日光道中二十一次 第13歩

すぐ先の左側に熱木不動尊が建つ。

熱木不動尊は、宇都宮城の乾の方角の守護であった
康平2年(1059年)、初代の宇都宮氏の祖「藤原宗円」が戦勝祈願して彫った

木彫りの不動尊を祀っている

また此の辺一帯は城下町特有の寺の多い一画となっている、と街道書にある。

宇都宮宿江戸口を過ぎて10分ほど行くと、西原バス停。

宇都宮宿へ入ったばかりだが、j時刻も午後の4時半。

JR宇都宮駅までは2km強あるようなので、今日の街道旅はここで足止め。

梅雨入り前に宇都宮宿は歩き抜けたいが・・・・またいつの日にか。

と、令和4年6月1日、第12歩の歩みを終了。

 

梅雨をへて、猛暑や不安定な天気続きの夏も過ぎ、早10月。

日中は夏日なれど、朝晩は涼し過ぎるくらいの陽気になり、

すっかり鈍った足腰だが、そろりと街道旅へ足を踏み出しに。

10月1日(土)、電車を乗り継ぎ、AM9:30 栃木県宇都宮駅着。

駅前からバスで前回足止めのバス停へ・・・ なんと下車停留所を間違えた・・・。

さあ~、見渡せど景色が違うような???

感覚的にはだいぶ手前の停留で降りてしまった様子。

西原三丁目・・いな、降りたのは西原二丁目〇〇だった・・・

確か路は南北道の「蓬莱大黒通り」だったはずが、この道は東西路だ。

回りの街並み風景を、遠い(自分にとっては)記憶を手繰りし「蓬莱大黒通り」を

見つけ、ようやく前回足止めバス停へたどり着き、やれやれお疲れさん。

(あとになって、カミさんが持ってるスマッホで調べられたね・・・て苦笑い)

と、年らしい凡失をしながらもAM10:30 日光へ向けて約34km。

さぁて、今日はどのぐらい歩けるか? 歩き旅を再開スタート。

気温はぐんぐん上がり、日向の歩きは厳しくなりそう。

道端のさく大きなアメリカ芙蓉。

 宇都宮宿は日光街道奥州街道筋の17番目の宿場町で宇都宮城の城下町でもあり

更に「二荒山神社」の門前町でもあった。

また奥州街道日光街道の追分で大いに賑わったとされ、

1844年(天保15年)の記録によれば、

人口15500人、家屋1693軒、本陣2軒、脇本陣1軒、旅館42軒。

宇都宮藩は慶長6年(1601年)奥平信昌の嫡子家昌が10万石で宇都宮藩が成立し、

以後宇都宮吊天井事件など芝居で演じられた本多正純など、譜代大名が代替わりし、

1868年(慶応4年) の   戸田忠友 代に  廃藩置県を迎えた。

維新戦争やこの大戦の空襲などの戦災で街並みは焼失し、当時の面影はすべて

失われて、今は県庁所都市として人口50万余の北関東最大の近代都市になっている。

 

「蓬莱大黒通り」を5分北上した左側に一向寺の大きな石柱が建ち、

参道が奥に伸びている。

街道書には、建治2年(1276)開山された時宗・一向寺とあり、

『汗かき阿弥陀』の記載が有った。

山門を歩入ると正面にご本堂、そして左手にお堂が建ち、『汗かき阿弥陀』の

青い説明板が立っていた。

『汗かき阿弥陀』で知られる阿弥陀如来坐像は、日曜日のみ拝観とあったが、

特別法要でもあるのか準備がなされており、お寺の方にお聞きすると

今日は特別に開扉され拝観できるというのでさっそくのお堂へ。

『汗かき阿弥陀』は【銅製阿弥陀如来坐像】で国指定重要文化財(昭和25年指定) 

旧国宝(大正3年指定) (入口の説明板)

 この仏像は第12代城主宇都宮満綱が願主となって、応永12年(1405)、

長楽寺の本尊として造られた。

明治2年(1869)、長楽寺が廃寺になったので、本尊は一向寺に移された。

 作者は、宇都宮を中心に活躍していた鋳物師泰景重で、鎌倉時代の作風を残した

仏像である。

本像は,高さ約1mの青銅製で,蓮台は鉄,置台は露岩の大谷石で作られています。

衣には,1105文字が刻まれています。

 えりもとから衣にかけて1,105の文字が刻まれている。
     今までに国の凶事の前兆に発汗していることから,汗かき阿弥陀

呼ばれています。
 太平洋戦争,関東大震災,日清・日露戦争戊辰戦争,古くは五十里湖の大洪水,宇都宮家の滅亡の時などにも発汗したという。

発汗は,阿弥陀像の衣をつけていない皮膚の部分が、しっとりと汗をかいたように

なったと言われています。

一向寺の山門を入ったすぐ左側に,幕末から明治時代にかけて,宇都宮を中心に活躍した画家菊地愛山の墓があります。

(写真は写してなかったので解説板)
 愛山は文政2年(1819年)茂破町(もやぶりちょう:現大寛2丁目付近)に生まれ,明治39年(1906年)に88才で亡くなる直前まで絵を描き続けました。
 人物や花鳥などの描写に優れた画才を発揮して,嘉永年間(19世紀半ば)の日光東照宮の修復のときには,師鈴木梅渓(すずきばいけい)を助けたといわれています。「釈迦三尊十六羅漢像」(一向寺蔵),「延命地蔵菩薩縁日著色絵図額」(延命院蔵)をはじめとして,多くの作品が県や市の文化財に指定されています。

長い参道を街道に戻ると、右手、道を挟んで鳥居は学問の神、菅原道真を祀り、

「都宮城西の守護神、天満宮」と、街道書にある。

すぐ先の道を左に入ると、茅葺の山門を持つ「報恩寺」がある。

寛永16年(1639)に奥平家昌の正室が開山したもので、本堂は戊辰戦争で焼失し、その後再建されたものだが、山門は創建当時のままと云われている。

境内に戊辰戦争で戦死した各藩の戦死者墓石等が建ってる。

薩藩戦死者墓石の揮毫は、大勲位侯爵・松方義方 と読める。

「蓬莱大黒通り」に戻り報恩寺からさらに先に進むと、クランク曲がりの変則交差点で

鍵の手の曲がり、かっては路地には柵、木戸が設けられ枡形をなしていました。

 ここは六道の辻と呼ばれ、戊辰戦争宇都宮城争奪を目指す官軍(新政府軍)と

幕府軍が激戦を行った場所で、官軍戦死者は報恩寺に葬られたが、

旧幕軍は賊軍として公に弔わられず、有志の方が建てた旧幕府軍の戦死者の墓、

六道口の「戊辰の墓」がある。

報恩寺から六道にかけては、宇都宮城下西端に位置する武家屋敷町であった。
江戸時代、楡木・栃木へ通じる六道口を警備する役人屋敷が置かれていたというが、

その面影は全く残されていない。 

鍵の手・六道の辻から少し広い通りを約10分進むと「裁判所前信号」で突き当たり

右折し「材木町通り」の大きなビルが建ち並んで賑わう大通りに入る。

3分ほど南へ行くと、江戸時代の町名を残す問屋場や本陣・旅籠が並ぶ、伝馬町と

呼ばれる一番賑やかな所で、伝馬町バス停の先に、本陣跡の青い説明柱が立っている。

2軒あった本陣のうち、伝馬町にあった上野家本陣跡で、200坪(661m2)近い大きな建物でしたが、今は、屋敷の庭にあったイチョウの大木が、わずかに当時の面影を偲ばせてくれます。

