>平成28年6月18日、3年半をかけて東海道五十三次を旅し、
京の三条大橋に立ちました。
そして夫婦は旧中山道69次の旅、再び京を目指して歩いています。
11月5日(土)、夫婦は再び旅に出かけます。
早めの朝食を摂り、マイカーにて出立、今日のスタート深谷へ向かいます。
深谷駅近くの駐車場へ来ると、ゲートが開いたまま??
張り紙を見ると、「深谷産業祭り、駐車解放」、えっラッキー・・
(銀行メインの駐車場だったので、お祭りのために一日、無料開放してたんですね)
産業祭は旧中山道を中心区間歩行者天国にて、開催されるようでした。
祭準備中の仲町交差点より、AM8:36旅の再開。
向かうは江戸から10番目、21里30町余(約85km)武州最後の本庄宿。
今日は約2里26町(約11km)足を進めます。
深谷と言えばこの人ですね。
渋沢栄一像、前回写真に収め損なったのでパチリ。
日本初の煉瓦工場跡や渋沢栄一記念館などは、まだ時間も早いため、
立ち寄りはまたの機会に。
快晴、微風、気温低けれど、足軽し。歩きには最適ですね。
当初は東に足を延ばし深谷城址公園へ寄る予定でしたが、祭準備中の街道が
賑やかで、すい、と街道を北へ進んでしまいました。
(城址公園機会があったら・・
機会は作るものでもあるわよ!てカミさん・・ハイ)
さすが煉瓦の街、いい雰囲気ですね。
江戸時代の末期、嘉永元年(1848年)に創業。
越後の柿崎(新潟県…現在の上越市)より現在の地に移り酒造りを始めた、
藤橋藤三郎商店
街道から右手の道を覗くと、1階が煉瓦積みの3階建ての蔵。
2・3階はブリキ張?アンバランスがかえって面白い!
(深谷レンガホール・貸ホールのようです)
深谷の本陣・飯島本陣跡?。(のち確認したら、案内板は枠のみだが、
白い細井杭に書いてあるらしい)
飯島家は宝暦2年(1752年)より明治3年まで本陣職を勤め、
事務所裏手奥に 上段の間、次の間、などが保存されてるそうです。
御子孫が今は印刷業として、その場所で盛業は素晴らしい。
(お~い、ずーと先じゃないよ、本陣跡はすぐ隣だよ~)
カミさんは祭準備に来ていた賑やかな小学生集団を見ていた。
「 七ッ梅」元禄7年(1694)「 滋賀県出身の近江商人、田中藤左衛門商店が
銘酒"七ツ梅"は、江戸時代に「酒は剣菱、男山、七ツ梅」といわれた
三大銘柄の1つ。幕府大奥の御膳酒として愛飲されたと言われます。
惜しくも平成16年(2004)に廃業した後は、一般社団法人によって
運営・管理されているそうです。
奥には元酒蔵を改装して、「深谷シネマ」があるんですね。
(写真、左下)
(改装前の元酒蔵・拝借写真)
創業から100年とか、
創業は文久三年(1863年)現小川町にて創業し、明治30年代に深谷に
引っ越してきた、銘酒「菊泉(きくいずみ)」で知られる「滝澤酒造」
仕込水には埼玉県下蔵元では最高硬度に近い硬水(荒川地下伏流水)を使用し、
酒質はその特徴が良く出ている淡麗辛口タイプと言われます。
菊泉の巨大な煙突、もちろん煉瓦造り。
全高30メートル以上。数度の地震や戦争での銃撃に耐え、現在も凛とそびえて
います。
工場見学などもできるようですが、残念ながらまだ早い!
産業祭りの会場で、深谷銘酒の試飲もあったようですが、行き帰りの足が
マイカー!
