>平成28年6月18日、3年半をかけて東海道五十三次を旅し、
京の三条大橋に立ちました。
そして夫婦は旧中山道69次の旅、再び京を目指して歩いています。
11月12日、上野国・日本橋から11番目、新町宿(群馬県)入りをしました。
24日は関東平野部では観測史上最も早い、11月の初雪でした。
週末の土日の天気予報、群馬南部はうす薄曇りなれど晴れ。
少しでも先へ足を進めたい、とのカミさんの希望に引っ張られて
再び街道旅へ。
気温は低そうで冬支度ですね。
朝の家事や朝食済ませ一般道でマイカーを走らせ、新町駅周辺の駐車場へ。
浅間、赤城、など周辺の山々が雪を載せて見えてます。
赤城の右奥に見えたのは、谷川連山かな。
AM9:14、
前回足止め、新町駅入口より今日の旅はスタートです。
あつ帽子忘れた、バックに入ってない・・えっ、ここまで気が付かなかったの?
まあ、風はほとんどないから、
(メタボ腹に見えますが、ウェストポーチをしてるから、言い訳ですかな)
気温は低いようですが、全く風がなく薄い日差しさえぽかぽかと暖かい。
歩き旅にはいい条件ですね、さあ、ゆくか~・・・(駅跨架橋より浅間山)
新町宿は上野国7宿の東口にあたり、神流川の渡しを控えて宿場がないと
不便と承応2年(1653年)、落合村と笛木村を合わせ、中山道の中で最も遅くできた
宿場街でした。
本陣2、脇本陣1、旅籠屋43軒、家数407軒、人口1473人であったそうな。
すぐ左手に旅籠・高瀬屋跡です。(今は駐車場で宿姿なし)
なのに中山道の史跡として残されてるのは、こんなエピソードがあったからです。
文化7年(1810年)に宿泊した小林一茶が、あの渡って来た神流川見透燈篭の
新町側の建立で、浄財寄付を”強要”され、12文寄付したと言われます。
強要とはちょっと言葉が悪いけど、宿場あげての建設事業、費用集めも大変だった
のでしょうね。本庄側との競合気分もあったのかな。
本庄側は豪農の寄進によるもののようですが、新町は町衆あげての事業だったよう
ですからね。
12文、ていまだといくらぐらいになるのかしら?て、かみさん。
落語にある「時そば」では一杯16文だったよね。
いま立ち食いそばのかけそばで平均して、300円前後かな。
そんなんで単純に計算すると1文=19円くらいのようです。
(江戸期も時期によって幅があり、18~25円くらい)
12文×19円=230円くらいかな・・昔の旅人は節約第一だったでしょうね。
しばらく進むと、右手に皇女和宮が休憩した、久保本陣が有ったと言われますが、
遺構も印もありません。
先左手にポツンと一本の白い木柱。
寂しい風情ですが、建坪135坪あったと言われる、小林本陣跡だそうです。
手前左に寺院の石柱。参道を行くと、突き当りが宝勝寺。
あの本陣を務めた小林家の墓地があるようでしたが、境内工事中のようで入りません
でした。
しばらくゆくと先は温井川が流れている弁天橋で、左側に弁財天のある弁天島公園,
があります。
弁天橋付近は川床の改修工事中で、大きな建設機材や車両が工事中でしたね
弁天橋が掛かる右側に、1976年11月に初の日本スリーデイマーチが
開催された記念碑。
あっ、東松山が発祥の地ではなくって、新町のここなんだ。
第一回第二回はこの地で開催され、昭和55年(1980年)第三回からが
東松山市に移ったんですね。
東松山市での日本スリーデイマーチが古くから知られており、
私達も10kmコースに、2度ほど参加した思い出がありました。
温井川に架かる橋の手前右に、ここから見える山の案内図もありました。
浅間山、その左は妙義山、正面から右へ榛名山、赤城山、男体山などの山々が
見えるようでした。
橋のたもとに丸太標柱が建っていて、ここが新町宿京口でした。
そして木曽街道六十九次の画新町宿はここを描いたと言われます。
(新町宿は栄泉ではなく安藤広重が描いたそうです。絵左の後ろ側の山並みは
富士山ではなく赤城山なんですね)
江戸から11番目新町宿を後にし、12番目の倉賀野宿を目指します。
あれ、順序的には藤岡の次が高崎市では?