本陣跡の反対側、この伝馬町の交差点が日光街道奥州街道の追分で、

右手へ宇都宮駅方向に奥州街道で、左折する向かいのバスの停まってる道が

日光街道で清住町通りにはいる。

追分を左折して旧日光街道に入ると、狭い二車線道路で歩道帯が無いうえ交通量も多く

軒下を縫うように足を進めなければならなかった。

右手に蔵造りの旧家がある。油を商い副産物の油粕を肥料として農家へ販売している

商家、と街道書にはあった。

付近に伝馬町の一里塚跡の案内板が建ってるというが、見落としてしまったらしい。

清住町通りに入ってすぐ道の左手に小さな社。

天保3年(1832年)、武州秩父の三峰山の火防の神分身を祀ったという、

三峰神社(八坂神社)がある。

さらに5分ほど行くと左手に宝勝寺が見える。

鎌倉幕府御家人で宇都宮家7代当主の景綱が蓮池から拾い上げた
阿弥陀如来像を祀った草庵が起源という。

恵心僧都(えしんそうず)作と伝わる秘仏・日限地蔵尊が有名。

交通が激しく横断は危険と判断、立ち寄らず。

この先の交差点あたりの道がクネっと曲がりの枡形の跡で、

往時は日光方の木戸があり、ここまでが宇都宮宿であったそうです。

交差点を右手に戻るように入ると延命院がある。

山門の前に、この寺で蒲生君平が学問を学んだということで、

蒲生君平先生少年時代修学の寺」と長々と刻まれた碑が立っている。

蒲生君平は明和5年の生まれで尊王論者。忠誠義烈の精神を貫き、「山陵志」を著し、天皇陵を比定したことで有名だそうだが知識なし。

境内には享保年間(1716~36)建立で、宇都宮市最古の木造建築物の一つで、

木造の延命地蔵菩薩立像を祀る地蔵堂がある。

地蔵菩薩は堂内が暗く、拝観は輪郭だけ。

元木戸口へ戻りすぐ右手に桂林寺がある。
宇都宮満綱の開基で、あの蒲生君平の墓がある。 
明治維新時の宇都宮城の戦いで、長州兵と大垣兵がこの寺に篭った。
その為会津兵の焼き討ちにあい、その後再建されたという。

右隣りには四国金毘羅山の分霊を祀った琴平神社があり、清住不動尊も丸られてる由。

清住町通りへ戻り何軒かの風情を残す家屋を見ながら、相変わらず軒下を縫って

危ない道が続きます。

先は枡形の痕跡を残す鍵の手になり曲がり、木戸口から20分ほど行くと道左手に

石碑が建っているのが見える。

街道書には、神道の牛馬の守護神で、仏教道の馬頭観音にあたる

「勝善神」石碑とある。

一説には「名馬の誕生を祈願するもの」とも言われてるそうな。

更に10分ほど行くと、左手から来る国道119号に合流。

ここからは歩道帯も復活でやれやれ一安心・・・。

はや時刻もお昼になり、お腹もすいたね~・・と10分ほど歩いた食事処へ。

手打ちうどん・そばの讃岐、

うどんは讃岐うどんだが、そばを注文し美味しかった~

辛味おろしかき揚げぶっかけ蕎麦、(箸を付けちゃいましたが)

かき揚げは揚げたてアツアツ・・辛味の大根おろし、冷たい麺とつゆ、

葱と花かつおがたっぷり・・  

お店に飾ってあった魚拓、見事な大ヒラメの魚拓。

全長 85cm 重さ6.5kgとある。釣り人は宇都宮の方らしい。

街道に戻り背から陽を受け、日陰の少ない暑い街道を歩みます。

気温は30℃近くまである感じで、少ない日陰を求めながら、水分補給に注意し

足を進めます。

12,3分行くと左手に上戸祭公民館があり、敷地内に薬師如来を祀る薬師堂が建ち、

堂裏には、文政5年(1822年)建立の如意観音像や十九夜塔などの石塔石仏が

安置されていた。

更に約100m程足をた左手の細い路地奥に鳥居が建ち、街道書には高尾神社とある。

高尾神社には1387年に建てられた供養塔・宝篋印塔(ほうきょういんとう)が建ち、

塔には「妙吉貞禅」の文字が刻まれていることから「妙吉塚」と呼ばれる。

妙吉貞禅は南北朝時代の宇都宮二荒山神社に仕えた僧だそうだが、

しかしこの塚については伝わる資料もなく詳細不明とのこと。

また、高尾神社の敷地内には、「妙吉安産子育高 地蔵尊」もあります。

昔、ここ戸祭(とまつり)村に、「新田の四郎」と呼ばれる大男が住んでいました。

四郎は、自分の背丈を後世に残そうと、同じ高さの石柱(地蔵尊の後ろ)を建てた

そうです。

街道へ戻ると電柱に標識が・・

5分ほど足を進めると、こんもり茂る樹々が見えだし、上戸祭交差点。

街道書には国道119号線の両側に桜の古木並木が始まる、とあり。

ありがたい、すこしは木陰の下を歩けそう。

中央に車道があり、両脇に桜と杉の並木、そして、更に
その外側の両方に車道よりも一段と高い歩道があります。

(歩道というより周辺の生活道で車も通ていた)

そしていつの間にか街道は桜並木から杉並木へと続いてゆきます。

歩道帯は少し少し高くなり、車道は一段低い所を通り、両側は杉並木が続いている。

今日の陽気は木陰は有難い、と1kmほど行くと大学のキャンパスが見えだし、

街道書には「上戸祭の一里塚」が記載されている。

江戸日本橋から28番目の一里塚で、1983年(昭和58年)修復整備され、

両塚が原型をとどめていた。(西塚)

日陰で暗いが東塚

庭の花などを見ながら、一里塚から 1kmほど行った頃、カミさんが左足に

痛みを感じると言う。以前にも同じ症状が出て通院したが、はっきりしたことは

わからなかったことがあった。

そうなれば暑さもあるし無理は禁物、調べるとすぐ先に弁天橋バス停がある。

一旦車道帯に降りて、少し先の交差点で右てへ渡り、バス停へ。

まだ日も高く、7kmほどの歩き旅だったが、老いの身には無理が禁物。

体長を整えて、いつの日か街道旅へ復帰を。

日光道中 第13歩の終り。

日光道中二十一次 (第12歩)

先月、5月19日に再開した日光街道歩き旅。

約2週間が過ぎ、カミさんの足も異常無しで6月1日 、再び旅へ。

早朝家を出て、AM8:45、前回足止めのJR宇都宮線石橋駅(栃木県)へ下車。

予定は石橋宿から雀宮宿、宇都宮宿へ  14.4Km  だが、まあ、行けるとこまで。  

  石橋駅前のグリムの塔 
石橋の街中には、「グリムの森」という公園もあるという。
「グリムの森」のHPによると、グリム生誕の地である、ドイツ・ヘッセン州にある

シュタインブリュッケン村と姉妹都市になっているそうで、

ドイツ語で、「シュタイン=石」「ブリュッケン=橋」から、和訳すると「石橋」と

なり姉妹都市となったようであった。

天気は晴れ風も少しあり、まずまずの歩き日和り。

駅前で旅立ちショット

この花、なの花? 多肉植物のようだが。

駅から西北へ5分ほど行くと、国道4号と交わる石橋交差点で日光街道

そして旧石橋宿。

石橋の地名は街道東にかつてあった池上明神に、当時としては珍しい石の橋があった

からとのこと。

石橋は幕府領で代官北条雄之助が支配し、日光道中の15番目の宿場石橋宿。、
天保14年(1843年)の頃、

宿内家数は79軒、うち本陣1、脇本陣1、旅籠30軒、宿内人口は414人。
すぐ左手に立派な煉瓦塀、煉瓦門構えの建屋は、左手の薬局の元母屋かな?

名産・大谷石消防団車庫など見ながら足を進めると、

右手に開雲寺。

おや、隣の塀越しに覗くは、穂咲きしてるが梅花空木のようだが?

