎮守の河原稲荷神社で、

 足立区内最大の狛犬がある。

 

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先の千住仲町地交差点渡って左手に仁王像建立中の「源長寺」があった。
源長寺は、将軍の鷹狩の時に休憩所、御膳所として使っており、脇本陣も兼ねていた。

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源長寺の少し先一角に、2015年に設けられたミニ公園「掃部宿憩いのプチテラス」があった。

説明板によると掃部宿は千住本宿が拡大し、千住宿に組み込まれた宿だそうです。

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しばらく歩くと交差点の先は、ほんちょう商店街へ入り、

交差点手前左手に千住高札場跡の標石があり、この付近からが千住宿中心の様子。

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ほんちょう商店街に入り、先の交差点手前右手に日本橋から2番目の

「千住の一里塚」があった。まだ日本橋から2里、8kmしか進んでない?

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交差点を渡った左手が「問屋場跡・貫目改所跡」の標石がある。

貫目改所は、問屋場が扱う荷の重さを量った所である。

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右手奥が北千住駅の差点より先は、江戸時代の宿場の活気を感じられる宿場町商店街

となり、

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北千住駅前通りを横断すると、入り口アーチ左下の百円ショップ前に自転車などに

隠れるように、秋葉家が勤めた本陣跡碑が建っていた。

本陣は写真の100円ショップとその隣の建物を合わせた辺りにあり、

間口が狭く奥行の長い形状をしているが、361坪の敷地であった。

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第1宿 千住宿 (日本橋より二里八町(8.8キロ)

日光道中宿村大概帳によると、天保14年(1843年)

  家数  2,370軒 (うち、本陣1、脇本陣1、旅籠55)
  人口  9,956人 

江戸四宿と呼ばれた東海道品川宿中山道・板橋宿、甲州街道内藤新宿に比べて

家数、人口ともに上回り、千住宿は大繁盛した宿場といえる。
千住の地名は、鎌倉時代の末期(1327年)、荒井図書政次という人物が荒川から

千手観音を拾い上げて勝専寺に安置したことから名づけられたという説や、

足利八代将軍義政愛妾・千寿がこの地に生まれたからという説がある。

 千住宿日光街道奥州街道の最初の宿場として繁栄し、水戸街道が分岐している。

寛永2年(1625年)に開設されたが、その後万治元年(1658年)に

やっちゃ場等があった掃部宿、万治2年(1660年)には千住大橋の南側の

小塚原、中村町が編入され、宿長は2キロメートル以上にも及ぶ大きな宿場となる。 

 現在も延々と賑やかな商店街が続き古くて趣のある建物が何軒か残っている。

千住宿案内文より)

「千住が宿場として栄えたのは、慶長二年(1597)人馬引継駅となって以来のこと

だといわれている。

江戸時代の足立は、千住宿を中心に始まったといっても過言ではない

 特に寛永二年(1625)日光東照宮建立により、日光道中発駅として、

また江戸4宿の一つとして繁栄し、約400年を経て今日に至っている」
(千住の町並景観を考える会・説明版より)

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街道から左手にに昔ながらの細い小路を100mほど行くと、

千住本氷川神社があり、旧社殿に千住七福神の大黒天が祀られてます。

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街道の戻り進むと 千住本町公園内には、「千住宿」の額を掲げた門と
傍らに「千住宿 高札場由来」の説明板が建っている。

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商店のシャッター絵も多い。

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千住本町公園の先宿場のはずれ近くには、横山家住宅が建っている。

本陣と同じように、間口が13間(約23メートル)と狭いの対して、

奥行は56間(約100メートル)と長い敷地に、江戸時代後期に建築された

二階建ての木造建物である。

横山家は、屋号を「松屋」といい、江戸時代から続く商家で、戦前までは手広く

地漉紙問屋 を営んでいた。
現在の母屋は、江戸時代後期の建造であるが、昭和十一年に改修が行われている。

間口が九間、奥行が十五間あり、大きくてどっしりとした桟瓦葺 (さんがわらぶき)の二階建である。 広い土間、商家の書院造りと言われる帳場二階の大きな格子窓 などに、一種独特の風格を感じる。

( 東京都足立区教育委員会・説明版より)

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横山住宅の向かいが千住絵馬屋・吉田家で、江戸中期から絵馬をはじめ地口行燈や凧などを描いてきた際物(きわもの)問屋である。

現在も手書きで描く手法を継承し、江戸時代の絵馬の伝統を伝えている。

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絵馬問屋の先、左手小路奥に銭湯が見えたが、現在も営業してるかな?の風情

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20mくらい先にガーデンコーナーがあり、十字路右側に水戸街道の追分道標が

置かれており「北へ旧日光道中・東へ旧水戸佐倉道」と彫られている。

水戸街道はここから右手へ向かていたようだ。

この辺までが日光街道第1宿、千住宿だったようである。

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約100mほどで街道は左へ折れ、角地に「北西へ旧日光街道、北へ下妻道」と

ある旧下妻道道標が立ていた。

右手には江戸時代から続く「骨つぎと云えば名倉、名倉といえば骨つぎ」と云われる

名倉醫院が現在も開院しており、江戸末期の長屋門がありました。

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左へ折れて進むと江戸時代には無かった荒川の土手に阻まれる。

この荒川は、隅田川の岩淵水門で分流した人工の川、荒川放水路で、 

隅田川の氾濫防止のため、明治13年に完成した。

かってはあたり一帯は一面の草原で日光街道は、そのまま草原帯をまっすぐ進ん

だようだが、今は寸断されて土手に沿って左手に行き、ガードをくぐって

日光街道・国道4号の左側に抜け、

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螺旋階段を上って荒川土手上の千住新橋南詰め橋を渡って北へと進みます。

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とてもこの川が人工の川とは思えないほど幅広く広がってるが、

かって一帯は草原で旧日光街道は斜めに対岸の方へ通じていて、右下付近には

「光沢が見事な茶釜」が名物で、八代将軍吉宗が鷹狩りの折りに休息し褒めた、

と言われる爺ヶ茶屋もあったようです。 

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 国道4号で9km・・

f:id:hansui:20201017152518j:plain上流

f:id:hansui:20201017153003j:plain下流 

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千住宿方向振り返り、

f:id:hansui:20201017153104j:plain次の宿場、草加宿へ。

f:id:hansui:20201017153126j:plain「あら、ハートだわ!」カミさんの指さす河原に蔓性草が描いてた。

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なんてよそ見しながら歩いていて、土手上へ左手に降りるところを通りすぎてしまい

土手下道を越えて螺旋道を左手に下ると、巨大な近代お堂の真福寺

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塀に沿って400mほど行くと、街道が斜めに通てきて江戸時代の日光街道

通ていた所へ出て、川田橋交差点を渡って街道復活、復帰。

合流した街道右手にこれも近代的に建った伽藍の日蓮宗善立寺。

 今は斎場となったそうだが。

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秋を感じながら再び街道を北上し、善立寺から20mほど行くと、

 

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左手角に小さなお堂は石不動尊が祀られ、街道書によれば、

傍らの地蔵尊は荒川の土手にあったもので、お堂内には耳の病に霊験あらたかな

石造耳不動尊像が安置されてる。

お堂前の石柱は道標で、「八彦尊道是より二丁」と彫ってあり、

左手へ行くと喉に後利益のある八彦尊が安置された赤不動(明王院)があると

記されてます。 

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不動尊から10分ばかり歩き、左手に少し入った所に「佐竹屋敷跡」の碑と「佐竹稲荷神社」がある。ここは秋田藩主佐竹候のお抱え屋敷跡で参勤の際の休憩所であった。

稲荷社は屋敷神として祀られていたのだそうだ。 

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さらに600mほど北上すると、街道と斜めに交差する道との右角に
「右日光道中・左東武鉄道旧線路跡」と刻まれた道標が立っている。

斜めの道は旧東武鉄道の軌道跡だそうです。

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道標に従って旧日光街道を直進すると、ここから駅前商店街らしくなっていく。

梅島小前交差点、梅島駅前交差点を過ぎると東武線のガードをくぐり街道は続きます。

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島根4丁目で徳川二代将軍秀忠、三代将軍家光が鷹狩の際にこの先にある「安穏寺」に立ち寄るために渡ったという 「将軍家 御成橋 御成り道松並木跡」の石碑。

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(写真ぼけのため、拝借安穏寺フォット)

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3里目の一里塚があったらしいが、痕跡も案内板もない。

さらに少し先には「鷲神社」がある。この神社は文保二年(1318)の創建でこのあたり(島根村)の鎮守である。享和二年(1802)建立の明神型石鳥居は足立区の有形文化財に、神楽殿で奉納される「島根囃子」と「島根神代神楽」は同区の無形文化財に指定されている。

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交差点から15分ばかり歩くと増田橋道標があり

「増田橋跡・北へ日光道中・西へ旧赤山道」と刻まれている。 

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時刻はPM4:00

東京スカイツリーライン・竹ノ塚駅入り口にて、今日の散歩旅は足止めし家路へ。  おっ、カッパマスク!