そうだったんですね、新町は平成18年(2006年)までは旧多野郡新町。
なぜか藤岡市を飛び越えて、高崎市と合併して飛び地になって居たのでした。
市町村合併で、全国的には飛び地が結構できてしまったんですね。
「飛び地合併」。
行政の効率化やスケールメリットを求めた合併のはずですが、国が強引に進めて
きた合併策は、自治体間でも、昔から「お隣さんとか気が合わない」」という
例はそれほど珍しくなく、どうせ合併するなら気の合うところと・・・。
うん、これは「分断して統治する」という徳川幕府がとった巧妙な政治手法が、
深く根付いてる!
ははは、ありうるわね、てカミさん。
橋を渡ると県道178号と分岐し、旧中山道の標識に従って斜め右の道へ進みます。
この辺りは立石新田と呼ばれ桑畑が広がっていたと言われてますが、
住宅も立て込み面影はあまり感じません。
屋根の上に小さな屋根、上州特有の上州櫓(やぐら)造りの元は養蚕農家かなと
思われる、農家が所々に見られます。
ほどなく右手に伊勢島神社で、元は稲荷神社だったのか狛犬ではなく、狛狐でした。
鳥居付近にに、天保5年(1834年)建立「常夜燈」、
境内には万延元年(1860年)の「庚申塔」や慶応2年「二十二夜搭」などが
祀られてますが、案内板などが見当たらず由緒不明でした。
右手にある白壁や土蔵を備えた豪壮なお屋敷が、川端家でした。
江戸時代の豪農で、明治になると生糸の商いで財を成し、敷地内には、
住宅主屋木造2階建・別荘木造2階建・奥蔵・質蔵・大門・薬医門・味噌蔵・
穀蔵等等19棟が建てられ、全てが国登録有形文化財に指定されている。
少し先に信迎庵。
宝暦13年に立てられた、烏川の洪水の供養塔(写真右)や観音堂、六地蔵やが
祀られてます。
進んで先に関越高速道が横切り、トンネルでくぐります。
トンネル手前に中山道道標、通り過ぎて振り返ってパチリの左、棒杭です。
真っ直ぐに高架下を通って行くと、右手の土手に上がってゆく道があります。
中山道旧道はこの先あたりから消失して部分的にしか分からないという。
持参街道資料では土手に上らずまっすぐ進むとあり、そのまま進みます。
歩いた感想から旧中山道は、洪水で廃村となった伊勢嶋村があったころと
そのあとでは、道筋が変わったようです。
資料の道案内の通り土手に上がらず、立石旧道との記述通り直進し、突き当りを
左折して立石の集落の中へ進みます。
(写真右下にブロックの切れたところが見えますが、古い中山道はここを入って、
今の土手を越えた河川敷(旧伊勢嶋村)へ向かったようです)
曲がりくねった狭い道を進むと先が開け右手に土手、左手に県道178号が通る
ところに出てきました。
県道と合流する手前の電柱のところから、踏み跡を頼りに土手道に上がります。
烏川の土手に上に上がりました。土手上は高崎市浜尻町から伊勢崎市若葉町までの42.5kmの高崎伊勢崎自転車道となってます。
烏川も結構な川幅です。
土手道から右手後方の河川敷の中に、こんもりとした場所があり、そこが