真言宗石橋山・開雲寺は、天応1年(781年)東光寺として開山。

文亀2年(1502年)にこの地に移る。慶長9年(1604)幕府から寺領七石を拝領し、

徳川将軍家日光東照宮参拝道中の休泊所となり葵紋の使用が許された。

土塀には城郭様式で銃眼や矢狭間(やざま)がある。
寺の本堂・庫裡・山門などは安政年間(1854~60)の再建であるという。

(修復をしてるからかな、古色蒼然とはしてませんね)

(矢狭間や鉄砲狭間)

開雲寺境内のユニーク羅漢像

開雲寺をあとに、往年の宿場街風情は残していない石橋宿を後にして、

国道4号を少し行くと、右手路肩に新しい馬頭観音や十九夜塔と、すっかり風化が

進んだ庚申塔

東京から94km、95km。単調な国道(日光街道)を40分ほど行くと。

地名は鞘堂となり、左手に鞘堂地蔵尊(さやどう)で、奥に小さなお堂があった。

鞘堂自治会の由来案内板には、

南北朝時代(1380年)の戦での戦死者の鞘を村人が集めお堂を立てた、とある。

いまは安産に霊験あらたかとあり、巧化のために現在のお堂は、昭和53年に

新たに建てられ、厨子には地蔵尊の頭部が収められ、日本画地蔵尊像画が祀られた

ともあった。(頭部だけ祀られるのも珍しい)

 

鞘堂から5分ほど行くと、左手に赤い鳥居が建ち。創建年代は定かではないそうだが、鞘堂新田村の鎮守の星宮神社があった。

鞘堂新田村は日光東照宮の造営後に開かれた村で石橋宿の助郷村。

石の祠が参道右手に並び、裏手にも多数祀られてるという。

すぐ先で96kmを過ぎ「北関東自動車道」の高架をくぐる。

北関東自動車道」の高架をくぐってすぐ先で宇都宮市に入ったようで、

地名が宇都宮市茂原(旧宇都宮藩領)となり、右手に茂原正観音道と刻まれた石柱が

建っている。(市境標識は写し忘れ)

 茂原観音はここを右に入り、JR線を越えて、現在の道で1.6Km先というので、寄り道はパス。

おや、大谷石土台に木造の小屋が載った蔵。

さっきから自衛隊車両が頻繁に国道を行き来していたが、左手に自衛隊基地入り口門が

あり、広大な自衛隊の宇都宮駐屯地の敷地が広がているようだった。

98km99km、民家風の交番などを見送り、30分ほど行くと

安塚街道入り口交差点で、ここが雀宮宿江戸方の入り口で、かっては木戸や土塁が

あったという。

雀宮宿は 江戸から16遍目の宿場町で、日本橋から25里11町(99.4Km)、

 宿内人口:268人、総戸数:72軒(本陣1・脇本陣1 ・旅籠38)

 日光街道が整備されてから街道沿に人々が集まり雀宮村が出来た。

その名は雀宮神社から由来する。

宿場は南北に5町20間(約582m)と小さかった。

雀宮宿へ入り、左手に小倉家が勤めた雀宿本陣跡石碑と街道書にあるが、

石碑は見つけられず、雀宮駅入り口交差点差し掛かり、駅入り口角に門を構えた

建屋が見え、交差点を右手に渡ります。

建屋の門前には、「旧仮本陣芦谷家建物、高麗門」と標柱が建ち、

「雀宿仮本陣」記したの大きな木札が掲げられていた。

仮本陣は代々芦谷家が勤め、名主、問屋を兼ね、建坪は94坪余あったという。

門(高麗門)は、後世に伝えるべき歴史的建造物として、令和元年に「宇都宮市認定建造物」に認定されたそうです。

(仮本陣は小倉家本陣と交代で務めた本陣ということのようです。)

敷地内に植樹された樹は梨の樹の様で、品種名「にっこり}

紐で結ばれた樹が「にっこり」のようです。

説明板に「明治天皇東北巡幸の折り休息され、庭の梨を太政大臣三条実美が皮を

剥いて差し上げた」とあったことからの命名かな?

 「雀宮駅前交差点」から5分、の右側に祠があり、中に数個の石碑が納まっていた。

安政5年(1858年)の大きな馬頭観音石碑と、大正11年(1922年)建立の

馬の神を現す生駒神、勝善神(馬力神)が収められていた。

「馬の神様」は街道旅で初めてかな。

 すぐ隣は、宿場名の由来となった雀宮地区の産土神である郷社雀宮神社。 


雀宮神社、長徳3年(997年)八幡太朗義家によって創建され、雀宮村の鎮守。

正徳3年(1713年)東山天皇より金文字で雀宮と書かれた勅額(ちょくがく)が

下賜され、今でも社殿に保管されている。

この額が社頭にあるため日光社参の将軍や諸大名は参詣を常としました。

(正徳3年(1713年)に下賜されたという「雀宮」と書かれた勅許額。)

鎮守としての鎮めるから轉じて雀(’すずめ)とも、別の説文では、
百人一首歌人藤原実方(さねかた)が陸奥守として任地に赴任すると、

妻の綾女が夫の元へと向いましたが、この地で病死した。

夫の藤原実方も任地で死亡し、霊魂が雀となって飛来し、綾女塚の上まで来て

息絶えた。里人が憐れみ塚上に二人を祭り雀宮神社と称した、これが地名の雀宮の

由来になった。」ともある。

ご本殿はベンガラ塗り?

可愛いお願い

神社のすぐ先は、東京から100Kmの標柱が立っていた。

100kmか~・・・

すぐ先で旧道は左手に少しの間分岐し国道と平行に続く区間を通ります。

少し離れただけで国道の騒音から逃れての15分ほどの静かな街道歩きです。

101km、102km、大谷石倉などを見送りながら

30分ほど行くと、地名は台新田で左側に塗り替えたばかりのようなお堂は

縁起の良い名称の寿鶴(すず)薬師堂と街道書にはある。

地蔵尊如意輪観音像を安置とあるが堂内は覗えない。

案内板もなく由来は不明。

薬師堂から約10分弱、右手に学問の神菅原道真を祭る天神社菅原神社。

この辺りは台新田村立場跡で高札場があったそうで、領内の名主や町年寄は当社にて

宇都宮藩主参勤の送迎を行い、将軍社参の際は境内に仮の御茶屋が設けられたという。

15分ほど進み。国道わきのCaféですこし足休めを兼ねてコーヒータイム。
終えて20分ほど行くとバス停があり名が一里で、そばの交差点名も「一里」の表記。

往時はこの辺りに江曽島一里塚があったそうだが、ここも説明板などは無し。

一里交差点を過ぎてすぐからは電線地下化ですっきりとした国道に変貌。

15分ほど行くと「西原交差点」で、長いこと付き合ってきた国道4号線が

右に分かれ、日光街道は直進する国道119号線とのお付き合いとなり、

「国道119・日光街道・日光31Km」の道標が出てきた。

 国道119号に入り、時代を感じる大工場やJR日光線の越架橋など過ぎて

15分ほど行くと変則四差路のの不動前交差点。

江戸時代初期まで奥州街道追分だったが、その後付け替えられたという。

不動前からはマスク常着で10分ほど行くと、東武日光線のガードがあり、

過ぎたところが日光街道江戸口で、宇都宮宿の木戸や土塁、番所が有り、

明け六つから暮れ六つまで通行ができた、と街道書にはある。

宇都宮宿は 江戸から17番目の宿場で、11万石宇都宮藩の城下町、また日光街道

奥州街道の追分でもあったので、交通の要衝として賑わったそうだ。

本陣2、脇本陣1、旅籠42軒があったという。

すぐ右側に、屋根のかかった市指定史跡があり、街道書によれば、「維新期の尊皇家、蒲生君平勅旌(がもうくんぺいちょくせい)の碑で、明治になって維新に大きな功績があったとしてが追賞されたとあり、元宇都宮城主蒲生家の流れの人物ともある。

 街道から左に宿場の目印となっていた、樹齢は推定800年で根回りは20mほどもある「新町のケヤキ」があったそうだが残念ながら切り倒されたという。

この付近は、江戸時代には宇都宮城下の南端に位置し、元和5年(1619)、

宇都宮城本多正純により日光街道の付け替えがなされたとき、街道沿いに新しく

開かれたところで、町の名もそれに由来するという。

すぐ先右側に「一向寺旧地蔵寺参道」と刻まれた石碑が建っているが、現在の一向寺はもう少し先にあるそうです。

 左側に1605年(慶長10年)に開基された台陽寺の参門

戊辰戦争で戦死した宇都宮藩士の墓がある。また、境内には、子安地蔵尊も祀られている。

すぐ先の左側に熱木不動尊が建つ。

熱木不動尊は、宇都宮城の乾の方角の守護であった
康平2年(1059年)、初代の宇都宮氏の祖「藤原宗円」が戦勝祈願して彫った

木彫りの不動尊を祀っている

また此の辺一帯は城下町特有の寺の多い一画となっている、と街道書にある。

不動尊の先に西原バス停。

宇都宮宿へ入ったばかりだが、j時刻も午後の4時半。

JR宇都宮駅までは2km強あるようなので、今日の街道旅はここで足止め。

 