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帰りの電車の中でカミさん曰く。

「まだ日本橋か20kも歩いてないわ、旅というより散歩、散歩」

旅日記表題、さっそく変更です。






 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



 

 

 

歩いて再び京の都へ、の前に 日光道中二十一次 街道散歩、第一歩・後編。

2020年6月16日(火)日本橋を出立し、日光道中の旅が始まりました。

あちらこちらと寄り道しながら、亀足亀足で浅草雷門前へたどり着き、

時刻はお昼には少し早いが、雷門手前のレストランでマスク外して足休め昼食。

1時間ほどゆっくり足休めをして、さて浅草寺へ。
気温がかなり高くなってきたが、マスク着用は大丈夫かな・・。

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 雷門前の道を右手に折れて、すこし先で江戸通りに再び合流し、左折して北へ進む

道が日光街道

本当に久しぶり、30年ぶりくらいになる浅草寺雷門。

ゆっくりお参りをして行こう。
家族5人で品川のカミさんの実家へ行った帰りに、たしか長女の高校受験の時で、
お茶の水湯島聖堂へお参りし、北側の神田明神、地下鉄で浅草寺まで足を

延ばしたことがあった。

大きな提灯はそのままなれど、解除になったとはいえ周辺はまだまだ人影は少なく、

人力車の車夫の呼び込み声もなにかまだ元気がない。

浅草のシンボル、「雷門」の大きな文字が描かれた、赤い大ちょうちんには、

高さ3.9メートル、幅3.3メートル、重さ約700キロ。

雷門の前は、記念写真におさまる国内外の人びとでいつも賑わっていたが、

近年は新型コロナウイルスの影響で、浅草寺の観光客は激減、特に海外の観光客が

皆無になった様子は何度も報道されていた。

そんな中、ほぼ10年くらいごとに新調されていた大提灯が、コロナウイルス

感染拡大で遠のいた客足が戻るよう願いをかけて、2013年以来、7年ぶりの

3月10日に一旦取り外され、1か月余かけて4月17日に新調復活したばかり。

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 雷門は浅草寺の総門であり、提灯の底に龍の彫刻が施され、

正式名称は「風雷神門」という。

風雷神門の名は、風神と雷神を門の左右に奉安していることに由来する。

(江戸川柳に、
  「風の神、雷門に居候 」と読まれたのがあるんですね。

 雷門の正式名称は「風雷神門」ですが、一般的に「雷門」と呼ばれていることから、

 主人は雷神、風神は同居人ということですね)

総門が現在地に移ったのは鎌倉時代以降のことで、移築の際に風神、雷神を安置したとも考えられている。
その創建年代は詳らかではないが、平公雅が天慶5年(942)に堂塔伽藍を一新した際、総門として駒形に建立したと伝わる。
 雷門は創建以来、幾度も焼失と再建を繰り返したが、寛政7年(1795)に

再建された頃から提灯の奉納が行われるようになった。

寛政の雷門は、歌川広重、渓斎英泉、歌川豊国、魚屋北渓など浮世絵師の好画題となり、今に作品が伝えられている。

幕末の慶応元年(1865)の失火により雷門も延焼し、のち、95年間も雷門は再建されなかったが、昭和35年(1960)に松下電器産業(現パナソニック)社長・松下幸之助氏の寄進により、再建された。

江戸時代の様式を生かした造りであり、堂々たる風格を漂わせている。
風神、雷神像は慶応の火災の際、頭部のみ難を逃れ、明治7年(1874)に身体部分を

補った。昭和35年の雷門再建の際に、常盤堂雷おこし本舗社長・穂刈恒一氏の懇意に

より、補修・彩色されたのが現在の像である。
 また、雷門の北の間(風雷神像の背後)に安置されている天龍像と金龍像は、

昭和53年(1978)松下グループ有志の寄進で、水を司る龍神であり、浅草寺

護法善神である。

浅草寺解説案内文より)

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 門の境内内側。 

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門をくぐるとズラリと並ぶお店。

(以下浅草寺案内文より)

浅草寺の表参道で雷門から宝蔵門まで長さ約250m、参道の両側に朱塗りの

店舗が並ぶ仲見世は、日本で最も古い商店街のひとつである。
仲見世は平店と呼ばれる、玩具、菓子、土産品などを売る店舗が主だった。
 明治になり、浅草寺の土地が政府に没収されるとともに、仲見世東京府の管轄に置かれた。そして明治18年(1885)に煉瓦造りの洋風の建物に一新される。文明開化の香りに満ちたこの仲見世は、大正12年(1923)の関東大震災で壊滅したが、同14年に鉄筋コンクリート造り、朱塗りの商店街に生まれ変わる。そして、昭和20年(1945)の東京大空襲で外構えを残して焼け落ちたが、戦後に補修して現在の姿となる。
 平成6年(1994)には電柱を撤去して地中電線に切り替えてすっきりとした通りになり、電飾看板や季節に即した飾りつけなど、整然としたなかに華やかさと粋を感じる仲見世は、歴史を大切にしながら日々、成長している町並みといえるだろう。

100年以上も続く老舗も多く、日本国内からはもちろんのこと、海外からの観光客

も約953万人が訪れ、浅草寺(せんそうじ)と門前の仲見世を中心に毎日がお祭り騒ぎに近い賑わいだったが、新型コロナウイルスの影響で街中のお店が大打撃を受けて

います。 

仲見世通りから東西に延びる、伝法院から宝蔵門寄りの店は役店と呼ばれ、

水茶屋が並んでいた。
宝蔵門寄りの店は20軒の水茶屋があったことから俗に「二十軒茶屋」といい、美人の看板娘を置いて人気を集めた。

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(図書館から事前に借りた浅草寺の観光案内本の記載内容をお参り記録として、

 長~いが記載してます)

浅草寺は、1400年近い歴史をもつ観音霊場である。寺伝によると、ご本尊がお姿を現されたのは、飛鳥時代推古天皇36年(628)3月18日の早朝であった。
宮戸川(今の隅田川)のほとりに住む檜前浜成・竹成兄弟が漁をしている最中、投網の中に一躰の像を発見した。仏像のことをよく知らなかった浜成・竹成兄弟は、像を水中に投じ、場所を変えて何度か網を打った。しかしそのたびに尊像が網にかかるばかりで、魚は捕れなかったので兄弟はこの尊像を持ち帰った。
土師中知(名前には諸説あり)という土地の長に見てもらうと、聖観世音菩薩の尊像であるとわかった。そして翌19日の朝、里の童子たちが草でつくったお堂に、この観音さまをお祀りした。「御名を称えて一心に願い事をすれば、必ず功徳をお授けくださる仏さまである」と、浜成・竹成兄弟や近隣の人びとに語り聞かせた中知は、やがて私宅を寺に改め、観音さまの礼拝供養に生涯を捧げた。
浅草寺に伝わる縁起には、観音さま示現の日、一夜にして辺りに千株ほどの松が生じ、3日を過ぎると天から金の鱗をもつ龍が松林の中にくだったと記されている。この瑞祥が、後につけられた山号「金龍山」の由来となった。また現在、浅草寺寺舞として奉演されている「金龍の舞」も、これに因む。

雷門をくぐり、人通り賑やかな仲見世を歩いてゆくと、前方に堂々たる朱塗りの楼門が参拝者を迎える。浅草寺山門の宝蔵門である。門は初層が五間で、両端の二間には仁王像を奉安し、中央の三間が通行のために開口している。
仁王像が安置されていることからもわかるように、この門はもともと仁王門と呼ばれていた。『浅草寺縁起』によれば、平公雅が天慶5年(942)に武蔵守に補任され、その祈願成就の御礼として仁王門を建立したのが創建という。以来、数度の焼失と再建ののち、徳川家光の寄進により慶安2年(1649)に落慶した仁王門が、昭和20年まで諸人を迎えていた。今に伝わる錦絵の数々に描かれた仁王門は慶安の門である。

 江戸時代、浅草寺は庶民に開かれた寺院として多くの参拝者を集めたが、一般ご信徒への特別なはからいとして、数日に限って門の楼上に登ることが許された。元旦、2月15日(涅槃会)、4月8日(仏生会)、7月15、16日(盂蘭盆会)、春秋の彼岸中日の7日間で、当時は近辺に高層建築がなかったため、人びとは楼上からの眺望を大いに楽しんだ(現在は行っていない)。

 昭和20年(1945)、仁王門は東京大空襲により観音堂五重塔・経蔵などとともに焼失する。昭和39年(1964)に大谷重工業社長・大谷米太郎ご夫妻の寄進により、鉄筋コンクリート造り、本瓦葺きで再建された。経蔵を兼ねて伝来の経典や寺宝を収蔵することから、仁王門から宝蔵門と改称された。
 宝蔵門に収蔵されている「元版一切経(国の重要文化財)」は、もとは鎌倉の鶴岡八幡宮に収蔵されていたものであるが、明治の神仏分離の際にあわや焼却処分されるところを、尼僧の貞運尼が買い取り、浅草寺に奉納したという由緒をもつ。鎌倉から浅草まで運ぶ際に助力したのが、町火消し十番組の組頭・新門辰五郎である。境内にあった新門の門番を務めたことから新門と名乗り、安政年間(1854~60)に浅草寺の経蔵を寄進している。戦災で経蔵は焼失したが「元版一切経」は疎開しており無事だった。

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朱も鮮やかな五重塔は、昭和48年(1973)に再建された、鉄骨・鉄筋コンクリート造りの塔である。外から見ると、五重塔は地上面から建っているように見えるが、実際は基壇状の建物(塔院)の上に建っている。
浅草寺五重塔の最上層には、スリランカのイスルムニヤ寺院から昭和41年(1966)に奉戴した仏舎利が納められている。
 浅草寺に塔がはじめて建立されたのは、天慶5年(942)、平公雅によるとされる。当時の塔は三重塔であり、本堂に向かって二つの塔が左右に配された、「薬師寺式伽藍」ではなかったかという見解もある。というのも、江戸時代・寛永年間の浅草寺境内図を見ると、当時は、本堂の東側に五重塔、西側に三重塔が建ち、境内に二つの塔が並存していたからである。焼失後、慶安元年(1648)に徳川家光五重塔を再建するものの三重塔は復興されなかった。
 この慶安の五重塔は本堂の東側に位置し、現在も礎石が残る。江戸時代は、上野寛永寺五重塔、芝増上寺五重塔、谷中天王寺五重塔とともに「江戸四塔」として親しまれた。特に浅草寺五重塔は、浅草や浅草寺を描いた絵画における必須のモチーフであり、浅草のランドマークであった。
 明治19年(1886)、各所傷んでいた塔を修復することになり、塔のまわりに足場が組まれた。このとき修復の費用を捻出するために、一般の参拝者に足場を登らせた。足場に設けられたスロープ沿いに最上層の屋根部分にまで登れたため、人びとは遥か遠くまでの眺望を楽しんだことだろう。