監視役(カミさん)の目厳しく、涙を呑んで足を進めます。
桝形曲がりの手前に大きな常夜燈、向かいに赤い柱の建物が・・
赤い柱は呑龍院(子守地蔵尊)の鐘楼でした。
呑龍とは現群馬県太田市の大光院の吞龍上人で、当時多くの子どもが間引かれて
殺されていたことを悲しみ、これらの子どもを弟子として引き取って育てたため、
後世の人々から「子育て呑龍」と慕われていたようです。
その上人がここ深谷へきて布教したようですね。
境内のお堂に4体の地蔵尊が祀られてます。
昭和6年(1931)の深谷地震にて、旧富国館製糸工場の赤煉瓦造りの煙突が倒れ、
その下で遊んでいた子どもが災害にあい、この供養のため四体の子守地蔵が
祀られたそうです。
そして呑龍院の向かいにある常夜燈は、天保11年(1840)に建立された
高さ4m、中山道の中では最大級の大きさと言われます。
深谷宿もここが西の京口、街道らしい桝形道で深谷宿とはお別れです。
宿は後にしても家並みは続き、町名は岡部六弥太忠澄の所領地だった
萱場になります。
桝形を曲がった先の左手、JRの踏切の先に浄土宗・清心寺。
静心寺は萬誉玄仙が開山、上杉氏の老臣岡谷加賀守清英が開基となり、
天文18年(1549)に創建したといいます。
源平一ノ谷合戦で平忠度を討ち取った岡部六弥太忠澄が、平忠度を弔ったという
供養塚があります。
(一節には、所領の岡部原に五輪の塔を建立したが、その後五輪の塔は
慶安2年(1649年)に、ここ清心寺に移築されたとも言われます)
静心寺を後にしばらく歩むと、街道は国道17号と交差し、信号を渡ってY字路を
右に入ります。
信号で渡ると旧宿根村。
宿根村の総鎮守で、1496年大旱魃の際、領主がこの地を掘ったところ滝のごとく
水が湧き出たので、瀧宮神社を建てた。その池が今も残されています。
社殿新築中でご本殿は布に包まれて鎮座されてました。
神社ご由緒の池は、ホテイアオイにすっかり蔽われてましたね。
深谷ネギの出荷準備でしょうか。
旧中山道は再び国道17号(現中山道)と合流し、さらに北へ向かいます。
このあたりから旧岡部町。
少し先に、岡部六弥太の守り本尊である薬師如来を安置しているという、
曹洞宗「正明寺」があります。参道入り口付近に月待信仰の女人講・二十二夜塔が
あります。
月待ち信仰とは、夜中に月の出を待ち、安産などを祈願する風習で、ここでは
二十二夜の月待ちが行われていたと言われます。
17号を400mほど進むと右手奥に、曹洞宗・源勝院があります。
岡部藩主安部家の菩提寺で、岡部藩主歴代の墓&安部大蔵君碑が市指定史跡に
なっていいます。
下写真右、歴代藩主の墓碑が世代順に並んでいます。
源勝院のすぐ西に岡部神社があります。
岡部六弥太忠澄の祈願所で、後に岡部藩主となった阿部氏は当社を崇拝し、
代々祈願所として参拝していました。
珍しいね、鳥居に屋根がついている。(下写真、右)
江戸(東京)日本橋からの80km距離標識がありました。
一歩一歩、で80kmか~・・・
なんて感慨に浸っていたら、17号西側の道に入ると岡部藩陣屋跡・そこが
高島秋帆幽囚の地と資料にありましたが、行きすぎたようです。
個人宅の敷地内のお地蔵さん。
岡部六弥太が開山した普済寺の参道口に、石仏石塔群があります。
普済寺本堂
法要があって入りませんでしたが、境内に「平忠度の歌碑」があるそうです。
「ゆきくれて 木のしたかげをやどとせば 花やこよいの主ならまし」
誰とも分からず平家武将を討ち取った岡部六弥太であったが、
箙(えびら・矢入れ)の中にこの一首が入っており、薩摩守忠度と書いて
あったのだそうです。
山門前で。
普済寺からそのまま県道に出てすぐに「岡部六弥太墓」あったのですが、
カミさんがさっさと17号へ戻ってしまい、見落としてしまいました。
(拝借写真)
「岡部六弥太 忠澄」
武蔵七党の猪俣党の庶流岡部氏の当主。
保元の乱、平治の乱では源義朝の家人として、熊谷直実、斎藤実盛、猪俣範綱と
ともに従軍して活躍した。
源義朝の死後は故郷の岡部に戻っていたが、治承4年(1180年)に義朝の遺児
源頼朝が挙兵すると、それに従うこととなった。
木曾義仲追討戦の後、源義経の指揮下に入り、寿永3年(1184年)の一ノ谷の戦い
では平忠度と組み討ち、討たれそうになるも郎党が助太刀して忠度の右腕を
斬りおとしたことで形成が逆転、観念した忠度は念仏を唱え、忠澄に斬られた。
その後、忠澄は箙に結び付けられた文から自分が斬った男が忠度であることを
悟り、惜しい人物を斬ってしまったと悔やんだという。
平家滅亡後は源頼朝に従い、その御家人として奥州合戦や頼朝の上洛にも付き
従った。建久8年(1197年)没。
墓所は深谷市普済寺隣りの公園にある。夫人や他の岡部一族と共に
埋葬されている。
ただしこの墓は藤原助重のものだという見解もある。
この墓地には石塔が六基あり、右から二番目のものが忠澄の墓とされている>
(史資料より)
レトロ建築(少し先で近代建物で開院してました)、貴重な建築遺構だね。
分岐付近に立場があったようですが、案内板などもなく不明。
入ってすぐ左側の石碑は雲雀塚と呼ばれる「芭蕉句碑」
「原中や 物にもつかず 啼く雲雀」
この付近に日本橋から20番目、岡下の一里塚があったと言う説がありますが、
現状は不明のようです。(距離的にあってもいいくらい)
一説には竹が植えられた一里塚とも言われます。
下写真右
街道沿いに島護産泰(しまもりさんたい)神社。榛沢(はんざわ)郡の総鎮守で、
利根川氾濫鎮護の守護神として信仰されました。
安産の神としても知られ、底の抜けた柄杓が奉納されるそうです。
皇女和宮も参拝しましたとか。
名残ひまわり!!
島護産泰神社の横の道を、国道17号線深谷バイパスの方へ進んで行くと、
中宿歴史公園があります。バイパス手前右が道の駅「おかべ」
朝が早かったので、お腹も空いたね~・・お昼と足休めに。
美味しかったですね、このお蕎麦! 当たり!!
こ こ道の駅は、数年前まで高速を使わないドライブで2.3回は立ち寄ってました。
帰り道立ち寄りではよく野菜を買ったわね・・てカミさん。
旅は後半へ・・・・