5分待ちで来たバスで、JR宇都宮駅へ出て家路へ。
郊外の街道歩きはほとんどをマスクを外しての歩き。

梅雨入り前に宇都宮宿は歩き抜けたいが・・・・またいつの日にか。

 

 

 日光道中二十一次 (第11歩) 旅の再開へ

4月7日に中山道を歩き終え、しばらくぼ~と足休め。

さあ、そろそろ日光街道を再開するか、と思えどもなかなか天気が安定しない。

ようやく一日中晴れの予報が5月19日(木)にでて、日光街道旅の再開へ。

前回の足止めは栃木県、下野市小金井。

久々に通勤混雑の電車に乗って小金井駅へ。

AM9:15 駅前で旅立ちショット。

朝は爽やかな風があり、歩き旅にはいい気候だが、気温はどんどん上がりそう。

まだ暑さ慣れしていない体にマスク、予報では日中は夏日になるという。

 

日光街道は、江戸から日光鉢石(はついし)宿まで36里余、約142kmの道のり。

宇都宮までの旧道は、現在の国道4号線と重なったりちょっと離れたりしながら

続いていている。

15分ほど歩いて、国道4号へ出てる。

日光街道は国道を横断した少し先を通ているが、右折して国道沿いを進みます。

5分ほど行くと、左手に大きな木の茂みがのが 見えてきたのは、

日本橋から22里22番目、原型に近い形で左右両塚が残っていて、国指定史跡に

なっている「小金井一里塚」。

手前、南塚 奥,北塚

国道から少し離れて通っていた街道は、この両塚の間を通り、

現国道の街道へ続いていており、江戸時代の道幅は9.4mあったという。

国道に合流してすぐの辺りからかつての小金井宿で、平成の大合併下野市小金井。

小金井宿、日本橋から14番目の宿場で人口767人。

本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠は43軒あったというが、今はその面影は全く見られない。

小金井宿は元和年、西方の金井村から移転し始め、延宝9年(1811年)より

宿駅の数に入ったという。

一里塚より10分ほど行くと左手に門柱が建ち、奥に慈眼寺の山門。

参道右手で、にこやかに迎える石仏。

大きなおなか、袋は担いでないが布袋様?

そしてずらりと並んだ庚申塔等の石仏石塔。

現国道整備の折りに移設されたものであろうか。

建久7(1196)年に鎌倉時代の豪族、新田義兼の開基で新田一族の祈願所として

建立された真言宗の古刹。

境内には御成御殿があり、徳川将軍の日光社参の時に休憩所として利用された寺の

一つという。

観音堂は江戸時代の建物で、堂内には弘法大師作といわれる

千手観音菩薩延命地蔵菩薩・毘沙門天が安置されている。

明治初年の火災で観音堂・鐘楼堂を残し堂宇はすべて焼失しているという。

境内に大きなカルミアの木が有り花盛りで、金平糖のような蕾が可愛らしい。

一度国道に戻ってすぐ隣に注連縄の掛かる鳥居の「金井神社」。

祭神は国土開拓の祖神である根裂命で、金井村字余又の地にあったが、

宝暦4年(1754年)に現在地に遷座し、小金井宿の鎮守となった。

社殿は平成の建物だが、ご本殿は江戸末期(1800年代)の築で、

壁面には壮麗な彫刻が施されているようだが、覆屋の中に鎮座し見ることは

出来なかった。

5分ほど先左手に真新しい木札を掲げた立派な門は、大塚家小金井宿本陣跡の四脚門。

門以外の遺構は残されていない様子。

本陣跡の道を隔てた対面に、街道書では2軒の江戸末期建築と言われる蔵造り商店が

有ったといされてるが、1軒は整地されもう1軒は旧呉服屋だそうだが廃業して

荒れ放題になていた。

鉄パイプに網がかけられ、危険防止のための措置であろうか。

国道4号をさらに10分ほど進むと、道を隔てた右側に薬師堂があった。

本尊は行基作と言われる木造薬師如来像だったそうだが、現在は先ほどの慈眼寺にて

保管されてる由。

境内の十九夜塔は天保10年(1839年)建立と軌道書にある。

左手に田園の広がる国道を10分ほど行くと、

街道書に点々で引かれた街道らしき左折道が見えてきた。

珍しく「どんな道なのか行ってみよう」とカミさんが言うので思い切って左折。

道なりに進んでしまったが、手前電柱脇の畑の中を通っている農道へ曲がるのが

点々道の旧日光道だったようだ。

しばらく行くと右手少し離れて、下野市役所らしい建物がある。

街道書では市役所裏手の駐車場内を道が通てるとあるので、道を間違えたことに

気づいた。

右手へ行く道に交差したら右折することにして進むと、十字路になり、

左手にお堂が現れる。

街道書を見ると、国道から結構西北へ進んだところに笹原子育地蔵尊とあり、

国道や旧街道からかなり離れてしまったようだ。

お堂前の道を国道方向(南東)10分ほど戻ると、街道書に笹原旧道(街道)として

記された道へ戻ることが出きた。

すぐ左手に大きな蔵のある屋敷が有り、街道書には小金井宿の本陣と同じ

大塚家とある。

通り掛った方にお聞きしたら、付近には何軒かの大塚家があるそうで、

この地は大塚家一族が栄えた地で有った様子。

ここから車も人も通らない、静かな舗装された直線道路が約30分ほど続く。

右手には東北新幹線の高架や国道沿いなのか松林が続いている。

この松林はかつての農林省試験所のあった場所だそうで、街道書では現在は

自治医大の広大なキャンパスなっている。

やがて旧道は林に突き当り、街道書では右折して国道4号へ出ることになっているが、

突き当り林の中に標識を見つけた。

標識には日光街道と記されており、木々の間に草道が奥へと続いているが、

奥で寸断されてる様子。

一部の旅人記では下石橋一里塚があったが跡形なし、とあたのを思い出した。

左に建つ看板には「これより赤道です。通行は自己責任でお願いします」

とあり、下野市一里塚保存会名で立てられていた。

国土交通省の文では、

赤道は「せきどう」ではなく、「あかみち」で、

もともとは道であった里道(りどう)のことを指し、現在は道として使われて

いなくても、かつての公図には赤い線が引かれ赤道と呼ばれている。

里道のうち、現在でも道路として機能しているものについては公道となり、

長い年月が経過した間に、現在では道として使われなくなった里道は、国の土地として

みなされ、「法定外公共物」として現在では財務省が管理している。

一里塚は跡形も無しと聞いてるので、草道へは入らず右手に折れて、

再び国道へ戻ります。

国道へ出た角にレストランがあり、朝も早かったので昼食を兼ねて1時間ほど足休め。

ゆっくり足休めをし再び国道を東北へ。

すぐ先左手に空き缶に建てた木標。

そこには下石橋一里塚と記されていた。

左手奥に先ほどの赤道・旧日光街道の林が見えるので、その付近に23番目の

一里塚が有ったようだ。

約10分ほど行くと地域は下石橋となり、石橋が近づいてきた。

左手工場内に黒い大きな像が建っている。

この付近は「祇園原」と呼ばれ下石橋の工場団地の一角の関東丸大食品関東工場で、

その正門脇に建てるのは、高さ(台座込み)10m位の真っ黒な観音像だった。

さらに奥にも像が有り、デジカメズームで覗くと、おや、今度はキリスト像

なにか謂れがあるのかな?