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浅草寺の本堂はご本尊の聖観世音菩薩を奉安することにちなみ、観音堂とも呼ばれる堂宇である。
 国宝に指定されていた旧本堂は昭和20年(1945)3月10日の東京大空襲により焼失したが、その後全国のご信徒からのご浄財により、昭和33年(1958)に今日の本堂が再建された。
 本堂の創建は、ご本尊が示現された推古天皇36年(628)にさかのぼる。檜前浜成・竹成の兄弟が隅田川宮戸川)で観世音菩薩のご尊像を感得したのち、10人の草刈り童子によって藜で屋根を葺いた堂に一時安置された。その後、土師中知が私邸を寺として、この聖観世音菩薩のお像を奉安したのが、本堂の起源である。
 本堂はその長い歴史において、幾度も被災し、そして再建されてきた。縁起や記録類によると、現在まで20回近い再建を数える。そのほとんどが失火や落雷、延焼による焼失であり、地震では長久2年(1041)に一度倒壊している。
もっとも長い期間ご本尊を守ってきた本堂は、慶安2年(1649)に徳川家光が願主となって再建された旧本堂である。じつはこれ以前の寛永12年(1635)に、同じく家光を願主として本堂が再建されたのだが、寛永19年(1642)、わずか7年で門前町の失火により延焼してしまった。このように焼失後間もなく再建されたのは、家光をはじめとする幕府が浅草寺をいかに厚く庇護していたかを物語る。
慶安の本堂は昭和20年の焼失まで約300年にわたり観音信仰の中心を担い、絵画や写真などに多数記録されている。明治40年(1907)に本堂は国宝に指定され、大正12年(1923)の関東大震災でも倒壊しなかった。ただし破損した箇所があったため、昭和8年(1933)に大営繕が施された。昭和20年に東京大空襲で焼失したのちは、本堂の焼け跡に仮本堂(現在の淡島堂)が設けられ、難を逃れたご本尊をお迎えした。
 今日の本堂は慶安の旧本堂の姿を基本に、鉄筋コンクリート造りで再建されたお堂である。入母屋造りの大屋根は急勾配かつ棟高で遠方からも望見できる。かつては3倍の重さの本瓦で葺かれていたが、安全強化のために軽量のチタン瓦に葺きかえられ、平成22年(2010)に営繕が円成した。 

 

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 浅草寺のご本尊は、聖観世音菩薩である。世間の生きとし生けるものの音声を観じ、その苦しみを除かれ、また願いを聴いて安楽を与えてくださる仏さまである。神変自在のお働きを主として「観自在菩薩」とも称されるが、一般的には略して「観音さま」と呼ばれる。観音さまは、十一面、千手、如意輪など、いろいろなお姿に変化するが、聖観音はその基本とされる。
 ご本尊は、推古天皇36年(628)にご示現されたと伝わる。その後、大化元年(645)に勝海上人が定めた秘仏の制が掟として守られてきた。数重に及ぶ厨子に固く錠をかけ、絶対秘仏として寺の住職でさえも尊容拝見を慎んでいる。なお、ご本尊の大きさを「一寸八分」(約5センチ)と伝える書もあるが、これは江戸時代以来の俗説の一つである。

(本尊は絶対秘仏で公開されないため真実はわからないんだそうな。

 江戸川柳にも、

 小兵でも坂東一の菩薩なり、
 小粒でもこれ見てくれの大伽藍、
 浅草寺のご本尊は一寸八分(約5.5センチ)、

 そんな小さなご本尊様だが 伽藍は大きい)

観音堂が焼けた承暦の火災から70年ほどのち、この折の霊験を聞いた源頼朝の父義朝が、浅草寺に観音像を奉納した。その像は、ご本尊が難を避けるために飛び移った大榎でつくられたものと伝わる。現在も「榎観音」として伝来し、毎年1月に執り行なわれる「温座秘法陀羅尼会」のご本尊として拝まれている。

東京大空襲のとき、ご本尊は前もって本堂の真下、地中約3mのところに埋めた青銅製天水鉢(淡島堂境内に現存)の中に安置されていた。これにより本堂焼失にもかかわらずご本尊はご安泰であった。

(中央に秘仏本尊を安置する宮殿(くうでん))

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寛永2年(1625)、江戸上野に寛永寺が建立された。徳川幕府の安泰と万民の平安を祈願するための寺で、第3代以降、歴代山主(住職)に皇室から法親王輪王寺宮と称される)を迎え、仏教界に君臨した。
貞享2年(1685)、時の浅草寺別当忠運上人が、5代将軍綱吉の不興をこうむったという理由で退寺の悲運に遭う。以来、浅草寺寛永寺支配下に組み込まれた。元文5年(1740)からは輪王寺宮自身が別当職を兼ね、その代理人である別当代(副住職)が実質上の総責任者として浅草寺を統括した。寛永寺による支配は幕末まで続いた。

寛永寺支配下だったとは、初めてしりましたね)

本堂の北西に建つ、寄棟造りの堂宇が影向堂である。現在の影向堂は、平成6年(1994)に浅草寺中興開山慈覚大師円仁さまのご生誕1200年を記念して建立された。
 堂内は内陣と外陣に分かれ、内陣の須弥壇中央には聖観世音菩薩を祀り、その左右に千手観音、虚空蔵菩薩文殊菩薩普賢菩薩勢至菩薩大日如来不動明王阿弥陀如来を祀る。
 また、外陣には浅草名所七福神の大黒天を祀っている。影向堂は当山の朱印所であり、参拝証としてご本尊の聖観世音菩薩と大黒天のご朱印をお授けしている。

影向堂の南に建つ、三間四方の堂宇で「橋本薬師堂」と呼ばれている。当初の薬師堂は本堂の北側にあったので、「北薬師」と呼ばれていたが、慶安2年(1649)、三代将軍徳川家光が本堂の北西に再建。

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浅草は時代とともに拡大していく江戸市街地として吸収され、参詣・行楽・歓楽を目的とした人びとがあふれる江戸有数の盛り場になった。水茶屋の看板娘たちは、しばしば浮世絵の主人公にもなった。また、見世物小屋が立ち並ぶ観音堂の北西は「奥山」と呼ばれ、松井源水の曲独楽、深井志道軒の辻講釈、長井兵助の居合抜、柳川一蝶斎の手妻(奇術)など数々の興行が参詣人を喜ばせた。
こうした名人芸は江戸中の評判となり、将軍だけでなく、その家族、大名、さらには輪王寺宮も折にふれて参詣し、奥山の妙技見物を楽しむこともあった。

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明治維新後、時代の激しい波は浅草寺にも押し寄せて来た。浅草寺の寺領は太政官布告によって公収され、東京府の管轄となった。
江戸期に奥山で興行していた見世物小屋は、旧火除地を埋めて新たに造成された6区へ移転した。

盛り場の流れを継いだ6区には、明治の終わり頃から映画館が林立し、東京屈指の歓楽街が形成されてゆく。また、明治23年(1890)には、浅草寺の西側に、日本初のエレベーターを備えた凌雲閣(通称「十二階」)という展望塔がつくられて、世間の注目を集めた。
浅草寺を中核とする浅草は、明治・大正・昭和にかけ、時代を先取りする街として大いに活気を呈していった。

大正時代の関東大震災でも仲見世は全焼しながらも、主要堂宇は奇跡的に火難から逃れ、境内に5万人もの人が避難して救われたという。しかし、昭和20年(1945)3月10日未明の東京大空襲では、諸堂伽藍もろとも本堂が烏有に帰した。

 

持参の案内本を読みながら、ゆっくりと境内内を歩き回りました。

まだまだ歩き足りない気持ちだが、途中で右手に折れて伝法院通りを回って、

街道へもどります。

 

伝法院は浅草寺の本坊であり、江戸時代初期の庭園からなる一画である。
 庭園は「廻遊式庭園」であり、歩むごとに景観の変化を楽しめる。寛永年間(1624~44)に、作庭家として著名な小堀遠州により築庭されたと伝わる
 平成23年(2011)に伝法院の庭園が国の名勝に、平成27年(2015)には「客殿、玄関、大書院、小書院、新書院、台所」の6棟が国の重要文化財に指定された。一般公開はしていないが、不定期で特別公開されることがある。(案内本より)

 

60年以上前の高校の修学旅行で東京へは来ているが、学校としては来た記憶がないのは、まだ本堂が再建中だったからかな。

でも、宿が上野付近だったからか、先輩に連れられて自由時間の日に仲間のグループ

6人と来た記憶がある。
浅草寺には寄った記憶はないが、浅草寺の周辺にあった遊園地「はな屋敷」へ行き

子供のように遊んだ写真が残っていて、そして近くの国際劇場で松竹歌劇団のレビューを見た記憶があるのはグループに女生徒がいたからな。
松竹歌劇団といえば当時はすでに引退し、映画プデューサーやTV界で活躍をし、

あの石原裕次郎を世に出した水の江 瀧子、下町の太陽・賠償千恵子

一時はあの美空ひばりも研究生とかで在籍していたはず。

そうそう、今も現役の草笛美津子も松竹歌劇団の出身だたったのでは。

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 プリントしてきたマップで花やしきや、元国際劇場だった場所(浅草ビューホテル

を確認、国際劇場(赤丸)のあった通りはその名は今も国際通りで、首都圏新都市鉄道の「つくばエクスプレス浅草駅」がマップに記されてる。

建て替えてすっかり立派になった浅草公会堂の横を回り道しながら
ぶらぶら歩き、雷門前から街道へ復帰。

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カミさんも子供のころ一度は来た記憶はあるそうだが、子供たちと来た時のことしか