そこには昔し伊勢嶋村があり、伊勢大神宮を勧請して鎮守としてましたが、
烏川の洪水にて廃村となった跡でした。
祠や供養塔などが並んでいるそうです。
(先ほどの関越道をくぐって集落へはいらず、進むと昔はあの森付近の伊勢嶋村を通っていたと思われます)
しばらく土手道、高崎伊勢崎自転車道を歩みます。
風がほとんどないので、遠くの山並みを眺めながら気持ちのいい街道を歩みます。
白い山は谷川連峰、浅間は頂上を雲に隠してます。
街道は一旦、土手を左手へ下り旧中島村に入ります。
旧中島集落を二度右曲がりして、大きな家のT字路を右折。
旧中山道標識先から土手道に上がる。
この付近に中島立場があり、江戸日本橋から24番目・中島の一里塚が有ったと
言われますが位置不明となってます。
土手に上がると目の前の河岸には、往時、柳瀬の渡しの川会所があり 舟渡場が
あったと言われます。
(烏川は柳瀬川とも呼ばれていたようです)
今は雑草が生い茂って、歩ける状態じゃないですね。
宝暦9年(1759年)新町宿と倉賀野宿で馬船5艘、平田船2艘を用意し
渡し賃、一人十文、荷駄十四文、武士は無賃だたそうです。
(土手上にでも案内板があったらな~)
しばらく景色を楽しみながら土手道を行き、突き当りは県道178が合流して
13号となり、右折して柳瀬歩道橋(約400m)を渡ります。
赤い橋は上流側を渡る国道17号(現中山道)。
橋を渡ると再び高崎市に入るんです。
橋を渡り終え右折し土手道を行くと岩鼻水位観測所。
岩鼻樋管のある場所から草むらに隠れた石段を下りると、旧中山道の標識が立ち
旧中山道の復活です。
上り坂を進むと銀杏の落ち葉に包まれて、北向子育観世音堂。
観音さまは半跏思惟像の如意輪観音。
境内には文政3年(1820年)に伊香保村と草津村から寄進された常夜灯。
坂を上りきると県道13号の岩鼻町交差点を横断、交通量の多い道を進みます。
交差点を渡ると右手に真言宗観音寺。
本堂左手の大木の横を進み墓地中ほどまで行くと、
岩鼻代官所初代代官・吉川栄左衛門貞寛の墓があるそうです。
岩鼻刑場にあった「南無阿弥陀仏」と刻まれた刑場供養塔も建ってます。
そしてつぎの路地を入ると、寛政5年(1793年)に設置された
上野・下野・武蔵、幕府直轄領50万石支配の岩鼻代官所(陣屋)跡。
そして、明治元年(1868)旧代官所が岩鼻県庁となり、3年後に群馬県に
統合され、県庁は高崎城内に移された。(現在の群馬県庁は前橋市)
跡地にポツンと天神山。 小高い山の上は天満宮で、眺めがイイ。
また、代官所の入口付近は岩鼻の立場で、往時は高札場もあったようです。
周辺の広大な敷地は現在日本化薬の敷地。
素晴らしい保養所風の研修施設や社宅などが並んでました。
街道に戻り旧中山道標識で左手路へ進み再び合流すると、先は国道17号にぶつかり
新柳瀬橋北交差点。
17号を渡るとここから県道121号(和田多中倉賀野線)が旧中山道。
坂を下ると右手にコンビニがあり、足休めを兼ねていつものサンドとCaféタイム。
朝食が早かったので、お腹ぺこぺこ、コンビニサンドが格別美味い!