丸大食品工場を後に騒音包まれた国道4号を進むと、この付近道路左手は、

すぐそばに墓地が続いている。

江戸時代には墓地の北側を街道が通ていたと思われる。

10分ほど行くと右手国道越しに、大きな長屋門があった。

昔は豪農のの館でもあったのだろうか。

隣に食事処があった。

歩道のマンホールに「グリムの里 いしばし」とあった。

しばらく行くと国道352号線の高架が近づき、国道4号は高架下を通って行く。

高架手前左手に、国道4号に背を向けるようにして立つ石仏群があった。
石仏群が国道に背を向けているのは、旧日光街道は赤道表示の有った雑木林の道が、

一里塚や「丸大食品」工場内等を通り、国道の少し北西側を通っていたということ。

街道書では石仏石塔群は1700年代の建立とあり、地蔵菩薩立像や十九夜塔、

庚申塔などが残されていた。

石仏石塔群の隣に神社社標が建ち、道を左折して行くと宝治2年(1248年)創建と言われる、星宮神社の社標が鎮座してるそうだが、かなり奥くなので寄り道はパス。

高架下を通りすぐ左手に板塀を回し門の構えた大きな建屋があった。

今も使われてるのかな?

たんたんと国道を30分ほど行くと、

左手に街道書では、「石橋宿の入口(南口)にあたる」と記された、愛宕神社

鳥居があった。

愛宕神社は創建が天平宝字(759年)といい、元は下石橋愛宕塚古墳上に鎮座していたが、大正2年(1913年)遍座したと、街道書には記されていた。

天平宝字? あまり聞かない年号だが・・愛宕神社といへば火伏りの神だった。

境内の覆屋に弘化4年(1847年)の建立という二十三夜塔などが、

掃除道具と一緒に収められていた。

愛宕神社を後に国道左手を石橋宿へ入って行きますが、宿場も今は国道4号で、

宿らしい雰囲気、建屋類は全く残されていない。

石橋宿は、江戸より第15番目の宿。

本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠330軒、人口414人。

石橋は幕府領で代官の支配を受けた。

街道書では国道右手に伊沢写真館(伊沢脇本陣跡)、つづいて伊沢茶舗(伊沢本陣跡)が記されてるが、それらしきものは見つけられない。

国道4号東京より93kmの道標、先の交差点を右手に取ればJR宇都宮線石橋駅

カミさんの歩き方が遅いと思い、聞くと少し右足に違和感があるという。

丁度、JR駅入り口。無理はしないで足止めにすることにし、

ふっと左手の真新しいアパート脇を見ると、なんと「石橋本陣跡」と記された新しそうな標識が建っている。

街道書や一連の道中記などでは国道右手なのだが???

石橋信号を右手に向かうと、石橋町グリム童話の町を宣言しているのだそうで、

駅ロータリーには童話モチーフ風の造りになっていた。

駅の塔はカラクリ時計になってる様子。

短い街道歩きだったが、PM1:50 END。

帰宅後「グリムの里いしばし」についてちょっと調べてみた。

 
「旧石橋町(現下野市)を南北に貫く国道4号(日光街道)から西に500メートル

 ほど入ると、住宅街の中に2・4ヘクタールの雑木林が現れる。

 七人の小人の広場」や「黄金のがちょうの泉」などでグリム童話の世界を表現した

 「グリムの森」だ。グリムの森「グリムの館」は、グリム兄弟出生の地、ドイツを

 イメージした多目的施設という。

 誕生のきっかけは1966年、グリム兄弟が生まれたドイツ・ヘッセン州にある

 町と石橋町の児童が、絵画や習字などの作品交換を始め、その町の名は、ドイツ語で

 「石橋」を意味するシュタインブリュッケン。

 両町の縁を取り持ったのは、独協医大の初代学長を務めた石橋長英氏。

 両町は75年に姉妹都市となり、96年には町の「グリムの里づくり」事業の

 拠点施設としてグリムの森が完成した。

 日独双方とも、現在は合併で町名が変わったが、最近は、欧州風のロケーション

 が好評で、アニメファンなどがコスプレ姿で撮影する姿も目立つという」

歩いて再び京の都へ、旅の大〆は都三条大橋へ 後編 三条大橋到着 

平安神宮を後にし、

東海道中山道三条通りへ戻り西へ。

20分ほど進むと、

懐かしき都三条大橋

東海道53次を3年掛りで歩き踏みしめた三条大橋

(2016年6月18日、)

2022年4月7日、歩き始めて6年目の「歩いて再び京の都へ 中山道69次の旅」、

無事にフィーナーレを迎えことが出来きました。

広重画 京都三条大橋

しばし弥次喜多像前で旅の余韻に浸り一休み。

あれこれと旅の思い出語りながら、八社神社を経て知恩院へお礼参りへ。

三条大橋を渡り返し、祇園白川を通って向かいます。

わたし、ま~つわ・・歌の文句じゃないけれど・・・(あおさぎ)

四条通へ出て東へ、左手突き当りに観光スポットとしてパンフなどで見る、

八坂神社の「西楼門」が見えてきた。

右手に見ええるのは南座、歌舞伎発祥地の京都に最古の歴史を持つ劇場。

観光パンフなどを読むと、

 「八坂神社は、全国にある八坂神社や素戔嗚尊を祭神とする約2300の神社の

 総本社で、地元の方からは「祇園さん」の愛称でも親しまれている。

 元は「祇園神社」「祇園社」と呼ばれていましたが、明治の神仏分離令の頃から

 「八坂神社」と改名されました。

  創設については諸説ありますが、有力説としては、656年に新羅国の牛頭山に

 座していたスサノオノミコトを、山城国(現日本)愛宕郡八坂郷に奉納したことが

 始まりとされています。

 平安遷都が行われた794年よりも前から京都の地に祀られていた

 そうです。」と紹介されている。

石段の上にそびえる朱塗りの西楼門は、国の重要文化財にも指定されています。

西楼門を守るのはブロンズ製の狛犬

角のある方が狛犬、無い方は狛獅子なんだそうです。

西楼門より入ると正面に鎮座するのが国重文の疫神社で蘇民将来を祀ります。。

その隣は太田神社は猿田彦神と天天鈿女命を祀ります。

両側に並んでいる屋台を見ながら本堂へ向かいます。

左手に(国重文)大国主神

過ぎて石段を上がると、
広い神域境内へ出、右手に八坂神社正門の南楼門が有り、一旦門外へ出て入り直し。

南楼門前には石の大鳥居(国重文)

鳥居奥正面に南楼門(国重文)、

門を入ると正面の大きな建物が舞殿(ぶでん)。

舞殿では一年を通して様々な行事が行われ、2月の節分祭では舞妓・芸妓による

舞踊奉納、中秋の名月の日に行われる観月祭では琴や雅楽舞楽がそれぞれ奉納

されうという。

舞殿の奥には平安時代の建築様式のまま受け継がれたといわれる、国宝・本殿。

本殿と拝殿(礼堂)が大屋根ひとつで覆われ、1つの建物として建築されていて、

祇園造と呼ばれる八坂神社独自の建築様式という。。

現在の本殿は1654年に四代徳川将軍の家綱が再建したものです。

八坂神社といえば7月に1か月間行われ重要無形民俗文化財に指定の「祇園祭」。

見には来たいが京の夏は暑いというし・・・今年は開催されるかな。

八坂神社の東の隣にはある“祇園の夜桜”として有名な枝垂桜の円山公園

枝垂桜はピークは過ぎてるが、満開時をほうふつさせる姿を見せていた。

丸山公園内は、さすがに花見宴会風景は見られないが、名残桜を楽しむ大勢の方々で

賑わていた。
北へ歩き公園を抜けると、知恩院へ入る南門があった。

門を入ると右手に大きな門が見え、浄土宗総本山 知恩院の国宝・三門です。

知恩院パンフによれば

「高さ24m・横幅50m・屋根瓦約7万枚と、日本最大級の規模を誇る木造の門。

1621年、徳川2代将軍秀忠公の命で建立されました。

非公開の楼上内部は仏堂となっており、重要文化財の仏像が安置。天井や柱・壁などには迦陵頻伽(かりょうびんが)や天女、飛龍が極彩色で描かれています。

華頂山 知恩教院  大谷寺。開基は法然上人です。

最上部に掲げられている「華頂山」の額の大きさは畳2畳以上です」とある。

手摺のない一段50cmはあろうかと思われる急な石段の男坂

ちょっと迷ったが、桜の下を登りたいと登りだし、カミさんは勾配の緩い女坂の

脇石段を上がって、御影堂のある境内へ。

(三門前から御影堂前まで運行している無料シャトルバスもあるという)