覚えていないだって。

そうそう、浅草と言えば祭りは「三社祭

今年の祭りは、コロナ騒動で、令和2年 10月16日・17日・18日に延期予定」と

報道されていた。

浅草神社の氏子四十四ヶ町を中心に5月の3三日間行われ、江戸風情を残しつつ、

約180万人以上の人出を数える日本を代表する祭礼の一つ。
江戸風情の残る下町浅草が1年でもっとも活気付くと云われ、東京の初夏を代表する

風物詩の一つになっている。

延期とはいえ祭りが催されたら秋には是非に、来たいもんです。

そんなお喋りしながら、小一時間も散策を楽しんで雷門前の100mほど先で左へ折れて街道は続いてゆきます。

正面、隅田川吾妻橋の先には、ビール会社の百周年記念で建てられたビル屋上に、

よく言われる「う〇こオブジェ」(何故か横飾りだが、炎なんですね)。

スカイツリーも良く見える。 

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正面に浅草松屋百貨店で、東武鉄道浅草駅。日光へ向かう伊勢崎線の始発駅。

最近はスカイツリーの最寄り駅があることから「東武スカイツリーライン」とも。

一度だけこの駅から日光へ行ったことを思い出した。

カミさんは3度ほど利用したことがあるそうだ、

建物を挟んで二股に分かれた道は、浅草駅の右手が日光街道江戸通り

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東武伊勢崎線、右手ビルの谷間越しにスカイツリー

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ガードをくぐり100mほど先を左手へ入ると、「姥ヶ池之旧跡」「履物問屋発祥碑」などが置かれている「花川戸公園」で、説明板には、
「姥ヶ池は、昔、隅田川に通じていた大池で、明治二十四年に埋め立てられた。

 浅草寺の子院妙音院所蔵の石枕にまつわる伝説に次のようなものがある。
 昔、浅茅ヶ原の一軒屋で、娘が連れ込む旅人の頭を石枕で叩き殺す老婆がおり、

 ある 夜、娘が旅人の身代わりになって、天井から吊した大石の下敷きになって

 死ぬ。それを悲しんで悪行を悔やみ、老婆は池に身を投げて果てたので、里人は

 これを姥ヶ池と呼んだ」とあった。

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街道に戻り、次の信号が言問橋西で五差路二股となり、街道は隅田川沿いから離れ、

左手に吉野通りと名を変えて続きを千住宿へ向かって北上します。

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言問橋越し正面にスラリとスカイツリー

(青空が広がってきた、寄り道して上ってもよかったかな)

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浅草七丁目を過ぎ、言問橋交差点から500mほど歩むと、 

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かつては北区王子の音無川を通り、隅田川に流れる水路だったが、
現在は公園として東西にきれいに整備されている、山谷堀(さんやぼり)。

左てへ行くと大遊郭だった新吉原。

江戸の人々にとって、この山谷堀を猪牙舟(ちょきぶね)に乗って新吉原へ向かうのが大変贅沢だったそうな。

(かっての吉原は人形町にあった) 

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堀跡の公園内を東、隅田川方面へ入り、さらに左手に行くと今戸神社がある。 

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今戸神社は、源頼義と義家が奥州安倍氏征討の折に、戦勝を祈願して京都の
石清水八幡宮を勧請。「下町八福神」の縁結びの神で、

観光人力車で来た、若いカップルがお参りをしていた。
境内には、新選組一番隊隊長「沖田総司終焉之地」と刻まれた石碑がった。

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街道に戻り吉野通り(日光街道)を北へ5分ほど歩いたころ、ふと上を見上げた

カミさんが「靴の専門学校のようね」と看板をみつけた。

そういえば、何故か通りには革製品を扱う店や仕事場らしい家が多かったし、

浅草は日本での靴製造の発祥の地、とも言われてたね。

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(旅から帰った後、図書館で見つけた本があった。またまた長いが引用)

「士・農工商・穢多非人(しのうこうしょうえたひにん)」と言われる、江戸時代の封建社会身分制度である。階級社会の社会的秩序を維持・強化するために作られ、江戸時代に入り、よりいっそう徹底された差別的身分制度とされる。そのなかの封建的身分のなかに、穢多・非人(えたひにん)を主とする賤民身分が存在したのである。

穢多非人(えたひにん)の人々の仕事としては、農民が捨てた病死した牛馬を回収して処理をし、その肉を食べて生活し、その牛馬の獣皮の加工などを行い革製品の仕事を営む。また刑吏、捕吏などの下級警察のような仕事や、草履づくり、販売などをしていたとされる。

では穢多(えた)と非人(ひにん)の違いとは何か。
「非人」は元来「人非人」つまり「世捨て人」のことを指し、そしてやがて「賤民」(貧しいひと)を指すようになり「穢多」と混称されるようになるが、江戸時代に入り「非人」と「穢多」は厳しく分けられると、「非人」は「良民・平民」のなりさがりの位置づけとなり、「銭」を少し支払うことで良民・平民への復帰路が用意されていた。

穢多が最下位身分の意味とは、牛馬(動物)を解体加工処理するという、仏教の教えに背いた行為で生活をする民なので差別の対象、そして、最下位の身分となったとされる。これが穢多(えた)と非人(ひにん)の違いなのだ。

「非人」には二種類あり、「抱非人(かかえひにん)」と「野非人(のひにん)」とに分けられ、「野非人(のひにん)」とは、現代で言われるいわば「路上生活者」「ホームレス」のことである。これは農村部で病などにより年貢を納めることが不可能となった者が江戸へと流れ入った、「無宿者」であった。この者たちを特定の区域で生活させた、

「抱非人(かかえひにん)」とは、
(1)姉妹、叔母、姪と密通(不倫)をした者
(2)相対死(男女の心中)で生き残った者
(3)主人と下女の心中で生き残った主人
(4)15歳未満、無宿の子供で盗みをした者

このような罪を犯した「抱非人(かかえひにん)」ならば、家族などの親類縁者が「銭」を支払うことで「平民」に戻ることができた。現代の「釈放金」と同じようなものである。
そして非人(ひにん)は、生計をたてるための「物貰い」「物乞い」や遊芸をするなどの独占権利を持つことや、復帰路の用意などと優遇されることで「穢多」との違いを設けられ、「穢多」よりも上の位に置かれていた。これも穢多(えた)と非人(ひにん)との違いである。また江戸時代には、非人(ひにん)以外の身分の者が「物乞い」を行うとそれが罪とされた。

東京・浅草には革靴製造をはじめとする皮革産業に携わる企業が多数あります。浅草は「靴の町」として繁盛を極めた時代があり、今でも地場産業として活躍しています。

その大きな理由の一つに弾左衛門(1823~1889)の功績が上げられます。
弾の家は、鎌倉時代から続く名家で、代々時の権力者から皮革取締りの特権を与えられていました。徳川幕府関八州(武蔵、上野、下野、常陸、上総、下総、安房、相模)をはじめ甲斐、伊豆、駿河陸奥を加えた十二カ国の皮革取締りの特権を許可しました。明治維新後も、その特権は従来どおり維持され、大きな勢力を誇っていました。弾は浅草亀岡町(現在の台東区今戸)に千坪以上の広大な邸宅を構え「直樹役所」と称していました。事実、その職権は町奉行に隷属し、その職を助け、関八州の町里を司り、自ら牢獄を備えて悪徒を収監する権がありました。屋敷の広大さは大名屋敷並といわれ、加えて三千石の収穫が上がる田地を所有していたのです。
江戸時代の履物といえば草履や下駄。皮で作られた靴が一般化したのは、明治以降の話です。
とはいっても、それまでも日本では、馬具やステイタスを醸し出す服飾品など、特別な用途に使われるべく、高い技術が培われてきました、
皮取締の特権を持った弾左衛門(後の弾直樹)は、明治を迎えたあとは、軍靴の需要が伸びると見込んで、靴製造の修伝所を作りました。
精力的に、皮・靴加工技術者の養成を行い、数百人の靴職人が浅草から巣立って行きました。
(この名残から、浅草は靴屋が多く、靴の町と呼ばれてもいたんですね。)

 日本の靴に歴史あり、か。

 さらにすぐ先の街角に建つ白いビルの屋上に、ドーム型の屋根が乗っかている。

壁に描かれた絵から、イスラム教のモスクのようでした。

今は日本にも多くの回教徒が住んでるそうで、お祈りのモスクはTVでも

時折報道がありますね。

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過ぎて一本先の小路を左手に入ると、門は閉まっているが浄土宗・広徳寺。

さらに左奥には寛永5年創建ともいわれる、同じく浄土宗の春慶院で、

奥には福徳子育て地蔵尊

境内墓地に吉原の花魁2代目高尾の墓がある。

街道書では、「高尾」は吉原の代表的名妓が襲名した源氏名で、この2代目は

仙台藩主・伊達綱宗が贔屓し、仙台高尾とも呼ばれた。

 芝居や落語では伊達綱宗に斬殺されたと演じられてるが、結核でとの説もある、

とある。

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向かいにはやはり浄土宗の道林寺が建ち、春慶院の左の小路を北へ入ると、

永元年(1624年)に、哲州和尚を祖として創建した曹洞宗東禅寺

正面には、東京都の指定有形文化財、宝永7年(1710年)造立の江戸六地蔵

1つ、「銅造地蔵菩薩坐像」が鎮座しています。

地蔵尊は街道を向いて祀られていて、現在は家屋やビルが建ちならんでるが、

江戸時代は奥州街道日光街道沿いにあり、1928年(昭和3年)に現在地に移転し、

本堂はお寺とは思えない鉄筋コンクリート製に作り替えられた。

江戸六地蔵の内、品川寺東海道)、真性寺(中山道)は拝観したので

残り3地蔵もいつの日かに。

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そして、正面左側には製パン会社(株)木村屋總本店の、日本初の「あんパン」を

創作した木村安兵衛・妻ブナの夫婦像が立っています。

良く知られる、銀座四丁目にて現在も盛業の(株)銀座木村屋は、

同じルーツの分社化された会社で、木村家としての運営だそうな。

 我が家の隣町に大きな工場があるので、馴染みのパンメーカーなんです。

檀家だったのかな?