しばらく行くと街道は少しだけ121号と離れ、三叉路の左の道へはいりすぐに
二股を右へ。
さらに庚申塔や石塔が立ち並んだ二股を右に入ってゆくと121号に合さります。
少し行くと右手に道を分ける下町交差点。
右、来た道、左、日光へ向かう道。(振り返り来た方向をパチリ)
交差点は日光例幣使道との倉賀野追分で、例幣使街道の常夜灯及び道しるべが
建っている。
文化11年(1814年)建立の常夜灯は道標を兼ねていて、正面に「日光道」、
右面に「中山道」と刻まれている。
また、常夜燈は高さ3.37m、例幣使街道五科宿の高橋光賢が私財を投げ出して
建立したもので、不足分は相撲の雷電や歌舞伎の団十郎など312人の寄進によって
建てたと名が刻まれてました。
道しるべは「従是 右江戸道、左日光道」と刻まれている。
文化3年(1806)完成の『中山道分間延絵図』に道印が描かれているそうです。
また追分には江戸時代は浄土宗阿弥陀堂であったが、明治初年に建て替えられ
阿弥陀の代わりに閻魔像を置いたので、閻魔堂と呼ばれるようになった真新しい
お堂が建ってます。
明治41年、倉賀野九品寺の飛び地境内となり、平成26年記録的大雪に屋根など
が破損、再建が始まり昨年平成27年落成を迎えたそうです。
天井絵が素晴らしいといわれますが、暗くて見えなかった。
*例幣使とは、徳川家康の命日に、日光東照宮で行われる祭礼に朝廷から派遣される
勅使の事で、幣帛を運ぶことからこの様に呼ばれていました。
中山道を東下、倉賀野からこの道を日光に向かったようです。
例幣使は庶民にとって雲上人と同じで、神様同然に扱われていたことをよいことに、
無理難題をふっかけるものが多く嫌われていた様です*
この追分が倉賀野宿の入口で、下(東江戸口)の木戸跡になるようです。
中山道第12宿、本陣:1軒,脇本陣:2軒,旅籠:32軒,家数:297軒,
人口:2032人,
日本橋から25里12町(約103.5km)
日光東照宮に通じる日光例幣使街道の分岐点であり、同時に利根川の支流烏川の
川港としても栄えた。
上州、信州、越後などの名産品だった米、煙草、砥石、麻、大豆などが集まり
江戸に運ばれた。 下町、中町、上町から成り立ち、中心が中町でした。
英泉描く倉賀野宿は烏川を描いています。
倉賀野宿を歩きます。県121号は東国文化歴史街道と呼ばれています。
左手に旧造り酒屋・屋号叶屋かな、下町町会事務所の家屋。
先に黒塀・門構えで宿場らしい風情を見せる、たかさき都市景観賞の大山邸。
卯建が立派な矢島邸。
右手に2軒目となるたかさき都市景観賞の大山邸。(一族の方かな)
左側の壁がなまこ壁になっている「高崎市倉賀野古商家おもてなし館」として
復元されてます。
しばらく進むと下町と中町の境に、川跡は小道として残っている太鼓橋跡。
昔は増水の度に板橋が流失し、これを見かねた宿場の「飯盛りたち」が2百両を
寄進して享和3年(1802年)太鼓石橋を架橋したと言います。
旅籠の飯盛りたちとありましたが、何百万円、いや千万単位か、凄い!!
少し進むと左手に道標と男女双代道祖神、常夜燈がありました。
その先は現在大きなスーパーになっていて、駐車場に小さく勅使河原本陣跡碑。
倉賀野十六騎の勅使河原備前守の後裔、又は一族と思われる勅使河原八左衛門家が
本陣を勤めたと言われます。
100mほど先十字路は右手、倉賀野駅。
駅に向かって曲がり少し先、右手に浄土宗・九品寺。
山門前の参道両脇には、厳めしく門前を守る仁王像。
延徳3年(1491年)玄誉上人が開山、倉賀野五郎行信の開基。
本堂には「菩薩寺三尊像、大黒天」、書院には人間国宝、故松久朋琳・宗琳親子作
の観音像が祀られてるそうです。
倉賀野宿、脇本陣職や倉賀野河岸の河岸問屋などを営んだ須賀家一族の
墓苑や、倉賀野宿の時代を感じさせる飯盛女の墓石もありるそうです。
新町から約1里半(8km)。
当初の旅予定はここで足止めでしたが・・まだ時間も1時少し前。
「高崎宿まであと5kmくらい、まだ早いから歩いてしまわない、
足の指は?如何」てカミさん。
1か月ほど前に低い段差に足先をぶっつけていらい、10km位歩くと
足薬指に少し痛みが出るようになったんです。
きょうはまだ大丈夫そうで、ほんじゃ行くか!
と、旅は続けます。
後編へ。