山門を入ると視界が開け広がる境内。

左手の大伽藍は法然上人の御影をまつる国宝「御影堂」。

大修理を終え大殿とも呼ばれる知恩院の本堂です。

案内文によれば

「御影堂は寛永16年(1639)に徳川3代将軍家光公によって建立。

 間口45メートル、奥行き35メートル 幅3メートルの外縁をめぐらし、その壮大な

 伽藍は、お念仏の根本道場。

 浄土宗の開祖「法然上人」の御影(みえい)を祀ることから、

「御影堂(みえいどう)」と呼ばれています。

現在の御影堂は、1639年に徳川家光によって再建され、間口45m・奥行き35m・幅3mの外縁をめぐらした巨大な伽藍」ある。

御影堂の奥には広大な方丈建物が広がってます。

唐門は勅使門とも呼ばれる大きな門で、1641年の建立。

御影堂から東手に浄土宗の開祖「法然上人像」があり、像の脇長い石段を上ると、

法然上人が晩年を過ごした禅房があったという、知恩院発祥の地でもある「勢至堂」

にたどり着けます。

東手の山手には知恩院といえば日本三代名鐘の一つ。70トンで僧侶数十人が一緒に

なって鐘を打つ除夜の鐘で知られる大鐘楼もあります。


本堂(御影堂)からゆったりとした読経が流れてきて、時刻も夕4時でお勤めが

始まった様子。

私たちもお堂内へ入り、内陣へは入れませんが、形容しがたい荘厳にて低音の

数十人の僧の読経につつまれた本堂で、暫し手を合わせお参り。

まもなく閉山の時刻になります、と僧から声を掛けられ、お参りを終えて

知恩院を後にしました。

ライトアップを楽しむかの大勢の参拝客の八坂神社へくだり、四条通りを西へ。

当初は四条通り西へ鴨川を越えて、阪急河原町経由で京都駅へ行く予定だったが、

途中から左手折れて京都らしい雰囲気の色濃い花見小路通りを回り道して戻ることに。

観光パンフによれば、

花見小路通(はなみこうじどおり)は、三条通から四条通りをとおり、

 南は安井北門通まの約1キロで、四条通り南には由緒あるお茶屋・料理屋などが並ぶ

 伝統的なお茶屋街。

 2001年(平成13年)には電線などが地中化され、石畳が整備された。」とある。

左手には京都に春を呼ぶ風物詩といわれる「都おどりが」開演される

祇園甲部歌舞練場。

大正2年(1913年)に現在の場所に新築移転し、都をどりは毎年この歌舞練場で

100年以上の長きにわたり上演しているという。

平成13年(2001年)「有形文化財」の登録

(現在は耐震工事などで休館中だった)

20分ほど行くと花見小路の突き当りは建仁寺

拝観時間は過ぎてるので、右手に折れて

鴨川を渡り阪急四条河原町駅へ。

 

蹴上のインクラインから始まった旅の〆の一日。

三条大橋でのセレモニーと知恩院参りをすませて、中山道の旅は無事に終わることが

出来ました。

さあ、明日は歩き通した自分たちへの御褒美の都巡りは桜の花園・原谷園、金閣寺

竜安寺仁和寺へ。

そして旅の大詰めは念願の「桜咲く姫路城」。

「歩いて再び京の都へ」終わります。

東海道、中仙道 1000kmの旅を支えてくれた靴。

美濃路で一度底が剥がれ、応急処置で自分で貼り付けたが、今も現役)

群馬・坂本宿から長野・軽井沢宿の碓氷峠越えは登山靴でした。

今も日光街道を共に歩いてます。

「完」

歩いて再び京の都へ、旅の大〆は都三条大橋へ 前編

中山道草津宿到着で、中山道としての旅を終えはしたが、最後に三条大橋を渡り

旅の大〆セレモニーをしたいと、4月7日は、朝は早めに近江八幡駅を立ち、

京都へ向かいました。

駅前のホテルへ荷物を預けあちこち寄り道しながら三条大橋へ向かいます。

京都駅から地下鉄を乗り継ぎ、降りた立ったのは東海道中山道併設)に

面した三条通り地下鉄・蹴上駅

駅の西に、琵琶湖疏水「まんぼう(隧道)」をくぐると南禅寺へ向かえますが、

南禅寺へは東海道を歩いた折にお参りを済ませてるので、

駅よりすこし東へ歩き、桜が綺麗とあった琵琶湖疏水インクラインへ。

インクライン琵琶湖疏水上流の蹴上船溜と下流南禅寺船溜を結んだ

全長約582mの傾斜鉄道。

約36mの高低差を台車に船を乗せ、ケーブルカーと同じ原理で運び、舟は貨物の

積み下ろしをせずに、高低差を乗り切ることができたという。

現在は、レールが形態保存され、インクラインの中は自由に歩くことができ、

春には、インクライン両側の桜が咲き誇り、華麗な様相を見ることができます。

(案内文)

琵琶湖疏水

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蹴上インクライン出発地。

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インクラインは今、まさに満開の桜並木

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台車にのせた荷舟

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終わり近くに橋を渡り側道へ下り、

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降り立ったところは南禅寺への参道入り口でした。

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左手はインクライン終点南禅寺船留りで、先で西の方向へ岡崎疎水と呼ばれる

石垣や桜並木の美しいお濠が続いてます。

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お濠向う側は、多くの美術館や公園、動物園などがあり、奥にはこれから足を向ける

平安神宮があるんです。

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桜の時期には十石舟も運行され、乗ろうか、の話も出たが、

乗り場には長蛇の列でパス。

濠沿いを西へ歩み、赤い橋で右手へ渡り、左右に市動物園、多くの美術館などが

建ち並ぶ岡崎通りを北へ。

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時折吹き抜ける心地よい春の風、桜吹雪だ・・・・・

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冷泉通りで左折し西へ行くと、左手奥300mには三条通りから見える赤い大鳥居が

あり、

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右手は京都の町の再興を願い、現代によみがえった「平安の都」平安神宮真ん前に

到着。

平安神宮の創建は明治28(1895)年で、歴史ある神社仏閣がひしめく京都にあっては

比較的新しい時代にできた神社。

案内文によると、
「創建当時、京都の町は幕末期の戦乱により荒廃していました。また、明治維新により

首都機能が東京へ遷ってしまったのも、京都の人々の心に大きな悲しみを与えたと言われています。そんな中、古き良き京都を取り戻したいという京都市民や全国の人々の思いが結集し、平安遷都から1100年の節目の年に、第50代桓武天皇をご祭神として

京都復興の象徴として平安神宮が創建されたのです。

社殿は平安京の正庁、朝堂院を8分の5の規模で再現しており、大極殿(外拝殿)、

応天門(神門)、蒼龍楼(そうりゅうろう)、白虎楼(びゃっころう)、歩廊・龍尾壇(りゅうびだん)などが創建当時に造営されたもの。その後1940年の孝明天皇鎮座にあたり、

本殿、祝詞殿、内拝殿、翼舎、神楽殿(儀式殿)・額殿(がくでん)たなどなどが増改築され社殿の大修理も施された。その後、1975年(昭和50年)に主要な建物の屋根葺き替えが

行われ、1979年(昭和54年)に現在のような壮麗な社頭が完成。

境内は約6万6000平方メートルの広さを誇り、そのうち約3万3000平方メートルが明治時代の代表的な日本庭園として知られる平安神宮神苑。春の紅しだれ桜、初夏の杜若や花菖蒲、秋の紅葉、冬の雪景色と四季折々の景観が楽しめる。」とある。