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街道に戻る途中のに路地奥に、赤いのぼりをカミさんが気が付きました。

幟には南無馬頭観世音菩薩と書かれていて、街道書を見ると駿馬塚でした。

康平年間(1058~65年)頃、源義家陸奥へ向かう際、この地で愛馬が絶命し、この地に葬ったという。 江戸名所図会にも描かれていた、とも記されてます。

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気温がジリジリ上り、マスク着用なので日陰を選んで歩きますが、またく風が

無くなり、ムシムシ感がかなり強まってきました。

旧街道の吉野通りへ戻り、北へと向かいます。

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途中自販機のあった日陰で、マスクを外して小休憩とゆっくり足を進めると、

明治通りとの交差点が泪橋の交差点。

川が流れていた面影は全くなしの明治通りだが、かっては石神井川用水の支流の

思川が流れていて、先にある小塚原の刑場に護送される罪人と身内とが別れの涙を

ながしたとの由来で、東海道の鈴ヶ森刑場手前の品川宿にも同じ呼び名の橋があった。

よく街道筋ではかって川が流れて橋があったとこには、石などで欄干のモチーフが置かれてるが、まったく見当たらない。

街道書に記載がなければあっさり通り過ぎてるでしょう。

今の60~70代には、山谷と言えば少年雑誌に記載され大人気となった

漫画「あしたのジョー」を思い出し方も多いようで旅日記などでもよく書かれてる。

東京の下町にあるドヤ街を舞台にし、主人公である矢吹ジョーがボクシングのトレーニングをするのが丹下ジムで、泪橋の下にあるという設定になっています。泪橋は漫画の世界の中の架空の存在はないでね。東京都荒川区台東区の区境にある交差点に現在でも「泪橋」は実在しています。

TVアニメでは木造橋を、ジョーが渡って山谷へやってくる場面があった、

と覚えてるかもしれませんね。その木造橋が泪橋なんだとか。

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泪橋交差点に立ち、思い出しました。

札幌勤務から戻ってきた昭和40年代前半頃でしたが、一帯は当時「山谷」と

呼ばれていた簡易宿所の密集地域で、大阪の釜ヶ崎と並んで、よく騒動などが

報道されていた。

かって一度だけ社用で来たことがあったが、怖い街の知識で早々に済ませて退散した

記憶がある。確かに昼間から酔っぱらた労務者たちがたむろしていたね。

さっき通って来たのは山谷堀で、あの付近一帯から昔は山谷で呼ばれていたんだ。

現在は町名としての山谷表記は消滅したようで、通りには外国人バックパッカー向けの宿泊施設が多くみられ、コロナ騒動前は多くの海外の人々でにぎわっていたようです。

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コロナで人影もないが、またにぎやかな街並みを取り戻してほしいもんです。 

なんて、あれやこれやお喋りしながら進むと街道は二本の鉄道線路で寸断。

車は地下へもぐって鉄道を越え、人や自転車は渡架橋で越えてゆきます。

高架はふたつ並び、手前が東京メトロ日比谷線で、つながって高架でJR常磐線

高架を降りると右手が南千住駅でした。

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街道は直進で続き、予定は先の千住宿でしたが、カミさんの足取りがいつもと違って

重たそう。

時刻も午後の3時を回っているし気温湿度も高い、と、まだ8kmくらい、寄り道勘定でも11kmくらいしか歩いてないが、今日の旅はここで足止めに。

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 大震災、大戦の空襲と焼き尽くされた地域のため、歴史ある建物、史跡物などは

全く残っていない街道ですが、再建や案内板でしめされた街道筋。

のんびり、時代を振り返りながらの旅、いいもんです。

さ~て、先へ歩ける日ころにには県外お出かけも解禁になる日だろうが・・・

  またの日を楽しみに。 PM3:30 電車に乗った。

コロナ、完全に治まってくれ!! 旅立ち編、おわり。

 

 

 

 

 

歩いて再び京の都へ、の前に 日光道中二十一次 街道散歩、旅立ち一歩・前編。

2020年6月16日(火)

今日も梅雨の中休みで、薄曇りの夜明にそよ風。

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できるだけ朝のうちに旅立ちしようと、身支度をして朝の5時半、

自転車にて最寄りの駅へ。

いや~、懐かしい時間帯だ!20年前まで毎朝通勤した時間帯。

夏の朝のヒンヤリ感がいいんですね。(冬はつらいけど・・)

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電車時刻は少し変わっていたが、ほぼ同じAM6:09の電車に乗れた。

この時間くらいから徐々に始まる通勤ラッシュも、まだその感はナシ。

さすがに乗客は全員マスク姿、窓は空いていたが、すでに冷房も入っていた。

電車に乗るのは半年ぶり、八重洲方面へ向かうのは・・中山道旅立ちいらい?

いつもは東京駅へ向かうときは、池袋駅からはメトロ利用だったが、

カミさんの意向で地上を走るJR山手線で向かいます。

  東京駅へ降り立ち、八重洲口を出る前に地下商店街のカフェで朝食。

席は4人席に二人掛け、カウンター席は一人置きになっていた。

八重洲中央口で地上へ出ると、八重洲はすっかり様変わり。

見上げる高層ビルはぼこぼこ建ってるし、初めて訪れたような感で、

きょろきょろ足を止めて見廻ししながら日本橋へ向かいます。
日本橋手前に行基作と伝う「日限延命地蔵菩薩像」を安置した西河岸地蔵寺
三方を高いビルに囲まれてあるというが、見つけられぬまま通り過ぎ、

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AM7:45、高架がなんとも鬱陶しい三度目の日本橋に立ちました。

この高架も地下化が決まったようだが、空の下の日本橋に立つことは、

・・・

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日本国道路元標(レプリカ)を確認し、

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2020年6月16日(火)AM8時00分 日光東照宮を目指して日光道中
街道夫婦歩き旅をスタート。(80才、73才)

*栄泉・木曽街道(中山道日本橋の図

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「江戸時代から関東大震災の時期まで、日本橋川岸に魚河岸があったが、

大震災後に築地に移転したんだ」、栄泉の日本橋にも描かれてるね・・

「その築地もなく、今は豊洲なのね~」なんておしゃべりしながら歩いてるうちに、

旅立ちショットを写しわすれて、「ながら旅立ち」をしてしまった!!

 

日光街道は江戸五街道の一つ、江戸日本橋から日光東照宮迄、21宿140Kmの旅。
歩き始めてすぐ左手は三越本店、その先は三井本館、並び向こう側には

近代高層ビルの三井東タワー手前が、高級果物老舗の千疋屋などの重厚な石造りの

建物が聳え、右手は最近オープンした「江戸」をコンセプトにしたグルメ&ショッピングの複合施設、コレド室町のビル群。

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日本橋、室町周辺は近年に大変貌をしていた。

千疋屋前から東へ伸びる通りの、ビルの谷間に赤い鳥居が見えるのは、

日本橋再開発に伴い2014年復興再建された福徳神社と、併設して福徳の森。

貞観年間(859~876年)には既にこの地に鎮座していたという由緒ある神社で、

昔から村の鎮守として人々の崇敬を集めていた。

江戸時代には日本橋界隈の鎮守として栄え、徳川家康公も参詣したといわれる。

ビルの屋上や飲食店の社屋内などに祀られていたが、社殿再興が実現した。
(由来案内文より)

江戸時代の宝くじ・富くじの発行が幕府から許されていた神社でもあったので、

現代は宝くじ当選祈願で多くの人が訪れるんだとか。

通勤の途中と思えるが、参拝する方が結構いましたね。

2016年の中山道旅の頃には、すでに再建されていたわけだが、

当時使用していた街道案内マップには記載されてなかったので、

気づかなかったんようだ。

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中央通り(中山道)に戻り、すぐ先の千疋屋角の室町3丁目南交差点で

右折し大伝馬本町通りへ入るのが、日光街道(日光道中)です。

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右折して進んだすぐ先は、街道を寸断して首都高速上野線が走る昭和通り
交差点、歩道帯はなく、地下道を潜ってゆきますが、ホームレスの方々の住処で

段ボールなどが並んでるという話もあり、カミさん苦手のため、少し遠回りして

信号機のある横断歩道帯を渡ります。

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街道に復帰しての通りは大伝馬町通り。

徳川家康の江戸入府に際し、三河より随行した馬込勘解由が名主となり、

三伝馬取締役を務めた。

左手に承応2年創業(1653)約400年続く、和紙専門問屋小津和紙店。

 館内には和紙の工芸展示室もあるそうです。

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そして裏手北側には史跡・於竹大日如来井戸跡が」整備され縁起碑が掲げられていた。

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寛永の頃、大伝馬町・佐久間家(馬込家の説も)で下働きをしていた誠実で慈悲心の強いお竹は、出羽の国の行者より「大日如来の化身」と告げられる。

その後、主人が作った持仏堂で念仏三昧の道に入ったお竹を、江戸市中の人々が

参拝に訪れたという。

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小津和紙店の裏通りをそのまま50mほど東へ行くと、大伝馬町通りで開かれる

べったら市で知られる宝田恵比寿神社
江戸城外の宝田村の鎮守だったが、村人は江戸城築城の際に家康から移転を命ぜられこの地に移り住んだという。

日本橋七福神巡りで知られる宝田恵比寿神社は、もともと江戸城外の宝田村の鎮守で現在の皇居前にあったという。それが慶長11年(1606年)、徳川家康による江戸城拡張のため、現在の場所に村ごと移転。その際に徳川家から贈られた恵比寿像がご神体として、今でも祭壇中央に祀られている。

べったら市は、江戸後期にはすでに開催されていた伝統行事。明治・大正時代には1000軒ほどの店が出て、それは賑やかだった。

(たしか学生時代に一度だけ友と来たことがあるね)

下宿で初めて食べた時は甘いたくあんだ!とびっくりしたことがあった。

べったら市という名前の由来は「その昔、恵比寿講で購入した浅漬け大根を振り回しながら、『べったりつくぞ、べったらだー』と恵比寿様に参拝するご婦人を若者たちがからかったことから『べったら市』の名がついた由。(由来書き板)

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大伝馬町に戻り少し行くと「旧日光街道本通」の道標が立っている。

