歩いて再び京の都へ 旧中山道夫婦旅   第1回   板橋宿へ 前編

甲斐平成28年6月18日、3年半をかけて東海道五十三次を旅し、京の三条大橋に立ちました。 そして夫婦は旧中山道69次の旅、再び京を目指して歩いています。 >9月17日(土) AM8:30 旧中山道69次の旅立ち。

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続きです。

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日本橋より歩いてすぐ左は1673年伊勢商人・三井家によって開業された
三越(旧越後屋)。
日本橋三越本店は、平成11年4月に日本橋地区の顔として「東京都選定歴史的建造物」に選ばれました)
現在の建物は、昭和10年(1935)に完成、ルネッサンス式建築の威容です。

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通りは国道17号(現中山道)で中央通りと称され神田方面へ。
旧東海道日本橋からは15号)
室町のビル街を進むとじきにJR神田駅。

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高架ガードしたを抜け、400mくらい進むと中央通りは大きく曲り、靖国通りとの広い神田須田町交差点。 直進はJR総武線の高架橋下を潜ると神田川に掛かる万世橋(その付近に明治45年にはレンガ造りの洒落た「万世橋駅」があった)。 橋を渡った先は今や世界のアキバとなった秋葉原電気街。17号万世橋を渡って左に向かってますが、いえいえ、中山道はそちらには進みませ。 神田須田町交差点は五叉路で、一旦17号から離れて、左手斜めにの狭い道へ入ります。

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すぐに先でJR中央線神田、お茶の水間の赤レンガの高架に突き当り(まさにその地に筋違御門(枡形門)があり、昔は神田川には筋違橋が架かっていた)

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そのレンガ高架沿いに進み右手に、ガードを潜ると神田川に掛かるは昌平橋で、橋の手前はJR中央線。、 渡る頭上はJR総武線の鉄橋。

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神田川と言えば、いまでもラジオで流れる昭和48年頃の「かぐや姫フォークソングの「神田川」ですね。) 

橋を渡りゆるい坂を上って再び17号に合流して、左は湯島聖堂。右手坂上にはごぞんじ大川橋蔵、否、明神下は銭形平次神田明神

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旅の安全を願ってお参りを済ませ、さらに坂を上って北に進むと文京区・本郷台地の本郷通り本郷3丁目の信号の角のビルの江戸時代から営業の衣料品店「かねやす」のビルが建ってます。 江戸時代の川柳の  ”本郷も かねやす までは 江戸のうち”と言われ、 大岡越前守が、江戸城から「かねやす」の土蔵までの範囲を”江戸”と定め、ここまでの家々に瓦葺きなどの防火対策を施させていたそうです。

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その先本郷台地の高台、本郷通りは右手が東大の構内。 中山道は1kmほど東大に沿って歩きます。 東大の校地はもと前田藩上屋敷。1827年建てられた「赤門」国重要文化財。 いまや世界に知られた観光名所で、外国の方の姿もちらほら。

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約600mくらい進んで旧水戸藩中屋敷跡(現東大農学部)前は本郷追分。 道なりに直進本郷通りは、将軍家の日光参拝の為の「日光御成り道」。

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中山道(国道17号)は本郷通りと別れ左に曲がり、上り下りのゆるい起伏のある白山台地へと入って行きます。 追分のすぐそばには、江戸時期は「追分の一里塚(日本橋から1番目)」が有ったようで 説明案内板が建ってます。

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この付近からは片側一車線の道旧白山通り(国道17号)。道幅が狭くなり、土曜日の為もあったのでしょうが、車の往来も少なく狭い小路も左右見られ、商店もまばらな閑静な街並みが続きます。

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しばらく進むと右手に火炙りの刑で処刑された「八百屋お七」を供養する 「ほうろく地蔵」を奉られてる大円寺が有りました。 熱した炮烙(ほうろく)をかぶったお地蔵さんは、享保四年(1719年)に、お七供養のために、渡辺九兵衛という人が寄進したといわれてます。

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このお寺の近くには、お七の墓のある円乗寺もあるようです。 八百屋お七に纏わるお寺としては目黒の大円寺があり、振袖火事といわれる明和9年(1772年)の江戸を焼き尽くした行人坂火事は、この大円寺が火元といわれているようです。 そのお寺にも「ほうろく地蔵」が奉られてるそうです。 旧東海道の旅で、品川宿を出てすぐの鈴が森刑場跡に、お七火炙りの刑の磔柱を建てた石礎や由緒板が有りましたね。 (今も昔も恋の炎は燃え盛ってしまうんですね) 左手に東洋大のキャンパスを見送り進むと千石で白山通りと合流し広い道幅になります。 薄曇りなれど気温が高くなり結構な暑さになって来ました。

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少し早めでしたが交差点傍のファミレスにて、足休めを兼ねてお昼タイム。 1時間ほど足を休めて、再び街道へ。先にはJR巣鴨駅が見えてきました。 手前の交差点前に、徳川幕府の幕引きをした徳川慶喜が明治三十年(1897年)61歳の時にこの地に居を構えた謂れ碑が建ってます。

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「あら、静岡駅近くにも維新後住んだ屋敷があったわね やぱりお江戸が恋しかったんだね」・・て。 カミさんが思い出しました。 そうでした、東海道の旅の時に寄りました。 大政奉還ののち、明治2年(1869)からおよそ20年間隠居しました。 今はその庭園を利用して、浮月楼という料亭があり、一角に二階建ての家屋が残されてました。 道は巣鴨地区に入りました。 「巣鴨」の地名ですぐ思い浮かぶのは、旧豊島区西巣鴨にあった「巣鴨プリズン」ですね。 戦犯収容所とは知ってましたが、1958年放送され 大反響を舞い起こしたテレビドラマが思い浮かばれます。 市井の庶民が戦犯として収容され処刑された「私は貝になりたい」は戦争の無残さを痛感させられましたね。

フランキー堺 今でも最後のシーンが思いうかびます。

そうか、わしゃ18歳だったな~・・・ 今は豊島区東池袋で賑やかで明るい

サンシャインシティ」の高層ビルがそびえてます。

そんなおしゃべりしてる内に、山手線を越えました。

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続く・・