「応天門(おうてんもん)」

平安京朝堂院の應天門(おうてんもん)を模した2層の楼門、

鮮やかな丹塗りが美しく国の重要文化財に指定されている。

門を潜と、正面には大極殿(だいごくでん)が鎮座。

正殿にあたり、平安時代には即位や朝賀をはじめ主要な儀式が行われる国の中枢でした。現在は、国の重要文化財に指定されています。

大極殿へ向かってそれぞれ東西に配されている蒼龍楼・白虎楼(そうりゅうろう・びゃっころう)はこちらも国の重要文化財。長い歩廊で繋がっている。

「ともに緑色の屋根瓦と朱塗りの外観が鮮やかで美しく、規模は原型と比較して8分の5の大きさに縮小されている」という。

桜花咲く風情はおみくじの花、その名も「結びの木」

白虎楼と蒼龍楼はそれぞれ、社殿の周囲に広がる名勝「神苑」の入口・出口となって

います。

神苑は、東・中・西・南の4つの庭からなる広大な池泉回遊式庭園。

明治の造園家7代目小川治兵衛の手によるもので、日本の造園技法を結集して

作庭され、季節季節の様々に姿を変える自然美の情景がひろがる。

社殿を取り囲む四つの庭は、総面積約33,000㎡(約10,000坪)、昭和50年12月に

国の名勝に指定されている。

さあ神苑へ・・・

桜満開の南神苑

平安神宮の創建と同じ年に運行が開始された、日本最古の電車「京都電気鉄道」の車両

足を進めて西神苑

庭の中央に池が広がる「中神苑

神苑から清流に沿て歩めば、

(小川の流れの中に、なんとスッポン!)

もっとも広いエリアを占める東神苑

平安神宮と言えば、秋に催われる京都の三⼤祭のひとつの「時代祭」。

平安京の造営された延暦時代から明治維新時代までの各時代の衣装に身を包んだ

約2000名の市民による行列が、京都市街を約2キロに渡り行列が練り歩く。

ゆっくり時間をかけていい時を過ごした平安神宮を後にし、街道への戻り道。

神宮道に建つ大鳥居は、高さが24.4メートルと日本国内でも屈指の大きさを誇り、

国の文化財にも指定されています。

青空と鮮やかな朱色、なんとも美しい。

続ます。














 














歩いて再び京の都へ 中山道69次、夫婦歩き旅 第38回 2日目 後編(完歩編)

2日目後編。

いよいよ草津へ入ります。

左手から鉄道の高架が近寄って、街道は途切れてしまいます。

左折して高架下を通り、さらに線路下のトンネル、さらに低いトンネルを潜り抜け、

抜けたところで右折して線路わきの進むと、街道に復活です。 

おっ、今風自販機、なんて5分ほど進むと県道2号高架。

高架下を潜り約50m歩くと、左に見ええ来た壮は、

伊砂砂(いささ)神社」の鎮守の杜。

創立年代不詳ですが、古くは「天大大将軍之宮」と称され、明治2年(1869年)にご祭神の「石長比売命・寒川比古命・寒川比売命」の頭文字から付けら現社号に

改めています。
応仁2年(1468年)建立の「本殿」は、元禄4年(1691年)に

修理された一間社流造り、檜皮葺・蟇股に宝相華唐草文様の透し彫りが施され、

室町時代の建築作法を伝えていて、国の重要文化財に指定されている。

ご本殿(国重文)

可愛い?狛犬

右に左に3寺院を見送り、伊砂砂神社から約300m程行くと、

左側の建屋の中に祠が祀られ、街道書に南無地蔵大菩薩とあるが、詳しい由来由緒

などは調べても不明。

地蔵大菩薩から約10分ほど行くとJR草津駅入口の交差点の左手中央分離帯

江戸から129番目の草津一里塚跡を示す、小さな案内板がある、と街道書にはあるが、何度見渡しても残念ながらついに見つけられなかった。

その先は街道書や先人の紀行文に記された、アーケード街のきたなか商店街に

なり、・・・が、アーケードが無い!

5分ほど進むとアーケードは有ったが、数十メートルの取り残されたような

アーケード。

それもそのはずで、帰宅後調べてみると、草津資料の中に、

「時代が進み、郊外の大規模店などに人が流れるようになった事もあり、
2000年代からは商店街エリア付近での再開発が盛んになります。

その流れの中で、設備の老朽化もあってアーケードを取り壊す商店街が増え、
2021年(令和3年)現在、残すは「中ノ町商店街」のみとなりました。」

とありアーケードは消えていた。

写真は今も残る「中ノ町商店街」のアーケード。

アーケード入口の建てられていた草津歴史路案内板。

一里塚が記されてた。

アーケード中ほどに立つ乙女の像は解説も無い。

約100m歩くと懐かしい光景は「まんぼ」と呼ばれる「草津川トンネル」

(隧道)が現れました。

スイと潜れば中山道東海道との追分で、中山道の京側起点で、

先は京都三条大橋までの、東海道との併用街道。

草津川は、土砂の流入で川底が上がり、江戸時代に急速に屋根より高い天井川化し、

次第に堤も高くなったため、街道は堤を登り、通常は木橋の仮橋、増水時は舟渡しで

渡っていたという。

明治19年に「草津川マンポ」と呼ばれる隧道(トンネル)が掘られ、今は天井川

下をくぐれるようになっています。

堤上には明治期に桜の木が1kmに渡って植えられ、民の憩いの場になったという。

平成14年に新草津川が完成し、草津川は廃川となっている。

ということで、旧道を辿る道筋への、隧道(まんぼう)手前を右に曲がり

堤防の上えと向かいます。

堤防には広い石段が授けられ、現代風にエレベーターまで設置されていたる。

2016年5月21日、東海道53次 草津宿到着の記録では、

草津川は天井川で、平成14年(2002年)草津川放水路が開削され、

 下流域の旧河道は廃川になり水無し川、「旧草津川」と呼ばれてます。
 広大な空間が生まれ、現在も草津川跡地の整備を 大々的に進めており、

 完成図の大きな看板も建ち、 旧草津川橋から見ると工事車両が多数入って

 工事の真最中。」  と記してました。

(2016年5月21日)

川としての役目を終え、平成29年4月に草津川跡地公園として生まれ変わて

いました。

河川跡の公園を横断して草津j宿東海道中山道の追分への道筋石段を下ります。

2022年(令和4年)4月6日 PM4:00

中山道、江戸から68番目、129里11町 約508km。

東海道53次では、江戸より数えて52番目、118里32丁(466.9Km))

文化13年(1816)建立の、「右東海道いせみち」「左中山道美のぢ」と刻まれ

常夜灯式の道標の建つT字路。

ここが中山道の起点、草津宿の東の入口であり、

東海道中山道の合流点・草津の追分。

中山道、京方出発地、江戸から到着地に、東海道53次時と併せ二度目の到着が

出来ました。

野を越え山越の中山道

通りかかった方にお願いして、写していただきました。

 厳密にいえば中山道の道筋は、「中山道69番目(東海道53番目)大津宿を経て、

京の三条大橋へ」なのでしょうが、すでに先の京への道は、東海道53次の旅で

歩み済なので、わたしたちの中山道の歩き旅はこの「草津追分」をもって

中山道の旅の完歩しました。

(明日7日、家の宗派総本山・知恩院参りを予定しており、街道道筋の蹴上から

 足を進めて、京都三条大橋をに立つ予定です)

 日暮れまではまだ時間がある、と記憶を思い起こしながら足を進め、

 草津宿外れの立木神社へお参りに。

 

(田中本陣跡)

太田道灌所縁の太田酒造)

追分から20分、立木神社は創建が767年という古刹。

東海道筋にあり厄除開運・交通安全の神社として昔から多くの信仰を集めていたそ

うです。諸国の大名が参勤交代のおりに、必ずこの神社に道中安全を祈願したと

伝わっているという。

ご祭神が白鹿に乗って旅へ出た、由来から狛鹿

狛犬も守りしています)

中山道、旅の終わり御礼参りをし、神社を後にPM5:00、

宿の有る近江八幡への電車へ乗り中山道の旅は終わりました。

(明日は三条大橋で旅の大〆、セレモニー)

 