碑の側面には「徳川家康公江戸開府の際し御傳馬支配であった馬込勘解由が

名主としてこの地に住し、以後大傳馬町と称された。」と彫られている。

この道標が日光道中を示す初めての標識ということになるのね、てカミさん。

たしかに、都内の街道や史跡の場所を示す方向指示標識的なものは皆無ですから、

案内書がなければ歩くだけになってしまうね。

(先ほどの於竹大日如来井戸跡の記されていた、馬込家とは御伝馬支配の家でした)

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すぐ先左手に江戸屋と木板看板を掲げたレトロな建物には、文化庁登録有形文化財のプレートがあった。

調べると、七代将軍家継の時代、初代利兵衛は将軍家お抱えの「刷毛師」に任じられ、
その後、享保三年(1718年)に将軍家より「江戸屋」の屋号を与えられ、

江戸刷毛の専門店として開業したという伝統ある老舗でした。

(現在も刷毛、ブラシで盛業中のようです)

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進んで 人形町通りを左折し小伝馬町へ入り、総武本線が地下を通る

水戸街道江戸通り)で、小伝馬町交差点で左側、北側にわたって寄り道。

人形町通りを南に行くと、安産まどの神様、水天宮が祀られてますね。

長女のとき、義母に連れられて三人でお守りや帯を授かりに来たことがあったな。

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進んだ左手、十思公園などのある一帯がいまは面影はないが、明治初期に

市ヶ谷監獄が設置されるまで270年間つづいた、江戸幕府最大の伝馬町牢屋敷。

敷地面積(2618坪)で、牢、処刑場などがあった場所です。

伝馬町牢屋敷は現代における刑務所というより、未決囚を収監し死刑囚を処断する

拘置所に近い性質を持った施設である。 

牢屋奉行は代々世襲で、大番衆の石出帯刀が勤め、その配下として40人~80人程度の

牢屋役人、獄丁50人程度で管理をしていた。

講談、芝居、小説時代物などで出てくる、首切り浅右衛門こと山田浅右衛門は、

浪人であたそうだが、御様御用(おためしごよう)という刀剣の試し斬り役を務めて

いた人物なんですね。

代々浅右衛門を名乗り、幕府瓦解後には山田家は「東京府囚獄掛斬役」として

明治政府に出仕し、引き続き処刑執行の役割を担ったが、1870年(明治3年)には

弁官達により、刑死者の試し斬りと人胆等の取り扱いが禁止され、山田浅右衛門家の

役目は終わった。 
1880年明治13年)死刑は絞首刑となることが決定、1882年(明治15年)には、

斬首刑は廃止された。山田家では1881年明治14年)に斬役から市ヶ谷監獄の書記と

なった。こうして「人斬り浅右衛門」としての山田浅右衛門家はその役目を終え、

消滅した。

付け焼刃で得た知識を、カミさんとおしゃべりしながら向かう十思公園内には、

吉田松陰が処刑された終焉之地碑があり、死刑執行の合図に使われた時の鐘が

移設されてました。

「江戸時代、罪人の処刑は「石町時の鐘」を合図に行われ、刑の執行を控えた日は

 刻限を意図的に遅らせたところから「情けの鐘」と呼ばれた、との説が伝わってる

 そうです。

 第7代の山田浅右衛門吉利は、安政の大獄のとき、吉田松陰橋本左内を斬首した

 人物として知られ、墓が新宿区の勝興寺にある」(伝馬牢、解説文より)

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隣接する大安楽寺は、境内が処刑場だった跡地で、境内に「江戸伝馬町処刑場跡」碑があります。

中央に刑死者供養の延命地蔵が建ってるが、命を絶つ処刑場跡に延命というのは?

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街道にもどり人形町通りを越えると馬喰町、横山町の問屋街が続いている。

馬喰町は馬市が立ち傳馬用の馬が売り買いされていたところで、

横山町は、広重が名所江戸百景「大てんま町木綿店」でこの界隈を描いている

そうです。

ここは江戸時代から各種問屋が軒を並べて、現在も衣類、インテリア、バッグなど

多くの問屋がある。

(店には「卸の店で個人販売はいたしておりません」の表示があるが・・

 そう厳格でもなさそう)

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(問屋街のマップを眺めながら、ああ、この辺だったと実に懐かしいんですね。

 もう60年弱昔しに、サラリーマン生活をスタートさせた会社の本社社屋が

 一本隔てた通りにあったんです。

 新入社員研修で1ヶ月、6年後に札幌勤務から戻った折り本社が東銀座へ

 移転するまで1ヶ月の2か月間ほどはこの界隈が馴染みの地だったんです)

カミさんに、そんな思い出お喋りしながら問屋街の街並みを過ぎると、西からの

靖国通りと交差の浅草橋交差点があり、右手に靖国通りを行くとすぐ先は隅田川

両国橋。

先で江戸通りに合流し、屋形船が沢山舫ってる神田川に架かる浅草橋を渡ります。

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渡った浅草橋の東側右手の小路を入ると 明治7年に創設された官立の図書館跡で、

浅草文庫碑(榊神社内)があり、左は繁昌稲荷社と街道書にありますが、

寄らずに横断歩道で西側にわたると、橋の北側左手小公園に「浅草見附跡」碑が

あります。
江戸幕府は、主要交通路の重要な地点に櫓・門・橋などを築き江戸城の警護をし、

日光、奥州街道が通るこの地は、浅草観音への道筋にあたることから門が築かれ

浅草御門と呼ばれ、警護の人を配置したことから浅草見附ともいわれた。
ここにはじめて橋がかけられたのは寛永13年(1636)のことで、浅草御門前にあった

ことから浅草御門橋と呼ばれたが、いつしか「浅草橋」になったそうだ。

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寄りませんでしたが、神田川を挟んだ南側の樹の茂る小さな公園は、関東の

幕府直轄領の年貢の徴収、治水、領民紛争の処理などを行った郡代屋敷跡で

碑があるそうです。

(橋の向こう側で江戸通りと合流してます)

この橋も、かっては2か月間ほど毎日渡ったが、郡代屋敷跡も浅草見附跡も

当時は気にも留めず通り過ぎていたんだな・・。

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 浅草橋から江戸通りを200m弱でJR総武線のガードを過ぎてのすぐ左手が

浅草橋駅。(昔と少し変わってるかな?)

総武線が東へ隅田川を渡ると両国駅があり、左手にご存知、両国国技館

その東隣には東京江戸博物館だある。

(近くの支店勤めもあって、界隈は勤め人最後の5年ほど毎日通勤であるいていた)

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駅前の江戸通り東側一帯は、かっては柳橋芸者で知られた江戸中期からある

古い花街、柳橋です。

1859年(安政6年)には、芸妓140名から150名ほど芸妓の記録があるそうで、

新入社員研修時代、同期と見学で料亭街をぶらぶらしたことがあった。

前の東京オリンピック後急激に衰退していき、平成11年に最後の料亭が廃業、

200年近くの歴史に終止符を打った、と街案内にありますね。

駅のすぐ先を左手へ入ると「銀杏岡八幡神社」がある。

源義家が永承六年に奥州出征の際、隅田川の川上から流れ着いた銀杏の枝を地面に刺し勝利を祈願した。奥州平定後、戻ってみると銀杏が大きく繁茂していた。この神恩に感謝し八幡宮を勧請した」の由緒書が掲示されている。

(銀杏の樹は江戸時代の大火で焼失したそうです)

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戻る小路の正面に見えたのは、TVCMでお馴染みの人形の久月・本社ビル。

10階建て?変貌にびっくりです。

一帯は人形の街と言われ多くの店が並んでます。

「長男の五月節句人形も、この街で買ったわ~」てカミさんが思い出していた。

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江戸通り手前の小路へ入った角に、幕末文久2年(1862年)創業と

看板を掲げた江戸前佃煮の老舗、「佃煮の鮒佐」本店がありました。

この店の若鮎の佃煮が絶品だそうですね。

日本橋室町にも有名店の日本橋鮒佐がありますが、分家だったとは初めて知りました。

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江戸通りに出ずに北に向かうとすぐに、ご祭神は素盞鳴尊(すさのおのみこと)の

須賀神社がありました。

縁起によれば、御創建は推古天皇九年(600年)。江戸時代には牛頭天王社祇園社、蔵前天王社、団子天王社と呼ばれていたが明治元年須賀神社と改称。

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江戸通りに戻り須賀交番前交差点(黒い三角屋根が交番)を渡って右手に入った左手に第六天榊神社が鎮座してます。

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境内内はかって、明治7年創立の官立図書館跡であり、

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コンクリート造りの神楽殿右手赤い鳥居の後ろ側に高さ4mの記念石碑が建ってます。

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江戸通りに戻り、浅草橋駅から約500m蔵前橋通と交差の蔵前1丁目交差点左手、
木立のある所に、寄っていませんが街道書には、「江戸時代浅草天文台があった。

「旧町名由来案内・浅草蔵前」の説明版と、天文台跡の説明版が並んでいる」

と記されてます。
旧町名由来案内には、「本町は、付近の九ヵ町を整理統合して昭和九年(1934)にできた。蔵前と言う町名が初めて付けられたのは元和七年(1621)の浅草御蔵前片町である。この付近に徳川幕府米蔵があったことから付けられた。」と記され、

天文台跡は、足掛け17年をかけて日本全土を測量し「大日本沿海輿地全図」を完成させた伊能忠敬の師匠・天文方高橋至時(たかはしよしとき)が天文観測を行ったところ、と記されています。

 葛飾北斎画 「富嶽百景・浅草鳥越の図 」のもこの天文台が描かれている。

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(資料写真)

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さらに交差点を左手西に5分ほど向かえば、江戸随一の重さと謡われた

千貫御輿(重量4トン)の鳥越祭りで名高い鳥越神社があるんですね。
平将門の首が飛び越していったので「鳥越(=飛び越え)」という地名になり、
この社名となった。あるいは、将門の身体はバラバラにされて江戸各地に埋められたが、この鳥越神社には手が埋められているという伝説があるんだとか。

日光街道江戸通り)は交差点を渡りまっつぐ北へ向かいますが、

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交差点を右手に蔵前橋通りに入りすぐ左手の小路を入ると、説明板に

「御蔵造営用の石を運ぶ船が遭難しかかった時に現れ、船を安全に導いた楫取という

 稲荷を祀っている」と書かれた楫取(かじとり)神社が鎮座してます。

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もどり蔵前橋通りを東に蔵前橋の手前左手一帯は江戸時代は天領からの年貢米を

貯蔵し主に旗本、御家人の給米に供され、蔵前の地名由来となった浅草御蔵跡です。

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跡地は大戦後に、両国の国技館がGHQに接収されたため、新に蔵前国技館

建ていたが、国技館はもとの両国へ新国技館が建ち、現在は都水道局の施設となって

ます。
蔵前国技館には義父の生前、2度ほど大相撲を見に連れてきていただき、

升席でいっぱい飲みながら初めての大相撲の観戦、

たしか郷土の大横綱大鵬時代が終わりをつげ、輪島、北の富士横綱

勢いよく北の湖が台頭してきたころだった。

あやふやだけど、なつかしい思い出だったな~。
(カミさんが長女の出産で実家へ里帰りで、一緒に実家へきていたんです)
(資料から蔵前国技館

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右手、蔵前橋の手前に見えるのは「首尾の松跡」で、吉原帰りの遊客が昨夜の首尾を

語りあった由で今の松は7代目と街道書に書かれてる。

もとは少し川下の川岸にあったようで移植されたんだとか。

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蔵前橋へ出てみると川の向こう北東には東京スカイツリーが見渡せ、
南東には新両国国技館の丸い緑の屋根が見えている。

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f:id:hansui:20200619172324j:plain蔵前1丁目1交差点へ戻り江戸通を浅草方面へ向かい、400mほどの小路を左手へ

行くと、由来書に「当社は、五代将軍綱吉が元禄六年(1693年)、山城国(京都)

男山の石清水八幡宮を勧請したのが始まりです。以来、江戸城鬼門除けの守護神として篤く尊崇された。」と記される「蔵前神社」が鎮座してます。

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境内には「阿武松という江戸時代勧進大相撲で名横綱に出世した相撲取りの古典落語

ゆかりの神社」札書き、説明版に「この錦絵は文政七年(1824年)の春に、御蔵前八幡宮で行われた「力持」の技芸の奉納を描いたものです。」と書かれている

浮世絵師・歌川國安の奉納力持ちの錦絵碑や、「蔵前の八幡様の境内で満願叶って

人間になった真っ白い犬が奉公先で珍騒動を巻き起こす話の犬の像」など盛り沢山。

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境内を囲むのは、懐かしい四股名が彫られた大相撲協会の奉納石柱がずらり。

千代の山鏡里吉葉山、そして三根山やあの業師名横綱となった栃錦はまだ大関

みんな子供のころラジオにしがみ付いてい聞いていたのを思い出したね。

北海道巡業に来た時も千代の山吉葉山のわが町での巡業興行があって、

朝早くから宿泊先まで押しかけて、夕刻まで握り飯を持ったて、まじかに両横綱

追いかけまわし、一日中街は大賑わいだった、大感激したけな~・

なんておしゃべりしながら境内内でマスクを外して一休憩。

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隣には落語『蔵前駕篭』に登場と街道書に記された榧寺(かやでら)。

慶長4年(1599)に普光観智国師正覚寺として開山ともあり、

家の宗派、浄土宗なのでお参りに足を向けると、門前横に掲げられた説明板には、

「本観音菩薩坐像は銅製、鋳造で、総高が208.4センチメートル、像高は100.2センチメートルあります。
 本像は銘文によると、宝暦年中(1751から1764)に室生寺の僧、快心が発願し、江戸の鋳物師、粉川市正が制作して榧寺の本堂前に安置したものです。

江戸を代表する鋳物師の作風を伝えるものとして貴重な遺品であり、江戸時代の鋳物師を考える上で基準となる作例のひとつです・・・・などなど」記されてますが、

なぜか見つけられなかったんです。

(区資料の写真)

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厄除け地蔵や飴舐め地蔵、お初地蔵など変わったな名のお地蔵さんがあったが・・

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境内のさいていた丸味をもった青色ガクアジサイ

カミさんが気に入って

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街道へ戻ると厩橋交差点で駒形町に入ります。

東に隅田川に架かる厩橋の青いアーチが見へ、交差点を渡って北へ進んで

駒形1丁目交差点を渡ると左手に諏訪神社

北隣りには、TVでお馴染みキャラクターがずらいと並ぶバンダイ本社ビル。

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バンダイ本社と向かいあわっせの北側角には、江戸時代享和元年(1801)創業の

老舗・駒形どぜう

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(お店も再開できたようですね)

50年ほど前にお客様接待で一度だけ上がった記憶があるんです。

当時は広いご座敷きの板の間にテーブル、座布団が並べられ、丸いガスコンロの

ガスは、ホースで引かれていたな。

カミさんに昼はここにと聞いたら「泥鰌」は・・て食わず嫌いの返事で見送り。

(お店の案内文、ながいが転載)
駒形どぜう」の創業は1801年。徳川11代将軍、家斉公の時代です。初代越後屋助七は武蔵国(現埼玉県北葛飾郡)の出身で、18歳の時に江戸に出て奉公した後、浅草駒形にめし屋を開きました。当時から駒形は浅草寺にお参りする参詣ルートのメインストリートであり、また翌年の3月18日から浅草寺のご開帳が行われたこともあって、店は大勢のお客様で繁盛したと言います。

初代が始めたどぜうなべ・どぜう汁に加え、二代目助七がくじらなべを売り出すなど、商売はその後も順調に続きました。嘉永元年(1848年)に出された当時のグルメガイド『江戸名物酒飯手引草』には、当店の名が記されております。
やがて時代は明治・大正・昭和と移り変わり、関東大震災第二次世界大戦では店の全焼という被害を受けます。しかし多くのお客様のご支援と先代の努力もあって、江戸の味と建物は現在の七代目へと引き継がれております。

仮名遣いでは「どじょう」。もともとは「どぢやう」もしくは「どじやう」と書くのが正しい表記です。 それを「どぜう」としたのは初代越後屋助七の発案です。 文化3年(1806年)の江戸の大火によって店が類焼した際に、「どぢやう」の四文字では縁起が悪いと当時の有名な看板書き「撞木屋仙吉」に頼み込み、奇数文字の「どぜう」と書いてもらったのです。これが評判を呼んで店は繁盛。江戸末期には他の店も真似て、看板を「どぜう」に書き換えたといいます。 200余年の歴史を刻む、当店の大事なのれんです。

確かに200余年と聞いて「敷居が高いのでは」という声も耳にいたします。そんなふうにおっしゃられていた方も、のれんをくぐるとお出迎えするスタッフたちの若さに驚いたという方もいらっしゃるようです。もちろん実際は従業員たちの年齢も様々で、熟練のものも多数おります。そしてこの彼ら彼女ら従業員たちこそが、この先の300年、400年と味とおもてなしを守り続ける者たちでございます。
是非とも「老舗」や「泥臭い?」という先入観をちょいと脇において、さっとのれんをくぐってみてください。200余年間お待ちし続けた従業員たちが、心を込めて皆さんをおもてなしいたします。

江戸時代から庶民に親しまれてきたどぜう。
味とおもてなしに江戸情緒を残し、皆様より格別のお引き立てをいただいております。
ぜひ伝統の味をご賞味ください。

 

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100mほど行くと左手に1940年創業のカバンメーカーが運営する

珍しい「世界のカバン博物館」の案内板のある大きなビルがあった。

立寄って・・・う~ん、またの機会に、

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さらに100mほど進むと大きく開けた駒形西詰交差点にで、右手東へすぐに隅田川に架かる青いアーチの駒形橋。川向うに空に向かって旅立つように東京スカイツリー

(交差点を西へ2kmほど行けばmあの懐かしき故郷への玄関口、上野駅に行ける)f:id:hansui:20200620122636j:plain

 駒形橋西詰交差点の駒形橋よりの一角に、浅草寺駒形堂が見えている。

(交差点西門よりパチリ)

「東京でもっとも歴史を誇る寺は、浅草寺(せんそうじ)といわれていますが、

 そのルーツとなるお堂が駒形橋のたもと近くにある駒形堂。

 『浅草寺縁起』によれば、浅草寺は兄弟が隅田川で漁をしていた際に1躰の仏像が

 網にかかったので自ら出家、屋敷を寺に改めたのが始まりと伝えますが、その

 仏像が陸に上げられた 地が駒形堂です。
 本尊は馬頭観世音菩薩(木彫立像28.8cm)で、古代、この地が牧だったことに

 関連があり、毎月19日、馬頭観音の縁日に御開扉されている」

(駒形堂解説文)

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駒形西詰交差点で日光街道は江戸通をから左斜め別れて北へ向かう。

もう一度東京スカイツリーを眺めて進むと、正面に「浅草観音の雷門」

この門もまた懐かしいな~・・懐かしい思い出が次々と・・・

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時刻はお昼には少し早いが、浅草寺参拝拝観は後でゆっくりとと、手前のレストランで休憩を兼ねってパスタでランチ。

レストラン前は江東区内を循環する「みんなのめぐりん」バスの停留所があった。

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歩いて再び京の都へ、の前に 日光道中二十一次 街道散歩、プロローグ

日光道中へのプロローグ、

 

2013年2月9日旅への記述。

(作成ブログ自体は終了となり、趣味人クラブで一部記載)

某新聞社が読者へ配布した、
歌川広重の浮世絵
東海道五十三次」 の額絵です。

ポン友が、3年ほど前に通しで歩きました。
「しんどかったけど、とても素晴らしい旅だった.

お前も歩いたら・・」 て勧められてました。


カミさんに話したら「いいよ〜・・・」。

そうなんですね。
この年になると先は分かりませんよね。
思い立ったが・・・・動ける内に歩ける内に・・です。

よ〜し、まずは第一歩!!と、綿密な計画は無しに、
明後日23日に日本橋を出立します。

歩ける日の制約があるので年に何回・・
でも思いは遠大?に、4年計画です。

4年後は、半は喜寿、カミさんは古希を迎えます。
そうなんです。
最終目的地は「京都 三条大橋
祝美酒乾杯を迎えたい!!