歩いて再び京の都へ 中山道69次、夫婦歩き旅 第38回 2日目 中編

2日目 中編へ。

江戸から67宿目、守山宿へ入ります。

 守山宿・宿内家数 415軒、 宿内人数 1700人

    本陣2、脇本陣1、旅籠30

「京発ち守山泊り」と言われた守山宿は、中山道東下りの旅人が最初に泊まった宿場。
旅籠が軒をつらね大変な賑わいだったようだ。守山という地名は街道沿いに今も残る
比叡山延暦寺の鬼門にあたる東方を守るため東門院が創建され、守山寺お言われたことが守山の語源になたという。

守山は古来東山道の宿駅として栄え、江戸時代に東山道中山道に改められ江戸時代の初期寛永十九年(1642)に徳川幕府により正式に中山道の宿駅として制札が下された。中山道は板橋宿から守山宿までの六十七次で守山は最終宿駅であった。守山の地名は比叡山延暦寺の東の関門として東門院が創建されたことに由来する。江戸時代、旅人の一日の行程は八里(約31キロ)から十里(約39キロ)であった。京・三条から守山宿までが八里六町(約32キロ)でこの行程にあたり「京立ち、守山泊り」といわれ東下りの最初の宿泊地として大いに賑わった。後に東の吉見、西の今宿が加宿され更に繫栄した。

広重画 守山宿

江戸口より約100m先ほど、左手に慈眼寺社標石柱。

街道書によれば

最澄が唐の国で修行した帰り、海難に遭遇したが十一面観音に救われ  たことから海難で折れた帆柱で十一面観音を彫り、弘仁元年(810)、吉見の里に安置した」

とある。

寺院前まで行ってみたが、境内へは入れなかった。

街道へ戻り10分ほど行くと、吉見西の交差点左手に「すぐいしべ道」と彫られた

道標石柱が建っていて、側面には「高野郷新善光寺道」と彫られ、東海道の石部宿へと向かう道しるべで「すぐ・いしべ」だった。

吉見西の交差点を渡ると「ほたる通り商店街」。

すぐ先には「守山宿・町屋 うの屋」と書かれた立派な民家があり、

ここは「宇野本家酒造」で平成初期の短期元総理大臣・宇野宗佑の実家。

道向かい、宇野本家のすぐ先に天満宮があり、鳥居の前に守山宿説明板が建って

いる。

天満宮のすぐ先に、中山道・守山宿の案内と本陣跡と彫られた石碑などがあった。

説明板には、

「この場所は、本陣(小宮山九右衛門)があったと推定されている場所です。

江戸時代には、問屋、脇本陣、本陣などの役割を果たした。

文久元年(1861)十月二十二日、十四代将軍家茂に降嫁した皇女和宮親子内親王

御所から江戸城へ向かう旅程で、この本陣に宿泊した。」

本陣跡碑の一軒おいた隣に「中山道文化交流館」があり、館前の長椅子で一休み。

係の方と、しばし街道話で盛り上がり。

文化交流館道向うに三叉路手前に「道標」が立ち、ここは高札場跡とも街道書にある。

中山道側の側面には、「右 中山道 并(ならびに) 美濃路」、

その左側面には、「左 錦織寺四十五丁 こ乃者満ミち」と刻まれている。

「左 錦織寺四十五丁 こ乃者満ミち」は、左の道を行くと、真宗木部派本山である

錦織寺に至る道程で、「こ乃者満ミち」は、琵琶湖の津として賑わっていた

木浜港へも通じる道筋であることを示している。

背面に延享元年(1744年)霜月と彫られ石造遵標としては古く、また数少ないため、

守山市文化財に指定されいる、ともあった。

三叉路先には「東門院」がある。

守山の地名を生み出した「東門院」で、延暦7年(788)、最澄比叡山延暦寺

建立した際、四境に門を構えたが その東門として設けられたのが始まり。

後に桓武天皇比叡山東門院守山寺 と名号され地名も守山とされた。

院は朝鮮通信使の宿舎にもなったそうな。

境内の石造り五重塔鎌倉時代の作といわれ、国重要文化財だそうです。

東門院の先は守山銀座西交差点で、右手前には江戸時代後期の天保年間(1830-1843)にあった門前茶屋「堅田屋」を同じ場所、同じ建物で再び現代に甦らせた

「門前茶屋・かたたや」がある。

交差点を渡って少し行くと現れた欄干は境川に架かる橋で、街道書には

中山道の重要な橋として、瀬田の唐橋の古材を使って架け替えられた、公儀普請橋であった」とある。

街道書ではこの境川が守山宿の京(西)口と記されていた。

江戸期の宿場としては大きい宿場だったと思うが、当時を忍ばせることは少ない感じ。

土橋を渡り守山宿を後にし約20m歩くと、右側に延久2年(1071年1)

創建という樹下神社が建っています。

昔は日吉七社の一社・十禅師宮と称され、祭神「稲田姫命」を祀っています。

境内に高さ4.14mの石造常夜燈」(守山市有形文化財)があります。

川幅が広かった境川を往来する人々の安全を願い、天保2年(1831年)

今宿村の商人・伊勢屋佐七が願主となり集められた浄財で建立され、

正面「大神宮」・側面「金毘羅大権現」・台石には天下泰平・宿内安全

と刻まれている。

元は境川の土橋の袂辺りにありましたが、明治初期に境内に移さたという。

樹下神社から分ほど行くと、加宿であった今宿町へはります。

虫籠窓の家や花々を楽しみながら10分ほど行くと、

日本橋草津宿までの129ヶ所の内128番目にあたる、一里塚の南塚が残されて

います。

県内では唯一現存する一里塚で、初代の脇芽が成長した二代目の榎が生えてます。

平安初期の小野篁(おののたかむら)(平安時代文人・公卿)作の閻魔大王

祀る焔魔堂のある「十王寺」。

小野篁には井戸から地獄に降り、閻魔大王の元で裁判の補佐をしたという奇妙な

伝説などが残されているようです。

「閻魔堂町」の地名はこの閻魔堂に因みます。

 5分ほど先の用水路右に「古高俊太郎誕生地碑」があった。
幕末の元治元年(1864年)新選組の拷問で、京都・池田屋事件の謀議自白し、

新選組池田屋急襲“池田屋事件”が起きた。翌月脱走を恐れた獄史に殺害されている。

ぶらぶら10分ほど行くと守山市から栗東市へ。

市境標識から5分ほど行くと、左側に桜満開の大宝公園で、公園奥に大宝神社が祀られています。

満開の桜の下で、桜吹雪をながめながらのお昼と足休め。

公園内のは遊具や芭蕉の句碑などもありました。

一角に「この地は栗東市綣(へそ)という」、との綣・案内板が建ってました。

そでした、道の標識に有り、変わった地名だな~と話していたんです。

「綣」は、機織り機に装着する麻糸、糸をまるめるの意味で、麻織物関係の由来と

推定されているようだが、何故、「へそ」なのかは定かではない、

と書かれてましたね。

小一時間ほどお花見しながら足休をし、神社をお参りへ。

「大宝神社」は、大宝元年(701年)に追来神社境内に「大宝天王宮」として鎮座、と神社由来文にある。
だが、追来神社はもとおとの地主神でありながら大宝神社本殿が主祭神の為、

境内社に位置づけられていいる、というので、脇役が主役になったということで

しょうか。

大宝天王宮は明治維新により、大宝神社となったそうです。

「追来神社」は、地主の神・水の神「多々美彦命」を祭神とし、

て国文化財特別保護建造物となてるそうですが、「追来神社」は写してたつもり

だったが、映像ない・・・

神社の鳥居の真向かいは佛眼寺で、門前右脇に地蔵堂が祀られていて、綿を被った

地蔵尊が祀られている、と街道書に有り拝見したがお堂内は暗く良く見えなかった。

印象では何も被ってなかったような。

地蔵堂から綣交差点を通り過ぎな5分ほど行くと栗東駅西口交差点となり、

更に5分ほど行くと、左側に八幡宮が祀られ、神社の300m弱先が市境で、

いよいよ草津市へ入ります。

後編へ続きます。