 

2013年2月22日 東海道五十三次 旅立ち (73才と66才)

 (うん、やっぱり若いですね)

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順調に旅は進み2014年初冬には尾張の国(愛知県)、岡崎宿へ到着し冬ごもり。

ところが迎え2025年春、思いがけない肝臓癌の発覚、そして検査連続、

夏の8月、手術と旅は危ういことに。

退院後懸命に歩きのリハビリ。

有難いことに再発の気配なしに順調に体力も回復し晩秋を迎えたそんな折に、

ふっと目にした、

 

*泣いたって騒いだって…
逃げられないなら笑った方がいいわ・・・*

同県人で、乳癌闘病中の「北斗」さん。
女の命!あのトレードマーク黒髪をばっさり!つるつる・・
瀬戸内寂聴尼」スタイルに変〜身!!

絶対に泣く! → 
    なんと、立ち合った皆が大爆笑!!して・・・

(北斗さんブログ記事より)

うん、うん、うん・・

 

「行ける??」 「思い切って行くか!」

 

2015年11月17日 岡崎宿矢作橋より待望の旅再開へ。(75才 68才)

(歩き終わったと時のうれしさ、今も思い出さずにいられません)

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そして日本橋を旅立って3年4ヶ月、京都三条大橋に感激の到着。
2016年6月18日 (76才 69才)

(癌については抗がん剤などの使用が一切なしでしたので、

   元気に歩けたことだけでもあり難し!)

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そしてまたまた、歩けるうちに動けるうちに、歩いて再び京の都へ、

2016年9月17日 中山道69次 旅立ち (76才 69才)

中山道へ挑戦してから心臓、腹部大動脈、下腹部ヘルニアなどなど、

 4回の入退院があったが何とか街道へ復帰できている。

 事後の健康管理、カミさんのお陰、と感謝です)

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と歩き始めて早3年。

2019年11月24日 近江の国武佐宿到着にて旅は足止めし、
来春の都到着を桜の季節にと冬ごもり。

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そしていよいよ大詰め目前でm2020年春を迎えましたが、

なんと日本中どころか世界中が大騒動。

ようやく全国的に鎮静化しつつあるものの、まだまだ完全開放とはなりません。

6月に入り、特に首都圏内はかなり自由になったとはいえ、

まだ全面的とは言えず、他県では「ご来県は遠慮ください」の地方もあり、

自由往来はもうしばらくは控えた方がよさそうです。

 

2020年6月10日、肝臓癌発覚と手術から5年目の検査診断。
画像検査と腫瘍マーカー検査は有難いことに無事にクリアとなり、
なんとか大きな壁は一つ乗り越えた様子。
さあ、そうなればと意気込んでも世の中は完全に鎮静化したわけじゃない。
それなら、中山道を歩き終えたら次は・・と予定していた「日光街道」へ

ひとまず一歩を踏み出すことに。

(年とともに気が短くなった?我慢ができない??)

いえいえやはり先は短い、動ける歩けるうちに、です。

(庭のカワラナデシコ

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日光街道は、 日光道中が正式名です。

元和3年(1617)東照宮完成により、宇都宮から日光に至る道を日光海道と呼び、

正徳6年(1761年)幕府道中奉行による五街道の名称が統一されたとき、

日光海道は海端の道ではない、との理由で日光道中と呼ばれるようになった由。

そいて現在一般に日光街道と呼ばれるのは、明治維新政府によう改名よる由。
  総延長 日本橋から鉢石まで36里3町2間
(141.6km)江戸時代では3泊4日くらいの行程だったそうです。

さあて老老夫婦るき旅は、どのくらいの日程で日光東照宮を参拝できるかな。

お天気次第ですが、旅は6月16日(火)に第一歩をしるす予定です。 

梅雨の中休みへ入りそう。

 

6月15日(月)

今日から梅雨の中休みに入ったようです。

日中は猛暑の夏日になりました。

明日も暑くなりそうですが、無理せず歩けるところまで

、何度も休憩を入れながらまあ、亀足亀足、そろりそろり参りましょう。

夕暮れ空をオスプレイが北へ向かっていた。

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水無月6月の徒然 農道散歩道

令和2年6月8日(月)

スイレンボクが今朝も沢山咲いた。

4日ほど前から連日の乱れ咲きとでもいうのか、30~50輪は咲き続いてる。

一日花なので夕刻には閉じてしまうので、今年はもう150花ほど咲いたようです。

(開花数を数えるのが日課になってしまった) 

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アジサイ、ダンスパーティーの花が、ずいぶん青くなて見えている。

朝日の日陰なのでかな?

左下のが、本来の花色。

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キキョウそっくりに咲く、カンパニラ白花。

下はは仲間のカンパニラ、ケント・ベルで、ケントさんの作出品らしい。

北側の軒下に植えてあったシレネ・カロニリアナがまだ咲き続いていた。

北側で陽当たりが悪いので咲きだすのもかなり遅かった。

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ぶらぶらとお昼前のひと時をデジカメもって花散歩。

通り道のお宅に咲くガクアジサイと満開のヤマボウシ

道すがらの家庭菜園脇には大きな株のカスミソウが、

春霞がかかったように咲いている。

ナデシコ科、ギプソフィラ属
ヨーロッパ、アジア産で100種を超える種類があり、

日本へは、明治~大正初期にもたらされたと言われてるそうです。
和名:霞草(カスミソウ)、花糸撫子(ハナイトナデシコ)、群撫子(ムレナデシコ)、

小米撫子(コゴメナデシコ
英名:baby’s-breath、Gypsophila
花色はピンク花もあるようです。

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隣ではピークの過ぎたゼニアオイが、小さな可愛らしい花を咲かせてる。

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そしてその隣に実のようなのは??

フウセントウワタに似てるが葉がハリガネ細工のようだが??

なんでしょう???

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日差しを受けて、踊ってるようです、ミニダリアかな。

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散策道沿いには何か所か家庭菜園があって、花々を植えてるところが多いです。

今の時期だと、遠くからでも目立つのはユリの花ですね。

畑で見かけるユリはほとんどがスカシユリ

アジアティック・ハイブリッドとも言われる品種のようです。

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ちょっと小柄な橙赤のユリは姫百合(ヒメユリ)かな?

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右のピンクの花は、人気のロリポップのようです。

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庭にもユリは何種かあったが、移植などしてるうちに消えてしまった。

今は鹿の子百合が一本だけ3年ほど前に復活し、今年も蕾が見え始めた。

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(庭の鹿の子百合、小さく左へ花芽が伸びてます)

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大きく育ったアジサイ

もう何年も咲き続いてるアジサイです。 

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ちょと外れて寄り道、3m四方くらいに大きく広がってるウチワサボテン。

高さも2m以上あったのですが、数年前の猛烈台風で折れてぺしゃんとなったが、

今年も一杯花が咲き、蕾を見せてますね。

午前の農道散歩へでたのはこのサボテンへ寄り道へのためでした。

朝咲き始め、夕には閉じる一日花。

花の命は短かりし・・・・ 

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戻って農道散策道へ。

紫蘭がまだ咲き残っている。ジャガイモの花が満開。今年2度目の作付けですね。

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奥へ進むとこちらも家庭菜園があり、百合の花が沢山咲いてます。

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このユリも姫百合かな?すこし小ぶりの緋色の花。

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横には大きく背伸びしてる立ち葵の花々

花木も長く、

「梅雨入りとともには咲きだし、梅雨明けとともに閉じる」とも言うんだとか。

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青空に白い雲、そして美しい立ち葵の桃色花。

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早生品種でしょうね、トウモロコシも収穫は近い様子。

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 正午も近し、日差しはジリジリ強くなってきました。

予報ではこんなに暑くならないはずだが・・はや夏日になってるのでは。

マスクをして暑さにも慣れておかなければ、と思えども早めに家路へ。

水無月・6月の徒然 自粛解除だけど、

ちょっとお天気の不安定な6月。

閉塞感のあった日々も、徐々に開放され始めてきた。

このまま2次云々など起きないよう、願うばかり。

公園の駐車場も封鎖解除となり、お茶亭、市図書館も再開。

久しぶりにぶらぶら散策で回ってきた。

解放されたお茶亭庭園の池周り。

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睡蓮が咲き始めてる。

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キョウカノコかな、

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黄金色の花はビヨウヤナギ(美容柳)とキンシバイ(金糸梅)

ニワゼキショウの小さな花がまだ咲き残ってる。

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木陰にさく清楚なツツジ

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そして草陰にほのかな色あいはカタバミ

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夏が近づき、色好き始めてるアジサイ

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図書館へ寄って旅の本を借り出して、帰宅。

雨後に次々と咲くのはサフランモドキ

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次々咲きだしてるスイレンボクの優しい花姿、

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パンジービオラの季節も終わり、夏の花々へ移り行く庭、

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カワラナデシコの白花、

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おや、ポーチラカも咲き始めてきた、

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夏の縁取りは日日草、年々花が大きくなってますね。

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アジサイ・ダンスパーティーも見ごろに、

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明け方から次々咲いてきたスイレンボクは植えて初めての乱れ咲に・・

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数えてみると花数は35輪も咲いた・・4年目で初めての乱れ咲き!

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今年の巣立ちは4羽だったようです。

コロナ対応間隔で整然と親鳥を待ってます。

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夕刻から激しい雷雨、一気に夜の帳へ・・

すべてを洗い流し、明るい夏を迎えたいもんですね。

都直前で足踏みしている中山道歩き旅へは、首都圏者も安心して迎えられるまでは

ましばらくは様子見かな。

ならば、歩く予定はしてるから、日光街道へはいかが、

てカミさんから声がかかった。

うん、そうだ圏、しばらくは首都圏内だ、始めるか!!

さっそく旅案内などの資料探し、さて旅立ちは何時できるかな?